April 2011

April 29, 2011

大阪の街中散歩 (堺筋本町~淀屋橋) 

私の誕生旬間最初の行事になったのがタイ・レストランでの食事であった。

Faa Thai(ファー・タイ)。
pict-2006_1209FaaThai-2大阪市中央区堺筋淡路町交差西入るスグにあるレストランだから地下鉄・北浜駅からでも堺筋本町駅からも10分程度の距離である。

このレストランについては以前に何度か紹介しているので細かいことは省くことにする。

普段は某割烹で働く女性 I さんがタイ料理を食べたことがないと言うので、私の方が店を指定した。

タイ人の店主S氏は旅行中でいなかったが、開店以来フロアを仕切ってきた A ちゃんがいたので、タイ料理の特徴が分かる品をという条件で料理は任せることにし、私は昼間っからタイ・ビールを頂いた。

この店を訪れた人たちの中で、出された料理が辛くないと不足を言う人がいるが、日本にあるタイ料理店のほとんどは日本人向けの味付けにしていることを念頭に置いておくべきで、唐辛子の辛い味を好む人は注文する段階で尋ねれば良い。
15 タイ料理(1)私は唐辛子の辛い味が好きなので、「ペッ(ト)」〔辛いの意〕、「マーク」〔とてもの意〕と言い添えている。

I さんにとって初めてのタイ料理だったようだが、随分と喜んで頂けたようで良かった。

私にしても誕生旬間の良き幕開けにして頂いたことを喜んでいる。

話は飛ぶが、このタイ・レストランの所在地を堺筋淡路町と書いたが、大阪では南北の道を『筋(すじ)』、東西の道を『通(とおり)』で表している。

豊臣秀吉が上町台地北端にあった石山本願寺の跡地に大坂城築城の縄張りを行ったが、その西側の低地に町割りを行い、堺や京・伏見などから様々な商人たちを呼び集めて一大商業都市を構築した。

この
町割りは東西に長い短冊状の町屋群と南北筋を直角に交差させたものである。(地図を添付できれば分かりやすいのだが著作権の問題もあるので参照資料としてリンクできるようにしておく。)

図の上部で東西に流れるのが大川、図の中央部南北の流れが東横堀(現在は堀上を阪神高速道路環状線南向きが通っている)で、図の左側が西横堀だが現在は無い。
pict-大阪市中央部(1)歩行図
東横堀と大川が結ぶ場所の東に天神橋、天満橋、西に難波(なにわ)橋、栴檀(せんだん)木橋、淀屋橋と橋が架かり、現在の御堂筋は淀屋橋筋と呼ばれ、右隣に心斎橋筋、丼池(どぶいけ)筋、栴檀木橋筋、中橋筋、難波橋筋、堺筋の順で続く。

東西の通りについては、東横堀が少し曲がったあたりの赤色マークの左下の橋が本町橋であり、通りの名称が本町で西方向に1丁メ、2丁メと区分けされている。

本町の北側に安土町、備後町、瓦町、淡路町、平野町、道修町、伏見町、高麗橋、浮世小路、今橋、北浜と続いている。

貼り付けた地図は現代のもので、右手南北の緑色の部分が東横堀で、左手南北の黄色の部分が御堂筋である。

地図の下部、赤色点線の始点が堺筋本町であり、点線は私たちが歩いた道筋。 始点から堺筋を北上し、淡路町を西に入ったひと筋目、つまり昔の難波橋筋の角にFaa Thai(紫色の点)がある。

昭和20年3月13日のアメリカ軍B29爆撃機による大阪大空襲は翌14日にも、そして6月に4回、7月には堺と大阪に2回、終戦前日の8月14日にもと計9回もの焼夷弾と1トン爆弾の大量投下で大阪の街はほんの一部の建物を残してほぼ灰燼に帰した。

私たちが歩いた赤色点線で示したあたりも焼野原になった地域でだが、現在はオフィスビル街になっており、平野町を西へ行ったところにある『
湯木美術館』も近代ビルである。
pict-P1030228
湯木美術館は高麗橋『
吉兆』の創業者であり茶人でもある湯木貞一氏が収集した茶道具のほか石山切(伊勢集断簡)など多くの美術品を所蔵し、それらの展示を行っている。

平野町の北隣が薬の道修町(どしょうまち)で、日本における名だたる製薬会社が並んでいる。

写真は道修町にある『
少彦名(すくなひこな)神社』社務所ビルで、神社は写真右奥にあり、この社務所ビルの3階に『くすりの道修町資料館』がある。

田邊屋五兵衛が1678年に創業した薬種商の店は田辺製薬となり、現在は田辺三菱製薬。 1717年に伏見pict-P1030225屋市兵衛が創業した商店は小野薬品(現本社は久太郎町)に、1781年に近江屋長兵衛が創業の商店は武田薬品に、そのほか塩野義製薬、大日本製薬と住友製薬が合併した大日本住友製薬、藤沢製薬と山之内製薬が合併したアステラス製薬など道修町と製薬会社の関わりは古く深いものがある。

写真は
少彦名神社

ビルの谷間に埋もれるように社殿が建ち、祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と神農氏である。

少彦名命は神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子であり、大国主命が出雲の地にあって国造り(葦原中國・あしはらのなかつくに)をした時に協力した神で、少名毘古那神とも書き、医薬、温泉、酒造の神でもある。 大国主命自らが少名毘古那神を祀ったのが大和桜井の三輪神社のご神体・三輪山であると伝えられている。 三輪山に鎮まる神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。 三輪神社を大神神社(おおみわじんじゃ)とも呼ぶが、神様の中でも偉大な神との意味であるそうな。
pict-P1030227神農さんの虎
神農氏は古代中国における伝説上の皇帝で『神農大帝』と呼ばれ崇められているという。 医薬・農業をつかさどる神らしいが、私が子供の頃は“
神農さん”と呼び、両親に連れられてお参りに来ていたが勿論のこと当時はビルなどは無かったし薬の神さんであることも知らなかった。

私が記憶しているのは“えべっさん”(戎神社)で頂く神社札や小宝の付いた福笹と違い、首を振る可愛い張子の虎が笹にぶら下がっており、それが何とも可愛くて家へ持って帰るのが楽しかったことである。

この張子の虎が作られたのには訳がある。
 
pict-P1030294張子の虎
1822年(文政5年)に大阪でコレラが大流行し、この病気にかかると三日と経たず人が直ぐに死んでしまうことから病名を『三日虎狼痢(コロリ)
』と言ったらしい。

それで虎の頭骨などを配合した『虎頭殺鬼雄黄圓
』という薬を調合し、神社の病除けの張子の虎とともに販売したら頗る良い効果を得たことから始まったのだと。

下の張子の虎は倉敷市の大原美術館で見たものだが、張子の虎と言っても一様ではなく、それぞれに体形が異なり、付け髭が有ったり無かったり、また表情も違っていてなかなかオモロイものである。

少彦名神社のある道修町から高麗橋『吉兆』の前を通って今橋の大阪市立愛珠幼稚園の前へ出ると、ここには『
銅座の跡』という石碑がある。

明治34年に建てられた木造日本建築の園舎も趣きがあるが、銅座というのは日本各地で算出する銅の製錬及び専売をつかさどる役所で、長崎から輸出していた。
pict-P1030229適塾北側から
この市立愛珠幼稚園の南向かいにある緒方ビルの入り口には緒方洪庵が天然痘予防のために開いた『
除痘館跡』の碑があるし、西へ行くとニッセイビルの壁面に江戸時代の大坂の豪商たちが設立した学問所懐徳堂跡』の碑が見られる。

懐徳堂は八代将軍・徳川吉宗が公認した官許学問所であり、門人に山片蟠桃や大塩平八郎らもいた。

市立愛珠幼稚園の北側には緒方洪庵が開いた蘭学塾『適塾』がある。(上と下の写真)
pict-P1030234適塾(1)
適塾が開かれたのは1838年のことである。

1863年に緒方洪庵は幕府の命を受けて江戸へ出て、将軍家の奥医師を務めるも翌1864年に亡くなった。

適塾は1868年、つまり明治元年に閉講となっている。

適塾開設の前年には大塩平八郎の乱が起き、塾開設の翌1839年には異国船打ち払い令を堅持しようとする幕府に対して渡辺崋山や高野長英ら蘭学者が批判を加えたという理由で入牢などの懲罰を与えるという言論弾圧の『蛮社の獄』事件が起きている。

各国船が来航し社会情勢が不安定方向に進行する中、適塾には幕末から明治初期にかけての日本を背負った有為の者たちが集った。
pict-P1030233緒方洪庵
戊辰戦争における新政府軍事司令官として、また明治の近代軍制の創始者として名高い大村益次郎は村田良庵の名前で入塾していたし、箱館戦争時の大鳥圭介や高松凌雲、安政の大獄での橋本左内、慶応義塾創設の福沢諭吉らも適塾で学んだ。

写真は
緒方洪庵の像であるが、洪庵についてはウィキペディアに詳しく紹介されているので説明は省く。

適塾からはそう遠くない場所に江戸時代の豪商『
淀屋の跡』などもあるのだが、この日の夕方は随分冷え込み雨も降りだしたので地下鉄で淀屋橋から梅田へ行き、そこで I さんとは別れることとした。

大阪に限らず歴史散歩とでも言うか、その土地の成り立ちや賑わいの歴史を求めて歩いて巡るのはなかなか楽しいものだが、果たして I さんは喜んでくれたものやら・・・

私のためにテクテク付き合せてしまったのではないかと、ちょっと申し訳なく思っている。


 




masatukamoto at 12:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

誕生旬間

誕生日を祝って頂けることは幾つになっても嬉しく有難いものである。

祝ってくれる人たちと祝ってもらう者が共に喜びを分かち合える機会に恵まれるというこのことに、人智を超える何か不思議な力が働いていると考えるのは私の独りよがりな思いだろうか。

あまり多くを書くつもりはないが、祝い祝われる人と人の『つながり』に至るまでの過程や根元を求めれば不思議な力が働いているという思いに得心してもらえるのではないだろうか。 

そこに宗教的意味合いを持たせるつもりはない。

が、祝う行動と祝われる行動が生じるには、先ず生きているということが必要条件であることに異論を唱える者はいないはずである。

さて、その先の思考だが、生きているという事実は人間自らの力なのかどうか、人と人の出会いというものは全て因果関係において説明し尽くすことのできるものかどうか・・・

祝ってくれる人たちと、人によっては神仏であるかもしれない『何か見えない不思議な力』に対して、私は素直に感謝したい。

今年の私の誕生祝いは一日ではなく、かわるがわる10日間にわたり、将に誕生旬間と言えるものであった。

祝いの言葉だけでなく、祝宴の席への招待やプレゼントなどなど。

宴席は割烹料理店や焼肉レストランなど。 頂いたプレゼントは前頁に記した鯛のほか、日本酒、シャンペン、焼酎、クッキーにケーキ、それに私がよく使用するJRと私鉄の総合デポジットカードなど。

Tさん、Y君、Nさん、N君、Iさん、Uさん、Tさん、Mさん、Kさん、Mさん、そして勿論私の家内にも、皆さんのお心遣いに感謝しつつ私の嬉しい気持ちをここに記しておくことにする。


頂戴した物の写真を貼りつけるつもりでいたが、Internet Explorer 9での対応未整備のようなので写真は割愛。



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April 26, 2011

友人たちに感謝

友人に『春の便り(ふきのとう)』を頂いたことを月別アーカイブ March  03 ,  2011 の項で書いた。

そして3月末には筍とコゴミ(写真)も頂いた。

友人とはなかなか顔を合わす機会がないのだが、某寿司店の店主が友人と私の間を中継してくれている。
pict-P1030333
友人が朝掘りの筍を寿司店に持ち込む。

我が家は糠などというものを常備していないので、寿司店の店主が糠で煮て、コゴミとともに我が自宅まで届けてくれるというわけだ。

実に嬉しく有難いことである。

有難いと言えば、この寿司店店主には他でもいろいろと世話になっている。

私が造る『イカの塩辛』は、ちょっとしたモノ。 自分が食べるために造るのだから私自身が美味しいと感じるモノであり将に自画自賛、手前味噌で申し訳ないが、しかし息子・娘たちも美味しいと言ってくれるので、彼らの世辞や追従を差し引いたとしてもまずまずのモノだと自負している。

当然スルメイカがなければならないのだが、スーパーなどでは良いものがなかなか手に入らない。 そこで寿司店店主に依頼して新鮮で大きいものを水産卸売市場で仕入れて持ってきてもらう。

寿司店でスルメイカを用いることは少ないから、これは余計な買い物に違いないのだが・・・

先日、私の誕生日にはスーパーでは見かけないほどのデッカイ鯛を塩焼きにして熱々の状態で朝から運んできてくれた。

どのように感謝の気持ちを表して良いのか・・・

私に出来ることと言えば極力彼の店を利用することぐらいなのだが、とにかく嬉しく有難く思う私の気持ちを文字として公けにしておきたい。 彼らがこのページを見るかどうかは別にして。





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悲しみを越えての出産を祝す

“光陰矢のごとし”の例え通り、1月『いぬ』、2月『逃げる』、3月『去る』などとよく言ってきたが、4月は歯の治療から始まり、慶弔諸々今日は既に4月最終週の火曜日となってしまった。

毎日何やらバタバタ、手すきの折にブログを書くのだが書こうとする事柄が前後して記事内容が時間的に順を追ったものにならない。 ポルトガル・スペインへの旅のことも中途半端なままだし他のことも。

さて、昨年春にお世話をさせて頂いた二人のことだが、3月吉日、大阪・生國魂神社にての挙式について月別アーカイブ“June 11, 2010”の項に書いているが、新郎は我が息子同様の者、新婦は20数年前の卒業生である。

この新婚夫婦にもコウノトリが飛んできてくれたという嬉しい報せを聞いたのが昨年8月末だったか9月初めだったか。 出産の予定は4月。 初産の場合は出産日が遅れる場合が多いので、ひょっとすると私と誕生日が同じになるかも・・・と、私なりの楽しみを抱いたものだった。
pict-P1030259水仙反転
以前より新婦の母御さんは体調が優れず入退院を繰り返しておられ、そのため介護の手も必要なことから彼らの新居も実家近くに求め、新婦は勤め先から帰宅すれば母御さんの介護にあたるという2足か3足かの草鞋(わらじ)を履くという生活を続けてきた。

この母御さんの体調急変により私のもとに訃報が届いたのが彼女の臨月である今月初めのことであった。

母親おもいの彼女にとってのショックは想像以上のものであったに違いない。

私は私で、ショックが妊婦に与える影響の大きさを心配した。 と言って何ができるというわけでもない。 私に出来ることと言えば新郎に更なる気配り気遣いを頼む以外になかった。

しかし、予定よりも数日早かったが『無事女児出産・母子とも健康』との報を新郎から受け、先ず安堵した。
pict-(女児2960g)
赤ちゃん、私にとっては新しい孫のようなものだが、子どもの誕生を慶び祝う気持ち以上に母親が元気でいるという報せが安堵感をともなってより大きい喜びとして感じられた。

良かった良かった。

弔事を乗り越えての慶事である。

母御さんに孫を見せることが出来なかったことは残念なことだが、『生者必滅会者定離』、森羅万象『諸行無常』である。

子を育てるという新たな責任を負うことになったが、二人なら親としても立派に責務を果たせるだろう。

もう名前も決まっただろう。

写真は出産第一報のもの。 携帯電話での撮影だから解像度は悪いが、出産後初めての写真なので貴重な記録である。

誕生 おめでとう


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April 24, 2011

島田陽子さんの死を悼む

島田陽子さんが4月18日に亡くなられたことを2、3日後の新聞で知った。

81歳になっておられたことも新聞で知った。

しばらくお会いしていないと思っていたが、もう10年ばかりにもなる。

島田さんが主宰する会の同人誌『ぎんなん』や『叢生』で彼女の作品を見ていたので、これほど長くお会いしていなかったとは思わなかった。

お孫さんには自らのことを『グランマ』とハイカラに呼ばせ、いつも若やかでありたいと努めておられたのだが・・・


島田陽子さんのご逝去を悼み

   心より哀悼の意を表します

島田陽子さんのお名前を存じ上げなくとも1970年に開催された日本万国博覧会『大阪万博』の歌の作詞家と紹介すれば分かって頂けるかと思う。

島田陽子 作詞
中村八大 作曲

こんにちは こんにちは 西のくにから
こんにちは こんにちは 東のくにから
こんにちは こんにちは 世界のひとが
こんにちは こんにちは さくらの国で
1970年の こんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう

三波春夫さんが歌っていたが、思い出されたであろうか。

島田さんが亡くなられたことを知り彼女の著書を書棚から取り出して見ていたら、挟んであった懐かしい手紙が出てきた。
pict-img048島田陽子手紙(2)障りがあるので文字を塗りつぶしているが、この筆跡で新たに手紙を頂くことはもう無い。

人と人のつながりとしての縁を、与えられた命を、そして言葉というものをとても大切にしてこられた方である。

島田さんと最後にお会いした頃、長年作詞を続けてきた義姉を紹介しておいた。

姉は故サトウ・ハチローが主宰していた木曜会『木曜手帖』の同人であり、詩を書くということで互いに共通することがあるかもしれないとの思いからであった。
 
その後、幾度か島田さんから姉に声掛けがあり、姉は『ぎんなん』の同人にも加わった。

島田さんは1929年(昭和4年)、姉は1930年(昭和5年)の生まれである。

日本軍部が満州事変を引き起こしたのが昭和6年(1931年)、以後中国全土に戦線を拡大、更に太平洋戦争へと日本を戦争の泥沼に引きずり込んでいった時期と二人の成長時期とが重なる。

やがて敗戦。そして戦後の困難な時期をと、将に激動の昭和の時代を生き抜いてこられた二人には詩を書くということだけでなく同時代性という共通するものがあったのだと思う。

戦争のため連日亡くなっていく多くの人たち、生きるための食べ物を得るのさえ困難な時代を生きてきた二人の言葉には、上っ面な形だけ口先だけの優しさでなく、心の底から湧き出る真誠さを感じる。

詩を書くことを志す人は言葉というものに対して極端に慎重であると同時に、時に驚愕するほどに大胆でもある。

島田さんは「いのちへの謙虚さを持たないあらゆる種類の暴力に対して、その言葉は無力かもしれません。けれど、私の言葉は私を支えることはできます。どんなに貧しい言葉であっても。」と、感情を言葉にし、詩を書き続けることが大切なのだと『共犯者たち』(島田陽子詩集)の“あとがき”に記している。

詩には縁遠い私が、しかも年長者である詩人・島田陽子さんを評するのは面映ゆい気がするのだが、叱責覚悟の上、追悼の思いで書いてみた。

島田さんの著作には前出の『共犯者たち』(島田陽子詩集)、『大阪ことばあそびうた』、『続大阪ことばあそびうた』、『島田陽子詩集・うち知ってんねん』、『金子みすゞへの旅』の他多数ある。

大阪を“我がふるさと”と思う私には、『大阪ことば』に込められた“ココロ”を大切に扱い表現している『大阪ことばあそびうた』と続編、それに『うち知ってんねん』を是非多くの人に読んでもらいたいと思う。

大阪人は微妙な心情を大阪ことばで玄妙に表すが、終わりに島田陽子さんの詩をひとつ。

《 うち 知ってんねん 》

あの子 かなわんねん
  かくれてて おどかしやるし
そうじは なまけやるし
  わるさばっかし しやんねん
そやけど
  よわい子ォには やさしいねん
うち 知ってんねん

あの子 かなわんねん
  うちのくつ かくしやるし
ノートは のぞきやるし
  わるさばっかし しやんねん
そやけど
  ほかの子ォには せえへんねん
うち 知ってんねん

そやねん
  うちのこと かまいたいねん
うち 知ってんねん


島田陽子さんのご冥福を祈ります。



masatukamoto at 03:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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