November 2011
November 30, 2011
四国~九州への旅 (3) 『高知の町で』
それらは概ね『高知城』と『はりまや橋』を結ぶ中村街道(土佐電鉄伊野線・下の図のチンチン電車が走る道)と並行に東西に通る追手筋(ピンク色の道)の一帯と考えてほぼ間違いはない。 高知市の繁華街である帯屋町アーケードも中村街道と追手筋に挟まれた位置にあるし、朝から夕方まで多くの露天と人々で賑わう日曜市は追手筋で開催される。
さて、件の『高知パレスホテル』は立地が良いと書いたが、『高知パレスホテル』(下の図で右上辺り)から『はりまや橋』まで直線距離にして400m、『高知城』でも800m程度だから散歩するに適した範囲である。
図中『ひろめ市場』とあるが、いろんなモノを売る小さな店の集合体で市場内の所々に簡易なテーブルと椅子が備えられ、客たちが買ったものを広げて飲み食いできるようになっている。 私が立ち寄ったのは午後6時に近く、外は暗くなっていたが、地元の人や観光客が市場で買ってきたオカズ(肴)をつつきながらビールなどを飲み賑やかに語り合っていた。
私たちも折角高知で泊まることにしたのだから土佐料理をと帯屋町アーケードを高知大丸(はりまや橋の近く)に向かって歩いて行った。 何でも良いし何処でも良いのだが、家内は酒を飲まないので『ひろめ市場』ではちょっとなあって気分で歩いていたら土佐料理『司』高知本店の前にやってきた。
土佐やさかいに皿鉢料理でもええかなあとも思うた、けど、あれやこれやをこれでもかって言うぐらいに盛りつけた皿鉢料理は小食の家内と二人で食べるには量的に多すぎる。 それに朝から車を運転し続けの私は夕食時ぐらいはゆっくりとお酒も飲みたい。 『司』は大阪・梅田に店があるし、姉妹店の『酔鯨亭』もあり、どちらの店もよく知ってるし『司』が混んでいたこともあって直ぐ近くの『とさ市場』という店に入った。
土佐と言えば、やはり鰹(かつお)であろう。 萱で炙った『鰹のたたき』に、鰹の内臓の塩辛である『酒盗』、それにゴマを混ぜた寿司めしを鯖で巻いた『土佐すし』。
私の頭の中では法善寺の『にしむら』での料理が浮かんでいたのだが、まだ食したことがないものがメニューに出ていたし、生ものに弱い家内のことでもあるので、写真のような『炙り鰹の一本寿司』と『鰹の塩たたき』というのを頂いた。
これらは私には「うーーん、イマイチ」というものであった。 先ずもって鰹がイマイチ。 脂のアの字も無く、あっさりし過ぎのアの字やないかと思ったくらい。
珍しいと思うて注文したのは写真の『ウツボのたたき』。 特別うまいというモノでは無かったが、初めてという経験をさせてもらった。
まあサッポロビールを置いていたので私の料理に関する不足は帳消しにしておこう。
家内が注文したものに煮物があったのだが、鰹のアラと野菜や豆腐とを煮たもので、これは味がしっかりしていたし野菜が沢山入っていたと家内は好んで食べていた。
また、高知市の西方7~80kmのところを太平洋に向かって流れる四万十川は日本一の清流と評されるが、この川で採られる四万十川の川海苔の揚げ物は食感も香りも良く、これは私も美味しいと思った料理で家内も良い味だと言っていた。
ビールの後、私は熱燗を楽しむので『酒盗』と『どろめ』を注文したが、これらは私の好みにぴったりであった。
『酒盗』というのは鰹の腸などの内臓を塩辛にしたもので、柚子やスダチなどの柑橘類の果汁を少量加えて酸味と香りを持たせたもので、これはお酒のアテには絶品である。
また『どろめ』というのはイワシの稚魚であり、将にチリメンジャコの生、ガーゼのように目の細かい柔らかな網ですくい取ったものを醤油やポン酢などで頂くのだが若干の苦みがあるもので酒肴には良い。 これについては瀬戸内のものを広島のページでも紹介したことがある。
近年アナゴの稚魚であるノレソレもポン酢で食べたりするが、商品として提供するだけの漁獲を得るのは難しいのではと思うのだが、養殖でもしているのだろうか。
朝食まで時間があるので家内を誘って散歩に出かけた折に見付けた歩道のタイル。 鰹の親子だろうか、さすがに高知だなあと思わずつぶやいたものだった。
朝6時半の市街地は人通りもなく走行する車もまばらである。
「高知の観光ポイントとしては桂浜に龍馬の像があるけど行ってみるか、タクシーで往復しても直ぐやさかい。」って家内に言うと、桂浜は小さい頃から何度も行っているので要らないだと。 池田にいた頃、学校の遠足でも家族での行楽でも度々行っていたらしい。
それで高知城からの帰り道に『はりまや橋』の方を回ってみることにした。
写真は『はりまや橋』電停。 写真右手方向で土佐電鉄の線路が十字交差しいる。
随分昔、江戸期には川があったらしいが、現在は車道と歩道を区分するように橋の欄干が設置されており、この写真の左手(西側)に写真のように赤く塗られた太鼓橋風の『はりまや橋』が掛けられている。
現在は、これら2枚の写真の『はりまや橋』を挟むように人工の小川のようなものが造られて『はりまや橋公園』となっている。
♪ 土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい ♪ という『よさこい節』は有名だ。
昭和50年前後の夏のことだった。 子ども達を連れて高知を訪れた時、トラックの荷台に据え付けられた大型スピーカーから流れる『よさこい節』の大音量に合わせ、鳴子をカチャカチャ鳴らしながら踊る集団に驚いたことがあったが、今でも『よさこい祭』というのをやっているのだろうか。
私にはウルサイという以外に何の感動も無かったのだが・・・・・(好きな人には悪いけど)
November 28, 2011
四国~九州への旅 (2) 『高知パレスホテル』
高知のホテルにチェックインしたのは午後4時近かったろうか。 高速道路を走行してきたとは言うものの昔に比べれば雲泥の差、科学の進歩と社会の発展を実感するドライブであった。
車はホテル南側の立体駐車場へ。 このホテルは宿泊するしないに関係なく駐車料金を支払うことになっているようだ。 高知市内の他のホテルがどのようになっているのかは知らないが、都心部であっても駐車料金が必要なホテルもあれば宿泊客は無料のホテルもある。 利用者にとっては勿論無料の方が良いのだが・・・
このホテルとは前ページに書いた『高知パレスホテル』で、本館は写真で見るように10階建てで鍵型(正面の建物の向こう側)になっているらしい。 それに写真右手に全館禁煙のホテルも営業しているので部屋数多く、レストランやバンケットルームを備えているので施設的にはビジネスホテルと言うよりもシティホテルと言うべきであろう。 ちなみに立体駐車場は本館の右手で灰色に見える建造物である。
さて、私は『高知パレスホテル』の宣伝を担当しているわけではないので気付いたことを掛け値なしで書いてみることにする。
先ず電話で当日宿泊の予約を入れた際、ツインルームで喫煙できれば望ましいと担当者に告げたが、その時の返事は禁煙ルームなら空いているということだったので、それで結構、我慢することにしようと言って宿泊予約が成立したのだ。
ところがチェックインの際、レセプショニストが「〇〇号の喫煙ルームをお取りしています。」と躊躇することなくルームキーを出してくれたのである。 うむ??? 何かスッキリしないが配慮してくれたのであろうと感謝の言葉だけはかけておいた。
で、割り当てられた部屋へは勝手に行けってことで家内とエレベーターに、(つまりポーターがいない) 部屋に入るとバリアフリーで車椅子使用者に対応した部屋。 バスタブも洗面・トイレも手すりを取り付け床面も広く取ってあり、私たちに対する配慮・・・(それは無い、何故なら私たちがレセプションに顔を見せるまで年齢も障害を持たないこともレセプショニストは知らないわけだから)・・・なら必要ないのだが。
まっええか。 と思いつつ、ホテル建設(経営)で利益追求至上とばかりハートビル法の精神をないがしろにした違法行為を、それも全国何店舗にもわたって行った『東横イン』の悪例があるので、『高知パレスホテル』はしっかりやっているなと思ったのだった。
しかしである、次に示す写真を見てもらいたい。
これはバスタブの横に設置された手すりだが、黒くなっているのは黒カビの一種。
次の写真はバスタブと床タイルを撮ったものだが同様に黒カビが発生している。
いずれもタイルの目地の白い部分との対比で黒カビが発生していることがよく分かると思う。
この程度の黒カビなら市販の酸性カビ取り剤を塗って30分も放置すれば水洗いだけで綺麗になるものだ。
誤解が無いように書いておくが、私は『高知パレスホテル』のあら探しをしているわけではない。 こっそり教えてあげれば良かったかなとも思う。 が、それ以前に、ホテルというのはただ宿泊させれば良いというだけではなく、ゲストに気持ち良い環境を提供するという根本的理念が無ければならないことを忘れてもらっては困る。 つまり良い環境という商品を売り、それをゲストに買ってもらっているという理念に立脚するなら、こんな黒カビの発生などとっくに発見していただろうし、直ぐに除去してもいたであろう。 この黒カビの発生状況を推量すれば、連日バスタブやシャワーを使用してきたとしても、バスルームの換気状態も合わせ勘案すれば昨日今日発生したものではなく、おそらく2週間や20日以前から同じような状態であったと思われる。
つまり私が言いたいのは、ホテルという接客業において根本的な部分での欠落がありはしないかということである。
『氷山の一角』、或いは『一事が万事』という俚諺もある。 コンサートなどホテルとして確かな企画も立ち上げているようだから『高知パレスホテル』は立派なホテルなのだろうと思う。 だから、このことをあら探しだと受け止めるのではなく、苦言を貰ったものと思って更なる精進に努めてもらうことを望みたい。
ついでに書けば、この部屋の窓を開ければ写真のようなDAIKIN製の冷房用のタンクだろうか、これがズラリと並び他の建物もあったりで眺望は全くダメ。 外国では部屋を見せてもらってから泊まるかどうか決めることが多かったが、レセプショニストも部屋の眺望がダメであることはゲストがチェックインする際に告げるべきだと思うが如何?
November 27, 2011
四国~九州への旅 (1) 『三好市池田、高知城』
秋。 欧州行きの計画途中でバタバタと雑用が入り、チケット手配の中断を重ねているうちに思い通りのコース設定が不可能になってしまい、更に寒い所へは絶対に行かないという家内との旅行なので訪れる季節と地域が限定され、結局四国から九州を巡るということになってしまった。
しかし国内旅行なら飛行機やホテルの手配を気にすることも無いし、毎日が日曜日になってしまった私たちにとっては何日までにという期日制限が無いので何時でも何処でも自由に移動することが出来る。 それも自動車でならば荷物の持ち運びが無いので体力的にも楽であり、とにかく旅の行き先と車で巡ることを決めた。 実際旅行に出かけるには二人の諸々の予定を調整し合わねばならないという難題が残っていたのだが・・・
さて、我が家を出発後、阪神高速道路~明石海峡大橋~淡路島(神戸淡路鳴門自動車道)~大鳴門橋~鳴門 ICへと進み、四国へ行くなら是非とも阿波池田に立ち寄りたいという家内の希望で鳴門 ICから吉野川バイパスを少し走って徳島自動車道に入り井川池田 ICから池田の町へ入った。
写真のJRの駅名は阿波池田である。 平成17年(2005)の町村合併以前は徳島県三好郡池田町であったものが、合併後は三好市池田町となった。 ご多分に漏れず新しい市名を決める時点で『三好市』と『阿波池田市』で揉めたらしいが、新しく市名を制定するということは土地土地の歴史性や地域性が絡み合って難しいものである。
現在、池田はJR土讃線や徳島線、国道32号線や徳島自動車道が通ってはいるが、池田から南へ山の峰を幾つか越えれば平家落人の里として有名になった祖谷(いや)があるように昔は山間の僻地であった。
室町幕府の権力が不安定になり始めた1500年代、京都で権力を振るい始めたのは阿波の三好氏であり、三好という名前は歴史上よく知られた名前であるが、池田という名前は江戸期の集落としての名はあったらしいが広く知られていたものでなく、1974年だったか春の全国高等学校野球大会に出場した蔦監督(故人)率いる徳島県立池田高等学校の野球部が『さわやかイレブン』と賞賛を浴びた、このことで池田の名前が全国的に有名になったと私は理解している。 従って、歴史性という点では三好に分があるし、より広い公知性という点では池田に分があるように私は思う。
よそ者の私には、三好市・阿波池田市を主張した双方の言い分が理解できるが、過疎地域とは言え人口集中度が高い池田町出身の家内はイマイチ納得できない気分でいるようだ。 そりゃそうだろうとも思う。 小中高と学校の名前には池田が付いていたし、住まう町は池田町何々、町を出る時も帰ってくる時も国鉄・阿波池田駅と家内の生活と池田の名前は切っても切れない関係にあったわけなのだから。
子どもたちが中学生になった頃だったか、家内が育った町を見せるつもりで池田町を訪れ、7,8年前には家内が池田高校の同窓会に出席したいというので訪れ、今回の池田町訪問は私にとっては3度目。 家内は京都での大学生活を終えて以後、私と同じく3度目。 親しくしていた人の家を訪れ僅かな時間であったが昔の思い出を語り楽しいひと時を過ごしていた。
写真のような『うだつ』のある家や昔の雰囲気が感じられる路地が残っていたりもしたが、家内が育った頃の池田とは町並みが大きく変わってしまったとのことだ。
池田を通る徳島自動車道は上り下りとも1車線の対面通行道路で徳島市から四国三郎とも呼ばれる吉野川に沿って川之江 JCT(愛媛県・東予)に至る。 川之江は徳島自動車道、高松自動車道、松山自動車道、高知自動車道が寄り集う町である。
当初、河原の風呂までケーブルカーで降って行くことで有名な祖谷温泉にでも泊まろうかと話していたのだが、次の予定(実際は行き当たりばったりなのだが)を考え合わせて高知まで車を走らせることにした。 高知へは徳島道の井川池田 ICから川之江 JCTで高知自動車道に入っていけば良く、道に迷うことはない。
高知は都会なので池田からビジネスホテルを朝食付きで電話予約した。 私たちの旅行で、温泉地や田舎の宿に泊まる場合は一泊二食付で予約し、都市部のホテルでは朝食のみ付けるケースがほとんどである。 余程部屋数の少ないビジネスホテルでない限りシティーホテル同様朝食は提供しているのが一般的であることと、温泉地や田舎で朝ご飯を提供する店を見付けるのが困難だからである。
予約したホテルは『高知パレス・ホテル』(上の写真)。
都市部に泊まる場合、ホテルのレストランで夕食をとるよりも外へ出る方が店の数が多いし料金も安いことが多い。 ただ朝だけはコンビニ弁当では味気ないし、味噌汁
その他、熱々の料理を頂くにはホテル内のレストランの方が便利なのである。 ホテルもレストランも自分の嗜好に合わせて上手に使いこなせば、これほど便利なものはないのである。
写真は幕末から明治期に活躍した土佐藩15代藩主・山内容堂(豊信・とよしげ)の誕生地を示す石碑。
高知 ICを出て車載ナビに表示されたホテルの場所へ着くも当該ホテルが無い。 ホテルのような建物が無いというのは不思議なことで該当地域をクルクル回るも発見できず、コンビニのローソンで尋ねてみた。 すると店のスタッフの1人が、ホテルは何年か前に移転したのだと地図を広げて教えてくれた。 仕事の最中であるにもかかわらず丁寧な対応に感謝である。
下の写真は東側の堀から追手門と天守を眺めたもの。
コンビニはコンビニエンス・ストア(convenience store)のことと承知しているが、コンビニエンスとは便利という意味の言葉であり、 Lavatory つまり便所を意味する言葉でもある。 コンビニをよく利用するわけではないが、ローソン、セブンイレブン、ファミリーマートなどは知っているし時々は利用している。 総じて店員の応接態度は良いという印象を持っている。 勿論イヤな感じのスタッフもいないではないが、コンビニをとても有難いと思ったことが以前にあった。 丁度、街中を車で走っていた時であったが、小用を我慢できなくなった時に、この時もローソンであったが店員に便所を借りたい旨告げると「どうぞ」と便所の場所も丁寧に教えてくれた。 しかも綺麗に清掃が行き届いた便所であり、有難くも感心したことがあった。
話のついでにコンビニのことを書いたが、『高知パレス・ホテル』の移転先はJR高知駅前にある高知警察署の通りを南へ江の口川を渡った所、市街地の中心にあって何かと便利な立地である。
写真は重厚な追手門(右)と左手に石落とし構えが連なっている。
これまで私が高知を訪問したのは3回か4回か忘れてしまったが、初めて訪れた時は高知市内を巡ることなく奈半利町にいた大学時代の後輩と一献酌み交わすことが目的であった。 後年『皿鉢料理』というものを知ったが、この時は稲わらを燃やして鰹の切り身を炙るタタキを酒肴に呑み、夜7時を過ぎてから1升瓶をぶら下げて砂浜に出て、酒が無くなると瓶を枕に寝転び、満天の星を眺めながら語り合ったことを覚えている。
今は知らないが、当時は日が暮れると僅かにある店も閉まり、夜8時ともなれば町は真っ暗。 夜空の星はこんなに多かったのだと、大阪の空と比べ、その違いの大きさに改めて感じ入ったものだった。
二度目に高知を訪れたのは何ともツマラン友人の家出・自殺騒ぎに巻き込まれたことによるものだった。 友人というのは当時某学校の教員で私の大学時代の1年先輩。 ちょくちょく一緒に呑みに出かける間柄ではあったが旧家の御曹司であることぐらいしか知らず、彼の職場での様子も私生活についても全く知らなかった。
それが夏の或る日、突然に彼の母親から電話がかかり、息子が家出して自殺することをほのめかす書状を送ってきたが、これに至った責任は貴方(私のこと)にあると。 郵便物の消印が足摺岬になっているから貴方(私のこと)は当然探しに行くべきだと言うのである。 今ならまあまあと抑えることも出来るが、当時は40歳も歳差のある人から立て板に水の如くに喋りまくられ、話の内容も寝耳に水のことばかり。 つまり、彼は家での弁明に私を利用していたということが薄々分かってきたのと、家出に自殺と聞いては放っておくことも出来ず、取る物も取り敢えず大阪駅から足摺岬へ向かったのであった。
上は高知城・追手門の直ぐ前に広大な敷地を擁する天理教高知大教会。
しかし、足摺岬どころか当時は高知駅へ至るのに随分の時間を擁し、接続列車やバスの時刻表を調べてみると高知で1泊せざるを得ず、薄給であった私は旅館代を支払う余裕など無く、友人がいる天理教高知大教会で泊めてもらい、翌早朝に足摺岬に向けて出発した。 この一件、顛末は全く馬鹿らしいのでこれ以上は書かない。
土佐と言えば奈良・平安期には流刑の地であった。 瀬戸内より船で陸地に沿って進んでも土佐までは何日もの日数を要したし、険しい四国山地を越えていくのも大変なことで、屋島の戦いに敗れた平氏の落ち武者たちが源氏の厳しい追討の手を逃れて祖谷の谷間で密かに棲み得たことも土佐と瀬戸内が陸路でも隔絶していたことを示している。
写真は土佐藩初代藩主・山内一豊の像。
やがて時を経て戦国時代には長宗我部氏が四国の統一を為すが、関ヶ原に続き大阪での冬・夏の陣に敗れた後に土佐藩主として入国したのが山内一豊であった。 彼が土佐に封じられた時の城は浦戸城であり、現在の高知城からは 10 km近く南になる桂浜に近い小山にあった。 高知城は山内一豊の普請であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた彼の奥さんは内助の功の誉れ高い『山内一豊の妻・千代』として有名である。
写真は高知城にある『山内一豊の妻・千代』の像。
この夫婦については司馬遼太郎の作品『功名が辻』がなかなかオモロイ。 氏は生前、東大阪市に住んでおられ(現在は記念館になっている)、午後2時過ぎに奥さんと共によく散歩に出かけておられた。 その途中、近鉄の某駅前にある喫茶店に立ち寄るのが好みであったのか、その店で銀髪の氏に時々お会いした。 プライベートな時を楽しんでおられるのでご挨拶する程度であったが、好々爺といった感じで氏が司馬遼太郎であることを知らなければ沢山の小説を書き表した人とはとても思えないといった印象を私は持っていた。
余談になったが、土佐が歴史上最も注目を集めたのは何と言っても幕末から明治維新にかけての頃だろう。 当時の藩主が先に触れた15代の山内豊信(隠居後に容堂)で、福井藩主・松平春嶽、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らと共に幕末の四賢侯と呼ばれ新しい国づくりに大きい影響を与えた人物である。
尊王攘夷論が高まる中、土佐藩でも改革の道はひとつでは無かったものの、武市瑞山(半平太)、坂本龍馬、後藤象二郎、福岡孝悌らと共に乾退助(板垣退助)など多くの武士たちが活躍した。
ちなみに高知城は1601年に着工し、1611年に全てが完成したが、1727年の火災で建物のほとんどが焼け落ち、現在の天守閣は1749年に再建されたもので、追手門のみ創建当時(途中修理あり)のものらしい。
写真は三の丸跡から天守閣、本丸方向を眺めたもの。 城一帯は公園として開放され、県庁、県議会議事堂、図書館に文学館などがあり、市民の憩いの場となっている。 何度か高知を訪れながらお城をゆっくり巡ったのは今回が初めてであった。写真は板垣退助の像。
明治に入り板垣は自由党の総裁として活躍するが、暴漢に襲われ傷を負わされた時、彼は「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言うのは有名であり、自由民権運動の説明によく用いられてきた。
私も小学生の頃に学んだこのことを、その後繰り返し日本史の学習をしたとはいえ未だ明瞭に記憶している。
November 12, 2011
秋の一日 京都・岡崎 (ナショナル・ギャラリー展)
それにしても紅葉の時期が年々遅くなっているような気がするのだが・・・
気のせいとも言えないように思うのは、私の学生時代、文化の日から中旬の頃、つまり3日から18日頃のことであるが、『紅葉狩り』、と言っても木の枝を折るような無粋なことをするわけではなく紅葉を愛でに嵐山・嵯峨野・高尾あたりをよく歩いた。 京都では高尾、栂尾、槇尾を三尾(さんび)と言って、紅葉の名所を示してもいるのだが、その時期、見事に色付いていたことを記憶している。
何故この時期のことを覚えているか。
人間の記憶というのは次々と上壁を塗るのと同じように覆い隠されていくものであり、古い壁面は上に塗り重ねられた面を削っても削ってもなかなか表れてこないものである。 これは油絵も同様でキャンヴァスに描かれた下絵がどのようなものであったのか、昔は見ようにも見れなかったものだが現代ではX線を用いての透視解析によって見ることが可能になった。
人の記憶を・・・これを表出解析・・・科学が進歩・発展し続ける結果、ひょっとしたら可能となる時代が来るかもしれないが、今のところ、そうしたことはScience Fictionの世界に委ねておくとして、古い昔の記憶がよみがえるには、その記憶が鮮烈で衝撃が大きかったものほど呼び起こすことが容易であることははっきりしている。 また、記憶が呼び起こされる場合、何らかの関連性がある場合に突拍子もないような思い出し方をすることもある。
横道へ入り込みそうなので軌道を修正。 私の友人たちには地方(いなか)から来ている者が多く、彼らは寮か下宿に住まいしていたのだが、この時期、彼らには各々の実家から新米が送り届けられていたのである。 都会育ちで、しかもご飯大好き人間の私にとって新米を送ってもらうことのできる彼らは神様のような存在であった。
紅葉を愛でた帰りに八条でモツ(ホルモン)を、それに安い1升瓶の酒を買い込み彼らの下宿でワイワイガヤガヤ。 そして、楽しみのひとつ、炊きたてアツアツの新米のご飯を頂くのである。 誤解を招くといけないので断っておくが、新米を頂く代わりと言うか、モツや酒は私が買い入れていたのである。 それほどまでしても彼らの実家(新潟・富山・島根・広島)で作られた米、とりわけ新米は美味かったのである。
随分と遠回しな説明になったが、そんな美味しい思い出と紅葉の時期が重なっていたので記憶が鮮明なのである。
ともあれ秋の一日、家内と目の保養にと岡崎の京都市美術館へ行ってきた。
現在、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展が開催されており、フランス印象派の作品を好む家内にとっては楽しい日となったようだ。
春秋の京都は観光にやって来る人たちが特に多い時期であり、混雑を嫌う私たちは、せめて土・日を外してと水曜日に行ったのだが、それでも京都駅からの市営バスは100%満員状態のまま平安神宮前まで走った。
写真の作品は、ゴッホ(Vincent van Gogh)の自画像(油彩・キャンバス 1889)。
ゴッホは1880年に画家を志し、1890年に37歳で死んでいるから画歴という点では僅か10年と大変に短い。
彼の作品中『ひまわり』が随分有名になったが、この『自画像』は銃による自殺の前年に描かれた作品で、色彩や筆のタッチなど、当時精神病院で療養していたとは考えにくい作品だと・・・まあ、絵画について門外漢の私の感想だからどうでも良いことだが。 この展覧会のパンフレットのメイン絵画として紹介されていたが日本では初めて公開するのだとか。
展覧会のパンフレットには上のゴッホの『自画像』に加えて《初来日》と記された作品が数点あった。
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート、ワシントン(National Gallery of Art, Washington)はアメリカ合衆国ワシントンD.Cにあり、設立が1941年と比較的歴史は新しいのだが、その収蔵品はなかなかのモノであり、米国を訪れる機会が無かった私は1999年の早春に今回と同じ京都市美術館で開催された『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』を訪れてティツィアーノやエル・グレコ、コロー、クールベ、ルノワール、モネ、ピサロらの作品を鑑賞することができた。 ほぼ12年前のことである。
上の写真は、クロード・モネ(Claude Monet)の『太鼓橋(Japanese Footbidge)』(油彩・キャンバス 1899)で、今回も展示されていたが『睡蓮』連作の内のひとつである。 下は、フランス・パリのオルセー美術館が所蔵する『睡蓮の池』だが、モネの『睡蓮』の連作について知らなかった頃には同じ作品であると思い込んでいたことがあった。
ちなみに東京の国立西洋美術館が所蔵する『睡蓮』(油彩・キャンバス 1916)は橋が無くて睡蓮のみである。
大層、日本贔屓であったと言われるモネの連作『睡蓮』は大原美術館でも見た。 直ぐに思い出せないのだが、他にも、それも日本にあるはずだが・・・
※ 出展について-------写真は各美術館のカタログ及びNGA展のカタログ(1999年版・2011年版)より。
下の作品はクロード・モネの『日傘の女性、モネ夫人と息子』(油彩・キャンバス 1875)。
この作品も1999年に京都に来ているが、雲が流れて風にそよぐドレス、その夫人と子どもの姿を逆光のまばゆい陽の輝き顔に受けながら絵筆を取る画家。 その足元からは草の香りまでも感じさせるような、明るい何とも穏やかな絵で私は好きである。
以前も展示された作品が多かったが、中でも上のモネの作品や下のカミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro)の『麦わら帽子をかぶる田舎の少女』(油彩・キャンバス 1881)は好みの作品である。
「ああーー、いい。」
これがすべて。 ええもんは、ええ。
そう、「ええ」と思うた作品が幾つかあったのだが、もう少し紹介しておこう。
これはカミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)の『うなぎを獲る人々』(油彩・キャンバス 1860~1865)。
一見してコローの風景画と分かる作品である。
次の作品は、エドゥアール・マネ(Édouard Manet)の『鉄道』(油彩・キャンバス 1873)。
今回マネの作品は油彩が5点とエッチングなど4点が展示されていた。
油彩は『鉄道』のほか、『プラム酒』『牡蠣』『キング・チャールズ・スパニエル犬』『オペラ座の仮面舞踏会』が出展されており、いずれも有名な作品である。
マネの作品として名高いのはオルセー美術館にある『オランビア』や『草上の朝食』『笛吹く少年』などが挙げられるが、中でも『笛吹く少年』は音楽の教科書の表紙を飾るなどしてよく知られている。
美術鑑賞は結構疲れるものだ。 知らず知らずのうちに長い距離を歩いており、目は疲れるし気を入れて見ているものだから、きっと肉体的疲労だけでなく精神的な疲労も大きいのではないかと思う。
絵の鑑賞が、ほぼ2時間弱。 既に午後1時を過ぎていたので何かお昼ご飯でもと粟田口方向へ歩き始めた。 粟田口には、美濃吉本店の竹茂楼、京都ホテルの粟田山荘、それに蹴上の都ホテル(今はウェスティン都)もある。 通常、昼の食事時間はどこでも2時頃までならオーダーが可能である。
若い頃なら岡崎からの散策道は沢山あるのだから、ブラブラ歩いて夕刻に河原町か祇園へ出て夕食でもといったところだが、最近は足腰の弱りを感じ始め、面白くもないが老化の道筋を歩んでいることを認めざるを得ず、しかも、年は取ってもお腹は空いて足も痛い。
と、以前友人に案内してもらった小さな料理屋があるのを思い出して急遽訪れてみることにした。
先に挙げた店は昼食と言っても6~8000円は要るが、小さな料理屋、店のカードを貼っておくが『こかじ』と言う。 平安神宮の鳥居から南へ疎水を越えて進むと三条通と交差するが、更に進んで次の四つ辻を左に折れる(東入る)。 この道は白川小学校の裏手の道で、暫く進むと粟田山荘への道と三叉路になっているが、曲がらずに進むとスグ右手に一般の民家と見紛うような『こかじ』の店がある。
店内も決して広いとは言えず、小座敷とテーブルにカウンターで詰めても20数人だろうか。
私たちが訪れた時はランチタイム終了間際で他に客もいなかったため落ち着いたひと時を過ごすことができたのだが、以前に訪れた時は少々窮屈な思いをしたことを覚えている。
しかし料理は懐石風に刺身・蒸し物・焼き物などと順々に提供され、一品ごとの量は少な目であるが最後の水菓子まで出されるので女性客には喜ばれるはずである。
店の女将・・・白髪ゆえに「ひと桁ですか?」と失礼を省みず尋ねてみたら、少し手前なのだと。 むむむむむ、少しとは、これまた意味深。
話好きなのか長居する私たちに地元のことをいろいろ聞かせて頂いた。
粟田神社と祭りのことや、青蓮院のこと等々。 この『こかじ』の店のあたりに、その昔、青蓮院の常盤門(聞き違えかもしれないが)の番所があったのだとか。 今もそうだが東山の将軍塚も青蓮院の寺領であり、鳥羽法皇に遡る門跡寺院・青蓮院だけに往時は相当なものだったのであろう。
写真は手まり寿司のような可愛いもので、しば漬け2種、かぶら(千枚漬け風)、それに南京の裏ごし。
女将の話では、若い人たちは料理の写真を携帯で撮っていくそうな。 そのことを聞いて私もカメラを取り出したものの既に刺身も茶碗蒸しも無く、若干残っていた料理を撮影したが、掲載するべきかどうか迷った末のこと。
見苦しい点についてはご容赦賜りたい。
天ぷら、サラダ、湯豆腐(豆腐が減っている)が見える。
ちなみに食べてしまった刺身は、タイ、ヒラメ、モンゴイカ、ヨコワ。
愚息に言わせれば、「これは酒が無いとアカンやろ。」
私も同感。 昼間っから一杯頂いてしまった。
上の話題にはそぐわないが、門跡寺院と言えば以前に紹介(2009年11月4日)した奈良の法華寺の門跡住職・久我高照(こが・こうしょう)尼が10月31日に90歳で亡くなられた。
高照尼のご逝去を悼み謹んでご冥福をお祈り申し上げる。
November 03, 2011
イカの塩辛造り
イカ、タコ大好き・・・もう随分前にブログでも明かしたが、昭和43年の夏に前年冬の予備調査に続いて下北半島の主に観光経済的発展の可能性について現地での調査に入ったことがあった。
既に観光資源とされているものや今後観光資源として有力視されるもの、地元民の観光に対する意識や期待の度合い、交通事情や旅館など観光客受け容れの現状、観光客の意識や動態に関する調査、町村役場での基本統計調査など、田名部町(現・むつ市)と大間町、それに脇野沢村の3ヵ所に調査拠点を置いて 1週間にわたる実地調査を学生たちによって同時進行させた。
この折の調査本部に田名部町の某寺院を借りたのだが、私の好物がイカだと知った寺のお嬢さん(当時は高校生)が特大のスルメイカ 10パイを刺身にして大皿に盛って出してくれたことがあった。 これを私一人でほぼ平らげたものだから某寺院に滞在中、私は「イカ男」と呼ばれていたのである。
随分昔の話になってしまうが、当時の東北地方は未だ『みちのく』・・・『道の奥』の感じが色濃く、東京からは北は札幌との空のつながりの方が強く、東北地方が置き去りにされていた感じだったのである。
強いて言えば仙台のみが発展し始めていたと言えるだろうか。 これは大阪という都会育ちの私の感覚が基準になっていたものなので、他の都市の皆さんとは感覚的に異なると思うので誤解が無いよう断っておく。
上の図は当時の下北半島についての概略であり、東京から仙台・盛岡を経て青森に至る東北本線が赤色の実線。青森から日本海側へは奥羽本線が通っていたが省いている。 図上、野辺地から田名部(むつ)、大畑に向かう国鉄(現・JR)が下北半島への唯一の鉄道路線であったのだ。
野辺地から尻屋崎が柄、大間と脇野沢を結ぶ線を斧の刃の部分と思えば下北半島は斧のような形をしていると言える。
大間崎の大間は今でこそマグロの1本釣りで有名であるが、当時は輸送や保存技術面の理由で今ほど騒がれることもなく、むつ小川原も核燃料貯蔵から開発が進められたが、当時は射撃演習地で一般人が入り込むことが禁じられていた。
余計なことを書いているが、大畑は本州の最北駅。木造の小さな駅舎の前に小さな食堂があった。 何を食べたか覚えていないが、昭和41年か42年の12月も押し詰まった頃だった。 豪雪の冬で大阪発の特別急行『白鳥』の青森駅到着が夜中となり、雪の壁に挟まれた狭い道を駅近くの宿屋まで番頭に案内してもらったことが記憶に残っている。 同じ青森であっても青森駅前あたりは凄い積雪だったのに比べ、大畑から大間へは積雪が少なく、地道は凍てつき地吹雪が舞う状況であった。 そんな大畑駅前のわずかな空き地のような所から下北バスに揺られて下風呂温泉に向かったのだった。 井上 靖が小説『海峡』を書いた長谷旅館(カクチョウ)で私は年越しをした。 井上は私が泊まった時より8年ばかり前に2泊したようだが、彼の泊まった部屋で元日を迎え、津軽海峡を隔てて北海道の恵山岬が見える彼が入浴した風呂にも浸かった。
いろいろと思い出が湧いて、話が・・・・・
とにかく『スルメイカ』と『大畑』という名前に引かれてネットで注文したのだが、届いた品物が上の写真のスルメイカ。
冷蔵宅急便で届いたイカは、目が綺麗だし足の吸盤が吸い付くほどに新鮮であったから刺身でも良いなあと思ったりしたのだが、大きさは中、或いは大の小さ目。 私の感覚ではあるけど、私は大サイズも特大サイズも知っているのでサイズ判別に大きい間違いはない。
もともと塩辛を造るつもりだったし、仕入れた10パイが中サイズだったので刺身を取るほどには量が無かったので全てを塩辛にした。
イカを調理していて気になるのが写真の寄生虫。
米粒のような虫だがスルメイカの体に喰い付いているのだ。 写真のはイカの体を開いたところに喰い付いていたものだが、足に喰い付いていることもあるし、警戒色で茶色に変わった皮の中に潜り込んでいる場合もある。
塩辛を造る場合、イカの体を開いてワタ(キモ)を取り出すのだが、そのワタに噛み付いている場合もある。
虫が付くほどに美味しいとも言うので嬉しい気持ちもないではない。 それに、この寄生虫はニベリニア(Nybelinia)で人体に害を与えるものでないことがハッキリしているので問題視することもないのだが、塩辛と言っても生で食べるものだけにやはり気色が悪い。
そのため毛抜きで1匹ずつ丁寧に取り除くのだが、老眼鏡をかけ続けての作業は目の奥や頭が痛くなって大弱りするのである。
毛抜きで取り除いたニベリニアを黒い板に置いてみると体の形や動きがよく分かる。
宿主であるスルメイカは既に死んでいるのだが、寄生しているニベリニアは宿主から離されても黒い板の上を這い回るという何とも元気な奴である。
ちょっとややこしい寄生虫にアニサキス(Anisakis)という奴がいるが、これはニベリニアよりも長く渦を巻いているので発見しやすい。 これまでの経験上、発見したのは1回きり。
スルメイカの体を切り開いた時に出てくるオスの精莢(せいきょう)を寄生虫かと見間違えることがある。 白色半透明で3cmばかりの細長いものだが、イカの精子であって、精莢嚢を切り裂くとドッと出てくる。 これも塩辛には必要の無いものなので捨てている。
話が長くなったが、そうした下処理を経たイカの体・耳・足を適当な大きさに切って、イカのワタと塩を混ぜて寝かすのである。
夏場は塩をやや濃いめ。 それに対して冬場は緩めにしているが、どれだけのイカに対して、或いはワタに対して塩を何グラムと私は決めていない。 全て私の舌に任せている。 が、とにもかくにも三日目ぐらいから塩味がワタに馴染んでまろやかな味わいになってくる。
私の場合は塩だけしか用いないが、昨夜食べてみたところ、 うーーん、いつも通り、なかなかの味わい。
息子たちが美味しいと言ってくれるので新鮮な良いイカがあれば造っているのだが、10パイのイカを塩辛にしても出来上がりの量は僅か。
昔に比べるとスルメイカも高くなった。 それでも小遣いをはたいて手間暇かけて塩辛を造るのは我が酒肴のためか、それとも「美味しい」と言う言葉を聞きたいがためか。
まあどうでもよろしい。 ウマイものをウマイと食させて頂けることの幸せ。 コレが、イイ。