December 2009
December 31, 2009
宗像大社 【1】
宗像大社のように全国には大社と称される神社がある。
大社というのは905年(延喜5年)に編纂が開始され927年(延長5年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名帳に記された官社(式内社=神社)のことで、その1等の格を表わしている。中でも特に霊験あらたかな神を祀る神社を名神社と称する。
宗像大社は神名帳に式内社(名神大社)と記されている。
宮地嶽神社の参拝を終えて西鉄バスでJR福間駅に行き、普通電車で赤間駅に向かった。JR福間駅と赤間駅の間には東福間、東郷の2駅がある。
東郷駅から宗像大社まで西鉄バスが運行しているが、発車時刻と私の行動が合わないので又々タクシーを利用したが結構距離があるので、この選択も正しかったと思う。
宗像大社の祭神は宗像三神(三女神とも)と称される田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)である。
田心姫神は宗像の神湊(こうのみなと)の沖合い約57kmに位置する沖ノ島の沖津宮(おきつみや)に、湍津姫神は神湊から約7kmの大島の中津宮(なかつみや)に、そして市杵島姫神は宗像大社の辺津宮(へつみや)に祀られ、宗像大社というのは、この3社の総称である。
上は日本書紀に記載されている名前だが、古事記では沖津宮に多紀理毘売命(たぎりびめのみこと=奥津島比売命(おきつしまひめのみこと))を、中津宮に市寸島比売命(いちきしまひめ=狭依毘売(さよりひめ))を、辺津宮に多岐都比売命(たぎつひめ)を祀っていることになっており、宮と神名に違いがあるのだが何故なのかは分からない。
上の楼門を入った正面の建物が1590年に小早川隆景が寄進した国の重要文化財である拝殿(切妻造妻入・杮葺き)で、その奥の本殿は宗像大宮司・宗像氏貞が1578年(天正18年)に建立したもので朱塗りの五間社流造り杮葺きという建築で同じく国の重要文化財に指定されている。
宗像三神(三女神)はアマテラスとスサノオの誓約において、アマテラスがスサノオの十拳剣を譲り受けて生んだとされており、スサノオの物実から化生したために記紀神話ではスサノオの子になっている。
また天照大神が宗像三女神に対して「宗像と朝鮮を結ぶ海の道において、天皇を助け、その祭祀を受けよ」と命じたことにより福岡県鞍手郡鞍手町の六ヶ岳に降臨し胸形氏(平安期以降に宗像を名乗るようになったのだとか)らに祀られるようになったらしい。
上の写真は朱塗りの本殿に掲げられた額であるが、「汝三神、道の中に降り居まして天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」前述の天照大神の神勅(日本書紀)が書かれている。
以前に大分県の宇佐神宮の祭神について書いたが、一の御殿に応神天皇、二の御殿に比売大神、三の御殿に神功皇后と三神(八幡三神)が祀られていることを書いたが、この中の比売大神が宗像三女神であることも書いておいた。
本殿の全景が上の写真。
九州北部は早くから朝鮮半島との行き来によって文化全般の交流が行われていたことは考古学的研究によって明らかにされて来きている。
宗像地方から大島、沖ノ島、壱岐、対馬、そして朝鮮半島へと海の道が連なっており、それぞれに文化交流があったことを示す物品が数多く出土している。
とりわけ胸形氏が祭儀を行っていた沖ノ島では朝鮮、中国からペルシャの物まで発見されており、『海の正倉院』として宗像地域と海上の島嶼を一帯とした世界遺産登録への活動が本格化している。
上の写真は本殿と拝殿をコの字型に囲むように祀られている摂社の数々。
神功皇后の三韓征伐において九州北部勢力が密接に関わったことは疑う余地のないところであり、海上交通の技術に長けた胸形一族と大和朝廷が密接につながっていたことも容易に想像できる。
宗像三女神が宇佐神宮の祭神となっていることや、広島県・宮島の厳島神社の祭神も宗像三女神であることを考え合わせれば、九州北部の豪族たちが瀬戸内海を通して大和朝廷と強力な関係を築いていたことも充分理解できる。
上の摂社が並ぶ端に高宮と第二宮、第三宮へ参拝する潜り門(下)がある。
この門を出て木々が茂る道を少し歩くと第二宮・第三宮へ向かう道と高宮へ進む道が交差するところに出る。
ここから高宮へ行くには樹木に覆われた山坂道をしばらく上らねばならないが、他に人もいずに静かな道を歩むのは実に気持ちがいいものであった。
途中、下の写真のような石段があったりしたが、参拝道は舗装されてはいないけれど、きちんと整備はされていた。
坂道を15分~20分ほど上ったろうか。
小さな山の頂のようなところに出た。
何かの建物が建てられていたかのように、低く積まれた石で囲われた所だけ草や木が刈り取られ、上ってきた山道から石段を数段上ったその場所とは木柵で仕切られていた。
宗像大社の記録では『第一神始めて降臨有し、辺津宮の旧址といふ、神代より天應元年(781)まではここに惣社の御座あり、旧社に社を立て下高宮といふ』と、宗像大神降臨の伝承地である宗像山・高宮を神奈備山・神奈備の杜と崇めてきたとしている。
記紀神話における高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)・天照大神の命を受けて瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が国土統一のために高天原から日向の国・高千穂の峰に降り、木花之開耶姫(このはなさくやひめ=大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘)を娶ったという天孫降臨と同様に神代には降臨神話が幾つかある。
信ずるかどうかは別にして、日本人の神祇観を知る上で興味深いことである。
高宮から下ったところにある第二宮(手前)と第三宮である。
第二宮には沖ノ島・沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)を、第三宮には大島・中津宮の湍津姫神(たぎつひめのかみ)の御分霊を祀っているのだと。
だから、宗像大社に参って第二宮・第三宮と参れば宗像三神の全てを参拝したことになるのである。
が、タクシーの運転手との話の中で、中津宮が祀られている大島へはフェリーが運航しており、これからなら13時55分に神湊発(日に7往復)のに間に合うということを思い出し、「 伝宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品 」約8万点(全て国宝)を蔵し展示している境内の神宝館を見学するか迷った挙句、電話でタクシーを呼んで神湊へ走ることにした。
大島までフェリーの所要25分。従って大島着が14時20分。大島を出航して神湊へ戻る船の出船時刻が16時20分と18時の2本しかないが、大島を巡っても何とか帰ってくることが出来るであろうと判断したのだ。
大社というのは905年(延喜5年)に編纂が開始され927年(延長5年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名帳に記された官社(式内社=神社)のことで、その1等の格を表わしている。中でも特に霊験あらたかな神を祀る神社を名神社と称する。
宗像大社は神名帳に式内社(名神大社)と記されている。
宮地嶽神社の参拝を終えて西鉄バスでJR福間駅に行き、普通電車で赤間駅に向かった。JR福間駅と赤間駅の間には東福間、東郷の2駅がある。
東郷駅から宗像大社まで西鉄バスが運行しているが、発車時刻と私の行動が合わないので又々タクシーを利用したが結構距離があるので、この選択も正しかったと思う。
宗像大社の祭神は宗像三神(三女神とも)と称される田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)である。
田心姫神は宗像の神湊(こうのみなと)の沖合い約57kmに位置する沖ノ島の沖津宮(おきつみや)に、湍津姫神は神湊から約7kmの大島の中津宮(なかつみや)に、そして市杵島姫神は宗像大社の辺津宮(へつみや)に祀られ、宗像大社というのは、この3社の総称である。
上は日本書紀に記載されている名前だが、古事記では沖津宮に多紀理毘売命(たぎりびめのみこと=奥津島比売命(おきつしまひめのみこと))を、中津宮に市寸島比売命(いちきしまひめ=狭依毘売(さよりひめ))を、辺津宮に多岐都比売命(たぎつひめ)を祀っていることになっており、宮と神名に違いがあるのだが何故なのかは分からない。
上の楼門を入った正面の建物が1590年に小早川隆景が寄進した国の重要文化財である拝殿(切妻造妻入・杮葺き)で、その奥の本殿は宗像大宮司・宗像氏貞が1578年(天正18年)に建立したもので朱塗りの五間社流造り杮葺きという建築で同じく国の重要文化財に指定されている。
宗像三神(三女神)はアマテラスとスサノオの誓約において、アマテラスがスサノオの十拳剣を譲り受けて生んだとされており、スサノオの物実から化生したために記紀神話ではスサノオの子になっている。
また天照大神が宗像三女神に対して「宗像と朝鮮を結ぶ海の道において、天皇を助け、その祭祀を受けよ」と命じたことにより福岡県鞍手郡鞍手町の六ヶ岳に降臨し胸形氏(平安期以降に宗像を名乗るようになったのだとか)らに祀られるようになったらしい。
上の写真は朱塗りの本殿に掲げられた額であるが、「汝三神、道の中に降り居まして天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」前述の天照大神の神勅(日本書紀)が書かれている。
以前に大分県の宇佐神宮の祭神について書いたが、一の御殿に応神天皇、二の御殿に比売大神、三の御殿に神功皇后と三神(八幡三神)が祀られていることを書いたが、この中の比売大神が宗像三女神であることも書いておいた。
本殿の全景が上の写真。
九州北部は早くから朝鮮半島との行き来によって文化全般の交流が行われていたことは考古学的研究によって明らかにされて来きている。
宗像地方から大島、沖ノ島、壱岐、対馬、そして朝鮮半島へと海の道が連なっており、それぞれに文化交流があったことを示す物品が数多く出土している。
とりわけ胸形氏が祭儀を行っていた沖ノ島では朝鮮、中国からペルシャの物まで発見されており、『海の正倉院』として宗像地域と海上の島嶼を一帯とした世界遺産登録への活動が本格化している。
上の写真は本殿と拝殿をコの字型に囲むように祀られている摂社の数々。
神功皇后の三韓征伐において九州北部勢力が密接に関わったことは疑う余地のないところであり、海上交通の技術に長けた胸形一族と大和朝廷が密接につながっていたことも容易に想像できる。
宗像三女神が宇佐神宮の祭神となっていることや、広島県・宮島の厳島神社の祭神も宗像三女神であることを考え合わせれば、九州北部の豪族たちが瀬戸内海を通して大和朝廷と強力な関係を築いていたことも充分理解できる。
上の摂社が並ぶ端に高宮と第二宮、第三宮へ参拝する潜り門(下)がある。
この門を出て木々が茂る道を少し歩くと第二宮・第三宮へ向かう道と高宮へ進む道が交差するところに出る。
ここから高宮へ行くには樹木に覆われた山坂道をしばらく上らねばならないが、他に人もいずに静かな道を歩むのは実に気持ちがいいものであった。
途中、下の写真のような石段があったりしたが、参拝道は舗装されてはいないけれど、きちんと整備はされていた。
坂道を15分~20分ほど上ったろうか。
小さな山の頂のようなところに出た。
何かの建物が建てられていたかのように、低く積まれた石で囲われた所だけ草や木が刈り取られ、上ってきた山道から石段を数段上ったその場所とは木柵で仕切られていた。
宗像大社の記録では『第一神始めて降臨有し、辺津宮の旧址といふ、神代より天應元年(781)まではここに惣社の御座あり、旧社に社を立て下高宮といふ』と、宗像大神降臨の伝承地である宗像山・高宮を神奈備山・神奈備の杜と崇めてきたとしている。
記紀神話における高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)・天照大神の命を受けて瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が国土統一のために高天原から日向の国・高千穂の峰に降り、木花之開耶姫(このはなさくやひめ=大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘)を娶ったという天孫降臨と同様に神代には降臨神話が幾つかある。
信ずるかどうかは別にして、日本人の神祇観を知る上で興味深いことである。
高宮から下ったところにある第二宮(手前)と第三宮である。
第二宮には沖ノ島・沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)を、第三宮には大島・中津宮の湍津姫神(たぎつひめのかみ)の御分霊を祀っているのだと。
だから、宗像大社に参って第二宮・第三宮と参れば宗像三神の全てを参拝したことになるのである。
が、タクシーの運転手との話の中で、中津宮が祀られている大島へはフェリーが運航しており、これからなら13時55分に神湊発(日に7往復)のに間に合うということを思い出し、「 伝宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品 」約8万点(全て国宝)を蔵し展示している境内の神宝館を見学するか迷った挙句、電話でタクシーを呼んで神湊へ走ることにした。
大島までフェリーの所要25分。従って大島着が14時20分。大島を出航して神湊へ戻る船の出船時刻が16時20分と18時の2本しかないが、大島を巡っても何とか帰ってくることが出来るであろうと判断したのだ。
at 04:48|Permalink│
December 30, 2009
宮地嶽神社 (2)
宮地嶽神社の裏手にある宮地嶽に登る道筋に『奥の宮八社めぐり』という巡拝路がある。
この奥の宮八社をひとつひとつ参拝してまわれば大願が叶うと言われているので私も参詣することにした。
が、別に願い事をするために巡ったのではない。
困った時の神頼みなどという言葉もあるが、一方的に神仏に願い事をしたり、或いは何かを行うから祈願成就をと引き換え条件を示したりして寺社に参拝するというのが日本人の参拝スタイルに多い。
こうしたスタイルの参拝も、その対象となっといる神仏より授かる利益・加護を信じて行われている以上、それも信仰のひとつの形態であろうとは思う。
私は宗教の存することや信仰することを否定しないし、積極・消極に関わらず何宗と枠をはめることも無いが、私も信仰心は持っており、絶対的且つ広大無辺なる神仏の将に人智を超えた力には崇敬の念を抱いている。
ただ、宗教というものに対して下賎な言い方ではあるが好きか嫌いかとか、人々が共存共生していく上で良いものかどうかという判断は自分なりの基準で行ってはいる。
宮地嶽神社の本殿に向かって右手の回廊を潜って本殿を斜め後ろから見た写真である。
『奥の宮八社めぐり』は、ここから始まる。
登りの坂道が続くが道は下の写真のように整備されていた。
『奥の宮八社めぐり』は、七福神社、稲荷神社、不動神社、万地蔵尊、淡島神社、濡髪大明神、三宝荒神、薬師神社の八社を言い、宮地嶽神社に戻って巡拝完了ということになる。
下は大塚稲荷神社の石額が掛かった鳥居。
七福神社と言っても広い境内があるわけでも大きい社殿があるわけでもなく、小屋のような祠があるだけである。
七福とは恵比須、大黒天、布袋、福禄寿、毘沙門天、弁財天、そして寿老人の七福神のことである。
朝の光を透過した紅葉がきれいだったので一枚。
お稲荷さんの赤い鳥居には奥之院稲荷神社の額が掛けられていた。
京都の伏見稲荷大社とは比べようもないほどに小さな稲荷神社であるが、赤い鳥居が幾本も並んでいた。
稲荷はもともと稲生と書かれていたらしいが、稲の束を肩に荷うことから稲荷と表わすようになったとか。これは知らなかった。
下は不動神社への向かう参道。
不動神社において不動明王が祀られているのは宮地嶽古墳の横穴式石室の中。
今から200年ばかり前、江戸時代の中頃に山崩れがあり、その時に古墳の石室が発見され、ここに不動尊が祀られたということである。
下の写真でこんもりと木が茂っているあたりが石室の上部で、左手に写っている屋根が参拝所。その参拝所のあたりが羨道部分だったのであろうか、不動明王が祀られている更に奥にも空間があったので、そちらが石室なのかと推量した。
宮地嶽古墳は直径34m、高さ5mで築造年代は明確ではないが古墳時代後期の円墳とされている。
昭和初期に古墳周辺で金銅装頭椎太刀(こんどうよそおいかぶつちのたち)のほか、金銅鞍金具や金銅壷鐙などの馬具類や金銅透彫龍文冠の破片やガラス玉などが多く出土し、全て国宝に指定されている。
また、古墳近くで火葬墓が発見され銅壷や瑠璃壷も出土し国宝の指定を受けている。
宮地嶽古墳の出土品などから高市皇子(たけちのみこ・天武天皇の第一皇子)の母である尼子娘(あまこのいらつめ)の父・胸方君徳善(むなかたのきみとくぜん)の墓であろうと考えられている。
また、先の銅壷や瑠璃壷などの骨蔵器は8世紀前半のものであることから尼子娘のものであろうとされている。
横穴式の石室は中国でうまれ高句麗(朝鮮)で完成し、百済(朝鮮)を経て福岡や唐津など九州北部に伝わっているが、この地域へは4世紀後半から5世紀初めに伝わり他の地域に比べて随分早く、宮地嶽古墳が宮地嶽神社より更に高い地にあり、石室に組まれている礫岩が玄界灘に面した津屋崎の海岸の岩石を切り取って運ばれていることなども考え合わせると、当時の九州北部を支配していた勢力や、大和政権或いは朝鮮との関わりなど大いに興味を覚える。
この宮地嶽古墳と連なるように福津市の台地には胸方君の一族の墳墓と考えられている国の史跡・津屋崎古墳群がある。
円墳、方墳、前方後円墳など5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳が点在しているらしく日を改めて訪れてみたいと思った。
この奥の宮八社をひとつひとつ参拝してまわれば大願が叶うと言われているので私も参詣することにした。
が、別に願い事をするために巡ったのではない。
困った時の神頼みなどという言葉もあるが、一方的に神仏に願い事をしたり、或いは何かを行うから祈願成就をと引き換え条件を示したりして寺社に参拝するというのが日本人の参拝スタイルに多い。
こうしたスタイルの参拝も、その対象となっといる神仏より授かる利益・加護を信じて行われている以上、それも信仰のひとつの形態であろうとは思う。
私は宗教の存することや信仰することを否定しないし、積極・消極に関わらず何宗と枠をはめることも無いが、私も信仰心は持っており、絶対的且つ広大無辺なる神仏の将に人智を超えた力には崇敬の念を抱いている。
ただ、宗教というものに対して下賎な言い方ではあるが好きか嫌いかとか、人々が共存共生していく上で良いものかどうかという判断は自分なりの基準で行ってはいる。
宮地嶽神社の本殿に向かって右手の回廊を潜って本殿を斜め後ろから見た写真である。
『奥の宮八社めぐり』は、ここから始まる。
登りの坂道が続くが道は下の写真のように整備されていた。
『奥の宮八社めぐり』は、七福神社、稲荷神社、不動神社、万地蔵尊、淡島神社、濡髪大明神、三宝荒神、薬師神社の八社を言い、宮地嶽神社に戻って巡拝完了ということになる。
下は大塚稲荷神社の石額が掛かった鳥居。
七福神社と言っても広い境内があるわけでも大きい社殿があるわけでもなく、小屋のような祠があるだけである。
七福とは恵比須、大黒天、布袋、福禄寿、毘沙門天、弁財天、そして寿老人の七福神のことである。
朝の光を透過した紅葉がきれいだったので一枚。
お稲荷さんの赤い鳥居には奥之院稲荷神社の額が掛けられていた。
京都の伏見稲荷大社とは比べようもないほどに小さな稲荷神社であるが、赤い鳥居が幾本も並んでいた。
稲荷はもともと稲生と書かれていたらしいが、稲の束を肩に荷うことから稲荷と表わすようになったとか。これは知らなかった。
下は不動神社への向かう参道。
不動神社において不動明王が祀られているのは宮地嶽古墳の横穴式石室の中。
今から200年ばかり前、江戸時代の中頃に山崩れがあり、その時に古墳の石室が発見され、ここに不動尊が祀られたということである。
下の写真でこんもりと木が茂っているあたりが石室の上部で、左手に写っている屋根が参拝所。その参拝所のあたりが羨道部分だったのであろうか、不動明王が祀られている更に奥にも空間があったので、そちらが石室なのかと推量した。
宮地嶽古墳は直径34m、高さ5mで築造年代は明確ではないが古墳時代後期の円墳とされている。
昭和初期に古墳周辺で金銅装頭椎太刀(こんどうよそおいかぶつちのたち)のほか、金銅鞍金具や金銅壷鐙などの馬具類や金銅透彫龍文冠の破片やガラス玉などが多く出土し、全て国宝に指定されている。
また、古墳近くで火葬墓が発見され銅壷や瑠璃壷も出土し国宝の指定を受けている。
宮地嶽古墳の出土品などから高市皇子(たけちのみこ・天武天皇の第一皇子)の母である尼子娘(あまこのいらつめ)の父・胸方君徳善(むなかたのきみとくぜん)の墓であろうと考えられている。
また、先の銅壷や瑠璃壷などの骨蔵器は8世紀前半のものであることから尼子娘のものであろうとされている。
横穴式の石室は中国でうまれ高句麗(朝鮮)で完成し、百済(朝鮮)を経て福岡や唐津など九州北部に伝わっているが、この地域へは4世紀後半から5世紀初めに伝わり他の地域に比べて随分早く、宮地嶽古墳が宮地嶽神社より更に高い地にあり、石室に組まれている礫岩が玄界灘に面した津屋崎の海岸の岩石を切り取って運ばれていることなども考え合わせると、当時の九州北部を支配していた勢力や、大和政権或いは朝鮮との関わりなど大いに興味を覚える。
この宮地嶽古墳と連なるように福津市の台地には胸方君の一族の墳墓と考えられている国の史跡・津屋崎古墳群がある。
円墳、方墳、前方後円墳など5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳が点在しているらしく日を改めて訪れてみたいと思った。
at 11:00|Permalink│
December 29, 2009
宮地嶽神社
博多の東方JR福間駅から北2kmばかりの所に宮地嶽神社がある。
以前より宗像大社を訪ねてみたいと思っていたので、宮地嶽神社に立ち寄ってから行ってみようと冬晴れとなった12月2日の朝に中洲のホテルを出発した。
博多駅まで歩き、JR福間駅で下車。神社まではバスでと思っていたのだが本数少なく、歩いてもとも考えたのだが移動に時間を使いたくなかったのでタクシーを利用した。
地図では2km程度なのだが知らない土地ゆえに随分の距離があったように感じた。
上はバス停のある道路から続く参道で、道の両側には土産物店が並んでいたが平日の朝だったからなのか閉まっている店もあり商売繁盛の神様の門前にしては裏寂れた感じを受けた。
九州では最多の参詣者を集めるのが太宰府の天満宮で、この宮地嶽神社が2番らしい。
太宰府の天満宮は梅が枝餅が有名だが、ここの土産物店では松ヶ枝餅を売っていた。何となく天満宮の梅が枝餅に対抗してというように受け止めてしまったが、実の所の謂れは知らない。
バスで来たならば正面の鳥居の階段を上らねばならなかったところなのだが、タクシーで来たので神社の楼門横まで乗せてもらった。
写真は帰路に撮ったもので、タクシー利用は大助かりであったというわけ。
上の写真で分かる通り随分の高さまで階段が続いていたのである。
参道は真っ直ぐ玄界灘の宮地浜に続き、木々の間を吹く風が清々しかった。
参道は階段を上りきったところから更に続く。
石の鳥居の向こうに見えるのが宮地嶽である。
下は楼門で、その右手に大鈴堂、写真撮影場所の右手に大太鼓堂がある。
宮地嶽神社には3つの日本一があるとタクシーの運転手が語っていたが、1つ目が日本一の大注連縄、2つ目が日本一の大太鼓、3つ目が日本一の大鈴だそうな。
大注連縄については出雲大社の注連縄も太く大きいので、これは日本一と言われてもピンとこなかった。
大太鼓は直径2.2mと確かに大きいが、太鼓の演奏家集団が用いる太鼓も相当に大きく私には大小区別をつけ難いと思った。
大鈴は日本一であると言われれば、そうかなあと納得するようなしないような、比較する物が思い浮かばないので結論はワカランと言う以外にない。
が、別にどうでもええことやないかと、私にはその程度にしか感じられなかったが、日本一であるということに意味を感じる人にとっては何らかのプラスになるのかもしれない。
楼門の左右には夫々右近衛大将(うこんえのだいしょう)・左近衛大将(さこんえのだいしょう)が鎮座し、背後の本殿を守護していた。
上の写真は左近衛大将(本殿に向かう者の位置からは右手に見える)。
下が宮地嶽神社の本殿。
宮地嶽神社の祭神は息長足比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)と勝村大神(かつむらのおおかみ)、勝頼大神(かつよりのおおかみ)の三神という。
神社の由緒書によれば、創建は約1600年前。三韓征伐の折、この地に滞在した神功皇后が宮地嶽山頂に祭壇を設け、天神地祇=天つ神・国つ神=八百万の神々を祀り、船出の無事と武運を祈願して出兵したと書かれている。
この神功皇后の新羅討伐に随従した勝村・勝頼大神を合わせて宮地嶽三柱大神として祀っているということである。
勝村・勝頼大神は三韓征討の後に帰還してこの地をもらったというが、この二柱の神について私は知らない。
下が本殿に吊るされた日本一と言われる大注連縄である。
注連縄というのは神道において神の坐す所を表わすもので、言い換えれば神の世界と人間の世界の境を示すものであり、仏教など他の宗教でも見られる結界と同様の意味を持つものである。
この宮地嶽神社の注連縄は出雲大社と同様に真ん中が極太に綯われたものであり、大阪の一般家庭で用いる注連飾りと同じ形をしている。
大阪で家の入口に飾る注連飾りは注連縄にウラジロ、それに紙垂(しで)を下げ、ダイダイを付けたものが中心であり、これには年神様をお迎えするという意味での神域を表すことと、厄や禍を寄せ付けずに禊払えの意味を持たせることもあり、いずれも結界という意味では共通している。
使われている注連縄の多くは、ほぼ同じ太さの細長いものを用いておりワラか紙の紙垂を付けている。
注連縄のことを書いていたら、榊の枝を取り、紙垂を作るために奉書紙や半紙などを切って玉串をよく作らされたことを思い出した。
随分古い昔のことだが、今でも紙垂を断つことが出来るのは『三つ子の魂百まで』というものだろうか。
以前より宗像大社を訪ねてみたいと思っていたので、宮地嶽神社に立ち寄ってから行ってみようと冬晴れとなった12月2日の朝に中洲のホテルを出発した。
博多駅まで歩き、JR福間駅で下車。神社まではバスでと思っていたのだが本数少なく、歩いてもとも考えたのだが移動に時間を使いたくなかったのでタクシーを利用した。
地図では2km程度なのだが知らない土地ゆえに随分の距離があったように感じた。
上はバス停のある道路から続く参道で、道の両側には土産物店が並んでいたが平日の朝だったからなのか閉まっている店もあり商売繁盛の神様の門前にしては裏寂れた感じを受けた。
九州では最多の参詣者を集めるのが太宰府の天満宮で、この宮地嶽神社が2番らしい。
太宰府の天満宮は梅が枝餅が有名だが、ここの土産物店では松ヶ枝餅を売っていた。何となく天満宮の梅が枝餅に対抗してというように受け止めてしまったが、実の所の謂れは知らない。
バスで来たならば正面の鳥居の階段を上らねばならなかったところなのだが、タクシーで来たので神社の楼門横まで乗せてもらった。
写真は帰路に撮ったもので、タクシー利用は大助かりであったというわけ。
上の写真で分かる通り随分の高さまで階段が続いていたのである。
参道は真っ直ぐ玄界灘の宮地浜に続き、木々の間を吹く風が清々しかった。
参道は階段を上りきったところから更に続く。
石の鳥居の向こうに見えるのが宮地嶽である。
下は楼門で、その右手に大鈴堂、写真撮影場所の右手に大太鼓堂がある。
宮地嶽神社には3つの日本一があるとタクシーの運転手が語っていたが、1つ目が日本一の大注連縄、2つ目が日本一の大太鼓、3つ目が日本一の大鈴だそうな。
大注連縄については出雲大社の注連縄も太く大きいので、これは日本一と言われてもピンとこなかった。
大太鼓は直径2.2mと確かに大きいが、太鼓の演奏家集団が用いる太鼓も相当に大きく私には大小区別をつけ難いと思った。
大鈴は日本一であると言われれば、そうかなあと納得するようなしないような、比較する物が思い浮かばないので結論はワカランと言う以外にない。
が、別にどうでもええことやないかと、私にはその程度にしか感じられなかったが、日本一であるということに意味を感じる人にとっては何らかのプラスになるのかもしれない。
楼門の左右には夫々右近衛大将(うこんえのだいしょう)・左近衛大将(さこんえのだいしょう)が鎮座し、背後の本殿を守護していた。
上の写真は左近衛大将(本殿に向かう者の位置からは右手に見える)。
下が宮地嶽神社の本殿。
宮地嶽神社の祭神は息長足比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)と勝村大神(かつむらのおおかみ)、勝頼大神(かつよりのおおかみ)の三神という。
神社の由緒書によれば、創建は約1600年前。三韓征伐の折、この地に滞在した神功皇后が宮地嶽山頂に祭壇を設け、天神地祇=天つ神・国つ神=八百万の神々を祀り、船出の無事と武運を祈願して出兵したと書かれている。
この神功皇后の新羅討伐に随従した勝村・勝頼大神を合わせて宮地嶽三柱大神として祀っているということである。
勝村・勝頼大神は三韓征討の後に帰還してこの地をもらったというが、この二柱の神について私は知らない。
下が本殿に吊るされた日本一と言われる大注連縄である。
注連縄というのは神道において神の坐す所を表わすもので、言い換えれば神の世界と人間の世界の境を示すものであり、仏教など他の宗教でも見られる結界と同様の意味を持つものである。
この宮地嶽神社の注連縄は出雲大社と同様に真ん中が極太に綯われたものであり、大阪の一般家庭で用いる注連飾りと同じ形をしている。
大阪で家の入口に飾る注連飾りは注連縄にウラジロ、それに紙垂(しで)を下げ、ダイダイを付けたものが中心であり、これには年神様をお迎えするという意味での神域を表すことと、厄や禍を寄せ付けずに禊払えの意味を持たせることもあり、いずれも結界という意味では共通している。
使われている注連縄の多くは、ほぼ同じ太さの細長いものを用いておりワラか紙の紙垂を付けている。
注連縄のことを書いていたら、榊の枝を取り、紙垂を作るために奉書紙や半紙などを切って玉串をよく作らされたことを思い出した。
随分古い昔のことだが、今でも紙垂を断つことが出来るのは『三つ子の魂百まで』というものだろうか。
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『博多・・・秋色』 ・ 『かじ天』新装
福岡の地下鉄・中洲駅を上がると明治通に出るが、そこから南方向に中洲とは博多川を挟んで川端通商店街が続く。
川端通商店街(上川端通)は明治通と国体道路の間、凡そ400mばかりあるが、その南端に祗園山笠で有名な櫛田神社があり、キャナルシティへの連絡通路がある。
この一角に『かろのうろん』の店がある。
『かろのうろん』というのは『かどのうどん』であって、写真の通り将に角にあるうどん店なのである。
以前に『饂飩蕎麦発祥之地』の石碑が承天寺にあることを紹介したが、宋から帰国して承天寺を開いた円爾(聖一国師)が饂飩を伝えたとされている。
博多は長浜ラーメン発祥の地でありラーメン店は至る所にあるが、うどんを看板にする店は大変に少ない。
店のメニューが掲げられていたので写真に収めたが、この店の饂飩を私は未だ味わったことがない。
荷物にならないから食べていけと書いてあるが、13世紀に伝わった饂飩の製法を継承しているなら立ち寄っても良いけれど、この店の開店がお昼なので私のお腹とのタイミングも合わないのである。
『かろのうろん』の店の前を通る国体道路を東へ歩くと以前に書いた萬行寺の門前に出るが、その隣の寺が順正寺(じゅんしょうじ)である。
順正寺は浄土真宗本願寺派で袖湊山順正寺と言い、空寂上人が1583年(天正11年)に開いた寺である。
この一画も順正寺のほか萬行寺、善照寺、覚永寺が集まり寺町を構成しており、大博通を挟んで東長寺や承天寺、聖福寺とも連らなっている。
さて、新幹線の博多駅に到着した時、そして博多を離れる前に必ず立ち寄るのが『かじ天』である。
博多駅ビル工事のために駅地下街のデイトスも何ヶ月か閉鎖されていたが漸く改装が終わり、『かじ天』の店舗も真新しくなった。
『かじ天』は中洲・春吉橋の割烹『かじ』の出店のひとつだが、『かじ天』と店の名前に『天』が付いているように天ぷらが美味い店である。
勿論、春吉橋の割烹『かじ』本店の大将(社長)が玄界灘を中心として周防灘・豊後水道で揚がった新鮮な魚介類を一括仕入れてきたものがケースに並ぶので素材は間違いないし、板前さんたちの腕も良い。
下は新装開店なった『かじ天』の明るい店内である。
朝早い列車を利用する人たちのために10時頃まではザル豆腐や味噌汁のついたワンコインの朝食(定食)を提供している。
そして、早朝仕入れた魚介類が10時頃に到着するので、この時間以後各種定食や一品料理が提供されるのだが、定食の素材が良いこと、ボリュームがあること、それに安いことが加わって店はよく繁昌している。
写真は店長が天ぷらを揚げているところだが、定食の天ぷらは注文を受けてから揚げるのでアツアツの状態で提供される。
私は博多駅に10時過ぎに到着する列車を利用し、『かじ天』で活イカの刺身を湯割り焼酎で頂くことから博多滞在の生活を始めることにしている。
剣先イカの刺身の残り身は天ぷらにしてダシで頂くのだが、店長の揚げ加減が絶妙で、しかも、耳の部分とゲソの部分を時間を空けて揚げてくれるので、つまり先に揚げたものが無くなりかけたところでタイミング良く皿にのせてくれるのでアツアツの最も美味しい状態で味わうことが出来るのである。
川端通商店街(上川端通)は明治通と国体道路の間、凡そ400mばかりあるが、その南端に祗園山笠で有名な櫛田神社があり、キャナルシティへの連絡通路がある。
この一角に『かろのうろん』の店がある。
『かろのうろん』というのは『かどのうどん』であって、写真の通り将に角にあるうどん店なのである。
以前に『饂飩蕎麦発祥之地』の石碑が承天寺にあることを紹介したが、宋から帰国して承天寺を開いた円爾(聖一国師)が饂飩を伝えたとされている。
博多は長浜ラーメン発祥の地でありラーメン店は至る所にあるが、うどんを看板にする店は大変に少ない。
店のメニューが掲げられていたので写真に収めたが、この店の饂飩を私は未だ味わったことがない。
荷物にならないから食べていけと書いてあるが、13世紀に伝わった饂飩の製法を継承しているなら立ち寄っても良いけれど、この店の開店がお昼なので私のお腹とのタイミングも合わないのである。
『かろのうろん』の店の前を通る国体道路を東へ歩くと以前に書いた萬行寺の門前に出るが、その隣の寺が順正寺(じゅんしょうじ)である。
順正寺は浄土真宗本願寺派で袖湊山順正寺と言い、空寂上人が1583年(天正11年)に開いた寺である。
この一画も順正寺のほか萬行寺、善照寺、覚永寺が集まり寺町を構成しており、大博通を挟んで東長寺や承天寺、聖福寺とも連らなっている。
さて、新幹線の博多駅に到着した時、そして博多を離れる前に必ず立ち寄るのが『かじ天』である。
博多駅ビル工事のために駅地下街のデイトスも何ヶ月か閉鎖されていたが漸く改装が終わり、『かじ天』の店舗も真新しくなった。
『かじ天』は中洲・春吉橋の割烹『かじ』の出店のひとつだが、『かじ天』と店の名前に『天』が付いているように天ぷらが美味い店である。
勿論、春吉橋の割烹『かじ』本店の大将(社長)が玄界灘を中心として周防灘・豊後水道で揚がった新鮮な魚介類を一括仕入れてきたものがケースに並ぶので素材は間違いないし、板前さんたちの腕も良い。
下は新装開店なった『かじ天』の明るい店内である。
朝早い列車を利用する人たちのために10時頃まではザル豆腐や味噌汁のついたワンコインの朝食(定食)を提供している。
そして、早朝仕入れた魚介類が10時頃に到着するので、この時間以後各種定食や一品料理が提供されるのだが、定食の素材が良いこと、ボリュームがあること、それに安いことが加わって店はよく繁昌している。
写真は店長が天ぷらを揚げているところだが、定食の天ぷらは注文を受けてから揚げるのでアツアツの状態で提供される。
私は博多駅に10時過ぎに到着する列車を利用し、『かじ天』で活イカの刺身を湯割り焼酎で頂くことから博多滞在の生活を始めることにしている。
剣先イカの刺身の残り身は天ぷらにしてダシで頂くのだが、店長の揚げ加減が絶妙で、しかも、耳の部分とゲソの部分を時間を空けて揚げてくれるので、つまり先に揚げたものが無くなりかけたところでタイミング良く皿にのせてくれるのでアツアツの最も美味しい状態で味わうことが出来るのである。
at 04:40|Permalink│
December 28, 2009
博多・住吉神社
11月30日の早朝、小雨が降る中を散歩に出かけた。
神社には6時前に着いたが、夜が長い時期の上に分厚い雨雲が空一面を覆っているし境内が森のような中にあるので真っ暗な中、所々にある灯りを頼りの参詣となった。
下は神社境内図とともに掲示してあったものだが、神社に伝わる古図をもとに作成されたものだという。
古図は鎌倉時代に描かれたものを江戸時代に筆写したものだと記してあったが、南北逆さなので修正拡大して表示してみる。
上図左上の荒戸山は現在の西公園のあたり。砂洲が延びている長浜はほぼ現在の長浜と考えても良さそう。草香江は博多湾の入り江であり、冷泉津は那珂川や比恵川の水が流れ込んでいる。
福岡城は半島のように突き出した平尾村(現在の南公園あたり)の少し北に位置し、大濠公園は草香江の名残りと言える。
現在の天神や中洲は完全に冷泉津の水底にあったわけだ。
そして肝心の住吉神社は冷泉津と書かれたあたりの森がそうであり、祠を設けた頃は海に面していたのであろう。
住吉というのは元々「すみのえ」、つまり水が澄んだ入り江という意味であったから冷泉津はきれいな海水の入り江であったと想像できる。
下は西門からの参道を通して神門と本殿を眺めたもの。
現在、大阪の住吉大社が日本全国2300社の総本宮になっており、日本三大住吉神社として大阪の住吉大社、博多の住吉神社、下関の住吉神社が挙げられている。
住吉神社の主祭神は底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)の住吉三神であるが、博多の住吉神社は住吉三神に加えて天照皇大神と神功皇后(息長帯姫命)も祭祀している。
西門からの参道を更に進むんだところである。
大阪では住吉大社のことを「すみよしさん」、天満宮を「てんじんさん」と呼ぶが、天神さんは学問の神さんで「住吉さん」は海の神さんで航海安全の守り神から広くお守りの神さんとして知られている。
古事記や日本書紀によれば、妻である伊邪那美命 (いざなみのみこと)が火神の出産で亡くなり、彼女を追って黄泉の国に行った伊邪那岐命 (いざなぎのみこと)は死者の国から妻を連れ戻すことが出来ずに帰ってくるのだが、その穢れを払い清めるために海に浸かって「禊祓い(みそぎはらえ)」を行った。
その時に伊邪那岐命が身に付けていた物や彼の垢などが神となったが、底で清めたのが底津綿津見神(ソコツワタツミの神)・底筒男命(ソコツツノオのみこと)、中で清めたのが仲津綿津見神(ナカツワタツミの神)・中筒男命(ナカツツノオのみこと)、表面で清めたのが表津綿津見神(ウハツワタツミ神)・表筒男命(ウハツツノオのみこと)であった。
この神産みでは左目がアマテラス、右目がツクヨミ、鼻がスサノオであった。
下の写真は『神門』。
綿津見(ワタツミ)三神と住吉(筒男命)三神とは同じ神であったらしいが、九州と近畿に分かれることになったらしい。
以前に志賀島について書いた時に綿津見三神を祀る志賀海神社についても書いたが、志賀海神社の祭神は残り組みだったようだ。
綿津見は「ワタツミ」とも「ワダツミ」とも読み、「海神」とも書くように、住吉三神と同様に海の神である。
『神門』をくぐって振り返ると菊の紋章入りの赤い提灯。
『神門』前の石標に「皇族下乗」と刻んであったから昔は皇族か勅使の参詣があったのだろう。
延喜式神名帳では式内社(名神大)と記載され、戦前までは筑前国一宮・官幣小社となっている。
大阪の住吉大社も同じ式内社(名神大)であるが、戦前までは摂津国一宮・官幣大社となり、神社の格式、国の待遇は博多の住吉神社よりも良かった。
博多の住吉神社は「住吉本社」とか「日本第一住吉宮」と書かれたりしているそうだが、神功皇后の新羅討伐の祈願ということを考え合わせれば最終の渡海となる対馬・朝鮮海峡を前にして当神社でも祈願を行ったとするのが妥当であり、大阪であれ博多であれ下関であれ、どこが第一であれ社格がどうであれ余り意味の無いことのように思うが喧しい輩はどこにでもいるもの。
だいたい明治期以降戦前までの官幣社とは何やねん、と、またまた横道に逸れそうな気がするのでココまで。
神様は神様として崇敬するし、住吉三神ならどこも同じ神、と、私は思うが・・・。
下は博多・住吉神社の本殿。
まだ暗いうちの小雨の中での撮影だったため明瞭ではないが、「住吉造」という特殊な建築様式らしく、1623年(元和九年)に福岡藩主・黒田長政の寄進によって建てられたもので国の重要文化財に指定されている。
下は神社の西門である。
午前7時を過ぎてもこの明るさであった。
熱心な参拝者はいるもので、私が本殿に参拝する前に1人。その後、西門を出るまでに5人であった。
住吉さんについてはこの辺で。
神社には6時前に着いたが、夜が長い時期の上に分厚い雨雲が空一面を覆っているし境内が森のような中にあるので真っ暗な中、所々にある灯りを頼りの参詣となった。
下は神社境内図とともに掲示してあったものだが、神社に伝わる古図をもとに作成されたものだという。
古図は鎌倉時代に描かれたものを江戸時代に筆写したものだと記してあったが、南北逆さなので修正拡大して表示してみる。
上図左上の荒戸山は現在の西公園のあたり。砂洲が延びている長浜はほぼ現在の長浜と考えても良さそう。草香江は博多湾の入り江であり、冷泉津は那珂川や比恵川の水が流れ込んでいる。
福岡城は半島のように突き出した平尾村(現在の南公園あたり)の少し北に位置し、大濠公園は草香江の名残りと言える。
現在の天神や中洲は完全に冷泉津の水底にあったわけだ。
そして肝心の住吉神社は冷泉津と書かれたあたりの森がそうであり、祠を設けた頃は海に面していたのであろう。
住吉というのは元々「すみのえ」、つまり水が澄んだ入り江という意味であったから冷泉津はきれいな海水の入り江であったと想像できる。
下は西門からの参道を通して神門と本殿を眺めたもの。
現在、大阪の住吉大社が日本全国2300社の総本宮になっており、日本三大住吉神社として大阪の住吉大社、博多の住吉神社、下関の住吉神社が挙げられている。
住吉神社の主祭神は底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)の住吉三神であるが、博多の住吉神社は住吉三神に加えて天照皇大神と神功皇后(息長帯姫命)も祭祀している。
西門からの参道を更に進むんだところである。
大阪では住吉大社のことを「すみよしさん」、天満宮を「てんじんさん」と呼ぶが、天神さんは学問の神さんで「住吉さん」は海の神さんで航海安全の守り神から広くお守りの神さんとして知られている。
古事記や日本書紀によれば、妻である伊邪那美命 (いざなみのみこと)が火神の出産で亡くなり、彼女を追って黄泉の国に行った伊邪那岐命 (いざなぎのみこと)は死者の国から妻を連れ戻すことが出来ずに帰ってくるのだが、その穢れを払い清めるために海に浸かって「禊祓い(みそぎはらえ)」を行った。
その時に伊邪那岐命が身に付けていた物や彼の垢などが神となったが、底で清めたのが底津綿津見神(ソコツワタツミの神)・底筒男命(ソコツツノオのみこと)、中で清めたのが仲津綿津見神(ナカツワタツミの神)・中筒男命(ナカツツノオのみこと)、表面で清めたのが表津綿津見神(ウハツワタツミ神)・表筒男命(ウハツツノオのみこと)であった。
この神産みでは左目がアマテラス、右目がツクヨミ、鼻がスサノオであった。
下の写真は『神門』。
綿津見(ワタツミ)三神と住吉(筒男命)三神とは同じ神であったらしいが、九州と近畿に分かれることになったらしい。
以前に志賀島について書いた時に綿津見三神を祀る志賀海神社についても書いたが、志賀海神社の祭神は残り組みだったようだ。
綿津見は「ワタツミ」とも「ワダツミ」とも読み、「海神」とも書くように、住吉三神と同様に海の神である。
『神門』をくぐって振り返ると菊の紋章入りの赤い提灯。
『神門』前の石標に「皇族下乗」と刻んであったから昔は皇族か勅使の参詣があったのだろう。
延喜式神名帳では式内社(名神大)と記載され、戦前までは筑前国一宮・官幣小社となっている。
大阪の住吉大社も同じ式内社(名神大)であるが、戦前までは摂津国一宮・官幣大社となり、神社の格式、国の待遇は博多の住吉神社よりも良かった。
博多の住吉神社は「住吉本社」とか「日本第一住吉宮」と書かれたりしているそうだが、神功皇后の新羅討伐の祈願ということを考え合わせれば最終の渡海となる対馬・朝鮮海峡を前にして当神社でも祈願を行ったとするのが妥当であり、大阪であれ博多であれ下関であれ、どこが第一であれ社格がどうであれ余り意味の無いことのように思うが喧しい輩はどこにでもいるもの。
だいたい明治期以降戦前までの官幣社とは何やねん、と、またまた横道に逸れそうな気がするのでココまで。
神様は神様として崇敬するし、住吉三神ならどこも同じ神、と、私は思うが・・・。
下は博多・住吉神社の本殿。
まだ暗いうちの小雨の中での撮影だったため明瞭ではないが、「住吉造」という特殊な建築様式らしく、1623年(元和九年)に福岡藩主・黒田長政の寄進によって建てられたもので国の重要文化財に指定されている。
下は神社の西門である。
午前7時を過ぎてもこの明るさであった。
熱心な参拝者はいるもので、私が本殿に参拝する前に1人。その後、西門を出るまでに5人であった。
住吉さんについてはこの辺で。
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