July 2011
July 28, 2011
夏の我が家
春に植えた草花が花を咲かせ実を成らせているものもある。
30年も以前、我が家には八重桜、木蓮、モチノキ、もみじ、桃、レンギョウ、土佐ミズキ等々多くの木々が植わっており、更に私が沢山の鉢植えの皐月を世話していた。
皐月は様々な品種を揃え、その鉢植え総数は百数十鉢にのぼっていた。 若木を除き、樹齢は30年から80年のものが多く、当時の我が年齢よりも遥かに上の樹木が多くあった。
しかし、学生の小遣い稼ぎに協力しようと、私たち家族が旅行する夏の1週間だけ皐月の水やりを依頼した。
勿論、水やりの時間帯や水やりの量や仕方まで教えておいたのだが、結果として皐月は全滅に近い悲惨な状況に。 選定後に芽吹いた新芽が茶色に変わり、鉢の鹿沼土はカラカラでポロポロ。
その後、我が家の土地造成工事を行い、全面コンクリート地盤にしたため土面が無くなったこともあったりで、私は鉢植えをやめていた。
そんな経緯もあって、現在我が家の鉢植えの花の植栽は家内が日課のひとつとして楽しんでいる。
狭い庭ではあるが色とりどりの花を花や鉢の規模に合わせて上手に配置し、なかなか上手に管理している。
そんな中、私は日除け代わりに朝顔とゴーヤ(レイシ)をプランターに植えて、縁側に葭簀(よしず)状のツル垣を作ったり、簡単に栽培できる食用野菜を育てたりしている。
食用野菜と言っても、ほんとうに手間暇かけるひ必要のないものばかりで、シソ、イタリアンパセリ、ミツバ、バジル、ラディッシュ、ペパーミント、赤唐辛子、それにローズマリーと山椒の木は鉢植えにしている程度。
夏の太陽は高いし、縁側の庇が長いので直射日光が入ってくることはないのだが、朝顔とゴーヤ(レイシ)の緑のカーテンは入ってくる風を涼しいものにするし、その色合いが清涼感をもたらせてもくれる。
今は写真のように色、模様などいろんな朝顔の花が咲くし、ゴーヤも黄色い花を咲かせ、そのあと日に日に実を大きくふくらませてもいる。
ゴーヤは既にひとつ収穫を終えたが立派に成長していた。
食用にするつもりではなかったのだが、せっかくなので・・・
ただ困るのはチョウチョの青虫である。
成虫になれば綺麗な羽で飛び交い気持ちを和ませてくれはするのだが、山椒の葉にはアゲハチョウが。 ラディッシュにはモンシロチョウが卵を産み付けに飛んでくる。
アゲハチョウの幼虫は茶色と白の斑模様の体でムシャムシャ葉を食べ続け、数年前には山椒の木を1本枯死させてしまったし、モンシロチョウの幼虫である青虫はラディッシュの葉を食べ荒らすために赤く丸く太るはずのものが太ることもなく枯れてしまう。
お前たちに食べさせるために植えてるわけやないと青虫を見つけるたびに可哀想やなあと思いつつも摘まんでポイ。
しかし、適もさる者。 見事な擬態。 ラディッシュの葉っぱの色と寸分変わらない保護色。 葉縁でムシャムシャ食べてる時は見つけやすいが、葉柄から葉身に伸びる葉脈の主軸の上に並ばれると、葉を横からの視点で膨らみ具合から発見しない限り見落とすこと必定。
そうなると明くる日には何枚かの本葉が葉脈の主軸を残して消えてしまうのである。
赤唐辛子も綺麗に色づいたので収穫。
いずれもまだまだ実が大きくなりつつある。
夏はまだ始まったばかりのようだ。
30年も以前、我が家には八重桜、木蓮、モチノキ、もみじ、桃、レンギョウ、土佐ミズキ等々多くの木々が植わっており、更に私が沢山の鉢植えの皐月を世話していた。
皐月は様々な品種を揃え、その鉢植え総数は百数十鉢にのぼっていた。 若木を除き、樹齢は30年から80年のものが多く、当時の我が年齢よりも遥かに上の樹木が多くあった。
しかし、学生の小遣い稼ぎに協力しようと、私たち家族が旅行する夏の1週間だけ皐月の水やりを依頼した。
勿論、水やりの時間帯や水やりの量や仕方まで教えておいたのだが、結果として皐月は全滅に近い悲惨な状況に。 選定後に芽吹いた新芽が茶色に変わり、鉢の鹿沼土はカラカラでポロポロ。
その後、我が家の土地造成工事を行い、全面コンクリート地盤にしたため土面が無くなったこともあったりで、私は鉢植えをやめていた。
そんな経緯もあって、現在我が家の鉢植えの花の植栽は家内が日課のひとつとして楽しんでいる。
狭い庭ではあるが色とりどりの花を花や鉢の規模に合わせて上手に配置し、なかなか上手に管理している。
そんな中、私は日除け代わりに朝顔とゴーヤ(レイシ)をプランターに植えて、縁側に葭簀(よしず)状のツル垣を作ったり、簡単に栽培できる食用野菜を育てたりしている。
食用野菜と言っても、ほんとうに手間暇かけるひ必要のないものばかりで、シソ、イタリアンパセリ、ミツバ、バジル、ラディッシュ、ペパーミント、赤唐辛子、それにローズマリーと山椒の木は鉢植えにしている程度。
夏の太陽は高いし、縁側の庇が長いので直射日光が入ってくることはないのだが、朝顔とゴーヤ(レイシ)の緑のカーテンは入ってくる風を涼しいものにするし、その色合いが清涼感をもたらせてもくれる。
今は写真のように色、模様などいろんな朝顔の花が咲くし、ゴーヤも黄色い花を咲かせ、そのあと日に日に実を大きくふくらませてもいる。
ゴーヤは既にひとつ収穫を終えたが立派に成長していた。
食用にするつもりではなかったのだが、せっかくなので・・・
ただ困るのはチョウチョの青虫である。
成虫になれば綺麗な羽で飛び交い気持ちを和ませてくれはするのだが、山椒の葉にはアゲハチョウが。 ラディッシュにはモンシロチョウが卵を産み付けに飛んでくる。
アゲハチョウの幼虫は茶色と白の斑模様の体でムシャムシャ葉を食べ続け、数年前には山椒の木を1本枯死させてしまったし、モンシロチョウの幼虫である青虫はラディッシュの葉を食べ荒らすために赤く丸く太るはずのものが太ることもなく枯れてしまう。
お前たちに食べさせるために植えてるわけやないと青虫を見つけるたびに可哀想やなあと思いつつも摘まんでポイ。
しかし、適もさる者。 見事な擬態。 ラディッシュの葉っぱの色と寸分変わらない保護色。 葉縁でムシャムシャ食べてる時は見つけやすいが、葉柄から葉身に伸びる葉脈の主軸の上に並ばれると、葉を横からの視点で膨らみ具合から発見しない限り見落とすこと必定。
そうなると明くる日には何枚かの本葉が葉脈の主軸を残して消えてしまうのである。
赤唐辛子も綺麗に色づいたので収穫。
いずれもまだまだ実が大きくなりつつある。
夏はまだ始まったばかりのようだ。
July 27, 2011
お酒と料理、それに猪口。
この暑い時期、割烹でも居酒屋でも冷たい生ビールや冷酒、或いは焼酎の水割りを飲む人たちを多く見かける。
私もビールは飲むのだが、お店でも自宅でも量としては中瓶を1本程度(350ml缶なら2缶)が通常である。 理由は『腹が張る』という単純なことだが、美味しい食事を頂けなくなることが残念に思えるからなのだ。
私は、フカや笊(ザル)と呼ばれるほどの大酒呑みではないが、一般的に強いと呼ばれる人たちのグループに入れられているようだ。 勿論、酒を飲まないと思考・判断も出来ないアル中ではないし、塩をなめるだけで酒をグビグビ呑むという酒呑みでもない。
説明すると長くなるので簡単に書けば、美味しい料理を一層美味しく頂くためにお酒の力を借りているということになろうか。
だから、お酒はビールの場合もあれば日本酒(燗酒・冷酒)、焼酎やワインの場合もある。
ビールや焼酎、ワインについては他の機会に書くことにして、日本酒に関わって少し書いてみよう。
私が好きなのは日本料理だが、日本料理と呼ばれるものには日本酒が最もよく合うと私は思っている。
日本料理とか日本酒などと、かなり広い範囲で総括りに表現するのは少々無理な面がないではない。 日本料理と言っても古来日本で用いられてきた素材だけでなく、昔には用いられなかったものを使ったり、流通技術の発展によって世界中から新しい素材を取り寄せ日本料理として調理し提供されてもいるのだから、そうしたことも含め広い範囲で日本料理の伝統を生かして調理され提供される料理と考えることとする。 同様に、日本酒の場合も醸造化学と技術の発展によって様々な味わい、香り、色調を持つものが生まれ流通しているが、これらも個々の特徴に拘らず日本酒として扱いたい。
写真の料理は某料理屋の先付として提供されたものだが、牛肉をローストしたものを薄切りにして茗荷や他の菜を巻き、マヨネーズ風のソースとバルサミコ酢をベースにしたソースを添えた夏向きの料理である。
この素材である牛肉は明治期以前は特定の人たちが食したもので日本料理の一般的素材とは言えないものであるし、マヨネーズはフランス料理におけるソース、バルサミコ酢はイタリアの醸造酢であることを思えば日本料理の範疇に含むかどうかビミョーとも言える。
煮物椀は穴子しんじょう、椎茸、きぬさや、青柚子。
私には、ビールは煮物椀までの飲み物。
造りにしろ、焼き物にしろ、八寸にしろ、炊き合わせにしろ、これらの料理には、やはり日本酒が私には合う。
炙りサンマ、生うに、マグロ(とろ)、鱧湯引き。
この日は冷酒(春鹿)を2合徳利で頂いた。
新しい料理を口にする前に猪口の酒を頂くのは新鮮な感覚で味わうということもあるが、そのお酒の持つ僅かだが柔らかな甘みが一層料理の味わいを高めるように私には感じられる。
が、下戸、つまり酒を飲まないで料理を楽しむ人もいるから私の感じ方を一般化することはできない。 しかし、やっぱりお酒をひと口入れる方が私には美味しいように思えるのだ。
ではビールなら、実際ビールを飲みつつ造りを食べている人もいるからビールでも良いのでは・・・
なるほど、そう言われれば「うーん?」と首を傾げざるを得ないが、やはり好みだということになるのだろう。
私にはお造りの切り身を単にビールで流し込んでいるようにしか思えないのだが。 味わいは???
ビールは別の機会でと書いたのでその時に書くとして、自宅での晩酌の際には燗酒の温度にも猪口にも私の好みがある。
写真の『ぐい飲み』は、萩焼(金本明夫 氏 ・ 盤石窯 ・ 長門市湯本)であるが、容量、口当たり、持ち応え感、色合いなど、私のお気に入りのひとつである。
お気に入りと言えば、暑さ嫌いの私ではあるが、真夏に熱い、それも辛いカレーうどんを食べるのが好きである。 素麺も煮麺(にゅうめん)をどちらかと言えば好む。
暑さ嫌いと言っても日本の蒸し暑さが嫌いであって、赤道直下で40度もの気温があったとしてもカラッとした暑さは嫌いではない。
それはともかくとして、お酒は夏でも熱燗が好きだし、ホットミルクなみに5~60度くらいの温度にしている。(当然、安物の日本酒だが)
上は丹波立杭焼(市野忠作 作 ・ 忠作窯)の『ぐい飲み』。
焼き締め製法で窯変が気に入って随分以前に買ったものである。
気に入れば価格などは関係ない。 もっとも腹の肉は豊かでも懐が豊かであるというわけではないので上限というものは自ずと決まっているが、『ぐい飲み』程度の大きさならば子ども達が戴くお年玉でも買える値段である。
いくつか好みの『ぐい飲み』を紹介しよう。
左は朝鮮唐津。
唐津焼の鶴田豊巳氏(日在窯)の作品。
黒釉に海鼠釉をかけて焼く時に出る模様と色合いが面白く好んで用いているものである。
これは一見萩焼と分かる焼き物。
長門市湯本の盤石窯 、金本明夫 氏の作品である。
彼とは長門市の割烹で出会って以後何度か一緒に飲み食いし、その後に彼の盤石窯を訪れた。
土をひねる作業場であるから会社の事務所のようにお世辞にも綺麗とは言えない所であったが、彼の多くの作品が無造作に積み並べてあった。 だいたいの作品傾向、私の好めるものが多かったので我が家の生活食器を『おまかせ』で送ってもらったことがあり、今も使わせてもらっている。
左は誰かに頂いたものだが、多分備前焼の猪口である。 しかし、底の刻印が読み取れないので作家も窯も正確には分からない。
ただ、焼き物のプレゼントなので私の好みを知っている人がくれたのに違いないから備前に間違いはないと思う。
焼き締めでオモロイ窯変もあって好きではあるが、小さ目の猪口なので使い勝手としてはイマイチ。
最近好んで使っているのが下の沖縄・壺屋焼の杯である。
韓国・済州島へも一緒に行った某寿司店の主人だが、或る日私がお店を訪れお酒を注文すると、「〇〇さん、どちらで飲みますか?」と木箱を二つ私に渡してくれたのである。 「どっちか、お好きな方をあげますわ、使って下さい。」と。
中身も分からないまま戴くのもどうかと思いつつ、「おおきに、なら1つ頂戴しますわ。」と言って箱の蓋を開けると写真の杯が。
「ええっ? これを戴けるのですか? これは金城次郎さんの作品ですよ。」
これには私も驚いてしまった。
もう随分、20年も前になるだろうか、岡山の義姉の家を訪れた時に河井寛治郎や富本憲吉らの作品とともに金城次郎の作品などが極く普通の食器として使われていたのに驚いたことがあって以来の巡り合いだったのだ。
金城次郎氏は人間国宝に認定され、7,8年前に亡くなられているから彼の新たな作品は生まれ得ない。 いわば貴重な遺作である。
そのことを言った上で、「ほんまに頂けるんですか。」と、改めて確かめなければならないほど、私には手に入れることのできなかった物であったのだ。
「どうぞ使うて下さい。使うて何ぼのものでんがな。」と。
断る理由なんか私にはない。 むしろ進んで、下さい、いや、譲って下さいと言うべきものであった。
もう一つの木箱には、清水保孝氏の天目釉の杯に煌めく星が散りばめられたように釉がガラス質となり綺麗な模様を生み出している。(下の写真)
清水保孝氏は人間国宝・清水卯一氏の長男で私の後輩になる。
欲張りな私は「これも」、と願ったが、主曰く「この満天の星のような、これが好きですねん。これは譲れまへん」と。
やはり金城次郎氏の作品をと願い、我が家では頂いた金城氏の杯で熱燗を楽しんでいる。
この寿司店では清水保孝氏の杯で熱燗を楽しませてもらっており、言うなれば『マイ チョコ』(my sake cup)でんな。
好みの杯(ぐい飲み)で飲めば如何なる酒も美味くなる。
北大路魯山人は「器は料理の着物」やと。 「馬子にも衣裳」という俚諺もある。
ふふーーん、言い得て妙なり。
私もビールは飲むのだが、お店でも自宅でも量としては中瓶を1本程度(350ml缶なら2缶)が通常である。 理由は『腹が張る』という単純なことだが、美味しい食事を頂けなくなることが残念に思えるからなのだ。
私は、フカや笊(ザル)と呼ばれるほどの大酒呑みではないが、一般的に強いと呼ばれる人たちのグループに入れられているようだ。 勿論、酒を飲まないと思考・判断も出来ないアル中ではないし、塩をなめるだけで酒をグビグビ呑むという酒呑みでもない。
説明すると長くなるので簡単に書けば、美味しい料理を一層美味しく頂くためにお酒の力を借りているということになろうか。
だから、お酒はビールの場合もあれば日本酒(燗酒・冷酒)、焼酎やワインの場合もある。
ビールや焼酎、ワインについては他の機会に書くことにして、日本酒に関わって少し書いてみよう。
私が好きなのは日本料理だが、日本料理と呼ばれるものには日本酒が最もよく合うと私は思っている。
日本料理とか日本酒などと、かなり広い範囲で総括りに表現するのは少々無理な面がないではない。 日本料理と言っても古来日本で用いられてきた素材だけでなく、昔には用いられなかったものを使ったり、流通技術の発展によって世界中から新しい素材を取り寄せ日本料理として調理し提供されてもいるのだから、そうしたことも含め広い範囲で日本料理の伝統を生かして調理され提供される料理と考えることとする。 同様に、日本酒の場合も醸造化学と技術の発展によって様々な味わい、香り、色調を持つものが生まれ流通しているが、これらも個々の特徴に拘らず日本酒として扱いたい。
写真の料理は某料理屋の先付として提供されたものだが、牛肉をローストしたものを薄切りにして茗荷や他の菜を巻き、マヨネーズ風のソースとバルサミコ酢をベースにしたソースを添えた夏向きの料理である。
この素材である牛肉は明治期以前は特定の人たちが食したもので日本料理の一般的素材とは言えないものであるし、マヨネーズはフランス料理におけるソース、バルサミコ酢はイタリアの醸造酢であることを思えば日本料理の範疇に含むかどうかビミョーとも言える。
煮物椀は穴子しんじょう、椎茸、きぬさや、青柚子。
私には、ビールは煮物椀までの飲み物。
造りにしろ、焼き物にしろ、八寸にしろ、炊き合わせにしろ、これらの料理には、やはり日本酒が私には合う。
炙りサンマ、生うに、マグロ(とろ)、鱧湯引き。
この日は冷酒(春鹿)を2合徳利で頂いた。
新しい料理を口にする前に猪口の酒を頂くのは新鮮な感覚で味わうということもあるが、そのお酒の持つ僅かだが柔らかな甘みが一層料理の味わいを高めるように私には感じられる。
が、下戸、つまり酒を飲まないで料理を楽しむ人もいるから私の感じ方を一般化することはできない。 しかし、やっぱりお酒をひと口入れる方が私には美味しいように思えるのだ。
ではビールなら、実際ビールを飲みつつ造りを食べている人もいるからビールでも良いのでは・・・
なるほど、そう言われれば「うーん?」と首を傾げざるを得ないが、やはり好みだということになるのだろう。
私にはお造りの切り身を単にビールで流し込んでいるようにしか思えないのだが。 味わいは???
ビールは別の機会でと書いたのでその時に書くとして、自宅での晩酌の際には燗酒の温度にも猪口にも私の好みがある。
写真の『ぐい飲み』は、萩焼(金本明夫 氏 ・ 盤石窯 ・ 長門市湯本)であるが、容量、口当たり、持ち応え感、色合いなど、私のお気に入りのひとつである。
お気に入りと言えば、暑さ嫌いの私ではあるが、真夏に熱い、それも辛いカレーうどんを食べるのが好きである。 素麺も煮麺(にゅうめん)をどちらかと言えば好む。
暑さ嫌いと言っても日本の蒸し暑さが嫌いであって、赤道直下で40度もの気温があったとしてもカラッとした暑さは嫌いではない。
それはともかくとして、お酒は夏でも熱燗が好きだし、ホットミルクなみに5~60度くらいの温度にしている。(当然、安物の日本酒だが)
上は丹波立杭焼(市野忠作 作 ・ 忠作窯)の『ぐい飲み』。
焼き締め製法で窯変が気に入って随分以前に買ったものである。
気に入れば価格などは関係ない。 もっとも腹の肉は豊かでも懐が豊かであるというわけではないので上限というものは自ずと決まっているが、『ぐい飲み』程度の大きさならば子ども達が戴くお年玉でも買える値段である。
いくつか好みの『ぐい飲み』を紹介しよう。
左は朝鮮唐津。
唐津焼の鶴田豊巳氏(日在窯)の作品。
黒釉に海鼠釉をかけて焼く時に出る模様と色合いが面白く好んで用いているものである。
これは一見萩焼と分かる焼き物。
長門市湯本の盤石窯 、金本明夫 氏の作品である。
彼とは長門市の割烹で出会って以後何度か一緒に飲み食いし、その後に彼の盤石窯を訪れた。
土をひねる作業場であるから会社の事務所のようにお世辞にも綺麗とは言えない所であったが、彼の多くの作品が無造作に積み並べてあった。 だいたいの作品傾向、私の好めるものが多かったので我が家の生活食器を『おまかせ』で送ってもらったことがあり、今も使わせてもらっている。
左は誰かに頂いたものだが、多分備前焼の猪口である。 しかし、底の刻印が読み取れないので作家も窯も正確には分からない。
ただ、焼き物のプレゼントなので私の好みを知っている人がくれたのに違いないから備前に間違いはないと思う。
焼き締めでオモロイ窯変もあって好きではあるが、小さ目の猪口なので使い勝手としてはイマイチ。
最近好んで使っているのが下の沖縄・壺屋焼の杯である。
韓国・済州島へも一緒に行った某寿司店の主人だが、或る日私がお店を訪れお酒を注文すると、「〇〇さん、どちらで飲みますか?」と木箱を二つ私に渡してくれたのである。 「どっちか、お好きな方をあげますわ、使って下さい。」と。
中身も分からないまま戴くのもどうかと思いつつ、「おおきに、なら1つ頂戴しますわ。」と言って箱の蓋を開けると写真の杯が。
「ええっ? これを戴けるのですか? これは金城次郎さんの作品ですよ。」
これには私も驚いてしまった。
もう随分、20年も前になるだろうか、岡山の義姉の家を訪れた時に河井寛治郎や富本憲吉らの作品とともに金城次郎の作品などが極く普通の食器として使われていたのに驚いたことがあって以来の巡り合いだったのだ。
金城次郎氏は人間国宝に認定され、7,8年前に亡くなられているから彼の新たな作品は生まれ得ない。 いわば貴重な遺作である。
そのことを言った上で、「ほんまに頂けるんですか。」と、改めて確かめなければならないほど、私には手に入れることのできなかった物であったのだ。
「どうぞ使うて下さい。使うて何ぼのものでんがな。」と。
断る理由なんか私にはない。 むしろ進んで、下さい、いや、譲って下さいと言うべきものであった。
もう一つの木箱には、清水保孝氏の天目釉の杯に煌めく星が散りばめられたように釉がガラス質となり綺麗な模様を生み出している。(下の写真)
清水保孝氏は人間国宝・清水卯一氏の長男で私の後輩になる。
欲張りな私は「これも」、と願ったが、主曰く「この満天の星のような、これが好きですねん。これは譲れまへん」と。
やはり金城次郎氏の作品をと願い、我が家では頂いた金城氏の杯で熱燗を楽しんでいる。
この寿司店では清水保孝氏の杯で熱燗を楽しませてもらっており、言うなれば『マイ チョコ』(my sake cup)でんな。
好みの杯(ぐい飲み)で飲めば如何なる酒も美味くなる。
北大路魯山人は「器は料理の着物」やと。 「馬子にも衣裳」という俚諺もある。
ふふーーん、言い得て妙なり。
July 26, 2011
July 10, 2011
韓国 済州島行 (3)
済州島に人類が登場し始めた時期を推定するのに現在検証された史料から最も古いものを挙げると、済州市西方の涯月邑ピレモ洞窟遺跡(애월읍 삐레모 동굴 유적)より発掘された各種打製石器や大陸系の褐色熊の骨などにより、7万年~3万5千年前頃の中石器時代であろうとされている。
※ 参照資料 『済州の歴史と文化』(国立済州博物館 2005年5月25日)
大陸と済州島、対馬や日本列島の成り立ち、或いは人類の歴史を見るには、地球の氷河期とその間氷期を考慮することが重要となる。
比較的新しい更新世の氷期では18万年前~13万年前のリス氷期。その後の間氷期が13万年前~7万年前。
そして最終の氷期と呼ばれるヴュルム氷期が7万年前~1万5千年前とされ、それ以後現在は間氷期に入っている。
氷河期とも呼ばれる数万年から数十万年という長い年月の間、地球上で蒸発した水分が極地の氷床を巨大なものにしていくため、当然海水面の低下が起きて陸地面積が広がる。
これを大陸と日本という局部に視点を当てると、大陸と済州島、そして日本の対馬、壱岐、佐賀県や長崎県あたりとは陸続きのような状況になることが考えられる。 つまり、日本海が対馬海流の流れ込む海ではなく湖のような、或いは大きい湾と言えるような状態になるということである。
地学にしろ考古学にしろ何万年にもまたがる地球や生物の変遷を誰かがつぶさに見ていたとか文書による記録を残していたというものではないので、発見・発掘された具体物を基に類推するしかないのだが、前述した中石器時代の大陸系褐色熊の骨が済州島のピレモ洞窟遺跡で発掘され、その後の発掘がないのは、ある時期大陸と済州島は陸続きであって人々を含め様々な動物たちが行き来していたと考えるのが妥当であろう。
それが間氷期に入って海水面が上昇(海進)し、済州島が島となり、その環境に適さない動植物が滅亡したと考えられるのではないか。 先に紹介した参照資料『済州の歴史と文化』(国立済州博物館)や他の書籍も概ね同様の見解を取っている。
現代に生きる私たちにとっては気の遠くなるような地球の歴史の一場面、何十万年も前の済州島について見てきたわけだが、時代はグンと新しいお話に移そう。
『太王四神記』という韓国のテレビドラマを知っている人は多いと思う。
2002 FIFAワールドカップ 日韓共同開催に次いで、翌年『冬のソナタ』が日本で上映され、ペ・ヨンジュン、チェ・ジュウらが出演したことが韓流ブームの高まりの一因となり、『ヨン様』は日本女性らの憧れの的となっていった。 そして2007年末、『ヨン様』主演作品である『太王四神記』が日本でも放映された。
私は数年前から韓国の時代劇をテレビでよく見ており、『商道』『千秋太后』『女人天下』『風の絵師』『ホ・ギュン』『妃チャン・ノクス』『王の女』『チャン・ヒビン』などを見た。 しかし、『朱蒙(チュモン)』や『宮廷女官チャングムの誓い』は飛びとびにしか見ていないので、全編を通して見たいと思っている。
ところで、この『太王四神記』について全く見ていないのだが、撮影のためのオープンセットが済州島の溶岩洞窟・万丈窟の近くにあり、パークサザンランドとして公開されているとのことだったのでモノはついでとばかりに夫氏の姪御さんの車で連れてもらった。
先の写真は入口から直ぐのところに建てられている国内城(クンネソン)の外城門(ウエソンムン)。 国内城(クンネソン)は高句麗(コグリョ)がA.D.3年に遷都したところ。 実際の建物は、およそ2000~1500年ほど前に現在の中国東北部(旧・満州)・吉林省集安に建設された平城で、オープンセットの建物は忠実に再現されたと言われるだけあって一見すれば大変立派なものである。 しかし、あくまで映画撮影のためのセットなので外観だけを重視したものもあれば、建物内部にもこだわったものもある。 これは京都・太秦の東映映画村と同じことである。
高句麗はB.C.37年に朱蒙(チュモン)によって建国されてA.D.668年に滅亡するまでの間、ざっと700年ばかり現在の韓国の北半分に北朝鮮と更に中国東北部(旧・満州)を含めた広い国土を有した国である。
高句麗が建国された紀元前37年の頃の中国は前漢の時代で、日本では農耕技術が全国的にほぼ広がり定着した時代である。
私たちが高句麗という国を知るのは日本と直接・間接に関係が生じ始めた4世紀から7世紀頃の朝鮮半島における三国時代からであろう。
ここで言うところの三国とは高句麗、百済、新羅を指すが、同時代の高句麗北部に扶余、半島南部の百済と新羅に挟まれるあたりに伽耶、これは日本では任那と呼ぶ地域、そして、今回訪れた済州島は耽羅(たんら)と呼ばれていたが、そうした小さな国々も一時期共に存在していた時代でもある。
地図は朝鮮半島における三国時代の位置関係を理解するための概略図だが、高句麗と記した直ぐ下の赤い点の部分が国内城の場所を示している。
余談だが、韓国ドラマでは高句麗建国の祖『朱蒙(東明聖王)』を題名とするもの、朱蒙の孫で高句麗3代王ムヒュル(大武神王)の生涯を描いた『風の国』、高句麗19代王の広開土王に焦点を合わせた『太王四神記』、隋に替わって中国を統一した唐の太宗(李世民・)が645年に高句麗へ遠征するが、この時の高句麗の将軍の名前を題名にした『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』、圧倒的な戦力差の唐の遠征に対して高句麗は幾度も防衛するも、668年、唐と新羅の連合軍を相手に高句麗は滅亡するが、高句麗再興を期し、やがて698年に渤海を建国した初代王の名前を題名とした『大祚榮(テジョヨン)』など、高句麗に関するものがある。
ドラマ『太王四神記』が朝鮮建国の檀君神話、それに高句麗の領土拡張と国家体制を整備した広開土王(諱を談徳・タムドク)の時代を描いているので、参考程度に歴史的事象を時系列にピックアップしてみる。
B.C. 37年 高句麗が建国 (中国は前漢の時代。日本では農耕技術が全国的に広がり、ほぼ定着。)
A.D. 25年 中国は光武帝が統一を果たし後漢。
A.D. 57年 光武帝より『漢委奴国王』の金印授かる。 (福岡県志賀島で発見。 当時の日本は『倭』。)
高句麗は後漢に貢物を献上するも両国間では小さな戦がしばしば起きていた。
147年 邪馬台国の卑弥呼が魏志倭人伝・後漢書倭伝に登場。
313年 百済、新羅が建国なり、高句麗と併せて朝鮮半島は三国時代に入る。
367年 倭(日本)が百済との関係から新羅を攻める。 (神功皇后摂政記)
以後、百済、新羅をめぐって高句麗と倭が争い、それに中国(当時の東晋や宋)が絡む。
高句麗、百済、新羅、三国が中国(北魏、南斉、梁、陳、北周、隋など)に内属する。
392年 394年、395年、396年と百済と戦った高句麗(広開土王)が百済を属国化する。
高句麗が契丹を征討。
397年 百済が倭(日本)と通好。
399年 百済が高句麗に対抗するため倭(日本)と通ず。 (新羅は倭の侵攻を受けていた)
400年 高句麗が大軍を送って新羅を救援し、倭を伽耶(任那、加羅)まで追討した。
後燕(現・中国)が高句麗に侵攻してきたので、高句麗反撃の後、遼河東岸地域を占領。
402年 新羅は倭(日本)と通好。
404年 倭(日本)が高句麗の帯方地方(下・ソウル北西部)に侵攻するも敗退。
407年 高句麗が後燕(現・中国東北部)を侵攻。
410年 高句麗が東扶余を占領。
412年 広開土王が亡くなり、長寿王が高句麗20代の王となる。
450年 高句麗が新羅を討つ。
476年 高句麗が百済を討つ。
508年 耽羅人(済州島人)百済に初めて通ずる。
538年 百済・聖明王より日本に仏教が伝えられる。
589年 隋が中国を統一。
598年 高句麗が隋を警戒して中央アジアやモンゴルに広大な領土を持つ突厥(とっけつ)と同盟。
隋が高句麗に対して遠征を行う。遠征(598年~614年までに4度)。
604年 聖徳太子、17条の憲法を発布。
607年 遣隋使として小野妹子を派遣。
618年 隋が滅び、唐が中国を統一。
621年 唐が、高句麗・新羅・百済を冊封(属国化)。
642年 百済が新羅の西部40の城を陥落。
643年 高句麗と百済が同盟を結ぶ。
644年 百済が新羅の城30を陥落。
645年 唐の太宗が高句麗の北西部を攻撃。持久戦の後撤退。
(新羅が唐と同盟を結ぶ)
660年 唐と新羅の連合軍が百済を攻撃。
百済・義慈王が唐に捕えられ百済が滅亡。
663年 白村江の戦い
当時日本にいた百済の王子豊とその家臣たちは百済復興を願って日本に援軍を要請。
中大兄皇子は2万7千人の援軍を送り、4度戦うもいずれも大敗を期す。
668年 高句麗の王族の内紛に乗じて、唐と新羅の連合軍が高句麗を攻撃。
都であった平壌が陥落して高句麗が滅亡。
この後、676年に朝鮮半島は唐の属国として統一新羅の時代に入るが、698年には渤海が建国なる。
その後も王族や貴族の権力争いが続く中、900年に後百済が、901年に後高句麗が生まれ、新羅とともに後三国時代を形成することとなった。
上に掲載した写真は、いずれもパークサザンランドのオープンセットでのもの。 外城門(ウエソンムン)の上で撮った写真の遠方の山は方角的には城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)だろうか。 この山については別の機会に書くとして、人物は今回お世話になった夫氏である。 サングラスではなく目隠しを施した。
朝鮮半島における三国時代について、日本や中国との関わりも含め幾つかの歴史的事象を挙げてみたが、『太王四神記』は物語のプロローグで檀君神話を取り上げている。
檀君神話については『朝鮮半島の民話』(平成の寺小屋編)でも取り上げているが、天の神である桓因(ファイン)が息子である桓雄(ファンヌン)に人間界を治めさせようと太伯山頂きの栴檀の木の下に自然の営みを司る臣下とともに降臨させたことより始まる。
桓雄は命・病・善・悪・穀・刑を司って人間を教化していくが、ある時、熊と虎が人間になりたいと申し出てきたので、モグサ(ヨモギ)1束とニンニク20個を食べて100日間陽の当たらぬ洞窟で過ごせば人間になれると教えた。
しかし、虎は約束を守れなかったが、熊は約束を守って人間の女になった。
この女の気立ての良さを気に入った桓雄が妃とし、やがて子が生まれた。
この子の名前が檀君王倹(タングンワンク゜ム)であり、彼は平壌城(ピョンヤンソン)を都に定め、国号を朝鮮として国を治め、後に都を阿斯達(アサダル)に移したが、周の武王が殷の箕子を朝鮮王に封じたので阿斯達の山の神となり、1908歳の寿命を終え、その治世1500年に及んだというのである。
この建国年が紀元前2333年であるとし、韓国史として教科書でも教えているのだとか。
日本にも国産みの神話はある。 紀元前2333年頃と言えば縄文文化の時代で言えば後期にあたり、貝塚を中心に大きい集落が出来ていた頃である。
檀君神話のように言えば、『古事記』冒頭部(序1~3を省く)には「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神(以下省略)」。 つまり、天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でし神の名は天之御中主神であるということから始まるが、『古事記』は712年(和銅5年)に稗田阿礼が誦するのを太安萬侶が筆記し、編纂したものである。 天地開闢がいつを指すのか想像もできないが、日本にヒトが現れた頃を指すならば旧石器時代の50万年前となるし、縄文文化の初期とすれば紀元前7500年頃となる。
この長い歴史時間の間に起きた多くの出来事をいかに暗唱力に優れた者が代々いたとしても正確に口伝し続けるのは土台無理なことであり、文字としてその時代の記録がなければ、やはり神話(お話)とすべきであろう。
そうした意味において中国の司馬遷が『史記』を書き著し始めたとされるのが紀元前104年頃で、完成したのが紀元前90年頃だとされている。 従って彼が生存していた時代に記されていることならば歴史的事実と認めても良いだろう。 その時代に生き、その時代のことを記しているのだから。
朝鮮史上、高句麗が建国される以前を古朝鮮(コチョソン)と総称し、檀君(ダンクン)朝鮮・箕子(キジャ)朝鮮・衛氏(ウィシ)朝鮮の三国を表している。
紀元前(B.C.)2333年建国の檀君朝鮮の存在はA.D.1280年代に記された『三国遺事』に魏書からの引用として名前が見られるが、現存する魏書や、それ以前の書に檀君朝鮮に関する記述は無いと言われているだけでなく、魏書が完成したのがA.D.554年のことであり、この書自体、編纂の時点から「穢史」と呼ばれ公正さを欠くものであったとされていることなどから、歴史学上、檀君朝鮮は神話と見るべきであろう。
箕子朝鮮の箕子は中国・殷の28代王の子であり、殷滅亡後、周の武王が朝鮮侯に封じて以後、箕子の子孫は代々世襲したことが『史記』に記されている。 周の武王は殷の紂王を倒して周を起こした人で、武王の在位は紀元前1023年から前1021年であろうと推量されるが、この根拠とされるのが『春秋左氏伝』。 『春秋左氏伝』には紀元前700年頃から前450年頃までのことが書かれているが、暦学上の検証から紀元前538年頃に書かれたものであろうとされている。 従って、この書においても箕子朝鮮をその時代に生き、その時代のことを記しているとは言えず、伝聞、伝説の域をでないものとせねばならない。
衛氏朝鮮の祖は衛満(ウイマン)。 彼は燕の武将であったが燕王が前漢に背いたため危険な立場になったことから「燕人満は千余人を連れて東方に亡命し、朝鮮・真番ならびに燕・斉から流れた族を糾合して、ついにその国に王となり、王険(平壌)に都した」と司馬遷の『史記』(朝鮮列伝)に紀元前195年の出来事として記している。 『韓国の歴史』(李景珉 監修、水野俊平著)では、衛満は当初朝鮮半島に逃れてコロニーを形成していたが、当時古朝鮮にいた準王を攻めて政権を取り衛氏朝鮮を建てたのは紀元前194年から前108年の間、紀元前2世紀の頃に建てた実在の国であるとしている。
そして、紀元前109年に前漢の武帝に攻撃された衛氏朝鮮は紀元前108年に滅亡するが、前述したように司馬遷が『史記』を書き著し始めたとされるのが紀元前104年頃のことであるから、衛氏朝鮮が国として存在していた頃は司馬遷が生存していた頃と重なるため、この国が実在したと文献上確かなことと言える。
先の『韓国の歴史』(李景珉 監修、水野俊平著)に紹介されているが、中国の『菅子』や『山海経』に『朝鮮』の文字が見えることから紀元前7世紀頃には朝鮮という地名があり、これは「箕子朝鮮のことだが、その存在ははっきりと確かめられているわけではない。」と、歴史学上の慎重な立場を取っている。
青銅器や鉄器の生産、中国やモンゴルなど大陸に生活していた人々の遺跡・遺物などをもとに考証すれば紀元前2333年建国の檀君朝鮮も実在国家であったと言えるかもしれないが、何分記録が無い、或いは極端に少ない時代のことである。 科学的に実証されない限り、それは伝説・お話の域を出ない。
5世紀代には日本でも文字が使用されていたと考えられているが実証されない以上それは推量でしかなく、古代史は曖昧であるゆえに夢があり面白いと言えるのかもしれない。
そうした意味において、『太王四神記』もお話としてドラマとしてオモロイのであろう。
※ 石造物の写真はパークサザンランドにあったものではない。
391年 倭が百済、新羅を攻め、臣民とする。(高句麗・広開土王碑銘)
高句麗・広開土王が即位する。(三国史記では392年)
※ 参照資料 『済州の歴史と文化』(国立済州博物館 2005年5月25日)
大陸と済州島、対馬や日本列島の成り立ち、或いは人類の歴史を見るには、地球の氷河期とその間氷期を考慮することが重要となる。
比較的新しい更新世の氷期では18万年前~13万年前のリス氷期。その後の間氷期が13万年前~7万年前。
そして最終の氷期と呼ばれるヴュルム氷期が7万年前~1万5千年前とされ、それ以後現在は間氷期に入っている。
氷河期とも呼ばれる数万年から数十万年という長い年月の間、地球上で蒸発した水分が極地の氷床を巨大なものにしていくため、当然海水面の低下が起きて陸地面積が広がる。
これを大陸と日本という局部に視点を当てると、大陸と済州島、そして日本の対馬、壱岐、佐賀県や長崎県あたりとは陸続きのような状況になることが考えられる。 つまり、日本海が対馬海流の流れ込む海ではなく湖のような、或いは大きい湾と言えるような状態になるということである。
地学にしろ考古学にしろ何万年にもまたがる地球や生物の変遷を誰かがつぶさに見ていたとか文書による記録を残していたというものではないので、発見・発掘された具体物を基に類推するしかないのだが、前述した中石器時代の大陸系褐色熊の骨が済州島のピレモ洞窟遺跡で発掘され、その後の発掘がないのは、ある時期大陸と済州島は陸続きであって人々を含め様々な動物たちが行き来していたと考えるのが妥当であろう。
それが間氷期に入って海水面が上昇(海進)し、済州島が島となり、その環境に適さない動植物が滅亡したと考えられるのではないか。 先に紹介した参照資料『済州の歴史と文化』(国立済州博物館)や他の書籍も概ね同様の見解を取っている。
現代に生きる私たちにとっては気の遠くなるような地球の歴史の一場面、何十万年も前の済州島について見てきたわけだが、時代はグンと新しいお話に移そう。
『太王四神記』という韓国のテレビドラマを知っている人は多いと思う。
2002 FIFAワールドカップ 日韓共同開催に次いで、翌年『冬のソナタ』が日本で上映され、ペ・ヨンジュン、チェ・ジュウらが出演したことが韓流ブームの高まりの一因となり、『ヨン様』は日本女性らの憧れの的となっていった。 そして2007年末、『ヨン様』主演作品である『太王四神記』が日本でも放映された。
私は数年前から韓国の時代劇をテレビでよく見ており、『商道』『千秋太后』『女人天下』『風の絵師』『ホ・ギュン』『妃チャン・ノクス』『王の女』『チャン・ヒビン』などを見た。 しかし、『朱蒙(チュモン)』や『宮廷女官チャングムの誓い』は飛びとびにしか見ていないので、全編を通して見たいと思っている。
ところで、この『太王四神記』について全く見ていないのだが、撮影のためのオープンセットが済州島の溶岩洞窟・万丈窟の近くにあり、パークサザンランドとして公開されているとのことだったのでモノはついでとばかりに夫氏の姪御さんの車で連れてもらった。
先の写真は入口から直ぐのところに建てられている国内城(クンネソン)の外城門(ウエソンムン)。 国内城(クンネソン)は高句麗(コグリョ)がA.D.3年に遷都したところ。 実際の建物は、およそ2000~1500年ほど前に現在の中国東北部(旧・満州)・吉林省集安に建設された平城で、オープンセットの建物は忠実に再現されたと言われるだけあって一見すれば大変立派なものである。 しかし、あくまで映画撮影のためのセットなので外観だけを重視したものもあれば、建物内部にもこだわったものもある。 これは京都・太秦の東映映画村と同じことである。
高句麗はB.C.37年に朱蒙(チュモン)によって建国されてA.D.668年に滅亡するまでの間、ざっと700年ばかり現在の韓国の北半分に北朝鮮と更に中国東北部(旧・満州)を含めた広い国土を有した国である。
高句麗が建国された紀元前37年の頃の中国は前漢の時代で、日本では農耕技術が全国的にほぼ広がり定着した時代である。
私たちが高句麗という国を知るのは日本と直接・間接に関係が生じ始めた4世紀から7世紀頃の朝鮮半島における三国時代からであろう。
ここで言うところの三国とは高句麗、百済、新羅を指すが、同時代の高句麗北部に扶余、半島南部の百済と新羅に挟まれるあたりに伽耶、これは日本では任那と呼ぶ地域、そして、今回訪れた済州島は耽羅(たんら)と呼ばれていたが、そうした小さな国々も一時期共に存在していた時代でもある。
地図は朝鮮半島における三国時代の位置関係を理解するための概略図だが、高句麗と記した直ぐ下の赤い点の部分が国内城の場所を示している。
余談だが、韓国ドラマでは高句麗建国の祖『朱蒙(東明聖王)』を題名とするもの、朱蒙の孫で高句麗3代王ムヒュル(大武神王)の生涯を描いた『風の国』、高句麗19代王の広開土王に焦点を合わせた『太王四神記』、隋に替わって中国を統一した唐の太宗(李世民・)が645年に高句麗へ遠征するが、この時の高句麗の将軍の名前を題名にした『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』、圧倒的な戦力差の唐の遠征に対して高句麗は幾度も防衛するも、668年、唐と新羅の連合軍を相手に高句麗は滅亡するが、高句麗再興を期し、やがて698年に渤海を建国した初代王の名前を題名とした『大祚榮(テジョヨン)』など、高句麗に関するものがある。
ドラマ『太王四神記』が朝鮮建国の檀君神話、それに高句麗の領土拡張と国家体制を整備した広開土王(諱を談徳・タムドク)の時代を描いているので、参考程度に歴史的事象を時系列にピックアップしてみる。
B.C. 37年 高句麗が建国 (中国は前漢の時代。日本では農耕技術が全国的に広がり、ほぼ定着。)
A.D. 25年 中国は光武帝が統一を果たし後漢。
A.D. 57年 光武帝より『漢委奴国王』の金印授かる。 (福岡県志賀島で発見。 当時の日本は『倭』。)
高句麗は後漢に貢物を献上するも両国間では小さな戦がしばしば起きていた。
147年 邪馬台国の卑弥呼が魏志倭人伝・後漢書倭伝に登場。
313年 百済、新羅が建国なり、高句麗と併せて朝鮮半島は三国時代に入る。
367年 倭(日本)が百済との関係から新羅を攻める。 (神功皇后摂政記)
以後、百済、新羅をめぐって高句麗と倭が争い、それに中国(当時の東晋や宋)が絡む。
高句麗、百済、新羅、三国が中国(北魏、南斉、梁、陳、北周、隋など)に内属する。
392年 394年、395年、396年と百済と戦った高句麗(広開土王)が百済を属国化する。
高句麗が契丹を征討。
397年 百済が倭(日本)と通好。
399年 百済が高句麗に対抗するため倭(日本)と通ず。 (新羅は倭の侵攻を受けていた)
400年 高句麗が大軍を送って新羅を救援し、倭を伽耶(任那、加羅)まで追討した。
後燕(現・中国)が高句麗に侵攻してきたので、高句麗反撃の後、遼河東岸地域を占領。
402年 新羅は倭(日本)と通好。
404年 倭(日本)が高句麗の帯方地方(下・ソウル北西部)に侵攻するも敗退。
407年 高句麗が後燕(現・中国東北部)を侵攻。
410年 高句麗が東扶余を占領。
412年 広開土王が亡くなり、長寿王が高句麗20代の王となる。
450年 高句麗が新羅を討つ。
476年 高句麗が百済を討つ。
508年 耽羅人(済州島人)百済に初めて通ずる。
538年 百済・聖明王より日本に仏教が伝えられる。
589年 隋が中国を統一。
598年 高句麗が隋を警戒して中央アジアやモンゴルに広大な領土を持つ突厥(とっけつ)と同盟。
隋が高句麗に対して遠征を行う。遠征(598年~614年までに4度)。
604年 聖徳太子、17条の憲法を発布。
607年 遣隋使として小野妹子を派遣。
618年 隋が滅び、唐が中国を統一。
621年 唐が、高句麗・新羅・百済を冊封(属国化)。
642年 百済が新羅の西部40の城を陥落。
643年 高句麗と百済が同盟を結ぶ。
644年 百済が新羅の城30を陥落。
645年 唐の太宗が高句麗の北西部を攻撃。持久戦の後撤退。
(新羅が唐と同盟を結ぶ)
660年 唐と新羅の連合軍が百済を攻撃。
百済・義慈王が唐に捕えられ百済が滅亡。
663年 白村江の戦い
当時日本にいた百済の王子豊とその家臣たちは百済復興を願って日本に援軍を要請。
中大兄皇子は2万7千人の援軍を送り、4度戦うもいずれも大敗を期す。
668年 高句麗の王族の内紛に乗じて、唐と新羅の連合軍が高句麗を攻撃。
都であった平壌が陥落して高句麗が滅亡。
この後、676年に朝鮮半島は唐の属国として統一新羅の時代に入るが、698年には渤海が建国なる。
その後も王族や貴族の権力争いが続く中、900年に後百済が、901年に後高句麗が生まれ、新羅とともに後三国時代を形成することとなった。
上に掲載した写真は、いずれもパークサザンランドのオープンセットでのもの。 外城門(ウエソンムン)の上で撮った写真の遠方の山は方角的には城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)だろうか。 この山については別の機会に書くとして、人物は今回お世話になった夫氏である。 サングラスではなく目隠しを施した。
朝鮮半島における三国時代について、日本や中国との関わりも含め幾つかの歴史的事象を挙げてみたが、『太王四神記』は物語のプロローグで檀君神話を取り上げている。
檀君神話については『朝鮮半島の民話』(平成の寺小屋編)でも取り上げているが、天の神である桓因(ファイン)が息子である桓雄(ファンヌン)に人間界を治めさせようと太伯山頂きの栴檀の木の下に自然の営みを司る臣下とともに降臨させたことより始まる。
桓雄は命・病・善・悪・穀・刑を司って人間を教化していくが、ある時、熊と虎が人間になりたいと申し出てきたので、モグサ(ヨモギ)1束とニンニク20個を食べて100日間陽の当たらぬ洞窟で過ごせば人間になれると教えた。
しかし、虎は約束を守れなかったが、熊は約束を守って人間の女になった。
この女の気立ての良さを気に入った桓雄が妃とし、やがて子が生まれた。
この子の名前が檀君王倹(タングンワンク゜ム)であり、彼は平壌城(ピョンヤンソン)を都に定め、国号を朝鮮として国を治め、後に都を阿斯達(アサダル)に移したが、周の武王が殷の箕子を朝鮮王に封じたので阿斯達の山の神となり、1908歳の寿命を終え、その治世1500年に及んだというのである。
この建国年が紀元前2333年であるとし、韓国史として教科書でも教えているのだとか。
日本にも国産みの神話はある。 紀元前2333年頃と言えば縄文文化の時代で言えば後期にあたり、貝塚を中心に大きい集落が出来ていた頃である。
檀君神話のように言えば、『古事記』冒頭部(序1~3を省く)には「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神(以下省略)」。 つまり、天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でし神の名は天之御中主神であるということから始まるが、『古事記』は712年(和銅5年)に稗田阿礼が誦するのを太安萬侶が筆記し、編纂したものである。 天地開闢がいつを指すのか想像もできないが、日本にヒトが現れた頃を指すならば旧石器時代の50万年前となるし、縄文文化の初期とすれば紀元前7500年頃となる。
この長い歴史時間の間に起きた多くの出来事をいかに暗唱力に優れた者が代々いたとしても正確に口伝し続けるのは土台無理なことであり、文字としてその時代の記録がなければ、やはり神話(お話)とすべきであろう。
そうした意味において中国の司馬遷が『史記』を書き著し始めたとされるのが紀元前104年頃で、完成したのが紀元前90年頃だとされている。 従って彼が生存していた時代に記されていることならば歴史的事実と認めても良いだろう。 その時代に生き、その時代のことを記しているのだから。
朝鮮史上、高句麗が建国される以前を古朝鮮(コチョソン)と総称し、檀君(ダンクン)朝鮮・箕子(キジャ)朝鮮・衛氏(ウィシ)朝鮮の三国を表している。
紀元前(B.C.)2333年建国の檀君朝鮮の存在はA.D.1280年代に記された『三国遺事』に魏書からの引用として名前が見られるが、現存する魏書や、それ以前の書に檀君朝鮮に関する記述は無いと言われているだけでなく、魏書が完成したのがA.D.554年のことであり、この書自体、編纂の時点から「穢史」と呼ばれ公正さを欠くものであったとされていることなどから、歴史学上、檀君朝鮮は神話と見るべきであろう。
箕子朝鮮の箕子は中国・殷の28代王の子であり、殷滅亡後、周の武王が朝鮮侯に封じて以後、箕子の子孫は代々世襲したことが『史記』に記されている。 周の武王は殷の紂王を倒して周を起こした人で、武王の在位は紀元前1023年から前1021年であろうと推量されるが、この根拠とされるのが『春秋左氏伝』。 『春秋左氏伝』には紀元前700年頃から前450年頃までのことが書かれているが、暦学上の検証から紀元前538年頃に書かれたものであろうとされている。 従って、この書においても箕子朝鮮をその時代に生き、その時代のことを記しているとは言えず、伝聞、伝説の域をでないものとせねばならない。
衛氏朝鮮の祖は衛満(ウイマン)。 彼は燕の武将であったが燕王が前漢に背いたため危険な立場になったことから「燕人満は千余人を連れて東方に亡命し、朝鮮・真番ならびに燕・斉から流れた族を糾合して、ついにその国に王となり、王険(平壌)に都した」と司馬遷の『史記』(朝鮮列伝)に紀元前195年の出来事として記している。 『韓国の歴史』(李景珉 監修、水野俊平著)では、衛満は当初朝鮮半島に逃れてコロニーを形成していたが、当時古朝鮮にいた準王を攻めて政権を取り衛氏朝鮮を建てたのは紀元前194年から前108年の間、紀元前2世紀の頃に建てた実在の国であるとしている。
そして、紀元前109年に前漢の武帝に攻撃された衛氏朝鮮は紀元前108年に滅亡するが、前述したように司馬遷が『史記』を書き著し始めたとされるのが紀元前104年頃のことであるから、衛氏朝鮮が国として存在していた頃は司馬遷が生存していた頃と重なるため、この国が実在したと文献上確かなことと言える。
先の『韓国の歴史』(李景珉 監修、水野俊平著)に紹介されているが、中国の『菅子』や『山海経』に『朝鮮』の文字が見えることから紀元前7世紀頃には朝鮮という地名があり、これは「箕子朝鮮のことだが、その存在ははっきりと確かめられているわけではない。」と、歴史学上の慎重な立場を取っている。
青銅器や鉄器の生産、中国やモンゴルなど大陸に生活していた人々の遺跡・遺物などをもとに考証すれば紀元前2333年建国の檀君朝鮮も実在国家であったと言えるかもしれないが、何分記録が無い、或いは極端に少ない時代のことである。 科学的に実証されない限り、それは伝説・お話の域を出ない。
5世紀代には日本でも文字が使用されていたと考えられているが実証されない以上それは推量でしかなく、古代史は曖昧であるゆえに夢があり面白いと言えるのかもしれない。
そうした意味において、『太王四神記』もお話としてドラマとしてオモロイのであろう。
※ 石造物の写真はパークサザンランドにあったものではない。
391年 倭が百済、新羅を攻め、臣民とする。(高句麗・広開土王碑銘)
高句麗・広開土王が即位する。(三国史記では392年)
July 02, 2011
韓国・済州島行 (2)
さて、前回書いたアワビがたっぷり盛られた冷製の汁物の料理名を知らないとし、アワビの汁物なのでチョンボックとでも言うのだろうかと書いたが、夫氏に尋ねたところ、単にムルフェと呼んでいるそうだ。
アワビ粥をチョンボッチュクと言うように、私はアワビの汁物だから『クッ』をつけてチョンボックとでも言うのかと書いたのだが、特にアワビ(チョンボ)をつけなくてもムルフェ、ムル+フェ(水+刺身)で水の刺身というような表現で良いそうな。
訂正せねばならないのは他にも・・・
パンチャンとして出された物のうち、モヤシは正しくはコンナムル(豆モヤシ)と言うそうで、ニンニクの芽の酢漬けと書いた物は醤油漬けだったのだとか。 私には酸味が感じられたので酢漬けと勝手に思い込んでいたようで、思い込みということでは乾燥ワラビと書いたもの、実は海藻だったらしい。 歯ごたえからは海藻とは想像しにくかったのだが、『所変われば品替わる』との慣用句が当てはまるかも。
夫氏の姪御さんに車で案内されたのが世界遺産・万丈窟(マンジャングル)。
万丈窟というのは済州島における溶岩洞窟群のひとつであり、写真は公開されている区間(約1㎞)の入口へ向かう石段。
万丈窟の長さは7416mにも及び、写真は第2入口で、洞窟は左右に伸びるが左手(海方向)は未公開。 写真の暗い部分より右手(漢拏山の方向)1㎞が一般公開されているが、その奥の第3入口方向や上層窟については非公開である。
洞窟、つまり洞穴(ほらあな)を広義に見れば人為的洞穴と自然的洞穴に分けることができよう。 もっとも人為的なものの場合、あまり洞穴や洞窟という言葉は用いず、例えば採鉱の場合は坑道と呼ぶし、地下道や(地下・海底)トンネルなどと呼ぶ。 自然的洞穴の場合、大昔に海底に堆積した石灰岩質の地層が隆起後に雨水や地下水によって浸食をうけて洞穴化した鍾乳洞や、火山活動、とりわけ済州島の万丈窟のように噴出した溶岩によって生成されたような溶岩窟、或いは打ち寄せる波によって洞が形成された海蝕洞など、その生成には幾つかの異なったスタイルがある。
規模の大小はともかくとして、海蝕洞は日本各地の海岸で見られるし、イタリア・カプリ島の『青の洞窟』は有名である。 また、カルスト台地や鍾乳洞では山口県の秋吉台や秋芳洞が有名である。
そして、火山活動により形成された洞窟では富士山周辺の風穴とか氷穴と呼ばれているものなどが済州島の万丈窟の生成と同じプロセスを経てできたものであると言える。
写真は万丈窟の断面を表した案内板である。
顔写真は無用のものゆえ緑色を施した。
上の図の赤色部分が一般公開の区間で、画面では右手方向に位置する済州島の主峰・漢拏山(ハルラサン)から左方向にある海への傾斜具合が分かろうかと思う。
この万丈窟の生成過程だが、『韓国・済州島行(1)』でも書いたように済州島は現在は休火山となっている漢拏山の火山活動によって生まれた島であり、検索サイト・グーグル(Google)のマップ『3D映像』で済州島を見れば、漢拏山から東方の海岸にかけて幾つもの寄生火山の火口丘が点在しているのが分かる。 これは是非『3D映像』をダウンロードして見てもらいたいと思う。 写真を掲載したいところだが版権がややこしいので紹介するにとどめることとする。 済州島の航空写真でもある程度分かる。
前頁に掲載した済州島の東半分の地図だが、左の緑色の部分が漢拏山国立公園のあたり。
地図上で黒く点々と見えるのは寄生火山の火口丘で、火口部が点在しているのが分かるだろう。
白抜き文字で拒文岳溶岩洞窟系と記したあたりに万丈窟をはじめとする溶岩洞窟が点在する。
この溶岩洞窟というものは火山が噴出した大量の溶岩が傾斜面に従って流れ下り冷やされる過程で形成されるのであるが、地上に噴出された溶岩(溶融体・半溶融体)の温度は大体1000度程度とされ、地上に噴出された時点で空気によって急激に冷やされる。 が、一度に大量の溶岩が同時に冷却されるわけではなく、空気と接触している面から順に徐々に冷やされていくのである。
つまり厚さが何メートルも何十メートル、幅が何十メートルも何百メートルもある溶岩流であっても真っ先に冷えるのは空気との接触面であって、溶岩流の表面が冷やされ固まったとしても内部の大量の溶岩は流れ続けているのである。
私は現地を訪れたことがないが、ハワイ島のキラウエア火山では地表面が冷え固まってできた玄武岩質の地表の下を今も真っ赤な溶岩が流れている様子をテレビで紹介しているのを何度も見ている。 そうした映像を見た人なら、その状況を脳裏に思い浮かべながら万丈窟が形成されるプロセスを想像すれば分かり良い。
地面の下を流れ続ける溶岩だが、そこにはいろんな鉱物が混じり、水蒸気や他のガスも混じり込んでいる。
時に地表面の裂け目から溢れ出ることもあるだろうし、気体の圧力が高まって地表面を吹き飛ばして大きい穴を開けることもあるだろう。
そうしたことを繰り返すうちに溶岩の噴出量も徐々に少なくなり、やがて溶岩流も無くなり冷え固まると、それまで゜溶岩流のあったところが空洞、つまり溶岩洞窟として残る。
溶岩チューブ(Lava Tube)、溶岩トンネル、溶岩洞穴と呼ばれるものがコレである。
万丈窟の場合、洞窟長が7.4km、最大幅23m、洞窟高の最高で30mあるというから溶岩洞窟の規模としてはかなり大きい。
また万丈窟の場合、洞窟は上層と下層の二重層になっており、左の写真のように上層窟を流れる溶岩が下層に落ち込んで流れたと考えられる穴の部分がある。
上の地図で拒文岳(コムンオルム)溶岩洞窟系と記したが、拒文岳は標高456mで漢拏山(ハルラサン)を主峰とする寄生火山(オルム)のひとつであり、「拒文岳から流れ出た溶岩は北東方向へ13㎞も流れ、万丈窟、ベンデイ窟、金寧窟、龍泉洞窟、タンチョムル洞窟を形成」したと『済州、自然遺産と民俗文化』(済州特別自治道民俗自然史博物館)で説明している。
一見すると溶岩洞窟も鍾乳洞と似ているが、鍾乳洞の場合は海底に堆積した部分が隆起して地表に現れ、その後、地層の石灰質の部分が雨水や地下水などにより気の遠くなるような年月の間、浸食され続けて洞窟という形状になったものだが、写真のような溶岩洞窟は先述した通り、1000度という高温の溶岩が流れた後に出来た空洞なのである。
だから、万丈窟のような長いチューブもあれば、ガス溜まりのような富士山の氷穴のような形状のものが出来たりもするのである。
ここで余談だが、1976年頃だったかにピンクレディーという二人組の歌手が『ペッパー警部』という歌をうたって人気を博したことがあった。
その頃の私は歌謡曲というものに関心がなく『ペッパーケイブ』という題名の歌があるという程度しか知らなかった。 これは今でこそ笑えるのだが、歌詞を知らないし覚える気もなかったものだから『ペッパーケイブ』と聞いて『Pepper Cave』の文字を思い浮かべ、けったいな洞窟があるんやなあと思っていた。
1940年頃、洞窟探検を学問的に研究しようと米国で始まった洞窟学会(National Speleological Society)の影響もあって、1975年に地学、生物学などの研究者が日本洞窟学会を設立したことなどとも重なって、私は全く何の疑問も抱かないまま『Pepper Cave』と思い込んでいたのである。
これは後にテレビでピンクレディーというお嬢さん二人組の歌手が歌う歌詞内容でハッキリしたのだが、デッカイ腹を抱えて一人笑い転げた覚えがある。
話を戻すが、済州島の拒文岳(コムンオルム)溶岩洞窟系の生成は今から30万年前から10万年前とのことであるが、写真に見えるようにドロドロに溶けた高温の溶岩流によって橋のような形状のものが出来たり、溶岩流がチューブ内を流れる時に刻んだ横紋が残っていたり、万丈窟の見学は済州島の成り立ちにまで興味を広げさせられる思いがした。
先述した検索サイト・グーグル(Google)のマップ『3D映像』で済州島を見れば、漢拏山から東方の海岸にかけての拒文岳溶岩洞窟系の幾つもの寄生火山の火口丘(スコリア丘)、簡単に言えば火山が噴火する場合に吐き出す黒っぽい玄武岩質の岩滓(がんさい)が火口周囲(円形状)に積もってスリ鉢状の小山を形成したものであるが、『3D映像』で見ると殆どの火口丘(スコリア丘)が海の方向に開き崩れて馬蹄形になっているのが分かる。
つまり、噴出する溶岩の密度は高いが、スコリア(岩滓)は逆で粗いために溶岩がスコリアの隙間に入り込み押し流して円形の火口丘の形状を崩したものと考えられ、崩れた方向に溶岩洞窟などが形成されていったものと想像できる。 そうした火山噴火活動が30万年前~10万年前に幾度も繰り返し起きていたのであろう。
済州島の成り立ちについては後にまた触れることになるかもしれない。
アワビ粥をチョンボッチュクと言うように、私はアワビの汁物だから『クッ』をつけてチョンボックとでも言うのかと書いたのだが、特にアワビ(チョンボ)をつけなくてもムルフェ、ムル+フェ(水+刺身)で水の刺身というような表現で良いそうな。
訂正せねばならないのは他にも・・・
パンチャンとして出された物のうち、モヤシは正しくはコンナムル(豆モヤシ)と言うそうで、ニンニクの芽の酢漬けと書いた物は醤油漬けだったのだとか。 私には酸味が感じられたので酢漬けと勝手に思い込んでいたようで、思い込みということでは乾燥ワラビと書いたもの、実は海藻だったらしい。 歯ごたえからは海藻とは想像しにくかったのだが、『所変われば品替わる』との慣用句が当てはまるかも。
夫氏の姪御さんに車で案内されたのが世界遺産・万丈窟(マンジャングル)。
万丈窟というのは済州島における溶岩洞窟群のひとつであり、写真は公開されている区間(約1㎞)の入口へ向かう石段。
万丈窟の長さは7416mにも及び、写真は第2入口で、洞窟は左右に伸びるが左手(海方向)は未公開。 写真の暗い部分より右手(漢拏山の方向)1㎞が一般公開されているが、その奥の第3入口方向や上層窟については非公開である。
洞窟、つまり洞穴(ほらあな)を広義に見れば人為的洞穴と自然的洞穴に分けることができよう。 もっとも人為的なものの場合、あまり洞穴や洞窟という言葉は用いず、例えば採鉱の場合は坑道と呼ぶし、地下道や(地下・海底)トンネルなどと呼ぶ。 自然的洞穴の場合、大昔に海底に堆積した石灰岩質の地層が隆起後に雨水や地下水によって浸食をうけて洞穴化した鍾乳洞や、火山活動、とりわけ済州島の万丈窟のように噴出した溶岩によって生成されたような溶岩窟、或いは打ち寄せる波によって洞が形成された海蝕洞など、その生成には幾つかの異なったスタイルがある。
規模の大小はともかくとして、海蝕洞は日本各地の海岸で見られるし、イタリア・カプリ島の『青の洞窟』は有名である。 また、カルスト台地や鍾乳洞では山口県の秋吉台や秋芳洞が有名である。
そして、火山活動により形成された洞窟では富士山周辺の風穴とか氷穴と呼ばれているものなどが済州島の万丈窟の生成と同じプロセスを経てできたものであると言える。
写真は万丈窟の断面を表した案内板である。
顔写真は無用のものゆえ緑色を施した。
上の図の赤色部分が一般公開の区間で、画面では右手方向に位置する済州島の主峰・漢拏山(ハルラサン)から左方向にある海への傾斜具合が分かろうかと思う。
この万丈窟の生成過程だが、『韓国・済州島行(1)』でも書いたように済州島は現在は休火山となっている漢拏山の火山活動によって生まれた島であり、検索サイト・グーグル(Google)のマップ『3D映像』で済州島を見れば、漢拏山から東方の海岸にかけて幾つもの寄生火山の火口丘が点在しているのが分かる。 これは是非『3D映像』をダウンロードして見てもらいたいと思う。 写真を掲載したいところだが版権がややこしいので紹介するにとどめることとする。 済州島の航空写真でもある程度分かる。
前頁に掲載した済州島の東半分の地図だが、左の緑色の部分が漢拏山国立公園のあたり。
地図上で黒く点々と見えるのは寄生火山の火口丘で、火口部が点在しているのが分かるだろう。
白抜き文字で拒文岳溶岩洞窟系と記したあたりに万丈窟をはじめとする溶岩洞窟が点在する。
この溶岩洞窟というものは火山が噴出した大量の溶岩が傾斜面に従って流れ下り冷やされる過程で形成されるのであるが、地上に噴出された溶岩(溶融体・半溶融体)の温度は大体1000度程度とされ、地上に噴出された時点で空気によって急激に冷やされる。 が、一度に大量の溶岩が同時に冷却されるわけではなく、空気と接触している面から順に徐々に冷やされていくのである。
つまり厚さが何メートルも何十メートル、幅が何十メートルも何百メートルもある溶岩流であっても真っ先に冷えるのは空気との接触面であって、溶岩流の表面が冷やされ固まったとしても内部の大量の溶岩は流れ続けているのである。
私は現地を訪れたことがないが、ハワイ島のキラウエア火山では地表面が冷え固まってできた玄武岩質の地表の下を今も真っ赤な溶岩が流れている様子をテレビで紹介しているのを何度も見ている。 そうした映像を見た人なら、その状況を脳裏に思い浮かべながら万丈窟が形成されるプロセスを想像すれば分かり良い。
地面の下を流れ続ける溶岩だが、そこにはいろんな鉱物が混じり、水蒸気や他のガスも混じり込んでいる。
時に地表面の裂け目から溢れ出ることもあるだろうし、気体の圧力が高まって地表面を吹き飛ばして大きい穴を開けることもあるだろう。
そうしたことを繰り返すうちに溶岩の噴出量も徐々に少なくなり、やがて溶岩流も無くなり冷え固まると、それまで゜溶岩流のあったところが空洞、つまり溶岩洞窟として残る。
溶岩チューブ(Lava Tube)、溶岩トンネル、溶岩洞穴と呼ばれるものがコレである。
万丈窟の場合、洞窟長が7.4km、最大幅23m、洞窟高の最高で30mあるというから溶岩洞窟の規模としてはかなり大きい。
また万丈窟の場合、洞窟は上層と下層の二重層になっており、左の写真のように上層窟を流れる溶岩が下層に落ち込んで流れたと考えられる穴の部分がある。
上の地図で拒文岳(コムンオルム)溶岩洞窟系と記したが、拒文岳は標高456mで漢拏山(ハルラサン)を主峰とする寄生火山(オルム)のひとつであり、「拒文岳から流れ出た溶岩は北東方向へ13㎞も流れ、万丈窟、ベンデイ窟、金寧窟、龍泉洞窟、タンチョムル洞窟を形成」したと『済州、自然遺産と民俗文化』(済州特別自治道民俗自然史博物館)で説明している。
一見すると溶岩洞窟も鍾乳洞と似ているが、鍾乳洞の場合は海底に堆積した部分が隆起して地表に現れ、その後、地層の石灰質の部分が雨水や地下水などにより気の遠くなるような年月の間、浸食され続けて洞窟という形状になったものだが、写真のような溶岩洞窟は先述した通り、1000度という高温の溶岩が流れた後に出来た空洞なのである。
だから、万丈窟のような長いチューブもあれば、ガス溜まりのような富士山の氷穴のような形状のものが出来たりもするのである。
ここで余談だが、1976年頃だったかにピンクレディーという二人組の歌手が『ペッパー警部』という歌をうたって人気を博したことがあった。
その頃の私は歌謡曲というものに関心がなく『ペッパーケイブ』という題名の歌があるという程度しか知らなかった。 これは今でこそ笑えるのだが、歌詞を知らないし覚える気もなかったものだから『ペッパーケイブ』と聞いて『Pepper Cave』の文字を思い浮かべ、けったいな洞窟があるんやなあと思っていた。
1940年頃、洞窟探検を学問的に研究しようと米国で始まった洞窟学会(National Speleological Society)の影響もあって、1975年に地学、生物学などの研究者が日本洞窟学会を設立したことなどとも重なって、私は全く何の疑問も抱かないまま『Pepper Cave』と思い込んでいたのである。
これは後にテレビでピンクレディーというお嬢さん二人組の歌手が歌う歌詞内容でハッキリしたのだが、デッカイ腹を抱えて一人笑い転げた覚えがある。
話を戻すが、済州島の拒文岳(コムンオルム)溶岩洞窟系の生成は今から30万年前から10万年前とのことであるが、写真に見えるようにドロドロに溶けた高温の溶岩流によって橋のような形状のものが出来たり、溶岩流がチューブ内を流れる時に刻んだ横紋が残っていたり、万丈窟の見学は済州島の成り立ちにまで興味を広げさせられる思いがした。
先述した検索サイト・グーグル(Google)のマップ『3D映像』で済州島を見れば、漢拏山から東方の海岸にかけての拒文岳溶岩洞窟系の幾つもの寄生火山の火口丘(スコリア丘)、簡単に言えば火山が噴火する場合に吐き出す黒っぽい玄武岩質の岩滓(がんさい)が火口周囲(円形状)に積もってスリ鉢状の小山を形成したものであるが、『3D映像』で見ると殆どの火口丘(スコリア丘)が海の方向に開き崩れて馬蹄形になっているのが分かる。
つまり、噴出する溶岩の密度は高いが、スコリア(岩滓)は逆で粗いために溶岩がスコリアの隙間に入り込み押し流して円形の火口丘の形状を崩したものと考えられ、崩れた方向に溶岩洞窟などが形成されていったものと想像できる。 そうした火山噴火活動が30万年前~10万年前に幾度も繰り返し起きていたのであろう。
済州島の成り立ちについては後にまた触れることになるかもしれない。