June 2010

June 14, 2010

伊藤舞依子 作陶展 

画家・加藤眞琴氏が自らの住居1階の一部を画廊に改築して何年になるだろうか。
生駒市あすかの南の住宅街の一角にギャラリー『AMIRORO』がある。
加藤氏の作品については過去何度か紹介しているので省くが、その加藤氏から瀬戸の陶芸家の作品展をするから来てほしいとの電話をもらった。
s-伊藤舞依子・3

4月3日にオープニングライブを行うから是非にとも言われていた。
今回は“mitatake”という若い男性二人組によるギターとハーモニカの演奏があり、その後でパーティを開催するという。
最近、関西フィルの弦楽器奏者を呼んだりと、画廊業務が多彩になってきた。
一度機会を合わせてライブ演奏を聴きたいと思っているのだが、なかなか都合がつかず、今回もライブには参加できなかった。

しかし、陶器は嫌いじゃないし瀬戸焼の作家ということで興味もあった。
ただ、瀬戸は釉薬を用いるのが一般。
私は、どちらかと言えば焼き締める備前焼のような素朴で質実なものが好きなので、まあ興味半分程度でギャラリーを覗いてみた。
s-伊藤舞依子・2
上の2枚の写真は個展におけるひとつの場面であるが、瀬戸焼の作陶展と聞いていたので鉢や皿などが並んでいるものと思っていたのだが、額に入れた小さな葉っぱのような作品、それに薄い陶片によるモビールのような作品もあり、女流作家らしい繊細さや優しさを感じさせる展示となっていた。
s-コピー ~ 伊藤舞依子・瀬戸001
これは中鉢(径20㎝、高さ8.5㎝)だが、明瞭な水玉模様ではなくて鉢下方向に筆を引くことによって、白地に青の模様が一層涼しげな感じを与えているのでちょっと興味を引かれた作品。
彼女の展示作品は湯呑み茶碗も同じ模様であったのでシリーズものとして制作したものだったのかもしれない。
s-伊藤舞依子・瀬戸002
外観も涼しげで良いのだが、この鉢の中底に釉薬溜まりが出来ており、写真のように少し緑がかっていたのである。
銅を使ったのかと伊藤氏に尋ねたけれど使用していないとのこと。
ちょっと何故だろうと不思議に思ったのだが、この溜まりが鉢の内面のポイントとしていいなあと思い買い入れを決めた。

私たちは小さい頃から生活陶器を売る店のことを『瀬戸もん屋』と呼んできた。
そんな『瀬戸もん屋』で買うことを考えれば、この鉢の値は随分高いものである。
大いに気に入って仕入れたわけではない。
伊藤舞依子さんは、まだまだ若い。
私は学ぶ人が好きであり応援するという気持ちが多分に入っている。
更に精進してもらうことを期待したい。


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June 13, 2010

桜花満開・桜についての記憶

桜の話題を入梅かと思う今頃になって書こうかと、何とも時節ずれしている私の感覚もオカシイが、どうも桜の開花時期もずれているような気がする。

別に過去の開花時期の記録を調べたわけではないが、入学式という学校行事日を基準に私の記憶をたどってみると、ほぼ60年前、私の小学校の入学式の時には植えられて数年という桜の若木が枝いっぱいに花をつけていたように記憶している。

米軍のB29爆撃機の大編隊が襲った『大阪大空襲』によって町の中心部はほぼ壊滅、焼け野原の状態となったものの戦後の復興は早かった。
急造の木造校舎が建ち、運動場が確保され、桜などの若木が植栽されれば外見上学校としての体を成した。

入学式は特段の事情がない限り4月1日(4月3日のところも)であり、この日から数日が満開の時期であった。(と記憶している)
s-飯盛霊園の桜009
しかし少々のズレがあっても大阪での満開の時期は徐々に前倒しに
ズレてきていたように思う。
ここ10年から20年くらい前は3月末に満開時期を終えて入学式(4月1日~3日)の時には散り始めていたように思う。
そして、学校で始業式が行われる6日~8日頃には花にかわって可愛い小さな葉っぱが枝を飾り始めていた。

桜の満開が何月何日でなければならないなどという決まりはないし、私の記憶は大阪でのことであり、何処でも同じというものでもない。
桜には、葉を落とした秋から寒い冬を越して、やがて気温や地温の上昇など様々な条件が満ち満ちた時に花ほころぶ独自の時計を持っているのであろう。

そうしたこれまでの私の記憶に比べ、今年の開花は若干遅かったように思う。
s-飯盛霊園の桜001
上の写真は、いずれも4月5日に撮影したものであり、場所は飯盛山霊園である。
この霊園は行政区画上大阪府四條畷市に属するのだが、この地域一帯に住む人々の実生活上のベースは地理的にも交通的にも奈良県になる。
大阪府と奈良県は地理的に南北にのびる生駒山系によって東西に分かれているが、ほぼその北端に位置するのが飯盛山であり、この霊園のある地域は生駒山系の東側、つまり奈良県側になる。

大阪と奈良では気温差が1~2度あり、生駒山系の日照時間も東西では異なるため、生駒山系の大阪側の桜の満開時期は早く、奈良側にあたる飯盛山霊園の満開時期は少し遅くなる。
今年も大阪側の桜は4月3日には満開の状況にあった。
s-飯盛霊園の桜013
場所が霊園(墓地)なので花見で浮かれるという所ではないが、広い霊園に沢山の桜が植栽されているので満開の時期には実に見事な景観を呈するのである。
過去に何度も霊園入り口付近に車を止め、ヘッドライトで照らして夜桜を楽しんできたが、今回初めて日中の霊園内の桜を楽しんだ。

私が子どもであった頃の観桜の思い出が幾つかある。
大阪造幣局の通り抜け、これは八重桜であるが花が重いのであろうか、どの枝も垂れ下がっているのを花の華やかさとは反対に可哀想にという哀れみの気持ちで見ていた。

芦屋の六麓荘に近い叔母の家を訪れるのに国鉄の芦屋駅からボンネットバス(当時はそれが主流)に乗り、くねくね曲がる急坂をバスがあえぐように登って行くのだが、ある高さのあたりから桜の木の枝がトンネル状に道路を覆っている場所を通るのである。
上り坂なのでバスのヘッドライトが前方上方を照らし、桜が満開の時期には白く浮かび上がる夜桜が何とも素敵な光景を呈するのである。
この頃の私は、桜の花は見事だけれど、何だか冷たいものだなあって感じを抱いていたことを思い出す。
s-コピー ~ 飯盛霊園の桜017
今ひとつ。
これは全くツマラン記憶で今でも思い出せば腹の立つことである。
大阪・西区に土佐稲荷という神社がある。
西区も大阪大空襲で焼け野原となり、父方の実家も母方の実家も焼けてしまい土佐稲荷とて同じであった。
戦後復興した土佐稲荷の境内に桜の若木が植えられ、春になれば何本もの桜が花を咲かせるようになった。
そんな満開の時期の夕刻、小学校の低学年の頃だったと思うが母に連れられて桜の花を見ながら境内を歩いていた。
と、1本の桜の枝が手折られて落ちていた。
綺麗な花をいっぱいつけて。
何と無惨な・・・可哀想にと子ども心に痛々しい思いを抱きながら枝を手に取り、母親に可哀想になあと語りかけていた。
そこへ通りかかった多分50過ぎのおじさんといった感じの人が、いきなりのバカ呼ばわり。
それまで聞いたこともないような汚い口調で私を罵り母親にまで罵詈雑言の数々。
桜の枝を折ったのが私だと決め付けてのことで、事情を話しても聞く耳持たずの剣幕。
小さい子どもの私に折れるような枝の太さでないことは一目瞭然のはずなのだが・・・
桜の木を大事にしたいという気持ちがあってのことだとは思うが、この頓珍漢の馬鹿モンのために花見どころか、小さな心がどれだけ傷つけられたか。
当時の年齢からすれば既にこの世を去り仏となっている人であろうが、私の記憶からツマラン思い出は去ってはいない。

もっとも、『人のふり見て我がふり直せ』という私自身の教訓にはなったが理不尽な腹立たしい記憶というものはなかなか消えるものではない。


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June 11, 2010

慶び事

順を追って書くつもりでいたために遅くなってしまった。

2010年3月22日
まったく、この日だけが快晴に恵まれた。
事実、この日の前後数日間の大阪の天候は荒れ続けていたのである。

この佳き日、大阪・生國魂神社境内の桜は三分咲きといった程度であったが、天気ばかりか花までもが新郎新婦の晴れの門出を祝福していた。
s-コピー ~ コピー ~ 正道・麗子 結婚式012
神官、楽人の先導で生國魂神社境内を歩み、拝殿に詣でる。
拝殿にては新郎新婦が本殿に向かって並んで床几に腰を下ろし、彼らの後ろに私ども夫婦が並び座る。
それらを挟み囲むようにご両家のご両親、ご親族が左右に居流れるように腰をかけて挙式の進行を見守る。

一同拝礼の後、宮司が本殿に赴き祝詞を奏上、新郎新婦による誓詞言上、指輪交換、巫女による祝いの舞、三々九度の夫婦固めの杯、その後に親族も続く。

指輪の交換などはキリスト教文化との融合であるが、神社における神前結婚式というものについて私は他の挙式にはない厳粛さを感じる。
誤解を招かないように敢えて書くが、他の宗教や他の結婚式を否定するものでも軽んずるものでもない。
強いて言えば私自身が持つ宗教的心情によるものと言えるかと・・・
そして、この感性は日本人一般と言わないまでも多くの日本人と共有するものであると思う。

神前結婚式としては平成5年(1993年)に奈良・春日大社で仲人を務めさせて頂いて以来になる。
s-コピー ~ コピー ~ 正道・麗子 結婚式2015
新郎は我が息子同様の者、新婦は20数年前の教え子。
二人とも奇しきご縁の方たちであり、私としても感慨深い挙式であった。

ご当人たちの希望でご両親とご親族のみの挙式・披露宴であったが、私どもと新郎新婦の奇しきご縁を語るには時間が短いこともあって、お二方が挙式に至るまでの過程や、それぞれのプロファイルを小冊子として作成させていただいた。
s-コピー ~ 結婚式ファイル001
上の原画は新婦の制作である。
小冊子の内容については個人情報に関わる部分があるので黒塗りにしてあるが先ずまずのものではなかったかと自画自賛の代物である。
s-コピー ~ 結婚式ファイル004
彼らも私ども夫婦に細やかな気遣いをしてくれていた。
披露宴のお料理は道頓堀『今井』、ビールはサッポロ黒ラベル、日本酒は奈良の『春鹿』超辛口と私の好みに合わせてくれていた。
まことに心憎いばかりの配慮であった。

新生活を始める上でお金は幾らあっても要らぬものではない。
できることなら極力質素にと申し渡してあったはずなのに・・・

極めつけは、ご両親への感謝の言葉と花束の贈呈であった。
s-コピー ~ img158
何と、何と、私ども夫婦に三番目の両親としての花束を・・・・・

負けた、負けた。
彼らの気配りの細やかさに負けてしもうた。

感極まり、しばし祝いの席を離れざるを得ん事態に。

「ふたり にこにこ 年を重ねていく そんな夫婦になりたい」と、小冊子に絵とともに書いてた。

ええやないか。

二人が幸せに暮らすことを心より願う。


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June 07, 2010

タイの遺跡を訪ねる (33)  おしまい

タイの遺跡を巡ったのは2009年の12月のことであった。
そして、その紀行文の完了が2010年の6月。
実に半年もかかってしまった。
しかし、半年もの間、これを書き上げるためにのみ時間と日数をかけてきたわけではない。
弁解がましいが、この間にブログページを提供してくれていたドリコム(株)がブログ事業をライブドア(株)に譲渡し、私のページも必然的に他を探さざるを得なくなった。
ドリコムで書き慣れていただけに環境条件が変わると気持ちの上でも変化が生じてしまったのである。
無料で使わせてもらうのだから文句を言えたものではないが、ドリコムではバナーを貼れていたものが貼れないなど、細かな面で異なることも多く少々気乗りしなかったということもあって書き込む機会が遠のいてしまった。

しかし、『タイの遺跡を訪ねる』を尻切れトンボで終わらすのも面白くないので時間を見つけては書き続け、満足したものとは言えないけれども何とか終章に至った。
楽しく自分自身の勉強にもなった旅を思い起こし、その記憶を書き記すことができたことの幸せを感謝せねばならない。
s-タイ遺跡旅行(2)110











上はポアランポーン駅。
バンコク中央駅になるのだが、私はタイの鉄道を利用したことがない。
バンコク市内は何度か訪れているが、ピピ島へ行く場合でもバンコクで飛行機を乗り継ぎプーケットまで行くので鉄道を利用する必要がなかったのである。
しかし、のんびりと鉄道での旅もしてみたいものである。

ラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート王)は現在入院中とのことであるが、お誕生日が12月5日(1927年)で私たちがタイを訪れたのが少し遅れて11日であった。
2010年4月になってバンコクでの暴動が激しく大きいものとなって多くの犠牲者を出しているが、私たちが訪れた時は国王の誕生日を祝うということもあったのか平穏であった。

下は自動小銃を抱えて警備するガードマン。
s-コピー ~ タイ遺跡旅行(2)112
某宝石加工業の店であり、ツアーガイドが案内する店のひとつである。
拳銃だけでも嫌な感じであるが、自動小銃とは・・・
とても恐ろしい感じを受けたのだが、聞くところによると兵士ではなく店が雇っている警備員なのだとか。
警官や兵士以外で小銃を構える者がいることが信じられん思いであった。
タイはルビーなどの宝石の産出と加工では有名だが、私には全く関わりのないもの。
s-タイ遺跡旅行(2)115
写真はバンコクでナイトバザールへ出かけた時に撮ったものだが、バックの
『踊るシヴァ神・Dancing Shiva()の破風と、まぐさ石(lintel・横石)の彫刻『横たわるヴィシュヌ神・Reclining Vishnu』であり、パノム・ルン遺跡の石祠の模造であるが実によく出来ていた

バンコクでの最後の夜に見学のまとめをしたような感じで、なかなか思い出深い良い旅になったと喜んでいる。

以上で『タイの遺跡を訪ねる』紀行をおしまいとしたい。


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タイの遺跡を訪ねる (32)  チャオプラヤー川を下る

昔の人々がエンジン付きの現代のような大きい船で川を上り下りしたということは無いであろうが、1600年代の初め頃、山田長政などの関が原の戦による浪人武士たちが朱印船に乗ってアユタヤへやって来たということなので、それと同じ程度の規模の船がチャオプラヤー川を行き来していたのであろう。
s-コピー ~ タイ遺跡旅行(2)092
写真はチャオプラヤー川の現代の水運の様子。
幾艘も連結された運搬船や私たちが乗る観光船のほか、大小さまざまな船が行き交う。
水上交通は右側通行が原則なので、上の写真はチャオプラヤー川の川幅の半分を写したものであり、この川幅がいかに広いか想像できると思う。
したがって、橋が何本も架けられているというわけではなく、このように多くの船が行き交う航路と直角に交わるように両岸を結ぶ渡し舟も航行するほどの賑わいを示しているのである。

目に映る両岸の景色を写真で見ることにしよう。
s-コピー ~ タイ遺跡旅行(2)081
チャオプラヤー川に面して建つ家々であり、途中交わる運河に面しても同様の家々が軒を連ねていた。
s-タイ遺跡旅行(2)088
しかし、やはり目を引くのは金色が映える大きくて立派なタイの寺院であった。
s-タイ遺跡旅行(2)090
残念ながら上の2つの寺院については名前が分からない。
下は、ワット・プラケオであったと思う。 
一般にエメラルド寺院と呼ばれるお寺で1782年の建立である。
s-タイ遺跡旅行(2)097
エメラルド寺院というのはエメラルド色をした翡翠でできた仏像を本堂に納められていることから呼ばれているもので、歴代のタイ王室の宮殿とともにこの一画にある。
王宮の一部は博物館として公開されており、以前に見学したことがあるのだが、陸上で見る近景と水上のボートから見る遠景とは随分異なった印象を受けるものだ。

ワット・プラケオを左岸に眺めると、やがて右岸にワット・アルンの仏塔を眺めることになる。
s-タイ遺跡旅行(2)102
ワット・アルンは日本人向けに『暁の寺』として紹介されている寺院である。
三島由紀夫の『豊饒の海』(4部作・「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」)の第三部で大阪控訴院判事を退職して弁護士になった本多繁邦がバンコクへやってきた時の舞台になっている。
ワット・アルンというタイ語は「寺・暁」である。
写真は逆光に近い撮影になっているが、順光だと仏塔に埋め込まれた陶器片が光を反射してキラキラ光ることと思う。
ちなみに、暁とは言うもののワット・アルンはチャオプラヤー川の右岸にあるため川の方から明け方のオレンジ光を背にするような写真は撮れない。(どうでもいいことだが、三島もどうでもいい)
s-タイ遺跡旅行(2)107
上は、ワット・アルン(右手の仏塔)と下手にあるウィチャイ・プラシット砦(白い部分)。
この砦の奥にタイ王室海軍指司令部がある。
ウィチャイ・プラシット砦の左にバンコク・ヤイ運河が延びる。

下も同じ方向だが、ワット・カラヤニミットが見える。
s-タイ遺跡旅行(3)022
ここも渡し舟の船着場がある。


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