December 2009

December 27, 2009

ミナミ ・ 『〇十寿司』

これまで『〇十寿司』(まるじゅうすし)については何度か書いてきた。

大阪・難波の御堂筋にある「にぎりの『〇十寿司』」である。

創業は戦後の昭和26年とのことで半世紀を経た寿司店の老舗である。

その『〇十寿司』の女将が回顧展を開いた。
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上は大阪地下鉄1号線(現・御堂筋線)の難波駅に下りる階段入口前にあった『〇十寿司』の店舗の絵である。

絵に描かれた通り開店創業当時は立ち食いの店であったようだが、この頃の『〇十寿司』について私は知らない。

私の記憶が確かなら、初めて『〇十(まるじゅう)』に連れてもらったのは昭和34年(1959年)のことではなかったかと・・・

大阪駅前から北浜、高麗橋(三越があった)を経て堺筋を市電(ちんちん電車)が走っていたし、道頓堀に『かに道楽』が開店する以前のことであったから先ず間違いないと思う。

『かに道楽』が開店して間もない頃、両親に連れてもらって「カニすき」を食べに行ったことがあったが、その出し汁の美味しさに感動を覚えたことが記憶に残っている。

確か城崎の金波楼という旅館の経営であったと思うが、以後も時々ねだって連れてもらったことがあった。 

話が横道に逸れたが、いつの頃であったか『〇十(まるじゅう)』で海老の踊り食いというのを食べたことがあった。

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今では生きているクルマエビの殻を剥いて握る寿司をどこでも食べることができるが、昭和30年代中頃、この頃は珍しいものであった。

当時、店の人に何という海老なのか尋ねたところ、シバエビと答えてくれたことを今も覚えている。

下は産経新聞の『〇十寿司』回顧展の紹介記事である。
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『〇十寿司』が発展を始めた頃、日本は敗戦復興の時期を経て自力産業経済が大いに発展の道を歩む時でもあった。

当時は金の卵と呼ばれた地方の中学卒業生たちが都会の企業に就職するために集団でやってきた頃でもあった。

国鉄時代の古い客車に大勢の中学卒業生たちが乗ってくる列車は集団就職列車と呼ばれていた。

その当時、大阪の芸人たちの多くが『〇十寿司』を贔屓にしていたらしい。

また、初代社長・的場一郎も彼らに便宜を与えていたと聞く。

左は当時の写真であるが、今は亡き林家染丸、笑福亭松鶴、法善寺横丁ではよく顔を合わせた小文枝時代の桂文枝らのほか、人間国宝で文化勲章を受章した桂米朝の顔も見える。

初めて連れてもらって以来私は何度か店を訪れているが、その回数が増えるのは社会人としての仕事に就いてからのことである。

当時は下の地図に記してある御堂筋に面した旧店舗であった。

息子達が小さかった頃、孫が可愛いと父親が『〇十寿司』へ連れて行き、御堂筋パレードを見学させてくれていた。将に特等席だったのである。

息子が成人してからは私とも一緒に行った。

親子3代にわたって利用させてもらっているのである。
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現在の店は御堂筋のひとつ西側になるが、店が移って暫くした頃に女将と昼下がりのデートをした。

昼下がりのデートなどと言っても喜寿を迎えた女将とのデートだから色っぽいものではない。

地下街の喫茶店で四方山話をしただけだが、その折に女将、社長さんだが、

「新しい店は私の隠居仕事やと思うてんねん」
「社員らの老後の生活を保障するために・・・」

などと語ってくれた。

女将が引き際を考えていると察したが、私には何とも淋しいものにしか聞こえなかったし、そうであるなら大変残念なことであるとも思った。

一定の素材の質を維持し、それを安く美味しく提供する寿司店はそうそう無い。

私はマグロの天身が好きだと公言しているが、高いお金を払うなら美味しいものが提供されて当たり前である。 上質のものを手頃な安い値段で長年提供し続けてきた『〇十寿司』は将に貴重な店なのである。 マグロについて言えば、これまでハズレと思ったことは10パーセント程度のことである。

値段を安くするには大量一括仕入れで人件費を抑えるという回転寿司のチェーン店のようにする方法があるが、『〇十寿司』は創業以来職人の腕に拠ってきている。

新たな職人養成には幾つもの難しい問題があることは素人の私にも分かる。が、何とか『〇十寿司』の半世紀を越える暖簾を守り続けて欲しいものだと、回顧展を見せてもらって改めて思ったものだ。


at 17:13|Permalink

December 26, 2009

久し振りのミナミ 法善寺『喜川』ほか 12/24 

PCの速度が遅くなっているのでイライラしていたところ、ディスクドライブの読み込みも書き込みもダメ、つまり故障してしまって予定していた作業が出来ないので急遽電器店へ。

ついでに新規購入したプリンターのインクもと、ならば本屋もまわって帰りにイッパイなどと考え、久し振りに、全く久し振りにミナミへ出ることにした。

景気が悪いと言われながらも多くの人で賑わう難波の地下街を歩いていたところ、偶然に友人と出会い「お昼でも・・・」と法善寺横丁の『喜川』へ行った。

男友達なら近くの居酒屋で良かったのだがご婦人となると立ち飲みというわけにもいかず、久し振りであったということもあって、お昼から少々豪勢な食事となってしまった。

『喜川』は料理人として有名な上野修三氏が開いた浪速割烹の店であるが、氏は既に引退し、現在は息子さんの修氏が主となり暖簾を受け継いでおられる。
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『喜川』の『喜』の字は『七』が3つの『き』なのだが、外字を作成しても表示されない。

しかし、屋号として用いられているので、いつもいつも『喜』や『き』を使っていたら失礼になるので、今回に限って店が用いられているものを転載し紹介することにした。


夜はコース料理だけでなく好みの品を注文でき、私は好物の鯨と菜っ葉を炊いたものや、その日の旬の魚のお刺身をオーダーして春鹿でイッパイやるのが通例なのだが、昼間は値段が異なる決まった3つのコースの料理が提供されるだけなので、いずれかを財布の中身にあわせて選ぶことになる。

ビールやお酒は昼でも注文できる。

酒飲みが言うのも口幅ったいが、料理と酒は表裏の関係にある、と、私は思っているので酒類の提供は当然のことである。

もっとも、お酒が中心になるような飲み方を良しとしているのではない。

また、お酒が料理、とりわけその味わいを打ち負かすようなクセのあるお酒は飲むものではないし、店でも置いてはいない。

料理を頂き、口をすすぐように酒の味も楽しむ。そうすることによって次の料理のひと口がまた新鮮なものとなること間違いなし。

もっとも長年の私の経験から得た感覚であって他人に押し付けるものではないが・・・

日本料理には日本酒が最も合う。細かいことを言えば料理の素材や味付けによって日本酒の味わいも変えることが出来れば更に相乗的効果を望むことが出来るであろうが、そこまでせずとも『喜川』の料理はそれだけで十二分に満足できるものである。

店はカウンターで仕切られたオープンキッチン形式であり、煮方や焼き方など調理人たちの動きが見通せるため、客が食事をする進行具合も料理を提供する側から容易に分かる。

つまり熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに、客の食事進行具合に合わせて最高のタイミングで料理を提供できるというわけである。

私はお昼にも訪れるが、主の修氏と昼に顔を合わせるのは初めてであったし、後に初代の修三氏も顔を出されたのには驚いた。

修三氏は『喜川』を退かれてから天王寺で店を持っておられたが、その店も閉じられたと聞いていたので体調でも崩されたのかと思っていたのである。

しかし、お話をしているとお元気で、奥様の調子が悪くて看病にあたっておられたのだとか。またまたご活躍を頂きたいものである。

ところで法善寺横丁『喜川』で検索してみたら『食べログ』というページを見つけた。 何と『喜川』の料理の写真が出ているのである。(クリックでリンク)

ムムムムム

いつだったか・・・以前に写真を撮っていいか?と女将に尋ねたらダメだと言ったのに。

これはイカン。

前ページで私は曖昧さが良いと書いたが、これは筋が違っているのであり、曖昧なのではない。

はははは、ともあれこの日の昼はマナガツオ、カレイ、ハリイカの刺身を頂いて私は満足。酒は秋鹿の冷酒、白鷹の熱燗で満足が二乗と相成った。 

千日前の電器店ビック(いつもは上新電機)で外付けのディスクドライブを、ジュンク堂で本をどっさり購入。 

ずっしり重い袋を両手に提げ、年末のことゆえチョイトご挨拶にと法善寺のバー『斛(マスメ)』へ寄った後に御堂筋の『〇十寿司』の女将にも。

最後に我が家への手土産に宗右衛門町の『二鶴』へ寄って茶巾寿司と大稲荷寿司を仕入れ、主の伊藤君と四方山話。

クリスマス・イブの夜にケーキの箱ならぬデカイ袋を両手にぶら下げてのご帰還となった。

at 16:39|Permalink

『博多・・・秋色』は、少し休憩 12/24 (1)

12月24日、クリスマス・イブである。

キリストの降誕祭前夜であり、クリスチャンにとってはクリスマス当日とともに大切な日である。

日本人にとっては?

信仰者であれ信仰者で無かれ、恐らく日本人の100%が何らかの形でクリスマスに関わっているのではと思う。

江戸時代にキリスト教禁圧のため毎年行われた宗旨人別改によって領民一人一人が全て仏教に帰依していることを檀那寺が証明するという制度を採ってきたため日本人は全ていずれかの仏門に属していた。(幕末に長崎などで隠れキリシタンを表明した人たちが一部にいたので仏門に属すことが実際に個人の信仰を証明したものではない。)

形式的には、仏教は日本の国教であったと言える。

そうした日本でキリスト教の行事であるクリスマスが何故国民的行事であるかの如く広まり浸透してきたのか、それもいつごろから。

全ての疑問に応えてくれたわけではないが、日本クリスマス博物館というページがあったので紹介しておこう。

歴史年表形式に事象をピックアップしているので流れを掌握するには便利かもしれない。

個々にクリスマスを祝ったりプレゼントを交換したりということは大正期の頃にもあったようだが、広く全国的にということではやはり戦後の経済産業の復興から自立へと転じた昭和20年代後半以降からというのが当たっているように思う。

熱心なカトリック信徒から、「信仰者でない日本人が何故?」と厳しい問い掛けを受けたことがあるが、これには明確な返答ができなかった。

一神教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などを信仰する人たちにとって、八百万の神どころか「神様仏様」と何もかもゴチャマゼにするかのような信心は信仰とは認められない曖昧なものなのかもしれない。

しかし、これは日本人の寛容・寛大さを示すものであると主張する人たちもおり、宗教性や国民性など、それらの成り立ちについての研究書も多い。が、ここでは触れないでおく。

いずれも一理ありと思う私も曖昧なのかもしれない。

いいではないか、曖昧でもと。 

最近とみにそう思うようになってきた。



※ 曖昧にというのは、確かではなく、はっきりしないという意味で用いており、無責任、適当、好い加減という意味とは異なるので念のため。

at 10:52|Permalink

December 25, 2009

博多・禅寺・・・秋色【5】 崇福寺の(2)

崇福寺の境内に見つけた秋。

葉の裂けようや葉縁の鋸歯から『いろはもみじ』であろうと思ったのだが、あまりにも鮮やかな緋色に見とれてしまい、何の木なのか考えることも忘れてしまった。
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パノラマ写真にしようと思ったが接合できず別々に掲載。

崇福寺の墓地の一画を黒田家の墓石が占める。

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五輪塔の形で黒田の姓があったので、多分福岡藩・黒田家に連なる江戸時代に建立された墓であろう。

下は藤水門と額が掛かる門扉で仕切られた黒田家の墓地。

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草原を踏み固められた道が続く先、石燈籠が立っている所のやや黒っぽい大きい墓が黒田孝高(如水)、その手前の石燈籠が立つ白い墓が福岡藩初代藩主・黒田長政の墓である。

藤水門の中へ入っていないので分からないが、4代藩主・綱政、6代藩主・継高、7代藩主・治之、9代藩主・斉隆の墓も並んで立っているという。

同じ黒田家の菩提寺である東長寺に2代藩主・忠之、3代藩主・光之、8代藩主・治高の墓があることは既に書いた。

先に、この崇福寺の墓地に黒田家の墓石が一画を占めると書いたが、この墓地の一画と黒田家藩主の墓がある藤水門で仕切られた一画とは隣接してはいるが明確に区分されている。

下の写真・・・黒田家に連なる人たちの墓石が並ぶ墓地で『玄洋社墓地』と刻まれている碑を見つけた。
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玄洋社と言えば日本近現代史の中で特筆される右翼政治結社のひとつである。

平岡浩太郎に頭山満の名前が思い浮かんだ。

権力と資産を持っていた藩主・黒田家に連なる人々のお墓の土地(霊地)の何倍も広い墓地を有することに驚きもした。

下の頭山満の墓石の大きさにも驚いた。デカイのである。

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玄洋社は明治初期から昭和の太平洋戦争敗戦に至るまで国内外で陰に陽に活動を繰り広げてきた。

詳しく語れるほどの知識はないが、明治期における自由民権運動から朝鮮における甲申事変、これに関わっての日清戦争、そして日露戦争、更に日中戦争から太平洋戦争へと歴史の大きい変革の中で、政界、経済界、軍部を動かし、時に主導的に活動してきた国家主義の右翼集団であると理解している。

昭和21年、進駐軍GHQにより帝国主義団体として解散させられて以後の活動は知らない。

私は右翼国家主義について感覚的生理的に嫌悪するものではないが、自分が知る限りにおいて玄洋社の活動に支持できるものは少ない。

崇福寺には江戸時代の博多の豪商三傑のひとり、島井宗室の墓もあるようだが沢山ある墓石のどれがそうなのか、これは分からなかった。

また、太宰府の崇福寺にあった地蔵尊も移されており、私たちが訪れた折にも『お百度』を踏む女性や子供連れの参拝者が訪れていた。

玄洋社などについて語り始めると長くなるので崇福寺の墓地での案内も上っ面なものに終わってしまったが、博多の寺町の案内は崇福寺で一応終わることにした。


at 16:06|Permalink

December 23, 2009

博多・禅寺・・・秋色【4】 崇福寺の(1)

聖福寺の参詣を終え、幻住庵から西教寺を経て西門橋渡って県庁方面に歩いて行った。

地下鉄・箱崎線の千代駅付近、このあたりは市民体育館に東公園、県庁や県議会、県警本部、市営千代住宅、それに九大医学部と附属病院などがあるため普段は人通りの多い所なのだが日曜日の朝ということもあって人通りはまばらであった。

福岡県議会棟の直ぐ北側に案内しようとする崇福寺がある。

下の写真は崇福寺の山門で、扁額には後嵯峨天皇より賜った『西都法窟』の文字。
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山門前の大きい碑には『勅賜萬年崇福禅寺』と寺名が刻まれている。

崇福寺は1240年(仁治元年)大宰府に 随乗坊湛慧 によって創建され、翌年、湛慧(たんえ)の要請によって宋から帰国した円爾(えんに・聖一国師)が開堂して寺名をつけた。

円爾(聖一国師)は1241年(仁治2年)に帰国し、 博多で先に紹介した承天禅寺、後に京都で東福寺をも開山している。

崇福寺は臨済宗大徳寺派・横岳山崇福寺と言い福岡藩主黒田家の菩提寺のひとつでもあるが、1586年(天正14年)島津氏と大友氏の間でおこなわれた岩屋城の戦いで焼け、1600年(慶長5年)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって現在の場所に移された。

この山門は福岡城本丸の表門(重文)を移設したもの。

下は再興された塔頭・心宗庵。
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写真の碑には『大燈国師塔所』と彫られているのだが、大燈国師とは花園天皇が帰投依伏した宗峰妙超のこと。京都・紫野にある龍寶山大徳禅寺(大徳寺)は妙超が建てた禅堂・大徳庵を起源とし、開基は宗峰妙超である。

そして、塔所とは一般に遺骨(遺灰など)を納め祀る場所を指すので、『大燈国師塔所』と記されているということは大燈国師の墓ということになるのだが、妙超臨終の地が太宰府であったのかどうか・・・、それに妙超の亡骸をどのようにしたのか私は知らないし、妙超と崇福寺の関わりについても分からない。

つまり、大燈国師の墓が何故崇福寺の心宗庵にあるのか疑問が残っているのである。

どうでもいいと言えばどうでもいいことなのだが、物事には曖昧にしておいた方が良いこともあるけれど、疑問を残し抱えたままでいることが苦となることの方が多い。これも性分なのかもしれないが、大徳寺の塔頭には一級上の先輩がいるので問うてみることにしよう。
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               上は鐘楼。

ところで宗教と文化の関わりというのはなかなかオモシロイものであり、仏教に限らず、ヒンドゥー、キリスト、イスレムなどの宗教の広まりと文化諸般の伝播には密接な関わりがある。

衣食住はもとより、それらに係る学問、技術は勿論のこと国家観や道徳・思想にまで影響を及ぼしてきた。

隋や唐への公式使節に続いて宋への学僧たちの渡海も多く、栄西は宋より臨済宗を、道元は曹洞宗を日本に伝えた。また、宋から来た禅僧たちもいる。

座禅を組み自己を直視することを通して仏の教えを体得するという禅宗はそれまでの密教(空海の真言宗、最澄の天台宗)とは若干違ったものであった。

1253年(建長5年)鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼が創建した鎌倉五山の巨福山建長興国禅寺(建長寺)の開山は南宋の禅師・蘭渓道隆であった。

この蘭渓道隆に師事し、宋に渡って修行を行い帰国してからは建長寺に戻り、1272年(文永9年)から崇福寺の住持を務めたのが南浦紹明(なんぽしょうみょう・円通大応国師)。彼は後に後宇多上皇の招聘により京都・万寿寺に入った後、鎌倉・建長寺の住持となった。

この南浦紹明に師事したのが大徳寺の開基・宗峰妙超(大燈国師)であり、いずれも臨済宗の寺院であることから大燈国師の塔所が崇福寺にあっても全く不思議とまでは言えないが、やはり気になる。
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上は衆香園の額が掛かる旧書院。庫裏は右手にある。

前掲の宗峰妙超が死期を迎えた折に、彼に帰依していた花園天皇は後の師を誰にすれば良いか問うたところ、妙超は彼の門下・関山慧玄(かんざんえげん)を推したという。

関山慧玄は後醍醐天皇に仏法を説いた人であるが、花園法皇が離宮を禅寺として妙心寺(正法山妙心禅寺)を開基した折、その開山となった。

日本の臨済宗は南浦紹明(大応国師)・宗峰妙超(大灯国師)・関山慧玄(無相大師)と続く仏法伝承を『応灯関』と呼び、修行を重んじる禅宗の教義を受け継いでいる。

ただ少し気になるのは権力との結び付き。 崇福寺にしろ大徳寺や妙心寺にしろ、天皇、幕府、有力武将の庇護と寄進を得て寺院の安定を保ち且つ寺勢の強大化につなげてきた。 これにはちょっと眉根を寄せざるを得ない。
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個々に修行する禅僧は別にして宗派という集まりになれば変わらざるを得ない面もあるのかもしれないが、本来座禅という修行を通して個人の本性を見得して悟りを得るという臨済禅のあり方からすれば・・・

これは崇福寺の案内と直接的に関わることでもないのでこの辺で終わりにしておこう。

門外漢の雀の千声程度にしてもらいたい。 御免
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上は方丈の前にある唐門。

この唐門も移築されたもので、元々は名島城にあったものである。

名島城跡については以前にも書いているが、城は1500年代の中頃に立花山城主・立花鑑載が築いた出城で当時は大友氏の領地であった。

豊後の大友氏と薩摩の島津氏の争いに、九州平定を考えていた豊臣秀吉が島津征討の後、小早川隆景を筑前国主に任じ、隆景が名島城を海城として大改修を行った。

その後、関ヶ原の戦を経て筑前に領地を得た黒田長政が豊前・中津城から名島城に移ったが城地が狭いことから福岡に城と町を築いた。 その際に名島城の門を崇福寺に移設したのである。

崇福寺の(2)に続く


at 15:40|Permalink
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