June 2011

June 27, 2011

韓国・済州島行 (1)

韓国は今までに何度も訪れている「近くて親しい隣国」である。 私にとってはということだが・・・

これまで何かにつけて「近くて遠い国」と表現されてきた国であるため敢えて「親しい隣国」としたのだが、隣国からは親しいと思ってもらえない時期が長くあったことは事実。 私自身にも親しい隣国とは思わない時期が戦後あったし、このところ本当に親しいと言い切れるのか疑問に思う出来事もある。
pict-韓国地図
しかしまあこの件はおいておこう。

何度も訪れた親しい隣国でありながらすべての地域を巡ったわけではなく、これまで江原道と済州特別自治道は足を踏み入れたことがなかった。

※ 地図上の赤い星印はソウル。そしてソウルの北側の実線は38度線と呼ばれる軍事境界線(停戦ライン)である。

江原道はソウルの東側にある広い行政区で、現在38度線を挟んで北朝鮮と接している。

また済州特別自治道(済州島)は、地図の下部にあって『Jeju』と記され
ている島である。 『JAPAN』と記されている島は対馬。その南にある島が壱岐で、佐賀県や長崎県、そして五島列島も見てとれる。

東シナ海から日本海に通じる済州島や壱岐・対馬周辺海域は北上する対馬暖流の影響を受けて韓国本土や日本の九州・本州内陸部に比べて平均気温は高い。

済州島は在日の友人・夫氏の出身地であり、以前から氏の里帰りの折に一緒に行こうと約束していたのだが互いの予定が合わず延び延びになっていた。 それが今回たまたま夫氏の予定とうまく噛み合ったので急遽同行するpict-P1030354関空
こととなり、友人 I 氏も誘って夫氏の奥さんともども4人での済州島行となった。

友人 I 氏は既に何度か済州島を訪れているので、初めて行くのは私ひとり。 

私は韓国の民話を手掛けていることもあって、済州島の歴史や文化、とくに人々の生活文化や伝承文化などについて実地に見聞を広めておきたいという希望を持っていたので、今回の旅行は一般観光だけでなく資料を集めると言う取材旅行の意味合いも兼ねたものであった。

関空発AM9時の便だったので、早朝迎えに来てくれた友人 I 氏の車で空港まで。 早朝ということもあったが、関空への道路・阪和道は日中でも空いており、この日は予想した以上に早い到着となり、空港待合ロビーで  I 氏お手製の柿の葉寿司をご馳走になった。 迎えに来てもらった上に大好物の差し入れで大満足。感謝。
pict-kal機内食
空港で落ち合い航空券を頂くことになっていた夫氏夫妻もほどなく到着し、コーリアン・エアーのカウンターでチェックイン。 その後、出国手続きを終えて訪問先でのタバコを仕入れに・・・。 何と、東北の震災で販売中止になっていた銘柄が何箱も置いているではないか。 うーーん、何カートンも買いたいところだが韓国も持ち込み制限があるので仕方なく 1 カートンだけ買った。

関空~済州空港のフライトは 1 時間30分。 釜山へも同じ。 大阪から北海道・千歳空港までのフライトが大体 1 時間50分でソウルへの所要時間も同じであることを思えば、距離的にとても外国とは思えないのが韓国である。 僅かな飛行時間だが大韓航空機内で供された軽食(写真)。 ちらし寿司にフルーツ&コーヒー。
pict-P1030357済州空港
済州空港はターミナルビルの建て替え工事中だったのだろうか。
ビルそのものが新しい感じであったし、ターミナルビル前の道路が工事中であった。

今回の旅行に関する航空券やホテルの手配などは全て夫氏にお願いしてしまった。

pict-P1030358済州空港
お墓詣りなどで済州へは何度も帰っておられるので、お任せした方が良いかと思ってのことであったが、済州滞在中何かと随分お世話になってしまい、済州紀行を書く冒頭で厚くお礼を申し上げておきたい。

済州空港税関ブースを出たところで今回ツアーの手配依頼先の会社の女性職員の出迎えを受け、ホテルまで会社差し回しの車で送り届けてもらい滞在するホテルのチェックインだけを済ませた。
pict-P1030362

私たちのホテルはロベロ(ROBERO HOTEL JEJU
)。

高級ホテルではないが、さりとて低級でもない、韓国のホテルのグレードで言えば中級の1級ホテルに該当するのであろう。

私一人が寝るだけだし、バスタブが付いているので私にとっては充分な部屋であった。

済州島(チェジュド)はリゾート地であり特1級の高級ホテルが幾つもある。 新羅、ロッテ、カル、ラマダ、ハイアット・リージェンシー等など。

済州島は島の中央部に標高1950mの休火山・漢拏山(ハンラサン)がそびえ、この漢拏山
に付随する3百数十ある小さな火山によって成り立つ火山島である。

この島の成り立ちについては別の機会に書くこととして、済州島の中心は島の中央北側の海に面した済州市で
ある。
済州島地図‐2
この済州市の中心が済州エリアで古くから町として開けた地域だが、近年になって開発された地域が新済州エリアで、済州市はこの二つの地域で構成されていると言える。

済州島紀行を書く上で、済州エリアと新済州エリアを含む済州市と、丁度
漢拏山を挟んだ島の南側の海に面した西帰浦(ソギポ)市、それに島の東部と西部というように、済州島を東西南北四つのエリアに分割して記述を進めていきたい。   ※ 西帰浦市は中文(チュンムン)エリアも含む。
pict-P1030363教会
ちなみに私たちのホテル(ロベロ)は済州エリアにある観徳亭(クァンドクチョン)の直ぐ前に位置し、大変交通便の良い所である。 


観徳亭についても後に説明することにし、ホテルの部屋を確認した後、迎えにきてくれた夫氏の親戚にあたる方が運転する乗用車で昼食をとるため新済州エリアへ向かった。

写真はロベロ・ホテルの東南直ぐの所に建つキリスト教会。 韓国では国教かと思えるほどに仏教徒が多く、仮りに100人を対象に信仰する宗教を問えば、おそらく90%以上の人たちは仏教と答えるであろう。 それに次いで多いのがクリスチャンであり、済州市にも立派なキリスト教会が幾つか建っている。
pict-P1030370
済州へ来たのだから海鮮料理をと連れて行ってもらった店は残念ながら定休日。 しかし、運転手で夫氏の親戚にあたる方、30代後半から42、3までと思うが、女性ゆえに年齢のことはココまで。 間違っていたらご容赦願いたい。

ともあれ直ぐに携帯電話で次なる店を問いつつ車を動かし連れて行って頂いたのが写真の店舗。

昼時ということもあったのだろうが結構広い店内は満席。 10数人は入れる二つの部屋のひとつに座ることができたが、そこも既に先客が座っているという状況。
pict-P1030365おかず
この店もそうだが、韓国の食堂は座敷、と言っても日本のように畳を敷いた座敷ではなく昔の板敷の座敷なのだが、そこに座布団を敷いて座り、座卓に料理を並べる店が多い。 街中の店舗では椅子とテーブルという店も多いが、私が調べた限り、こうした洋風スタイルは1945年以降に広まっていったようだ。

多分、解放以降アメリカとの繋がりが密になっていく過程で広がっていったもので、こうした傾向は日本とも似通っていると言えるだろう。

韓国の食堂では注文する料理とは別に先ず『おかず(パンチャン)』が供される。 これについては以前にも書いているが、店によって品も品数も異なるが、どの店でもキムチは必ず出される。 つまり、キムチは韓国の国民食とも言えるもので、昔の日本の家庭で漬けていた『ぬか漬け』と同様、それぞれの家庭の『味』というものがあって、店としては自慢の品物を客に提供するという韓国風の『おもてなし』の表れと理解すれば良いかと思う。
pict-P1030366
この店では、大根のキムチ、ナムル(モヤシ・ほうれん草)、ワカメと大根の和え物、ニンニクの芽の酢漬け、乾燥ワラビの辛味炒め、雑魚と唐辛子の炒り子が出された(ように思う)が、これらのパンチャンはお変わり自由なので酒飲みにとってはこれだけで充分なのだが・・・。

写真は済州マッコリとビール(メクチュ・銘柄はhite
)。
pict-P1030368
キュウリ、ニンジン、ゴマ、ネギ、唐辛子にアラメ、そこへたっぷりのアワビを入れた冷製の汁物なのだが料理名は知らない。

「これは美味い」と夫氏が絶賛していたが、アワビの汁物なのでチョンボックとでも言うのだろうか、機会があれば教えてもらうことにしよう。

私は朝から食べ続けている感じであまり食欲が湧かず、パンチャンとマッコリだけで充分であったが、注文していた次の一品、野菜と共にワタリガ二と沢山のトコブシを煮た鍋物が出されてきて、それを見ただけでもう満腹状態で
あった。 もっとも満腹とは言いつつ、どんな味なのか、それを知る程度には頂いたが、なかなか美味しいものであった。
pict-P1030369
多分、海鮮鍋(ヘムルタン)と呼ぶのだと思うが、韓国語が分からない私には注文してもらっている言葉を聞き分けることもできなかった。

聞いて分かるのはマッコリ、メクチュ、ソジュくらいかな。 つまりマッコリとビールと焼酎ぐらいは酒飲みとしては分かるということである。

同行していた I 氏とホテルのティールームへ行った際、コーヒーを注文するのに『コピ』と I 氏が言ったので、「ええっ?それ何語。」と思わず言葉を発しそうになったが、きっと私が怪訝な顔をしたのであろう、直ぐに I 氏が「韓国語でコーヒーのことを『コピ』と言うんですわ。」と教えてくれたので「ああ。」と納得。 つまり韓国語、それも単語の理解すらこの程度というわけで、初日から夫氏ご夫妻や彼の親族の方、それに同行の
I 氏に大変世話になってしまうことになった。

書き出しが難しかった済州島紀行であるが、以後時間的経緯は無視して気の向いたことをピックアップして綴っていこうと思う。



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June 11, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【43】 終章

前頁でベネディクト会のモンセラット修道院について書き、併せてベネディクト会から派生したシトー派の修道生活を例に挙げ、モンセラット修道院の修道士たちも同様の暮らしをしているのだろうとも書いた。

キリスト苦難の道を自ら実践するという、そのため俗塵を離れた辺鄙な場所に住処を定め、自給自足で信仰を求める修道士たち。 前頁の冒頭には険しく切り立ったモンセラットの山の写真を載せ、修道院と修道士たちの思いや生活ぶりを想像できるようにしたのだが、帰路、異なる方角からモンセラットの山並みを眺めてみれば然程に険しい山でもないなあというのが私の実感であった。
pict-雅宏撮影スペイン(3)018モンセラット
それに加えてスペイン人のガイドは、「修道院は商売がうまく、彼らの生活は豊かである」と語り、その理由として、「黒い聖母が右手に持つ球に触れれば幸せになり願い事が叶う」だとか、「参拝者が多いから寄付も多いし、土産物を売ったりして大儲けしている」といった言葉があったので、モンセラットの山も眺める方向や場所によって感じが変わるように修道院(士)の生活ぶりも・・・物事に本音と建て前があるようなものかと少々落胆。


※ 前頁の写真でも分かるが黒い聖母像全体は透明アクリル板で囲われている。しかし球の部分だけ丸く穴が開けられており、参拝者が触れることができるようになっている。
pict-雅宏撮影スペイン(3)054バルセロナの夕暮れ
ともあれホテルに帰還。 写真はゴシック地区・バルセロナ港あたり(右手)の夕景。

明日は乗り継ぎも含め長い機内時間を過ごさねばならない。

若い頃はシャワーで汗を流すだけでも良かったのだが、今はどこを訪れてもバスタブが無いと疲れが取れたような気がしない。 ヨーロッパは四つ星以上のホテルはバスタブ完備だが三ツ星以下のホテルはシャワーだけのホテルもある。 私たちも随分贅沢になってきたなあと思いつつ湯船で手足を伸ばした。
pict-バルセロナ喫煙スペイン(3)007修整
一夜明けて帰国の途に。

バルセロナ国際空港(L'Aeroport Internacional de Barcelona
)の喫煙ルームで一服。

仕方がないだろう、タバコを吸わない人だっているのだからと、長い年月、世の中の流れに従って来ていたら、何と、あっちもこっちも禁煙・禁煙。 健康を理由に禁煙・嫌煙を主張する人たちも多い。 そうした主張についてはもっともなことと尊重してきたが、近頃の様子はどうだろうか、そうした主張を受けての対応は少々行き過ぎではないかと私は思い始めているのだが・・・
pict-雅宏撮影スペイン(3)029バルセロナ空港(1)
スペインにしろポルトガルにしろイベリア半島への関空からの直行便はない。 北回りだとヘルシンキ、フランクフルト、アムステルダム、パリなどでの乗り継ぎとなる。
pict-雅宏撮影スペイン(3)036マルセイユ上空(1)
今回はルフトハンザ航空を利用したのでフランクフルト経由関空が最短コースとなり、バルセロナ空港を飛び立ったLD機は地中海を越えてフランスのマルセイユ東方上空へと向かう。

写真中央やや上の広い湾に面して広がるのはマルセイユの町であり、湾内に横一の字のように並ぶ島はラトノー島(右上)とポメーグ島(左手)であり、ラトノー島の右端に小さく『イフ島(シャトー・ディフ)』
も見える。

シャトー・ディフはマルセイユ港の直ぐ外にある要塞でもあり牢獄でもあった島だが、16世紀中期から後期にかけてフランスで起きた宗教改革に関わる内戦ではプロテスタントが多数閉じ込められたし、その後も政治犯などが幽閉された。

日本では『岩窟王』という題名の『モンテ・クリスト伯』はアレクサンドル・デュマ・ペール(Alexandre Dumas père)の小説で、主人公のエドモン・ダンテスが投獄された牢獄が、この
シャトー・ディフである。
pict-雅宏撮影スペイン(3)040アルプス上空(3)
LD機はフランス・イタリア国境付近を北へ飛び、やがてアルプスを見下ろしながらスイスのベルン上空を経てドイツのフランクフルト国際空港(Flughafen Frankfurt am Main)に着陸する。


ここで関空行きの飛行機に乗り換えである。

フランクフルト空港は大きい空港だが何度か利用しているので迷うこともない。

しかし関空・フランクフルト間が凡そ12時間、フランクフルト・バルセロナ間が凡そ2時間、それにトランジット、つまり通過のために要する時間が3~4時間。 1日=24時間の大半を機内か空港施設で過ごすわけで、年とともに疲れがひどくなってきている。

pict-雅宏撮影スペイン(3)047フランクフルト空港(1)
出張仕事で行き来が多い人たち、飛行機の乗務を仕事としている人たち、彼らはタフでなければ勤まらないだろうと思う。 今の私にはとてもじゃないが出来ない仕事だと思う。

私はスチュワーデスの方が耳に慣れているが、最近はフライト・アテンダントと呼ぶ職業の女性、彼女たちはどの方も皆スマートで美人である。 その華奢とも言える体つきで、よくまあ長時間勤務をこなしているものだと常々感pict-雅宏撮影スペイン(1)321ヴァルスタイナー心するばかりなのである。


ルフトハンザ機に乗れば、そうしたお嬢さんに運んで頂くヴァルスタイナーを飲んで、うつらうつら居眠ることを楽しみとしている。

ヴァルスタイナーは少し苦味があるピルスナーで、デュッセルドルフやケルンに近い辺りのビール。 ホップの苦味が効いて、最近はやりの辛口とかドライに対しては若干重めと言えるかもしれないが私の好みである。


旅行記を書き上げるのに今回は半年以上もかかってしまった。 先月に行った韓国・済州島紀行についても手掛けねばと思いつつ『貧乏暇なし』とはよく言ったもの。 まあぼちぼちかかりまっさ。





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June 09, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【42】 バルセロナ(Ⅵ)

さて、今回の旅行も終わりに近づき、最終の訪問地モンセラット(Montserrat)に向かうことにした。

モンセラットをモンセラートと表記してあるガイドブックもあるが、現地の人たちの発音を聞くと、『Montserrat』の初めの『t』は発音せず、『ra』にアクセントをおき、『rra』を巻き舌のように、そして『rrat』の『t』を破裂音として言っているように聞こえたので私はモンセラットと表記する。
pict-雅宏撮影スペイン(3)009モンセラット






『Montserrat』とは、『monte』『montaña』山とか山岳という意味の言葉に『sierra』(鋸・のこぎり)という言葉をつけて「鋸のようにギザギザの山」という複合語になっているらしい。  sierraはフランス語のscieで似ている。 ちなみに英語ではsawだが。
pict-雅宏撮影スペイン(3)144
バルセロナからはE9号線(欧州自動車道・モンセラット高速道)或いはバルセロナ自動車道で北西方向に1時間ほど走った辺りにモンセラットはある。 距離にすれば60km程度だろうか。

モンセラットの標高は1235mらしいが、その中腹にベネディクト会のモンセラット・サンタ・マリア修道院(El monasterio de Santa Maria de Montserrat)と付属の大聖堂がある。

麓の町からはケーブルカーでも登ってこれるし自動車道路も整備されており、高低差は大きいとは言えないが、かなりの傾斜角度があるため交通機関が発達していなかった昔の登山は相当な苦労が伴ったであろうと思う。
pict-雅宏撮影スペイン(3)002
ベネディクト会については、これまでにも何度か触れてきているが、『ヌルシアのベネディクトゥス』(Benedictus de Nursia)を創始として6世紀初めに修道会則をもとに制度化された集団修道生活を行う団体で、以後幾つかの会派に分かれるが、修道会の草分け的集団と理解して良いだろう。

ベネディクトゥスが提唱する以前からエジプトなどで修道士・修道女が修道する場はあったようだ

「祈り、かつ働け」をモットーにするベネディクト修道院は、キリストの歩pict-雅宏撮影スペイン(3)143モンセラットんだ厳しい道を思い、定住・貞潔・質素・服従といった厳しい戒律を修道士・女に課した。 この厳しい戒律をもとに起床は午前2時。その後、何度かの祈りや学習(読書など)に6~7時間、畑仕事などの労働に7~8時間を充てるという自らを律する暮らしをしていることを以前シトー派の修道院を訪れた折に聞いたことがある。

シトー派というのはベネディクト会から分派した修道会で、キリスト苦難の道に沿って清貧をもって信仰を求める集団ゆえ、修道院の設置場所は俗世間と切り離した場所に求め、自給自足の修養生活を行うことを柱としている。

モンセラットのベネディクト会のサンタ・マリア修道院での生活がどのようなものか尋ねはしなかったが、大きく異なることはないと思う。

モンセラットのサンタ・マリア修道院の駅から更にケーブルカーで山上のサン・ジョアン展望台まで登ることができる。 私たちは行かなかったが山上には修道士が住んでいた祈祷庵などがあるそうで、それらをぐるりと巡ることができるらしい。 白っぽい肌色の岩山を眺めていると、何となく日本の山岳信仰における行場のような感じがしたのだが・・・
pict-雅宏撮影スペイン(3)139この山の岩を遠望していると花崗岩が風化しているように思えたのだが、ガイドブックには堆積岩であると記されていた。

更に調べてみると、大昔、海底に堆積した礫岩などと共に海水中のサンゴのような生物死骸も共に堆積。 地中の巨大な圧力と高熱の作用で石灰質が接合の働きを為して押し固められ、その堆積層がアルプスやピレネーの造山運動で隆起し、その後何万年もの侵食作用を受けて現在の状態に至っているのだと。

ところで、現在のサンタ・マリア修道院は、元々山上に設けられた修道僧の庵であったらしく、同じカタルーニャ州のサンタ・マリア・デ・リpict-雅宏撮影スペイン(3)137モンセラットポイ(El Monasterio de Santa Maria de Ripoll)の分院であったらしい。

しかし、『黒い聖母(ヌエストラ・セニョラ・デ・モンセラート、Nuestra Señora de Montserrat)』の信仰が高まり参詣者が増えることによって修道院の勢力が増し、1410年にはリポイの修道院とは分離することになった。


※ 写真はモンセラット・サンタ・マリア修道院と付属の大聖堂。

修道院は参詣者が多く、修道院付属の大聖堂も建設(14世紀~19世紀初め)された。
pict-雅宏撮影スペイン(3)147モンセラット
写真は大聖堂のファサード。

やがて、スペイン独立戦争(1811年、1812年)で修道院はフランスのナポレオン軍によって破壊され、その後荒廃が続き、スペイン内戦(1836~1839年)時には修道院が閉鎖されるという不運が続いた。
pict-雅宏撮影スペイン(3)150モンセラット

大聖堂内部の礼拝堂。











pict-雅宏撮影スペイン(3)152黒いマリア聖母マリアは膝にキリストを抱え乗せ、右手は球を持っている。

金箔を張ってるので黄金色に見えるが、顔も足も皮膚の色は黒い。

なぜマリアの体が黒いのかは諸説あり、いずれを信じれば良いのか分からない。

幼いキリストが右手を挙げて祝福しているのは分かるが、マリアがどうして球体を右手で支え持っているのか分からなかった。

しかし後で聞くと、球は地球を表しているのだと。 これで何となく納得。
pict-雅宏撮影スペイン(3)155モンセラット殉教者に対する慰霊の灯だったろうか。

沢山のローソクが立てられてあったのだが、何故多くのローソクが献じられているのか、これの意味は分からなかった。



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June 08, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【41】 バルセロナ(Ⅴ)

アント二・ガウディの作品群・サグラダ・ファミリアやグエル公園を紹介してきたが、サグラダ・ファミリアは大きく立派な建物なのでバルセロナのカテドラルかと思ったほどであった。 しかし、バルセロナには中世以来の大聖堂が存在する。

バルセロナのカテドラルは、サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂(La Catedral de la Santa Creu i Santa Eulàlia)と言う。

説明によると、大聖堂の建っている場所にはローマ帝国がキリスト教を国教とした西暦313年以前既に小規模の教会があったらしく、西ゴート王国の時代にも使われていたが、その教会はイスラム勢力が侵攻してきた986年に破壊されたという。
pict-雅宏撮影スペイン(3)099カテドラル
大聖堂は1058年に再建されたが、現在の建物は1298年から150年かけて建設されたゴシック様式の立派なカテドラルである。

写真はバスの車内から撮影したもの。

大聖堂の外側は修理のための工事が行われていたが、礼拝堂に入ることはできた。 ところが持参したデジカメのメモリーカード容量がいっぱいになっていたので大聖堂の他の写真が無い。

とても素晴らしい教会なので写真を見ることのできるページを紹介しておきたい。

サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂
(リンク先はフリー百科事典ウィキペディア・・・マウスで青字をクリックするか、右クリックで『リンクを新しいウィンドウで開く』をクリックする)
pict-雅宏撮影スペイン(3)105カサ・ミラ修整この建物はカサ・ミラ(Casa Milà)。

Casaはスペイン語で家の意味。  Milàというのは、この場合は実業家のペレ・ミラ(Pelé Milà)氏のこと。 つまり、ミラ氏邸と言える。

ガウディが地中海をイメージして設計したと言われているが、柔らかな曲線は波を表しているのだろうか、1910年の完成である。

次の写真の真ん中の建物はカサ・バトリョ(Casa Batlló)。 バトリョ邸である。

バトリョは、ジュゼップ・バッリョ・イ・カザノバスという実業家で、その彼の依頼を受けてガウディが改築の設計を行ったもの。 完成は1906年である。
pict-雅宏撮影スペイン(3)104カサ・パトリョ(2)また左側の屋根の形が階段状になっている建物は、カサ・アマトリェール。

ジョセップ・プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch)の設計である。

カサ・ミラ、カサ・バトリョ、そしてカサ・アマトリェールも全てグラシア通り(Passeig de Gràcia)に面して建っており、グラシア通りはカタルーニャ広場でランブラス通り(La Rambla
)につながる。

ランブラス通りは旧市街(ゴシック地区)の北西部から南部の港近くに建つコロンブスの塔までの道で、道路の両サイドに歩道、その内側に車道、その車道に挟まれるように街路樹が並ぶ広い歩行者専用帯が設けられている。

この歩行者専用帯に沢山の店が並び、それが夜遅くまで店を開いているので一日中人の動きが絶えない賑やかな通りである。

カタルーニャ広場に面してはエル・コルテ・イングレスなどのデパートが並び、おしゃれな店が軒を連ねている。
カサ・リュオ・モレラ(2)
この広場から続くグラシア通りは広い歩道に面してシャネルやルイ・ヴィトンなど有名ブランド店が店を構えているため、この道も人が絶えない。 

写真はグラシア通りとクンセイ・デ・セン通りが交差する角にあるスペインの高級ブランド、ロエべ(LOEWE)のバルセロナ店。

※ 写真は日西観光協会、LOEWEのページより

この建物はカサ・リュオ・モレラ(Casa lleo Morera)と言うが、ドメネク・イ・モンタネール(Lluís Domènech i Montaner)の設計によるもので1864年に完成している。

ドメネク・イ・モンタネールはバルセロナの建築学校の教授としてモデルニスモに大きい影響を与えたが、アント二・ガウディはモンタネールが教授時代の教え子であった。

私は土産物を買わない主義(ほとんど)だが、家内は逆で、スペインへ来たならスペインの物をとロエべの店にpict-雅宏撮影スペイン(3)021バルセロナ・バル
勇んで入店。 しかし高いと思ったのだろう、逡巡していたが息子のためにマフラーを買ってやっていた。

「私のマフラーなら10数本帰るでえ。」とは言わなかったが・・・

カタルーニャ広場に近い某バルに入った。 家内は少食なのでバルでの一品料理をちょこっとつまむだけで夕食を済ませることができる、言わば特技の持ち主なのである。

バルの料理内容は店によってまちまちだし、一品の量もまちまち。 しかし、だいたい二口か三口で食べきれる量で価格が安いことが、いずれの店でも共通して言えることである。

私がワインとビール、家内はワインだけ、それに料理を4皿。 安い安い、日本の屋台の6掛け程度だったように思うが、即席つめこみのスペイン語を駆使して家内が注文から精算までしてくれた。




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June 07, 2011

ポルトガル・スペインを巡る 【40】 バルセロナ(Ⅳ)

19世紀(1890年代)から20世紀(1910年代)にかけてヨーロッパではアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)という芸術様式が大流行した。 しかし、アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)を一言で簡単に説明するなど美術史家でも美術評論家でもない私には無理なこと。

だが、フランス語のアール(Art)は英語でも綴りは同じでアート、スペイン語でも(Arte)と、よく似ている。 またフランス語のヌーヴォー(Nouveau)はスペイン語の(Nuevo)、英語の(New)であるから意味としては何となく分かるが詳しくは「ワカラン」と言うほかない。 

ただアール・ヌーヴォーを代表するものとして、エミール・ガレ(Charles Martin Émile Gallé)のガラス作品であるとか、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)やエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)らの絵がそうだと言ってくれれば何となく感覚的には理解できるのだ。
pict-雅宏撮影スペイン(3)127そうしたアール・ヌーヴォーと同様のものをカタルーニャ地方ではモデルニスモ(Modernismo)、英語だと(Modernism)と呼び、建築において代表的なものがガウディのサグラダ・ファミリアなのだと

ふーーん、・・・・・

このモデルニスモが良いか悪いか、好きか嫌いかは別にして、バルセロナにはアント二・ガウディの作品が多く残っており、ガウディ作品群として世界遺産にも登録されているので、その幾つかを写真で紹介することにする。

pict-雅宏撮影スペイン(3)125写真はグエル公園から工事中のサグラダ・ファミリアを眺めたも
の。

このグエル公園のグエルとはエウゼビ・グエイ・イ・バシガルピ(Eusebi Güell i Bacigalupi Comte de Güell)氏のことで、カタルーニャ語ではグエイ、スペイン語(カスティーリャ語)ではグエル、実業家で政治家でもあった大富豪で、ガウディのパトロンでもあった。

ガウディとグエルはバルセロナの町を見下ろせるこの地に芸術と自然が調和した町を作ろうと、道路を作り60戸の分譲住宅を建設して販売した。
pict-雅宏撮影スペイン(3)110
しかし、売れたのはガウディとグエルが買った、たったの2軒だけだったとか。

その後グエル氏が亡くなってから土地、施設がバルセロナ市に寄贈され、現在は公園として人々に開放されている。 

回廊。
pict-雅宏撮影スペイン(3)118修整




カメレオンの噴水。





pict-雅宏撮影スペイン(3)119










pict-雅宏撮影スペイン(3)122波の中にいるような・・・回廊。

pict-雅宏撮影スペイン(3)116





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