June 2010

June 28, 2010

【続】奈良龍大会創立10周年総会 (龍谷大学校友会奈良県支部) 『懇親会』

前ページで書いたように奈良龍大会創立10周年総会 (龍谷大学校友会奈良県支部)が6月13日(日曜)に奈良市ならまちセンターで開催され、総会に引き続き記念事業として龍谷大学吹奏楽部の演奏、落語家・林家染二師の落語、写真家・井上博道氏による『幻想の飛鳥』と題する写真紹介と講演が行われた。

今年、奈良は『平城遷都1300年』を迎え、県下全域で各種のイベントなどが開催されて賑わっている。
13028
『平城遷都1300年祭』のマスコットキャラクターである『せんと君』の幟(のぼり)が奈良県下各地に立てられ祭り気分を盛り上げている。

『せんと君』は一人のはずなのだが、ひょっとすると影武者がいるのか、あちらと思えば又こちらと、まさに神出鬼没、忙しく立ち働いているようである。

奈良の観光と言えば従来『北和地域』、つまり奈良県の北部、それもJR奈良駅や近鉄奈良駅の東にある興福寺(南円堂・五重塔など)、猿沢池、東大寺(大仏・二月堂など)、春日大社に若草山といったところを訪れるのがメインであった。

しかし、奈良県は南北に長く、歴史的に早くから開けた地域であり、文化財としても名高い遺跡や神社仏閣など県下各地に数多くあり、観光資源は『北和地域』に限らない。

県南部は山岳地帯で近畿の屋根とも呼ばれる大台ケ原や大峰山があり、降雨量の多さでは日本有数の地で和歌山県・三重県と接している。

幕末の頃、勤皇で名高い十津川郷は県南部の山間にあり、温泉も湧いている。

それより北には桜で名高い吉野山に金峰山寺。 修験道の役行者(役小角)が深山幽谷を闊歩していたのは将にこの南部の山々から葛城山に至る辺りである。
13023奈良県の中部(中和)から北部(北和)地域は盆地状になっており、盆地の南部になる中和地域には浄瑠璃・壷阪霊験記の壷阪寺、女人高野の室生寺、牡丹の花でも有名な長谷寺(初瀬寺)、高松塚古墳や石舞台古墳で名高い飛鳥の地もある。
歴史上名高い蘇我入鹿、中大兄皇子、中臣鎌足、それに聖徳太子ゆかりの地である。

三輪山をご神体とする我が国最古の神社である大神神社(おおみわじんじゃ)も中和地域にあり、北和地域に入ると天理教教会本部、法隆寺、薬師寺、唐招提寺などの有名寺院もある。

中和の大神神社から北和の奈良へは、古道『山の辺の道』が延びている。

さて、別に観光案内をするつもりではないので話を戻すが、今回の総会の会場となった『ならまちセンター』というのは猿沢池の少し南側にある。

奈良町と書くのかと思いきや、奈良町という地名は無く、南都大寺のひとつ、元興寺の旧境内(随分広いのだが)を中心とする奈良の町家の景観を残す一帯を総称して『ならまち』と呼んでいるのだ。
13001
北辺を三条通り、興福寺南円堂下にある高札場(上の写真)あたりとし、南はJR京終(きょうばて)駅あたりまでとしているので結構範囲は広いが、交通機関を用いずにのんびり歩いて巡るのに良い。

上の写真は高札場。上街道と三条通りがT字状に交差する場所に設けられている昔の公的掲示板で奈良奉行所の『定』など、当時の決まりを書いた板を掲げてある。

御朱印伝馬人足の員数は書付けた以外に多く出してはいかんとか、伝馬の駄賃は荷物1駄について40貫目、人足荷物は一人5貫目に限る事などと書かれた高札があったり面白い。
13033
総会と記念行事が終了した後、『ならまちセンター』隣の『猿沢荘』(写真左手の建物)にて懇親会を持った。
写真は興福寺の五重塔。(ならまちセンターより)
13046
挨拶する奈良龍大会会長で東大寺・長老の上野道善師。

東大寺別当は北河原公敬師(第220世)に引き継いだけれど、東大寺学園の理事長など他の職は今も務めておられるのではなかったろうか。

上野師は7年先輩で、北河原師は2年か3年か先輩だったように思う。
13047
挨拶する若原道昭・龍谷大学学長。 彼は京大院なので同窓ではない。 が、同い年だったろうか、随分以前に学会で見かけたことがある。

懇親会場の様子。
13049
年齢も学部も異なる者たちだが、あちらこちらで会話は弾む。
13050
40数年前、私が某公立学校に赴任した頃、先に教師として勤めていた1年先輩のI氏に偶然この奈良龍大会の会場で再会を果たしたのである。

当時、大阪・ミナミではトリスバーやニッカバーに代わってカクテルバーが流行り始めていた頃で、彼によく案内してもらったが、彼とは突然音信不通となり、その後どうしたものかずっと気になっていた。

それが実に40数年の時を経ての再開となったのである。

彼とのその後の話もさることながら、いろんな方たちとのあれやこれやの話に花が咲き、和太鼓演奏も加わって懇親会場は大いに盛り上がった。
13053
雨も上がり、酔い覚ましにふらふらと猿沢池を巡って近鉄奈良駅へ向かった。

昼間、足元が悪いにもかかわらず多くの観光客で賑わっていたが、旅館・ホテルの夕食の時間帯のためか猿沢池も興福寺境内も静まり返っていた。

写真はライトアップされた興福寺の五重塔であるが、昼間とは趣を変え、ひっそりした佇まいを見せていた。


masatukamoto at 12:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 26, 2010

奈良龍大会創立10周年総会 (龍谷大学校友会奈良県支部)

早いもんで校友会の奈良県支部が発足して10年になりまんねんなあ。

大学が創設されて、昨年370周年を迎えましたけど、同窓会と言うべき校友会の支部としては未だ10年でんねんなあ。

まあこれはいたし方おまへん。

強制加入ではなく自由参加が建前の親睦を目的とする組織でっさかい、それを維持し、活発に事業を推進していこうとする目的意識をしっかり持った人たちが真の柱となって行動せんことには事業どころか維持管理することすら出来んもんや。
13030ともあれ6月13日(日曜)午後1時より、『奈良市ならまちセンター』にて総会・記念事業が催された。

奈良でも西のほうに住む私は大阪市内へ出かけることがあっても、近鉄奈良駅に向かうことはほとんど無い。

夜遅く難波駅から特急に乗って、気が付いたら奈良駅やったということがたまにあるくらいで奈良の町を歩くことは久し振りになる。

まして今年は『平城遷都1300年』の記念事業が県を上げて開催されているので、混雑する所が嫌いな私にとって奈良は鬼門とも言える方向である。

しかし、支部活動にご苦労頂いてきた方たちに謝意を表するには、枯れ木であっても多少の賑わいのために行動するほか無しと、昼食もとらずに雨が降る中を会場に向かった。

雨天のため総会の出足は悪かったものの時間の経過とともに会場の席は徐々に埋まっていった。
13004
大学からは若原学長、校友会から三村会長ほか、奈良支部からは前の東大寺管長(現・長老)の上野道善会長ほかが出席した。

総会後、記念事業のトップを飾ったのは吹奏楽コンクール全国大会連続金賞に輝く龍谷大学吹奏楽部による演奏であった。
13018
軽音楽を中心に演奏が行われたが、ジャズがあったり、サキソフォンなどのソロのパートがあったり手拍子を入れたりと多彩な演奏を披露してくれた。
13012
吹奏楽部の部員は百数十名いるらしいが、今回の演奏は70人程度の編成だったろうか。

全員白色のシャツに紺地に赤のストライプのネクタイ、青色のブレザーと黒色のズボンといういでたちだったし、舞台が遠かったので判別しにくかったのだが、メンバーのほとんどが女子学生であった。

吹奏楽部の女子学生の比率が高いのか、全学的に女子学生の比率が高いのかは分からないが、半世紀ほど前の大学における女子学生数の人数を思えば将に雲泥の差であり喜ばしいことである。

そう言えば女性の大学生第一号は確か龍谷大学であったように記憶するが・・・

舞台の幕間に登場したのが『奈良遷都1300年』のマスコットキャラクター『せんと君』。
13025
キャラクター選定の際にはすったもんだしたものの、今ではその地位もすっかり安定し、あっちからこっちからと招請に応えて走り回っている人気者である。

私も当初は「けったいな奴っちゃ」と思うていたものの、今では多分見慣れてしまったからだと思うのだが違和感を覚えなくなってしまっている。

『せんと君』はしゃべることが出来ないので進行のお嬢さんが話しかけるのに大きい動作で身振り手振りで応答していたが、これからの暑い時期は可哀想だなと思った。 私が代役すればダイエットに良いかも。

続く舞台は高座が設えられ落語家・林家染二師が座っての漫談。
13026
彼は法学部の卒業らしいが、私は芸人と呼ばれる人たちをよく知らず、彼の話芸というのも初めて見ると言うのか聞かせてもらった。

記念行事の最後は写真家・井上博道氏の写真と講演であった。
13035
井上氏は長年にわたって大和・飛鳥の写真を撮り続けてこられた。

それらの作品から大和・飛鳥の原風景とも呼べるものをスライド写真で映写し、古いものを残し伝える大切さや大和に生きる生き物全てへのいとおしむ気持ちを語られた。

大先輩であり、レンズを通して見てきた実体験に裏打ちされた言葉だっただけに深い感銘を受ける内容であった。

終わりの挨拶は奈良龍大会の代表幹事で薬師寺執事長の村上太胤師。
13042
今回は10周年という節目の総会であったということもあるが、出席者数も多く、また記念行事の内容も充実した価値の高いものであった。

毎年、総会に交流会と年に2回趣向を凝らして実施して頂いているが、これまで寺社仏閣の見学説明や法話(講話)など、奈良という土地ゆえの、そして西本願寺系の大学ゆえの多士済々の人材による豊かな内容の行事を催して頂いていることを有難く思っている。

今回も法徳寺の倍巌良明師のほか、東大寺や薬師寺の若い人たちが法務多忙な中を懸命に走って頂いたものと思う。

皆さん方に感謝である。

ところで総会を終えて2週間になるが、ネットで奈良龍大会10周年を検索してもヒットせず、私が以前に書いた
『奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】』のみが紹介された。

奈良支部の幹事さんたちも忙しいこととは思うけれど、インターネットの発達した今の時代ゆえに、どなたか広報の担当を引き受けて頂ける人はいないものだろうか。 年に2~4回のことである。 いかが?




masatukamoto at 16:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 24, 2010

旅行の時期は?

旅行と言えば行く先は? そして、季節は?

家内と旅行の話をする時、決まって最も大きい問題となる項目である。

私は旅行が好きであるが、学生時代も現職にあった頃も2月から5月、9月から10月の時期には旅行することができなかった。

今は仕事を離れ、いつでもどこへでも旅行することができるのだが、家内と一緒に行くとなると行く先が制限される。 治安状態が悪い地域、文化水準の低い地域、交通事情の良くない地域への旅行は行くとは言わないし、私一人が行くことにも反対する。

私は飛行機の運賃が安い1月半ばから3月中旬に行こうと誘うのだが寒い時(所)はダメと家内は文句が多い。

では、春秋の良い時期にと思うのだが、この時期には演奏会があるからダメだと。
s-コピー墨~ 智子と秋山(1)
写真は師匠との合奏。

家内の楽器はリコーダで5人までの小編成だから小ホール、中ホール程度の会場となる。

バロックが中心なのでチェンバロが加わることもあるが、落ち着いた雰囲気の演奏会になるので家内は楽しいらしい。

しかし、そのために頭から春と秋の好季節の旅行を考慮しないというのは私にとっては面白くないことである。

そして、夏休みのように多くの人たちが旅行する時期は私の方でお断りである。

結局私たち二人が揃って旅行に出かけられるのは6月を中心とする時期と決まってしまうのである。
s-コピー ~墨 智子と仲間
今年も春には動けなかった。

しかし、仕方あるまい。
何の贅沢もしない家内が最も大きい楽しみとしていることなのだから、鉄砲玉で気まぐれな遊び人の私としてはこれしきのことは我慢せねばなるまい。

いささか自嘲めいてはいるが・・・

この秋も無理だろうなあ。

冬になれば寒いと言うし。

昨年は12月にタイへ行った。

寒くなく、治安良く、交通事情が良くて文化水準が一定レベル以上。

赤道付近か南半球の国なら・・・


masatukamoto at 16:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 22, 2010

同窓会は、ええもんや

「ええもんや」と言うのは大阪の方言である。

「ええ」+「もん」+「や」=「ええもんや」である。

「ええ」と言うのは、良い(善い・好い)とか素晴らしいとか素敵とか、外見だけでなく内面的・質的に優れている、或いは勝っているといった場合に使われる言葉で形容詞である。

「もん」と言うのは、物、もの、或いは者を指し、名詞である。

「や」は、「~です」とか「~だ」という助動詞であり、名詞や代名詞にくっ付く言葉である。

だから、「同窓会は、ええもんや」という言葉には同窓会の特定されることが良いというのではなく、曖昧ではあるが自分にとっても他の者にとっても何もかも含めて良いという意味になる。

同期の者たちとの集いも同窓会であるが、学校創立以来の先輩後輩たちが寄り集うのも同窓会。
もっとも創立以来などと書いても創立当時の先輩たちに存命の人などいない。戦後に創設された学校ならば80歳代や90歳代の人たちがいるだろうが・・・

今回の高校の同窓会では私の同期の者たちの出席が極端に少なかった。
これは残念なことであったが、その分他の年度の卒業生たちとの交流に広がりが出た。
母校という話題だと、どうしても同期の者同士が共に過ごした学校生活の懐旧談に終始してしまうこととなるが、10年も20年も離れれば話の方向は自然と変わってしまう。

出席者の卒業後の進路もまちまちであり、多分殆どがいずれかの大学へ進学し、その後の進路も多方面に分かれる。
男女によっても違うし、職種も様々である。一般企業に勤める者もおれば公務員も、また自営の者たちもいる。

世代の違いや職種の違いは知らないことを知り学ばせてくれる良い機会であり、同時に人と人の新たな結びつきが生まれる。
昨日手元に届いた本の印刷・製本も同窓会で知った後輩の会社で請け負ってもらったもの
だ。s-Aコピー ~ 朝鮮の民話001
当初は自分で印刷して製本もと考えていたのだが、289ページもの本となれば、これはなかなか難しいものである。
それで同窓会で親しくなった後輩に相談を持ちかけたのである。
現職時代ならば出版社の付き合いもあったが、小部数の印刷ゆえに声をかけにくかったのが第一の理由であった。

不況下にあって印刷業界も厳しいようだが、それでも新年度が始まる前は忙しいものだ。その中で製本まで仕上げてくれた。
これには感謝している。

同窓会というのは基本は親睦である。
親睦は、古くからの付き合いであれ新しく生まれる付き合いであれ人と人の繋がりを深め強めることであり、親睦を目的とする同窓会は同窓という場を設けて新しい『縁』を生み出してくれる。

この後輩とは印刷・製本の依頼という商行為の結びつきという関係も生じたが、それとは別に人と人という新たなお付き合いの関係も生まれた。

これはひとつの例であるが、同窓会という名の組織が新たな『縁』を広げ結んでくれるのは今回が初めてではない。

私にとって、『同窓会は、ええもんや』。



masatukamoto at 06:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 19, 2010

唐招提寺・開山忌

今年、奈良は『平城遷都1300年』で賑わっている。

遷都(せんと)1300年。
つまり都を奈良・平城京に遷(うつ)して1300年目にあたるというわけ。
今年は2010年だから1300年遡ると710年。
小中学生が年号を暗記するのに語呂合わせで言うところの『なんと うつくしい へいじょうきょう』、つまり『南都(710)美しい平城京』である。

大和朝廷が日本の大半を統一したのが4~5世紀まで、645年の大化改新頃には律令制が整備されて大和政権が飛鳥の地において日本全土を支配していた。その代表的都(京)が持統、文武、元明へと続く飛鳥・藤原京であり、元明天皇の710年(和銅3年)に藤原京より平城京に都が遷されたのである。
s-唐招提寺001
上は唐招提寺の南大門を入った所から平成大修理を終えた金堂を撮ったものである。
平成大修理は1998年より2年間の調査を経て、2009年の秋に落慶法要が営まれたが、奈良時代に建立された金堂の遺構としては唯一のもの。
毎年6月6日前後に開山忌が開催され、御影堂(みえいどう・重文)の鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう・国宝)の拝観、また東山魁夷氏の障壁画などが公開される。
s-コピー ~ img160

今年は5日の土曜日に参拝させてもらったが、金堂落慶法要も終わって奈良遷都1300年祭のさなかでもあり、電車・バスでの参拝者で大変な人出となっていた。私たちは招待状を持っていたので通用口から入れたが、一般拝観入り口である南大門には行列ができていた。

平成の大修理中は拝観することができなかった本尊の盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう・奈良時代・国宝)、薬師如来立像(やくしにょらいりゅうぞう・平安時代・国宝)、千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう・奈良時代・国宝)が並ぶ。

写真を撮りたかったのだが、『堂内撮影禁止』と張り紙がされていたので撮らなかった為に紹介できないが、3体ともに見事な仏像である。
大きさ、容姿、表情等いずれも感銘を受けるに充分な像であるが、盧舎那仏の光背には数え切れぬほどの釈迦仏が付けられ、千手観音は頭上に10面、大きい脇手はそれぞれ宝珠、法輪、数珠等を持ち、小さい脇手が・・・数えたことはないが、千手と言われるぐらいだから全部で1000本くらいの手があるように思える。
s-唐招提寺002金堂正面を西側から撮ったものだが、これでも拝観者が少なくなった時を選んだものである。

50数年もの昔になるが、奈良西大寺駅から天理・橿原神宮方面への電車は乗降客が自分の手でドアを開閉していた。(その後早く自動化され、天理線では暫く残っていたように記憶している)

西大寺駅からは尼ヶ辻、西の京と二駅目で下車すれば駅前に薬師寺、線路に沿って北へ歩くと唐招提寺、線路を挟んで西側に垂仁天皇陵がある。

現在は一般住宅が多く建っているが、昔は緑の丘の御陵の周りに田んぼや畑が一面に広がり、農家の建物がポツリポツリとあっただけ。
そうした田園風景の中に薬師寺と唐招提寺の甍が随分遠くから望めた。
今も両寺の東端からは若草山や三笠山を望むことが出来る。

両寺から歩けば30分程度かかるかと思われるが北へ向かえば平城宮跡である。
平城京が大いに栄えたのは聖武天皇、光明皇后の頃であり、『あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり』と歌われた通りである。

『青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有』
『青丹よし 寧樂の都は 咲く花の 薫ふが如く 今盛りなり』
宮殿の瓦の青色、柱の朱色(丹)、白色の壁や黄金色の飾り等々、奈良の都はいろんな色の花々が一斉に咲き誇るように色鮮やかに賑わっているよといった意味にでもなるのであろう。

その聖武天皇(太上天皇)、光明皇后(皇太后)、考謙天皇らへの授戒を行ったのが鑑真和上であった。

鑑真和上は、聖武天皇が授戒のための高僧を日本に招聘するために遣わされた遣唐使の願いを受け、5回の失敗と失明という不運に見舞われながらも12年の歳月を経て、753年に来日。 
東大寺において授戒伝律を行った。

後、759年に律宗道場『唐律招提』として開創(唐招提寺の始まり)。
写真は唐招提寺の戒壇。
s-唐招提寺004
今春までは松浦俊海師が唐招提寺の第85世長老と律宗の管長を兼務しておられた。
師は龍谷大学での9年先輩になり、新撰組とも因縁深い京都・壬生寺の貫主を務め、の重要無形民俗文化財『壬生狂言』の保存にも力を入れておられる。
s-唐招提寺005
写真左端は鐘楼。
幔幕が吊るされているのが講堂(国宝)。
この建物は平城宮の東朝集殿を移築したもの。
奈良時代の宮殿建築として残る唯一のものである。
講堂には弥勒如来坐像(鎌倉時代・重文)が安置されている。
幔幕の色は仏旗と同じであるが、「青丹よし奈良の都」と歌われた平城京はこのような色で満ち満ちていたのであろう。
講堂の右手には東室、礼堂と南北に長い建物の一部、そして鼓楼(舎利殿・国宝)の一部と右端には大修理の終わった金堂の一部も写っている。

この鼓楼からのハート型の『うちわ撒き』はテレビでもよく放映されているのでご存知の人も多いことと思う。

随分以前になるが、招かれて書家・晴嵐氏と共に唐招提寺の『観月讃仏会』に参加した。
『観月讃仏会』は中秋の名月の日に催されるのだが、御影堂の障壁画・東山魁夷氏制作の『濤声』(16面)が朧なる灯りに浮かび上がる様はなかなか味わい深いものであった。

久し振りに今年は訪ねてみたいが・・・


masatukamoto at 17:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
記事検索
月別アーカイブ