January 2011

January 08, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【16】 ポルト (3)

ポルトの町について書いてきたが、ポルトガル第二の都市だけに巡りたい所も多い。

雑用の合間に少しずつ綴っているが作業の進捗具合がはかばかしくなく、2か月も前の旅のまとめが未だ完了していない。 これが本業ならば即刻食い上げの事態になるところである。
ポルト、トラム(2)311
しかしまあそれはさておき、ポルトの町で私の興味・好奇心を掻き立てるのは、やはり歴史地区・リベイラである。

この小さく可愛い昔懐かしい'ちんちん電車'はリベイラの12時の位置にあるカルモ教会(Igreja dos carmo)からリベイラの周囲を回るように、ひとつは9時方向からドウロ川に沿うようにエンリケ航海王子広場横のサン・フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)前まで走ってくれるし、3時の方向に回るのは国立劇場(Teatro Nacional de São João)を経てバターリャ駅(Estação de Batalha)まで走ってくれる。

ちなみにSão Joãoは日本語での聖ジョン・聖ヨハネのことである。
雅宏撮影スペイン(2)314
バターリャ駅の直ぐ西側にカテドラル、西北直ぐの所にサン・ベント駅があり、一般の人たちも利用する'ちんちん電車'だがノンビリ観光には良い。

写真はゴシック様式のバラ窓を設けたサン・フランシスコ教会礼拝堂と付属の建物だが、礼拝堂は1425年に完成したもの。

外見は花崗岩で造られて落ち着いた感じを受ける建築だが、礼拝堂内部は金箔を張り巡らした金ピカの装飾でけばけばしく、私の
雅宏撮影スペイン(2)309好みには合わないものであった。

建物はそれぞれゴシックあり、バロックあり、ネオクラシックありと、ごちゃまぜの感があるのも私には面白くなかった。

金箔装飾はポルトガルがブラジルを植民地としていた17世紀のバロック期に沢山の金をブラジルから運び、その金を用いた金箔細工がポルトガルで発展したために礼拝堂の装飾にも用いられたらしい。

経緯はどうでも良いが、私の教会観、宗教観とは大きくズレがあり、長居は無用と早々に退室した。

礼拝堂の東側から見た写真はゴシック様式の礼拝堂のアプスであるが、落ち着いた歴史を感じさせる外観だけは満足できるものであった。
雅宏撮影スペイン(2)305
そのサン・フランシスコ教会の北側に写真のボルサ宮(Palácio da Bolsa)が建っている。

1834年、ポルトの商業組合がドウロ川に下る傾斜地にネオクラシックな外観のボルサ宮を建てたが、アラベスクを一面に配した豪奢な部屋などがあったりで、当時のポルトの商人たちがいかに儲けていたかを容易に想像できる建物である。

最近まで証券取引所として使用されていたらしい。
雅宏撮影スペイン(2)306
ボルサ宮の前から坂道の上を望むと19世紀から20世紀初頭の建物が並びベネディクト修道院(mosteirode Sao Bento da Vitoria)の鐘楼も見える。

右手の芝生はエンリケ(Infante Dom Henrique)航海王子広場と市場(Mercado)であるが、歴史地区を巡っていて感じるのはキリスト教会が多いことである。

日本の城下町における寺町のように寺が連なっているという感じではないが、結構数は多いように思う。 日本の城下町は城普請の前段で町割りを行って寺町に寺を集中させるが・・・寺とキリスト教会を比べ見ることがそもそもオカシイのかも。
聖ニコラス教会、ポルト(2)303ボルサ宮の前から坂道の下を望むと聖ニコラス教会(Igreja do São Nicolau)が見える。

この教会の始まりは13世紀に遡るようだが17世紀に造られた教会は1758年の火災で焼け、現在の建物は1762年に再建、ファサードのアズレージョの装飾は1861年に施されたものらしい。

この写真の奥にドウロ川が流れ、左手がエンリケ航海王子広場になる。
エンリケ広場t(修整)ポルト(2)302
芝生が張られた広場の中央にはエンリケ航海王子の銅像が建てられている。

エンリケ王子が一時期ポルトで住まいした家というのが、写真では右から3つ目の建物。(エンリケ王子はポルトで生まれたという説)

この建物は14世紀前半の建築らしい。
ドン・ルイス1世橋(2)326
ドウロ川には現在4つの橋が架かっているが、写真の橋はドン・ルイス1世橋で上部の長い部分はメトロが通り人も歩け、下部の短い部分は自動車のほか人も渡れるようになっている。。

橋の名前であるドン・ルイス1世はポルトガル王の名前であり、1886年に完成したこの橋の設計はパリのエッフェル塔を設計したギュスターヴ・エッフェルの弟子の1人が行ったもだという。

パリのエッフェル塔がパリ万博に合わせて1889年に完成しているから、それに先んじること3年、このドン・ルイス橋も立派な文化財である。
雅宏撮影スペイン(1)009
ドウロ川に架かる4つの橋のうち最も河口に近いのが北部高速道路(Auto Estrada  do Norte)にある写真のアラビダ橋(Ponte Arrãbida)であるが、アーチによって圧縮力を分散していることに変わりはないが、100年以上前の橋と現代の橋、どちらも形状は綺麗だが好みはと尋ねられると答えるのは難しい。

さて、エンリケ王子であるが名前は前記の通りInfante Dom Henriqueであるが、ポルトガルの至るところでInfante de Sagres、つまり航海王子或いはエンリケ航海王子と呼ばれるのを聞いた。

英語ではPrince Henry the Navigator、ポルトガルでのエンリケはヘンリーであり、ナビゲーターはサグレス、つまり航海者(士)とか海洋探検家といった意味になる。
エンリケ王子像ポルト(2)308エンリケ航海王子はポルトガル王国ジョアン1世の王子として1394年に生まれ、自ら探検に出ることはなかったがパトロンとして数々の探検を支援し、そうした結果、マデイラ諸島、アゾレス諸島、そしてモーリタニア、セネガル、ギニア、シェラレオネなど、それまで知られていなかったアフリカの地にもポルトガルの植民地政策を進める糸口をつかむこととなった。

エンリケ航海王子が1460年に世を去って後、1488年にバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)が南アフリカ南端の喜望峰に到達し、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が喜望峰を回ってヨーロッパ人として初めてインド航路を開拓したというようにポルトガルとしての快挙が続いた。

アメリカ大陸の発見で名高いイタリア人・クリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo、Christopher Columbus)が中央アメリカに到達したのは1502年のことであった。 (一連の新大陸発見は1446年~1506年とされている)

こうした探検の流れを見れば、エンリケ航海王子が歴史に言う『大航海時代』の先鞭を切った一人として評価して良いであろうし、『航海王子』の称号を与えることも当然のことかと私は思う。 (ポルトについては終わり)


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January 07, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【15】 ポルト (2)

ポルトはドウロ川(Rio Douro)の河口に早くから開けた都市である。

ヨーロッパにおいてヒト属(homo)が活動し始めたのがいつからなのか明確ではないが、発見された細石や人骨などの遺物から200万年くらい前からではないかと推量されている。

今回は訪れなかったが、ドウロ川の上流で発見されて世界遺産に登録されている『コア渓谷とシェガ・ヴェルデの先史時代の岩絵遺跡群』(Prehistoric Rock-Art Sites in the Côa Valley and Siega Verde)は2万2千年のものであり、洞窟壁画で有名なアルタミラ壁画(Altamira・スペイン)やラスコー壁画(Lascaux・フランス)よりも古い。
ポルト、リベイラ(3)
上の写真はドウロ川に面した丘陵に開けたリベイラ(Ribeira・河畔)であるが、右手が上流で左手が下流。 この場所から大西洋の河口部まで僅か5kmほどだから、相当古い時期に人々が住みついていたと想像できる。

15世紀にはイギリスなどとの交易の港として大きい発展を遂げていたらしいから、ワイン樽の運搬船"ラヴェーロ"(写真)は勿論、大きいカラベル船(Caravel)などの出入りで賑わっていたことと思う。
Caravel_Boa_Esperanca_Portugal[1]
カラベル船


写真はウィキペディア『Caravel Boa Esperanca Portugal.jpg』より。


著作権者は、
Navy of Brazil

雅宏撮影スペイン(1)015リベイラは石畳の坂道に石造りの家や教会などが建ち並んだポルトの古い町並みでポルト歴史地区(Historic Centre of Oporto)として世界文化遺産に登録されている。

現在のポルトはポルトガル第二の都市としてリベイラを囲むように周縁に広がり、ドウロ川を隔てた南の地域へも大きく広がっている。

左はリベイラの民家が建ち並ぶ通り。

ポルトの市街地の中心はサン・ベント駅
サン・ベント駅、ポルト(2)300(Estação de São Bento・写真)で20世紀初頭の建築だが、駅構内の壁面をアズレージョ(azulejo)が飾っている。

アズレージョというのは釉薬をかけて焼いた陶板タイルのことであるが、ポルトガルやスペインではよく見かけるものである。
雅宏撮影スペイン(2)292
元々はイスラム勢力下の地方でアラヴィックな模様の壁面を飾るタイルとして用いられていたものだが、その製法がスペインを経てポルトガルにも伝わったものらしい。

写真では分かりにくいが20cm四方程度のタイルを張り合わせて壁面の大きい絵を構成しているのである。

ポルトガルの歴史の一場面を描いているものが多いそうだが、この絵が何の場面なのかは分からない。 しかし、十字の印が入った服を着た騎士がアラブの服装をした者たちと戦っていることから、多分レコンキスタの一場面を表しているのではないかと思う。
雅宏撮影スペイン(2)295
サン・ベント駅はターミナルであるが近郊と行き来する電車が主で、朝夕は通勤者で混雑する。

長距離列車の発着はひと駅東側に離れたカンパニャン駅(Estação de Campanhã)で、こちらの駅舎は現代的建築である。

サン・ベント駅中央口のあたりでは歴史地区のいろんな石造りの建物を見ることができる。
グレリゴス大聖堂ポルト(2)299
左の写真は18世紀に建てられたクレリゴス教会(Igreja dos Clerigos)と塔。

バロック様式の建築物であり、リベイラの全景写真の中央あたりに聳えている塔がこの教会の塔で76mの高さがある。

大聖堂ポルト(2)298
写真は中央口から見たポルト大聖堂(Catedral)とダウンタウンのアパート群。

カテドラルは12世紀に建てられた要塞であるが、1700年代に大きく改装の手が加えられたようだ。


教会?ポルト修整(2)297
聖アントニウス教会(Igreja dos Santo António)だったか名前がはっきりしないが、ファサードを飾るアズレージョが見事であった。



ペドロ4世銅像ポルト(2)301
リベルターデ広場に立つドン・ペドロ4世(Dom Pedro Ⅳ)の騎馬像と歴史を感じさせる建物群。 道路や歩道はぎっしりと石が詰められている。

ドン・ペドロ4世はポルトガルの王太子であるが、同時にブラジル皇帝でもあった人である。 この人物については説明が必要なので別の機会に書くことにする。



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January 05, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【14】 ポルト (1)

サンティアゴ・デ・コンポステラ(スペイン)からポルト(ポルトガル)へ向かうには鉄道もあるが欧州自動車道(E1)が便利である。

サンティアゴ・デ・コンポステラとポルト間、ざっと230km。 ほぼ3時間程度の移動になる。

国境があって無いEU諸国間の移動は国内道路を走るのと同じであり、個々の事情で停車する場合を除けば料金所で停車するだけである。
大西洋(1)修整
写真はスペイン北西部、大西洋が深く入り込んだ入江の町ヴィラボア(Vilaboaビーゴの少し北)付近のSAでの景色。

沢山の養殖イカダが組まれていたが、気水域なので牡蠣かムール貝かの養殖ではなかろうかと思った。

ビーゴ(Vigo)を過ぎれば直ぐにポルトガルとの国境であり、国境を越えれば100kmほどでポルトガル第2の都市ポルト(Port)である。
雅宏撮影スペイン(2)333                       
                      
ポルトはポルトガル語読みであるが、英語ではポート。

ポートと聞いて先ず私が思い浮かべるのはポートワイン。 それも赤玉ポートワインである。

♪白地に赤く~♪の日の丸ならぬ黄色地に日の丸のラベルであったが、お酒に弱い家内は大学の寮で、赤玉ポートワインの余りの甘さに悪酔いした思い出があるというが、私も同様に学生時代、その甘さに閉口して以来口にしたことがない。

そのため、赤玉と言えばポートワイン、ポートワインと言えば赤玉との印象が固定化してしまっており、ポルトとポートが同一の言葉であるということに思考面でつながらなかった。
雅宏撮影スペイン(2)329
全く固い頭だと自分でも呆れたが、固定観念というものは得てしてそうしたものであり、自戒のひとつとせねばならない。

ここに掲載している写真はポルトにあるサンデマン(SANDEMAN)というポルトワインの醸造会社を見学した時のものである。

ここでは醸造過程について詳しくは書かないが、ブドウの実を積んで果汁を搾り、それを発酵させるという点では一般のワインもポルトワインも同じ工程を踏む。

異なる点は、一般のワインは発酵を継続させるが、ポルトワインは発酵途中でブランデーを加えて発酵を停止させるという点である。

当然一般のワインよりアルコール度数の高いものができるが、それを木樽に詰めて熟成させることによって色合い、香り、味わいなど、一層風味を増すことになる。
ワイン工場(1)スペイン(2)328
もともとはイギリスの企業が始めたものらしいが、ポルトに流れてくるドウロ川上流一帯の土壌などブドウ栽培に適した自然環境がポルトワイン製造の発展要因のひとつになったらしい。

誰でもいつでも見学させてくれるし試飲もできる。 悪酔いの経験や甘ったるいポートワインという印象から何十年も口にすることのなかったポートワインだが、勧められるままにひと口味わってみて又々固定観念のひとつを改めねばならなかった。
雅宏撮影スペイン(2)332
赤玉ポートワインと"ちゃうちゃう"。

長年飲んでないのだから味わいの感覚も変わっているだろうし、舌の感じ方も変わっているだろう。勿論記憶したことも変わっているかもしれない。

しかし、このポルトワインは赤玉ポートワインとは明確に異なるのである。

色合い、香り、味わい、まろやかさ加減、アルコール度数、粘性、透明感といろんな比較可能な言葉を出しても、やはり"ちゃうちゃう"と記憶回路が答えを出してくるのである。 勿論甘いのだが、その甘味具合さえも違うのである。
ラヴェーロ、ポルト(1)324だから好きか?と問われたら好きとは言えないが、赤玉ポートワインとポルトワインは明らかに異なるものだということだけは言えると感じたのである。

写真はドウロ川に浮かぶワイン樽の運搬船"ラヴェーロ"。
現在はトラックによる陸上輸送になっているが、昔は写真のように船で運搬していたという。

付け加えておくと、ポルトワイン(ポートワイン)はポルトガルのポルトで生産されたワインということで商標のようなものらしい。

従って『赤玉ポートワイン』は現在『赤玉スイートワイン』として販売されているようだが、今もって私は口にしたことがない。



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January 04, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【13】 聖地サンティアゴ・デ・コンポステラ(3)

巡礼という宗教的目的としての大聖堂は勿論だが、観光スポットでは人が多くてあまり町の歴史に浸るって感じにはなれない。

しかし、観光・巡礼の団体と距離を取れば、サンティアゴ・デ・コンポステラは古い町なので、至る所で歴史を感じることのできる素敵な町である。
Market de Santiagoスペイン(1)086
写真は町の市場で露天商も店を広げて野菜や切り花を売っているが、公的な市場(mercado)は写真右手の花崗岩の切石で造られている建物である。

市場は人が多いが、ほとんどが地元の人たちなので、彼らがどのようなものを買い込んでいるのかを眺めることは私にとってとても楽しいことのひとつなのである。

スペイン語の会話の内容は理解できないが、彼らが店の者とやりとりする表情や手振りから何となく会話の内容が想像できてしまうのは買い物をするという行為が彼我に共通するからであろう。
雅宏撮影スペイン(1)087
八百屋に並ぶ品物は日本とさして違わない。

露店のおばちゃんが売るものに比して種類は圧倒的に市場内の店の方が多い。 これは当然と言えば当然だが、八百屋に関しては露店の方に活気が感じられた。 やはり地の物に人気が集まるのかもしれない。
雅宏撮影スペイン(1)088
地の物と言えばサンティアゴ・デ・コンポステラは大西洋に面した町まで直線にして40km程度の距離にあるから海の幸は種類・量ともに豊富である。

肉食文化が発展してきた国だから牛肉や豚肉、チーズ、バターなどを売っている店もあるが、私の興味は
雅宏撮影スペイン(1)092魚屋の方にひかれた。

魚料理が好きだという理由もあるが、大西洋ではどのような魚が獲られているのか、それも晩秋から初冬にかけての頃に、そしてこの地方の人たちがどんな魚を買い入れているのかを見ることで彼らの好みも分かるように思うからである。

市場の建物は先にも書いたが花崗岩の切石を組んだかなり古いものである。 写真でも分かるように石柱で支えられた枠に各店舗が品物を並べている。
魚屋(1)スペイン(1)089並んでいる魚は日
本の魚屋とも大した変りはないように見える。

マトダイ、ウシノシタ、サバ、アジ、イワシ、エビ、タコなどの他、メバルの仲間のようなのやスズキのようなものなど。

日本では季節を問わず並べられるタイやハマチは無かった。

これは単に養殖魚が流通していないということが理由かと想像した。 

つまり、この地域の人たちの好みだけでなく、養殖を行わねばならぬほどの需要もないし天然魚の漁獲だけで十分賄えるということなのだろうと。
雅宏撮影スペイン(1)090
貝とカニを専門に扱う店もあった。

スペインでカニの漁期があるかどうかは知らないが、扱っているカニはヨーロッパイチョウガニ。

写真で黄色く見えるのはアサリだが、黄色いネットに入れてある為そのように見える。

左下の細長いのはマテガイ。 その右にはカメノテが並んでいる。

カメノテは磯の生物だが名前の通り'亀の手'のような形をしている。 日本ではあまり食べないがスペインではバルやレストランでカメノテ、マテガイ、ムール貝などを湯がいて出してくれる。 見た目はイマイチだが、身は貝と同じなので酒の肴に良い。
雅宏撮影スペイン(1)093酒の肴と言えば市場を出た所でオッチャンがタコを湯がいて売っていた。

ドラム缶の火桶の上に寸胴鍋を置き、鉤にタコを引っ掛けて湯の中に吊るしているのである。

湯がきたてのタコの足を木製の皿の上で上手に切ってくれるのであるが、イカ・タコ大好きな私は美味しい匂いとオッチャンの手さばきに釣り込まれて見入ってしまった。

皿の上で湯気を立てているブツ切りのタコの足に爪楊枝を刺し、その皿をニコニコ顔のオッチャンが差し出してくれた。

塩加減・マル。湯がき加減もマル。香り・歯ごたえ・味わい、全てマル。

ホンマ、メッチャ美味いのである。
雅宏撮影スペイン(1)095時間があれば酒を買ってきて、オッチャンの目の前に座り込んでいたい気になってしまったぐらいであった。

甘党の土産として人気が高いのは写真の'使徒のパイ(tarta de apostol)'とか'casal coton'というアーモンド入りの菓子(tarta de almendra)である。
ちなみにボトルは蜂蜜のお酒(licor de miel)らしいが、残念ながらこれは味わってはいない。

商店街を歩いて行くとアラメダ公園(parque de Alameda)に出てきた。丁度昼休みの時間だったのだろう、公園横の学校(高校か中学か判別がつかなかった)から生徒らが出て来ていて賑わっていた。
雅宏撮影スペイン(1)101
アラメダ公園は旧市街と新市街を区分する位置にあり、ここからは旧市街と大聖堂を一望できることから観光スポットのひとつになっているらしい。

雨に煙るサンティアゴ・デ・コンポステラの町は一層素晴らしいと言われているが、私たちが訪れた日は写真のように霧が発生しており
雅宏撮影スペイン(1)105幻想的な眺望を満喫することができた。

街中は巡礼に訪れた人たちで賑わっていたが、そんな中でちょっと目を引いたのは昔の巡礼者の格好をした男性。

杖は持たないがホタテ貝をつけた帽子をかぶり、胸にもホタテ貝を・・・

雅宏撮影スペイン(1)082観光協会の人なのだろうか、地元の人のようであったが委細不明。

大聖堂西側のオブラロイド広場に再び戻ってきた。

写真の建物は現在市庁舎として使用されているが、18世紀の建築でありガリシア自治州の役所であるとも聞いたが趣きのある建物である。

ローマ教皇・ベネディクト16世が聖ヤコブ年にあわせて11月6日に訪問するとのことで、広場では歓迎式典のための準備が進められていた。
雅宏撮影スペイン(1)083
歴史を感じると言えば広場を囲む北側にパラドール・デ・サンティアゴ(Hostal de los Reyes Católicos)がある。

この建物は1499年に巡礼者のために建てられた王立病院であるが、現在はパラドールとして一般に開放されている5つ星の国営ホテルである。

日本で歴史を感じると言えば神社仏閣に関わるように、ヨーロッパではキリスト教に関わることが多くなる。

サンティアゴ・デ・コンポステラもその類いであるが、しっとり落ち着いた雰囲気の町を訪ねることは素敵なものである。

聖ヤコブの年に訪れることができたのはキリスト者ならずとも幸せなことであった。

イベリア半島の旅はまだ続く。


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January 03, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【12】 聖地サンティアゴ・デ・コンポステラ(2)

ヨーロッパの比較的小さな町において、旧市街の保存状態が良いのにはいつも感心するのである。

再開発に要する費用よりも新たな場所に町を造る方が安いということもあろうし、現代的機能を網羅した町を建設することができるという理由もあるかもしれない。 そうしたことが結果的に旧市街の保存につながっているのかもしれないが、土地が狭く人口が多い日本では難しいかもしれない。

昭和30年代、我が国の高度経済成長時期の新産業都市、石油化学コンビナート建設などには共通する部分があるようにも思うが、今回訪れたサンティアゴ・デ・コンポステラの旧市街も狭い範囲にあり、その周辺に新市街が広がっている。
雅宏撮影スペイン(1)028
旧市街が狭いゆえ当然に道路幅も狭い。 そのため観光バスなどの旧市街地への乗り入れは制限されているようで、私たちが利用したバスも専用の乗降場(左の写真)で乗客を降ろして去って行った。
そうした客待ちのバスは別の場所で待機するようになっているのである。
ところで、街灯の照明が必要なほどに薄暗い乗降場であるが、少し曇り空ではあったが夕刻ではない。 時刻は午前8時過ぎである。

『免罪の門』に多くの人たちが列を為すことを予想して少し早めにホテルを出発したのである。
雅宏撮影スペイン(1)031このことが正しい選択であったことは前ページに掲載した写真でも分かる。

巡礼の最終目的地である大聖堂については既に前のページで書いているので、このページではそれを中心に発展してきたサンティアゴ・デ・コンポステラの町の様子について少し紹介してみたい。

上はサン・フランシスコ修道院(convento de San Francisco)の建物だが、現在は修道院の建物を利用したホテルになっている。
雅宏撮影スペイン(1)034
旧市街は石畳の道が続いて落ち着いた雰囲気をかもし出している。

建物はサンティアゴ・デ・コンポステラ大学歯学部。 大学の開設は1495年とのことだから古い。
創立の古さという点では1088年に創立されたボローニャ大学(イタリア)があるが、ヨーロッパにはキリスト教神学の教育研究機関として早い時期に開設された大学が多い。
雅宏撮影スペイン(1)040
この建物はサン・マルティン・ピナリオ修道院(monasterio de San Martin Pinario)。

バロック様式の建築であるが、建坪だけでも相当に広い。 敷地が2万平方メートルあるらしいし、写真の正面部分の左右の長さだけで100mはあるだろう。 しかも、この写真の奥の方へ平面図としては中庭を含めて『田』の字型に建物が連なり、大きい礼拝堂をも備えている。

最初の教会は12世紀に建てられたらしいが、現在の建物は16世紀末から17世紀の建築で一部はホテルとして使用されているとのこと。
雅宏撮影スペイン(1)039
この修道院と向かい合うように大聖堂の北側翼廊部分のファサードが位置する。

キリスト教における聖堂の多くは平面的には十字架をかたどっている。
十字のタテ線を身廊、ヨコ線を翼廊とし、タテ線の上部に祭壇が設えられ、その最下部にあたる所が聖堂の正面・ファサードになり、通常は礼拝するのにこのファサードから出入りする。

前ページで書いた大聖堂東側のクィンターナ広場(Plaza de la Quintana)に面した『免罪の門(Absolución Puerta/Indulgence Gate)』はタテ線の上部側に位置し、オブラロイド広場(Plaza do Obraroido)に面した西向きのファサードが大聖堂の正面出入り口となる。
雅宏撮影スペイン(1)060
クィンターナ広場を囲むように建つサン・パレヨ・デ・アンテアルタレス修道院(monasterio de San Pelayo de Antealtares)。

この修道院は一部を博物館としているが、スペインでも最古の修道院のひとつとされているので大聖堂建築と同時期の12世紀の建設ではないかと・・・ これについては不明。

『免罪の門』は写真では左手、修道院とは向かい合う位置にある。

うっすら霧がかかって寒かったのでコーヒーを飲んでいたのだが、ここのコーヒーはエスプレッソ。 景観といい耳にする言語といい、コーヒーまで苦い少量のエスプレッソだったのでスペインに来ているのかイタリアに来ているのか少々頭が混乱したひと時を過ごした。
雅宏撮影スペイン(1)065 
碁盤の目のような京都の町で迷うことなど想像もできないが、ヨーロッパの旧市街では時に方向感覚が狂ってしまうことがある。

道が狭いために太陽の位置が分からない上、道が僅かに曲がっていたりすると自分が想像していたのとは随分違った場所に出てしまうことが往々にして起こる。 が、またそうしたことが知らない町を訪ねた時には楽しいことでもあるのだ。

時に思いも寄らない発見をして嬉しくなってしまうことがよくある。
雅宏撮影スペイン(1)085
左の写真も横町の奥まった所に建っていた古い建築物。

サン・アグスティン大学(Colegio Mayor San Agustin)で良いのかどうか。

Colegioは学校の意味があるし、Mayorは大きいという意味の言葉だから、聖
アグスティン大学・・・ポルトガル語でCollegio、英語のCollegeに通じるものがあるので、まあ大きくは間違ってないとは思う。

今ひとつ、知らない土地を訪れて楽しいのは市場巡りである。

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