January 2010

January 31, 2010

タイの遺跡を訪ねる (12) 落穂拾い

祠堂の出入り口や聖域へ入るための山門の床石、或いはナーガ・ブリッジのプラットフォームなどに8枚の花弁を有する蓮の花が彫られていることについて先に書いた。

下はパノム・ルン遺跡の聖域中心の高塔の出入り口に据えられていた石の写真である。
b5bcd1c4.jpg

石の上面に蓮の花が彫られ、側面(西向き)にナーガに乗るヴァルナが彫られている。

ガイドブックには『God of the West, Varuna on Naga』と書いてあったので西方を守護する神・ヴァルナ(仏教では水天)を彫った石を西門にすえたのだろうが、この石がどのように扱われていたのかは分からない。

また、ヴァルナの乗り物は水鳥(白鳥やガンなど)なのに何故ナーガなのか。これは多分ナーガが守り神としての役割を果たしていると考えれば良いとは思うのだが・・・。

下はピマーイ博物館からも程近いサイ・ンガーム公園のベンガル菩提樹。
c1b73d83.jpg

『バンヤン』、或いは『バンヤンの樹』と呼ばれているもので、1本の木株が枝を広げ、その枝を支えるために「支柱根」が出る。そこから更に枝が広がってというように卵型の葉っぱを密生させて、まるで森のような状態になる。

上の写真はベンガル菩提樹の“森”の中の極々一部であるが、この広大なベンガル菩提樹の元々の木株がどれなのかは全く分からないと言う。

熱帯や亜熱帯地域の河口や潮間帯に気根を下して枝を広げるマングローブと同じような樹相で、木枝の下は「昼ナオ暗シ」という状態であるが、写真は明るさを強調したものであり、葉っぱの緑が飛んでしまっているほどに暗かった。

そんなベンガル菩提樹が広がるサイ・ンガーム公園での夕景を撮ってみた。
4c06c1ab.jpg

特段、南の国をイメージさせるものは無いが、日没を前に落ち着いた気分にさせてくれた光景であり、私が気に入っている写真である。

サイ・ンガーム公園の入口では小魚や小鳥を売っている露天が出ていた。

小鳥は小さな竹篭状のものに入れられ、小魚たちはビニルの袋に数匹ずつ入れられていたが、タイ人の大人や子ども達がそれらを買い、水辺に下りて願い事をして放してやるのである。

以前、博多・箱崎宮の放生会(ほうじょうや)を紹介したが、日本の寺社では“生き物の命を慈しみ”仏法でも“殺生を禁ずる”ということが大切なこととされ、古来人々の間で放生会(ほうじょうえ)という行事としても受け継がれてきた。

9割を超える国民が仏教徒であるタイでは、こうした生き物の放生は日常のことなのかもしれない。

が、日常、人の生命ですら軽んじられる事件を見聞きしている日本からの旅人の私にとって、水辺に下りて小さな生き物を放してやっているタイ人の姿には何だかほのぼのとした温かいものを感じ取ったのである。

『微笑みの国・タイ』は、タイ人の微笑みだけでなく、訪れた私も微笑むことのできるものであった。

くどいようだが、夕景の写真は、こうした心象のもとに生まれたものなのである。
01fcea12.jpg

上はピマーイの町で見かけた象である。

もう説明は加えない。

この写真を見た人が見たままに感じ想像してくれればと思う。

下はナコーンラチャシーマ(コラート)の旧市街の中心に立つタオ・スラナリーの立像である。
1fa3db00.jpg

タオ・スラナリーについては『タイの遺跡を訪ねる(3)ワット・サーラーロイ[2010年01月19日(火)]』で紹介しているのでここでの説明は省くことにする。

タイのジャンヌ・ダルクと称される彼女に対するタイの人々の崇敬は厚く、年中変わることなくお参りに訪れる人が絶えないそうだ。

8b6fc421.jpg

剣を持って立つモー夫人は男と見紛うほどに勇ましい。

2つの道路に挟まれた一画にタオ・スラナリー像が立っているのだが、この長い一画は下の写真のような公園になっている。

3f5ae135.jpg

タイ語が分からないので間違っているかもしれないが、この群像は多分タオ・スラナリーが町の女たちと共にビエンチャン王国の兵士達に酒を与えて持て成した後、彼らの武器を奪ってタイの兵士たちと共にビエンチャンの軍隊を滅した史実を表現したものであろう。
2056449e.jpg

勇壮さを感じさせる彫像作品であるが、タイという国に対して抱いている私のイメージには合わないものであった。


以上、落穂拾いのように集めてみた。


at 05:41|Permalink

January 30, 2010

タイの遺跡を訪ねる (11) ピマーイ国立博物館 

ムアン・タム遺跡公園を出ると直ぐのところに広い貯水池がある。

このような貯水池のことをタイではバライ(Baray)と呼ぶらしいが、貯水容量は相当なものであると思えた。
9258ef00.jpg

灌漑のために作られたというこのバライはムアン・タム湖と呼ばれるくらいに広いもので、当時の支配者の権力が如何様なものであったかということと共に支配者たる者が具えるべき必須条件に灌漑用水の確保が重要なことであったということが充分に想像できる。

下はムアン・タム遺跡からそう遠くない所にあるピマーイ国立博物館の建物と池である。

2bc20286.jpg

この池も灌漑用に作られたものだと聞いた。

博物館にはピマーイ遺跡、パノム・ルン遺跡、ムアン・タム遺跡よりの発掘品のほか、近隣の遺跡より発掘・発見された歴史的文化財が多く収蔵・展示されていたが、館内は写真撮影が禁じられていたためカメラによる記録物は無い。

ただ収蔵庫の容量にも限界があるのか、破風やリンテルなどの大きい物の一部が館外で保管されており、それらの一部を撮影してきたので紹介してみることにする。

下の破風が原物であり、ムアン・タム遺跡公園入口付近にあったものがレプリカである。

e1ee9fe4.jpg

元々は中央祠堂の破風としてあったもので、彫刻は象に乗っているところから多分インドラ神、象はアイラーヴァタであろうと思う。

ちなみにナーガは5匹である。

下のリンテルはよく分からない。

1496758d.jpg

瞑想する人々と水鳥であろうか。

どことなく仏教的な彫り物に見えるのだが・・・

下のリンテルは下部に獅子らしいものが2頭いて、その上にいる者には羽のようなものが付いているのでガルーダかもしれない。

ガルーダであるとすれば、それに乗っている上のものはヴィシュヌ神になる。

32d2a6c2.jpg

ヴィシュヌ神は4本の腕を持ち、武器である棍棒と輪宝、法螺貝に蓮華をそれぞれの手に持っているので彫像は不完全ではあるがヴィシュヌ神に間違いないように思える。

下の写真は説明版からムアン・タム遺跡で発見された10世紀に制作されたリンテルである。

7131cf2a.jpg

シヴァ神と妃・パールヴァティで、下のケッタイな顔はカーラである。

下の写真のリンテルは多分ガルーダに乗るヴィシュヌ神であると思う。

05e08672.jpg

ガルーダに羽は見えないけれど両手に蛇を捕まえているし、乗っているのは明瞭ではないが4本の腕と、それぞれに何か持っているように見えるので武器である棍棒と輪宝、法螺貝に蓮華なのであろうと思う。

下のリンテルは説明版もはっきりしているのでよく分かる。

179d102e.jpg

これはヴィシュヌ神が化身してクリシュナに具現化したものである。

ヴィシュヌ神はヒンドゥー神話の中で様々に変身するが、最初の人間マヌを大洪水から救った巨大魚のマツヤ、不死薬をもたらした亀のクールマ、その他に猪になったり獅子になったりと10の化身として有名であるが、その中にはインドの大叙事詩ラーマーヤナの主人公・ラーマであったり、英雄のクリシュナもその化身のひとつなのである。

ヴィシュヌ神はヒンドゥー教3主要神のひとつで、「道徳が衰微し、不道徳が栄えるたびに私は化身する」と言い、常に善が悪に勝る世界を守護する働きをするという神であり、誠にご立派なお方である。

が、サラスヴァティーとラクシュミーという二人の絶世の美女を奥さんにしている。

サラスヴァティーというのは日本では弁天さん、弁財天のことで、ラクシュミーというのは吉祥天女のことである。

更に、ヴィシュヌ神は化身した姿ごとに奥さんがおり、クリシュナにはルクミニーという奥さんがいる。

『これはいったいどういうこっちゃねん。』

ヒンドゥー教3主要神はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つであるが、いずれも男性神であり女性神の位置付けと、その発展は・・・。

インドの宗教史、精神史を辿るとなかなかオモロイものがある。






at 13:40|Permalink

タイの遺跡を訪ねる (10) ムアン・タム遺跡 【?】  

聖域である中央塔が建ち並ぶ中へ入ってみると、それぞれの塔が宗教儀式の祠堂としての役割を果たしていたようである。

出入り口はあるのだが、内部でどのような儀式が行われていたのか推測できるような遺物は無かった。

b9d4ddbb.jpg

下は前ページ、神殿平面図の中西門(内陣側から見た)であるが、屋根を構成する石組みは残っているが屋根そのものは既に無い。

大きい石枠の窓が並んでいることで内陣を回廊(ギャラリー)が囲んでいることが分かる。

以前にも書いたが、回廊の内部は通路になっており、その幅は目測であるが1m程度、もう少しあっても2mはない程度の幅の廊下が続いている。
76aafb57.jpg

建物の破風やリンテルには細かな彫刻が遺されている。

風雨にさらされてはいるが保存が極端に悪いわけではなく、建物などの所々に周囲の石材とは明らかに色の異なるものが据えられており、保存のための修理が行われたことが分かる。

下の祠堂の場合はリンテルを支えるための左右の柱のうち、左側は欠落し、右の柱の上部の白い部分は補足したものであろう。

1db19474.jpg

上のリンテルはカーラに乗った神かと思っていたのだが、カタログには『Human seated Kola』と書かれていた。

多分、『Kola』は『Kala』の間違いだと思うのだが私には分からない。

下の写真は『Varuna on Hamsa』とカタログの註。

ハンサに乗るヴァルナ神ということだが、ハンサはヴァルナ神の乗り物で白鳥やガンのような水鳥のこと。
1c478c53.jpg

ヴァルナ神は天空の司法神と言われているが、仏教に混じってからは西の方角を守護する水の神とされている。

下のリンテルは『Shiva and Uma on Nandin』。

c304f625.jpg

聖牛ナンディンに乗るシヴァ神と妃・ウマである。

いずれのリンテルも妙な顔をしたカーラ(Kala)の上部に彫られているが、カーラというのは大変に貪欲、食欲旺盛であり、とうとう自分の手足や体まで食い尽くして顔だけになったと言われる怪物で祠堂を守る鬼神とされているケッタイな奴である。

カーラには時間という意味もあり、後に死神とも言われ地獄の主神・閻魔であるとされている。

と言うことなので「ケッタイな奴」という表現は取り消しにしておく。

下の写真は聖域の中心である内陣の四方に掘られたL字形の池から内陣を眺めたものである。
76f10bb7.jpg

池の欄干はナーガの体で構成されている。

このナーガは3匹で頭が3つ見えているが、5匹のところもあったし、7匹の場合もあった。いずれも奇数であり1匹の頭が開いた扇のテッペンになるように組まれているが、なぜ奇数になっているのか疑問に思ったが尋ねずに帰ってきてしまった。

これはちょっと残念なこと。
d113f670.jpg

池の周辺を撮影してみたが、もっとゆっくり時間を取っても良いと思ったムアン・タム遺跡であった。
785f547f.jpg

池を四方に掘って水を貯めているのは美的な意味を持たせていたこともあっただろうし、何らかの宗教的儀式に水が必要であったということもあるだろうが、やはり1年のうち半分までが乾季であるという乾燥気候の土地にあって農耕に必要な水を確保することは、その土地を支配する上での第一番の必須条件であったことによるのであろう。

at 11:23|Permalink

January 29, 2010

タイの遺跡を訪ねる (9) ムアン・タム遺跡 【?】  

山上にあるパノム・ルン遺跡から10数分ばかり下った所にある駐車場にバスを入れて、私たちはムアン・タム遺跡公園の見学に向かった。

パノム・ルンというのは、『大きい山』という意味であると先に書いたが、ムアン・タムというのは『下町』という意味であり元々の名前ではないらしい。先に書いたガイドブックによれば山の上のパノム・ルンと対称的に平地に建てられたことから現地の人々によって、そう呼ばれてきたのであろうとしている。

また、現地ガイドによれば、パノム・ルンは王族や貴族が参詣する場所であり、ムアン・タムは中央祠堂(Central Tower)のある内陣を除いて階級の低い者たちが参詣していた所ではないかと語っていた。

ともあれ、この遺跡公園の名称は下の写真の通りPRASAT NUANG TAM(ムアン・タム神殿)となっているようにパノム・ルン遺跡公園全体の一部分を担っているということになるのだが、広い地域を大変よく整備していると感心させられた。
94a5d332.jpg

公園の入口近くには案内所が設けられ、公園に入ると直ぐに破風(切り妻)とリンテルのレプリカが置かれている。

下は破風(切り妻)のレプリカであるが原物は国立ピマーイ博物館に展示してある。(後に紹介)

7f70e99d.jpg

木々の葉が茂る公園の道をしばらく進んで行くと、やがて右手にムアン・タム神殿の遺跡が見えてくる。
baff8311.jpg

タイ人男性が1人歩いているのが写真に見えているが、この人物をスケールとして見れば石造建築物がいかに大きいものであるか想像できることと思う。

下の写真はムアン・タム神殿遺跡の正面玄関、つまり外壁の東山門になる。

aa1521aa.jpg

上の写真でも想像できるが、建物の基壇や壁は石造物で構造が残っているが、屋根の部分が無い。

ガイドブックによれば、遺跡調査の段階で木材を組むために削った石は発見しているが、瓦や砂岩、レンガなどの屋根を作るための他の材料が発見されていないので、屋根は木材によって作られていたのであろうとしている。

下の図(ガイドブックより転写)がムアン・タム神殿の平面図であり、上の写真は右手のOuter eastern gopuraの右側(壁の外側)から撮影したものである。

ab1d4519.jpg

ムアン・タム神殿の外壁は幅120m、長さ127mであり、かなり広いものである。

砂岩に細かな彫刻が施された破風とリンテルで飾られた山門(gopura)を入ろうとするところで撮影した写真が下のものだが、現在は屋根が無いために明るい。

多分、当時は窓枠から陽が差し込んでいたのであろうと思いを巡らせながら神殿遺跡へ入って行った。

aeb6883c.jpg

上の写真で中央の床に柵をしてあるのは、8弁の蓮の花を彫ってある部分を保護しているのである。

パノム・ルン遺跡にも同様のものがあったが、ヒンドゥーによる宇宙観での8つの方位を表わしているとか善事を表わしているとか、意味合いははっきりしていないようだ。

しかし、ここでは通路の真ん中にあり、パノム・ルン遺跡でも第一段階のプラットフォームの真ん中に彫ってあった。それにパノム・ルン遺跡の中心祠堂の出入り口には象に乗るインドゥラやナーガに乗るヴァルーナ、シンハに乗るクベラなどを彫った立方体の石の上部に8弁の蓮の花が彫ってあったことから、私は方位を表わすというよりも、足や手で蓮の花に触れることで潔斎というか禊(みそぎ)といったことを行っていたのではないかと想像した。

ともかく先へ進んでみよう。

回廊(ギャラリー)を有する内陣壁の玄関が見えてきた。
bbf5aa55.jpg

この山門と前に見える玄関の間の左右にL字型の池がある。

下の写真の池は正面玄関に向って右側のものだが、その周囲は石造のナーガの長い体が欄干になって囲っている。
23417c48.jpg

ナーガは砂岩であるが、ここでも参道はラテライトが敷き詰められている。

聖域である内陣へ入ると4つの塔のある遺跡を望める。
ed03885a.jpg

写真のように4つの塔が塔上部を破損しながらも残っているのだが、手前は基壇の一部を残して上部(同様の塔が建っていた)は完全に壊れている。

これらの建物は11世紀に建てられたものであると、11th century A.D.と英語で紹介されていたが、同時に仏暦16世紀という表記もあった。

タイでは西暦だけでなく仏暦をもよく使う。

西暦というのは良く知られている通りキリストが生まれたとされる年を紀元元年としているが、仏暦というのは釈尊が入滅した年を基にして数えるもので当然双方の数字にはズレがある。

このズレを補正するには、西暦に換算する場合は仏暦から543を引けば良いし、逆に西暦から仏暦を求める場合には西暦に543を加えれば良いと簡単なようだがなれるまではヤヤコシイ。

ケチをつけるつもりはないが、釈尊入滅を紀元前543年とした場合の仏暦であって、釈尊入滅の年は定かではなく前483年頃とか前383年頃などの説もある。キリスト生誕年を基にした西暦も、キリストの誕生年は曖昧であり、年号の紀元元年を釈尊やキリストの没年・誕生年と歴史的事実と受け止めてはいけない。

日本でも『♪皇紀2600年』という歌詞を含む歌が戦前に歌われていたそうだが、神話というフィクションの世界における神武紀元があたかも歴史的事実であるかのような誤解を生じさせる紀年法は頂けない。



at 15:51|Permalink

January 28, 2010

タイの遺跡を訪ねる (8) パノム・ルン遺跡 【?】 

聖域である天上界の中心の塔である。

前のページで書いたように、パノム・ルンは須弥山を中心に展開されているヒンドゥー教の宇宙観によってシヴァ神が住むヒマラヤのカイラス山に見立てて建てられたものであり、この聖域な場が天界を示し、地上界との接点とも言える場所とも考えられていたのである。

そのために天上界と地上界を結ぶ長い参道と、地上界の悪や穢れを祓うために第一ステップとしてのナガラ・ブリッジ、更に第二ステップのナガラ・ブリッジを設けて聖なる天上界への道としたのではないかと私は思った。
6c01052e.jpg

上は内陣の中心となる祠堂と高塔である。

高塔の入口部分には彫刻された衛兵が立っている。
7433578e.jpg

中央の祠堂の中にはシヴァ神の表象である石造のリンガが立っている。
9b286a3f.jpg

リンガというのは男根像を指すが、ピマーイ遺跡の項でも書いたように日本の金精様の像(青森・岩手・秋田で見た石や木を男根に似せて彫ったもの)とは異なる。

下はリンガの直ぐ横に掘られた穴であり女陰を思わせる。
8b5ce5c1.jpg

この四角い穴から塔の外部に向かって穿孔があり、塔の外部に聖水が流れ出るような説明があったが詳しくは分からない。

シヴァ神は破壊と再生の神であることから類推すれば、この場で水を用いた何らかの儀式が行われ、その水が女陰に似せた四角い穴より穿孔を伝って高塔の外に流れ出る、そのことによって再生を意味していると考えられていたのかもしれない。

また、祠堂内にはシヴァ神の乗り物である聖牛・ナンディンの腹ばいになってリンガの立つ部屋をじっと見詰めている像もあった。

このパノム・ルンの建物全体が、全てヒンドゥー教の宗教遺跡であることがあらゆる面で分かるのである。

中央の祠堂の破風(gable・切り妻)や、まぐさ石(lintel・横石)など、あらゆる場所にヒンドゥー教に関わる彫りものが施されていることからも分かる。
b4d41c35.jpg

上は、その中央祠堂の入口であり、破風を拡大したのが下の写真である。
3ae8ef9a.jpg

『踊るシヴァ神・Dancing Shiva』(上)である。

下は、『横たわるヴィシュヌ神・Reclining Vishnu』である。

ヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神は創造神であり、ヴィシュヌ神が横たわっている蛇は体が長く、顔は龍のような狼のような・・・見たこともないような姿形であることから、アナンタ(無限者)と呼ばれる、まだ形を与えられていない原初の蛇であろうと推測する。
30e25dbd.jpg

このまぐさ石(lintel・横石)の彫刻はタイ人が全く偶然にアメリカ・シカゴ(だったと思うが)の博物館で発見し、そのことが起因となって返還交渉が行われ、それがやがて国民的運動にまで発展して返還されたというものである。

返還という望ましい行為の裏にタイ・アメリカ合衆国間の政治・軍事関係があったことは想像に難くない。とりわけアメリカ側にはベトナムへの侵略戦争の基地としてナコンラチャシーマ(コラート)などで基地提供を受けていたこともあるし、経緯がどうであったにせよ現実にタイの歴史文化財の一部が盗られてアメリカで展示されていたのだから返還はむしろ当然のことでもあったわけだ。

下は『ラーヴァナがシータを捕える・Ravana capturing Sita』場面を彫ったものである。

馬車に乗っているのがラーヴァナであり20本の腕が見える。
ad6e1041.jpg

ヒンドゥー教のラーマーヤナはダシャラタ王の長男・ラーマ王子(主人公)を語る大叙事詩であり、ラーヴァナは10の頭と20本の腕を持つランカー王国の悪魔王、シータはジャナカ王の娘でラーマ王子の妃である。

これら破風(切り妻)やリンテルは極々一部の例であり、シヴァ神は勿論、ヒンドゥー教に関わる重要な神々の彫り物が随所に見られるのである。

ところで遺跡が完全な形で残っていることは少ない。

自然災害により水没、埋没、破壊といったことのほか、時の権力の衰退、滅亡、支配の支柱となっていたことの転換による放棄など様々な理由が考えられるが、そうしたことなどのほかに盗掘といった類いのことまであり、歴史的文化財が遺跡の場所から盗み去られることも多い。

世界的なレベルで言えばイギリスやドイツなどは盗掘の首領格である。などと言えばイギリスやドイツの人たちは頭から湯気を立てるほどに怒るかもしれないが、大英博物館にしろドイツの博物館島にしろ、収蔵されている考古学的史料は他国において発掘して持ち帰った物が相当部分を占めていることを彼らは知っているはずである。

勿論、彼らのための弁明として、発掘、保存、管理といったことが真っ当に出来ないという環境条件にあった時代、地域であったために、その研究を目的とした行為であったという理由は成り立つ。が、現代においても同じ理由が当てはまるかと言えば、世界の多くの人々の答えはNOであろう。
bda414ce.jpg

上はパノム・ルン遺跡からの景色であり、平原の遥かかなたまで望める。

先の歴史的文化財の盗掘であるが、今回のタイの遺跡巡りでも外国人が絡むことが随分多くあったのだという確信めいたものを感じた。

松本清張の『熱い絹』だったかな?ジム・トンプソン失踪について書いてあったのは。

ジム・トンプソンという名前を聞けば多くの人はタイ・シルクを思い浮かべるものと想像するし、現にタイ・シルクの最高級ブランドとして世界中に知られ、タイ土産としては価値の高い値段も当然高い品物である。私は買わないし買えないが・・・。

タイ・シルクの良さを世界に知らしめた実業家である彼(James Harrison Wilson Thompson)に盗掘という言葉を用いるのは適当でないが、彼のタイでの足跡やクメール文化、仏教文化などに関わる知識と蒐集の実績などを併わせ考えると、直接盗掘してなくとも盗掘とそれに関わる売買に絡んでいたのではないだろうかと・・・

下種の勘繰りと言われても仕方がないが、彼がCIAの諜報員であったという事実と彼の失踪という不思議な出来事を併せ考えて思い浮かべてしまったことなのだが真実のところは誰にも分からない。

大平原の素晴らしい景色を眺めながら突飛なことを考えていたものである。




at 17:23|Permalink
記事検索
月別アーカイブ