December 2011

December 30, 2011

四国~九州への旅 (7) 高千穂峡・高千穂宮・天岩戸

佐伯を出発して国道10号線を延岡に向かい、延岡からは国道218号線で五ヶ瀬川を遡るように車を走らせた。 石ころがゴロゴロする河原をキラキラ輝き流れる川はとてもきれいで所々に簗場設けられ、獲れた落ち鮎を食べさせてくれるのだろう小さな小屋のような店が建っていた。 国道はどんどん高所に上り、車が山間に架けられた橋梁を渡る時には五ヶ瀬川の細い流れが遥か下の方に眺められた。 

目指す高千穂峡までの道のりは結構ある。 佐伯からは寄り道もせず昼食も摂らずの運転であるが、道路が空いていたので疲れを感じることもなく走ることができた。 家内も私も同じだが、ホテルで朝食をしっかり食べたら昼食はほとんど食べないでいることが多い。 前ページでも書いたが、バイキング形式での朝食の場合は必ずと言って良いほどに昼食を摂ることはない。
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学生時代には旅館で出された朝食のお櫃に残ったご飯をおにぎりにして頂いて出ることが常であったが、今では懐かしい思い出話である。

高千穂峡は阿蘇山中岳の東南約30kmほどの所に位置している。

阿蘇カルデラは27万年前から9万年前に起きた火砕流によって出来たものだが、当時の阿蘇山の火山活動における火砕流は160kmも離れた山口県の秋吉台あたりにまで流れ下るという大規模なものだったから当時の高千穂峡あたりの火山噴出物の堆積が想像もつかないほど膨大な量であったことが想像できる。

上の写真は100mもの高さの断崖が7kmばかり続く高千穂峡の一部で、溶結凝灰岩が浸食されてV時峡谷を形成しているのが分かる。

昭和38年の5月だったと思うが、別府から、今は無くなってしまったようだが亀甲
マークの亀の井観光バスに乗ってやってきたことがある。 もう48年、半世紀も前pict-P1040515のことだが、今回私は2度目、家内は初めて訪れた。 

私たちが高千穂峡に到着した午後の時間帯が最も多くの観光客が訪れる時間帯だったようで、駐車場へ車を入れようとしたら満車だからと、少し離れた駐車場を指示された。 うーん、少し前から小用を催し、駐車場で車を停めたら直ぐにと思っていたのでガックリ。 それより何より最近は思い立ったら我慢が出来なくなってきている。 頻尿傾向にある上、排尿しても勢いよく出ないし、出しきれずに残尿感が残る。 友人が前立腺肥大で困っているというのを全く他人事のように聞き流していたが、どうやら自分も同じなのかと・・・  排尿を我慢するというのは大変なことで冷や汗がタラタラ。 ブレーキペダルを踏むのもままならない。 しばらく走って到着した指示された駐車場も満車状態。 もうこれ以上はダメと駐車している車の前に停車し、慌ててトイレに駆け込む。 小便の出は悪かったものの、何とか排尿できた時の気持ち良さ。 これは万国人間共通の幸せ。 この部分を読んだ人は、切羽詰まった我慢しようのない苦痛と排尿後の嬉しく爽快な気分について共感できるものと思う。 ぶっははははは
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車を運転していると、時にこうした経験もするものだ。 ともあれ気分が落ち着いたので駐車スペースが空くまで待機。

この駐車場から高千穂峡を巡るには随分と傾斜のきつい階段を下りて行かねばならない。 将に『行きはよいよい帰りは怖い』である。

下の写真中央の白く水が流れ落ちている部分が真名井の滝。
写真右手には岩石の節理がよく見えている。
以前にも火砕流については書いているが、比較的新しいところでは長崎県・雲仙の普賢岳の噴火(1990年)によるものがある。 火砕流は火山噴出物が高温でガス化したものと考えて良く、それが大量に噴出して堆積した後にも高温状態にある時、含まれている鉱物が融け、融けた鉱物の粒子同士がくっ付く場合がある。これを溶結pict-P1040523
凝灰岩と言って、単に火山噴出物が堆積してできた凝灰岩とは区別している。 分厚く堆積した溶結凝灰岩が冷却・固結する時に体積の減少が起きるため規則的な割れ目が入って柱状節理が形成されるが、見事な柱状節理が写真に見てとれる。

もう30年も前のことになるが大阪府と奈良県の境にある二上山の南側、『竹内街道(たけのうち・かいどう)』辺りの地学巡検に何度か加わったことがある。 『竹内街道』というのは大和と難波を結ぶ最古の官道であり、二上山の雄岳は山頂に大津皇子の墓があることでもよく知られている所である。 この二上山は新第三紀(2303万年~258万年前)の2000万年前頃に形成された火山で数百万年間活動したと考えられているが現在は死火山である。 しかし二上山の火山噴出物が堆積している二上層群には様々な歴史が秘められており、地学に興味を持つ者にとっては狭い地域で多くを学べる絶好の場所。 火砕流の堆積によってできた凝灰岩が隆起してできた山『どんずる峯(ぼう)』の他、石切り場火山岩の柱状節理の露頭やザクロ石を含むサヌカイト質安山岩の採取等々。 更に大和飛鳥地方の古墳石棺には当地の凝灰岩が用いられていることが多いことも興味ある者にとっては大きい余禄となろう。 
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※ 写真は高千穂宮の鳥居から、以下、神木と本殿と続く。

高千穂峡から話題が飛んでしまったが、人間の記憶というのは単独ではなく連鎖的にあるもので寄り道したとしても仕方がない。 それを文字として、或いは言葉として表すかどうかの違いであって、脳内では複雑に結び合い絡まっているものなのである。 そうした記憶の連鎖ということで『高千穂』と言えば私は『天孫降臨』という言葉と『紀元節』の歌詞を思い浮かべてしまう。

♪ 雲に聳ゆる高千穂の
   高根おろしに草も木も
    なびきふしけん大御世を
     仰ぐ今日こそ楽しけれ

長いこと、もう半世紀以上も昔に聞き覚えた歌詞だから間違えているかもしれないが紀元節の歌詞である。 紀元節とは神武天皇が即位した日ということで明治政府によって2月11日と定められてきた。 これは戦後に廃止されたものの1966年だったか『建国記念の日』という新しい名称で復活した。 

神武天皇については『古事記(上・中・下巻)』の中巻に『神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)』として記載されているが、古事記は上巻が天地開闢から鵜萱草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、中巻が神武天皇から応神天皇まで、下巻が仁徳天皇から推古天皇までの神話・伝説・歌謡など天皇を中心に日本の成りpict-P1040530
立ちを物語っている。 この『古事記』は天武天皇の命によって稗田阿礼が誦習したものを太安万侶が書き留めて712年にまとめたものであることはよく知られているところである。 

『古事記』中巻の冒頭より綴られる『神倭伊波禮毘古命』が高千穂宮にて兄と議り、東の地を従えんと日向(ひむか)より発ち、宇沙(現・宇佐)、阿岐(あき)、吉備、浪速、日下(くさか、現・東大阪市)、盾津(現・東大阪市)、血沼の海(ちぬのうみ、茅渟の海・現在の大阪湾)、紀國、熊野から吉野、宇陀へと進軍する『神武東征』などは話としてはなかなか面白い。

『日本書紀』の巻三『神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)』では、『神武東征』について話し合った時を天孫降臨より『一百七十九萬二千四百七十餘歳』、つまり『179万2470余年』経っていると記しているのである。  『古事記』は712年だが『日本書紀』は720年の完成である。 日本書紀の記述が正しいとするならば、『神武東征』より約180万年も前に天照大御神の命を受けた邇邇藝命が筑紫の日向(ひむか)の高千穂に天下ったことになる。 『古事記』冒頭には『天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神、次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者、並獨神成煮坐而、隠身也。』と天地(あめつち)初めて開けし時の神々についての記述があるが、これら高天原の神々pict-P1040531
が独神(ひとりがみ)となって身を隠した時は天孫降臨から更にどれ程遡らなければならないのか。 稗田阿礼がスーパーコンピュータであったなら可能かもしれないが、天の浮橋に立った伊邪那岐命と伊邪那美命が天の沼矛を指し下して盬許々袁々呂々邇(しほこをろこをろに)とかき回した頃のことより出来事を順次正確に暗記・暗唱できたなど人間業ではない。

それと『紀元節』だが、日本書紀 巻三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)には『辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。』、つまり「辛酉年(かのと・とりのとし)春正月(はる・むつき)の庚辰(かのえ・たつ)の朔(ついたち)に、天皇、橿原宮(かしはらのみや)に卽帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(ことし)を天皇の元(はじめの)年と爲(な)す。」と記しされているように、神武天皇の即位は1月1日であった。 しかし、明治政府は明治6年に紀元節を2月26日とし、これが敗戦の年まで続いた。
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この高千穂宮から車で 10kmばかり北東に走った所に天岩戸神社がある。 写真は遥拝殿で岩戸川を挟んで向かい側に天岩戸がある、らしいが通常の参拝者には見ることができない。

天岩戸は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の乱暴狼藉に怒った天照大神が隠れた岩屋で、そのため高天原も葦原中国も真っ暗になり、八百万の神々が天の安河の川原に集うて相談し、天宇受賣命(あめのうずめ)の踊りと天手力男神(あめのたぢからお)の怪力によって岩戸の戸を開いたという神話だが、このことを偲んで邇邇藝命が祀ったとされている。

オモロイのは八百万の神々が集うて相談したという天の安河の川原というのが岩戸川の少し上流にあり、この地では天孫降臨は高千穂宮から 5kmばかり東南に位置する二上山であると言われてもいる。 更にオモロイことに、『古事記』に天宇受賣命が天の香山の天の日影を手次(たすき)にかけて、天の眞折(まさき)をカズラとして、天の香山の小竹葉(おざさ)を手草に結ひて、天の石屋戸に汗氣(うけ=桶)伏せて蹈(ふ)み』裸になってお踊ったと記されているが、この天の香山は高千穂宮から 4kmばかり北東、天岩戸神社との間に位置する天香具山のことだとしていることだ。

断っておくが神話や伝説を事実と信じている人の思いを否定するつもりはない。 信じる信じないは全く自由であってオモロイという表現は軽蔑しているわけではなく、天孫降臨の地にしろ天岩戸にしろ全国には幾つかあるので、邇邇藝命は久士布流多気(くじふるたけ)に天降ったとされているが何処に天降ったのか、また天宇受賣命が裸踊りを披露したというのは何処の岩戸なのか、そんなことを考えているとオモロイなあという気になってくる、それをオモロイと表現しているのである。



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December 25, 2011

四国~九州への旅 (6) 佐伯 (ホテル金水苑 ・ 城下町散策)

高知県の宿毛港から佐伯港にフェリーが到着し、我が愛車のヘッドライトを照らして上陸したのは午後7時20分ぐらいだったろうか。 博多の T 君と奈良の Y君に依頼して教えてもらった『ホテル金水苑』に向かうつもりが場所が分からない。 車載のカーナビは10年前の代物であり、これまで道なき道を走らせてきた強者である。 目的地pict-P1040483金水苑(1)付近に到着とのアナウンスはしてくれるのだが目的の建物が見つからない。 誰かに尋ねようと思うものの歩いている人も無く、店舗らしい建物もシャッターを閉じて町全体が暗いのだ。 そんな佐伯の町をクルクル回り、やっとホテルを探し当ててチェックイン。
(ホテルの写真だが翌朝撮影したもの)

夕食は道路を挟んで向かい側にある和食レストラン『番匠亭』で食べることができるというので部屋に荷物を置いて直ぐに出かけた。 時間が遅かったからであろう、先客が1人いるだけで落ち着いて食事ができた。 料理は一品ずつ運んできてくれるのだが素材・盛り付け・味ともに先ずまず、料金も決して高くはなく私としては満足させてもらった。 満足と言えばレセプションでビールor日本酒のサービス券なるものを頂いたことも書き加えておかねばならない。
pict-P1040480番匠亭
お酒と言えば私だけが飲んでいるように思われがちだが家内も飲むのであり、これは証拠写真と言える。 家内が飲んでいるのはキリンビールならぬタダビール。 サッポロが無かったのは残念だがタダビールは美味しいものだ。

この夜ゆっくり眠れたのは言うまでもない。

旅先では早朝の散歩をよくするのだが、この朝も家内に付き合せてブラブラ出かけた。 
pict-P1040492番匠亭
ホテルの前が写真の『番匠亭』。  

その隣の医院の門を曲がればまたもや『ホテル金水苑』の建物(番匠亭の右手)。 こちらの外観は白色で1階にはブライダルサロンとキリスト教会式の結婚式場が設けられ、『番匠亭』ともつながっていた。 この白色の建物の直ぐ前がJR佐伯駅であり、昨夜は分からぬpict-P1040482金水苑(2)
ままにこの辺りを何度もクルクル車で周っていたことが分かった。 『ホテル金水苑』、JR佐伯駅、フェリー乗り場とも割に近い位置にあったのである。 写真奥右手がJR佐伯駅になる。

最近のホテルや旅館の食事はバイキングスタイル(本場の北欧ではスモーガスボードと言う)で提供する所が多pict-P10404843朝ご飯
いが、『番匠亭』は違った。

好き嫌いはせず出されたものは残さず頂くという教えを守る私にとって、写真の『番匠亭』の朝食は充分すぎる量であり大変なご馳走であった。

私の朝食は、『ごはん』『味噌汁』『玉子焼き』という三種の神器なるものがあり、これらがあれば大満足なのである。 もっとも、『玉子焼き』というのは熱々焼きたての出汁巻のことなので、これは我が家でのこと。 ホテル旅館で、その場で焼いてくれる場合は目玉焼きでもプレーンオムレツでも良pict-P1040491
いし、通常は生卵か温泉玉子を頂くのだが、食中毒を懸念してか生卵を提供しないところが多くなり、これは私にとっては残念なことである。 玉子の厚焼きを提供している場合もあるが、これは砂糖を加えている場合が多いので頂かない。 私の理解で言えば、アレはお菓子であって、おかずではないのだ。

ところで昨夜はお腹が空いていたので気付かなかったのだが、朝食を食べに『番匠亭』に入る際、ドアのところに彫刻が展示されているのpict-P1040486将軍の孫 西望に気付いた。
子羊を抱く少女というテーマが相応しい銅像は以前に見たことがあるのだが作者を思い出せないままでいるのだ。
それと今一つ、こちらは『将軍の孫』というテーマで北村西望(きたむら・
にしも)の作品である。 最近では島根県安来市にある足立美術館に展示されている像を見た。 これについては9月25日付のブログで紹介しているが、それ以前には姫路市の大手町だったかの野外美術館でも見たことがあるが、「こんにちわ」とかのテーマプレートを貼り付けてあったので「ええっ?」と不思議に思ったことがあった。

ともあれ『ホテル金水苑』はレセプショニストや『番匠亭』のお運びのお嬢さん達の対応は良いし、ホテルの施設・設備も良く、料金についても納得の価格で私の基準では優秀なホテルと判定。 博多の T 君と奈良の Y君にはあらためて感謝の意を表しておきたい。
pict-佐伯市地図
佐伯は今春に一児の母となった R子の父親の実家があると聞いていた。 佐伯に近い島であるということだったが、城下町・佐伯の旧市街はさほど広くはない。 上の地図で左下の城山と赤い文字が集まっている地域が城下町の主たるところである。
pict-P1040496佐伯鶴城高校
写真は武家屋敷の遺構が残る山際通りと本馬場通りに面して建つ大分県立佐伯鶴城高校。 大分県代表として春夏の高校野球大会に出場したことがある。

ところで佐伯だが、私はこの町を訪れるまで『さえき・SAEKI』と思い込んでいたが、実は『さいき・SAIKI』なのだと。
昔、近畿日本鉄道の社長をしていた故・佐伯勇も洋画家の佐伯祐三も『さえき・SAEKI』であり、この町も当然同じだと思っていたが、この歳になってまたひとつ学習することとなった。
pict-P1040504武家屋敷通り(1)
上の写真は武家屋敷の遺構が並ぶ山際通り。

人名を間違えるのは失礼なことで判別できない時には丁重に尋ねるようにしてきたが、『え・E』と『い・I』の一字違いで聞き違いをしていたのかもしれない。 それで思い出したのだが、地震・津波の報道で某テレビ局のアナウンサーが宮城県の石巻を『いしまき・ISHIMAKI』と発音していた。 

下の写真は武家屋敷の遺構が並ぶ山際通り。
pict-P1040502武家屋敷通り(2)
石巻は私が学生時代に何度も訪れている所なので、アナウンサーの言葉を聞くと同時に違和感を感じて瞬時に間違っていると判断したのであるが、アナウンサーが言っているのだから・・・ひょっとしたら私が間違っていたのかと調べ直したことがあった。
勿論、石巻は『いしのまき・ISHINOMAKI』が正しく、アナウンサーが間違っていたのだが、確かにと思っていても自信が揺らぐということは時々ある。 しかし、それにしてもだが、言葉を正しく話し、物事を正確に伝えることを生業とするアナウンサーの能力欠如が最近とみに目立ってきているのは嘆かわしいことだ。 テレビの視聴率を高めるためなのか、知性よりも美貌・見映えを優先させて採用するという傾向があるのかとも思う。  
pict-P1040503薬医門
上の写真は薬医門。 薬医門というのは医師が出入りしたりする門だということもあったらしいが、一般の門とは建築上異なる門を言うらしい。 通常柱は屋根の棟木の真下に位置するように建てられるらしいが、薬医門の場合は屋根の棟木よりも外から見える柱の位置が
img117奥(敷地内)に入り込んでいるものらしい。 

薬医門の構造は概略図に示した通りであり、通常の門よりも庇(ひさし)部分が長い、つまり雨天の場合に門前に待つ者の体が雨にあたりにくいと解釈できるような門であるとイメージできるのではないだろうか。 よくは知らないが2008年3月18日付のブログで茨城県・水戸城の薬医門の写真を掲載しているので参考までに。
pict-P1040497佐伯城址(三の丸門)
佐伯は関ヶ原の合戦の後、1601年(慶長6年)に毛利高政が日田から佐伯に移り、八幡山に城を築き、番匠川を埋め立てて城下町を造ったのが始まりであるとされている。

写真は現存する遺構・三の丸大手櫓門。 ここより写真左手へ登ったところに本丸跡があり、佐伯2万石の石垣遺構を見ることができる。

佐伯は豊後国風土記では海部郡の穂門郷(ほとのさと)と呼ばれていたようで、昔者(むかし)、纏向日代宮御宇天皇(まきむくのひしろのみやにあめのしたをさめたまひしすめらみこと)、つまり景行天皇が船をこの穂門に泊めた時、海の底に沢山の海藻が長く伸びて美しかったので天皇が「最勝海藻(ほつめ)を取れ」と命じられた。 それで海藻を取って献じたということが記されている。 景行天皇は垂仁天皇の皇子で熊襲(くまそ・九州南部を言う)征伐を行ったとされるが、記紀伝説上の天皇であることを付け加えておpict-P1040501
く。 
.この佐伯という名がいつ頃から使われ始めたのか疑問に思って調べてみたのだが明らかにするには至らなかった。 ただ続日本紀767年(神護景雲元年)に『従五位下佐伯宿禰久良麿爲豊後守』と記され、佐伯宿禰久良麿が豊後守として穂門郷に佐伯荘を拓き住まいしたことが分かっているので、多分佐伯としての地名はこの頃から使われ始めたのではないかと推量する。
※ 参考 続日本紀 四 新日本古典文学大系 岩波書店
 
名前と言えば佐伯2万石の初代藩主が毛利高政であることは先に書いたが、この毛利家は長州(山口県)の毛利家とは関係が無いということも当地へ来て知ったことである。

毛利高政は元々羽柴秀吉の馬廻りであったが、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた折、備中高松城を水攻めにし、その援軍の毛利勢と対峙していた。 秀吉は天下取りのため急遽毛利との講和を結び『備中大返し』という大胆な策を講じて山崎の合戦に臨むことになったが、この時に毛利方へ人質として送ったのが森高政とその兄・重政であった。 この高政が毛利輝元に気に入られ、森(もり)と毛利(もうり)と唱うるは同じゆえ向後毛利と名乗り兄弟の契りを結ぼうと言われたことから森が毛利になったのだとか。

pict-P1040495養賢寺外観
その毛利高政が毛利家の菩提寺として創建(慶長10年)したのが養賢寺(臨済宗妙心寺派)。(上下写真)
pict-養賢寺パノラマ

『拝観拒絶』・・・山門から写真だけ撮らせてもらった。 禅宗寺院は拝観を拒絶しているところが割に多いように思う。 まあ僧侶たちの精神修養の場だから止むを得ないかとも思うのだが、一方、私の思いの中では何とケチ臭い独りよがりのクソ坊主らめ、そんなに狭い了見で悟りを開こうというのかと呆れる思いもあるのだ。 ははははは、私の理解が至らぬのかもしれないが仏の教えに照らして矛盾が無いのだろうか。
pict-P1040512三義井
江戸中期、天明の大飢饉として史書にも記録されている近世史上最大の飢饉が起きた。 日本では浅間山の噴火が起きたが、アイスランドの2つの火山噴火が北半球全体の日照量を妨げたことが大きい原因であったとされている。 天明の大飢饉は1782年から1788年と長期にわたるものだったが、この頃、佐伯でも飢饉が続き御典医・今泉元甫が城山の麓に3つの井戸を掘って人々を助けたそうだが、その三義井のひとつ『安井』。
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武家屋敷の遺構が並ぶ山際通りを歩いていたら『国木田独歩館』があった。 

国木田独歩と言えば『武蔵野』を思い浮かべるほどで、東京の人という印象が強いために佐伯に記念館が?との思いで奇異に感じたのだが、明治26年(1893)10月から翌年の6月まで僅かな期間であるが佐伯の鶴谷学館で英語と数学を教えていたらしく、その時に弟と共に下宿していた家を『国木田独歩館』として公開しているのだ。
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写真は佐伯市立佐伯小学校の校門だが、安永8年(1779)に開設された藩校『四教堂』の額が掲げられている。

佐伯の武家屋敷通り(山際通り)と言っても現に人々が住まいしているのだから往時のままに保存できているわけではない。 が、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出す町であった。 端からゆっくり見て回ろうと予定を組んで訪れたわけではない。 言わば佐伯はフェリーの到着港であり、私たちの旅行の通過点であったのだが、気が向くままに歩いて回っていたらついつい時間を潰していたということであった。

日本中かなりあちこちを巡ってきたが、まだまだ知らない所が多いということである。 そして気に入ったところでは気の済むように巡り、気の済むまで滞在する。 これが国内外を問わず、私たちの最近の旅行スタイルである。
懐は豊かではないけれど、有難いことに時間だけはたっぷり使わせていただける。 感謝・合掌




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December 23, 2011

冬至 2011-12-22

冬至って・・・

小さい子どもの頃の経験として、母親が冬至南京と言って南瓜(カボチャ)を煮てくれていたことや、夏には縁先までしか入らない陽射しが縁側から更に座敷の中ほどまで陽射しが届いていることを気付かせてくれたことがあったり、父親がお風呂屋さん(銭湯)に連れてくれ、今日は柚子風呂に入る日だとも教えてくれたことがある。

小学校の6年生の頃には『夜が最も長い日』と理科教科書に書かれている通りに覚え、黄道上の4等分点のひとpict-P1040812柚子風呂(2)つであり、他の3点に夏至、春分、秋分が位置することを知識として持っていた。

その当時、我が家には『高島易断暦』という本があり、それを毎年下さるのが近所にいた割烹店の女将兼易者のおばあちゃんであった。 しかし、暦や易などというものは何か胡散臭いものだと漠然とした思いを抱いていたので別段興味が深まるということもなく、むしろ毛嫌いし避けてきたように思う。

そんな私ではあるが、暦が人々の切実な要求から生まれ改良され、人々の暮らしと密接な関係にあるという実に単純明快な解を得たのは大学生になってからのことであった。
科学史(天文学)の講義でユリウス暦の誤差を計算させられた(単位取得のため計算せざるを得なかった)時、暦の必要性など能田忠亮先生と雑談している中、ひらめきの如く暦に関する興味と理解が深まったのである。
pict-P1040810柚子風呂(1)
閃き(ひらめき)というのはそうしたもので、何の脈絡があるわけでもなく突然に悟るようなものである。 今こうして40数年前の出来事を突然に思い出したのと同じようなものだ。

母親は正月明けに七草粥を食べさせてくれたが、冬至粥と言って小豆粥(あずきがゆ)も食べさせてくれていたなあ。 これは関連する記憶のよみがえりだが・・・

厳しく寒い冬を乗り切るための健康法であったり、疫病や邪鬼を追い払いたいという願いであったり、何千年も昔から経験則をもとに人々が考え出してきた暦と風習。 何の意味も無いわけではない。 深く知ることもなく胡散臭いと毛嫌いしていた頃を青臭く思うようになったのは私も年を取ったということだろうか。

年を取り老いるということは衰え悪くなるということばかりではない。 ある面賢くなったということかもしれない。

ともあれ冬至の柚子風呂、Y君に頂いた柚子に感謝である。 


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December 22, 2011

四国~九州への旅 (5) 足摺岬~竜串海岸~宿毛フェリー

足摺岬の続きを書くつもりでいたのだが、風邪にやられてぶっ倒れていた。 全快宣言にしようと思ったのが13日であったが、それからもなおスッキリせぬまま数日を過ごし、振り返ってみれば何と1ヶ月も風邪菌にやられてたってことになる。 皆さん方も何卒ご用心のほどを。

ところで今回の旅の行程を下の図のように表してみた。
pict-旅行行程A
府県名しか書いていないが赤い線が自動車で走った凡そのコース。 青色の点線がフェリーを利用した部分である。 足摺岬は図で高知と記した所から赤線を伝って左下になり、その先ここで紹介する竜串海岸から宿毛までを赤線で記し、宿毛から大分県佐伯までを青色の点線で示している。

前に足摺岬のところで少し書いたが、地学の上で四国は随分オモシロイ地域なのである。 オモシロイと言う表現は適切でないかもしれないが、地学的にとても興味深いことが沢山あり、それが見え(観察できる)、更に想像を膨らませることが出来るという点でオモロイのである。
pict-マントル
左図の出典は
http://ja.wikipedia.org/
『内核』。 
作者 : Washiucho


現在では中学・高校で当然のように学習するプレートテクトニクス、つまり地球の中心には金属体のコア(内核・外核)があり、それを包む下部マントル、更にそれらを包む上部マントル、その上に地殻が覆うように構成され、上部マントルと地殻はほぼ一体のプレートと考えられている。 そのようなプレートが何枚か集まって地球面を作り、それらのプレートがマントルの対流によって移動しているという理論である。 このプレートは凡そ100kmの厚さがあると考えられている岩石の板状のものだが、日本が乗っかるユーラシアプレートや北アメリカプレート、それらに潜り込んでくる太平洋プレートやフィリピン海プレートのほか、オーストラリアプレート、南アメリカプレート、アフリカプレート、南極プレート、その他がある。

pict-プレート左図の出典はhttp://ja.wikipedia.org/ Plates tect2 ja.svg』。
作者:米国地質調査所USGS, Washiuchopict-米国地質調査所マークtb




プレートはユーラシアや北アメリカなどの大陸プレートと太平洋やフィリピン海などの海洋プレートに分けられマントルの対流現象によって移動している。 そして海洋プレートと大陸プレートの境界部分では比重の大きい海洋プレートが大陸プレートの下に潜り込み様々な地殻変動を起こしていると説明しているのがプレートテクトニクスである。

下の図は3月11日の東北地方太平洋沖大地震が発生した際に作成したものだが、図に示すように西日本はユーラシアプレートの縁辺にあり、フィリピン海プレートと接している。 この接触境界線はGoogleマップEarthを見れば分かりやすい。 左図の赤線部分が深い海溝となっているのが視覚的に理解できる。 この海溝部分が南海トラフ(Nankai Trough)であり、地震などの地殻変動を起こす場所である。
プレート白地図(1)
厚さ100kmものフィリピン海プレートが海底に分厚く堆積したものを積んだまま南海トラフでユーラシアプレートの下に沈み込んでくるのである。 手と手をこすり合わせるだけでも手が随分熱くなるという経験を踏まえてこの地球運動のダイナミズムを考えれば、その圧力、摩擦、熱が想像を絶するものであることは容易に理解できることである。

断層の露頭は各地で見られるが、巨大な岩と岩の間の断層破砕帯は砕かれた小石や砂、土に変容している。 これの超大規模な動きが海底の圧力の高い海溝部分で常時続いており、そのためユーラシアプレートは巻き込まれ足摺岬あたりでは僅かずつであるが沈んでいるのである。 この沈み込みの力に対して摩擦力が限界に達した時、ユーラシアプレートには巻き込まれた分を元に戻そうとする力が働く。 これが私たちが感じる海溝型地震であり、3月11日の東北地方太平洋沖大地震もこのタイプである。 この時、地域によっては土地が隆起する所があったり、逆に沈降したりする所ができるのである。

これを四国の西部と南部に例をとってみれば、何万年も昔から続くプレートの移動によって繰り返し起きてきたであろう地殻変動の結果、南部の足摺岬の辺りは隆起して海岸段丘が形成され、少し北の宇和島辺りでは土地が沈下して沈降海岸となり、現在のような多島海を形成したのである。
pict-img106
今回のテーマとは随分話がそれてしまったようだが、足摺岬から宿毛へ向かう途中の竜串海岸をより理解する上においてプレートテクトニクスを抜きにして考えることはできない。
pict-P1040468
写真は竜串海岸の一部だが砂泥互層の地層が傾いて海水面上に露出している。 長く連なっているのは砂岩層であり、その間の窪んだ海水の溜まっている部分が泥岩層である。 

地質学上この竜串海岸辺りは足摺岬や室戸岬などと同じ 四万十帯に属しているが、この四万十帯は下の図の通り四国南部の地層であるが、東は千葉県の房総半島、西は九州、沖縄にまで広がるものであり、中生代白亜紀(1億4550万年~6550万年前)から新生代古第三紀(6550万年~2303万年前)にかけて形成された地層であることが含まれる化石などによって証明されている。

そしてこの四万十帯は付加体であるとされているが、この付加体こそプレートテクトニクスが最も明快に説明してくれるものである。 プレートテクトニクスと付加体について分かりやすい図があったので紹介したい。
pict-付加体・美祢市立秋吉台科学博物







上図の出典は美祢市立秋吉台科学博物館
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/akihaku/kagaku.site/oitachi.site/oitachi.html
『秋吉台はどこから来た』

図のようにマントルの対流によって海洋プレートが移動するが、何万年という時間の中で海山が出来たり海洋生物などの堆積があったり、そうしたものを載せて大陸プレートの下へ沈み込んでいく。 この際、大陸プレートに削り取られるように海洋プレート上の堆積層が次々と溜まるが、この溜まったものを付加体と呼ひ図上茶色に示され
ている部分である。 その付加体が徐々に徐々に押し上げられていく。 やがて摩擦力が限界に達した時、大陸プレートが隆起する。 これが地球時間という長い長い連続の過程で繰り返し繰り返し行われて浅海底をつくり、やがて海水面に現出する。
竜串海岸はこうして出来上がったものである。

ついでなので四万十帯について建設省四国地方建設局の四国地方土木地質図より地帯区分図を紹介しておこう。
pict-四国地帯区分図
区分図を大まかに見れば、四国の地質は横切りにして4つの帯に分かれると見れるかも。 地質学上許されることではないが、北部の二つは領家変成帯と三波川変成帯、その南に秩父累帯(黒瀬川帯・三宝山帯を含む)があり、四国南部はほぼタテ線の四万十帯である。
しかしタテ線の地帯も土佐湾と宿毛湾の文字の部分に引かれた線を境に線種が異なっているのが分かるだろうか。 これは北側が白亜紀層で南側が第三紀層であることを示しているのだが、中生代白亜紀というのは地質時代としては先にも書いたが1億4550万年~6550万年前のことであり新生代古第三紀は6550万年~2303万年前を言い、当然白亜紀の方が時代としては古い。
pict-P1040467浸食(1)
古い新しいということでは地層の場合は下から順序良く堆積するものであり、これを地層累重の法則と言い褶曲など地殻変動を受けない状態では下部ほど古く、上部へ行くほど新しいというのが大原則なのだが、この四万十帯の場合は北ほど古く南へ行くほど新しくなっている。 これは上に美祢市立秋吉台科学博物館の図を示したように付加体として溜まっていったものが後から後から溜まってくるものに押し上げられていったためとプレートテクトニクスによる説明で納得できようかと思う。
つまり地帯区分図でも分かるように竜串海岸のあたりは新生代古第三紀(6550万年~2303万年前)に形成された新しいものであり、3000年~2000年前頃に隆起したものだろうと考えられている。
pict-P1040465たまきび
上の写真は砂岩上に生息するタマキビの群れと、砂岩層が形成される際に石灰質などの沈殿物が塊(茶色)となったものでノジュール。  小さな巻貝の集団は形や模様からイシダタミであろう。 こ奴は潮間帯の生き物としては極々一般的である。 生息場所として海水の近くを好むけど海水に浸るのは嫌いらしい。 学生時代のことだが瀬戸内海・鹿島で漁師の息子に『イソモノ』としてイボニシ、イソニナと共にイシダタミも海水で茹で、おやつとして頂いたことがあった。 針でほじくって食べるのだが磯臭いが私は好んで食べたことを思い出す。

それにしても地球科学では2000万年前でも新しいと表現するのだから・・・  私たちなら商品の賞味期限はと、せいぜい何ヶ月ぐらいかを基準に新しいとか古いとか判断するのだが地学の連中と話しているといつも頭の切り替えに忙しかったことを思い出す。
pict-P1040464コンボリューション
写真のような渦巻き状のものが地層内に見られるが、これは地層が固まる際に堆積状態が乱れる何らかの原因、地震のようなものかもしれないし、その他の何か変動が起きて安定しないままに固化してしまったものであろう、こうしたものをコンボリューションと呼ぶが、一体どんな出来事が起きていたのだろうか。
pict-P1040476ハマニガナ(キク科)竜串海岸
写真の花は竜串海岸の浜で見つけたハマニガナ。 写真の通りキク科の植物である。 塩分に強く水分が充分でなくとも逞しく強かに生きている凄いやつである。

平日だったということもあるのかもしれないが、私たちが竜串海岸を歩いていた時、ひと組のアベックが訪れていただけで、コンクリート造りの中国風建物のサンゴ博物館は閉鎖され、屋根には雑草が生え放題で全く放置されたような状態であった。 広い無料の駐車場に私の車と他に1台。

観光客?見学者が少なく静かに落ち着いて見てまわれることは私にとってはこの上なく素晴らしいことなのだが・・・
 
竜串海岸ではもっとゆっくり時間を取っても良かったのだが、フェリーの時間のことや今夜の宿のことが頭をよぎり宿毛フェリー埠頭へ急ぐことにした。
pict-宿毛フェリー航路私の理解では、現在四国と九州は宿毛フェリー(高知・宿毛~大分・佐伯)、宇和島運輸フェリー(愛媛・八幡浜~大分・臼杵、愛媛・八幡浜~大分・別府)、国道九四フェリー(愛媛・三崎~大分・佐賀関)の三社4航路が営業している。

ここで私たちが利用したフェリーが高知県・宿毛港と大分県・佐伯港を結ぶ宿毛フェリーで所要3時間10分。

船が嫌だと言う家内がギリギリ許容できる乗船時間である。 嫌な理由は船酔い。 これは私も同じこと。 小さい船での長時間乗船は私も嫌である。

もう40年も昔、私たちは新婚旅行先に九州を選んだ。 大阪からの新婚旅行先は、昔、有馬、その後に白浜、そして九州・別府から宮崎へと人気のある場所が時代とともに変化していった。 受入れ先の観光地化への努力と交通機関の発展が人気の高い場所を変えていったのである。 多分、九州に向かった新婚グループでは私たちが最後のほうになるのだと思う。 当時、宮崎へも飛行機で向かう新婚客が多く、私たちの後にはハワイへ向かうpict-P1040477ニューあしずり者たちが徐々に増えていたから。

私たちは往路を関西汽船の別府航路。 復路を宮崎・日向港からサンフラワーで大阪港へと飛行機を利用せず極力旅行日数を有効に使うことを考え夜行船便にしたのであったが、瀬戸内海は春の嵐、外洋も風が強く1万トン級の船も揺れがひどく、以来私たちは船がダメだと思うようになってしまった。

しかしその後、私は船酔いについては解消。 家内も青函フェリーで自信をつけ、コペンハーゲン~オスロ間、ストックホルム~ヘルシンキ間の船中泊でも問題なく、と言っても北欧航路の船は6万トン近い、百貨店のビルディング並みの大きさの船だから酔うこともないのだが、解消している。 ともあれ宿毛から日に3便(0:30発 08:00発 16:00発)の最終便に乗船することができた。

佐伯港着が午後7時過ぎ。 車を走らせることができるのは7時半になるだろうと予想して宿毛フェリーターミナルでも船中でも佐伯のホテルを探すことができずT君やY君にホテル情報を送ってもらうように依頼。 世話をかけてしまうこととなった。 その情報によって佐伯のホテルに船上より宿泊予約を行った。 が予想した通り、11月の午後7時半過ぎの佐伯の町は既に真っ暗。 ともかくもホテルに何とかチェックイン。



masatukamoto at 23:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

December 13, 2011

謝意を表す

今月2日の記事で先月25日(金)の医院での待合室のことを書いた。

ゴホンゴホンと咳き込む音があちこちから耳に入ってくるので風邪を移されるのはイヤだなあと思っていたということを。

元気でいた者が医院を訪れ、その後に薬局を訪れただけで他の者との接触は無い。 唯一、自宅で家内と会話するだけだったが、その家内は健康そのものであった。

そんな状況で夜になってから急に風邪の症状が出たというのは・・・

思い込みと言われれば、そうかもしれない。 が、私には風邪を移されたとしか思えないのだ。 別に恨み辛みを書き連ねるつもりはないが、物事には因果関係があるもので、私は移されたものだと考えている。

まあそれにしても参った参った。
pict-P1040807風邪の症状が出て今日で19日目。 14日目を過ぎて咳き込むことが少なくなり楽になってきたが、もう1~2日で治るだろうと思っていたのに案外しつこい風邪であった。 引き始めてから3日目頃から気管支炎の症状を呈し、熱のために体はだるいし、咳をすれば胸が焼けるように痛み、その痛みは背中にまで伝わるというひどいものであった。 

しかし、やっとやっと楽になり、昨日ぐっすり眠って目を覚ましたところ Y君が見舞に来てくれていたことを知った。  私の大好物を持って。

『紅ほっぺ』。 何ともでっかいイチゴである。 甘さ、酸味が程よく汁気もまずまず。 大好物を頂いたこともあって、今日は快調である。 本日をもって風邪は全快としておこうか。

とまれ先ずは感謝感謝。  Y君にもこのページで『ありがとう』の言葉を送っておく。



masatukamoto at 12:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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