January 2011

January 31, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【21】 リスボンからシントラへ

シントラはリスボンの西方2~30kmのところにある町で、リスボンからは前ページで書いた国鉄ロシオ駅から40分程度。

一帯は山地であり、シントラの町は山に囲まれていると言って良い。
雅宏撮影スペイン(2)278
写真はシントラの町の南方向の山であるが、山地は写真右手、つまり西方向にも広がり、大西洋に面するあたりで急峻な崖を構成している。

後に訪れたロカ岬は、そうした土地である。

シントラに人々がいつ頃から住み始めたのか知らないが、現代のように土木機械の無い昔であることと山間の狭い土地であることを思い合わせるならば、他の平地に人々が定住し始めた時期よりも随分後のことであろうと想像する。 しかし考古学的資料からは矢じり、また土器の文様などから新石器、青銅器時代とされているようだ。

下は上の写真の山頂部を拡大したものだが、花崗岩塊がゴツゴツと露出している場所に石を積み上げた城塞が見える。
シントラ・ムーア人の城(2)271
この城塞は『ムーア人の城』(Castelo dos Mouros)と呼ばれ、8~9世紀頃にムーア人によって築かれたらしい。 晴れていればこの城から大西洋まで遠望でき、戦略上重要な城塞だったことが想像できる。

ムーア人というのは北西アフリカの民族『ベルベル人』のことである。
711年にイスラム帝国(ウマイヤ朝)の支配下にあったベルベル人の軍隊がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に入り、その後8世紀半ばにはイスラム勢力によってイベリア半島のほぼ全域を支配下に収めているので、その頃の築城になるのであろう。
雅宏撮影スペイン(2)259その後イスラム勢力の支配が長く続けられていたが、1139年ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス率いる軍隊がオーリッケの戦いでイスラム軍に大勝し、このシントラの地も奪還した。

写真の建物はユネスコ世界遺産に登録されている
シントラ国立宮殿の歩廊(pátio central )。 

雨天のため宮殿外観の写真を撮れなかったのでウィキペディア『シントラ宮殿』を参照のと。

空に向かって伸びる2本の塔は厨房からのデッカイ煙突。
王宮のほとんどは15世紀になってからの建築であるが、レコンキスタ(Reconquista・再征服運動)によってキリスト教国家となってからもタイルなどはアラベスクが用いられ、キリスト教建築とイスラム教建築の融合が見られる。
雅宏撮影スペイン(2)267これはイベリア半島において見られる独特のものでムデハル様式(estilo mudejar)と呼ばれている。(以前にも紹介しているが・・・)

先の円錐状の煙突を中から見上げると高い天井の更にその上に紡錘形の筒が天に向かって伸び
雅宏撮影スペイン(2)268ている。
いったいどれほどの料理を行っ
ていたものやら。

写真では大きさが実感できないが、大鍋の直径は80cm程度あったように思うので、肉を焼く鉄串の長さも類推できよう。

串と言うより鉄棒であって、牛で
シントラ王宮(2)270も1頭丸々焼くことができるほどの太さと長さのものであった。

左は王宮のエントランスであるが、広々としている上に高さは優に3階建ての建物ぐらいの空間を有している。

各部屋の装飾もそれぞれに凝っており、先に書いたムデハル様雅宏撮影スペイン(2)265式や、大航海時代のアフリカやアジアの動植物や海に関するロープなどをモチーフとした装飾を施したマヌエル様式などが見受けられた。

ドーム状の天井一面に絵が描かれ、壁面はアズレージョで装飾されている部屋もあった。

シントラ宮殿(2)261色彩豊かなアズレージョによって装飾された模様はアラビア風であり、イスラム様式を想起させるものであり、シントラ宮殿の随所にムデハル様式を見ることができた。

この王宮は15世紀以来、1910年の革命においてポルトガル王制が廃止されるまで王家の宮殿として使用されてきたものであり、幾つかの修復はあったものの往時の状況を伝えるものとして価値ある建造物である。
シントラ市民ホール(2)277

写真はシントラ駅にほど近いところに建つシントラ市民ホール(Câmara Municipal)。

シントラには上の王宮のほか、モンセラーテ宮殿(Palácio de Monserrate)、ペナ宮殿(Palácio da Pena)それにレガレイラ邸宅(Quinta da Regaleira)など見どころが多くあるが、大西洋側の絶壁が続くロカ岬をも巡るには1日ではとても時間が足りない。

また出直そうと言うにはポルトガルは余りにも遠い国であり、少々心残りなるも次の旅程に移す。
 



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January 27, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【20】 リスボン

ベレン地区は、晴れていればテージョ川に沿って広がる公園から対岸のアルマダ地区を眺めることのできる絶好の場所であるが、大西洋からの暴風と雨を遮るものは何も無く、たちまち全身濡れ鼠状態。

吹き飛ばされぬよう前傾姿勢で向かったのがベレンの塔(Torre de Belém)。
ベレンの塔(2)234
ベレンの塔はテージョ川の河口部にあたり船舶の監視を目的にした要塞でジェロニモス修道院などと同じく16世紀に建てられた。

この塔もヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称えて建てられたものらしいが、塔内部にはテージョ川に入ってくる不審船に対する攻撃用大砲も備えられている。

写真では分かりにくいが、外部の飾りは船のロープや貝をモチーフにしたようなもので装飾されており、ジェロニモス修道院と同様マヌエル様式であると言われている。
雅宏撮影スペイン(2)237ともあれ大航海時代の船はこの辺りから出航していたらしい。

左はテージョ河畔に建てられている発見のモニュメント。

1960年にエンリケ航海王子没後500年を記念して建てられたものだが、大航海時代にカラベル船が帆を上げて出航していこうとする様をよく表している作品だと思う。

舳先にはエンリケ航海王子の像。
左右の舷側甲板上には当時活躍した人たちの像が居並ぶが、西側になる次の写真にはジェロニモス修道院に石棺が安置されている詩人、ルイス・ヴァス・デ・カモンイスやエンリケ航海王子の母親の像も刻まれている。

発見(東)(2)240
下の写真は東側舷側であるが、右端より2番目は日本へキリスト教の布教にやってきたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)の姿も見える。
ザビエルはスペイン出身なのに何故と思ったのだが、ポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け、イエズス会創設メンバーの一人であるザビエルがポルトガルの植民地であったインドのゴアへ布教に出かけたのである。

彼がリスボンを旅立ったのが1541年。 アフリカ南端を回ってインドへ。 その後各地で布教を行って1549年に鹿児島にやってきた。
発見(東)(2)242
先頭(左端)のエンリケ航海王子に続いてアフォンソ5世、次いでヴァスコ・ダ・ガマの像。 写真では分かりにくいが騎士をおいてブラジルを発見したペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares Cabral)と、その次に世界一周を為し遂げたフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)も並んでいる。
雅宏撮影スペイン(2)185
さて、夜になって少し小降りになったもののリベルダーデ大通の灯は朧である。

リベルダーデ大通は前ページに書いたレスタウラドーレス広場からポンバル広場に至る緑地帯を挟んだ道路である。

写真はポンバル侯爵広場(Praça Marquês de Pombal)で大きいロータリー交差点になっており、地下道との立体交差点でもある。

ポンバル侯爵はポンバルに領地を持つ侯爵ということだが、本名はセバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ(Sebastião José de Carvalho e Melo)と長い。 写真の台座上部に彼の銅像が飾られている。

ポンバル侯爵はポルトガル王ジョゼ1世(José I)の信任を得て、ほぼ独裁的にポルトガル及び植民地の政治を行ったため功罪半ばするものがある。

ファド・レストラン(2)193その彼を説明するには複雑で長くなるため省くことにするが、1755年のリスボン大地震で壊滅的打撃を受けたリスボンの復興における彼の手腕は高く評価できることだけは記しておこう。

ポルトガルと言えばファド(Fado)が民族音楽として知られている。

ポルトガル語で歌われるので歌詞の意味は全く分からないが、クラシックギターとギターラと呼ばれるポルトガルギター(写真手前)の伴奏によって歌われる歌は哀調を帯びたものであったり、明るいリズム感のあるものだったり、何となく歌手の気持ちが通じてくるように思えた。
ファド2(2)192
上の写真の立派な体をしたオバチャン歌手はフェルナンダ・サントス(Fernanda Santos)。 年齢は・・・多分、が秘密にしておこう。 

若い女性歌手やフレデリコ・ヴィナグレという男性歌手の歌も聞かせてもらったし、民族舞踊も見せてもらった。

私たちが訪れたのは地下鉄ロシオ駅に近いバイロ・アルト地区のファド・レストラン。 このあたりにはファドを楽しみながら食事のできる店が多い。

ロシオ駅の直ぐ近くには今回訪れなかったがサン・ロッケ教会(Igreja de São Roque)もある。

この教会は九州のキリシタン大名、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らが派遣した天正遣欧少年使節の面々が1584年に訪れている。



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January 21, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【19】 リスボン

リスボン(Lisboa)では友人の画家・武本比登志ご夫妻と会い、彼の車でセトゥーバル(Setúbal)へ案内してもらったことを既に書いた。

リスボンもセトゥーバルも入り江に発達した古い町であるが、リスボンはポルトガル王国の首都となって以来今日まで発展を続け名実ともにポルトガル第一の都市である。

セトゥーバルは近代になって漁業の町として発展し、現代は工業都市としても栄え、リスボンとは車で1時間ほどの位置にあるため首都圏の1都市として位置付けられている。
4月25日橋スペイン(2)239
リスボンからセトゥーバル方面へはテージョ川の河口部の広い入り江に架けられた橋が2つあり、それを渡ることになる。
そのひとつが上の写真の4月25日橋(Ponte 25 de Abril)である。 
もうひとつはヴァスコ・ダ・ガマ橋で、この橋についてはヨーロッパ最長の橋であると以前に紹介している。
キリスト像の1(2)064
4月25日橋とは何とも風変わりな名前であるが、元々はサラザール橋(Ponte Salazar)と呼ばれていた。

サラザールというのは1932年の首相就任以来1968年まで独裁政治を行ってきた(後継者による独裁体制は1974年まで続いた)アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(
António de Oliveira Salazar)の名前を戴いたものであった。
(写真)橋のたもとの丘上に建てられている偉大なるキリスト像(Cristo-Rei)。 夜間にはライトアップされる。
キリスト像2(2)071
1974年4月25日、"リスボンの春(Primavera de Lisboa)"と呼ばれる革命が起き、40年近い独裁体制が崩壊したが、この時歓喜に沸くリスボンの人びとや革命兵士たちはカーネーションの花で祝った。 
このことに起因して『カーネーション革命(Revolução dos Cravos)』とも呼ばれ、4月25日は記念すべき日となり橋の名称も変更されたということである。

70年前後は世界情勢が大きく変わった時期であることを橋の名前を通して改めて思い起こすこととなった。
(上の写真) 朝日の逆光を受けたクリスト -  レイ像。

キリスト像3(2)072(左の写真) 斜め後ろからの撮影。 いずれも走行中の車からの撮影なので思い通りにはいかない。

リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)のコルコバードの丘にあるキリスト像と姿勢が似ている。

独裁者であったサラザールの命で建てられたそうで、彼は熱心なカトリック教徒だったらしい。

ともあれ4月25日橋が架かっている辺りのテージョ川(O Tejo)の川幅は1.3km程度だが海のように広く、先に掲げた写真の右手10kmほどで大西洋に流れ出る。 
この橋がスペインを源流として延々と流れてくるタホ川(El Tajo)の最下流に架かる橋となるのである。

この4月25日橋のたもとにリスボンの港湾施設があり、それの東へ旧市街が広がっている。
アルファマ地区、スペイン(2)247私たちがリスボンに滞在していた10月末は運悪く連日大変雨風が強くて殆ど写真を撮ることができなかった。

この写真は旧市街のアルファマ地区のアパート。
写真では分かりにくいが、壁面は色とりどり模様様々なのアズレージョで装飾されている。

丘を上ったり下りたり随分坂道の多い町だがサン・ジョルジェ城(Castelo de São Jorge)やリスボン大聖堂(サンタ・マリア・マイオール・デ・リシュボア大聖堂・Santa Maria Maior de Lisboa)など見どころが多い。
雅宏撮影スペイン(2)249
残念ながら台風並みの強い横殴りの雨風だったため写真を撮ることはできなかった。
しかも、持参した折り畳み傘が完全に破損というオマケ付き。

仕方なく市内巡りも車の中から。

写真はリベルダーデ大通り(Avenida da Liberdade)に沢山建てられているモニュメントのひとつ、レスタウラドーレス広場(Praça dos Restauradores)のオベリスク。

大航海時代にポルトガルやスペインは世界各地に植民地を広げ、その覇を競う2国であったが、1578年、ポルトガル最後の王・セバスティアン1世(Sebastião I)がモロッコとの戦で亡くなり、王には後継ぎがいなかったため、1580年縁戚になるスペイン王のフェリペ2世(Felipe II)がポルトガル国王を兼ねてポルトガル・スペイン同君連合ができた。

※ フェリペ2世は同君連合成立後、ポルトガルにおいてはフィリペ1世(Filipe I)
   と名乗っている。

※ 雨の合間に・・・市内を走るトラム
トラム、スペイン(2)226フィリペ1世以後、フィリペ2世、3世と続くが、ポルトガルへの圧政が強まるにつれ、ポルトガル国内での反発も強まっていった。

1640年ポルトガルに起こった革命は1668年に終わり、スペインとの同君連合を解消してポルトガルは独立国となった。
この革命戦争を‘ポルトガル王政復古戦争’(Guerra da Restauração)と呼び、先の写真のオベリスクはそれを記念するものである。
雅宏撮影スペイン(2)231
雨の合間にベレン地区のジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)を訪れた。

この修道院はポルトガル海上帝国と呼ばれた時期のマヌエル1世の命によって1502年に建築が始められたが、マヌエル1世が亡くなったり、その
雅宏撮影スペイン(2)230後にスペインとの同君時代もあって完成まで300年もの年月を費やしたもの。

広い中庭を囲むように建つ上の修道院と附設のサンタ・マリア教会(Igreja de Santa Maria de Belém)の写真である。

いずれも後期ゴシック様式の建物で豊富な建築資金をつぎ込んだポルトガル・マヌエル様式の最高傑作と評されている。

その豊富な建設資金はマヌエル1世の命令によって船出していったヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓により、遮断されていたアジアとの香辛料貿易をポルトガルが掌握することで得られたものであり、このジェロニモス修道院もエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称えて建設されたものである。
雅宏撮影スペイン(2)207そのためサンタ・マリア教会の西門を入って直ぐのところ左右にヴァスコ・ダ・ガマの石棺(写真)と、彼の偉業を称えたポルトガルの詩人、ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)の石棺が安置されている。

雅宏撮影スペイン(2)211大航海時代のポルトガルは新航路の開拓によって植民地を広げ、アフリカやブラジルなどからの金、インドや東南アジアからのコショウなどの香辛料によって巨大な富を築いた。

写真はサンタ・マリア教会の身廊。

高い天井の重量は幾本もの石柱に分散されるように設計され、柱や壁などには大航海に相応しい海に関するもので華美なまでに装飾されている。


雅宏撮影スペイン(2)221
左の写真は修道院の部屋だが、壁面はロープの装飾とアズレージョで飾られている。




雅宏撮影スペイン(2)217左の写真は修道院の内庭に面した回廊と、その装飾についての写真だが、飾りが無い部分が殆ど無いほどにまで装飾が施されている。

好みの問題ではあるが、ここまでやるかと言うのが私の感想である。

先の身廊の写真での柱と天井や左の回廊の写真のような植物をモチーフにしたもの、また、アフリカやアジアの珍しい動物の他、サンゴや船のロープなど装飾は様々であるが、16世紀頃を象徴するもので過剰とも思えるほどの装飾を施したものをマヌエル様式と呼んでいるように理解したが、これは私の偏狭的理解かもしれない。




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January 10, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【18】ポルト~リスボン【オビドス】

ポルトガルの首都リスボンからは車で1時間ばかり西部高速道路(Auto Estrada do Oeste)を走ればオビドス(Óbidos)に着く。

前にも書いたが自動車道路が発達しているポルトガルでは車が便利なのである。
オビドス城壁(2)170
現在は大西洋から僅か10数kmの所に位置する小高い丘の上の町オビドスだが、かなり早い時代から人々が住みついていたようであり、古くはもっと海岸線が内陸へ入り込んでいたように想像できる。

古代ローマの勢力がイベリア半島に及んでいた頃、ローマ軍がこの地に城塞を築いたのが町として形作られる最初であったようだ。

上の写真でも分かるように、小高い丘の上に形成されたオビドスの旧市街周辺は今も農地が広がる田舎の雰囲気が残る地域である。 (城壁の内側が写真手前で外側には白壁の建物群と農地が見える)
オビドス城門(1)(2)159
写真はオビドスの城門。

6世紀には西ゴート人によってイベリア半島全域が支配下に収められたが、やがて8世紀初めまでにイスラム勢力の侵攻によってオビドスも含めイベリア半島全域がその支配下に入ってしまった。

しかし722年、イスラム勢力の侵攻で敗れた西ゴート王国の貴族・ペラーヨ(Pelayo)がイスラム勢力に反攻してアストゥリアス(Reino de Asturias)で勝利を収めたことをきっかけに、イベリア半島で起きたレコンキスタはレオン・カスティーリャ(León・Castilla)地方から徐々に制圧地域が半島南部に広がっていった。
雅宏撮影スペイン(2)160そして1139年、アフォンソ・エンリケ(Afonso Henrique)が今のアレンテージョ(Alentejo)あたりでの'オーリケの戦い'(Guerra do Ourique)でイスラム勢力に勝利したことにより、オビドスを含めポルトガル全土を奪還することとなった。

この'オーリケの戦い'の勝利によってポルトガルを建国、自らアフォンソ1世と名乗りポルトガル王国の初代国王となった。

城門の中はアズレージョ(azulejo)で飾られている。

このオビドスの城は元々海からの侵略に備える役割を担っていた。
オビドス(2)161
それが、1282年に第6代ポルトガル王のディニス1世(Dinis I)がアラゴン国の王女イサベル(Isabel de Aragão)を妃として迎えた時、王妃がオビドスの土地と城を大層気に入ったらしく、王が妃への贈り物としたことでオビドスは代々の王妃のための宮殿のひとつとしての役割をも担うようにオビドス(2)164なった。

城壁に囲まれた町は決して大きいものではなく、ぶらぶら散歩気分で一巡してしまえる広さである。

通りには石畳が敷かれ、上の写真のようにブーゲンビリアの花が咲き乱れているなど美しい町である。

写真の教会はサンタ・マリア教会(Igreja de Santa Maria)で当初はゴシック様式の建築であったらしいが、後にルネッサンス様式に変わったらしい。
雅宏撮影スペイン(2)163
バロック様式のようだが、これも教会。 しかし、名前は分からなかった。

城壁内の狭い町なのに教会が3つもあるのには驚いた。

ところで、ディニス1世の妃イサベルは大変心のあたたかなカトリック信者であり、人々のために誠心誠意尽くしたらしく、後になってローマ教皇によって列聖されカトリックの聖人となっている。

オビドス(2)165左の写真正面の教会の右手に入るとポルトガルの文化財ホテルであるポーサダ・オビドス(Pousada de Óbidos)がある。





オビドス(2)171
雅宏撮影スペイン(2)173
ポーサダとは、以前説明紹介したスペインの文化財ホテルであるパラドール・レオンと同様の施設である。

パラドール・レオンが修道院を利用したものであるのに対し、ポーサダ・オビドスは城を利用したものである。
雅宏撮影スペイン(2)180
上の写真はオビドスの水道橋(Aqueduct in Obidos)である。

これは、1575年に造られたものでローマ時代のものではないが、この水道橋といい、お城や城壁、それに城壁内の町のたたずまいといい中世の雰囲気を今に伝えるものとして、なかなかに良いものであった。



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January 09, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【17】ポルト~リスボン【ナザレ】

ポルト・リスボン間は飛行機で1時間、鉄道・バスで3時間~4時間程度であるから大層な距離ではない。 直線にすれば300kmもないのである。

途中にはポルトガル第三番目の都市コインブラ(Coimbra)もあるが、私たちは大西洋に面した田舎町ナザレ(Nazaré)に立ち寄った。

ナザレと言えば新約聖書にイエスはナザレの人と記され、イエスが幼い頃から生活していた土地の名前としてキリスト者で知らぬ者はいない現在のイスラエル北部にある都市だが、ポルトガルのナザレは現在ビーチリゾートとしての評判が高い町である。
ナザレ(修整)ポルトガル
上の写真は標高110mの丘の上からのナザレの町の眺望。

大西洋の青い海、長く広がる砂浜、赤い屋根に白壁の建物と見事な景色である。

ナザレの町は写真にあるように海浜に面して緩やかに傾斜して広がるプライア地区(Distrito Praia)、写真奥の方の台地に広がるぺデルネイラ地区(Distrito Pederneira)、そして、この写真を撮っている丘の上一帯に広がるシティオ地区(Distrito Sitio)に分かれる。
ナザレ店舗(2)358
上の写真は海浜に面したプライア地区の一画でレストラン、土産物店などがズラリと並んでいる。 狭い路地のような道が家々の間を通っているのは日本の漁師町と同じ。

多くの人で賑わうのはやはり夏場なのであろう、10月終わりのこの時期は何となく閑散とした感じが漂っており、
♪今は、もう秋~。誰もいない海~♪
こんな歌詞が口をついて出てきた。

それでも昼時のレストランは結構混雑していた。 ナザレのレストランは美味しい魚介料理を出すと評判で観光客や地元の人たちが季節に関係なく訪れるらしい。
ナザレ海岸合成終了
広い砂浜から見た丘と、その上に広がるシティオ地区の一画。

丘正面山腹の斜めの線はケーブルカーの線路。

下は上の写真の左部分を拡大したものだが、遠方からでも堆積地層がよく見える。 大昔、この丘一帯は海の底にあった。 堆積物の粒度が細かいことから海は海でも深い沖の方の海底だったのだろう。 

ナザレ隆起海岸(2)353
それが隆起したのであろうと考えるのが順当な露頭であった。

現在、岬には灯台が建てられているが、17世紀の頃、植民地政策に力を入れていたポルトガル・スペインに対してオランダやイギリスが対抗勢力として脅かすようになってきたことなどから要塞(聖ミカエル要塞Forte de São Miguel)が造られたらしい。
ノッサ・セニョーラ・ナザレ教会(2)154
左の写真はシティオ地区の丘の上の展望所に建つノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会(Igreja de Nossa Senhora da Nazaré・ナザレ聖母教会)。

この教会が建てられたのは14世紀のことだが、現在の建物は17世紀のバロック様式の建築。

祭壇に安置されているのはマリア像だが、このマリア像は修道僧・ロマノフが持ってきたイスラエルのナザレのもので、この聖母に奇跡が起きたとされたことから多くの者が巡礼に来るようになったとか。

探検家のバスコ・ダ・ガマも巡礼に訪れたらしいし、教会ファサードの左右に建物が広がっているが、これは病院と宮殿で、王族や貴族が巡礼に訪れた時に供せられたものだったとのこと。

町の名前のナザレは、マリア像がナザレのものであったことに因んだものらしい。


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