September 2011
September 28, 2011
出雲・石見 (三瓶山)
表題に出雲・石見と昔の国名を書いたが、出雲(いずも)というのは現在の島根県の東部地方で雲州(うんしゅう)と呼ばれていた地域であり、石見(いわみ)というのは島根県の西部地域で石州(せきしゅう)と呼ばれていた地域である。 現在の島根県には旧国では隠州(おんしゅう)・隠岐が含まれているが、離島であり今回は行かなかったので表題からは省いている。
山陰、とりわけ出雲地方における人々の生活の歴史は古く、縄文・弥生期の遺跡や遺物が多数発見されていることからも分かる。 出雲というのは前ページで書いた安来市や松江市、出雲市、雲南市などの地域であり、早くから鉄器文化が栄え、大和朝廷や北部九州と同様の古代国家が存在していたことが考古学や歴史学の分野で明らかにされてきている。 また、科学的とは言えないが古事記、日本書紀、そして出雲風土記などでも出雲に関わる記述がよく見られる。
写真は三瓶山。
出雲風土記では佐比賣山(さひめやま)として国引き神話に出てくる出雲國と石見國の堺(境)にある山である。
9月半ば。 すっかり秋の風情を漂わせている裾野であるが、写真右手の山が子三瓶(961m)、左が男三瓶(1126m)で、三瓶山というのは独立峰ではなく、他に女三瓶(957m)、孫三瓶(907m)を加え、地形的には4つの鐘状火山(トロイデ)が火口湖(室の内池)を環状に囲む火山の総称である。
私が学生の頃は、白山・大山・三瓶山・由布岳・九重連山・雲仙岳と連なる火山群を白山火山帯と呼んでいたが、現在は西日本火山帯と呼ばれ、三瓶山もこれに属している。
写真の峰は右から女三瓶(めさんべ)、男三瓶(おさんべ)、子三瓶、孫三瓶と続き、この写真撮影位置は大平山(854m)。 大平山は火山ではないが、三瓶山とともに火口湖(写真中央の窪み)を囲んでいるのである。 上のパノラマ写真は、およそだが北西方向を向いている。
三瓶山の草花は秋の様相を示していたが陽射しはきつく、ほんの僅かな距離を歩いただけなのに汗でビショビショ。
若い頃なら三瓶山を一巡りするぐらい平気だったけど、さすがに今の年になると無理であり、この大平山へもスキー場に設置されているリフトを利用して登ってきたのである。 しかも普段の革靴のまま。
学生の頃は夜行列車で米子まで行き、伯耆大山に登って、その日に帰宅するということもやった。 長い距離を歩いたということでは岩手県の大更から松尾鉱山、大黒森から八幡平を縦走、後生掛温泉で1泊してから玉川温泉へ至ったというコースが思い出に残っている。 今はスキー場が開かれているし観光用の道路も通っているが、昭和39年(?)にそのようなものは無く、ブナやカンバの森を抜け、クマザサやハイマツの群落の中を歩いて行った。 夏山のことではあるが革の登山靴にテントにリュックを背負っての装備である。
後生掛温泉は山間に湧く湯に古びた山小屋のような小さな宿が1軒あるだけで、他の施設は何も無かった。 一人歩きで恐ろしいのは事故に遭遇することである。 滑落、転倒などによる骨折、捻挫等のほか、熊や毒蛇との遭遇、天候の急変や落雷など、地図によるコースの確認と合わせて注意を全方位にわたって行わねばならない。
昔々のことを思い出してしまった。 昔のことを思い浮かべるのは歳を取った証拠だと。 確かに。
この三瓶山を歩いていて所々に立てられている板に『毒ヘビに注意』との文字と蝮(マムシ)の絵が描かれているのを見た。
私は小さい頃よりヘビが嫌いなのである。
小学校に上がるか上がらないかといった頃、大阪の町中にあった我が家の台所の水屋の引き出しにとぐろを巻くアオダイショウがおり、母親が驚いていた姿を今も覚えている。 これは近所のガキ大将が尻尾をつかんで引きずり出し、振り回して路面に叩きつけていたが、多分、私のヘビに対する嫌悪感はこの時に植え付けられたものと思う。
その後、小学校の1年か2年の頃、当時はプールというものが珍しく、夏休みには芦屋・苦楽園の叔母の家の近くにあった山のプール(六麓荘)でよく遊んだ。 山の斜面を切り開いて造られていたプールだから、プールサイドには自然なままで岩があったのだが、その岩にいたマムシに噛まれて近くに住むお兄ちゃんが亡くなったことを聞かされたのだ。
マムシが何メートルか跳び、噛まれるとマムシの毒で人が死ぬということも、マムシが三角頭をしているということもその時に知った。
マムシに限らず、私のヘビに対する嫌悪感と恐怖、そして徹底した攻撃心はこの時点で完成したのだろう。 以後、沢や沼の近くなど樹陰で湿り気がある場所では最大限の注意を払ってきたし、マムシを見つければ自らの安全を確保しつ徹底的に攻撃を加えてきた。 ヘビは執念深いと言うが、ことマムシに関しては私の方が執念深いと言えるかもしれない。(ぶっははははは)
ところで大平山のリフトに戻る山道で先を歩く家内の直ぐ前をカラスヘビがニョロニョロ。 一見してカラスヘビと私には分かったし家内も当然歩みを止めると思ったのに、何と家内は驚きもせず勿論歩みを止めることもなくサッサと歩いて行く。 カラスヘビの方がきっと怖かったのだろう、シュシュシュシュシュッと山道を横切って斜面の藪に入って行ったが、その動きの素早いこと。 そのことを家内に話したが、家内は全く気付かなかったんだと。 何という奴っちゃ、ははははは。
※ カラスヘビはシマヘビと同類であるが、黒色素が多く表れた変異体でカラスのように全身が黒いためカラスヘビと呼ばれている。
上の写真は『定めの松』と名付けられている大田市指定天然記念物で、慶長6年(1601)、石見銀山の初代奉行・大久保石見守長安が検地をもとに交通網の整備を行った際、一里塚の基準として定めた松なのだとか。 根上がりの立派な2株の松で樹齢は約400年と推定されている。 (松の後ろの山が子三瓶、左が男三瓶)
さて、石見銀山の奉行・大久保長安の名前が出たところで世界遺産に登録された石見銀山に話題を移したいが、私の嫌いなヘビのお話(神話)が出雲地方を舞台として古事記や日本書紀に出てくるので、もうしばらく出雲國と石見國のことに触れておきたい。
September 25, 2011
出雲・石見 (さぎの湯)
JR大阪駅を7時37分出発の特急に乗れば、連絡がスムースならば美術館には12時30分に入館できる。
美術館の見学所要時間は個人によって異なるが、私たちの場合は2時間から2時間半。 とすれば、帰りは大阪駅に20時過ぎに到着だろうか。 我が家を早朝6時に出て、帰宅は22時。 昼食は車内での弁当という駆け足見学行となるだろう。 マイカーでも大きい違いにはならない。 高速道路を乗り継いでも我が家から美術館までは5時間近くかかるので、若い頃ならともかく、今は日帰りするには遠すぎる。
写真は足立美術館に建つ『案内する足立翁』(西望・作)の像と『庭園日本一』
(2003~ 8年連続)受賞の記念碑である。
『庭園日本一』の栄誉はThe Journal of Japanese Gardeningが与えたようだが、私はよく知らない。
『足立翁』というのは財団法人足立美術館の創設者である足立全康氏のことで、氏は安来市出身である。
ちなみに『足立翁』像の作家、西望とは北村 西望(きたむら せいぼう)のことであり、彼は長崎県島原出身の彫刻家であり、長崎の『平和祈念像』の作者である。
北村西望については『九州への旅・・・13 長崎・島原』(November 27,2008)で彼の作品についも紹介しているので参考までに見て頂ければと思う。
『案内する足立翁』像と向き合うように建つ下の写真の作品『将軍の孫』もプレートを見れば西望・作となっている。
将軍が誰なのか知らないが、大きいブカブカの将軍のブーツをはいて敬礼姿勢をとる孫の様子は表情とも相まって何とも可愛い作品である。
安来(美術館)が遠いと書いたが、昔に比べて山陰地方を訪れるのも便利にはなってきた。 汽車がディーゼルに、そして電化が進み、単線が一部だが複線化され、運行列車本数が増え、所要時間の短縮化も随分進んだ。 道路も中国自動車道が開通後、鳥取道(一部未完)、米子道、浜田道と3つの南北連絡道ができ、日本海沿いにも山陰自動車道の部分開通が進んで便利になってきているのは実感できる。
しかし、関西に住む私にとって、岡山や広島へ行くのと鳥取や島根へ行くのとでは気分の上で大きい違いが今なおあるのは隠し様の無いことである。
そうしたことはともかくとして、旅に出るにはどれだけ荷物を少なくしても着替えなど最低限の荷物は持ち運びしなければならない。 その為、子ども達が幼かった頃の旅行は大変苦労したものだが、自動車を用いるようになって荷物を運搬する労力は格段に軽減され、老齢と呼ばれるようになった今、自動車で旅行できることに感謝しているのである。
ところで足立美術館が建っている辺りは『さぎの湯』と呼ばれる温泉が湧き出している場所である。 前にも書いたが昭和47年(1972)に当地を訪れた折、同じ泊まるなら町中の宿よりも温泉のある方が良かろうと、ただそれだけの理由で『さぎの湯』へやって来たのであった。 そして『さぎの湯』と書かれた看板を見て、いわゆる「飛び込み」で『さぎの湯荘』の客になったのだ。
写真は現在の『さぎの湯荘』であるが、写真の奥にある中庭を囲むように施設があり、39年前の私の記憶とは全く異なり随分大きく立派な旅館に変わってしまっていた。 白壁の建物の外観の一部に私の記憶と重なり合うのを感じたほか、旅館の筋向いにある『めし』の看板と、それを掲げる建物が妙に懐かしみを覚えたので、この『めし屋』は以前のままなのかもしれないと思った。
『さぎの湯』というのは『鷺の湯』であり、この名前は奈良時代に白鷺が舞い降りて足の傷を治したという伝説に由来するものらしい。 温泉にはこうした言い伝えが多く、鶴、鳩、鹿、駒(馬)、熊など動物に由来する温泉が各地に結構ある。
現在『さぎの湯』には私たちが宿泊した『さぎの湯荘』のほか、『竹葉』『安来苑』といった宿がある。
何年か前に温泉の湧出量不足から温泉の水増しをしたり成分含有量の誤魔化しなど、将に《詐欺の湯》が問題になり、それ以後、各地の温泉旅館では『源泉かけ流し』という言葉で湧出量や温泉成分の真実性を主張してきたが、この『さぎの湯』も全て『源泉かけ流し』を謳い、私たちが泊まった『さぎの湯荘』では『源泉かけ流し』に加えて、24時間いつでも入浴できるとも案内していた。
旅館によって入浴時間を夜12時までとか朝は6時からとか制限しているところもあるが、24時間いつでもオーケーという旅館は久し振りであった。 旅館側からすれば、従業員の労働時間や電気(燃料)料金、浴場の清掃や保守、更には保安の問題など様々な問題を抱えるが故に入浴時間の制限を行っているのであろうが、温泉を楽しみたいという客の立場からすれば入浴時間は自由であるべきとの思いがある。
※ 夜明け前の露天風呂(撮影時フラッシュ使用)
温泉法によれば25℃以上の水温で指定成分を一定以上含有するものを温泉と呼ぶようになっているが、通常私たちの温泉のイメージは酸・アルカリなど鉱物元素などを含み常時一定量の湧泉のあるものであって、夜間は湧出しないものなど想像することは無い。 実際、旅館などが構築した施設で、その管理下にある浴場以外の天然の温泉は将に年中無休で開放されているのである。 とは言え、自噴する温泉を直接浴槽に流し入れたり源泉から引湯したり、しかもシャワー等の設置や浴場の清掃など衛生安全面での管理等も含めて業務としている旅館のことであるから24時間浴場開放を客の願いとして持ってはいても要求するのは酷なことである。
これは旅館などが自らのサーヴィスの一環として提供するのを、客としては感謝の念を持って利用させてもらうというのが有り方としては正しいと私は思う。 ともあれ『さぎの湯荘』の24時間入浴を可とした宿の姿勢は高く評価したい。
『さぎの湯荘』や足立美術館の建つ辺りは山々に挟まれ田んぼが広がる牧歌的雰囲気の濃いところである。
早朝、湯に浸かった後に宿の浴衣姿のまま木下駄をはいて飯梨川の堤まで散歩したが、朝の冷気は風呂上りに気持ち良いものであった。
既に刈り取られた早稲の稲わらが束ねられ、軽トラックでやってきた農夫が1人何やら作業を始めていた。
手前の水路からは白い湯気が立ち上っている。
浴槽からあふれ出た温泉が流れているのだろうか。
少し写真を拡大してみた。
西の空には有明の月が眺められる。
月齢16日。 9月14日の朝である。 こちらの稲刈りももう直ぐだろう。 どの稲もたわわに実った頭(こうべ)を垂れている。
ほぼ40年ぶりに訪れた宿の施設・設備はすっかり変わっていたけれど、若い頃の私の良き思い出が壊れなかったことを嬉しく思った『さぎの湯荘』であった。
September 22, 2011
出雲・石見 (足立美術館 Ⅱ)
足立美術館は庭園美を誇るだけではない。
前のページで書いたように日本画、とりわけ横山大観の作品収蔵についてはトップクラスである。
私たちが訪れた時は大展示室で『秋季特別展(日本画どうぶつ園)』が開催されており、大観のほか、橋本関雪、榊原紫峰らの動物画が展示されていた。(足立美術館ページにリンクしている)
足立美術館のウェブ・ページでも数点の絵画を紹介しているが、1984年の夏に足立美術館を訪れた際に購入したカタログ『足立美術館名品100選』(昭和59年4月刊)が手元にあるので、動物画の一部を紹介したい。
上の写真は、橋本関雪『玄猿図』。
墨画であるが、松の枝に乗った微細な猿の毛並とともに四肢の動きを見事にとらえ表現しているところが素敵な作品である。
左は竹内栖鳳の作品『爐邊』。
何ともカワユイ安心しきった表情のワンコである。 この絵は美術館のページでも紹介されているが、主題が『爐邊』。 爐の辺りという意味だが、昭和10年の作品であり、爐=炉は薪を燃やす暖炉か、石炭を燃やすストーブだろうか、火掻き棒が描かれているだけであり、見えない部分が見えるかのようにイメージをひろげさせてくれる絵である。
次の作品は、川端龍子の『愛染』(二曲屏風半双)である。(今回は小展示室に展示されていた)
これほどの紅葉が水面に浮く様子を実際に見ることはないと思うが、いつも雌雄一緒に泳ぎ、仲良し夫婦の代名詞でもある鴛鴦(おしどり)が泳いだ二つの大小の軌跡が絵全体に動きを与え、右下に青色で水面であることを印象付ける見事な構図であると私は思う。
この絵を観て、『愛染』という言葉の意味まで高められる感情まで私の理解は及ばないが、対象や色彩などこの絵全体から龍子が表現しようとするパッションだけは十分に受け止めることはできる。
左は『冬之夕』(ふゆのゆうべ)。
これは大観の作品であり、私が好むもののひとつである。
うっすら積もった綿帽子の重みに僅かばかり傾いた椿の枝先に赤い花。 後ろの竹を淡く描くことによって手前の椿を引き立たせ、そこへ二羽の雀を描き入れることによってギュッと絵全体をまとめている。
横山大観『紅葉』 (六曲屏風一双) 大観室に展示されていたが、前記のカタログ『足立美術館名品100選』(昭和59年4月刊)の2ページ分を合成してみた。
次は横山大観の作品で『無我』。
これはカタログ『足立美術館名品100選』(昭和59年4月刊)に掲載されていないものなので購入したカードを写真にしてみたが、以前に訪れた折には観なかった作品である。
現在の足立美術館はかなり広い展示スペースを持っているが、私が初めて訪れた昭和47年(1972年)の夏には『大観展示室』というのは無かったように思う。 夏季特別展として大観ほか錚々たる日本画家たちの作品が展示されており、この『無我』はおそらく収蔵庫で休んでいたのではなかろうか。
横山大観の作品『無我』は切手の元絵となっており、東京国立博物館が所蔵しているものと思っていたものだから、今回足立美術館で見た『無我』も東京国立博物館から借りているものとばかり思い込んでいた。
ただ、「ちょっと違うな。」という思いが頭をかすめた程度であった。
東京国立博物館所蔵の大観の作品『無我』については手元に資料が無いので切手の絵を紹介するが、主題も対象も構図もほとんど変わりないのだが、明らかに異なる点がある。
切手は近代美術シリーズ第16集として昭和58年(1983)に発行されたものだが、足立美術館の絵画『無我』と切手の『無我』では彩色が違っていることが一目瞭然。
このように並べ比べて見るとよく分かるのだが、作家は横山大観であり、主題は『無我』、対象の童子と立居姿、背景と位置など、ほとんど同一条件を揃えている二つの作品を時期や場所など別々の機会に鑑賞したなら余程興味を持って注視していなければ、この二つの作品が別箇のものであると判断するのは難しいことだと思う。
難しいと思うのは私だけなのかもしれないが、二つの絵の異なりが更にはっきりするように切手の絵を拡大してみよう。
いかがであろうか。
この作品の主題『無我』というのは3点制作されているらしいのだが、そのことを知らなかったものだから今回足立美術館に展示されてある作品を観ても以前に足立美術館で観ていなかったこともあって美術館を出ても尚東京国立博物館所蔵の絵だと思い込んでいたのだ。
知らないというのは何と強いことか。
旅行から帰り、大観とその作品について学習し直して初めて同じテーマの作品が3点あることを知った。 何と恥ずかしいことか。 知らないでいるということは恥ずかしいという感情をも持たないこと。 『無知の知』ではないが、いささか哲学的になるのでこの辺で終えておこう。
ちなみに『無我』の三点目は長野市の水野美術館にあるという。
水野美術館は2002年に開設されたらしく私は訪れたことがないが、美術館便りに大観の『無我』が紹介されているので引用・リンクしておく。
三点を比べ見るとそれぞれに趣きが感じられて良いものだ。
足立美術館では、林義雄の童画や現代日本画家の作品も多く蒐集展示されているし、河井寛次郎や北大路魯山人の作品を展示する陶芸館もあり、いずれにせよ日本画の収蔵・展示について、足立美術館はやはり我が国ではトップクラスの美術館であると言える。
私の書架に『足立美術館陶芸名品選・河井寛次郎』(平成2年刊)があったが、いずれ寛次郎のことも紹介することになるかもしれない。
足立美術館について私の場合は日帰りができないというのが難点だが、文化・芸術が都市部に集中する中、地方に根を下し花を咲かせている足立美術館などは大いに応援したいと思う。
September 21, 2011
出雲・石見 (足立美術館 Ⅰ)
足立美術館というのは現在の島根県安来市にあるのだが、日本画、とりわけ横山大観の作品収蔵では我が国ではトップクラスである。 大観の作品については東京・上野の池之端に横山大観記念館があり、ここの収蔵数も多いが、数的にどちらが多いのか私は知らない。
島根県安来市と言えば『どぜうすくい』で有名な『安来節』の本場であり、西に松江市、東を鳥取県米子市に挟まれ、北は中海(なかうみ)に面し、南は中国山地を擁し、古代出雲地方の一画を占めていた地域である。
足立美術館が開設されたのは昭和45年(1970)の秋である。
昭和47年(1972)だったと記憶しているが、出雲方面に旅行した時のことだ。 当時の私は近代日本画にあまり興味が無かったのだが、山陰の辺鄙な場所に美術館が建てられているということに興味を持って初めて足立美術館を訪れた。 「ついで」という言葉があるが、美術館の建つ場所が旅の宿と決めた『さぎの湯』の直ぐ前であったという将に「ついで」のような感じで訪れたというのが正直なところである。
この時の印象は横山大観の日本画もさることながら、枯山水の庭と後ろの借景としての山、それらを広いガラス張りの窓を通して、まるで額縁の絵を見るような構成に感心したものであった。
上下の写真は先日訪れた際に撮影した写真を合成しているので、やや見づらいが、この庭の造りは以前と大きい変化は無いと思う。 (以前というのは昭和47年(1972)と、その後、昭和59年(1984)に職場の仲間たちと松江から玉造温泉あたりを旅行した時にも足立美術館を訪れているので、これら2回の訪問を以前とし、それらの時と今回を比べてという意味である。)
家内が足立美術館に行ってみたいという言う目的がはっきりしなかったので、「日本画に宗旨替えか?」と家内に尋ねたところ、「足立美術館の庭が素晴らしいと聞いているので見に行きたい。」と。 なるほど、なるほど、これで私も納得。
庭は美術館の本館(以前の1号館など)を囲むように造園されており、眺める角度や位置、それに庭と庭を眺める者の間に構成物が存するかどうかでも庭の感じが変わってくる。
構成物とは、ここでは建物とそれに付随する窓のことであり、絵画で言えば額縁、カメラで言えばファインダーの枠、英語のフレーム(frame)のことである。
最初のパノラマ写真はフレームとなるものを外しているが、洋風建物のフレームを入れると下の写真のような感じになる。
和風建物の場合、明り取りに様々な工夫がされるが、窓もそのひとつで、その形も方形、円形、半月形などまちまちであり、何の細工も加えない素通しの窓もあれば障子紙を張ったものや細竹の連子を入れている窓もある。
美術館の茶室や仏間などでも明り取りの窓を設け、庭の景色を取り入れられるようにしており、和室の写真は一例だが、庭の一画を切り取って眺められる窓の形がフレームとなっている。 逆光状態の補正が効かずに外景を含めて撮影できなかったが、感じとしてはとらえてもらうことができるだろう。
今秋は足立美術館開設41年目。 その間に新館が建てられたり、以前の展示場所と異なるという変化を感じたものの、庭の手入れは変わらず行き届いていた。 以下いくつか庭の様子を紹介してみよう。
大変素敵な和風庭園が本館を取り巻くように造られているのだが、この庭を観るためにだけ来るには安来は遠く時間がかかり過ぎる。
時間ばかりではない。 費用も馬鹿にならない。
職を離れて素晴らしいと思ったのは自由な時間がたっぷり有ることだったが、その反面、収入が激減したため思うほどに動き回れないという不足を受け容れなければならないことだった。
何もかも充分に満足などということは、この世の中そうそうあるものではないことぐらい承知しているものの・・・
素晴らしい庭とは不釣り合いな話題だが、そんなこんなで安来をスタート地点と定め、ユネスコの世界遺産に登録された石見銀山も訪れてみようと出かけたのである。
以下、つづく。
September 19, 2011
安堵の電話 (続き・・・秋刀魚便)
その友人が私に書いてくれたメールの一部を抜粋してみる。(私信なので不都合な部分は省く)
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女川のおばちゃんが亡くなってしまいました。
一番元気なおばちゃんがいなくなってしまってとってもさびしいです。
ずっと友達だった人も、PTAで一緒に地震の時にがんばったお友達も、近所の人も、一緒の読み聞かせの会のとっても優しいおばさんも、たくさん亡くなってしまいました。
あーあ、まだ信じられません。
注・友人夫婦は東松島市の鳴瀬川の河口近くに実家と事務所を構えていたが、そこで町を呑み込む津波の襲来に遭った。夫婦は別々に濁流に流されたが社屋の床ごと流されており、流れの中で近付いた時、決死の覚悟で濁流に飛び込み社屋の床に合流したと聞いている。
時間が経つにつれ、取材などで自分たちの行動を検証していくと、ひとつひとつ、謎が解明されてきました。
どうして一気に上物がなくなったのか、私のいた床だけが残ったのか、
それは橋梁に飛ばされたからですし、
スピードが速かったから一気になくなってくれたから幸運だったのだし、
私たちが進行方向の突端近くにいたから、です。
注・橋梁というのはJR仙石線の鳴瀬鉄橋のこと。
でも、そのほかは
みなさんが守ってくださったとしかいいようがありません。
だから五体満足で生き残れたからにはすべきことがある、と思っています。
私たち、家・事務所がなくなってしまったことが最大の不運ではありましたが、そのほかのことは、すべて全部ラッキーなことだらけです。
感謝しています。ほんとうに感謝しています。
落ち着いてきて、いろんな映像を見たり、写真を見たり、、、
そうするとだんだんに「自分たちはよく生きていたな」と
今になって恐くなっています。
私たちが流されている映像を取っていてくれた人がいました。
新聞に掲載されたので知り合いだったということがわかり、友達を介して知らせてくれました。
見ると
私たち抱き合っているんですよ、覚えています。
川の上でのことも一部始終、覚えています。
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上のメールは5月末に頂いたものだが、私の手元にある資料(4月3日付・朝日新聞)で東松島市の死亡者数が802人、隣接する石巻市の死亡者数が2416人、女川町の死亡者数が348人で行方不明者数が約850人となっている。
こうした状況の中、友人夫婦が町を呑み込む濁流によって遥か上流まで流され、引き潮に持って行かれる寸前に救助されたのは奇跡と言う以外、私には適当な言葉が見つからない。
この友人たちが真に元気を取り戻したことを確信し、私がとても嬉しい気分に浸っていることを昨日の『安堵の電話』で書いた。 この友人が立派な秋刀魚を送ってくれたのである。
1億円もの設備機材を投入した矢先の大津波による被災。 その被災から未だ僅か半年である。
事業が元に戻るまでには尚長い年月が必要であろう。 商業に関することなどチンプンカンプン。 仮に商いを始めたとしても武家の商法で、直ぐに「ハイそれまでーよ」と、閉店を余儀なくするような私であっても現状は支出を極力抑えなければならないことが基本であることぐらいは分かる。
そうした状況下にありながら秋の便りを送って頂いたことが嬉しいし、気持ちの上でゆとりが生まれたのかと感じれることも嬉しい。
しかも女川港直送である。
『みちのく』大ファンとして東北地方の物産が届くことは、それだけでも嬉しいことだが、壊滅的被害を受けた女川港が漁業を再開して頑張り始めたということをこのサンマ便で知り得て私の喜びが倍増していることを書き添え、友への感謝の気持ちとともに『みちのく』の一日も早い復興を強く願っている私の気持ちを書き表しておきたい。
見事な秋刀魚は『塩焼き』は勿論、息子が『なめろう』を、私は『刺身』に『〆サンマ』、それに『フライ』をと、有難く美味しく頂いたことも記しておく。 感謝 《合掌》