May 2011
May 28, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【36】 バレンシア(続き)
前のページで書いたカテドラル(サンタ・マリア大聖堂 Catedral de Santa María de Valencia)であるが、このバレンシアの大聖堂は聖杯(写真)を保管していることで世界でも有名らしい。
私がキリスト者でないことは以前にも書いているが、キリスト者にとっては聖遺物として大切にしている宝物なのだそうで、イエス・キリストの遺品や諸聖人の遺骸や遺品のことを聖遺物と呼ぶらしい。
今回の旅行で訪れたキリスト教における三大巡礼地のひとつ、サンティアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルには使徒ヨハネの兄である使徒ヤコブの遺体が納められていた。
このバレンシアの大聖堂で保管している聖杯は、イエス・キリストが処刑される前夜、12人の使徒と夕食を共にしたことを『最後の晩餐』と呼んでいるが、この時に用いられたものだという。
『最後の晩餐』については以前イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィェ教会を訪れた際のブログで、レオナルド・ダ・ヴィンチによって修道院食堂に描かれたフレスコ画を紹介しているが、ダ・ヴィンチの絵では写真のような聖杯を確認することはできなかった。
参考までにその時に撮影した写真を。当該ページ“『最後の晩餐』の鑑賞”にはリンクしておく。
下は聖杯を拡大したもので原材料は暗赤色のメノウ。
原画は、
バレンシアのカテドラルで購入した絵葉書。
最後の晩餐で使用されたと伝えられる聖杯は写真のものだけではなく、いくつかあるらしい。
が、紛失、欠損、推定制作年代など諸々の状況を考え合わせると、どうもこれがそれらしいというような思いに私自身は傾いてきている。
信仰の対象ではないからどうでも良いことだが・・・・・
バレンシアが1238年にアラゴン王ハイメ1世によって制圧された後、15~16世紀の頃には商工業が発展を遂げ地中海でも有数の都市になったことを書いたが、15世紀後半にはラ・ロンハ・デ・ラ・セダ( la Lonja de la Seda)と呼ばれる絹の商品取引所が建てられた。
元はイスラムの王宮が建っていた場所らしいが、塔を中央にゴシック様式の砦を思わせる石造りの建物でカテドラルと同様、世界遺産に指定されている。
写真はオレンジの木の中庭と呼ばれるパティオで実際にオレンジの樹が植えられている。
建物の内部は下の写真にあるように広くて天井高が高い、柱のサロンと呼ばれる部屋や海の領事の広間と呼ばれる豪奢な格天井を持つ部屋があったりする。
このラ・ロンハ・デ・ラ・セダの直ぐ前に13世紀に建てられたロス・サントス・ファネス教会(Los Santos Juanes Church)とバレンシア中央市場(Mercado Central de Valencia)がある。
1928年に建てられたアールヌーヴォーの建物は広さが2500坪くらいあり、ヨーロッパでは最も大きい市場にランクされるといい、その店舗数は1000軒近くあるとか。
日本の市場組織、つまり生産者から商品を仕入れ、それを売る卸売業者で構成する卸売市場とは違うもののような感じがした。
詳しくは知らないが、この中央市場に品物を買いに来ているのはバレンシアに住む一般の人たちのような感じであったし、私自身全く個人として極少量の買い物をすることが出来たのでただの公設市場だと思ったのである。
しかし、公設市場ともちょっと違うのは、
いずれの店舗も商品を綺麗に並べてあるし、
通路の清掃も行き届いており、デパートの
地下食料品売り場のような感じであったことだ。
バレンシアは歴史のある古い町なので古い建物と新しい建物が共存して素敵な街並みを構成しているように見えるのだが、現代の都市産業機能とのマッチングが必ずしも満足に行い得ない面があるのか、他の古い歴史を持つ都市と同様、旧市街の外に新しい町が形成されていっているようだ。
旧市街地にあるバレンシア鉄道駅と闘牛場。
駅近くにあった社会保険庁事務所のビルだったろうか。
社会保障の地方事務所か何とか書いてあったが、なかなか風雅を感じさせる建物である。
アユンタミエント広場前に建つバレンシア市庁舎。
近代的なビルとの共存で落ち着いた雰囲気の町になっているが、ここも旧市街地。
バレンシアの旧市街地は旧・トゥリア川(Río Turia)が湾曲する内側部分のやや高くなった所に開けているが、この川は過去に何度も洪水を起こしてきているという。
1957年に起きた大洪水では都市機能が完全にマヒしてしまったため、新しく運河を掘ったらしいが、これは多分、旧トゥリア川を暗渠にし、その上をアラメダ通りなどの緑地帯にしたのではないかと想像する。
現在、トゥリア川はバレンシア旧市街地の西北方向で地図上緑地帯となっている旧・トゥリア川と分かれ、市街地の西南方面を通って地中海へ流れ込んでいる。
地図上で大雑把に分ければ旧・トゥリア川(アラメダ通りなどの緑地帯)や現・トゥリア川の外側は新市街地であると言える。
写真のバレンシア大学もアラメダ通りの緑地帯の外になるので新市街地と言え、そうした地域には新しいコンクリート造りの建物が多くみられる。
またそうした新しく開けた地域には斬新な建物も多く、『芸術・科学都市』と名付けられた町もある。
バレンシアを訪れてから既に半年を経過し、やや記憶の鈍りを感じ始めている。 旅行中に撮った写真を眺めながら持ち帰った資料とをつき合せつつ記憶をたどって文を綴っているのであるが、ところどころ繋がらないことに苛立ちすら感じる始末である。
多少事実誤認があるかもしれないなあ・・・・・と。
大きい間違いは無いとは思うのだが、発見された折にはご寛容に願いたい。
私がキリスト者でないことは以前にも書いているが、キリスト者にとっては聖遺物として大切にしている宝物なのだそうで、イエス・キリストの遺品や諸聖人の遺骸や遺品のことを聖遺物と呼ぶらしい。
今回の旅行で訪れたキリスト教における三大巡礼地のひとつ、サンティアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルには使徒ヨハネの兄である使徒ヤコブの遺体が納められていた。
このバレンシアの大聖堂で保管している聖杯は、イエス・キリストが処刑される前夜、12人の使徒と夕食を共にしたことを『最後の晩餐』と呼んでいるが、この時に用いられたものだという。
『最後の晩餐』については以前イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィェ教会を訪れた際のブログで、レオナルド・ダ・ヴィンチによって修道院食堂に描かれたフレスコ画を紹介しているが、ダ・ヴィンチの絵では写真のような聖杯を確認することはできなかった。
参考までにその時に撮影した写真を。当該ページ“『最後の晩餐』の鑑賞”にはリンクしておく。
下は聖杯を拡大したもので原材料は暗赤色のメノウ。
原画は、
バレンシアのカテドラルで購入した絵葉書。
最後の晩餐で使用されたと伝えられる聖杯は写真のものだけではなく、いくつかあるらしい。
が、紛失、欠損、推定制作年代など諸々の状況を考え合わせると、どうもこれがそれらしいというような思いに私自身は傾いてきている。
信仰の対象ではないからどうでも良いことだが・・・・・
バレンシアが1238年にアラゴン王ハイメ1世によって制圧された後、15~16世紀の頃には商工業が発展を遂げ地中海でも有数の都市になったことを書いたが、15世紀後半にはラ・ロンハ・デ・ラ・セダ( la Lonja de la Seda)と呼ばれる絹の商品取引所が建てられた。
元はイスラムの王宮が建っていた場所らしいが、塔を中央にゴシック様式の砦を思わせる石造りの建物でカテドラルと同様、世界遺産に指定されている。
写真はオレンジの木の中庭と呼ばれるパティオで実際にオレンジの樹が植えられている。
建物の内部は下の写真にあるように広くて天井高が高い、柱のサロンと呼ばれる部屋や海の領事の広間と呼ばれる豪奢な格天井を持つ部屋があったりする。
このラ・ロンハ・デ・ラ・セダの直ぐ前に13世紀に建てられたロス・サントス・ファネス教会(Los Santos Juanes Church)とバレンシア中央市場(Mercado Central de Valencia)がある。
1928年に建てられたアールヌーヴォーの建物は広さが2500坪くらいあり、ヨーロッパでは最も大きい市場にランクされるといい、その店舗数は1000軒近くあるとか。
日本の市場組織、つまり生産者から商品を仕入れ、それを売る卸売業者で構成する卸売市場とは違うもののような感じがした。
詳しくは知らないが、この中央市場に品物を買いに来ているのはバレンシアに住む一般の人たちのような感じであったし、私自身全く個人として極少量の買い物をすることが出来たのでただの公設市場だと思ったのである。
しかし、公設市場ともちょっと違うのは、
いずれの店舗も商品を綺麗に並べてあるし、
通路の清掃も行き届いており、デパートの
地下食料品売り場のような感じであったことだ。
バレンシアは歴史のある古い町なので古い建物と新しい建物が共存して素敵な街並みを構成しているように見えるのだが、現代の都市産業機能とのマッチングが必ずしも満足に行い得ない面があるのか、他の古い歴史を持つ都市と同様、旧市街の外に新しい町が形成されていっているようだ。
旧市街地にあるバレンシア鉄道駅と闘牛場。
駅近くにあった社会保険庁事務所のビルだったろうか。
社会保障の地方事務所か何とか書いてあったが、なかなか風雅を感じさせる建物である。
アユンタミエント広場前に建つバレンシア市庁舎。
近代的なビルとの共存で落ち着いた雰囲気の町になっているが、ここも旧市街地。
バレンシアの旧市街地は旧・トゥリア川(Río Turia)が湾曲する内側部分のやや高くなった所に開けているが、この川は過去に何度も洪水を起こしてきているという。
1957年に起きた大洪水では都市機能が完全にマヒしてしまったため、新しく運河を掘ったらしいが、これは多分、旧トゥリア川を暗渠にし、その上をアラメダ通りなどの緑地帯にしたのではないかと想像する。
現在、トゥリア川はバレンシア旧市街地の西北方向で地図上緑地帯となっている旧・トゥリア川と分かれ、市街地の西南方面を通って地中海へ流れ込んでいる。
地図上で大雑把に分ければ旧・トゥリア川(アラメダ通りなどの緑地帯)や現・トゥリア川の外側は新市街地であると言える。
写真のバレンシア大学もアラメダ通りの緑地帯の外になるので新市街地と言え、そうした地域には新しいコンクリート造りの建物が多くみられる。
またそうした新しく開けた地域には斬新な建物も多く、『芸術・科学都市』と名付けられた町もある。
バレンシアを訪れてから既に半年を経過し、やや記憶の鈍りを感じ始めている。 旅行中に撮った写真を眺めながら持ち帰った資料とをつき合せつつ記憶をたどって文を綴っているのであるが、ところどころ繋がらないことに苛立ちすら感じる始末である。
多少事実誤認があるかもしれないなあ・・・・・と。
大きい間違いは無いとは思うのだが、発見された折にはご寛容に願いたい。
May 27, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【35】 バレンシア
日本ではいろんな産物の前に、その産地の名前を付け、例えば松阪牛、宇治茶、有田みかん、明石ダコなどのように呼ぶ。
そこでバレンシア・オレンジであるが、私はバレンシア・オレンジの産地がスペインの人口第3位で地中海に面した都市バレンシアであると長い間思い込んでいた。
ところが改めてオレンジについて調べてみると、EUにおけるスペインのオレンジ生産量はバレンシア地方が優位となっているが、世界第1位はブラジルであり、続いてアメリカ合衆国、中国、EUと続くのである。
また、バレンシア・オレンジの原産地はインド北部・ヒマラヤ山麓の高原地帯で、ヨーロッパへは大航海時代(15世紀末)に持ち帰り栽培が始められたという。 この品種が地中海品種で、それが19世紀に新大陸(アメリカ)へも渡ったのだが、それらのうちの突然変異種がカリフォルニアやフロリダで栽培されているオレンジだと言う。
このオレンジがバレンシア地方のものと酷似していることからスペイン出身の者がバレンシア・オレンジと名付けたと言うのだ。
バレンシアの農耕地帯を車で走ってみて、確かにオレンジの栽培が盛んに行われていたし市場にもオレンジが沢山並べられていたが、それらのオレンジを正しくは『バレンシア産オレンジ』と呼び、私たちが日本の市場で買うオレンジは『バレンシア・オレンジ』と呼ぶべきなのかと、旅行を終えてから何やらツマラナイ疑問を抱え込んでいた。
まあまあ旅行というのは、こうしたお土産もあって楽しいものなのだ。
ところでバレンシアと言えば『パエリア』が有名である。
写真はパエリア鍋のいろいろ。 小さな物は径10数センチから大きいものになると1メートルもの鍋が売られていた。
日本でもスペイン料理店へ行けば食べることができるので珍しくもないが、写真のような大きい鍋を見ると「ホホーッ」と感心してしまう。
パエリアと言えばバレンシア風とか地中海風という言葉が付くものが多く、具材にムール貝やエビ、或いはイカなどといったシーフードが入ったものを想像しがちだが、パエリアというのは元々狩りの獲物である鳥やウサギを米や野菜とともに野で炊いたもので、アラブやペルシャ系のイスラム教徒の人たちの料理であったらしい。
バレンシアの町は地中海に面しており、この地もまた古くより地中海沿岸各地との交流があり、紀元前6世紀にはイベリア半島の地中海沿岸の人々とフェニキアやギリシャなどとのつながりが明らかになっているし、更に新石器時代の考古学的資料から紀元前5000年頃まで遡って人類の存在が確認されている。
≪写真はホテル・ウサ・マス・カマレナ(Husa Mas Camarena)≫
イベリア半島の他の地域と同様、バレンシアも紀元前137年にはローマが入り、6世紀には西ゴート王国が統治するところとなってキリスト教の勢力下に入った。
しかし8世紀、イスラム勢力の侵攻によって支配権が移るも11世紀末には再びキリスト教勢力が支配権を奪還することとなる。
ところが又もイスラムのムラービト朝の統治に変わってしまった。
718年、イベリア半島北西地域で始まったレコンキスタは1492年のグラナダの陥落で終止符を打つことになるが、バレンシアは1238年にアラゴン王ハイメ1世が制圧することによってイスラム勢力の支配からキリスト教支配に移ることとなった。
13世紀中・後期以後バレンシアの商工業が発展、15~16世紀の頃には地中海でも有数の都市に発展した。
写真は13世紀から14世紀にかけて建てられたカテドラル(サンタ・マリア大聖堂 Catedral de Santa María de Valencia)のファサードが右手に見えるがゴシック様式である。
青色ドーム屋根の建物は 17世紀中頃(1652~1667)に建てられたバレンシアの守護聖人の聖堂(Basílica de la Virgen de los Desamparados)らしいが詳しくは分からない。 外見からはバロック様式の建築物に見える。
カテドラルの北側、セオ広場から上のファサードとミゲレテの塔(Torre del Miguelete )を眺めたものである。
ミゲレテの塔はカテドラルの八角形の鐘塔で高さは63mあるが、テラスまでの高さは51m、207段の階段を上れば町を一望できるというのだが、これは・・・・・
このカテドラルの辺りには元々は西ゴート族の大聖堂が建っており、その後にイスラム教のモスクが建っていたことが発掘調査によって明らかにされている。
その後に現在のカテドラルが建てられたが当初はゴシック様式のものであったらしいが、建築期間が長かったことなどからネオクラシックやバロックなど様々な建築様式が混在するものになっている。
次の写真はミゲレテの塔の脇にあるカテドラルの南側ファサードだが、一見して分かるようにバロック様式になっている。
カテドラル内部の礼拝堂についても写真で紹介してみよう。
アーチ型天井の礼拝堂で写真正面が祭壇。
木製の長椅子が並ぶ身廊の左右に側廊がある。
写真では分かりにくいが祭壇手前の天井部が明るくなっている辺りの左右に翼廊がある。
空からカテドラルを見ると十字架の形をした建物に見え、身廊というのは十字架のタテ軸でありこれと並行に側廊がある。 そして十字架の交差している部分、つまり磔刑に遭ったキリストの両腕にあたる部分が翼廊として建物が飛び出している部分になる。
下は祭壇部分。
天井のドーム部分を拡大したもの。
好きか嫌いかは別にして細かな彫刻に金箔を施した豪華なものである。
そこでバレンシア・オレンジであるが、私はバレンシア・オレンジの産地がスペインの人口第3位で地中海に面した都市バレンシアであると長い間思い込んでいた。
ところが改めてオレンジについて調べてみると、EUにおけるスペインのオレンジ生産量はバレンシア地方が優位となっているが、世界第1位はブラジルであり、続いてアメリカ合衆国、中国、EUと続くのである。
また、バレンシア・オレンジの原産地はインド北部・ヒマラヤ山麓の高原地帯で、ヨーロッパへは大航海時代(15世紀末)に持ち帰り栽培が始められたという。 この品種が地中海品種で、それが19世紀に新大陸(アメリカ)へも渡ったのだが、それらのうちの突然変異種がカリフォルニアやフロリダで栽培されているオレンジだと言う。
このオレンジがバレンシア地方のものと酷似していることからスペイン出身の者がバレンシア・オレンジと名付けたと言うのだ。
バレンシアの農耕地帯を車で走ってみて、確かにオレンジの栽培が盛んに行われていたし市場にもオレンジが沢山並べられていたが、それらのオレンジを正しくは『バレンシア産オレンジ』と呼び、私たちが日本の市場で買うオレンジは『バレンシア・オレンジ』と呼ぶべきなのかと、旅行を終えてから何やらツマラナイ疑問を抱え込んでいた。
まあまあ旅行というのは、こうしたお土産もあって楽しいものなのだ。
ところでバレンシアと言えば『パエリア』が有名である。
写真はパエリア鍋のいろいろ。 小さな物は径10数センチから大きいものになると1メートルもの鍋が売られていた。
日本でもスペイン料理店へ行けば食べることができるので珍しくもないが、写真のような大きい鍋を見ると「ホホーッ」と感心してしまう。
パエリアと言えばバレンシア風とか地中海風という言葉が付くものが多く、具材にムール貝やエビ、或いはイカなどといったシーフードが入ったものを想像しがちだが、パエリアというのは元々狩りの獲物である鳥やウサギを米や野菜とともに野で炊いたもので、アラブやペルシャ系のイスラム教徒の人たちの料理であったらしい。
バレンシアの町は地中海に面しており、この地もまた古くより地中海沿岸各地との交流があり、紀元前6世紀にはイベリア半島の地中海沿岸の人々とフェニキアやギリシャなどとのつながりが明らかになっているし、更に新石器時代の考古学的資料から紀元前5000年頃まで遡って人類の存在が確認されている。
≪写真はホテル・ウサ・マス・カマレナ(Husa Mas Camarena)≫
イベリア半島の他の地域と同様、バレンシアも紀元前137年にはローマが入り、6世紀には西ゴート王国が統治するところとなってキリスト教の勢力下に入った。
しかし8世紀、イスラム勢力の侵攻によって支配権が移るも11世紀末には再びキリスト教勢力が支配権を奪還することとなる。
ところが又もイスラムのムラービト朝の統治に変わってしまった。
718年、イベリア半島北西地域で始まったレコンキスタは1492年のグラナダの陥落で終止符を打つことになるが、バレンシアは1238年にアラゴン王ハイメ1世が制圧することによってイスラム勢力の支配からキリスト教支配に移ることとなった。
13世紀中・後期以後バレンシアの商工業が発展、15~16世紀の頃には地中海でも有数の都市に発展した。
写真は13世紀から14世紀にかけて建てられたカテドラル(サンタ・マリア大聖堂 Catedral de Santa María de Valencia)のファサードが右手に見えるがゴシック様式である。
青色ドーム屋根の建物は 17世紀中頃(1652~1667)に建てられたバレンシアの守護聖人の聖堂(Basílica de la Virgen de los Desamparados)らしいが詳しくは分からない。 外見からはバロック様式の建築物に見える。
カテドラルの北側、セオ広場から上のファサードとミゲレテの塔(Torre del Miguelete )を眺めたものである。
ミゲレテの塔はカテドラルの八角形の鐘塔で高さは63mあるが、テラスまでの高さは51m、207段の階段を上れば町を一望できるというのだが、これは・・・・・
このカテドラルの辺りには元々は西ゴート族の大聖堂が建っており、その後にイスラム教のモスクが建っていたことが発掘調査によって明らかにされている。
その後に現在のカテドラルが建てられたが当初はゴシック様式のものであったらしいが、建築期間が長かったことなどからネオクラシックやバロックなど様々な建築様式が混在するものになっている。
次の写真はミゲレテの塔の脇にあるカテドラルの南側ファサードだが、一見して分かるようにバロック様式になっている。
カテドラル内部の礼拝堂についても写真で紹介してみよう。
アーチ型天井の礼拝堂で写真正面が祭壇。
木製の長椅子が並ぶ身廊の左右に側廊がある。
写真では分かりにくいが祭壇手前の天井部が明るくなっている辺りの左右に翼廊がある。
空からカテドラルを見ると十字架の形をした建物に見え、身廊というのは十字架のタテ軸でありこれと並行に側廊がある。 そして十字架の交差している部分、つまり磔刑に遭ったキリストの両腕にあたる部分が翼廊として建物が飛び出している部分になる。
下は祭壇部分。
天井のドーム部分を拡大したもの。
好きか嫌いかは別にして細かな彫刻に金箔を施した豪華なものである。
May 26, 2011
カワユイお嬢様と初の対面
お嬢様と言うにはまだまだ幼い、生まれて40日ばかりの赤子である。
大阪市内での用事を片付けるために出かけたついでに、ついでと言う言葉は赤ちゃんに対しても母親に対しても失礼ではあるが、いや、やはり・・・ついで、かな。
昨年春に挙式したМ君とR子さんの第一子が無事に誕生したという報せを受けたのが4月12日のことであった。
「2960g、母子ともに元気。」
携帯メールに送信されてきたこの一文が何よりも嬉しい。
医学が進歩したと言っても科学は万能ではない。 ややもすれば人間というもの驕り高ぶる傾向が強いが、私は素直に感謝し喜びたい。
R子さんに会うのも暫くぶりであったが、ええお母ちゃん顔になっておった。
赤ちゃんにも初対面であったが、М君とR子さんの新居訪問も初めて。
が、梅雨のはしりのような雨降りの日で、私のボロ革靴の中がビチョビチョグチュグチュ。 そのため玄関での初対面と相成ったがカワユイ顔を見ることができて大満足。
ババに抱かれて笑っているのか気まずいのか、どんなしぐさも表情も、みーんなカワユイ。
ホント、もみじのようなカワユイ手に指を触れると力強ーく握り返してくれた。
ジジとしては大の大の大満足であった。
ははははは、勝手にジジ・ババなどと。 まあしかし、私どもにとっては孫みたいなものだ。 許せ。
大阪市内での用事を片付けるために出かけたついでに、ついでと言う言葉は赤ちゃんに対しても母親に対しても失礼ではあるが、いや、やはり・・・ついで、かな。
昨年春に挙式したМ君とR子さんの第一子が無事に誕生したという報せを受けたのが4月12日のことであった。
「2960g、母子ともに元気。」
携帯メールに送信されてきたこの一文が何よりも嬉しい。
医学が進歩したと言っても科学は万能ではない。 ややもすれば人間というもの驕り高ぶる傾向が強いが、私は素直に感謝し喜びたい。
R子さんに会うのも暫くぶりであったが、ええお母ちゃん顔になっておった。
赤ちゃんにも初対面であったが、М君とR子さんの新居訪問も初めて。
が、梅雨のはしりのような雨降りの日で、私のボロ革靴の中がビチョビチョグチュグチュ。 そのため玄関での初対面と相成ったがカワユイ顔を見ることができて大満足。
ババに抱かれて笑っているのか気まずいのか、どんなしぐさも表情も、みーんなカワユイ。
ホント、もみじのようなカワユイ手に指を触れると力強ーく握り返してくれた。
ジジとしては大の大の大満足であった。
ははははは、勝手にジジ・ババなどと。 まあしかし、私どもにとっては孫みたいなものだ。 許せ。
May 25, 2011
ポルトガル・スペインを巡る 【34】 グラナダ (アルハンブラ宮殿 Ⅲ)
アルハンブラ宮殿がグラナダの丘陵上にあると書いたが、グラナダの町の標高は738mであるという。
丘陵上のアルハンブラ宮殿を囲むように赤いレンガ積みの外壁が続き、所々に砦のような構造物が見られる。
アルハンブラ宮殿から谷を隔てた東側の丘上にあるヘネラリーフェに向かって歩いて行くのだが、ヘネラリーフェは14世紀初め、ムハンマド3世によって天国をイメージして造られた夏の離宮で、水の宮殿とも呼ばれている。
ヘネラリーフェから架けられた石造りの水道橋。
アルハンブラ宮殿は元々砦のあった丘陵に次々と建物が建設されて城塞都市の機能を備えてきたことについて書いてきたが、日本の城でも同じことで、城や砦というものは攻撃の或いは防衛の拠点となるものである。
そのため城や砦の中には食糧の生産や備蓄のための施設があったり、飲料水を確保するために井戸が掘られているのである。
ではこの丘陵上に築かれたアルハンブラ宮殿ではどうなのか。 一般的には丘陵上の場合、平地に比べて井戸の深度は当然深く、その分掘削工事は当然大がかりなものになる。
このことが気になっていたのであるが、これまでの写真からアルハンブラ宮殿の施設の中庭には大きいプールがあったり噴水があったりと結構水が豊富にあった。
上の写真はグラナダの町の南東に眺められる海抜3000m級の山々が連なるシェラネバダ(Sierra Nevada)山脈であり、1年を通じて雪を被っていることからスペイン語で雪のかかった山脈という意味でシェラネバダという名前が付けられたらしい。
日本人の多くはラスベガスという町の名前をよく知っているが、このカジノで有名な町はオレゴン、アイダホ、カリフォルニア、ユタ、アリゾナの各州に囲まれたネバダ州にあり、ネバダは核実験場があることでも名高い。
そして、州域としてはカリフォルニア州に属すがローキー山脈に並ぶシェラネバダ山脈がアメリカ合衆国西部にもあるし、同じシェラネバダ山脈という名前のものはメキシコにも南米のベネズエラにもコロンビアにもある。
話が横道に逸れたが、上の写真はアルハンブラ宮殿のある丘陵から谷を隔てた東側の丘上にあるヘネラリーフェからアルハンブラ宮殿とグラナダの町を眺めたものである。
つまり、上の写真でも想像できるかと思うが、雪を被るシェラネバダ山脈から流れ出る地下水を6kmもの水路でヘネラリーフェまで導き、プールや噴水に用いると共に、更に高度の低いアルハンブラ宮殿へ水路で送水しているのである。
写真はヘネラリーフェのアセキアの中庭。
強い陽射しだが噴水の涼しげな音が気持ち良い。
ヘネラリーフェの庭は水がふんだんに使われている。
それと、やたらと目につくのが糸杉。
ここまでやるか、と思えるほど刈り上げられた糸杉。
下はアルハンブラ宮殿から見たアルバイシン地区。 サクロモンテの丘とアルハンブラ宮殿のある丘の間に広がっている。
アルバイシン地区と呼ばれる一帯は、イスラム統治時代にはイスラム人が住んでいた地域らしく、現在は道路も整備されているようだが、小さな道に入り込むと迷路のようになっているとか。 今回はサクロモンテの丘の方面には行ってないので町の仔細については分からない。
下の写真は上の写真の右上の部分を拡大したものだが、丘の斜面の所々に日陰となった黒い部分が見えるだろうか。
一部に白や青など色つきの屋根も見えるが、黒く影になっている部分が洞窟住居であり、ロマ族の人たちが住んでいるらしい。
ロマ族の先祖はインド北部から各地へ移動し、放浪の民と呼ばれていることくらいは知っているが、それ以上詳しく知らないのでココまで。
洞窟住居の中にはフラメンコのショーをしている所もあるらしい。 アンダルシアと言えばフラメンコ発祥の地と言われているが、フラメンコの歌や踊りの原型はロマ族の人たちの踊りや音曲に求められるとする説もあるから洞窟住居でのフラメンコは正統派と言えるかもしれない。
しかし、正統という言葉が正しいかどうか。 正統と言うなら異端があるわけで、何を基準にと問われると答えに窮してしまう。
まったく困ったものだ。
そんな時には酒で誤魔化すことにしよう。 グラナダで飲んだアルハンブラという銘柄のビール。 まずまずであった。
丘陵上のアルハンブラ宮殿を囲むように赤いレンガ積みの外壁が続き、所々に砦のような構造物が見られる。
アルハンブラ宮殿から谷を隔てた東側の丘上にあるヘネラリーフェに向かって歩いて行くのだが、ヘネラリーフェは14世紀初め、ムハンマド3世によって天国をイメージして造られた夏の離宮で、水の宮殿とも呼ばれている。
ヘネラリーフェから架けられた石造りの水道橋。
アルハンブラ宮殿は元々砦のあった丘陵に次々と建物が建設されて城塞都市の機能を備えてきたことについて書いてきたが、日本の城でも同じことで、城や砦というものは攻撃の或いは防衛の拠点となるものである。
そのため城や砦の中には食糧の生産や備蓄のための施設があったり、飲料水を確保するために井戸が掘られているのである。
ではこの丘陵上に築かれたアルハンブラ宮殿ではどうなのか。 一般的には丘陵上の場合、平地に比べて井戸の深度は当然深く、その分掘削工事は当然大がかりなものになる。
このことが気になっていたのであるが、これまでの写真からアルハンブラ宮殿の施設の中庭には大きいプールがあったり噴水があったりと結構水が豊富にあった。
上の写真はグラナダの町の南東に眺められる海抜3000m級の山々が連なるシェラネバダ(Sierra Nevada)山脈であり、1年を通じて雪を被っていることからスペイン語で雪のかかった山脈という意味でシェラネバダという名前が付けられたらしい。
日本人の多くはラスベガスという町の名前をよく知っているが、このカジノで有名な町はオレゴン、アイダホ、カリフォルニア、ユタ、アリゾナの各州に囲まれたネバダ州にあり、ネバダは核実験場があることでも名高い。
そして、州域としてはカリフォルニア州に属すがローキー山脈に並ぶシェラネバダ山脈がアメリカ合衆国西部にもあるし、同じシェラネバダ山脈という名前のものはメキシコにも南米のベネズエラにもコロンビアにもある。
話が横道に逸れたが、上の写真はアルハンブラ宮殿のある丘陵から谷を隔てた東側の丘上にあるヘネラリーフェからアルハンブラ宮殿とグラナダの町を眺めたものである。
つまり、上の写真でも想像できるかと思うが、雪を被るシェラネバダ山脈から流れ出る地下水を6kmもの水路でヘネラリーフェまで導き、プールや噴水に用いると共に、更に高度の低いアルハンブラ宮殿へ水路で送水しているのである。
写真はヘネラリーフェのアセキアの中庭。
強い陽射しだが噴水の涼しげな音が気持ち良い。
ヘネラリーフェの庭は水がふんだんに使われている。
それと、やたらと目につくのが糸杉。
ここまでやるか、と思えるほど刈り上げられた糸杉。
下はアルハンブラ宮殿から見たアルバイシン地区。 サクロモンテの丘とアルハンブラ宮殿のある丘の間に広がっている。
アルバイシン地区と呼ばれる一帯は、イスラム統治時代にはイスラム人が住んでいた地域らしく、現在は道路も整備されているようだが、小さな道に入り込むと迷路のようになっているとか。 今回はサクロモンテの丘の方面には行ってないので町の仔細については分からない。
下の写真は上の写真の右上の部分を拡大したものだが、丘の斜面の所々に日陰となった黒い部分が見えるだろうか。
一部に白や青など色つきの屋根も見えるが、黒く影になっている部分が洞窟住居であり、ロマ族の人たちが住んでいるらしい。
ロマ族の先祖はインド北部から各地へ移動し、放浪の民と呼ばれていることくらいは知っているが、それ以上詳しく知らないのでココまで。
洞窟住居の中にはフラメンコのショーをしている所もあるらしい。 アンダルシアと言えばフラメンコ発祥の地と言われているが、フラメンコの歌や踊りの原型はロマ族の人たちの踊りや音曲に求められるとする説もあるから洞窟住居でのフラメンコは正統派と言えるかもしれない。
しかし、正統という言葉が正しいかどうか。 正統と言うなら異端があるわけで、何を基準にと問われると答えに窮してしまう。
まったく困ったものだ。
そんな時には酒で誤魔化すことにしよう。 グラナダで飲んだアルハンブラという銘柄のビール。 まずまずであった。
May 23, 2011
力強い言葉 ≪津波被災の友人≫
当ブログ『月別アーカイブ(March 2011)』の12日記載分『お見舞い申し上げる(3.11 地震&津波)』で宮城県東松島市の友人について触れたが、東松島市は旧・桃生郡(ものうぐん)鳴瀬町と矢本町が合併して成立した新しい市である。
太平洋に突き出た牡鹿半島によって囲まれた海域は仙台湾と総称されるが、仙台湾は名勝・松島を構成する島々の中で最も大きい宮戸島によって南側の松島湾と北側の石巻湾に分けられる。
この石巻湾は南方に位置する名勝『奥松島』や野蒜の砂浜のある鳴瀬町、そして矢本海浜緑地や航空自衛隊松島基地のある矢本町から日本有数の石巻漁港を持つ石巻市へと連なっている。
【下は朝日新聞(4月2日付)被災者数より】
いかに被害が甚大であったか・・・友人の最近のメール(抜粋)でも、
「おばちゃんが亡くなってしまいました。 一番元気なおばちゃんがいなくなってしまってとってもさびしいです。
ずっと友達だった人も、PTAで一緒に地震の時にがんばったお友達も、近所の人も、一緒の読み聞かせの会のとっても優しいおばさんも、たくさん亡くなってしまいました。あーあ、まだ信じられません。」
と、書いてあった。
もうふた月を過ぎて猶“信じられない”被災状況であり、いかに精神的に深刻な状態にあるか、直接被災していない私でも充分想像できるが、この友人は襲ってきた津波に呑まれ流されてもいるのだ。
これまで三陸沖を震源とする大地震は何度も起きている。最近では2003年5月、2005年8月に大きい地震があったが、2003年の大地震の折、東松島市の友人は小学校PTAの役委員の一人として地震対策指針立案と、その実施のために奔走していたことを私は記憶している。
この友人は保健師であり、主人はプロの潜水士。もう何年になるだろうか、水難事故防止のため夫婦で着衣泳、つまり服を身に着けたまま海や川に落ちた場合の身の守り方(泳法を含む)を指導してきている。
八甲田山系(青森県)を巡った折、そして数年前の北海道旅行の帰りにも東松島の友人の家に立ち寄ったが、鳴瀬の浜辺にほど近い静かで落ち着いた田舎町に建つ二階建ての日本式家屋と潜水調査を業務とする事務所が別棟で建っていた。
昨年7月だったか、自宅近くに会社事務所を新築したと事務所の写真付きメールを送ってくれたが、その新築1年も経たない事務所も立派な二階建て日本式家屋も3月11日に跡形無く流されてしまった。
建物だけではない、この二人も津波に呑まれ流されたのだ。
インターネットという仮想世界でのブログゆえ極力個人を特定できる事柄についての記載は避けるよう配慮してきたが、この東松島市で津波被害に遭った友人は河北新報(本社・仙台市)2011年5月12日(木曜)版で、記者の取材に応じて津波に呑まれ流されながらも九死に一生を得た状況を公開しているので河北新報紙面にリンクし、紹介しておく。
そして主人の方も、何もかも無くなった中で力強く再出発することを宣言している。
「助かった命で多くの人を助けたい」と。
会社のページではあるが、この気概にエールを送るつもりでリンクし紹介したい。
また、保健師でもある友人からは、メールで
「生き残れたからにはすべきことがある」
と、力強い言葉を書いてきてくれた。
二人が無事であったことに安堵してはいたが、再度力強い歩みを感じさせてくれたことを嬉しく思う。
『共生』・・・『ともいき』
仏教ではよく語られる言葉であるが、“ひと”として生きていく上で大切なことは協力・協同の心を持って、更にそれを実践することにあると私は常々思い、そのことに努めている。(つもり・・・である)
環境因子は個々に異なるゆえ何もかも同じにというわけにはいかないが、『ともいき』の精神を持って互いに手を携えながら歩むことを私もここに明らかにしておきたい。
太平洋に突き出た牡鹿半島によって囲まれた海域は仙台湾と総称されるが、仙台湾は名勝・松島を構成する島々の中で最も大きい宮戸島によって南側の松島湾と北側の石巻湾に分けられる。
この石巻湾は南方に位置する名勝『奥松島』や野蒜の砂浜のある鳴瀬町、そして矢本海浜緑地や航空自衛隊松島基地のある矢本町から日本有数の石巻漁港を持つ石巻市へと連なっている。
【下は朝日新聞(4月2日付)被災者数より】
いかに被害が甚大であったか・・・友人の最近のメール(抜粋)でも、
「おばちゃんが亡くなってしまいました。 一番元気なおばちゃんがいなくなってしまってとってもさびしいです。
ずっと友達だった人も、PTAで一緒に地震の時にがんばったお友達も、近所の人も、一緒の読み聞かせの会のとっても優しいおばさんも、たくさん亡くなってしまいました。あーあ、まだ信じられません。」
と、書いてあった。
もうふた月を過ぎて猶“信じられない”被災状況であり、いかに精神的に深刻な状態にあるか、直接被災していない私でも充分想像できるが、この友人は襲ってきた津波に呑まれ流されてもいるのだ。
これまで三陸沖を震源とする大地震は何度も起きている。最近では2003年5月、2005年8月に大きい地震があったが、2003年の大地震の折、東松島市の友人は小学校PTAの役委員の一人として地震対策指針立案と、その実施のために奔走していたことを私は記憶している。
この友人は保健師であり、主人はプロの潜水士。もう何年になるだろうか、水難事故防止のため夫婦で着衣泳、つまり服を身に着けたまま海や川に落ちた場合の身の守り方(泳法を含む)を指導してきている。
八甲田山系(青森県)を巡った折、そして数年前の北海道旅行の帰りにも東松島の友人の家に立ち寄ったが、鳴瀬の浜辺にほど近い静かで落ち着いた田舎町に建つ二階建ての日本式家屋と潜水調査を業務とする事務所が別棟で建っていた。
昨年7月だったか、自宅近くに会社事務所を新築したと事務所の写真付きメールを送ってくれたが、その新築1年も経たない事務所も立派な二階建て日本式家屋も3月11日に跡形無く流されてしまった。
建物だけではない、この二人も津波に呑まれ流されたのだ。
インターネットという仮想世界でのブログゆえ極力個人を特定できる事柄についての記載は避けるよう配慮してきたが、この東松島市で津波被害に遭った友人は河北新報(本社・仙台市)2011年5月12日(木曜)版で、記者の取材に応じて津波に呑まれ流されながらも九死に一生を得た状況を公開しているので河北新報紙面にリンクし、紹介しておく。
そして主人の方も、何もかも無くなった中で力強く再出発することを宣言している。
「助かった命で多くの人を助けたい」と。
会社のページではあるが、この気概にエールを送るつもりでリンクし紹介したい。
また、保健師でもある友人からは、メールで
「生き残れたからにはすべきことがある」
と、力強い言葉を書いてきてくれた。
二人が無事であったことに安堵してはいたが、再度力強い歩みを感じさせてくれたことを嬉しく思う。
『共生』・・・『ともいき』
仏教ではよく語られる言葉であるが、“ひと”として生きていく上で大切なことは協力・協同の心を持って、更にそれを実践することにあると私は常々思い、そのことに努めている。(つもり・・・である)
環境因子は個々に異なるゆえ何もかも同じにというわけにはいかないが、『ともいき』の精神を持って互いに手を携えながら歩むことを私もここに明らかにしておきたい。