October 2010
October 22, 2010
当尾~佐保~信貴山 (8) 朝護孫子寺【2】
信貴山は平安中期頃には衰微しており、937年に僧・命蓮が大和国に差し出した『信貴山寺資材宝物帳』には寛平年間(889~898)彼が信貴山に参登した時、毘沙門天1軀を安置した円堂一宇を残すのみであったが、延喜年中(901~923)新たに金剛界五仏を安置する堂を建立、延長年中(923~931)には本堂を改築して釈迦三尊をおさめ、次第に僧坊・中房・客殿などを整備したと『奈良県史 6』(P.490)に記されている。
つまり命蓮は信貴山寺中興の祖ということである。
この僧・命蓮は信貴山寺参籠中に様々な奇跡を行い、それが『信貴山縁起絵巻』や『宇治拾遺物語』に記されており、信貴山を語る場合に無視できない人物なのである。
『信貴山縁起絵巻』については以前に『源氏物語絵巻』、『伴大納言絵巻』、『鳥獣人物戯画』とともに紹介しており、重複するので簡単に記しておく。
上の写真は『信貴山縁起絵巻』の「延喜加持ノ巻」で剣鎧護法(けんがいごほう)童子が輪宝を廻しながら天を駆ける様子。
郵便切手に絵の一部が採用されたことがあるので知っている人も多いことと思う。
『信貴山縁起絵巻』は「飛倉ノ巻」「延喜加持ノ巻」それに「尼公ノ巻」の3缶からなる。
写真の童子は沢山の剣を鎧にして天を駆けているのだが、輪宝が勢いよく転がり、童子の体の動きに合わせて沢山の剣がジャランジャランと音をたて、一目散に走る童子の表情や手足の動きなど躍動感あふれる絵だと感心してしまう。
残念なことに『信貴山縁起絵巻』は何時でも見れるわけではない。
本物は確か奈良国立博物館で管理保存されていると聞く。
当尾~佐保~信貴山 (7) 朝護孫子寺【1】
この日に昼食を予定していたお店が定休日であったことを忘れており、少々慌ててしまうという不手際があったものの、ほぼ予定通りに信貴山朝護孫子寺の駐車場に着いた。
随分以前はケーブルカーで上がったものだが今はバスかマイカー。
マイカーや観光バスは仁王門下の駐車場まで行くことができるが、路線バスの停留所(以前のケーブルの駅)からは少しばかり歩かねばならない。
バス停留所から緩やかな坂道を上ってくると写真の千体地蔵の前に出る。
実際に何体あるのか数えたことはないが随分の数である。
奉納〇〇水子の霊などと書かれていたから、流産したか生まれて間もなく他界した赤子たちの供養のために建てられたものなのだろう。
千体地蔵から仁王門は直ぐである。
仁王門には『信貴山』の扁額が掛かっている。
仁王門から本堂と信貴山方向を眺めたのが下の写真である。
信貴山歓喜院朝護孫子寺と号し、信貴山寺とか志貴山寺と書いたりする。
信貴山寺の創建は定かでないが寺伝によれば、敏達天皇の世、聖徳太子が582年の寅年寅の日寅の刻、この山で毘沙門天王を感得されとし、用明天皇の世、587年7月3日、聖徳太子が毘沙門天の御加護によって物部守屋を討伐し、自ら毘沙門天王像を刻んでこの山の守護本尊として祀られたとしている。
左の本堂には毘沙門天王が祀られ扁額も掲げられている。
『奈良県史 6』によれば「天台僧承澄(1205-82)の『阿娑縛(あさば)抄』によれば、道鏡がこの寺に詣でたとの伝承があり、創建は天平勝宝年間(749-57)以前にさかのぼる」と記している。
しかし、これは傍証に過ぎず、創建時期については分からない。
5世紀6世紀の頃には日本でも漢字は使われていたと考えられるが、文書による記録が行われていたのかどうか、今日までそうしたものが発見されていないし、六国史と呼ばれる我が国史のひとつ『日本書紀』が完成したのも720年のことであるので信貴山寺の創建時期については分からないと言う以外にない。
しかし、4世紀後半には当時の朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)に仏教が公伝されていたことと日本と朝鮮半島との交流を考えれば、我が国への仏教の公伝が552年とも538年とも言われているが、実際にはもっと早い時期から渡来系の人々によって仏教信仰が持ち込まれていたと考えてもあながち間違っているとは言えないであろう。
左は本堂の舞台から東方を眺めた写真で奈良・三郷町、斑鳩の法隆寺(607年創建)、大和川が遠望できる。
この信貴山は南北に連なる生駒山系南端の峰で、大阪湾に注ぐ大和川を境にして南側に二上山から葛城、金剛山地へと続く。
二上山(ふたかみやま)や葛城の山の東方に6世紀から7世紀にかけての飛鳥京や藤原京が位置する。
飛鳥京とは6世紀末~7世紀末に飛鳥地方に置かれた豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮などを言い、藤原京は平城京に遷都されるまでの持統天皇・文武天皇・元明天皇3代の都(694~710)のことである。
『日本書紀』の記述内容を全て真とするには学問上問題があることは明らかだが、事象悉くを偽とすることができないことも又確かなことである。
(写真・参道よりの景観)
聖徳太子が物部守屋を討伐したという出来事は実際にあったことであろう。
いずれの世界、いずれの世も人間世界は権力抗争の絶えないものであり、歴史は権力が作るものと言っても過言ではない。
聖徳太子の時代も権力を求めて豪族たちが蠢き、権謀術数を弄して魑魅魍魎の世界を繰り広げていたのであろう。
大和の地には葛城、巨勢、和邇(和珥とも春日とも)、蘇我、物部、大伴の各氏、そして生駒山系の東側には平群氏、大阪・河内側には土師氏や志貴(志紀)氏、物部氏の本貫も河内(現・八尾市、東大阪市あたり)にあった。
(写真・参道の景観)
当時のことは仏教の伝来だけでなく、渡来人たちがもたらした様々な技術や彼らの生活、それらと飛鳥・河内の豪族とのつながりなどを権力との関わりで見なければ分からない。
聖徳太子が何故に蘇我馬子の側に加担して物部守屋を討伐したのか、その背景には比較的早くから渡来人と交流を図る過程で彼らが持つ技術を評価し、仏教に帰依する姿勢が蘇我馬子にあった(崇仏派)ことと、厩戸皇子(聖徳太子)が蘇我氏との血縁が深かったことなどがあげられるが、底流には権力の掌握ということが最大の目的としてあったと考えるのが妥当であろう。
結果、仏教を外国の神(蕃神)として廃仏派を率いていた物部守屋であったが、身の危険を感じ自らの領地である河内に退いていた守屋を豪族の多くを味方につけた蘇我馬子らが打ち滅ぼしてしまうことになったのである。
現在の八尾市の渋川・跡部から東大阪市の衣摺にかけての戦である。
これによって物部氏は滅び、蘇我馬子は天皇家との姻戚関係を一層強め、蝦夷、入鹿の代へと続くのである。
聖徳太子は四天王寺、法隆寺、広隆寺などを建立し、蘇我馬子は飛鳥大仏で有名な法興寺や豊浦寺を建立し、仏教を広めることに尽力した。
随分横道に反れてしまった。信貴山寺と直接関わりがないのでこれくらいで。
October 19, 2010
当尾~佐保~信貴山 (6)秋篠寺
秋篠寺と言えば重要文化財に指定されている伎芸天立像があまりにも有名である。
均整のとれた姿形が美しいというだけでなく、やや首を傾げて参拝者を見つめる顔は慈愛に満ちている。
秋篠寺も本堂内部での写真撮影は禁じられている。
それゆえ本堂内で伎芸天の大判写真や左のような組写真の葉書を頒布している。
写真は葉書の内の2枚とカバーを撮影したものだが、実際の葉書に秋篠寺の白文字は入ってはいない。
白文字は写真転用防止のために私が入れたものである。
伎芸天というのは仏教における大自在天の髪際から化生したとされる天女であり、福徳・技芸を守護すると言われる。
大自在天は魔醯首羅(まけいしゅら)、つまりヒンドゥー教の最高神であるシヴァ神の異名であり、仏教と混じる中で護法神となって常に白い牛(ナンディン)に乗っている神のこと。
秋篠寺の伎芸天の顔が黒いのだが、寺のしおりによれば、「頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像」と記してある。
つまり、頭から下は鎌倉時代に寄木で造られたものだが、頭部は芯材(木か土)で造り、その上に麻布を重ねて漆で固めつつ形を造り、後に芯材を外して顔料を塗り重ねていくという技法を用い、奈良時代の後期に制作されたものだということである。つまり頭内部は空洞であるということ。
秋篠寺の伽藍配置からすれば現在の南門が正門のようなものなのだろうが、私たちは車で訪れたため駐車場に近い写真の東門から入った。
この秋篠寺の創建については寺のしおり『秋篠寺沿革略記』によると、「奈良時代末期宝亀七年(776)、光仁天皇の勅願により平城宮大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基(後略)」としているが、『奈良県史 6』のP.67では、「宝亀六年(775)に光仁天皇の勅願によって創建された寺」と記されている。
たかが1年のことと思いはするものの、やはり気にはなる。
上の東門を入って直ぐ左手に写真の香水閣がある。
石柱で囲われた奥に建物があり、そこに閼伽井(アカイ・仏様に備える水を汲む井戸)があるらしいが囲いの中に入ることはできない。
石の門柱には『清浄香水』『味如甘露』と彫られている。
何でも平安時代に僧・常暁が大元帥明王像を霊験したという場所で、以後、秋篠寺は真言密教道場として発展したらしい。
閼伽井の前を通ると十三社の祠があり、左の写真の小径を奥へ真っ直ぐ進んで行くと南門に至る。
詳しいことは知らないが、秋篠寺の境内に神社としての祠(社)が祀られているというのは神仏習合の表れであろうと思われる。
この十三社を通り過ぎると、今は緑の苔がびっしりと地表を覆い、カシなどの木が林立する所に出る。
1135年の大火に遭うまでは金堂が建っていた所らしい。
上が秋篠寺の本堂(国宝)。
鎌倉時代に大修理を受けた建物らしいが、これまで見てきたお寺と同様、奈良時代の寺院建築の様相を示している。
左は大元堂。
秘仏・大元帥明王(たいげんみょうおう)像が祀られている。
大元帥明王像は冒頭の葉書の左側であるが、憤怒の形相、青色の体で国家鎮護の本尊として崇められてきたという。通常一般に公開されない秘仏であり私も見たことがない。
左は開山堂と、下は役行者の石碑。
役行者と言えば修験道を思い浮かべるように、修験道の象徴とも言える役行者の石碑が秋篠寺の本堂と開山堂の間に建てられている。
それが何故なのかは分からない。
が、修験道の台密や東密との混淆の歴史を思い浮かべれば、ふむふむと納得できるような気もするのだが実際の経緯については分からない。
秋篠寺開基の僧・善珠は法相六祖の一人とされているので密教との結びつきからと思っても大きくハズレていることはないだろう。
本堂から南門へ向かうと左手に写真のような礎石が晒されているのを目にする。
大火に遭う以前、この場所には東塔が建っていたらしい。
この東塔跡と対称的な位置に西塔跡があるのだが、小径(本堂への参詣道)からは見えにくい。
左の写真は南門から本堂への参詣道を撮ったもの。
緑のトンネルの右手に東塔跡、左手に西塔跡がある。
南門の外からの眺め。
秋篠寺の大伽藍が建っていた頃の南大門は、この写真を撮影した位置の更に後ろの方に建っていたらしい。
この写真の右手緑の所に東塔が建ち、左手の緑の所に西塔が・・・
現在の薬師寺を見るような風景がこの場所からも見れたに違いない。
1135年の大火の後、幾多の修理復興事業を重ねるも寺勢は衰退し、とりわけ1868年に出された神仏分離令を契機に起きた廃仏毀釈の運動の過程で秋篠寺も他の寺院同様極端な衰退に陥ったと言う。
藤原不比等が8世紀、平城京遷都と同じ710年に建立した興福寺は千百数十年の間、その寺の権勢を維持し続けてきたが、明治の廃仏毀釈の大嵐の中で寺の壁は破壊され、果ては寺仏や五重塔まで手放さざるを得ない寸前にまで衰退し、現在は境内が奈良公園になってしまっているほどである。
これは明治新政府が神道を国家宗教にと目論んだことが主因であり、何とも馬鹿げたことをしでかしたものだと呆れるばかりである。
勿論、江戸時代に政治的に一定保護・利用されてきた寺の既得権益を減らすという利は稼げたであろうが、政治が宗教をもて遊び利用するという最低の大馬鹿なことをやったのである。
上の写真は秋篠寺南門の直ぐ前に建つ八所御霊神社。
創建は780年で崇道天皇や橘逸勢らを祭神とし、秋篠寺の鎮守社とされているから、これも神仏習合の例と言える。
October 17, 2010
当尾~佐保~信貴山 (5)屋根瓦の疑問・海龍王寺
平城京の地割(ここをクリックすれば平城京の地割を表示)での平城宮の北側の東西路が北一条大路。
北一条大路というのは、現在復元されている第一次大極殿の直ぐ北側の道路と考えて良い。 この道路の佐紀交差の北東に平城天皇陵がある。
そして平城宮の中あたりの東西路が南一条大路で、この道を東へ進むと東大寺の転害門に至る。
平城宮から東大寺の転害門に至るこの道を佐保路と呼び、逆に西大寺の方への道を佐紀路と呼んでいる。
海龍王寺や法華寺については『奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 』〔1〕Nov03,2009~〔6〕Nov10,2009にて紹介しているので新規記事は省くことにする。
なお、当該ページへは上のテーマをクリックすればリンクしている。
上は海龍王寺の本堂であるが、拝観を終えた兄がひとこと。
「本堂の屋根の鴟尾が左右違うね。」
えっ?
不思議なことを言われると思って屋根の上をよくよく見れば長靴を逆さにしたような形の鴟尾ではない。 しかも欠けているのか完全な形をしているとも思えないし、左右のデザインも異なっているように見える。
屋根の部分を拡大してはみたがイマイチはっきりしない。
本堂に向かって左側の屋根の上のものである。
これは本堂に向かって右側の屋根のもの。
ちょうど住職がおられたので、
鴟尾が左右異なっているのはどうしてかと尋ねたところ、
これは「鴟尾ではないのです。」と。
私はハッキリと確認できなかったのだが、明らかに東大寺・大仏殿の鴟尾とは形が異なることは視認できた。
龍なのかシャチ(鯱)なのか・・・
海龍王寺を訪れる方は注意して見られると良いと思う。
住職の話では、鴟尾でないことも左右の物の形が異なることも文書や言い伝えはないそうな。
October 16, 2010
当尾~佐保~信貴山 (4)不退寺
正しくは金龍山・不退転法輪寺と言う。
下の写真は本堂。 1300年代後半の建築で重要文化財。
不退寺は現在の奈良市法蓮東垣内という地名に在するが、平城京の地割では左京北一条四坊の地あたりになる。 つまり平城宮の北側の東西路を東へ約2kmの場所ということになる。
もともとは業平の祖父にあたる平城天皇が平安京にて即位したが、病気のために嵯峨天皇に譲位し、平城京《現在の不退寺の地(らしい)》に隠棲した。
この隠棲した所を「萱の御所」と呼んでいたようだが、その後、阿保親王が住み、やがて在原業平が父親・阿保親王の菩提を弔うために自ら聖観音を彫って不退転法輪寺と号したことが不退寺の始まりであるとされている。
そうしたことから不退寺は業平寺とも呼ばれているのである。
上の系図はウィキペディア『平城天皇』の項から引用。
左は海龍王寺で頒けて頂いた写真『佐保路の三観音』であり、左側が不退寺の『聖観世音菩薩立像』である。
中央は法華寺の『十一面観世音菩薩立像』。
右側が海龍王寺の『十一面観世音菩薩立像』。
『聖観世音菩薩立像』を拡大したのが下の写真であるが、いずれのお寺も堂内での写真撮影は禁じられているので仏像の紹介は各寺院が頒布するモノを利用する以外にない。
しかし、購入したからといって著作権をも買い入れたわけではない。不退寺でも写真絵葉書を購入したが、写真その他制作物については基本的に著作権があるので商業的利用は当然のこと出来ない。
書籍、研究論文など公刊されているものについての部分引用は出来るが、その出典を明確にしなければならないことも著作権上当然のことである。
ブログというものを日記程度に解釈している私にとって、引用は私的な使用と思っているが法律の専門家でない私に詳しいことは分からない。 お叱りを受ければ引用写真を削除せねばならない。
話を元に戻そう。
桓武、平城と続く天皇直系になる業平であるが、在原という一般人の姓を名乗るようになったのは嵯峨天皇が即位したことによると言っても良い。
上の系図からも天皇の譲位がスムースにいったとは想像できない。 その背景には虚々実々、権力争奪の激しい駆け引きが行われていたようであり、平城天皇の薬子の変など様々な史実が今日まで明確にされている。
ともあれ業平が名門の出自であることに違いなく、当時の皇族・貴族の必須である漢字、平仮名の読み書き、和歌、音楽に長けていたことは想像に難くなく、狩にも長じていたという。 更に性格大らかで見目麗しい好男子であったらしい。
とりわけ和歌に関しては、古今集序に論評された六歌仙の一人として有名である。
ちなみに和歌の名人としての6人には業平の他、僧正遍昭、喜撰法師、大伴黒主、文屋康秀、小野小町が挙げられている。
また、藤原公任撰の三十六歌仙では柿本人麻呂、紀貫之、大伴家持、山部赤人らとともに名を連ねている。
上の石碑は不退寺境内に据えられているものだが、
業平朝臣
ちはやぶる
神代もきかず
竜田川からくれないに
水くくるとは
と刻まれている(少々読みづらいが)。小倉百人一首に含まれている。
境内の石碑には今一つ。
於ほ可たは津きをもめ
て新古礼曽こ能徒裳れ
は人のお伊登奈る毛乃
陽成天皇のご宸筆と伝えられるものを石に刻んであるのだが、これは古今和歌集・巻第十七・雑歌上にある業平の歌である。
「一般的な気持ちで言えば、月を賞美する(めでる)ことはすまい。この月こそは、積もり積もると人の老齢(老い)となるものなのだ。」参考・P.266古今和歌集(新日本古典文学大系 5 岩波書店 1989)
容姿端麗・秀麗眉目・温厚篤実・博識多才・・・何となんと
まったく羨むべき人物であるが在原業平という男を評した言葉である。
また、他面では放縦不羈(ほうじゅうふき)の色男と評され、スペインの漁色放蕩の男・ドン・ファンに比肩されている。
「むかし、おとこ、うゐかうぶりして、平城(なら)の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり(後略)」より始まるのは伊勢物語である。
この伊勢物語は上記第一段の元服した『おとこ』が狩に出て、春日の里で美しい姉妹と出会うことから始まり、男女の色恋を中心に百二十五段の説話で構成されている。
業平の歌をもとに『おとこ』の色事を中心にまとめられ、最終の百二十五段において、
病して弱くなりにける時、よめる 業平朝臣
「つゐにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」
という古今集・哀傷にある業平の歌を『おとこ』の辞世の歌としていることや情事の相手などから、この物語の主人公の『おとこ』は在原業平であるとされているのである。
左は不退寺の南門で鎌倉時代末期の建立で重要文化財の指定を受けている。
下の写真もほぼ同時期に建てられたらしい多宝塔。
江戸後期、寛政年間には2層の多宝塔であったらしいが、写真の通り、現在は初層のみになっている。
不退寺は時折近くを通るJRの電車の音が聞こえるが自動車が頻繁に走る道路からは随分離れているため、奈良・法蓮の地にありながら静かな里の寺という印象を受ける。
平城天皇は平城京に都を戻したい意向を持っていたらしいが叶わずに、平安京は1000年を越える期間、都であり続けた。
平城天皇の子・阿保親王は薬子の変に連座して九州・太宰権帥として左遷されたが、やがて都に戻り官職についた。
この阿保親王の子・業平も都での官職に就いたために業平の住まいは京の都にあった。
現在、京都市中京区の烏丸御池を少し東へ行った所に業平邸跡の石碑が建っている。 平安京の条坊で言えば左京・東洞院大路と高倉路の間にあって、三条坊門小路と姉小路に挟まれた区域であるから広い。
その広い邸宅で優雅に生活していた業平のことである。
史実や伊勢物語に見る華やかなイメージの在原業平の姿は、とても現在の不退寺の様子からは想像できない。
《おまけ》
左の写真は石棺。
5世紀の頃のものらしく、近くのウワナベ古墳付近で発見されたものだという。
不退寺の庫裏の横にある。
ウワナベ古墳というのは平城京の左京の北側、佐紀盾列古墳群の東端に位置する前方後円墳で規模が大きい。
平城京の大極殿の北一帯には多くの陵墓が点在し、平城天皇の御陵もある。