July 2010

July 21, 2010

久し振りに博多へ 【3】 (博多・祇園山笠)

さて、祇園山笠の追い山について書いたが、7月12日は『追い山ならし』で各流の山が櫛田神社に集まり、舁き手たちが舁き山のコースを駆ける、言わば予行演習にあたる。

もっとも15日早朝の追い山の廻り止めまでは行かないが、それでも4kmの道のりを舁き走るのだが、この日は雨がひどく、とても写真を撮れる状況ではなかった。
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櫛田神社(小雨の間に撮影・14日午前)

13日。 この日も朝から雨。
昨日濡れた衣服をホテルの部屋で乾かしていたのだが朝になっても湿ったままであった。 衣服の着替えはあるが履き替えの靴までは持って行かなかったので、これには困った。
某店のMちゃんに紙を詰めてもらったり、部屋のドライヤーで乾燥させたりしたので随分マシにはなっていたのだが、湿った靴というのは履き心地が悪い。

この日は集団山見せが午後から明治通りで行われるので雨の中を出かけて行った。

下は1番山笠・中洲流の先頭集団。
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アクロス前で雨の中、陣取り待つこと1時間半。

傘をさして観覧する人々が歩道を埋め、自動車の通行が完全に遮断された広い明治通りを舁き手たちの集団が駆ける。
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1番山笠・中洲流の標題は『英雄・鄭成功』。

鄭成功については以前に長崎県・平戸を訪れた折の紀行文でも触れているが、中国・明(1368~1644)末期の軍人で、父は中国人・鄭芝龍、母は日本人・田川 松の間に生まれ、幼少期を平戸で過ごし、後に父の故郷である福建に移っている。
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明は1644年に清に滅ぼされるが、鄭芝龍、鄭成功父子は清と戦うも、やがて父は清側につき、鄭成功は明の復権のために清と戦い続け、厦門(アモイ)、金門島などを制し南京に進軍したが破れ、1661年に台湾のオランダ勢力を追放して本拠となした。

この明国復権の抵抗運動の過程で、鄭成功は亡命政権の隆武帝(朱聿鍵)から『朱』の姓を賜ることとなった。 つまり、国の姓である『朱』を賜った大人ということで『国姓爺』と呼ばれることになった。
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近松門左衛門の『国性爺合戦』における和藤内は鄭成功がモデルとなっているが、近松の浄瑠璃はフィクションであり史実とは異なっている。

ついでに書けば、台湾の台南市には鄭成功の祖廟があるし、鄭成功は台湾の祖として尊敬されている。

ところで、前ページで舁き山笠の舁き手の人数を36人と書いたが、写真を見ていると違っているような気がする。

舁き棒が6本には違いないが、1本の前後に各3人ではないようだ。 博多の連中に確かめることにしよう。
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上は2番山笠・西流の舁き山。

西流の標題は『仁風導和気』。 「じんぷうわきをみちびく」で、歌舞妓狂言組十八番(歌舞伎十八番)のひとつ、『暫』の1場面である。

歌舞伎十八番というのは『助六』『勧進帳』『鳴神』『影清』など歌舞伎・市川家(成田屋)の秘蔵芸、おはこと言えるものである。

以下順次、今年の山笠観覧記といったものにまとめてみることとする。


masatukamoto at 04:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 20, 2010

久し振りに博多へ 【2】 (博多・祇園山笠)

ホテルへのチェックインが遅れたため、衣服や靴の乾燥作業もそこそこに約束の場所・天神中央公園のアクロスまで出かけて行ったが、博多川を越え、中洲を通って那珂川を渡って目的地まで、舗装してあるからと高を括っていたのだが、ドシャ降りの雨では降った雨も流れることなく溜まる一方。

靴底に穴が開いているわけでもないのに、歩くたびに水がどこからともなく滲み込んできてグチュグチュ。

何とか約束の時間に間に合って久し振りの会話に話が弾んだが、外は変わらず激しい雨が降り続いていた。

ところで『山笠』の起源については諸説あるようだが、一般的には宋から博多に帰国した円爾(えんに)が承天寺を開山(1241年)、博多の町に流行っていた疫病退散を祈願して円爾が乗った施餓鬼棚を人々が担いで町を巡ったことに由来すると伝えられている。
s-祇園山笠(2)004
少し細かい字であるが、上の写真は今年五番山笠を舁く土居流(当番・西方寺前町)の日程と順路が記されたもので、7月1日のお汐井取り(各流当番町担当)より神事が始まっていることが分かる。(9日は各流全て)

が、実際には各流とも7月15日に行われる『追い山笠』を終えると翌年の山笠のための準備期間に入り、総務、総代などの役職の交代なども順次行われる。

飾り山笠が7月1日に公開されるので、山のデザインなどは早くに決められ、6月末には組み立てや飾り付けが完了しているといった具合に準備が進められているのである。

お汐井取りというのは、各流の山の舁き手の男たちが神事の安全を祈願して箱崎浜(箱崎宮)の海の砂をすくって持ち帰ることであり、祭りに出向く際、舁き手たちがそれぞれの家を出発する折に清めの塩として体に振りかけるのである。

山笠は舁き山として七つの流、今年は1番山の中洲流から2番山の西流、3番山の千代流、4番山の恵比須流、5番山の土居流、6番山の大黒流、7番山の東流があり、これらの山は各流の男たちによって7月15日早朝4時59分の櫛田神社入りの後、東長寺や承天寺の前などを駆け、追い山廻り止めとなっている須崎問屋街まで約5キロの道のりを重さ1トンもの山笠を舁いて走り、その速さを競うのである。

櫛田神社境内には各流の山笠の神社入りを見下ろすようにコの字型のスタンドが組まれ桟敷券を持っている者だけが指定席に座れるのだが、今回は券を持っていないので舁き山コースの土居町で観覧することにした。
s-コピー ~ 博多・祇園山笠、追い山012
既に1番山笠の中洲流は櫛田神社から東長寺から承天寺あたりを舁いて走っている頃かと思われるが、各流の出発は5分間隔で行われるようになっている。

上の写真の場所は、私が山笠の写真を撮るために陣取った場所であるが、この時点の道路上は未だ見物人の数は多くない。 雨が降っていたこともあって見物人たちの殆どは軒下で雨宿りをしていた。

写真の女性は山笠の舁き手たちにかける水(勢い水)をバケツに蓄えているのだが、舁き山のコース上には至る所にポリバケツが据えられている。

山笠は、言わば熱か博多もんの、つまり血気盛んな男たちの祭りであるが、その裏方は博多の女性たちが務めているのである。
s-コピー ~ 博多・祇園山笠、追い山013
舁き山コースの道路確保のために先触れの者たちが走り過ぎた後、流の各町(丁目)を墨書した先導集団が走り抜けて行く。
s-コピー ~ 博多・祇園山笠、追い山014
次に将来の舁き手となる子どもたちも大人たちに引率されて走って行く。
この頃になって雨も上がり、カメラも自由に扱えるようになったが、直ぐ前で盛んに勢い水が撒かれるのでシャツもズボンもびしょ濡れ。
s-コピー ~ 博多・祇園山笠、追い山016
オイッサ、オイッサの掛け声が続く。

いよいよ舁き山の集団が近付いてくる。

長い道のりを1トンもの山を舁いて走るのだから全てを同じ人物がというのは無理がある。
そこで、途中の舁き手交代が行われるのだが、山と共に走っているのが舁き手の交替要員である。

だが、追い山廻り止めまでの時間を競っているのだから山を止めて交替することはできない。
私は見たことがないのだが、走りながら交替するのだと聞いたことがあるだが、これはとても危険なことだと容易に想像がつく。
s-コピー ~ 博多・祇園山笠、追い山017
柱のような磨き丸太の棒が6本平行に並べられた上に山笠が組まれており、その舁き棒の前後に3人ずつ。 だから舁き手が36人。 
そして、山の四方に角を曲がる時の制御役が4人いるのではなかったろうか。 山に乗る人を除いて40人で山を舁き走るのかな?

間違っていたら御免。

《上の4枚の写真は、いずれも追い山での中洲流》

山笠の舁き手たちのいでたちは下の写真のように、水法被に腰は締め込み(相撲取りのまわし状のもの)に地下足袋。
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腰には舁き縄を挟み込んでいる。
この舁き縄を舁き棒に巻いて舁き位置を固定して走るようだ。

《上の写真は、集団山見せの際の中洲流の舁き手たち》

下の写真は、追い山廻り止めまで走り抜けた後、昭和通りを東進する千代流の山。
s-コピー ~ 博多・祇園山笠、追い山026
数年前、博多の船長とS君の計らいで櫛田神社の桟敷席で櫛田入りする各山の様子を観覧させてもらった。

先にも書いたが、七つの流の舁き山が順に櫛田入りするのだが、今年は1番が中洲流だったので、来年は西流が1番となって中洲流が7番となる。

1番に当たった流だけが櫛田入りの際、清道旗を回った後『博多祝い歌』を歌う。
    ♪ 祝いめでたの 若松さまよ 若松さまよ
      枝も栄ゆりゃ 葉も茂る         
      エーイーショウエー エーイーショウエー
      ショウエ ショウエ ションガネ
      アレワイサソ エーサーソー エー ションガネ ♪

そして、七つの流の山が櫛田神社を出た後、8番、これは毎年8番のしんがりを務めるのが上川端通・八番山笠の『走る飾り山笠』である。
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この『走る飾り山笠』は高さが約10メートルもあり、上川端通商店街で飾り山笠として展示されているものである。

飾り山笠は文字通り飾られているだけのものであるが、14基ある飾り山の中で唯一舁き手によって櫛田神社入りを行い、きちんと清道旗を回るのが、この山である。
他の舁き山のように追い山の全コースを走るわけではないが、山の高さや装飾、全重量などに思いを致せば、この山の櫛田入りが如何に勇壮なものか想像に難くない。

今年の表標題は『博多風神雷神恵』で、右手の青い色の風神の口からは白い煙を勢い良く吐き出しながらの櫛田入りだったらしい。
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上の写真は見送り標題を『忠勇士景清』と題した作品である。

表の写真では最も上の部分が見えにくくなっているが、表と見送りの間には仏様の光背のようなものが設えられ、双方に異なる人形が配置されている。

ちなみに表は櫛田神社の方向に向かい、見送りは神社に背を向ける方向となっている。

随分昔、多分明治期以前かと思うが、この飾り山のようなのを舁いていたらしいけれど、電線など町が発展する過程で背の高い舁き山の通行に支障が出るようになってきたので、現在の舁き山のような規模のものに変わってきたらしい。

以前に櫛田神社の特設スタンドで観覧した時には、清道旗をぐるりと廻り込む際に重心が高いので倒れはしまいかと心配したほどであった。
(つづく)      


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July 18, 2010

久し振りに博多へ 【1】 (博多・祇園山笠)

「いつ来ると?」
「いつ来んしゃると?」

博多の友人から電話がかかると問われる言葉。

「明日にでも」
と言いたい気持ちを抑えて、とうとう7ヶ月。

台風のような強風とドシャ降りの雨が12日(月曜)の朝になっても続いていたが、意を決して祇園山笠を見るため11時に我が家を出発し、博多へ向かった。

新大阪駅から通常『ひかりレールスター』に乗るのだが、16時に天神で友人と会うことにしたので『のぞみ』に乗車。
『ひかりレールスター』は喫煙可能車両が連結されているので自分の座席でタバコを吸えるし、2・2の4列座席で肘置き部分が広くゆったりしていて好都合なのだが、『のぞみ』は7両目の一部に喫煙ルームを設けてくれてはいるものの、タバコを吸うためには手荷物を放っておいて喫煙ルームまで出かけなければならないために一人旅の場合は困るのである。
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左が『のぞみ』の喫煙ルーム。

通路の窓側に6人ほどが立ってタバコを吸える場所があり、手洗いなどが並んで設置されているのである。

とても狭いスペースではあるが、この配慮は有難いものだ。

飛行機は速いけれど機内全面禁煙の上、搭乗している時間だけが禁煙ではなく、搭乗する以前から到着空港を出るまで禁煙である。

欧米への飛行の場合、12時間、それに搭乗前後の時間を加えれば14~5時間もの禁煙を強制される。
イギリスのヒースロー空港などは空港の建物全体が禁煙だから乗り換えなどとなれば更に禁煙時間が延びることになる。

航空機の安全だのなんのと理由づけているが、喫煙ルームを設置するよりは飛行機の座席を増やす、つまり利益至上の考えを優先させているだけなのである。と、私は思う。
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喫煙ルームに窓はひとつ。 欲を言えば横長の喫煙ルーム全面の窓か、写真のような窓を3~4枚設置してあれば明るくて良いと思うのだが。

完全分煙も良いだろう。非喫煙者もいるのだから。

喫煙ルームの汚れがひどいことも分かっている。清掃を担当してくれている人たちには感謝。 そうしたもろもろの条件がある中で喫煙ルームを設置してくれているJRにも感謝せねばならない。

そんなことを思ううちに『のぞみ』は博多駅へ到着。

山陽から小倉もドシャ降りであったが博多もひどい雨であった。
リニューアルして綺麗になった博多駅を見てまわることもなく、タクシーに乗車しようとするもタクシー乗り場に雨水がたっぷり溜まっていたため、博多到着早々から靴もズボンの裾も濡れ鼠状態。

いつもの宿・冷泉閣川端ホテルに向かうも『追い山ならし』で『山』が集まり、櫛田神社から冷泉公園周辺は交通規制がかかってタクシーもホテルまで行けない。
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       《写真は博多祇園山笠振興会の地図より》
凄い雨だからとタクシーを使ったが、結局は地下鉄で中洲川端まで行き、川端通商店街のアーケードを歩いて行くのも変わりがなかった。

商店街からホテルまで近いとはいうものの、ひどい雨のために傘だけではどうにもならず、ホテルにチェックイン後の最初の作業は部屋で濡れた衣服や靴をドライヤーで乾かすことであった。

山笠の時期、博多では『山』が最優先、最上位となる。


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July 01, 2010

痛みも解消・・・阪神VS中日

6月29日(火)。
息子がくれた甲子園球場のチケット。 18時試合開始の阪神対中日戦のものであり、座席はライト外野席の前の方である。

阪神ファンなら知っていることだが、甲子園球場で最もウルサイ場所である。

私はプロ野球・高校野球を通してバックネット裏(銀傘の下)とアルプス席しか座ったことがなく、レフト・ライトにかかわらず外野席は初めてとなる。

近鉄電車と阪神電車の相互乗り入れが行われているので、我が家から甲子園駅まで乗り換えなしで行けるようになり、とても便利になった。
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(試合開始直後の球場)

ただ問題は天気である。

バックネット裏など内野席の銀傘下なら雨でも大丈夫だが、アルプス席や外野席は雨天の場合は大変なのである。

試合途中から雨が降り始めたなら傘を差すか退席するという方法があるが、狭い座席で傘を差すというのは危ないし観覧の邪魔になるのである。仮に小降りであっても試合開始前から雨が降っていたなら座席は濡れているので、これまた大変なのだ。
s-甲子園・阪神VS中日017
朝からどんより曇り空だったので心配していたのだが、試合が進むとともに分厚かった雲が切れ始めてきた。

将に暗雲が去るのに合わせるようにしてタイガースの勝機がどんどん開けていく感じであった。

上の写真左手のレフト外野席(中日の応援団=青色)に空席があるものの、3塁側も黄色や白色(いずれも阪神ファンのシャツの色)で埋まっている。
s-コピー ~ 甲子園・阪神VS中日013
この試合はブラゼルが3発、城島と新井が1発ずつホームランを放ち、7回を待つまでに勝敗が決する流れであった。
s-コピー ~ 甲子園・阪神VS中日014
阪神タイガース応援の名物おばちゃんの応援が効いたのか、ボカボカポンポン打つわ打つわ、これほど気持ちのええ試合運びも珍しい。

s-コピー ~ 甲子園・阪神VS中日020肩から手にかけての痛みもこの時には感じず、学生アルバイトのネエチャンが運んでくる冷えたビールも格別に美味かった。

球場のビールはちょっと高いけど、若い子、努力し頑張る子を支援したいシンドロームの私はついつい注文してあげたくなってしまうんやなあ。

写真のこの子、本日大もて。

重たい生ビールのタンクと炭酸ガスのボンベを背負って球場の階段を上り下り。 これは重労働である。

一番下の通路に手配師?販売監督?何や知らんけどアサヒビールもキリンビールも30代か40代前後の未だ若い男の見張り役みたいなのが立っとる。 まるでビール販売の女の子のヒモみたいにして。 これはオカシイ・・・ぶっはははは  頭隠して尻隠さずという言葉があるが、見えんように工夫せえよ。 ハッキリ言えば不快。

球場で売られているビールは、アサヒスーパードライとキリン一番搾りだけ。 正直に言えばコレもツマラン。 何んでサッポロやサントリーを入れんのんや。 ははははは、コレハ球場の問題か。 やはりツマラン。
s-コピー ~ 甲子園・阪神VS中日022
ともあれトラッキーも張り切っとった。

金本知憲の1492試合連続フルイニング出場のギネス世界記録認定の祝いも行った。

1997年7月21日から2010年4月17日まで、実に13年間の皆勤賞。 体が頑健であるというだけではない。 野球の技能が他より抜きん出ていなければ達成できない記録である。
s-コピー ~ 甲子園・阪神VS中日003
この日も金本は出場したので連続試合出場の記録更新は続いている。

上の写真は頂いた記念品の下敷き。
s-甲子園・阪神VS中日033
この日のナイターは風船が舞い上がるような高揚した気分で楽しむことができた。

この調子を持続してくれれば良いのだが・・・

何もかも。



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旬の便り ほや

6月に入り海幸山幸と旬の物が市場に並ぶ。

旬の物というのは自然の時節に合った食べ物を言うのだが、現代は食べ物に季節が無くなったとよく言われる。

品種の改良、栽培方法の開発・改善など生物科学の発達や栽培生産の向上など科学技術の進歩に合わせて農産物も時を選ばないという状況が生まれている。

更に交通の発展が移動時間の大幅な短縮という状況を生み出し、地球の真反対の地域であっても1日~2日で移動が可能となった。
しかも、輸送技術、保存技術の向上によって昔は現地へ行かなければ口にすることのできなかった産物をも手に入れ味わうことが出来るようになった。

雪が降り積もる厳冬の時期に筍を掘って父親に食べさせたという親孝行の息子の話があるが、朝掘りの大きい立派な筍が市場に並ばなくても、今や筍は1年中手に入れることができる。

旬の物と呼ばれる物が無くなり、親孝行の話も伝わりにくくなってしまったということである。
s-甲子園・阪神VS中日001
写真は『ほや』の剥き身を袋詰めにした物。

『ほや』は『海鞘』とも『海鼠』とも書き、球卵形の暗紫色か暗赤色をしたホヤ目の生物で岩礁地帯の海に固着し、海中を浮遊する微生物を入水孔から取り入れ体内で濾過吸収して出水孔より吐き出すということをしている。 外皮の殻は硬く全体にイボのような突起があるので、形や大きさなどから『爆弾』とか『手榴弾』などと呼ぶこともある。
以前に写真で紹介しているので、この文章のどこかをクリックしてもらえば全体の形を見ることができる。


『ほや』の旬は6月から7月と言われ、もともとは夏の食べ物であるが、近頃は冬場でも手に入れることができるらしい。

先日、『
ママ
』が送ってくれた『バクダン』は上の写真のような剥き身を海水(薄い)と共に冷凍した物であった。(写真は2袋のみ)

剥き身で送って頂いたのは初めてであったが、とても有難く嬉しいことであった。

と言うのは、老化現象の症状のひとつであるが、頚椎の椎間板が磨耗し、神経を刺激していることによる激痛と痺れのために左肩から腕、手、指先に至るまで通常の機能を果たし得ない状況であったため、せっかくの旬の物を送って頂いても調理できる状況になかったからであり、このことを知った『ママ』が気を利かせてくれたのである。

『ほや』の硬い木質の外皮を切って中身を取り出すのには結構な力が必要なのだが、とてもそれができる状況ではなかったのである。

今回の激痛は3度目。年に1度の割合で大きいのに襲われ、最初は10日間ぐらいで痛みが和らいだのだが、2回目の時は2週間、今回は20日間を過ぎて痛みが少し和らいできたものの未だ痛みが無くなったわけではない。

痛み止めの3種類の薬を飲み、湿布薬をべたべたと貼りまくり、時々襲う激痛時には頓服の座薬を挿入するという何とも情けない仕儀を繰り返しているのである。

だから、大好物の旬の『ほや』を剥き身にして送って頂いたことは何とも御礼の言葉も言い表せないほどに嬉しく喜んでいるのである。
ただただ感謝、感謝である。

付け加えるが、剥き身の冷凍であっても磯の香りに味わい、白桃のような身の形、それに食感、多分洗ったために薄くなった海水の塩味も、何もかも変わらず、とても美味しい。

『ほや』も養殖されるようになり、輸送技術の向上や保存法の改善などによって時や所を選ばない食べ物になってきた。 が、旬を知っている者にとって旬の食べ物は『やはり旬が一番』である。

今一度、「『
ママ』、ありがとう」。


masatukamoto at 06:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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