August 2011

August 21, 2011

大切なこと

『韓国・済州島行(4)』。 この表題で済州島紀行を書くつもりでいたが、済州島の『三多』の一つである『風』について書き始めたところ、いろいろ思うところがあって横道に反れてしまった。

韓国の風力発電のことを考えていたら東京電力の福島原子力発電所の事件が頭に浮かび、広島・長崎と一瞬にして都会が壊滅するという大惨事に遭いながら、『原子力の平和利用』だなどと言葉が発し与えるイメージの操作によって巧みに国民をだまし誤魔化してきた政治屋らが国政のトップにいたことを思い出したのである。

当時、衆議院議員であり、後に内閣総理大臣になった中曽根康弘のことだ。 

1976年のロッキード疑獄の際には、田中角栄(当時・内閣総理大臣)が逮捕・起訴されるという大事件があったが、当時、中曽根康弘も『真っ黒』と言われていながら不思議なことに警察・検察の追及の網をすり抜けてしまった人物である。

今一人、故人ではあるが読売新聞や日本テレビの経営者であった正力松太郎である。

この人物がアメリカCIAのエージェントであったことは米国公文書の公開で既に明らかにされているが、警察官僚であった正力が1923年の関東大震災の折に「朝鮮人暴徒化の噂」があると流し、日本人による朝鮮人大虐殺事件を引き起こさせる原因を作った人物であることも判明している。

こうした連中がアメリカの思惑や期待通りに原子力発電所を日本に導入するため、(原子力=核分裂=原子爆弾=核生成物発生=国民の生命の危険・環境汚染)という図式を国民の耳目から覆い隠し、アメリカの提灯持ちをやってきたことが許せないのである。

広島・長崎・第五福竜丸、それに幾つかの原子力施設の事故。

何度も書くが、核分裂を起こさせば必ず核生成物は生まれるものであり、目に見えない核生成物から発せられる放射線は人体や自然環境に害を与えるものである。 その統御・管理が完璧にできず、放射線量の量によっては医療方法も無い現段階では『原子力は超危険』であることを認識の基本としなければならないのである。

私が危惧するのは人々の安楽さ気分。 つまり、『のど元過ぎれば熱さ忘れる』の諺の通り、広島・長崎に原爆が投下され未曾有の大惨事が起きて以後66年を経て果たしていかほどの人たちが原爆=原子力=核分裂という知識をもって考えているか、いささか不安な思いでいるのである。

マスメディアが取り上げると同時に人々の関心も高まる。が、時間経過とともに関心も弱まり、やがて霧消していく。 まして、自らが体験したこと以外、他地域や他人が経験したことに対する関心が薄いのは現代日本人の特徴のようなものでもある。

私は、こうした感覚が怖い。

熱しやすく冷めやすいのが現代日本人の特徴なんだろうか。

マスメディアが流行情報を流すと翌日には北の端から南の端まで同時流行現象が見られる。 これぞ将に金太郎飴。

付け加えて言うなれば、マスメディア自体、意図しようがしようまいがオピニオンリーダーになっていることは事実であり、自覚自戒してほしいが、同時に人々にはメディアに対するリテラシーを身につけてほしいと願うばかりである。

情報は24時間365日垂れ流しの如く私たちを取り巻いている。 しかし、それらの情報の全てが絶対に正しいわけではないし、全てを必要とするものでもない。 大事であるかないか、重要であるかないか、それらを取捨選択できる能力を私たち自身が持たなくてはならないと私は考えているのだが・・・・・

広島、長崎の原爆忌が、そして15日の終戦記念日も過ぎ、今年もお盆の送り火を終えた。

3.11の大地震と津波。 沢山の仏さんを送るという辛い年である。 辛さは早く忘れてしまいたい。 忘れるように努めよう。 しかし、多くの教えを得ることもできた。 これらの教えは忘れてはならない。 時が過ぎ、世間の話題から消えて行こうとも教訓は冷やしてはならない。 決して。



masatukamoto at 08:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 14, 2011

夏の虫たち

連日の暑さに茹だる思いの毎日であり、当ページをご覧頂いている皆さん方には

残暑お見舞いを申し上げます


このところ朝5時45分くらいだろうか、東の丘陵上に太陽が顔をのぞかせる。 その頃よりジィージィーとアブラゼミpict-P1030831アブラゼミの合唱が始まり、縄張りを主張するのかヒヨドリもヒーヨヒーヨとうるさく鳴く。 生ゴミの収集日にはカラスたちのだみ声が谷間にこだまして、この日だけはヒヨドリもアブラゼミもおとなしい。

数年前まではクマゼミが盛んに鳴いていたが、昨年も今年もクマゼミの鳴き声を聞かない。 6、7年前、博多でも広島でも我が家周辺でも、見かけるセミはクマゼミばかりで、いったいどうしたことかと不思議に思ったことがあったのだ。

と言うのも、私が小さい頃からセミと言えばアブラゼミが主で、時にミンミンゼミやニイニイゼミが混じっていたくらいでクマゼミを見かけることが無かったからである。 
pict-P1030830モンシロチョウの蛹(1)
写真は我が家の網戸に飛んできたアブラゼミ。 夜、部屋の明かりに誘われて飛んで来るのか、朝、庭であお向けに死んでいるアブラゼミをよく見かける。


左の写真は我が家の門柱にくっついたチョウの蛹(サナギ)だが、多分モンシロチョウであろう。

モンシロチョウは春からずっと我が家の庭先に飛んできている。

ひとつには家内が庭先一面に育てている鉢植えの花々の密を吸うためにやってくるのだろうが、今ひとつは私が栽培するラディッシュ(二十日大根)の葉っぱに卵を産み付けるためであると思う。 事実、6月に入って以降、ラディッシュの葉っぱの裏に小さな黄色い粒の卵が産み付けられ、やがて青虫になった幼虫に随分痛めつけられてきた。

「お前たちを養うために育てているのではない」と、可哀想だとは思いつつ随分の青虫を捕殺してきた。

pict-P1030828モンシロチョウの蛹(2)
山椒の若葉にはアゲハチョウが卵を産み付けに・・・

以前、山椒の若木1本の葉っぱという葉っぱを全て食べ尽くされて枯らしてしまったこともあった。

左の写真も上と同じサナギだが、なんだか耳のある小動物が手を合わせて拝んでいるように見える。

いつも思うのだが、色合い、模様、形等々、小さな生き物の擬態には驚かされる。

アゲハチョウの黒っぽい幼虫の時は山椒の木の枝と区別がつかないくらいだし、モンシロチョウがラディッシュの葉っぱにいる時は葉の色と寸分変わらないくらいの色合いをしている。 特別に目を凝らし、老眼鏡をかけて、やっと発見できるほどである。

一昨日(8月12日)発見したのがキアゲハの幼虫たち。
pict-P1030821食欲旺盛キアゲハの幼虫
普段、花などへの水やりは家内がやっているのだが、家内にとって気掛かりなのは鉢植えの花のことばかりで私が手掛けているハーブ類に興味はあまり無いらしく、青虫が沢山いて葉っぱが食い荒らされていても気にならなかったらしい。

写真はイタリアン・パセリを食い荒らしているキアゲハの青虫たち。

プランターの土が見えないほどに葉や茎を広げていたイタリアン・パセリが見るも無残な状態になっているが、これだけ食い荒らされ、幼虫も終齢段階の大きい青虫なのに家内の目に留まらなかったとは・・・いかに無関心であるかが分かろうというもの。

料理の彩りに使ったりするくせにと思いながらも仕方がない。 いずれ青虫がいると言っても捕り方は私なのだから。
pict-P1030824キアゲハ幼虫2齢
鉢植えの花についても、アブラムシ・葉ダニなどの虫、それに葉の養分が少ないからと、殺虫剤や窒素系肥料をと助言するのは私の役。 ナメクジについては箸でつまんで容器にポイ。 これだけは自分でできるようになった。

上は三つ葉を食害する
キアゲハの2齢幼虫。

二種類の
イタリアン・パセリを2つのプランターに植えているのだが、いずれも相当食い荒らされ、止む無く三つ葉のプランターに産み付けられた卵の幼虫なのだろう。 三つ葉は未だ食害は少ない。
pict-P1030818キアゲハ幼虫(3齢~5齢へ)
写真はイタリアン・パセリを食害する
キアゲハの幼虫。

3齢幼虫が脱皮して4齢幼虫
(下の黄色の縞模様)に成長したところ。 脱皮した黒っぽい皮が幼虫の尻の方(右側)に見える。 
左上は、多分まだ
3齢幼虫であり、ものさしを這わせてみたのが次の写真。

pict-P1030835
伸縮させて体を移動させるので、計測には多少の誤差が生じる。





pict-P1030836
青虫は5齢幼虫である。




pict-P1030843キアゲハ終齢幼虫の顔
この青虫君の顔。

怒るとオレンジ色の角を2本出すのだが、どこが顔なのか・・・

写真を撮ろうと思ったけど焦点を合わすのが難しい。
黒い『ハ』の模様あたりが正面なのだが・・・男前なのかどうか・・・??


pict-P1030852前蛹への準備2
これまで捕殺してきたのだが、何となく可哀想になって紙箱にパセリや三つ葉を入れて飼い始めたところ、3匹が前蛹の準備段階に入った。

しかし、よう食べる食べる。

幼虫たちの食欲は凄いものであり、たっぷりのパセリと三つ葉を朝に活けてやっても昼過ぎには茎を残すのみ。



pict-P1030821産卵に来たキアゲハ幼虫が捕えられたのかどうか、知ってか知らずか
キアゲハが何度も卵を産み付けに飛んでくる。

葉っぱに細い脚をかけ、羽をはばたかせながら尻を曲げ、葉裏に尻をくっ付けるようにして産み付けては飛び去り、そしてまたやってくる。

「お前たちに食べさせるために植えているのではない」と
思いつつも、可哀想になってしまい、ついつい・・・

お盆に入って今日は14日。 放生としたいところだが、せめて蛹になるまでは世話してやろうか。 


masatukamoto at 17:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 10, 2011

長崎原爆忌に思う

1945年8月9日午前11時2分、世界で2例目となるアメリカ軍 B-29 爆撃機による原子爆弾の投下が長崎に対して行われた。

広島原爆の1.5 倍の破壊力を持つ原子爆弾であったが、爆裂したのが長崎市の中心部より少し北側の山に挟まれた浦上地区であったため、広島に比べれば被害は抑えられたと言われている。

それでも原子爆弾たった 1 個の炸裂によって、長崎市の当時の推定人口 24万人のうちの 62%、約 14万9千人の人々が亡くなっているのである。 昨日、長崎は被爆から 66 年目を迎えた。

原爆の犠牲となられた

多くの人々には

心底より哀悼の意を捧げる

また、いまだに原爆病で苦しむ人々には心よりお見舞いを申し上げる。


私は原爆も大阪大空襲も知らない、勿論従軍経験など無い。 

これは幸せと言うべきことである。

しかし、空襲で焼け残った実家の天井の大きく裂けた穴のことが私の記憶に鮮明に残っている。 これは米軍の
B-29 が無差別爆撃を行った際、投下した不発焼夷弾が瓦屋根を突き抜けた時に出来たものだと母親から聞かされていた。 

幼児期の記憶だから断片的で時期的にも正確ではないが、焼野原になってしまった西区靭一帯、大阪駅前に建つバラックの群れ、大阪駅地下道の傷痍軍人たちや靴磨きの少年たち。 土埃を巻き上げながら走る進駐軍のジープ。 幌をかけた荷台に小銃を抱えた進駐軍の兵士たちを乗せ
て走る軍用トラックなどなど。

子ども心にも戦争というものが何だか
怖い思いの記憶として残っている。
pict-img074
仕事を離れてから随分と書籍類を処分した。 戦争に関わるもの、当然原爆に関する書物も含まれていた。 現在手元に置いている原爆関係のものは記録写真集だけである。

随分以前に頂いたものや、内容は重複するが購入したもの、それと何年か前に頂いたものであり、原爆被災後の広島・長崎の悲惨な状況が写真で語られている。

原爆の、そして愚かな戦争の結果がどのような状況になったのか、私は日本の人々は勿論のこと、世界中の人々が事実を知り、そして伝えて行かねばならないものだと考え行動できるよう、これまで微力ではあるが自らの課題として実践してきた。 微力も微力、今もって充分などと思えないほどなのだが。

1945年8月14日、ポツダム宣言受諾(無条件降伏)。 同年8月15日天皇の玉音放送をもって終戦(一般的に)。
pict-img072
そして、1946年11月3日に日本国憲法が施行された。(公布は1947年5月3日


その日本国憲法の前文は戦前の体制の反省の上に立って、国の主権が国民にあることを宣言し、基本的人権の保障と平和の維持・追及の権利を明確にしている。


悲惨なる原爆被害の実情を知り、残虐なる戦争が終結したことに安堵した国民は日本国憲法の制定を大いに歓迎したはずであった。

そして、世界に例を見ない2例もの原爆被害を受けた日本は、核開発、核実験に反対してきた。

しかし、原子力の平和利用なら良いではないかと自民党政府、財界、一部学者らの主導によって原子力発電の企業化が進められるようになっていった。

平和利用とは耳触りの良い言葉ではあるが、原子力利用、つまり核分裂を完全に制御・管理しきれるならば利用という言葉も正しいかもしれないが、この辺りの危惧が今回の東京電力福島原子力発電所の事故によって管理しきれないという実態が露呈してしまった。

原子力発電の基本は核分裂の連鎖反応であることは前の項で書いたが、この核分裂を制御・管理できなければプルトニウムやセシウムなどの核生成物が出ることは分かっていたことなのである。
pict-img073

左の長崎医大の記念誌において、濱里欣一郎氏(放射線科医師)が核分裂の事故について語っているので当該部分を以下の通り抜粋する。

1979年、アメリカが行ったビキニ環礁での水爆実験の際、第五福竜丸は中心地から160kmの地点で爆発後3時間目に死の灰が襲い、乗組員23人のうち久保山さんは最も被爆量が多く 7.1 シーベルトと推定。 人が一度に全身を浴びた時、6シーベルトの線量であれば必ず死にます。これを致死線量と言います。その
致死線量を超えている訳ですから、最新の治療を受け、生存期間は延びましたが、結局亡くなりました。 22名の半数11名は肝臓癌で亡くなっております。

『死の灰』が身体の中に入り込み、肺・骨髄・肝臓に蓄積されます。『死の灰』から出るアルファ粒子(ストロンチウム90・セシウム137・プルトニウム139など核生成物11種類)が出ます。アルファ線は遠くに飛ばず、近くの肝細胞を破壊し、細胞障害を起こします。これらの核生成物は長いこと肝臓内に留まりますので、その内に染色体の変異(癌化)を来たし、肝臓癌となるのです。

チェルノブイリの原子炉融解、爆発事故があり、致死線量以上を受けた人が30名。 国際的なプロジェクトが編成され、世界中から専門家が集まり、骨髄移植など最善の治療がなされましたが、9日以内に全部亡くなっております。 受けた線量14シーベルト。致死線量の倍量でした。被爆線量がこんなに多くなれば、最高の医療も無力なんだと思いました。

1999年、東海村原子力燃料施設で臨界事故がありました。 この事故で2人亡くなりました。 その時のウラニウム235の量は、僅かに1000分の2グラムでした。 目に見えない、そこらの埃と同じくらいの大きさの物質が瞬間的に一挙にエネルギーを放出すれば、2人の人間を簡単に殺せるのです。 チェルノブイリの時代よりも、もっと進んだ医療を、日本の放射線医療の最高のスタッフが、最新の医療施設で診療にあたったにもかかわらず、亡くなりました。(200日生存) 原子力の前での医療の力の空しさを感じました。 今のところね致死線量を超える被爆をした場合には誰も助けることはできません。 

そこで「原子力は戦争の抑止力になる」と言う人たちがいます。 とんでもありません。 事実、紛争地帯での実態は、相手が原爆を持つなら自分も持つと言って、実験を繰り返し、製造しておりますので、今のところ原子力は抑止力にはなっておりません。
≪抜粋は以上≫

原子力、つまり核分裂を制御・管理できなければ核生成物が出て
目に見えない放射能を発生させる。 それが気流の関係で空にのぼって降ってくれば『死の灰』と同じことであり、水の循環を考えれば、土壌汚染、河川・海洋汚染となり、半減期の長い核生成物が人体内に蓄積されていくことも充分考えられることなのである。

核分裂の制御・管理どころか、
核生成物が自然環境や人体に対して与える影響を無力化することも完全にはできず、被爆した際の線量によっては医療の方法も無いという状況で、よくまあ原子力の平和利用などと、全く人間の命を何だと思っているのだろうか。

世界で唯一の被爆国と言うならば、原子力というものに対して、もっともっと厳しい目で見てしかるべきこと。

広島原爆忌、長崎原爆忌が単なる祈念集会になっているのではないかと私は感じ始めているのだが、そうでないことを祈りたい。

原子力依存の考え方を、政界も産業界も各学会も含めて改めるべきだと、被爆66年目にして私は思いを新たにしている。



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August 07, 2011

夏の夜空の花

今年も大輪の花火を見せてもらうことができた。

もう何回目になるのだろうか。 子ども達の年齢から数えれば、かれこれ30回目に近いのかもしれない。
花火合成(2)
現在の住所に移り住んだ頃、周囲は松やクヌギなど様々な樹木が覆い茂る里山と棚田が広がる自然豊かな場所であった。 

『孟母三遷の教え』ではないが、子ども達が成長する過程で『自然に親しめる環境を』と現在地に住居を定めたのであった。

まあ昔のことはどうでも良いが、花火の打ち上げ場所が現在の場所になったのは、子ども達が中学生の頃だったように思う。

丘陵の東端に位置する我が家から花火を鑑賞するのに何の障壁もなく、谷向こうに打ち上げられる花火を部屋の中から眺められる、将に特等席なのである。
花火14
1年に一度、夏の夜の30分間、その規模において大阪・富田林のPLや淀川の花火大会には及ばないものの、充分に楽しませてもらえる花火大会である。

交通機関を利用して現地へ出向くわけでもなく、蒸し暑さを我慢する必要もない。

風呂上がりに冷たいビールを楽しみながら夕食を食べ、花火打ち上げが始まる午後8時を待つ。
打ち上げ開始を告げるドドドーンパチパチパチという音が響いたら部屋の電灯を消す。

続いてドドーン・シュルシュルシュル・パッ。
花火12
大輪の花火が夜空に広がる。

大きさ、色合い、はじけ方、形や模様なども様々。

全てを写真に収めたわけではないが、いくつかを紹介しよう。
花火6
花火7花火11
花火5
花火10花火18
花火19
花火21花火20

花火22デジカメで花火を撮影するのはイマイチである。

デジカメにはいろんな機能があるようだが、私自身がすべての機能を理解し使いこなせていないからであろう、自分が思うほどの写真が撮れない。

昭和30年からだったと思うが・・・父親が使用してきたニコンFを譲り受け、昭和45年以後私が使ってきた。 これならもっと多様な撮影が出来るのだが今ではカメラが重くてお蔵入りになってしまっている。
それに、最近は『凝る』ということが無くなってきた。

何事も、そこそこにという精神的後退感が・・・・・  いつのまにかジイサンの仲間入りをし始めているようだ。



masatukamoto at 17:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 06, 2011

広島原爆忌


原爆により

亡くなられた人たちに対し

謹んで哀悼の意をささげます。



1945年8月6日午前8時15分
広島に起きた出来事を我がこととして受け止め伝えていきます。

今猶、放射線による障害に苦しんでおられる方々に対し
心底よりお見舞い申し上げます。


                        2011年8月6日 記


masatukamoto at 12:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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