May 2010
May 31, 2010
タイの遺跡を訪ねる (26) アユタヤ (1)
以前にウドン・ターニーのバーン・チアン博物館や遺跡を訪れた時のことを書いたが、青銅器の使用が4000年前頃に始まり、2500~2700年前頃に鉄器の使用が始まったことを書いた。
アユタヤの先史時代について調べてはいないが、バーン・チアンとの距離が500km程度であることを思えば農耕文化にしろ金属文化にしろ、それらの開始時期に大きい隔たりは無いであろう。
アユタヤについてはアユタヤ王朝として、スコータイ王朝と同様にタイ歴史の上でひとつの時代を形成するものとして重要な位置づけがなされている。
アユタヤ王朝は、1351年にラーマーティボーディー1世の治世が始まってから1767年に至る400年あまりの長きにわたりタイを支配してきたのである。
ロッブリーからアユタヤまではバスで1時間程度。
アユタヤで見かけたセイロン式仏塔を中心にしたロータリー式の交差点。
国王の誕生日を祝う飾りつけがされていた。
現国王はチャクリー王朝9代目のプーミポンアドゥンラヤデート王でラーマ9世である。
1927年(昭和2年)生まれだから現在83歳。国民の人望を集めている王様であるが、同一の王朝が続いて現在に至っているのではない。
ここで若干の整理をしておこう。
タイが国家として成立した最初がスコータイ王朝であると以前に書いた。
それ以前にも人々が住み、多種の民族が小国家を幾つも形成していたらしいが、簡単に年表化すれば、
1238年~1448年 スコータイ王朝
1351年~1767年 アユタヤ王朝
1768年~1782年 トンブリー王朝
1782年~1932年 ラッタナコーシン王朝(チャクリー王朝)
1932年~ 現在のタイ王国に続く
アユタヤは世界遺産としても有名だが、日本人にとっては山田長政と日本人町のアユタヤの方が馴染みが深いかもしれない。
これについては機会があれば書くことにして、今夜のホテルはアユタヤ駅に近くパサック川に面して建つクルンシー・リバー・ホテル。アユタヤでは高級なホテルであるが、価格的には日本の安物ビジネスホテル並み。
アユタヤは幾筋も南行してくる川の土砂が堆積した中洲のようなところに発達した町であり、北から流れてきたロッブリー川がオールドロッブリー川とパサック川分かれ、町の東側をパサック川、オールドロッブリー川が北辺から西側へ、それはチャオプラヤー川に合流し、町の南辺を回り込むように蛇行し、やがて幾筋かの川と合流してチャオプラヤー川の本流としてバンコクの方へ南行して行く。
アユタヤの史跡は広い範囲に点在しているが、アユタヤ歴史公園として指定されている地域は中洲状の中央から西一帯になる。
ライトアップされたワット・プラ・ラーム。
ワット・プラ・ラームは歴史公園のほぼ中央に位置し、1369年にアユタヤ王朝2代・ラームスエン王が建てたと言われ、初代・ウートーン王(ラーマーティボーディー1世)の遺骨も納められていたらしい。
撮影位置もカメラも違うが、同じ被写体でありながら随分変わるものである。
ラーマーティボーディー1世がアユタヤ王朝の礎を築いたわけだが、彼は治世上2つのことを基本として取り入れた。
その1つ目は、セイロンやビルマに伝わった南伝の上座部仏教(テーラヴァーダ・Theravada、以前は小乗仏教と呼ばれていた)を取り入れクメールのヒンドゥ教と区別したこと。
2つ目に、ヒンドゥ教のダルマシャースートラを編纂したこと。
ダルマとは法典の意で、シャースートラとはヴァルナ、つまりヒンドゥ教における四姓・カーストのような階層序列を定めるものである。
インドのカーストは階層差別の典型と言われているが、上位からバラモン(神に仕える聖職者)・クシャトリヤ(王族や武士など)・ヴァイシャ(一般の平民)・スードラ(賤業につく奴隷)の4つの階層に分けられ、この序列は変わらぬものとされている。
インドでは、更にアチュートというヴァルナに属さないアウト・カーストの人民が最下層に位置づけられ、人口比でも三角形の底辺を構成しており、人権問題として世界中の指弾を浴びている。
しかし、タイに於いてヒンドゥ教のダルマシャースートラを取り入れることによって絶対王政が確立されたことは確かであるが、インドのように厳格な階層差別社会がタイにおいても制度化されていたかどうかについて私は知らない。
May 29, 2010
タイの遺跡を訪ねる (25) ロッブリー 【続き】
この副都・ロッブリーは、ロッブリー川を利用して堀と城壁で囲まれた城塞都市であり、城塞内にナーラーイ王の住居としてプラ・ナーラーイ・ラーチャニウェート宮殿が建てられた。
プラ・ナーラーイ・ラーチャニウェート宮殿は現在国立博物館として敷地・建物が公開されているが、フランス人によって設計・施工(1665~1677)されたレンガ造りの建物はナーラーイ王が亡くなった1688年以降廃れて当時の様子は遺構から想像するほかない。
宮殿内の門の奥に見えているタイ様式の建物はナーラーイ王の住居として建てられたチャンタラ・ピサーン宮殿で1655年の建築。
現在は仏像などを展示する博物館として公開されている。
このチャンタラ・ピサーン宮殿の左手にピマーン・モンクット宮殿が建っているが、これはラーマ4世の仮寓として1856年に建てられたものだが、現在は博物館として公開され、仏教美術品のほか、ラーマ4世の遺品なども展示されている。
これはドゥシット・サワン・ターニャ・マハ・プラサート・ホールで、ナーラーイ王が外国人を謁見する折に用いた広間らしい。
写真右手にピマーン・モンクット宮殿とチャンタラ・ピサーン宮殿が並ぶように建っているのが見られる。
謁見の間で中央が玉座。
上2枚の写真でも分かるが、窓の切込みが方形なのと上部をドーム状にしてあるのとが混合している。
ガイドの説明によれば、タイ様式のものは方形だがドーム状の開扉口はフランス様式であり、この折衷様式にフランス人が設計に関わっていたことが見てとれるということであった。
宮殿は写真のような城壁に囲まれており要塞の感が強い。
城壁の上部などヨーロッパの城壁に似ているとも思う。
写真城壁右手前の生垣は象を模したものであり、宮殿敷地の各所で同様のものを見ることができた。
写真ではレンガが崩れてしまっているが、ここは象舎があったところらしい。
きっと、当時は宮殿敷地内を象がノッシノッシと歩いていたのであろう。
労役に軍役にと象は人々に重宝されていたことであろうと思う。
プラ・ナーラーイ・ラーチャニウェート宮殿の入り口に向かって右手、つまり、北方向の突き当たりにプラーン・ケークがある。
プラーン、クメール式の仏塔であり写真では黒っぽく写っている。
小さな緑地帯のようなものになっている。
この日、12月18日(2009年)だが、ほぼ真上から照りつける陽光で気温はうなぎ上り。
何度になっていたのかは分からないが、噴出す汗が止まらず喉が渇き、冷房の効いたツアーバスが早く来てくれることばかり願っていた。
写真は宮殿の門前に店を出していたオバサンと売り物の果物。
ケース内の氷の上に乗ったパイナップル、パパイヤ、スイカなどの果物が実に美味しそう。
暑さと喉の渇きを癒すためにパイナップルを買って食べたのだが、黄緑色のものが気になったのでオバサンに、「ニー、アライ」と尋ねたら「×?×?×」(メモ書きしたのに忘れた)。
「アローイ?」
オバサン、勿論美味しいよとニコニコ顔で一切れをくれて、食べて食べてと。
誰だって美味しいと思うがな。
それでひとくち。
冷たくて一瞬気持ち良さを感じたとほぼ同時に強力な酸味が・・・
うへっ。
酸っぱい酸っぱい。
ゆがんだ私の顔を見てオバサン二人が笑う笑う。
May 28, 2010
タイの遺跡を訪ねる (24) ロッブリー
以前にも書いたが、タイは鉄道交通よりも自動車交通の方が盛んであり、いずれへ行くにしても幹線道路が整備されているので車の便が良い。
スコータイからアユタヤまでは約400kmばかり、スコータイからロッブリーまではおよそ300kmの距離である。
タイの道路も直交式の交差点は多いが、上の写真のようなロータリー式の交差点もよく見かけた。
このロータリーの中心部は貯水池になっており、昔は水道施設ではなかったろうかと思うが、貯水池を囲むロータリー交差点は珍しい。
どの町でもロータリー交差点がひとつはあったように思うが、ロッブリーはナーラーイ王時代の1665年からアユタヤ王朝の第二の都としてフランス人建築家の設計によって建設が始められたので、その当時のものが残っているのかと思った。
この頃はスペイン、ポルトガル、オランダなどに続いて商圏の拡大と植民地支配を目論むイギリスやフランスが東南アジア一帯に進出してきていたが、ナーラーイ王はフランス(ルイ14世治世)との関係を密にしていた。
副都ロッブリーの建設は、1664年にオランダ東インド会社が商権の独占を要求してチャオプラヤー川の封鎖を行うという事件を起こしたためであり、これは友好国フランスの技術援助を全面的に受けて行われた。
ロッブリーが全く新しい土地に開発された土地でないのは上の写真のようなクメールの神殿跡が残っていることでも分かる。
これはプラ・プラーン・サム・ヨート。
ヒンドゥー教のクメール様式の塔(プラーン)が3つ並んで建っているが13世紀の建造物らしい。
この建物と敷地には猿が沢山おり、敷地の直ぐ横をタイの鉄道線路が通っている。
この寺院跡に限らず、やたらと猿が多く、ガイドさんからはバッグなどの荷物をしっかり持っていてくれるようにとの注意があった。
自由奔放に育っている猿たちであり、少し油断すればサッと持ち逃げしてしまうらしい。
猿たちの中には列車に乗ってバンコク見物に行って来る猛者もいるそうだ。
ここはサーン・プラ・カーン寺院横の歩道だが、猿がいっぱい。
人が歩いても恐れることなく、図々しいというか立ち退くこともない。
誰だか聞いたけれど重要とも思わなかったので忘れてしまったが、猿を保護するお金持ちがいて、以来、猿が幅をきかすようになってきたらしい。
この猿など私がこの写真の距離まで近付いても全く平気の平左衛門であった。
かなり歳を取ったジイサン猿なので元気が無かったのかもしれないが、これほどにまで人間に慣れているということである。
サーン・プラ・カーン寺院とプラ・プラーン・サム・ヨートとは道路と線路を挟んで向かい同士になる。
サーン・プラ・カーン寺院は1951年に建てられた比較的新しい寺院であるが、多くの人々の信仰を集めているようで、この時もタイの女子高生らが見学参拝に訪れていた。
日本の神社の狛犬のように、この寺では猿が魔除けを担っているようである。
この階段を上がったところが仏殿だが、仏殿そのものがこんもりと盛り上がった土地に建てられており、この仏殿の後ろ側に殆ど崩れてしまっているがクメール時代にラテライトで建てられた寺院遺構が僅かだが残っている。
タイでは何処の寺院でも参拝者のために線香や飾り花が用意され安く売られている。
上は売店のひとつであるが、私の目の前で猿が吊るしてある飾り花をつかんで盗って行った。
全くすばしこい動きで、台の上に跳び上がり飾り花をつかんで飛び降りるのに2秒とかからない早業であった。
この猿の動きにも驚いたが、駆けて行った先で柿色の花をむしって食べているのにも驚いた。
猿が花を好物として食べるというのを初めて知ったからである。
初めの猿には売店のオジサンも気付かなかったのだが、さすがにその後跳び上がってきた猿には声をあげて追っ払っていた。
May 24, 2010
タイの遺跡を訪ねる (23) スコータイ歴史公園 【4】
初めに書いたようにスコータイ遺跡はかなり広く、三重の壁に囲われたスコータイの城壁内だけでも30数箇所の遺跡があり、城壁外にも大小様々な遺跡が点在し、その総数は300を超えるとされている。
ここに紹介するのはワット・シー・チュム(Wat Sri Chum)で、この寺院遺跡は城壁外の北部に位置する遺跡群のひとつである。
ワット・シー・チュムは礼拝場の柱の遺構(写真の黒っぽいもの)と紅い土のレンガで構成された建物、それに大きい仏坐像が残っている。
仏様を安置してあるレンガ造りの建物は高さが15mあり、平面32m×32mの広さで壁の厚みが3mという巨大なものである。
建物に天井はなくて雨ざらしになっており、その正面は縦に細長く開口部が設けてあり、仏様を開口部から見ることができるようになっている。
細長い開口部と言っても大人が横に3人並んでも充分に通れるだけの幅があるので、細いと言っても建物全体からすれば細いと言えるだけで、実際に通れないほど細いというものではない。
この仏様は『アチャナ仏』というもので、アチャナとは恐れない者という意味らしい。
右手を膝前に下げ、左手を広げて膝の上に置く姿勢は仏陀が悟りを開いたことを表わすのだとガイド氏が語っていたが、印相(印契)にもいろんな形があるものだ。
この仏像も螺髪の真ん中から真上に火焔状の髪の毛が立っている。
レンガの表面を白色の漆くいで塗り固めてあるのだが、雨水によって黒く汚れが目立ってきている。
このレンガ造りの厚さ3mの建物の壁の中はトンネル状になって内部の天井には仏説画が描かれているようだが、私たちが訪れた時には入ることができなかった。
下の仏像は近くに祀られていたものだが、アチャナ仏に比べたら随分小さなものであった。
パイプを組んであったということは覆い屋根を作るということなのだろうか。
とにもかくにもスコータイ遺跡の主要な遺構について写真で紹介したが、名前を記憶していないものも多くあったため見学したものでも全て掲載しきれない。
実際に訪れてみて、多くの寺院遺跡を総合してスコータイ遺跡と呼んでいることが分かったのである。
写真で記録していく場合に、どの寺院遺跡であるのかを文字で記録しておかないと後で整理する場合に困難を極めることになる。
事実、同時代で同素材、同様式の寺院遺跡、しかも損壊が著しいものばかりという条件のスコータイ遺跡だけに写真整理の段階で不明の遺構写真が沢山出てしまった。
これは今後記録として撮影する場合の重要な教訓となった。
タイの遺跡を訪ねる (22) スコータイ歴史公園 【3】
大きい池の真ん中に写真のような島があり、そこに仏塔と仏像、それに礼拝場の遺構であろうか、レンガの基壇と柱が立っている。
見学のために橋が設けられてあり、それを渡って行くのである。
よく見かける釣鐘状の仏塔であり、セイロン様式のものであることが分かる。
スコータイ遺跡での重要な寺のひとつであるが、セイロン様式の仏塔であることからラームカムヘン大王か、それ以後の早い時期の築造であることも予想できる。
紅い土のレンガで漆くい塗りの造りであることから、恐らく13世紀後期の造営であったろうと推量したのだ。
多分、これらの柱の上に木造の屋根が葺かれ、その下で人々が礼拝していたのであろう。
仏教美術において仏像を研究している人たちは、仏像の素材は勿論、体躯、姿勢、表情(目耳などの形状も)、印相(印契)、衣、髪型などなど、ええっと思うようなことまで比較研究している。
私たちは通常細かなことまで観察はしないし、観察したところでそれ以上のことは分からないものだから結局細密な観察などということをしないものだ。
多分、立像か坐像か、手足がどのようになっているか、表情がどうかとか、服装や髪型がどうかといった程度のことを見て感じ取っている程度が関の山ではないだろうか。
私はタイの仏像を見て感じ気になっていることに髪型がある。
奈良の大仏もそうだが、一般に仏像の頭部は螺髪(らほつ)というネジのような渦巻き状にしたものを幾つもつけている。
今様に言えばパンチパーマのようなものだが、タイの仏像は螺髪の上に更に頭頂部から火焔状の髪を真上に立てている。
全てかどうかは確かめ得ないが、私の記憶では見てきた仏像の全てが火焔状の髪を立てていたように思うのだが、これに関しては、いわれ、歴史、その他全く分からず気になっているのである。
日本の仏像では見たことがないと・・・
写真のように渦巻き状の螺髪(らほつ)を幾つもつけ、更に頭頂部から火焔状に髪を真上に立てているのがタイに見る仏像の特徴なのである。
いったい何故?
下の写真は仏塔のある大きな島から更に小さな島へ続く橋の上で撮ったものだが、小島の方にある結界石と池の向こうにワット・チャナ・ソンクラムのセイロン様式の仏塔が見えている。
家内が着ているブラウスはピッサヌロークの店で仕入れたなかなか良い品物だが、自分で値切り交渉をして買ったものだけにひときわ気に入っていたようで早速身に着けていた。