February 2011
February 20, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【27】 セビリア
グアダルキビール川の河口部からは100kmばかり船で遡上せねばならないが、中世の頃には海上交通が頻繁に行われ、アンダルシア地方における中心的港湾商業都市として栄えたようである。
大航海時代の1492年、新大陸発見で名を馳せたコロンブスはこのセビリアの港から出帆し、やがて植民地とされた地域の物資が船を用いてどんどんセビリアに運び込まれるようになり、16世紀にはスペインで最多の人口を数える都市になった。
写真の塔はグアダルキビール河畔に建つ『黄金の塔』(Torre del Oro)。
遠望すると円柱状の塔に見えるが、写真でも分かるように12面の壁を持つ塔である。
元々は壁面にタイルが貼り付けてあって、光が当たると金色に輝いていたことからゴールド(Oro)の名が付けられたらしい。 現在は塔最上部のドーム状の屋根が金色に輝いて見える。
塔は川を遡上してくる船の監視のため、1220年にグアダルキビール川の左右両岸に2基建築されたらしいが、現在は写真の1塔のみ残っている。
塔の建築当時はイスラム勢力が支配していたため、塔の屋根部分や窓などにアラベスク(アラビア模様)が見られる。
レコンキスタによってキリスト教勢力がセビリアを支配下に置いたのが1248年のことであった。(カスティーリャ王フェルナンド3世)
上の写真はセビリア大学(Universidad de Sevilla)。
この大学も歴史は古い。 大学の創立は1551年であるが、その前身となる教育施設は15世紀末に創設されている。
現在、大学本館となっているネオクラシック調の写真の建物は18世紀から1950年代まではタバコ工場として使用されていた。
セビリアと言って思い浮かべるものに『セビリアの理髪師』『闘牛』『フラメンコ』を先に挙げたが、スペインという国名からだと歌劇『カルメン(Carmen)』を付け加えねばならない。
フランスのジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)が1874年に歌劇化したが、原作はフランスのプロスペル・メリメ(Prosper Mérimée)が1845年に発表した同名の小説である。
プロスペル・メリメがスペイン旅行中に山賊の身の上話を聞き、それを主軸に展開しているものだが、騎兵・ドン・ホセがタバコ工場で働くカルメンと出会い、彼女の魅力に憑りつかれたホセは次々と悪事に手を染めるようになっていく。
プロスペル・メリメが、カルメンが働くタバコ工場と設定したのが現在のセビリア大学本館なのである。
歌劇『カルメン』で「L'amour L'amour」と歌われる『ハバネラ』や、「Toreador, L'amour t'attend」と歌われる『闘牛士の歌』は大方の人が一度は聴いて知っているはずの曲である。
上の写真はオレンジの街路樹とマエストランサ闘牛場(Plaza de Toros de la Maestranza)。
闘牛は別に見たいと思っていたわけでもないし、開催日でもなかったので今回は外観のみの見学。
「所変われば品変わる」と言われるように闘牛と言っても日本の場合は牛同士角を突き合わさせて力強さで勝敗を決するだけだが、スペインの場合は人間と牛との生命を賭した闘いである。
馬に乗ったピカドールが長い槍で牛を突き、次にバンデリジェロが飾りつきの槍を牛に刺し込む。 そしてマタドールが布を翻して牛を走らせ、最後に剣を突き刺して牛を倒すのがスペインの闘牛である。
闘牛での日本との違いは、彼らは古くから牛の肉を食してきたが日本の場合は牛を農耕用に用いてきたというところに違いの根源があるのではないかと私は思うが真実のところは分からない。
風俗・習慣というものは土地土地で随分変わるものだが、食事についても日本とは大いに異なる。
スペイン人の朝食は『デサジューノ』と呼び、コーヒーに小さなパンかビスケットをつまむ程度の簡単なものである。そのかわりと言うか11時にMerienda media Mañana、つまり『午前中のおやつ』と称してボカディージョ(サンドウィッチ)をつまむ。
その後は午後2時から2時間は『シエスタ(
Siesta)』と呼ばれる昼休み。 この時間帯に自宅へ帰ってゆっくりと昼食をとる。
《最近は自宅へ帰らない人も増えているらしい》
勤めが終わる午後6時~7時頃には『おやつ』と称してバルやカフェでタパスやケーキをつまみながら酒やコーヒーを飲む。
『セナ』と呼ぶ夕食はその後なので午後8時~9時以降となる。
だからスペインのレストランでは日本人が夕食をとる時間帯、つまり7時頃は大抵空いているのである。
写真は午後1時頃の某レストランの様子だが、路上に並べられたテーブルではビールやワインを飲む人たちで賑わっていた。
メニューはスペイン語と英語で書かれていたのでスペイン以外の国の人たちも訪れるのであろう。
February 18, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【26】 (フラメンコ・ショウ) セビリア
アンダルシア州には、コルドバやグラナダなど大きい町があるが、それらの町については以後訪れるのでその項で書くことにする。
セビリアと言えば先ず思い浮かぶのが歌劇『セビリアの理髪師』である。
イタリアの作曲家ロッシーニ( Gioachino Antonio Rossini)の作曲で、元々の作品(戯曲)はフランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェが18世紀末に書いた喜劇。 そのお話の舞台がセビリアである。
そして、スペインと言えばフラメンコや闘牛をも思い浮かべるが、フラメンコはアンダルシアが発祥の地であると聞いたことがある。 しかし、それはひとつの説に過ぎないとも。
実際、フラメンコという言葉そのものも1847年に出版された本で『フラメンコ夜会』と表現されたのが最初だと言い、その起こりについては明確にされていない。
推論としては711年にイスラム勢力(ウマイヤ朝)がイベリア半島に侵攻し、その支配が終わった(ナスル朝)1492年までの間にアナトリア(現在のトルコ東部)からやってきたジプシーの歌や踊りに起源を求めるものがある。
しかし、歌や踊り、音楽というものが厳格に当初の形態を守り承継されてきたものとは言えないのではないかと私は考えているのでジプシー起源説をすんなり受け入れることはできない。
ヨーロッパの場合古くから各民族の移動と交流が行われており、イベリア半島に限定しても史実に明らかなものにローマ軍の進出、地中海東部のフェニキア人やカルタゴ人、北アフリカのムーア人などの進出、フン族やゲルマン族の移動、西ゴート族の南下、それ以後は北アフリカのイスラム勢力が700年ばかり支配し、レコンキスタによって再びキリスト教勢力が支配するというような経緯をたどってきている。
歌や踊り、音楽といったものは人々の感情表現の一形態であり、本来は形にはまらない自由発想のもので、異なるそれぞれの民族独自のものがあったであろうと私は考える。
それらが民族の移動と交流の中で融合しあい、あるものは発展継承され、またあるものは衰退していくといった道程を歩んできたと考えるのが自然であろう。
言語の進化とともに詩の韻律が形式化され、踊りにおいても基本形が決められ音楽についても同様の進化を経て来ている。
門外漢の解釈ではあるが、このように形式化されるようになったのは随分後の時代になってからのことであると思うのだが果たしてどうであろうか。
ともあれフラメンコというものは決まった形式がなく、男性なり女性なり踊り手の感性と、その場の雰囲気の中で自由に演じられるものらしい。
人間の感情表現ということなので喜怒哀楽を歌手がカンテ(Cante)を歌い上げ、ギター奏者が音とリズムを奏で、踊り手は体の動きでそれを表現する。
踊り手は、時にパリージョ(Palillos)と呼ばれるカスタネットを打ち、また時には靴を激しく打ち鳴らし衣裳を翻して踊る。
私はスペイン語を解せないのでカンテの内容は分からないが、その詩や音楽、踊りに共感する者たちは手拍子を打ったり掛け声を掛けたりもする。
音楽演奏を聴き、聴衆が手拍子を打ち演奏者と一体となっていくものにヨハン・シュトラウスのラデッキー行進曲がある。 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの最後は必ずこの曲が演奏されるが、演者・観客の一体感という点では同質のものであろう。
掛け声については歌舞伎の名場面において、演者である役者の屋号を「成田屋」などと大向こうから掛けるのと同じものなのであろう。
詩の言語を解せないのは残念ではあるが、ギターが奏でるメロディーやテンポ、踊り手の動作などを通して何となくではあるが彼らが表現しようとしていることが分かるように思えた。
ただ少し面白くなかったのはフラメンコ・ショウを見せるための劇場のようなレストランが会場であったこと。
このようなショウ&フーズのレストランをタブラオと呼ぶらしいが、私はもっと少人数の場でのフラメンコ・ショウを見たかったと思った。
セビリアについて『続く』。
February 12, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【25】 おまけ(コショウ)
左は前掲の写真と同じもので恐縮だが、ガマの像が立つあたりに植えられている木はコショウ(胡椒)木である。
写真で分かるように像の右手にあるコショウ木は目測で、ざっと7~8メートル程の高さがある。
現地ガイドは説明しなかったが、ヴァスコ・ダ・ガマとコショウには深いつながりがある。 多分そのつながりに由来して植栽されているのであろうと私は想像した。
つながりと聞いて多くの人は、「あっ、そうか。」と気付かれたことと思う。
しかし、そのつながりを説明するには15世紀から17世紀前半にかけての大航海時代や、それ以前からのヨーロッパについて幅広く書かねばならず、ここではできるだけ簡潔に触れる程度にとどめたい。
左の写真はドン・マヌエル宮殿が建つ公園のコショウ木。
さて、コショウと言えば料理の味付けに欠かせないものであるが、15世紀以前のヨーロッパでは現代のように一般の人々が平易に調味料として用いることができないほど高価で貴重なものであった。
その当時高価であったというのは、コショウは金(ゴールド)と同じ重量で取引されていたことで分かるだろう。
高価であった理由はコショウのほか丁子(チョウジ=グローブ)やナツメグなどのスパイスは、当時インド南部や東南アジアでのみ育っていた木の実であったため輸入に頼らざるを得なかった。
当時の交易ルートは東南アジアから陸沿いにインド洋を越えてインドのカリカッタ、そこから紅海を経てエジプトへ、そして地中海を越えて、或いはジブラルタル海峡から大西洋へ出て現在のスペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、イギリスなどへと結んでいた。
この交易ルートの東南アジアからインドまではインド商人たちが、エジプト・北アフリカ一帯はアラブ系イスラム商人たちが握り、地中海からヨーロッパへはジェノヴァやヴェネチアなどのイタリア商人たちが握っていた。 つまり、インドのカリカッタに集積された香辛原料をイスラム商人たちがエジプトでイタリア商人たちに売り、イタリア商人たちがヨーロッパ各地に売るというようにイスラム教とキリスト教という宗教圏が商いの上でも影響していたのである。
唐突だが、私が中学生の頃(だったと)に見た映画『The ALAMO』の主題歌"A time to be・・・"のメロディーが浮かんできた。 題名は確か『Green Leaves of Summer』であった。
ジョン・ウェインがデイビー・クロケット大佐に扮し、テキサス独立戦争の一局面であるアラモの砦をメキシコ共和国の大軍に包囲攻撃され、少数兵士たちが援軍のない中で奮闘するも全滅するという史実を映画化したものである。
このちっぽけな砦に籠城中の兵士たちの食糧である塩漬けの肉が腐って食糧が無くなるという事態が発生するのだが、この場面で私は飢餓という事態に直面した兵士たちの心情に感情移入し、大変恐ろしい思いを抱いたことを今も覚えている。
同時に1836年の頃、彼らは肉を塩漬けにして食糧としていたということに驚きもした。
塩漬けにするということが食材の保存法のひとつであることは分かっていたし、牛肉や豚肉を一般の食材としてヨーロッパでは古くから用いていたことも分かっている。 特にハムやソーセージ製造の歴史に関してヨーロッパでは紀元前にまで遡る。 いつから燻製が始まったのかは知らないが、塩漬けから更に“いぶす”という作業を加え保存性を高めてきたのであろう。
中世ヨーロッパにおける食品保存の方法は、塩漬け、燻製、酢漬け、砂糖漬け、乾燥、或いはゼラチンで固めるなどの方法があったが、これらは現代でも用いられている方法である。
9世紀以降の農耕では施肥技術が未発達だったために三圃式農法が主で、化学肥料による輪作が可能となる19世紀に至るまでは冬畑、夏畑、休耕と3年サイクルで3つの畑地を分割転用し、大麦、小麦、ライ麦などを農耕牛に犂(すき)を引かせて耕作していたらしい。
現代からは想像できないほどの貧しい生産活動であるが、中世ヨーロッパの生産活動の中心を為していたのは農業であり、領主に隷属する農奴たちは春から秋にかけて収穫したもので数か月の冬を過ごさねばならなかった。
そのため冬場に全ての家畜にエサを与えることができず、多くの家畜を殺して肉を食用に毛皮を防寒のための衣類などに用いたらしい。
肉は浸透圧の原理を用いて塩水に浸けるのだが、保存期間は延びても肉が硬くなり味も落ちるため一定量以上の塩水に浸けることはできない。 しかも長く浸けていると腐敗も始まり臭いがきつくなる。
そこで防腐・防臭効果の高いコショウを肉を食べる時に用いたらしい。
写真はコショウ木の白い花のあとについた緑色の実。
そろそろ話をヴァスコ・ダ・ガマとコショウのつながりに戻そう。
1453年、キリスト教国であるビザンティン帝国(東ローマ帝国)がイスラム教国であるオスマン帝国に滅ぼされた。
※ 6世紀の頃、東ローマ帝国は現在のトルコ・イスタンブール(コンスタンティノープル)を都として黒海、エーゲ海、アドリア海、地中海を囲む広い地域を支配していたが、1453年の頃はエーゲ海を囲む地域だけになっていた。
※ 1453年の頃のオスマン帝国は現在のトルコ、ギリシャ、ブルガリア
とアドリア海に面するアルバニアやモンテネグロなどを国土としていたが、1520年頃には地中海に面する北アフリカ、エジプトから紅海、ペルシャ湾から黒海周辺、北はオーストリアやイタリアと国境を接するまでの強大国になっていた。
オスマン帝国によって黒海、アドリア海、エーゲ海を抑えられ、更にペルシャ湾から紅海、エジプトから北アフリカを支配されるということは地中海の制海権をイスラム勢力が持つことになり、キリスト教勢力下にあるジェノヴァやヴェネチアなどイタリア商人たちにとってはスパイスなど地中海交易における権益が無くなるわけで、このことはヨーロッパ諸国にとっても大問題であった。
イベリア半島ではイスラム勢力と対立関係にあったポルトガルが1249年にレコンキスタを完了し、ポルトガル王国としてアフリカ西海岸の航路開拓に乗り出していた。
ポルトガルはアフリカ西海岸の航路を開いていくと同時に土地土地を植民地化し、現地で奴隷狩りを行っていった。
そして1498年、バスコ・ダ・ガマが南アフリカの喜望峰を回ってインドのカリカッタに到達。 沢山のコショウを積んで帰り、インド航路が確立された。
このインド航路の確立によってポルトガルはインドのカリカッタから船で直接自国へコショウ運べるようになり、地中海交易における香辛料取引状況に大きい変化を来すこととなった。
バスコ・ダ・ガマのインド航路確立はポルトガルが海上帝国と呼ばれるようになった1つの要因であり、彼の像の周囲にコショウ木が植えられているのは、こうした『つながり』からではないかと私は想像した。
やがて1512年、ポルトガルは現在のインドネシアの島々も植民地化し、当時スパイス・アイランズと呼ばれてきたモルッカ諸島 (Molucca Islands=マルク諸島)も手に入れて、丁子(ちょうじ=クローブ)やナツメグ(ニクズク)などの香辛料を独占するに至った。
ちなみに、インド原産の『コショウ』はツル性の植物で、このページに掲載したのは『コショウの木』。 赤くなった実も『コショウの木』の実である。
※ 参考 ウィキペディア及びweblioの該当ページにリンクしている。
February 07, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【24】 エヴォラ(つづき)
エヴォラも早くからイベリア半島での交易の中継地として開けた町であるが、旧市街地としての面積はさして広いものではなく、1日あれば十分に歩いて見て回れる。
高台に位置するローマのディアナ神殿からカテドラルを経て緩やかな坂道を下ってくるとジラルド広場(praça do Giraldo)に出る。
写真正面の建物は聖アントニウス教会(igreja de Santo Antão)。英語読みだと聖アントニー(Saint Anthony)になるのかな。
教会の前には1556年に造られたルネサンス式の泉があったり、ゴシック風の建物があったりオープンカフェがあったりと日本では見られない光景が広がる。
広場につながる石畳の街路は軽自動車でもすれ違うのが困難なほど狭いが、そのように細い道でも白壁に陽光が反射して明るい雰囲気をかもし出している。
この白壁建築はイスラム勢力のムーア人たちの影響を受けたものだとか。
そう言えばイベリア半島の町々は白壁の家が多い。
こんなに狭い路地と呼べるような道もある。
昔の人々にとって広場というのは公けの場であり、様々な集会が行われたと聞く。
レコンキスタ以後、キリスト教勢力下で厳しく改宗を迫ったり、異端尋問を行ったり、見せしめの刑罰を与えるなどの場としても使用されたらしいので、このジラルド広場でもそうしたことが行われていたのかもしれない。
エヴォラはアレンテージョ地方の大きい町であるが、この地方は昔から穀物生産が豊かで『パンのバスケット』とも呼ばれている地域でもある。
それに広々とした農園ではオリーブやコルク樫の木も栽培している。
写真は土産物店であるが、コルクによる土産物を沢山並べている。
コルクと言って私が思い浮かべるのは先ずワインボトルの栓だが、この店先には各種の飾り物の他、コースター、帽子にバッグ、更には写真にも見えるがコウモリ傘までコルク製品として売っていた。
この傘については全く驚いたと言うか、感心してしまった。
広場から更に下って行くと聖フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)の鐘楼と礼拝堂の屋根が見えてくる。
この教会は15世紀末から16世紀にかけて建築され、遠望すればゴシック様式の建築であるが、大航海時代の影響を受けてマヌエル様式も見られる。
旧市街の最も高い場所にあるディアナ神殿から徐々に歩いて下ってきたが、エヴォラは町全体が博物館であると表現しても良いように思う。
聖フランシスコ教会のファサード。
ファサードの直ぐ右手、白壁部分の出入り口から後に紹介する骨のチャペル(capela dos ossos)に入ることができる。
チャペル(chapel=capela)とは日本語での礼拝堂にあたる。
聖フランシスコ教会のファサード、車寄せの柱やアーチに見られるロープ状の装飾。
これらはマヌエル様式である。
身廊から主祭壇を見たもの。
ゴシック様式で高い天井を擁し、主祭壇のあたりは大理石による装飾が素晴らしく、側廊部分の壁は色鮮やかなアズレージョで飾られている。
この教会も交差廊が設けられており、建物を平面的に見ればラテン十字の形をしている。
左の写真は左側交差廊の礼拝堂であるが、バロック様式の祭壇にイエス・キリストの磔刑像、壁面は宗教画とアズレージョで装飾が施されている。
この教会には前に少し触れたが人骨を集めて造られた骨の礼拝堂(capela dos ossos)が附設されている。
礼拝堂のエントランス部分は下の写真のようにアズレージョで装飾され、外光がよく入って明るい感じである。
この礼拝堂はフランシスコ会の修道士たちが沈思黙考するための場所としていたらしいが、人骨で装飾と言うのもそぐわないけど、柱や壁面は多くの人骨で覆われた何とも奇妙な雰囲気の礼拝堂である。
写真の柱や壁にゴツゴツとした凹凸が感じられるのは全て人間の頭蓋骨や大腿骨などが埋め込まれているからなのである。
少しずつ拡大してみることにする。
人骨の総数は約5000体分だと聞いた。
何でもエヴォラにおける中世の墓地に埋葬されていたものを掘り起こして礼拝堂の壁などに埋め込んだものらしいが、戦で亡くなった者、疫病で亡くなった者などの遺骨らしい。
私が見学して感じたのは頭骨が小さいもの、つまり子どもの頭蓋骨が多いということであった。
医学、薬学、栄養学など、そうした学問分野が今ほど発展していなかった当時のことであるから、まず抵抗力の低い子供たちの犠牲が大きかったことは十分想像できることである。
キリスト教の修道士たちも仏教の僧侶たちも自らの修養のために静かに熟考する時間を持つのは分かる。
日本を例にとれば臨済、曹洞、黄檗など、禅宗僧侶は座禅を組み宗教的叡智を感得するよう努め、それが『無』や『空』という言葉が正しいかどうか別として自然と一体の中で修練しているように思える。
確かに亡骸というものに意味は無いであろうが、人骨を集めた堂の中で沈思黙考修養を積むというのは私の考えでは理解の域を超えているように感じた。
写真の鐘楼は聖母マリアの恵みの修道院(convento da graça)。
1511年に建設されたルネサンス様式の建物で、これも世界遺産に指定されている。
先に書いたがエヴォラは文化財の宝庫であり、将に街全体が博物館で実に素晴らしい。
この建物はドン・マヌエル宮殿(Dom Manuel Palace)。
マヌエル、ルネサンス、ゴシックなど様々な建築様式が取り入れられた建物で、ヴァスコ・ダ・ガマがマヌエル1世((Manuel I)よりインド航路開拓の命令を受けた建物でもある。
彼は1497年にリスボンを出航し、南アフリカの喜望峰を回って1498年にインドのカリカッタに到達している。
ヴァスコ・ダ・ガマの像(Estátua de Vasco da Gama)はドン・マヌエル宮殿の建つ公園に建てられている。
February 06, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【23】 エヴォラ
紀元前200年の頃には既に町としての体裁が整っていたらしく、交易活動が活発に行われていたという。
ローマ時代にエヴォラの旧市街は頑丈な城壁で囲われ、多少の修復は認められるものの、ほぼ完全な形で写真のような城壁が現在も残されている。
ローマの支配下にあった当時、町の中心部には神殿が建てられたが、写真はその遺構である。
古代ギリシャの建築様式にドーリア式、イオニア式、コリント式といったものがあるが、基盤の上に円形礎盤があり、その上に溝が縦に彫られた柱が立ち、その柱頭部にアカンサス(Acanthus・ハアザミ)の模様が彫られていることから、この神殿はコリント式のものであると言える。
旧市街を囲む城壁の一部には下の写真のように、日本の城郭では櫓にあたるような石造りの構造物が見られた。
城壁の他の部分とは明らかに異なる石組みから、多分、城壁
全てが同時代に築造されたものではないようだ。
イスラム勢力がイベリア半島全域に侵攻してきた715年以降に改築されたものではないだろうか。
エヴォラの城壁が囲む旧市街地は半球状の土地であり、その頂上部に写真のディアナ神殿(Templo de Diana, Romano)がある。
ディアナと言うのは勿論ローマ神話の女神のことであり、ギリシャ神話における『月の神・アルテミス(Artemis)』と同じである。
写真上ディアナ神殿の奥に立つ石造建築物はカタヴァル公爵邸(Palacio dos Duques de Cadaval)、右側の白い建物は15世紀に建てられたロイオス教会(Igreja dos Lõios)、更に右手に続く建物は元々修道院であったが現在は国営ホテルのポサーダ(Pousada de Évora)として利用されている。
左の写真は神殿の北側にある広場(上の写真左方向)からの眺望であるが、手前に建ち並ぶ家々は城壁内の建物。
城壁は手前の家々を囲むように続いており、写真中央付近に黒く見えるのがアグア・デ・プラタ送水路(Água de Prata Aqueduct)。
この9kmに及ぶ石を積んだ送水路はジョアン3世によって1531年から7年かけて造られたらしく、城壁の内側にあるジラルド広場まで続いている。
ディアナ神殿を少し南へ行くとカテドラル(エヴォラ大聖堂Sé de Évora)がある。
この大聖堂の初期の建物は1184年から1204年にかけて建てられ、その後13世紀後半から14世紀半ばにかけて拡張されてきた。
写真に見える2つの塔は16世紀に付け加えられたもので、中世の城郭を思わせるどっしりと重い感じを受ける建物であった。
2つの塔が出入り口を挟むように建てられたファサードはゴシック風で、この出入り口上部、2つの塔に挟まれるようにしてバラ窓が施されている。
入口の両サイドには白い大理石で彫られた巨大な12使徒の立像が立っているのだが、この写真で白く見える部分がそれである。
重厚な感じを受ける大聖堂内部も少し紹介してみることにしよう。
大聖堂の身廊部から祭壇方向を見た写真が左のもの。
大聖堂には側廊もある。
金色に見える辺りが真ん中ぐらいになり、マリア像と天使ガブリエル像が向かい合う。
写真手前上部の黒くなっている部分はパイプオルガンである。
ヴォールトによって支えられた高い天井は広い空間を見事なまでに構成している。
左は1544年頃からあると言われているポルトガル最古のパイプオルガンである。
天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが1584年にここを訪れた際、このオルガンを弾いて腕前を披露したと聞いた。
ちなみに、このパイプオルガンは現役だそうで、現在も使われているのだそうだ。
キンキラキンの受胎した聖母マリア像。
15世紀のバロック祭壇に大きいお腹に左手を当て、右手を上げる聖母マリアの立像が収められている。
聖母マリア像と向かい合う極彩色に塗られた天使ガブリエルは16世紀の作品らしい。
処女マリアにイエスの誕生を告げたのがガブリエルであり、ガブリエルはミカエル、ラファエルと共に三大天使のひとつであることはキリスト者でなくともよく知っているところだ。
イタリア・フィレンツェのウィフィチ美術館所蔵の『受胎告知』(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
はあまりにも有名である。
大聖堂の左交差廊。
以前にも書いたが、キリスト教会を平面的に見ればラテン十字の形をした建物をよく見かける。
つまり主礼拝堂である身廊と直角に交差するよう左右に交差廊を構成しているのである。
写真のバラ窓を施した交差廊は1520年代に再建されたエスポラォン礼拝堂(Capela do Esporão)で、ロープなどの模様を施したマヌエル様式で構成され、大航海時代の影響が認められる。
この主礼拝堂はポルトガル王ジョアン5世(João V)の支援を受けて1746年に再建されたもの。
左右の高窓から日光が射しこみ、装飾用に天井や壁面に張られた色とりどりの大理石を明るく照らす。
主祭壇には大きい絵が描かれ、祭壇上にはイエス・キリストの磔刑像が掲げられている。
エヴォラ大聖堂はなかなか見応えのあるカテドラルであった。