February 2010

February 07, 2010

ブログの引越し---------状況は?

ただ今ブログの引越し最中である。

これまではドリコム・ブログのページを拝借してきた。
しかし、ドリコムが会社をライブドアに譲渡したということで、我がブログページを引越しせねばならぬこととなった。

無料で借りていたものを、また無料で貸していただけるわけだから大変に有難いことではある。
引越しについても、5、6年分を短時間で移動(コピー&ペースト)してくれるのだから大いに感謝しなければならないとは思っている。

家の引越しでも同じことだが、住居が替われば間取りも変わり、慣れるまでは戸惑うのが当然ではある。
プロパンガスが都市ガスに変わる程度のことではあるが、新しい住民にとっては旧住民が当然と思っていることさえ戸惑うものなのである。
既に引越し荷物の置き忘れも明らかになっているので、忘れている荷物を取りに元の住居まで何度か戻らねばならない。

ブログについても原稿を書いて、この原稿の文字がどのように表示されるのか、ここから試していかねばならない。

確かめつつ、慣れつつ、
徐々に進めて行くしかない。

さて、ライブドアブログでの第一回目のテスト送信を行ってみよう。



masatukamoto at 11:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

February 06, 2010

タイの遺跡を訪ねる (17) ピサヌロークへ移動

ウドーン・ターニー周辺の遺跡巡りを終えて、最も訪れたかったスコータイ遺跡を見学するためにピサヌロークを目指して移動した。

ピサヌロークは地図上においてバンコクとタイ最北部の都市チェンライのほぼ中間に位置し、バンコクから飛行機でほぼ1時間の距離にある。

ウドーン・ターニーからだと直線距離にして西へ300km、鉄道で結ばれてはいないので移動はもっぱら自動車となる。

下はルーイに近い丘陵地を走行している時に見た景色であるが、明らかに石灰岩質と思える小山がコブのように幾つも盛り上がっていた。
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おそらく何万、何十万年前、この辺りは水の底であったのだろう。

いつだったか最近テレビでタイでもブドウの栽培を行ってワイン醸造を始め、それが軌道に乗り随分美味しいものを送り出しているということを聞いた。

気候、とりわけ気温のことが気になっていたのだが、土壌が石灰岩質ならばブドウを栽培する上での大きい条件のひとつはクリヤーしているのだなあと車窓の景色を眺めながら思っていた。

ラオス国境に近いルーイの町を過ぎてからは山越えの道路を走ることになる。

随分と乗り応えのあるバス・ツアーとなったが、個人で行う手配旅行ならばこれほど時間的に段取りよく希望する箇所を巡るなんてことはできない。

今回の旅行ならレンタカーを借りてという設定になるが、知らない土地でタイ語表示の道路を迷わず目的地まで走るということは至難であり、尚且つ運転していたならば酒は飲めないし疲労はたまる。ツアー参加のメリット、デメリットは5分5分。時に応じて取捨選択するのが最も良い方法である。

ともあれ、かなり遅くなってからであるがピサヌロークの町に入り、タイで最も美しい仏像が安置されているというワット・プラ・シー・ラタナ・マハタート(WAT PHRA SI RATTANA MAHATHAT)を見学した。
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寺院中央の塔は、これまで見てきたような蓮の花のつぼみを模したクメール風なのに、そこへタイの寺と直ぐに連想できる屋根があったり、セイロンやビルマに見ることができるような仏塔(仏舎利塔かも)があったりと、何やら思いがこんがらがってしまいそうであった。
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ガイドさんの話ではピサヌロークというのは随分古い町であって、ヴィシュヌ神が住む町という意味になるのだそうな。

ヴィシュヌ神というのはヒンドゥー教の三主要神のひとつであるから、インドからヒンドゥー教が伝わってきた相当古い時代から開けていた町なのであろう。

この寺は1357年に建立されたとかスコタイ王朝後期に建立されたとか、礼拝堂はアユタヤ王朝になって造られたとかガイドブックの記載がまちまちでイマイチはっきりしないままになっている。

ともあれ下がタイで最も美しいと言われている仏像である。
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ガイドさんが、黒い漆(だったと思うが)をバックに金色の仏様が浮かび上がったように見えるのは本当に素晴らしいと何度も繰り返し語っていたが、照明を受けて照り輝く姿は私も素晴らしいと思った。

勿論、像としての話だが・・・

この寺院の各所にいろいろな仏像が安置してあったので併せて紹介しておこう。
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ワット・プラ・シー・ラタナ・マハタートはピサヌロークの町を流れるナーン川に架かるナレースエン橋のたもとに位置し、道路を隔ててワット・ラチャブラナや隣にはワット・ナンパヤといった寺院が集まっている。
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上は象さんが守っているナレースエン橋。

日暮れ時になり帰宅する人たちのオートバイが集団で走って来るが、先頭にはトゥクトゥクが頑張って走っている。

私には懐かしいダイハツのミゼットMPである(多分)。

ダイハツより少し遅れて同じような形のマツダK360というのもあったのだが、はてさてどちらなのか・・・

それにしても珍しく懐かしい車が走っているとは・・・何とも嬉しい気分であった。

これもちょっと珍しいと。
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タイ南部ではイスラム教の信徒が結構いるのでモスクもあり、朝に夕にコーランを読み上げる声が大きく聞こえたのだが、中部、北部では仏教徒が圧倒的に多いと思っていたのでタマネギの屋根が珍しく思えたのである。

タイでは仏教徒が9割以上を占めるので仏教が国教であるかのような感じがするが、憲法上は信教の自由が認められているのである。

ただし、他宗を非難・批判するような抗争・好戦的な極端な布教活動をしたり、寄付活動に主眼を置くとか、社会秩序を乱すなど社会道徳にもとる活動などを行う宗教については認めないようで、キリスト教系と言われている統一教会(原理運動・世界基督教統一神霊協会)やオーム真理教などは認めていなかったように思う。


at 13:47|Permalink

タイの遺跡を訪ねる (16) プー・プラバート歴史公園

ウドンターニーから車で1時間ばかり北西に走った丘陵地帯にプー・プラバート歴史公園(Phu Phrabat Historical Park)がある。

このあたり一帯はプーパン(Phupan)山系に連なる海抜320~350mの丘陵で国有森林地帯であり、今から100万年前の氷河期には厚い氷の層で覆われていた。

それが長い氷河期の後、分厚く重い氷河が徐々に溶けて流れ始めて地表面を擦って削っていった(氷河による浸食)。

同時に氷河の流れは大小さまざまな岩石を押し流し(氷河による運搬)、流れる力が弱まったところでは、それらの岩石を残して(氷河による堆積)どんどん融解していった。

こうした地球の自然環境の変化によって生み出された奇岩怪石の造形がプーパン山系に連なる丘陵一帯で見る事ができる。
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写真に見られる奇岩も氷河の作用の結果としての自然造形である。

氷河が運搬してきた巨大な岩石を、氷河に流しきれない何らかの状況が生じたために巨石が留まり、その間に(と言っても多分何千年単位で)氷河の融解が進んで厚みが徐々に減っていった氷河は下部へ下部へと浸食を続け、長い長い年月の間に運搬してきた巨石を残したままに地表面を浸食し、その結果、写真のような造形が生み出されてきた。
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(奇岩のまわりに立っている石標のようなものは後の時代に立てられたもの。)

やがて3000~2500年前、このあたりにも狩猟生活を営む人々が姿を現わすようになり、奇岩の下は雨宿りや寝床の場所ともなったのであろう。

そうした人々の中には地表に転がる赤褐色の柔らかな小石をつぶして下の写真のような絵を描く者が現れた。
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赤褐色の柔らかな小石というのは粘土状のもので、多分酸化鉄を多く含むものであろうと思われるが、私も米粒大のものを発見することができたので彼らにしても絵の具の材料は容易に手に入れることができたのだと思う。
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壁画として世界的に有名なのはフランス・ラスコー洞窟の壁画、スペインのアルタミラ洞窟の壁画があり、いずれも18000年~10000年前の旧石器時代後期に描かれたもので資料を見るかぎりなかなか立派なものである。

それらに比べれば、年代的に随分新しいわりに素描が稚拙で顔料も単一で優位性は認められないが、牛や人の絵に彩色したり幾何学模様の線刻をしたりと、当時の人たちの様子を思い浮かべることができ、これはこれで面白いものであった。
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そして西暦900年の頃よりヒンドゥー教や仏教が広まるにつれ、このあたりを聖地として修行する者たちが訪れるようになっていった。
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上の写真はプー・プラバート歴史公園の専門ガイドが説明してくれているのだが、屋根のようになっている奇岩の下で修行が行われていたそうで、各所に修行の台座にしていたような所が残っていた。

また、初めの2枚の写真に写っていたような石標のようなものを四方或いは八方(方角)に立て、それを結界として聖地と定めていたらしい。
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奇岩の下部には石仏を安置していたと考えられる所も多く、安置されていた石仏の一部を残している所もあったが、その殆どが破壊されており、仏頭は持ち去られたらしい。

持ち去られた石仏や仏頭のほとんどは国外へ持ち出され、古美術品として収蔵されていたりインテリアやエクステリアとして装飾品として用いられているらしい。
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上の写真は奇岩を支えていた岩石が風化により倒れ、そのため下部にあった石仏が破壊されたらしいのだが、右手の立像も含めて被害に遭わなかったはずの頭部が無くなっている。

そのような中で唯一下の写真の石仏だけが残っていた。
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実際には他にもあるのかもしれないが、私が歩いたコースの中では唯一という意味である。

仏教信仰に熱心なタイの人々は仏像(仏頭も含め)に対しても崇敬の念が深く、仏像が飾り物に用いられることを極端なまでに嫌う。

だから仏像などは例え土産物の彫刻品であっても空港税関で影が確認されると厳重な検査を受けることにもなる。が、これは自国の文化財を守るという観点からは止むを得ない措置であろう。


at 05:00|Permalink

February 05, 2010

タイの遺跡を訪ねる (15) バン・チアン遺跡

ウドンーターニのホテルから東の方へ車で約1時間ほどの距離の所にバン・チアン国立博物館がある。

バン・チアン一帯はなだらかな丘陵が広がる土地で、このあたりの発掘調査によって先史時代の人骨や土器などが発見され、バン・チアン遺跡として世界遺産に登録されている。

バン・チアン遺跡一帯では随分昔より素焼きの土器が地表に露出しており、それらを村人たちが容器として活用していたらしいが、1960年、地元の学校の教員たちが古代の遺物ではないかと収集を始め学校に保存していったらしい。

これが起因となって発掘調査が始まり、1990年代に入って米国・ペンシルベニア大学の調査で当初紀元前5000年~4000年頃の遺跡ではないかと考えられたが、その後の炭素14年代測定法により紀元前3000年~2000年以降の遺跡(奈良大学測定)であることが確認されるに至った。
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上はバン・チアン国立博物館であり、館内にはバン・チアンの発掘現場で発見された遺物などのほか、近隣の地域で発掘された遺物なども併せて保存・展示し、メコン川流域の古代の人々のくらしが分かるように公開している。

下の写真は当地での発掘現場であり、人骨や土器類などが発見された様子が分かるようになっている。
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写真でも分かるように遺物が全て同一面にあったわけでなく、埋もれていた深さが異なることから年代の相違が推測できる。

写真の人骨よりも更に下の層から土器(片)が発見されていることから、当然この人骨よりも古い時代に土器を製作して用いていた人類が生活していたことも予想できる。

博物館の担当の女性に問うたところ、最下層が5m深であると言っていたが、こうした発掘調査はバン・チアンの一帯各地で行われ現場は一様ではない。
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バン・チアン遺跡の特異さのひとつは土器の模様にある。

発掘時の写真でも土器模様の一部が確認できるが、ぐるぐる渦を巻くような文様で他に例を見ないものである。
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下はバン・チアン国立博物館のカタログであるが、表紙に用いられている彩色陶器は高さ39cm胴回り23.5cmで紀元前300年から西暦200年の頃に製作されたものであろうと推定されている。

バン・チアンの陶器製作の年代は前期・紀元前3600~1000、中期・紀元前1000~300、後期・紀元前300~西暦200と分類されているので、下の写真の陶器は後期のものとなる。
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タイ北東部のメコン川流域の先史時代は、考古学的資料から?-12000年から5600年くらい前の狩猟生活を主とする時代、?-5600年から5000年くらい前の初期農耕を行う小さなムラが発生しはじめた時代、?-1600年から1500年くらい前の有力な支配者が現れはじめた初期集落の時代と、大きく3つに分けて考えることができるとしている。

博物館の展示やカタログによれば、メコン川流域に生活していた人々は4500~4000年前には青銅器を用い、3000~2500年前頃には鉄製器具を用いて水牛を家畜化し、人口も増えてきていたとし、やがて鉄製道具を使用しはじめた力のある者が集落を支配するようになっていったと記している。

下はカタログよりの引用であるが、人骨が発掘された折の写真である。
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これの説明がなかった(あるのかもしれないがタイ語で分からない)と思うのだが、写真を見る限り、人骨の並び方、陶器の発掘位置などから、これらの人骨は埋葬されたもの、つまり墓地であることが想像できる。

また、それぞれの発掘された深さの違いから異なった時期に埋葬されたことも想像できるし、バン・チアン文様の土器が共に発掘されていることから、当時の人々がこうした陶器を用いた生活を行なっていたことも、更に当時の人々の埋葬儀式について考える上でのヒントも与えてくれている。

1974~75年の発掘調査では130件(幼児・子ども・成人男女)を調べたらしいが、成人男性の身長は165~175cm、成人女性は150~157cmであり、額は広く頬骨が突き出て、長い足で健康で強健な身体的特徴を示していたらしい。

平均的な寿命は34~27歳で、長生きしても46歳と若くして亡くなっていたが、一般的には平穏な生活を営んでいたらしい。

しかし、少数だが骨に外傷のみられる者もいたとか。やはり争いはあったのであろう。
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バン・チアンに最初に人々が現れたのは紀元前3500年頃のことであり、彼らは狩猟を主として生活していたが、やがて定住するようになって壷などの土器を製作するようになった。

上の写真は遺跡から発見された水牛の角、豚の頭蓋骨、鹿の角、犬の骨だが、彼らがこれらの動物を家畜化し、稲作を行っていたことも明らかになっていることから、これらの遺物は彼らが土器を作って定住生活を営んでいたことの証左ともなる。
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上は博物館のパンフレットの一部を転写したものだが、青銅器や鉄器の道具や飾り物など、博物館に展示してある遺物の一部を紹介している。

バン・チアンに最初に人々が現れたのは紀元前3500年頃のことであると先に書いたが、この時代を日本に当てはめてみると縄文時代後期にあたり、日本でも狩猟漁労の生活形態であった。

日本での稲作が現在紀元前1000年頃とされているし、青銅器や鉄器の使用はもっと後の時代になるので、文化的発達を歴史時間的にみれば日本よりも随分早くメコン川流域で進んでいたと言える。

私達の年代は世界四大文明のひとつに黄河文明を挙げてきたが、ここ数十年の間に研究は進み、中国では黄河流域以外でも多くの遺跡が発見されたことによって最近では黄河・長江文明とも呼ばれている。

それはさておき中国・黄河文明は紀元前7000~5000年と言われ、日本では縄文時代早期に該当する。

年代の幅や細かな文化的相違を無視するならば、黄河流域もメコン川流域も日本でも狩猟漁労の生活形態で土器を製作・使用していたという点では共通する。もっとも、そうした条件を無視しての比較など有り得ないし研究者から叱られることは承知の上だが、人々のが暮らしてきた歴史において大きく異なる地域にありながら似通った道を歩んできているということは何とも愉快なことである。

何らかの知識や技能の伝達ということがあったのであろうが、人々が大枠では共通の道を歩んできた、或いは、同じ方向にしか歩むことができなかった・できないのが人間なのかもしれないと思うと、ウーーム???
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博物館に近い土産物店ではバン・チアン文様の陶器を売っていた。

当然に発掘品ではない。

文様を模して作られているものであるが独特のものであり、エクステリアとしてはオモロイかも。

しかし、日本の雰囲気にはイマイチかな?


at 11:50|Permalink

February 02, 2010

タイの遺跡を訪ねる (14) ウドンーターニ

コーンケーンの町から更に北上し、メコン川を挟んでラオスと国境を接するノーンカーイの町に近いウドンーターニを訪れた。

ノーンカーイにはメコン川に架かるタイ・ラオス友好橋があり、ラオスの首都ビエンチャンまでバスに乗れば直ぐの距離であるが今回はウドンーターニまで。

19世紀の半ば頃より東南アジアはイギリスやフランスの植民地として目をつけられイギリスはビルマからタイに、フランスはベトナム、カンボジア、ラオスからタイに食指を伸ばしてきていた。

タイに関して言えばイギリスと、そして後にフランスとの間で1865年に修好通商航海条約を結んでいるが、清国や日本が開国を迫られて締結させられたものと同じく不平等条約であった。

1892年にタイとフランスの間で国境を巡る紛争から翌1893年にはフランスの軍艦がタイのチャオプラヤー川を遡って砲撃を加えてバンコクに至り、強圧的に条約を結んだ。

この条約はタイの関税自主権の放棄、警察司法権の放棄、メコン川の東側(ラオス王国など)の主権放棄、メコン川西岸の25km地域を中立地帯とする(更に国境を下げる)というフランスが一方的に儲かるメチャクチャなものであった。

フランスの植民地(仏領インドシナ)が広がり、ビルマから植民地支配拡大を目論んでいたイギリスは脅威を感じて1896年に英仏条約を結び、タイを両国の緩衝地帯とすることにした。

東南アジア(東アジアも含む)の近代史を語る上でフランス、イギリスといった国は切り離せないのである。

彼奴らが如何に無茶のし放題をやってきおったか、例を挙げればキリが無いのである。
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このウドンーターニの町は国境から50kmほどの場所であり、メコン川西岸の25km地域を中立地帯とするという取り決めの結果生まれた町でフランスの植民地(仏領インドシナ)であったラオスとの行き来も多く、町の街路や建物などにはフランスの影響が色濃く感じられた。


上はウドンーターニの市街地に建つバン・チアン・ホテル。

下はホテルの部屋からの眺望の一部。 左手に市街地が広がる。
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見渡す限りの大平原であり、日本のような山の起伏は見えない。

ベトナム戦争の時には左前方にある飛行場を米軍が使用し、町も駐留米軍のための施設が多くあったらしいが、戦後30年を経て随分様変わりしてきているそうだ。

ホテルで夕食をとった後、新年を迎えるための祭りをやっているというので出かけてみた。

タイの田舎の町の祭りだから大したものではないだろうと思っていたのだが、ホテルのロビーを出るとロック音楽のようなものが大きい音で聞こえてくるし、町に出ると通りは沢山の人たちで溢れていた。

私も家内も祭りの会場がどこなのか分からなかったのだが、沢山の人たちが動いて行く方向へ共に歩いて行くごとに音楽の音が一層大きくなり、いつの間にか会場内に入り込んでいた。
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会場となっている場所には馬鹿でかい特設ステージが組まれ、私たちが舞台の見える場所までやってきたときには写真のようなタイの民族舞踊が演じられていた。

ステージも馬鹿でかかったが当然観客席(椅子などは無い立ち見の広場)はそれの何倍も広く、観覧している人たちの最後尾から望遠レンズを使って撮った写真が上のものであり、肉眼だと顔も分からないほどに踊り子の姿は小さいものであった。

下の写真にも少し写っているが、正面後方にステージと右後方に観覧車のライトが見える。移動式遊園地なのだ。
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上の写真は屋台が連なっているものの一部だが、このような露店の屋台が総数で何軒集まっていたのか分からないが、祭りの会場となった広場に露店の町ができたのかと思うほどに露天通りが幾つも並び交差して、混雑する露店の通りから外れた時には方向すら分からなくなってしまっていた。
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上は露天の町並み?から外れた所に建っていた中国寺。

露店で形成された町の広さも凄いもので日本の大きい神社の大祭に集まる露店の比ではない程の数であり、群がり集まって来ていた人たちの数も大変な数であったと思う。

私の体内磁石?は相当なものなのだが、この露店の町中と大変な人ごみの中を歩いているうちに、何と迷子になってしまったのである。

家内の方向感覚というのは若い頃からエエ加減で頼りないため、この時も全く駄目で、しかも私まで狂い掛けていたのでかなり慌ててしまっていた。

しかも、大概ホテルを出る場合は“ホテル・カード”を持って出るのだが、小さな町だからと高を括って持って出なかったのである。

多分ホテルはこの方向と決め、数人のタイ人に尋ねたけれど言葉が通じなかったのか書き表した文字が通じなかったのか全て駄目。

かなり不安ではあったが、どうにかなると思いつつ寂れた裏町を歩いていたら何とこの時期にランプータンを売っている若い兄ちゃんがいた。
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パイナップルにパパイヤ、ミカンにスイカにスターフルーツなどとともに並んでいたのである。

季節的には珍しいし私の好きなものなので、1kg単位で売っていたのだが20バーツ分だけ欲しいと交渉。それでも20個近くあった。

この兄ちゃんと別れ際、バン・チアン・ホテルはどこかとダメモトで尋ねてみたら、手まねで次の道路角を左へ曲がれと。

町の建物で見えなかったのだが、ほんの10mばかり歩いた道路に出たら直ぐ左手前方にホテルが。

緊張感が解ける「気が抜けた」という感じを久し振りに感じた一瞬であった。


下はホテルの直ぐ前にある市場の通りに出されている食料品の露店である。
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チヌ(黒鯛)のようなのやナマズなどの川魚、豚肉に鶏肉、香草を含めたいろんな野菜、鶏卵、お菓子に仏花に炭と、あらゆる生活物資が売られている。

東南アジアの町の朝の風景としてはよく見かける光景だが、実は昨晩、暗くうら寂しい裏町でランプータンを売っていた若い兄ちゃんが出していた1軒の店がこの通りにあったのである。

暗いうら寂しい裏町で露店が1軒だけ出ているのと、明るい朝の光を受けて沢山の露店が並んで人々が行き交い、彼女らの元気な声が交錯するのでは全く同じ場所でありながら180度、まさに月とスッポンの違いなのである。
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この朝の情景のなかでなら流石に迷うことはない。

昨夜の祭りは2日間行われるらしく今夜が最後だそうな。

が、もう人ごみはコリゴリ。

馬鹿でかい耳をつんざくような音量の音楽も、ズンズンと体の芯を震わせるようなドラムの響きももういらない。

この夜はぐっすり眠ることにしようと思った。

付け加えておかねば。

これら沢山のお店で商いを行っているのは全て女性なのである。男性がいたとしても0.01パーセントいるかいないか程度で銀行の利息みたいなものである。

韓国の女性も同じであるがタイ人女性もよく働く。

日本の女性?

・ ・ ・ ・ ・。






at 10:42|Permalink
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