December 2010
December 31, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【11】 聖地サンティアゴ・デ・コンポステラ(1)
長いサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道(El camino a Santiago de Compostela)を歩いてきた人たちがサンティアゴ・デ・コンポステラの手前5kmばかりの所にある小高い丘の上に立った時、遠く大聖堂の塔を眺め感慨を深くするのであろう。
この丘が"歓喜の丘"(Monte do Gozo・モンテ・ド・ゴソ)と呼ばれる所以である。
キリスト12使徒の一人である聖ヤコブの墓が偶然に発見され、その遺骨がサンティアゴ・デ・コンポステラに改めて埋葬、その場所に大聖堂が建てられた中世以降、多くの巡礼者が訪れてきた。
チベット仏教ではラサにある寺(聖地)を目指して五体投地を繰り返しながら巡礼を行うらしいが、五体投地というのは『仏様は偉大であり、私は全身全霊で仏様を尊敬しお仕えします。』と、心を込めて全身を地面に臥せ、立ち上がっては手を合わせ、そうした動作を繰り返しながら聖地を目指すものである。
従って、一度の五体投地の動作で進む距離というのは、その人の身長分でしかないから海抜4~5000mの高地での長い距離を進む巡礼が想像を絶する過酷な修行であることは容易に理解することができる。
サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼で五体投地は無いが、聖遺物は奇跡を起こすとの言い伝えから、キリスト者の中には膝だけでにじり進んで行く者もいるらしい。
上の写真は"歓喜の丘"からサンティアゴ・デ・コンポステラの町と大聖堂の塔(写真中央右側に突出した3つ)を遠望したものだが、キリスト者たちは何百kmと歩いて来れたことへの感謝の気持ちで感涙したであろう光景である。
左の写真は、昔の巡礼者を模した銅像。
ところでサンティアゴ・デ・コンポステラとは、コンポステラのサンティアゴということだが、コンポステラは『星の野(Campus stellae)』とか『墓場(Compositum)』或いは『良い所(COMPOSĬTĔLLA)』というようにいろんな意味に解されているが、伝承やキリスト教学については専門の人たちに任せることにして、サンティアゴは聖ヤコブを表すスペイン語で、元々はラテン語でのサンクトゥス・ヤコブスが訛ったものらしい。
つまり、SANCTVS IACOBVS (SANCTUS JACOBUS) が Santiago
へと。
Santiagoというのはスペイン語でSanto Jacob、日本語では聖ヤコブのことであり、英語だとSaint(St.).Jamesで聖ジェームス、フランス語だとSt.Jacquesで聖ジャック。
欧米男性のファーストネームに多いジェームス、ジャック、ジェーコフなどは聖人Jacobから取られたものであり、女性名のマリア、クリスティン、アンナなども聖人の名前に由来するものである。
左は巡礼者が荷物につけて巡礼途中であることを示すホタテ貝だが、これにも伝説がある。
処刑されたヤコブの遺骸を弟子たちがスペインへ運ぶ際、荒海で船が難破したが、ヤコブの遺骸はホタテ貝に覆われて無傷で浜辺に打ち上げられたというものなど幾つかあるようだ。
ところで、この大ヤコブの誕生日が7月25日だそうで、毎年この日には盛大に祭りが執り行われるが、日曜に重なる年を聖なる年『ヤコブ年』として特別な行事が行われる。
今年、2010年は将に聖年にあたり、平素は開かれることのない大聖堂の免罪の門が開かれ、この年に巡礼して免罪の門をくぐると全ての罪が赦されるとされている。
貝殻の裏にはAño Santo 2010(聖年2010)と書かれているが、ちなみに次の聖ヤコブ年は2021年となる。
キリスト教では、人間は生まれながらにして罪を背負っている(原罪)としているが、勿論生まれて以後罪を犯さない人間がいるなどとは思えない。
免罪の門をくぐった私もすべての罪を赦される対象になるのかどうか・・・
徒歩で100km以上、自転車で200km以上というのが現代の巡礼条件で、それらを含む条件が満たされていれば証明書を発行してくれるらしいがキリスト者でない私たちにはもとより関係のないことである。
オブラロイド広場(Plaza do Obraroido)にて、後ろの建物が大聖堂である。
正しくはサンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂(Cathedral de Santiago de Compostela)。
スペイン最大のロマネスク様式の聖堂であるが、写真の通り西向きのファサードはバロック様式で、1738年から1750年にかけて制作された金細工を思わせる装飾から『金細工師の広場のファサード(Fachada de la Plaza del Obradoiro)』と呼ばれている。
既に書いてきたが、大ヤコブが西暦44年にエルサレムで処刑され、その遺骸を弟子たちがガリシア(スペイン北西部)に運び、サンティアゴ・デ・コンポステラに埋葬した。 その後イスラム勢力の侵攻などでお墓の場所が分からなくなっていたが、8世紀末から9世紀初めの頃に羊飼い(ガリシアの修道士?)が星の導きによってお墓を発見し、当時のアストゥリアス王アルフォンソ2世 (Alfonso Ⅱ de Asturias)が聖堂を建てた。
その後、899年にアストゥリアス・レオン・ガリシアの王アルフォンソ3世 (Alfonso Ⅲ de Asturias) が古い聖堂を取り壊し、より大きな初期ロマネスク様式の聖堂を建てた。
アルフォンソ3世が建てた聖堂は997年にコルドバの後ウマイヤ王朝(イスラム勢力
)のアル・マンスール(Muhammad ibn Abi-Amir al-Mansur billah)の軍による放火で全焼。
現在のロマネスク様式の聖堂は1075年に着工し、1128年に完成した。
上の写真は大聖堂東側のクィンターナ広場(Plaza de la Quintana)に面した『免罪の門(Absolución Puerta/Indulgence Gate)』に並ぶ巡礼者たち。
スペイン警官が厳重警戒する中、杖を持ち、ホタテ貝付きの帽子と同じくホタテ貝が胸に飾られた服を着たサンチャゴさんの石像が立つ免罪の門をくぐって聖堂内へ。
巡礼の最終目的地である主祭壇の真下、聖ヤコブの墓所である地下の聖堂(クリプト)に向かう。
これまで900年もの間、いったい何人の巡礼者が訪れたのだろうか、彼らが撫ぜさすってきたために石柱が擦り減っていた。
身廊から主祭壇方向の写真である。
側廊の左右2階部分に設えられたオルガンの沢山のパイプが天上方向と水平方向にも伸びている。
この礼拝場でのミサに多くの巡礼者が出席するのであろうが、私たちが見学した時は聖祭の準備中であり、ブルーの僧衣を着た修道僧(?)たちが忙しく動き回っていた。
この聖堂では身廊の天井から太いロープに結わえられた大きい香炉が吊るされており、その大香炉(ボタフメイロ)が振られて香の香りが聖堂内に満ちると聞いていた。 確かにロープに吊るされた香炉らしきものはあったのだが、ちょっと形が違っていたような・・・
左の写真で中央の少し右に吊るされているのが香炉のはずなのだが、後にもう1枚写真を示すことにする。
この写真で左奥が主祭壇。香炉が見える方向が翼廊になるが、この聖堂は身廊だけでなく翼廊にも側廊があるのだ。
さて、件の大香炉(ボタフメイロ)であるが、下の写真が実物と同じであると土産物店に展示してあったのだが、やはりどことなく違うような・・・
しかし、吊るされている場所に間違いはないはずなのだが、結局、残念ながら形が違っているように思ったことについて確認せずであった。
大香炉で香を焚きしめるのは、昔、巡礼者達が満足に体を洗うことが難しい状況下で礼拝場に集まってきたため、彼らの様々な体臭を緩和させる目的でボタフメイロ(大香炉)の儀式が考案されたらしい。
香炉をロープで引き上げ、それを礼拝場一杯に振ることで聖堂全体に香を撒いたことが儀式として残ったものだという。
December 26, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【10】 聖地へ向かう(6)
私たちはレオンを経てルーゴへ立ち寄った。
ルーゴはミーニョ川の左岸、海抜465mの地に紀元前26年の頃、古代ローマの軍隊によって町が形成された。
左の写真は、ローマ帝国によって3世紀末頃に造られた町を囲う石積みの城壁。
ローマ城壁と呼ばれるこの城壁は全長2223m(2.5kmとの表示もある)で、写真にある城壁や71の塔部の全てがほぼ完全な形で残っており、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。
城壁の高さは10~15mある。
写真は城壁の上から旧市街の外側を見たものだが、道路を走る車や建物などと比べれば城壁の高さを想像できるだろう。
城壁は旧市街をぐるりと一周しており、城壁の上は市民たちがジョギングやウォーキングを楽しむ場所として利用されている。
ローマ時代に造られたものが現代においても活用されているというのは何とも珍しく不思議な気分がするものだ。
この城壁が造られた3世紀後半を日本史で言えば古墳時代(3世紀~6世紀)にあたるが、はてさて、日本で当時のものが活用されているものがあるかどうか・・・
城壁には写真のような門が確か10あったと記憶している。
大きい門も、この写真のように小さな門も様々であるが、ルーゴの町を外敵から守るための壁に造られた門である。
現在は門扉もなく出入り自由であるが、長い時代にわたって頑丈な門扉が町を防衛していたのであろう。
イスラム勢力が侵攻してきていた折も、このルーゴを攻めることはなかったと聞いている。
左はルーゴ大聖堂(Catedral de Lugo)で聖フロイラン(St. Froilán)に捧げるために1129年に着工された建物である。
聖フロイラン(St. Froilán)はレオンの司教だったが、彼はとても質素な生活を送りながらも貧しい人々に対しては大変親切にしたそうである。
彼が亡くなったのは905年のことで、ルーゴ市の守護聖人となっている。
この大聖堂は当初ロマネスク様式であったらしいが、1769年に左右対称な塔やネオクラシックな正面ファサードが増築された。
正面ファサードを左側方に回り込んでみると鐘楼と後陣が見える。
上の正面ファサードと比べてみれば建築に一体性がないことに気付くと思う。
つまり、この後陣部分が元々の建築部分なのである。
ルーゴは中世以降サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の重要な中継点としても発展し、多くの人々が訪れるようになった。
ルーゴからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでは100kmばかりの道程である。
しかし幾つもの山や丘を越えて行かねばならないので健脚の昔の人たちであっても2日はかかったであろうが、車で移動する私たちにとっては2時間もあれば着く。
次回は、いよいよ聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラである。
December 24, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【9】 聖地へ向かう(5)
左の写真はパラドール・レオンの建物横を流れるベルネスガ川(Rio Bernesga)に架かるクェベド橋(Puente de Quevedo)からの景色である。
街灯の照らす所だけが明るい、言うなれば天文薄明、夜明け前の状態であるが時刻としては午前7時頃である。
勤め先に向かう人たちが急ぎ足で通り過ぎて行くが、いずれもセーターにマフラー、或いは冬用のコートを羽織っており、秋の薄着で出てきた私たちは場違いの感じであった。
参考までに、左の写真はパラドール・レオンの前にあるサン・マルコス広場からサン・マルコス大通りを眺めたものだが、時刻は午前9時頃。
やっと太陽が町を明るく照らし出し、通りに活気が感じ始められだしたところである。
この大通りの先に大きいロータリーであるインマクラーダ広場があり、更に進むとサント・ドミンゴ広場に至る。
このロータリーは少し小さいものだが、8つの道が交わっている。
写真正面左手のビルにはMuseo de Leónと書かれていたが、パラドール・レオンに併設されている施設も同じであった。 Museoは英語におけるMuseumであり、日本語としては博物館なのか美術館なのか施設に入ってみなければ私には区別できない。
正面の茶色の建物はBBVA銀行の建物であり、アンチャ通りを挟んで右手の塔のある建物が10世紀に創建されたサン・マルセロ教会(Parroquia San Marcelo)でレオンでは最も古い教会である。現在の建物は18世紀のものらしい。
先に書いたアンチャ通りに入って直ぐ右手(サン・マルセロ広場)に建つ旧市庁舎。
この建物も随分古そうだが、いつ頃に建てられたものかは分からない。
旧市庁舎とアンチャ通りを挟んだところ、この写真では右手に向かい合うように建っているのがカサ・デ・ロス・ボティネス(Casa de los Botines)。
ボティネスさんの屋敷とでも言うのであろう。
アントニオ・ガウディ(Antonio Plácido Guillermo Gaudí y Cornet)が設計したものでり、現在はスペイン銀行(Caja España)の建物になっている。
ガウディと言えばサグラダ・ファミリア(Temple Expiatori de la Sagrada Família・ユネスコ世界文化遺産)の設計・建築であまりにも有名であるが、彼はバルセロナで建築学を学んだためか彼の作品はカタルーニャ地方に多い。
ガウディと彼の作品についてはバルセロナのところで改めて触れてみたい。
上の場所を角度を変えて撮影したものが左の写真である。
正面に写っている建物がグスマネス宮殿(Palacio de los Guzmanes)で16世紀の建築とのこと。 現在は県議会として使用されているらしい。
この建物の右手の道(アンチャ通り)を進んで行くと前ページで書いたレオン大聖堂に至る。
13世紀末に建てられたカテドラルのバラ窓は高い場所にあるので規模が分かりにくいが直径は8mもあるそうだ。
空に向かって伸び上がるゴシック様式独特の建築は見事なものである。
高く石を積み上げた上に屋根石をアーチ状に組み置いているため側壁にかかる圧力が大きく、その為に圧を逃がし分散させるための補強材が用いられるのだが、左の写真でも身廊屋根部分から両手を広げるように幾本もの補強材が側廊側に伸びているのが見てとれる。
ファサードの入り口は3つあるが、それぞれの入り口には'最後の審判'などが彫られている。
以前は聖人たちの石彫像が立てられていたらしいが、雨による損傷がひどくなってきたとかで、左の写真のように現在は聖堂附設の建物の内庭回廊に移設されている。
カテドラルはローマ時代の風呂の上に建てられたらしく、地下には遺構が残っているのだとか。
ガイドに遺構は見れるのかと問うたら見れるという返事だったので見せてくれるものと思っていたのだが、これは見ることが出来なかった。 私の聞き違いだったかも・・・
カテドラルから北西へ3~400mばかりのところにサン・イシドロ教会(Iglesia de San Isidoro)がある。
サン・イシドロは学者でセビリアの聖人である。
1063年、スペイン南部の町セビリアはイスラム勢力とキリスト教勢力による抗争の過程にあったが、その中で彼の遺体はレオンに運ばれて埋葬された。
その埋葬された場所がサン・イシドロ教会であるが、レオン王国のフェルディナント1世の命によって1063年に建設が始められた。
当初ロマネスク様式の建築であったが、後にゴシック様式など部分的に改築の手が加えられたりしたが、ファサードとレオン王家の霊廟は当時のままらしい。
しかし、霊廟はナポレオン軍によって荒されて建物だけが残っているのだとか。
左の写真はファサードを拡大したものだが、この'免罪の門'には神により信仰が試されたアブラハムが我が子イサクを生贄として祭壇に供する場面と羊が彫られている。
教会内部のレンガの組み模様や身廊の天井部分にはイスラム系の文様があったりでムデハル様式がうかがえる。
レオンの旧市街はローマ時代の城壁や中世の市壁遺構が残っていると書いたが、左の写真で壁が曲面を呈しているのがローマ時代の城壁である。
壁は石積みで結構な高さである。
レオンについては、この辺りで切り上げておくことにする。
December 15, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【8】 聖地へ向かう(4)
サンティアゴ・デ・コンポステーラについては先述しているので詳しくは書かないが、巡礼の道はフランスからの場合、いずれもピレネー山脈を越えてスペイン北西部を西方に向かって辿るのである。
フランスからの場合、古来四つの巡礼路があり、『トゥール(Tours)の道』はパリ(Paris)からボルドー(Bordeaux)を経由してピレネー山脈に、『リモージュ(Limoges)の道』はヴェズレー(Vezelay)からペリグー(Périgueux)を経てピレネーに、『ル・ピュイ(Le Puy)の道』はモワサック(Moissac)を経てピレネーに、『トゥールーズ(Toulouse)の道』はアルル(Arles)からトゥールーズを経てピレネーへと続いている。
ユーロの旗の真ん中にホタテ貝がデザインされた上の写真は巡礼の道を表す標識であり、主要道路の路肩に立てられている。
行方が知れなくなっていたイエス・キリストの使徒・ヤコブ(大ヤコブ)の墓が813年に発見されて以来、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が始まり、現在も多くの老若男女が巡礼の旅を行っている。
私たちが巡礼の道に合流したのはレオンであったが、レオンも古くに開けた町であり、紀元前1世紀にはローマ帝国より派遣された軍団が町を築いている。
その後イスラム勢力の侵攻によって抗争の歴史を辿るがイベリア半島の南部に比べ10世紀の終わり頃という早い時期にキリスト教圏の都市として成り立っていた。
上の写真はレオンの街中の通りに埋め込まれていたもので、巡礼路であることとサンティアゴ・デ・コンポステーラへの方向(写真上の方向)を示している。
古くからの巡礼の道と現在の自動車道路が必ずしも一致しているわけではないが、大きく逸れることはなく、巡礼者のための安宿があったり、町の人たちも巡礼者に対して親切に接しているらしい。
下は13世紀末に建てられたゴシック様式のレオン大聖堂(Catedral de León)である。
巡礼については私自身が経験していないので「らしい」と言う以外にないのだが、日本における『四国八十八ヶ所』巡りを思い浮かべれば良いだろう。
しかし時代の変化と共にお遍路さんの有り様も変化し、バスや乗用車で札所巡りをする人たちが多くなっているのと同様、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼も徒歩でなく自動車や自転車が増えているようだ。
もっとも、このレオン大聖堂で会ったドイツの大学生の男女は、フランスのトゥールーズまで鉄道で来て、そこからピレネー山脈の麓の町までバスで移動し、山を越えて来たと語っていた。
1日に3~40kmを歩き、ほぼ1か月の予定でサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かっているとのこと。
信仰の話はしなかったので彼らの聖地への旅の目的は分からなかったが、私も学生時代には大きいリュックサックをかついでよく歩いたものだと昔々の自分の姿を重ね合わせながら話していた。
写真は大聖堂のステンドグラスが美しいバラ窓。
私たちの宿はパラドール・デ・レオン(Parador de León)。
パラドールというのはホテルという意味なので、レオンのホテルということになるが、芸術的歴史的価値の高い文化財としての古城や修道院などを改修して、スペインが宿泊施設として供しているもので、言わばスペイン国営ホテルとも言えるものである。
現在は全国で90を超える施設があるようだが、パラドール・デ・レオンは元々巡礼者のための救護院として12世紀に建てられたが、1533年にサンティアゴ騎士団のサン・マルコス修道院(Monasterio de San Marcos)として建て直されたものである。
ゲストルーム内部はホテル仕様になっているが、ドアは重厚な木製で昔ながらの重く大きい鍵で開け閉めするし、建物のあらゆる所で往時の様子を感じ取ることができ、将に文化財の中での宿泊であった。
パラドール・デ・レオンの内庭に面した回廊には様々な像が立ち、修道院の雰囲気を色濃く残している。
また建物の一部にはレオン美術館(Museo de León)が併設されており、絵画や彫刻を鑑賞することができる。
サンティアゴ騎士団(Orden Militar de Santiago)というのはは、イスラム勢力とキリスト教勢力の抗争において、キリスト教国で設立された集団であり、キリスト教国側から言うところのレコンキスタ(Reconquista・再征服運動)で活躍した。
レコンキスタは718年から1492年という長きにわたる戦争であるが、サンティアゴ騎士団は戦争するという軍事面と巡礼経路の病院や巡礼者の保護という両面の活動を行っていたらしい。
December 13, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【7】 聖地へ向かう(3)
日本の城の発達も同じであるが、その始まりは木柵、土塁、濠などを施し、敵からの侵入攻撃を防ぐための砦であった。
それが自然の地形を利用した山城へと、防御と攻撃を兼ね備えた城塞へと変わっていった。
やがて城は小高い土地や平地に築かれ、統治の中心として、また城域を広く取って人々が住まう町としての機能を持つものも出てきた。
セゴビアもローマ帝国が支配していた頃には小高い天然の要衝に砦を築いていたようで、その後改築の手が加えられて統治のための城へと様相を変えてきたようである。
上の写真はエル・アルカサル公園からアルカサル(Alcázar)を眺めたものだが、公園の場所は深い谷川を挟んだ位置にあって城壁外になる。
下のアルカサル正面からの写真とを見比べれば城の立地も想像できるのではないだろうか。
また、写真で旅行者たちが並ぶ石垣と背後の城との間には幅広くて深い濠が設けられており、アルカサルが防御を兼ねた城であることがよく分かる。
アルカサルは13世紀初めに城として建築されたようだが、その後何度も増改築が繰り返されたようなので当初の姿かたちが現在のようなものであったかどうかは分からない。
これは余談だが、ディズニーの映画『白雪姫』のお城のモデルになったのがアルカサルなのだとか。
城壁に囲まれた高台のセゴビアの旧市街は至る所で歴史を感じさせてくれる。
石畳の道、民家の壁、教会などなど。
左の写真はカテドラル(Catedral de Santa María)。
天に向かって伸びる尖塔に特徴が見られるゴシック様式の大聖堂である。
もともとあった大聖堂は1520年のスペイン王カルロス1世に対する都市の自治を要求する反乱の折に破壊され、現在の建物は1768年に建てられたものである。
スペイン王カルロス1世(Carlos I)はハプスブルク家の血をひく神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V)のことである。
セゴビアの旧市街、ファン・ブラボ通りをぶらぶら歩いて行くと、昔、城門のひとつが設けられていた所からサン・ミリャン教会と市街地を見下ろすことができた。
遠望ではあるがサン・ミリャン教会(Iglesia de San Millán)はバロック様式の建物のようである。
写真の右手奥に市街地の南部から西部にかけて広がる平坦な丘陵地が見えるが、草木の見えない荒涼とした乾燥地であり作物を栽培しているようには思えなかった。 しかし、あまりにも広い土地なので、季節には麦などを植えているのかもしれない。
ファン・ブラボ通りには何とも奇妙な外壁の建物があった。
『くちばしの家』(カサ・デ・ロス・ピコスCasa de los Picos)と名付けられているように外壁が四角錐の突起で覆われているのである。
15世紀には既に使用されていた屋敷で外敵からの防御を目的としたものらしい。
セゴビアの町の通りの名前には人名が付けられたものが多く、ロドリゲス、フェルナンデス、カルメン、イサベル、セルバンテスなどなど。
通りや町に名前を付けるについて、世界の人々には共通する思いが働いているのだろう。
日本でも7世紀の頃に地名を冠した道があったが、これらについては別の項で書くことにする。
ファン・ブラボ通りのファン・ブラボというのは先に書いた「1520年のスペイン王カルロス1世に対する都市の自治を要求する反乱」(コムネーロスの反乱)で立ち上がった貴族の1人であるが、反乱は王の軍隊によって鎮圧され多くの者たちが処刑された。
左の写真は処刑されたファン・ブラボ(Juan Bravo)の銅像でサン・マルティン教会の前に建てられている。
上がロマネスク様式のサン・マルティン教会(Iglesia de San Martin)で12世紀の建築であるが、塔は16世紀に改築されたバロック様式のものである。
城壁内のほぼ中央にマヨール広場があり、大聖堂や市庁舎が広場に面して建っているのだが、その一角にサン・ミゲル教会(Iglesia de San Miguel)もある。
4階建てのアパートと接しているので教会のファザードと塔しか写っていないがアパートの後ろ側に沿って身廊が伸びている。
西に向いたファザードを見る限りロマネスク様式の建物であり、多分サン・マルティン教会と同時代の建物ではないかと思う。
1474年、カスティーリャ女王イサベル1世(Isabel I )の戴冠式が行われたのが写真のサン・ミゲル教会である。
イサベル1世はイベリア半島におけるイスラム勢力の最後の拠点国であるグラナダ王国を制圧し、レコンキスタを完了させた人物であり、コロンブスの新大陸発見のための援助を行ったことでも有名である。
歴史を感じさせる建物や石畳の道が続く旧市街を歩いていると、ここが日本から遠く離れたスペインの小さな町であるということを忘れさせてくれる。
写真の教会はサン・アンドレス教会(Iglesia de San Andrés)。
この教会もロマネスク様式の建物であり、おそらく12世紀頃の建築であろうと思う。
寄り道が長くなってしまったが更に北へ移動することにしよう。