November 2010
November 29, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【4】 マドリッド(Ⅱ)
《続き》
当初、ルイ14世は自分の妃マリア・テレサ(テレーズとも。スペインの王女でカルロス2世の姉)との間にできた王太子グラン・ドーファンを王位後継候補に推したが、フランスの王とスペインの王が同じ人物になることに対する反対論が多く、孫のアンジュー公フィリップを王位継承者として推した。
また、姻戚関係にあるオーストリア・ハプスブルク家でも神聖ローマ帝国のフェルディナント3世の妃マリア・アナ・エスパーニャの子であるレオポルト1世(フェリペ4世の2番目の妃の弟)を王位継承の候補としたが、オーストリアとスペインの一体化に対する反対論のため、末っ子のカール大帝を候補にした。
そうした中、カルロス2世が亡くなり、その遺言で指名されたアンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世に就いたが、オーストリアはイギリスやオランダと組み、スペイン・フランスの連合軍との戦争が開始された。
これがスペイン王位継承戦争の始まりである。
1701年に始まった戦争はスペインやフランスが支配していた属領にも飛び火し、ヨーロッパ各地はもとより新大陸カナダへも戦火が広がった。
そして1713年に戦争が終結し、アンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として諸国に認められたがスペイン、フランスが戦で支払った代償は大きかった。
写真はフェリペ5世の騎馬像。
そうしたこともあってか歴史的に古い町であるマドリッドに古さを誇れるようなものが少なく、先の王宮や王立劇場のほか、ビジャ広場(市役所広場)に15~16世紀の建造物が見られるくらいか。もっとも隅から隅まで歩いたわけではないので正しいかどうかは分からない。
上の写真はシベレス広場(Plaza de Cibeles)からアルカラ通りを見たものだが、ここはマドリッドの中心と言ってよい場所で、噴水のあるロータリーを中心に広い道路が四方に延びている。
写真の建物はスペイン銀行本店(Banco de Espana)で、アルカラ通りを挟んだ右手の樹木が茂る中にブエナビスタ宮殿(Palacio de Buenavista)、更にレコレートス通りを挟んだ所にリナーレス宮殿(Palacio de Linares)、写真のスペイン銀行の左側にあるプラド通りを挟んだ所にコムニカシオネス宮殿(Palacio de Comunicaciones ・現マドリード市庁舎)がある。
コムニカシオネス宮殿は旧中央郵便局で、ロータリー中心にある噴水はギリシャ神話における大地母神・キュベレーが二頭のライオンが牽く車に乗る姿を彫ってあり、いずれも1700年代の終わりから1800年代の石造建築物であったり石彫物である。
キュベレーは一説に旧石器時代から信仰されていた神とも言われ、生死をつかさどる大いなる神としてギリシャや小アジアでは崇められてきた。
2頭のライオンは、アタランテーとヒッポメネースが狩りの途中にゼウス(キュベレーかも)の神域で交合したため、神の怒りをかってライオンの姿に変えられてキュベレーの車を牽かされているのだとか。
古代神話は面白いものであるが、お話で面白いものにセルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)の『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』がある。
通常、『ドンキホーテ』と呼んでいる物語である。
先のシベレス広場の写真の通りを少しばかり歩いて行く(西方向)と、メトロポリス・ビルの所でアルカラ通り(左)とグラン・ビア通り(右)に分かれる。
グラン・ビア通りは1900年代初めに整備されたマドリッドの目抜き通りとも言え、自動車が通る広い道路を挟んで当時のビルが立ち並んでいる。
ホテル、銀行、一般会社などのビルがあったりで、大阪の御堂筋を歩いているようなものだが、ビルの1階にはいろんな店が並び、ショッピングに食事にと賑やかな場所が好きな人には楽しいかもしれない。
そんな店の中にハム博物館(Museo del Jamon)という看板を見つけたのでウィンドウを覗いてみると、ハム屋とレストランとを兼ねた店であった。
ドアを開けて入ると写真のように店の奥までハム、ハム、ハム、ハム。ぶら下がっているのは脚のモモの部分。
何年だか以前から日本でも食材として人気が出ているイベリコ豚のハムなのだとか。
一言でハムと言ってもソーセージのようなのから私たちがよく知っているロースはむやボンレスハムなど、いったい何種類あったろうか。博物館という名前は決して誇張したものでも、いちびって付けたものでもないことはよく分かった。
グラン・ビア通りは結構長い距離で御堂筋と同じくらいかも。
しばらく下り道を歩けばエスパーニャ広場(Plaza de España)に出る。
小さな公園だが、ここにセルバンテスのモニュメントとして彼の像と彼の作品『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の主人公・ドン・キホーテとサンチョ・パンサの銅像がある。
セルバンテスが『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の前編を出版したのは1605年のことであるから、日本では徳川家康が江戸幕府を開いて間もない頃と考えて良い。
この前編の原題では、ラ・マンチャの『El ingenioso hidalgo』 ドン・キホーテとし、1615年に出版した後編では第二部 ラ・マンチャの『del ingenioso caballero』 としている。
いずれも叡智あるドン・キホーテだが、前編は下級武士であるのに対し、第二部では騎士の称号を与えている。
大変突飛な言動の持ち主で夢想家のドン・キホーテだが、思慮深く道理をわきまえ優れた人間性をも兼ね備えている彼に対し、また、従者で現実主義のサンチョ・パンサに対して、セルバンテスは自身の人間観を投影させたのかもしれない。
もう何十年も昔に滑稽なお話として読んだ作品であるが、セルバンテスが物語を書いた当時の歴史的背景を一層詳しく知った上で作品の筋書きを改めて思い出してみると随分違った見方ができるものだと改めて思う。
小さな公園にはただモニュメントがあるだけのことだが、訪れてみていろいろな考えが思い浮かぶことは楽しいものである。
November 28, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【3】 マドリッド(Ⅰ)
マドリッドは都会であり私の興味を掻き立てるほどのものはさほどない。
しかし、歴史の古い町であるし、初めて訪れる町でもあるので多少の興味はあった。 あとは地学的な興味が加わるくらいだろうか。
下はマドリード王宮 (Palacio Real de Madrid)を訪れた時に宮殿東側のオリエンテ広場(Plaza de Oriente)で撮ったもの。
写真の王宮の建物の向こう側にはカンポ・デル・モーロ(Campo del Moro)という広大な庭があり、写真右手(北側)にはサバティーニ庭園(Jardines de Sabatini)、左手(南側)にはアルムデナ大聖堂(Catedral de la Almudena)が建つというように緑多く、バロック風の王宮との調和が気に入った。
この王宮の建設を命じたのはフェリペ5世であり、1738年に着工して1755年に完成したのだとか。
フェリペ5世は1746年に亡くなっているので実際に宮殿を使用したのはカルロス3世であったという。
『ポルトガル・スペインを巡る【1】プラド美術館Ⅰ』において、“スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世”に触れたが、彼には世継ぎがいなかったためスペイン王位の継承をめぐってフランスのルイ14世が画策を始めたことが他のヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン王位継承戦争への糸口となった。
左の写真はオリエンテ広場を挟んで向かい合うように建つ王立劇場(テアトロ・レアルTeatro Real)である。
1850年に完成しているので王位継承問題に関わるものではない。
レアルと言えばスペインのサッカーチームのひとつ、レアル・マドリードを思い浮かべるが、スペイン語のレアルとは王立のとか王様のといった意味の他、英語と同様に現実のとか実在するといった意味を含んでいる。
スペインのサッカー界ではFCバルセロナと二分する人気を誇るレアル・マドリードであるが、サッカーだけでなく政治や文化面などいろいろな面において対立しているかの感があるのがマドリッドとバルセロナの関係でもある。
"王様のマドリード"というチーム名が妥当かな?
【閑話休題】
さて、カルロス2世の王位継承問題をひも解くには、その血縁関係や当時のヨーロッパの勢力関係を明らかにしておかねばならないのだが、以前にも触れているがヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係は大変ややこしい。
しかし、あえて簡便に極力端折って書いてみることにする。
カルロス2世の父親はフェリペ4世で、フェリペ4世の最初の妃はフランス王のアンリ4世の王女イサベル・デ・ボルボンで、二人の間に王女マリア・テレサができた。
マリア・テレサはフランス王ルイ14世の妃として嫁ぐ。
フェリペ4世の2番目の妃は、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世とスペイン王フェリペ3世の王女マリアナ・デ・エスパーニャの間にできた王女マリアナ・デ・アウストリアである。
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の妃マリアナ・デ・エスパーニャには姉であるルイ13世の妃となったアンヌ・ドートリッシュ、兄にスペイン王フェリペ4世らがいた。
つまり、フェリペ4世の2番目の妃マリアナ・デ・アウストリアとは叔父・姪の関係になる。
そして、この2人の間に神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后となったマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャやカルロス2世らができた。
マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャはベラスケスが描いた『ラス・メニーナス』の肖像画の人物である。
これらは極々一部であり、神聖ローマ帝国の皇帝を事実上独占してきたオーストリア・ハプスブルク家は領土と権力を守るために親族間の結婚を繰り返してきたし、スペイン・ハプスブルク家は政治政略上フランス王との結婚を繰り返してきた。
神聖ローマ帝国は現在の東欧・ドイツ・オーストリア・イタリアなどを領土としていたし、それに、フランス、スペインを加えればヨーロッパの面積の大部分がこの3国で支配されていたわけで、これにイギリスやネーデルランドが加わるのでヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係はひと言で言えば『ぐちゃぐちゃ』なのである。
《少し休憩をはさんで次ページへ続く》
November 19, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【2】プラド美術館Ⅱ
プラド美術館ができた頃、日本は江戸・文政年間で徳川家斉が将軍の時代だから、"遠山の金さん"こと遠山左衛門尉景元が北町奉行に就任するはるか以前のことである。
プラド美術館も多くの美術品を所蔵しているが、何と言ってもスペインの画家たちの作品に関しては群を抜いていると言えるだろう。
エル・グレコ(El Greco 1541~1614)
ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez 1599~1660)
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Perez Murillo 1617~1682)
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 1746~1828)
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso 1881~1973)
など、世界的に評価の高い画家たちの作品が所蔵・展示されている。
左はグレコの『羊飼いの礼拝』。
宗教画を多く残したグレコはギリシャのクレタ島の出身なのでスペイン人とは言えないが、イタリアで修行の後、スペインのフェリペ2世(Felipe II)のもとで制作活動を行ったので、彼の作品の多くがプラド美術館に所蔵されている。
そのため、スペインを代表する画家として、ベラスケスやゴヤと共に名前が挙げられている。
ところで、フェリペ2世は1556年にスペイン王を継承したが、この折にハプスブルク家はスペインとオーストリアに分かれ、この後、彼は1580年にポルトガルを併合し、現在のメキシコからチリに至る中南米、オランダやベルギー、イタリアの一部(ミラノ、ナポリ、シチリア島)の他、インド、ブラジルやアフリカの一部、それにボルネオ島やフィリピンなどの領土を得ることになった。
大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らキリシタン大名が派遣した天正遣欧少年使節は1584年8月に現在のポルトガルのリスボンに到着後、11月にスペインのマドリッドでフェリペ2世に謁見している。
下はムリーリョの作品『無原罪のお宿り』。
ムリーリョも宗教画を多く書いたが、いずれの作品も明るい色調で優しく穏やかな感じに仕上げられていることが特徴と言えるように思う。
原罪とは、キリスト教においてアダムが神との約束を破ったことを人類最初の罪であるとし、アダムの子孫である人間は全て生まれながらにして背負っているという罪のこと。
しかし、聖母マリアは母の胎内にある時、既にその原罪を免れていたという説を無原罪と呼んでいる。
ゴヤもスペインに限らず世界美術史上よく知られた画家であるが、その作品の中でも『裸のマハ』『着衣のマハ』として知られているのが下の作品である。
この絵は1797~1800年の制作で、当時ゴヤの庇護者であった宰相ゴドイからの依頼で描かれたことが確かになってきたことから、ゴドイの愛妾であったペピータ・トゥドーがモデルであると長年言われてきた。
しかし、現在ではこの絵に何の寓意的意図もないというのが大勢であるとプラド美術館のカタログには書かれており、こうした見解が大勢を占めるようになっていることを私は知らなかった。
下は『着衣のマハ』で上の作品よりは後、1800年~1805年の制作だとされている。
『裸のマヤ』についてはモデルが誰かという関心の他、当時は裸婦を描くこと自体が異端であるとされていた時代であり、事実、ゴドイが暴動により失脚した際、これらの作品は宰相ゴドイ邸より没収され、1815年にゴヤは異端審問裁判所に召喚され、誰のため何の目的で描いたのか審問を受けている。
1819年、ゴヤはマドリッドの郊外に家を購入した。「聾者の家」として知られている建物である。
この家の1階の食堂や2階のサロンの壁に描かれた14枚の絵が「黒い絵」と呼ばれているものだが、彼は1823年まで、これらの絵を描き上げた。
それらの壁画をカンバスに移し替えたものがプラド美術館に展示されているが、その際に修復・加筆された部分もあり、これらがどのように配置されていたかの記録がないので、ゴヤの意図が奈辺にあったのかは分からないとカタログには記載されていた。
左は『わが子を食らうサトゥルヌス』という作品であるが、カルロス4世の宮廷画家として精細な肖像画を多く描いてきたゴヤの作品としては実に奇怪なものである。
このほか、『魔女の夜宴』や『棍棒での決闘』、『食事をする二老人』などを描いているが、いずれも暗く陰湿な作品であり、ゴヤの精神状態が尋常ではなかったのではないかと思われる。
当時、ゴヤは梅毒に罹っており、そのため我が子にまで害を与えるという精神的呵責を感じ、それを表現したのではないだろうかという説明を聞いたように記憶するが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
時代的にはフェルナンド7世が復位して以後、スペイン国内での自由主義者への弾圧が強まり、ゴヤが自らも危険であることを察したのか、狂気からなのか、或いは、そうした政治体制に反対の意思表明として絵画に表現したのか、今となっては何も分からない。
ただ、1824年、78歳のゴヤは「聾者の家」を出てフランスに亡命し、1828年に亡くなったという事実のみが記録されている。
以上、スペインの画家と作品の一部について記してみたが、プラド美術館は、ラファエロ、ルーベンス、ティツィアーノなど名だたる画家の作品も多数所蔵・展示しており、絵画に興味がなくとも十分に楽しませてくれる施設である。
ついでだが、ピカソが美術館の館長をしていた時期もある。
November 15, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【1】プラド美術館Ⅰ
今回の旅行先をこの二つの国に決めたのには幾つかの理由がある。 その一つがポルトガル・セトゥーバルにアトリエを構える武本氏を訪問することであった。
二つ目にはスペイン・マドリッドにあるプラド美術館を訪ねること。
三つ目にはバルセロナのピカソ美術館とガウディの作品を見ること。
四つ目にはイスラム教勢力とキリスト教勢力のせめぎ合いの過程で、それぞれの異なる歴史文化遺産や、それらが融合したものを見ること。
勿論、目的は4つだけではないが、まずはマドリッドを旅のスタート地点として拙文を綴ることにしよう。
マドリッドの朝7時少し前。
まだ暗いが既に市内中心部へ向かう道路は渋滞が始まりだしている。
マドリッドでの目的は何と言ってもプラド美術館である。
スペイン国鉄のターミナル、アトーチャ駅前にはソフィア王妃芸術センターがあり、向かい合う位置に王立植物園やレティーロ公園が広がる。
その一角を占めるようにプラド美術館がある。
写真は美術館の北側、ゴヤ・ゲートであるが、9時の開館前から早くも入場者が列をなしていた。
ゲート前にはゴヤの像が美術館に向かって建っており、ゴヤの背後、つまり、写真を撮影している側に高級ホテル・リッツがある。
プラド美術館展或いはゴヤ展として、これまでも日本で多くの作品が展示されてきたが、出張展示では鑑賞数に限りがあるし、美術館を訪れても館所蔵の絵が常時全て展示されているわけではなく、時に貸し出し中の作品があったりして落胆することもある。
写真は『プラド美術館ガイドブック』 (日本語版)より
しかし、もっとも見たかった『宮廷の女官たち』という上の作品の実物を見ることができ、まずまず満足した。
標題は『Las Meninas』(女官たち)というディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)の作品である。
ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家であり、彼はスペイン王フェリペ4世をパトロンとして宮廷の人々の絵を多く描いたことでも知られているが、『ラス・メニーナス』の中央に描かれているのがフェリペ4世の娘・マルガリータ王女(Margarita Teresa de España)。
マルガリータ王女の肖像画はウィーン美術史美術館でも見ており、他の作品も機会があれば見てみたいと思っていたのである。
とりわけ、この作品は画中の人物の配置構成や光の当たり具合から鑑賞者をも画中空間に引きずり込むという何ともオモシロイ技法を用いているのである。
また後に紹介するが、スペインの画家パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)が下の『宮廷の女官達』を描いているので、それと見比べるという点でも実物に会えたことを嬉しく思った。
写真は『ピカソ美術館』のガイド(日本語版)より
マルガリータ王女がスペイン王フェリペ4世の娘であることは既に書いたが、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝・レオポルト1世と幼い頃に婚約していた。
していたと言うりも“させられていた”が正確かも。
そのため彼女の肖像画が神聖ローマ帝国へ多く送られていたようで、ウィーン美術史美術館には多く所蔵されている。
彼女は1651年生まれで、1666年にレオポルト1世のもとに妃として嫁いでいる。
この頃のヨーロッパはフランスにルイ14世が君臨しヴェルサイユ宮殿が建てられた頃だが、ルイ14世の王妃マリー・テレーズはスペイン王フェリペ4世の娘であるからマルガリータ王女は彼女の異母妹。 スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世はマリー・テレーズの異母弟。
ヨーロッパの国々の王族・貴族は直系・傍系に関わらず近親婚の例が多く非常にややこしく、これの弊害も多かったようだが、これについては機会があれば書くことにしよう。
November 10, 2010
武本比登志 氏のポルトガルのアトリエを訪ねる 【2】
下は二つの仕事場のうちのひとつ。
仕事場には既に描かれた作品の数々が並び圧倒される。
白壁に赤茶色の屋根の家々、それに教会。
私たちが巡ってきたポルトガルの町々が部屋を埋め尽くしている。
私にはどれも素敵と思えたが、武本氏には未だまだ塗り重ねたいものや描き直したい作品もあるとのこと。
私が文章表現の推敲を何度も行うように、画家である彼は自ら表現したいものに近づけ高めるために考え試行を続けているのであろう。
上は、彼の制作中の姿を知りたかったのでパレットを持って頂いた時の写真である。
一緒に夕食をということで武本氏の車で港のレストランへ。
レストランに入った所の横長の大きいショーケースには大西洋で獲れたての魚介類が並べられていた。
エビ、カニ、貝類にイカ、真鯛に黒鯛などなどが並んでいたが、この写真は品物の一部。
ショーケースに並べられていないものが未だまだある。
大西洋で獲れたものと言っても私たちが日本の魚屋で見るものと大きい変わりがあるわけではない。
食前酒にシャンペン風の飲み物を頂いたがコレはよく冷えていて味も良かった。 飛行機の荷物の重量制限が無ければ半ダース程度は持ち帰りたいほどの代物であった。
が、名前を思い出せないでいる。
何をどのように注文してもらったのかポルトガル語なので全くちんぷんかんぷん。
タコ、むきエビ、マッシュルームなどの料理が各々別の皿に盛られてテーブルに並べられる。
これらが美味しくて各自の皿に取ってパンと共に頂くのであるが、量が多い。
そこへ、イカのフリッターが大皿に盛られて出てきた。
写真は3人が取り分けて私の前に置かれた状態。
元の姿を見てはいないが、多分、日本では紋甲イカと呼んでいるものだと思う。 イカの身の厚さが3センチもあったので相当大きなイカであったことは確か。
それをブツ切りにして揚げてあるのだから、一切れだけでも随分の量なのである。
スプーンの大きさと切り身を比べれば想像がつくと思う。
私は大食いではないけれど、よく食べる方だと思う。
しかも海産物は大好き。 とりわけ、イカやタコは大好物。
その私が音をあげるくらいの量なのである。
そこへまた蒸し蟹、蒸しエビ、ポテトと出され、決して遠慮したり気を遣ったりしてではなく、とても食べきれない量だったのである。
更にデザートと、もう満腹でデザートはお断りさせてもらった。
私たちは早い時間に訪れたのだが、地元でも人気の高いレストランらしく、雨模様ではあったが次々と客が訪れ賑わっていた。
食事後、私たちのリスボンのホテルまで武本氏に送って頂いた。
私たちの送迎に4時間もの時間を浪費させ、しかも夕食までご馳走になり、随分の散財をさせてしまった。
武本ご夫妻には、厚くお礼を申し上げる。
今頃は、今年のサロン・ドートンヌに出品のためパリに滞在されていることだろう。
氏はサロン・ドートンヌの会員であり、また、ル・サロンの会員でもある。
サロン・ドートンヌもル・サロン、いずれもフランス美術界の双璧を為すが、武本氏には今後とも精力的に制作活動に励んで頂くよう切に願っている。