March 2011
March 27, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【31】 コルドバ
しかし、私たちはセビリアの東方やや北へ140kmばかり、グアダルキビール川(Rio Guadalquivir)上流のコルドバ(Córdoba)の町へ向かった。
欧州5号線も都市近郊の朝夕は混雑するが日中は写真の通り空いている。
現在のコルドバの町は大きく蛇行するグアダルキビール川の両岸に広がっているが、歴史地区として世界遺産に登録されている旧市街は右岸になる。
左岸のフライ・アルビーノ通り(Albino mosca de calles)から旧市街を眺めた写真。 川の水が泥のように濁っているので前日に雨が降ったのだと思っていたのだが、このあたりではいつも濁っているらしい。
歴史地区に入るのに最も便利なのがローマ橋(Puente romano)である。
コルドバのあたりに人類が現れ始めたのは考古学史料からB.C.30万年~35000年とされている。
豊かなグアダルキビール川の恩恵を受けてのことであろうが、石造りの最初の橋が出来たのは古代ローマの時代であったらしい。
その後幾たびかの戦争によって破壊され、その都度新しく付け替えられてきたという。
ローマ橋のたもとには要塞としてのカラオーラの塔(Torre de la Calahorra
)がある。
現在は内部を歴史博物館としているが、ローマ橋を渡って侵攻してくる外敵を防御したり攻撃するための要塞だったらしい。
橋の向こうが旧市街地で、大きい建物がコルドバの聖マリア大聖堂(Catedral de Santa María)だが、メスキータ(Mezquita)と言った方がよく知られていて分かりやすいかもしれない。
ローマ橋の旧市街側は一部工事中であったが、写真のように橋の幅よりも狭い石造の門を設けて多人数の外敵が一度に進入できないよう防御の工夫が為されていると推量した。
当て推量であるが、多分、私の推測に間違いないであろう。
エンタシスの柱で支えられた門は、いかにもローマ風といった感じである。
この門をくぐると直ぐ左手に1871年に完成した大理石で造られた『聖ラファエル勝利の塔(Triunfo de San Rafael)』が建っている。
聖ラファエルとはキリスト教における7人の天使の一人、大天使ラファエル(Raphael)のことである。
ミカエル(Michael)、ガブリエル(Gabriel)、ウリエル(Uriel)らと共にキリスト者でない私でも知っている天使であり、背中に大きい翼を持ち、炎の剣をシンボルとしている。
シンボルと言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品『受胎告知』において、マリアにキリストの受胎を告げるガブリエルの右手は祝福のポーズ、左手にはシンボルである百合の花が描かれている。
写真は先に紹介したコルドバの司教座聖堂である聖マリア大聖堂の外壁の一部。 出入り口のようだが普段は扉を閉めたままになっている。
壁面の模様は明らかにアラビア風である。
司教座というのは地区、ここの場合はアンダルシア州のコルドバ県を管轄するというもので、行政を例に取れば都道府県庁に相当するものと理解すれば良いと思う。
しかし、このカテドラルは先に触れたようにメスキータとして広く通用しているのだ。
メスキータと言うのはスペイン語でモスクを表すが、モスクと言うのはイスラム教の礼拝堂のことで説教壇やミフラーブが設えられている。
ミフラーブを日本語で表すと壁龕(へきがん)、壁を彫って大切なものを納める部分を言うのだが、モスクでは聖地メッカ(Mecca)の方向を示すものである。
このメスキータが建っている場所には初めにローマ神殿が建てられ(紀元前2世紀頃)、やがてゲルマン系の人々がピレネー山脈を越えて南下、西ゴート王国を築いた折にカトリックの聖ヴィアンテ教会を建てた(5~600年頃)。
その西ゴート王国に代わって支配することになった(711年)イスラム勢力がキリスト教会の半分をモスクにし、784年にはキリスト教会の残り半分をも買い入れ、以後徐々にモスクを拡張して987年の頃には現在のメスキータの形を造り上げたらしい。
写真はメスキータ内部(モスク)の極一部であり、幾本もの大理石の柱によって支えられた礼拝堂が何処まで広がっているのかと驚くばかりの広さであった。
礼拝堂は随分広く、25000人もの人を収容できるのだとか。
しかし、その広さは内部の写真ではとても紹介できないのでメスキータ全景の写真を参考に想像してもらいたい。
当該写真の出典及びその著作権はウィキペディア(Wikipedia)にあることを明記し、ファイル引用ページを表示しておく。
Wikipediaファイル:Mezquita-Catedral de Córdoba.jpg
上の全景写真の下部(南方向)にグアダルキビール川が左(西方向)に向かって流れている。
写真下部の門のような構造物がローマ橋のたもとになり、その直ぐ左上に『聖ラファエル勝利の塔』も見える。
メスキータは高い壁で方形に囲われ、北の方(上部)にアミナール(塔)、その南側にオレンジの木が植えられた緑濃いパティオ(中庭)、そして茶色い屋根の礼拝堂がある。
礼拝堂内部は前掲写真の通り、大理石の柱の上に赤いレンガと白い石灰岩をアーチ状に組み合わせた構造で高い天井を支えているのだが、広い礼拝堂を進んで行くと赤白に塗り分けられた模様とは異なる一画がある。
先に書いたメッカの方向を示す壁龕を設けた場所・ミフラーブである。
柱上部のアーチに装飾が施され、その違いがはっきりしている。
ミフラーブは写真の最奥になる。
円形状の部分がミフラーブであり、その遥か向こうに聖地メッカがあるということになる。
メッカはイスラム教の聖地で、預言者ムハンマドが誕生した土地であり、現在のサウジアラビアにある。
コルドバからメッカ方向を地図で見れば、ほぼ東南東の方向と言えるだろうか。
実際にはシェラネバダ山脈を越え、地中海を越え、サハラ砂漠、リビア砂漠、そして紅海を越えたアラビア半島の砂漠に聖地メッカが位置するのだが、直線にして5000kmも離れた所を単に方位だけにせよ西暦700年代初頭に割出しを正確に行っていたことには驚嘆する。
方位と言えば磁石を思い浮かべるが、方位磁針が大昔からあったわけではない。もっとも鉄製のものを引き付ける性質を持つ石(磁鉄鉱)は紀元前1000年以上前に中国(慈州・河北省)やギリシャで発見されていた。
しかし正確な方向を見つけるために磁石が実用化されたのは西暦1000年以降のことだったように思うので、おそらくメソポタミアやエジプトなど古代文明の中で発達した天文観測によって位置の特定が為されたのではないかと思う。
ドーム状の天井とアラビックな装飾が施されたミフラーブのある場所。
西暦711年にイスラム勢力がイベリア半島を制圧して以来、およそ500年もの期間、首都コルドバのメスキータはイスラム教の礼拝堂として拡張整備されてきた。
西暦1236年になり、レコンキスタによってコルドバが奪還されると、カスティーリャ王フェルナンド3世はメスキータをカトリックの教会に転用した。
やかてスペイン王カルロス1世の治世下において、メスキータ中央部にキリスト教の礼拝堂が築造されて現在に至っている。
アラビア様式の柱や装飾の向こうにルネサンス様式のカトリック教会の主祭壇が見えるというように、イスラム教のモスクとキリスト教の礼拝堂が同じ敷地の同じ建物の中で共存するという何とも不思議な状況が生じているのである。
中東の情勢は一向に好転を見せない。
石油利権に関わる問題、イスラエル建国に関わるパレスチナ問題、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教という世界宗教に関わる問題と、大別すれば三つの問題点に絞ることができようかと思うが、資本主義における貧富格差、各国間外交における思惑の違い、イスラム原理主義の台頭とテロリズム、それらすべてに関わる個人個人の価値観のズレなど、解決の糸口すら見つけることが出来ないのではないかと私の思いは悲観的である。
そうした中東問題の現実を思い合わせると、この何とも不思議なメスキータでの共存が余計に印象深いものとして私の記憶に残ったのである。
黄色いオレンジの実が成る広いパティオ(中庭)と右手はモスク。
メスキータのアミナール(塔)が見える『花の小径』。
人がやっと行き違うことが出来るほど細い路地であるが、白壁の家々は綺麗な花で飾られている。
観光スポットらしく日中は観光客の足が絶えない。
このあたりはユダヤ人街でシナゴーグ(ユダヤ教会堂)もある。
イスラム勢力が支配していた頃は宗教的に寛容であったと聞いた。 それがレコンキスタ以降カトリックへの改宗が強制され、やがて悪名高き異端尋問へと進行していったらしいが、共存と寛容、別に信仰してもしなくても構わないと私は思っているが、人間の善性を忘れたような社会は要らんなあ・・・
March 24, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【30】 セビリア 《おまけ》
コロンブスがバハマ諸島やキューバ島を発見してスペインに富や財宝をもたらすようになった頃、スペイン王国(同君連合国家)のカトリック両王、つまりカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel la Católica)とアラゴン王フェルナンド2世(Fernando el Católico)がセビリアに住むようになった。
この両王の住まいとなったのがアルカサル(29 セビリア続きⅡで紹介)で、16世紀から17世紀とセルビアは大いに栄えた。
写真は以前に紹介した大聖堂の祭壇と背後の衝立を側廊から撮影したものだが金色に輝いているのは確認できると思う。
祭壇は丈の高い金属製の柵で仕切られ一般参拝者が祭壇に近付くことはできない。
祭壇背後の衝立が大き過ぎて広角レンズでないと全体が撮れないほどで、その広さは220平方メートル、世界最大と言われているらしいが、この衝立には3トンもの金が使われたと言う。
写真下部の人物らと比べれば如何に大きいものか分かると思う。
祭壇衝立の上部だけを望遠機能で撮影したのが左の写真だが、イエス磔刑の像と、その下にイエスを抱きかかえるマリア、それに12使徒の像が彫られている。
ポルトガルの教会でも金がふんだんに使用されていたのと同様、このセビリア大聖堂でも多量の金が用いられている。
セビリア大聖堂が完成したのは1519年だと言われているから、ここで使用された金はコロンブスらがカリブ海の島々で原住民らから強奪してきたものであることは間違いない。
新大陸の発見はスペインを中心とした史観であって、新大陸の原住民からすれば、それは将に侵略と強奪の歴史の始まりであったと言える。
新大陸の植民地化で大いに発展してきたスペインであったが、19世紀初めになってラテンアメリカの植民地が次々と独立するようになった。(現在のチリ、アルゼンチン、コロンビア、ベネズエラ、メキシコなど)
20世紀に入った1929年、スペインは以前の植民地であったラテンアメリカの国々との関係改善を図るため、セビリアにおいて『イベロ・アメリカ博覧会(Ibero American Exposition)』を開催した。
写真は、博覧会の中心となったスペイン広場(Plaza de España)と会場建物である。
広大な円形広場を囲むように弧状に建てられた建物はムデハル様式であり、回廊が美しい曲線を表している。
ちなみにイベロ(Ibero)とはイベリア半島全体を指す意味の言葉だそうだから、『イベリア系アメリカの博覧会』ということになるのだろうか。
実際、この博覧会に参加した国々はイベリア半島にあるスペイン、ポルトガルの他、アメリカ、メキシコ、キューバ、ドミニカ共和国、コスタリカ共和国、エルサルバドル、パナマ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ブラジル、ボリビア、ウルグアイ、チリ、アルゼンチンといったアメリカ大陸の国々であった。
博覧会会場はスペイン広場からグアダルキビール川の左岸に沿って広がる緑濃いマリア・ルイーザ公園(Parque de María Luisa)からアメリカ広場(Plaza de América)まで連なっている。
当時のパビリオンはスペイン広場に建てられた建物(写真)のほか、セビリア考古学博物館(Museo Arqueológico de Sevilla )や領事館などとして現在も多くのパビリオンが残され利用されている。
March 16, 2011
お見舞い&弔意のメールに感謝(東北地方太平洋沖地震)
6年前、私たちがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(世界遺産)を訪れるためにポーランドのクラコフへ行った折、道に迷っていた私たちをホテルまで親切に案内してくれたのが当時ヤギェウォ大学(Uniwersytet Jagielloński)2年生のアンナであった。
以来、私たちは彼女との交流を続けているが、今回アンナからのメールは私たちに対してだけでなく日本(人)に対しての意図が込められているので以下に紹介し、感謝の気持ちを表したい。
Condolences
Anna ××××× <×××××@×××××>
送信日時:2011/03/14 (月) 7:39
宛先:×××× ××××××××
My Dear
Mrs ××××××××and Mr ××××××××,
I condole with You and Japanese People upon cataclysm in Japan.
I have just arrived from Budapest, where I had a concert of Stabat Mater Pergolesi. So I could not write to You earlier.
I hope You are safe and good wealth. Please, could You write to me, if everything is all right about You and Your family.
I pray to God for all people whose lose of life.
Please, take care.
Best wishes
Anna ×××××
以上
私たちは地震による被害は無かったし、友人の無事も確認し安堵した。
しかし地震発生後、津波により甚大な被害を受けると予想した通り、次々と報道される被害の大きさにただただ心を痛めるばかりである。
亡くなられた多くの方たちに対し謹んで哀悼の意を捧げるとともに、大切な人を失った方たち、住む家や思いでの品々まで失くされた数多くの方々に対して心よりお見舞いを申し上げる。
※ アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(Auschwitz Birkenau German Nazi Concentration and Extermination)は『負の世界遺産』としてユネスコに登録されている。
※ また、アウシュヴィッツのポーランド地名はオシフェンチム(Oświęcim)なのだが、ナチス・ドイツ政権(Nazi German regime)はアウシュヴィッツとドイツ語読みすることを強制していた。
※ ポーランド、クラクフ訪問時のことは月別アーカイブ『Oct.2006』のあたりに記載しているので参考までに。
March 13, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【29】 セビリア 《つづき Ⅱ》
前ページで後に紹介するとしたアルカサル(Alcázar)もイスラム文化とキリスト教文化が融合して出来上がったムデハル様式の建造物である。
アルカサルはイスラム時代の城塞のあった場所に建てられたスペインの宮殿であり、
14世紀の建造物である。
写真は、その城壁。
以下、アルカサルの建物について順次写真で紹介してみることにする。
この城壁にそって進んで行くとアルカサルの建物の正面(次の写真)が見える。
望楼を冠したような建物がアルカサルの正面だが、一見して東洋の建築物かと思ったほどであった。
私がイメージする14世紀頃のヨーロッパの建築物に写真のような外観をもつものが閃いてこなかったからであり、実際にはあるのかもしれない。
建物の窓の形だけをとらえるなら東洋的とは思わないのだが、屋根の上に建つ望楼状の部分が取って付けたような感じに思えて異質という印象を強く持ったのである。
更に近づいてみ見ると、東洋的と言うよりハッキリ中東・アラブ的であることが分かる。
次の写真は、アルカサル正面の2階部分を拡大したものである。
壁面の装飾文様や窓の装飾などが完全にアラビア風なのである。
先にも書いたように、この建物は14世紀になってキリスト教勢力の支配下となってから建てられたものである。
イスラム勢力がイベリア半島を制圧したのは711年であり、イスラム王朝の支配が終わったのが1492年南部アンダルシアのグラナダであった。
この間、実に780年。
780年間を日本の歴史に置き換えると、現在より780年前といえば鎌倉時代、北条氏が執権政治を始めた頃になる。 つまり鎌倉時代より現在までイスラム勢力下にあったということになる。
勿論キリスト教勢力によるレコンキスタがイベリア半島で同時に開始され即時完結したわけではない。
レコンキスタの始まりは、722年スペイン北部における小規模な戦い『コバドンガの戦』でキリスト教勢力が勝利したことからであり、その後770年間にわたって徐々にキリスト教勢力が支配範囲を拡大してきたのである。
キリスト教勢力であるカスティーリャ王がコルドバを支配下としたのが1236年、そしてセルビアを制圧したのが1248年のことであったが、それにしても530年ばかりの間はイスラム王朝の支配下にあったわけで当然あらゆる面でイスラム文化が定着していたはずである。
レコンキスタは国土回復運動とも再征服運動とも訳されているが、将に支配と権力の拡大を目指したもので一方においてキリスト教によるイスラム教の排斥運動(戦争)であったとも言える。
したがって、セルビア制圧後の14世紀に建てられたアルカサルは当然当時のヨーロッパにおけるキリスト教文化を基調とするものになったはずなのだが実際には写真に示すごとくアラビックなものとなった。
それには幾つかの理由があるのだが、ひとつにはカスティーリャ王がセビリアを奪還した後もイスラム系やユダヤ系の人々はそのまま居住し続けており、イスラム支配下にあった数百年の間に定着していたイスラム文化とキリスト教文化がうまく融合したこと、ふたつには当時のイスラム文化は大変進んだものがあり、ヨーロッパ諸国にとっては学ぶべきことが沢山あったということである。
『大使の間』と呼ばれる写真の部屋は天井がドーム状で、壁面を含め部屋全体に細かな装飾が施され、その装飾模様はアラビア風である。
アルカサルは15世紀、16世紀に増築されているために当初の建築様式とは若干異なり、ゴシックやバロック様式の部分もあるが、多くはアラビックな雰囲気を遺している。
写真は『乙女のパティオ』。
アラビア風の中庭である。
ゴシック様式かと思うような天井だが、壁面や床面はアラビア風模様のタイルが貼られている。
このアルカサルの南側に広い敷地の王立庭園がある。
写真は庭園の極々一部。
March 12, 2011
お見舞い申し上げる (3.11 地震&津波)
3月11日午後2時46分。
書斎で本を読んでいた私の椅子が緩やかな横揺れを体に伝えてきた。
地震には至って敏感な私だが、少しの体の動きでも微妙に揺れる椅子に座っていたことや、鉄筋コンクリート造りの地下の書斎は小さな地震の揺れは伝えにくいため初めは地震だと気付かなかった。
ところが体を静止させていても揺れるので地震だと気付き、窓に取り付けてある遮光ブラインドを見ると、やはり揺れている。
揺れそのものは大きいものではなく、予震らしきものも感じなかったし、揺れの時間が長かったので多分本震であろうと思った。
通常、震源地が近ければ近いほど予震と本震の間の時間は短い。
今回の地震は予震を感じない程度で本震の時間が長かったことから、震源地は遠いが相当強い地震であると直感し、パソコンで気象庁の地震速報ページにアクセスを試みたが一時停止の表示。
それでテレビを見ると震源は宮城県牡鹿半島沖合の太平洋海底。マグニチュードは8・4(後にM8.8と修正)、震度7だと。
これはひどいと、東松島市の友人や東京(震度5)の兄に電話するも通じず。やむなくテレビにて情報収集。 その後、発生した津波の状況に心配がますます高まり・・・
夕刻、6時近くになって東京の兄から電話連絡。全員無事との報せに少し安堵するも相変わらず東松島市の友人とはコンタクトが取れない状況が続いた。
本震に続く余震が数多く発生。
三陸沖の震源がプレートに沿った各地で連鎖的に起きていた。
地震による被害も大きかったが、津波第一波が1メートルを超えていたこと、津波は連続して起こる可能性が高いこと、夜間に入って避難が難しくなることなどを考えあわせると、夜明けになっての被害がいかほどのものになるか想像を絶する規模になるのではと心配していたのだが、早朝からのニュースで心配が現実のものとなったことに心が痛む。
ただひとつ、東松島市の友人からメールが入り、『家、事務所もろとも流されたものの奇跡的に夫婦とも助かった。助かったのが信じられない。』と。
この知らせに私もひとまず安堵。
『なーんにも無くなったけど生きているだけ儲けもん。』だと書いてきていたが、全くその通りだと私も思う。
犠牲になった多くの人たち、住む家を失くすなど大変な被害を受けた多くの人たちに対し心よりお見舞いを申し上げる。
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語学研修のためニュージーランド入国3日目に地震に遭遇、現地語学学校の教育活動が出来なくなったため先日帰国した女子大生R子は「払い込んだお金を返してくれないかなあ。」なーんて言ってたそうだが、「馬鹿もん!」と大声で怒鳴ってやりたいものだ。