October 2011

October 24, 2011

韓国・済州島行 (5)

♪ とんで とんで とんで ♪ という言葉は、円 広志 作詞・作曲『夢想花』の歌詞の一部であるが、ここのところの我がブログの状況に似る。 勿論、彼の詩の「 ♪ とんで とんで 」の思いとは異なるものなので断っておかねばならない。

韓国・済州島行(4)を書いてから随分日にちが空いてしまった。

済州島は『風』『石』『女』と多いものが3つあるという島の特徴をとらえ『三多島』と呼ばれていることを書いてきた。 済州島行(4)では、強い季節風が多く吹く気象条件を利用して風力発電を積極的に取り入れていることを紹介することで、『風』が多いという特徴を示した。 また同時に島の成り立ちの歴史を図で表し、済州島に『石』が多いという根拠を示しておいた。
pict-P1030451
済州島の形成史から『石』が多いということは容易に想像できることであるが、島のいずれの道路工事現場でも僅か数十センチ程度の表土を除けば玄武岩質の岩塊にぶち当たり、そのため地下数十センチ以上を掘らねばならない工事については工期も工費もかさむのが大きい問題なのだと言う。

このように玄武岩質の溶岩と、その上に火山放出物が堆積して成り立った島は透水性には優れるものの保水力には乏しいため、雨水は地下に浸透して山麓の特定の場所で湧水することとなる。

写真の川は済州市の中心部を流れる山地川(サンジチョン)である。 写真の奥方向直ぐに海があり、川と言うものの私が訪れた時には殆ど流れらしき流れは無かった。 漢拏山一帯に降った雨も殆ど地下に浸透して地下水となって流れてしまうので、雨が降らなければ山地川に川の流れというものが見られないのかもしれない。
pict-表示板
李元鎮によって著された地誌『耽羅志』(1653年)には、山地川について『済州邑城の東方1里にり、2里ほど流れて海へ流れこむと健入浦になる』と記され、『孝宗実録』では、『大型台風が吹き捲り、大雨になると川水が溢れて洪水となり、人々と馬畜が沢山死ぬ』とか『被害が大きく出ている』と記されているらしい。

※ 孝宗(ヒョジョン)は李氏朝鮮第17代国王(在位1649~1659)。 実録は国王在位期間の歴史的事実を年ごとに記録したもので李朝実録と呼ぶ。

※ 朝鮮の距離、1里は400mである。 (日本の1里は4km)

山地川は沢山の泉があり水量も豊かであったため、済州城の内外に住んでいた住民には生命の湧泉でもあったが、同時にたびたび起こる洪水のため、恐怖の河川であり災いの湧泉でもあったと案内板に記されていた。
pict-P1030465修整
現在は玄武岩塊を積み上げて川堤としているが、昔は急な出水で大変な事態になっていたことは容易に想像できる。 現在、写真後方には100年の歴史を持つ東門市場(トンムンシジャン)があり多くの店が軒を並べている。

東門市場の店を幾つか写真で紹介してみよう。
pict-P1030466
貝類を専門に並べている店。 太刀魚をズラリと並べている店。
ワタリガニ、エビ、アワビ、サザエ、などなど

水槽の写真は大きいマダコ。
pict-P1030454
同じタコでも体はマダコよりも小さい手長ダコ(下)。 これをブツ切りにして胡麻油と塩で食べるのが私は大好き。

口の中で吸盤が吸い付く感じや、弾力のある食感が何とも言えず、よく冷えた焼酎をグイッと。 これはなかなかいける。
pict-P1030455
下はケブル。 見かけは何ともグロテスクであり、コレを食べろと言われれば誰でも躊躇するのではないかと思う。 しかし、切って皿に盛られれば分からない。 特別オイシイとは思わないが、刺身として食べればコレも焼酎のアテとして良い。
pict-P1030464
さすがに韓国の市場である。 赤い唐辛子の粉が何種類もあり、その多さには驚くばかり。

勿論、生の唐辛子も売っている。 緑色をした唐辛子や赤色の唐辛子も、大きいのから小さいものまで。
pict-唐辛子
朝鮮人参にナツメやクコなど薬草もいろいろ。

朝鮮人参は細いものから、同じ三本足でも太くて長い立派なものまで色々と揃えているが、価格が安いのか高いのか私には分からない。
pict-P1030467
この東門市場の店々もそうだったが、韓国の女の人は本当に働き者が多い。 お店に出ているのは殆どがオバチャンたちであったが、韓国本土も済州島もいったい男たちは何をしているのだろうか。



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October 14, 2011

石見神楽 観れなかった『大蛇』

私の嫌いなヘビのお話(神話)が出雲地方を舞台として古事記や日本書紀に出てくるので、もうしばらく出雲國と石見國のことに触れておきたいと書いたのが9月28日のこと。 それが今日は既に10月14日。 何をしていたと記憶に残るほどのことはしていないのに時間だけがどんどん過ぎていっていることに愕然とする思いでいる此の頃だ。
pict-石見神楽(1)まあそれはそれとして、ヘビのお話で出雲と言えば『ヤマタノオロチ(八俣遠呂智)《古事記》、(八岐大蛇)《日本書紀》』ということになる。

古事記には、高天原を追い払われた『スサノオノミコト(建速須佐之男命)』は出雲の國の肥の河上、鳥髪という地に下ったと記されている。『降出雲國之肥河上、名鳥髪地』   日本書紀では『スサノオノミコト(素戔嗚尊)』と記され、天より簸の川上に降り到ったと記されている。『自天而降到於出雲簸之川上』

つまり表記に異なりはあるものの、スサノオノミコトが高天原から出雲の國の肥の川(簸の川)ー〔現在の斐伊川であろう〕ーの川上にやってきた時のことである。

老夫と老女が童女を間にして泣いておった。
pict-石見神楽(2)
そこでスサノオノミコトが訳を問うと、老夫はね自分は國つ神、大山津見神(おおやまつみのかみ)の子で、足名椎(あしなづち)、妻は手名椎(てなづち)、娘は櫛名田比賣(くしなだひめ)と言い、8人の娘がいたが毎年この時期に高志の八俣の遠呂智がやってきて娘を食べてしまい、今がその時期で泣いているのだと答えた。

それはどのような形かとスサノオノミコトが尋ねると、真っ赤なホオズキのような目で、体はひとつだけれど頭と尻尾が八つあり、体全体に苔や杉・檜が生え、その長けは八つの谷と八つの丘に及ぶほどで、その腹は常に血でただれているというものであった。

ヤマタノオロチとは実に奇怪な化け物であり提示できる写真も無いが、スサノオノミコトは老夫婦に指示して八つの垣と門を構えた桟敷を造らせ、その門ごとに8回醸造した強い強い酒を入れた容器(酒船)を置かせた。
pict-石見神楽(4)
やがて童女を食らわんとやってきたヤマタノオロチは八つの門にそれぞれの頭を入れて酒を呑み始めた。 そうして酔って眠ったところをスサノオノミコトが十拳剣(とつかのつるぎ)でずたずたに切り裂いた。 そのため肥の川は真っ赤な血の流れになったという。

これが古事記、日本書紀の神代上におけるスサノオノミコトの大蛇退治のお話であるが、大蛇の尻尾のひとつを切った時に刃が欠けたので切り開いてみると大変切れ味の良い刀が出てきた。 これが草那藝之太刀(くさなぎのたち《古事記》)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)《日本書紀》であり、天照大神に献上されて後に天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に渡された物と言われている。

このスサノオノミコトの大蛇退治の神楽が『八戸』とか『大蛇』というテーマで舞われるのだが、資料が無いので石見神楽の紹介パンフレットより転載した。(当ページの写真)
pict-石見神楽(3)
私が初めて大蛇退治の神楽を見たのは随分・・・かれこれ40年ばかり以前だったと思うが、大蛇の蛇腹がグルグルとぐろを巻いてダイナミックに動き回るのと、大蛇に全身を巻かれながらも剣を持って立ち向かうスサノオノミコトの演技、更にそれらの動きをリードする笛・太鼓・鉦のリズムに強烈な印象を受けたことを記憶している。


それで今回島根県を訪れるに際して石見神楽、それも『大蛇』を観ることができるよう調べた結果、pict-さひめ野全景三瓶山の志学温泉にある『さひめ野』というホテルの宿泊プランに石見神楽の鑑賞プランがあるのを見付け、旅程を調整し直してホテルに予約を入れたのである。

温泉も食事も楽しみではあるが、何と言っても神楽『大蛇』を観るのがこのホテルを選んだ、それも神楽公演日時も決まっているから宿泊日も調整して予約したのである。

ハッキリ言えば、宿は『さひめ野』でなくとも出雲や松江で泊まっても良かったのである。 『さひめ野』を宿に決めたのは私たちの旅行日程に合わせ、しかも『さひめ野』での神楽公演演目に『大蛇』とハッキリ記載されていpict-恵比須たからなのである。

風呂も食事も早い目に済ませ、公演のための特設会場に早くから陣取って家内とともに楽しみに待っていたら開演の挨拶の口上で、『大蛇』を演ずるには人数がいるだの、それぞれ仕事を持っているため人が集まらないなど、つまり『大蛇』は演ずることが出来ないので演目を変えると言うのである。

おい、おい、これはアカンやろ。

今夜はアカンさかい次の公演予定日に新たな開催場所へ・・・なーんて旅行者にはでけへんがな。

『大蛇』を演ずるのに人数が要ることなんか演者は分かってるこっちゃないか。

それぞれに仕事も持っとるって、成る程、理解してあげようと思う。 伝統芸能文化を継承・伝承するについては苦労が多いことも分かる。
pict-やまたのおろち(2)が、しかしや、公の、公演日程・会場を公開している以上は演者も演者を抱える担当者も公演を成立させるための最大限の努力をすべきやと考えるが、如何が。

随分昔に観た神楽『大蛇』はスサノオノミコトが1人、大蛇が4人だったように思う。 実際にはもっと人数が必要なのかもしれん。 足名椎や手名椎、それに櫛名田比賣も加えるならば8人の演者が必要になるが、この夜、演者として来てたのは楽人5人の他、演じ手は3~4人ではなかったろうか。 

人間のことゆえ急用・急病なんてこともあろう。 今回は残念だったということで済ませようと思うが、『なつかしの石見』観光キャンペーン・・・・・ちょっと興醒めであった。

日本神楽は演じ物によって六調子や八調子のリズムを楽器が奏で、演者が素面もしくは面を付け、幣や扇などを持って舞うもので歴史は古い。 日本の神楽は田楽にそのルーツを求められるという説が有力であり、11世紀頃には地方地方で形は異なれど演じられていたのではないかと考えられている。
pict-やまたのおろち(1)
古事記・神代上において、建速須佐之男命の乱暴な行為に対して怒った天照大神が天岩屋(あまのいわや)に隠れ、高天原も葦原中國(あしはらのなかつくに)も真っ暗になってしまうが、その時に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が天岩屋の前で踊ったことに遡るべきと言う人もいる。 想像を豊かにしたお話ならばそれで良いのだがお話と歴史を混同するのは賛成できない。

神楽では仮面を用いるが、世界各地に伝わる仮面もそれぞれの地域の人たちの生活とは密接なつながりがあるので仮面、それに出雲の神話と古代出雲の政権についても触れたかったが神楽『大蛇』を観れなかった気分の悪さが書く気を失くさせてしまったみたいだ。

そのうち気が向けば書くとしよう。 
随分以前に読んだ『出雲の古代史』(門脇禎二 著 、NHKブックス・昭和51年)がなかなか面白く、氏がこの書籍を公刊されて以降に斐伊川に近い出雲・荒神谷遺跡が発見され、358本という大量の銅剣の他、銅鐸や銅矛も発掘された。

大量の銅剣や銅矛の発掘事実は出雲に古代国家があったことを推量させるが、大和朝廷と古代出雲勢力がどのように関わっていたのか、古事記、日本書紀の記述内容、更に出雲國風土記などを読み合わせていくと結構オモロイのだ。



masatukamoto at 16:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

October 03, 2011

麗子、一堂に集う (素晴らしい企画・大阪市立天王寺美術館)

またまた話題が飛ぶが、岸田劉生展(生誕120周年記念)が天王寺の市立美術館で開催されているので家内と鑑賞に出かけてきた。

画家・岸田劉生(きしだ りゅうせい)を知らない人は先ずいないであろう。 

それに彼の父親で実業家の岸田吟香(きしだ ぎんこう)も日本における盲教育の先覚者として、日本教育史を多少ともかじった者なら知らない人はいないと思う。 吟香は我が国最初の盲教育施設『楽善会訓盲院』の設立pict-岸田劉生展パンフ(1876年・明治9年)に寄与しているし、それより前、1867年(慶応3年)にはヘボン(ジェームス・カーティス・ヘボン James Curtis Hepburn)とともに『和英語林集成』(辞書)を完成させている。

ヘボン式という私たちが用いている日本語のローマ字表記法の開設者がヘボンと彼を手伝った岸田吟香なのである。

※ 『楽善会訓盲院』は東京教育大付属盲学校から現在は筑波大学付属視覚特別支援学校になっている。


さて、父親・吟香のことは置いておいて、彼の第9子で四男の画家・岸田劉生のことに話を戻す。

当ブログで『私は麗子が好きである』(July 31,2008)というテーマで麗子について以前に書いたことがある。

以前にも断っているが、麗子というのは岸田劉生の娘で彼の絵のモデルだが、麗子という一連の画題になっている彼の作品が好きであるという意味。 そのため各地の美術館に散らばっている麗子に会うための旅行もした。
pict-道路と土手と塀
特定の歌手や俳優、或いは野球やサッカーチーム等の公演や試合日程に合わせて、いわゆる『追っかけ』をするのと同じ心理かもしれない。 若い子たちがキャーキャー騒いだり、いい歳した昔のお嬢さんたちが団体で韓国まで乗り込んで行く姿を笑えないなあと思うのである。

劉生の作品では、上の“切通之写生『道路と土手と塀』”と『麗子像』が重要文化財に指定されているが、私が麗子の追っかけを始めるきっかけとなったのが上のパンフレットに用いられた東京国立博物館所蔵の麗子像(油彩・1921年)であった。

どこがいいの? 何が素敵なの? うーーん。 このような問いかけに私は答えない。 問われて答えないというのも何だか卑怯な感じがしないではないが、感じ方や受け止め方というのは千人いれば千通りあるものと私は思っている。 つまり可愛いといった形容の言葉も可愛いという言葉の中には悪い意味は含まれないだろうが、その幅や広がり深さなどは人それぞれに異なるものなので敢えて言葉では伝えず、実物を見てほしいとだけ言うことにしている。 勿論大勢の人たちを対象に語らねばならない場合には自分の感情に最も近いと思う言葉を使って述べるよう努力はしている。

それにしても麗子がこれほど数多くいたことについて、今回の展覧会を鑑賞するまで私は知らなかった。
pict-(1)麗子肖像 麗子五歳之像A 東京近代美術館
左の作品は東京へ行った折に鑑賞したことのある『麗子肖像(麗子五歳之像)』(油彩・キャンバス 1918年 東京近代美術館 蔵)である。

劉生は明治24年(1891)に東京で生まれ、17歳の時に白馬会葵橋洋画研究所に入って黒田清輝に師事し、本格的に画家の道を歩み始めた。

そして、19歳の時(1910年・明治43年)には第4回文部省美術展覧会(現在の日展)に入選しているが、その時の作品が『軒灯のある街景』(水彩・紙 1910年 東京近代美術館 蔵)である。(以前に見たが今回は見ていない。)
pict-軒灯のある街景1910年8月12日水彩、紙 東京近代美術館
私は麗子が好きで追っかけをしてきたので劉生の人生や思想を深く知るつもりはなく、ただ、麗子がどういった背景のもとに描かれたのか、絵に込められた劉生の思いなどを感じ取るため軽く通り一遍のことを知ることには努めてきた。

今回は岸田劉生生誕120周年記念展なので彼の絵画活動、つまり彼の人生全体を対象とする展覧会であるから出展数も相当数にのぼり、とても記憶できる状況ではなかった。  

カタログというのは大変重宝なもので、帰宅後にカタログを見直すことで記憶を呼び起こし確かなものにすることができるだけでなく、劉生を研究対象にしている美術史家や評論家らが解説を加えてくれているので一層よく分かる。
pict-麗子六歳之像1919大正8年2月5日泉屋博古館分館岸田劉生は38歳(1929年没)という若さで亡くなったが、彼の画家としての生活の場を経年的に東京時代、神奈川県藤沢の鵠沼時代、京都時代、鎌倉時代と大きく4つの場に分けて展覧会を構成しているのでカタログの記述も含めてとても理解しやすいものになっていた。

この作品は『麗子六歳之像』(水彩・木炭・紙 1919年 泉屋博古館分館 蔵)だが、初めて見る作品であった。

麗子を対象とした作品で初めて見た作品は勿論これだけではない。 個人蔵のものや、未だ訪れたことの無い美術館所蔵の作品も多く集められており、今までの追っかけは一体何だったんだろうと思ったりしているのである。
pict-(3)麗子裸像A 個人蔵個人蔵の場合は通常見ることが出来ないが、今回の作品群の中では『麗子裸像』(水彩・紙 1920年 個人 蔵)
があった。

劉生の作品ということでは出展数の多さに驚いたのが茨城県の笠間日動美術館。 まだ訪れたことのない美術館なので仕方がないが、劉生の作品収蔵数では日本一かも。

麗子に関しては笠間日動美術館のほか、泉屋博古館分館(東京・六本木)、ポーラ美術館(神奈川県・箱根)、長谷川町子美術館(東京・世田谷)、豊田市美術館(愛知県豊田)、下関市立美術館(山口県下関)、メナード美術館(愛知県小牧)、神奈川県立近代美術館(鎌倉、pict-麗子立像1920長谷川町子美術館葉山)が収蔵・展示していることが今回の展覧会で分かったが、私の追っかけはまだまだ終わりそうになかったのである。 私自身、麗子がこれほど多いとは思ってもいなかったのである。

『麗子立像』』(水彩・紙 1920年 長谷川町子美術館 蔵)

劉生が麗子をどれだけ愛しいと思っていたかということについては自ら描く絵のモデルとしていたことだけでも想像できるが、絵に表れた表情や細かなしぐさの描写からも窺える。 それに今回分かったことに麗子を描いた作品の数の多さということからも劉生の麗子に対する思いを感じ取ることができる。 

私は10数枚程度かと思っていたのだが、研究者によると確認されているだけでも50枚ばかりあるので、総数は70枚を超えるかもしれないとも言う。

いずれにせよ今回の展覧会で全国に散らばった麗子のうち20数人が集まってくれたので、私としては嬉しい限pict-(5)麗子洋装の図A 豊田市美術館りである。

『麗子洋装之図(青果持テル)』』(水彩・紙 1921年 豊田市美術館 蔵)

ちなみに劉生が麗子像を沢山描いた時期は、彼が肺結核の診断を受けて転地療養のために神奈川県藤沢市の鵠沼海岸に移り住んでいた頃で、(結核診断は誤診だったとの説もあるが・・・)関東大震災(大正12年1923)による被災のため名古屋を経て京都に転居するまでの期間、つまり大正6年(1917)から大正12年(1923)の頃である。

劉生が結核療養のため野外での描画活動の制限を受けて静物や人物などの制作を主にせざるを得なかったことが遠因のひとつと指摘する研究者もいる。
pict-麗子坐像1921メナード美術館
『麗子坐像』(水彩・紙 1921年 メナード美術館 蔵)

pict-劉生日記 大正10年10月26日『劉生日記』の大正10年10月26日のページには、「麗子が帰ったので思い立って麗子に先日買ってやった、紫のスウェーター着せて水彩をはじめる。」と記し、絵が添えられている。

完成した作品がメナード美術館所蔵の『麗子坐像』なのであろう。
資料では11月1日の制作となっているが、当日の日記記述はない。
pict-(4)麗子像A 東京国立博物館
『麗子像』(油彩・キャンバス 1921年 東京国立博物館 蔵)

モナリザを連想させると評される重要文化財の麗子である。

何を語る必要もない。 が、できれば実物を観てほしいと思う。


pict-劉生日記 大正10年10月10月15日大正10年10月15日(土)晴

「1時頃帰宅、麗子も帰ってきたので、二時すぎから麗子の肖像にかかり四時頃この画を終(つい)に仕上げる。」と劉生が日記に書いている。

「(中略)名月が照ってうつくしい。麗子にお月様に、学校や字が上手になっていい子になって丈夫になっておばけの出ませんようにと御おがみといったら手を合わせておがんだ。可愛い奴だ。(後略)」との記述もある。

垣間見える劉生と麗子の何とも微笑ましい親子の様子が『麗子像』の背景となって、この絵が一層穏やかで素晴らしいものとして私には見えるのだが、文学者でも小説家でもない私には表現しきれない。 論より証拠、百聞は一見に如かずとも言う。 天王寺での岸田劉生展は11月23日までの開催。 しかも大阪でのみ。 この機会を逃せば麗子ファンならずとも絶対に損である。
pict-(7)麗子16歳の像A ふくやま美術館
『麗子十六歳之像』(油彩・キャンバス 1929年 ふくやま美術館 蔵)。

大阪市立天王寺美術館及び出展協力された全国の美術館の関係者、そして同じく出展協力頂いた個人所蔵の方たちには麗子ファンとして心より感謝したい気持である。

芸術文化というものは教育と同様に成果や効果が直ぐに表れるものではない。芸術文化の花を立派に咲かせるには肥しを与え続けてしっかりした土壌を作ることが大切であり、促成の花を咲かせてもそれは単なる借り物に過ぎない。長い年月をかけて醸成してきた大阪の芸術文化事業に対する予算をカットするという、育てるとは正反対の枯れさせるという行政を行っているのが現在の橋下知事の大阪府。 
財政的には大阪市も現在はゆとりがあるなどとは言えないが、明治期以降大阪市は市民の芸術文化高揚のための事業を継続して行ってきている。 橋下君はトライ&ゴールすることのみがラグビーであると思っているのではないだろうか。 大阪府の芸術文化行政は以前から寒いものだったけど、橋下君が知事になってからは氷河期に突入したように思う。
 
ともあれ、素晴らしい企画を実現させた大阪市立天王寺美術館の学芸員・関係者諸氏には拍手喝采をおくり、今後の更なる活動に期待したい。
 



masatukamoto at 07:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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