December 2011
December 03, 2011
四国~九州への旅 (4) 『足摺岬』
この四国~九州への旅(1)で少し触れたが、私が初めて足摺岬を訪れたのは昭和45年頃のことで、当時は大阪・岡山間は電化されていたものの他は全てディーゼルカー。 新幹線は無く、瀬戸大橋線も無かったから宇高連絡船で四国・高松へ渡らねばならなかったし、道路事情も悪かったものだから大阪から足摺岬まで随分の時間を必要とした。
今回は自動車での移動だが、高知 ICから高知自動車道で須崎を越え土佐久礼までノンストップで走れるので時間的には随分早い。 国道56号で四万十市(旧・中村市)、国道321号で土佐清水市を経て、後は足摺スカイラインで岬に至る。
以前足摺岬に来た時は観光気分ではなかったので、どんな所だったか殆ど記憶に残るものはないが、岬に向かう道路が南国特有の照葉樹に覆われトンネルのようになっていたことと、終点の足摺岬バス停付近に土産物店と木造旅館が何軒か建っていたことは覚えている。
写真は『ジョン万次郎』の像。 この像の背後に四国霊場第38番札所の金剛福寺があり、ジョン万次郎が眺める方向に足摺岬の突端がある。
ジョン万次郎こと中濱萬次郎は土佐清水の人だが、天保12年(1841)漁に出て遭難、米国船に救助されてアメリカに渡り学問を修めた。 後、幕末期の日本に帰ってきたが日本は鎖国中であり幕府や薩摩藩の取り調べを幾度も受けることとなった。
小学生の頃に読んだ井伏鱒二の作品『ジョン万次郎漂流記』の主人公であり、幕末期の日本にあって彼の英語力が幕府と米国の折衝において大いに役立ったことはよく知られているところである。
写真は足摺岬の展望台より岬の突端に建つ白い灯台を眺めたもので、足摺岬は海面との高低差が80mもの断崖になっており、高所に弱い私は真下を見るのが恐ろしいくらいであった。
日光・華厳の滝、白浜・三段壁、越前・東尋坊、これらとともに私が記憶していたのが足摺岬である。 字の通り、足の裏を摺るように歩まねばならない岬であるとイメージしていたのである。 家出した友人がそのような所に行っていると知らされれば当然のごとく自殺を連想してしまうものだ。 結果、ツマラン捜索の旅に出発した私であったが、何とお人好しであったのかと思いつつ、今もさして変わらない自分を思い浮かべ断崖絶壁を眺めながら苦笑するばかりであった。
足摺岬の展望台から右手、つまり西方向を見たのが灯台の写っている上の写真で、下のパノラマにした写真は展望台から左手にある天狗の鼻を見たものである。
天狗の鼻の展望所へはツバキの枝葉で覆われた道を進んで行くのだが、上の写真で緑が切れる突端あたりにそれは設けられている。
ツバキが生い茂る天狗の鼻展望所への道は木漏れ日が射し込み、柔らかな光が地肌を覆うように緑の葉を広げるツワブキを照らし、そこから伸びた花茎の先の黄色い花を輝かせている素敵な小径であった。
そのツワブキの花から花へと吸蜜行動をとっていたのが下の写真のアサギマダラであった。
捕まえようとすればヒラヒラと飛び立つのだが、かと言って私たちの目に見えない所へ飛んで行くのではなく、近くのツワブキの花へ移動するだけで私たちを恐れているという行動ではなかった。 事実、トンボの目をクルクル回すように指を動かせばジャレ付くようにアサギマダラは寄ってもきたのである。
アサギマダラのアサギは浅黄とも浅葱とも書くが、薄い藍色のことで、このチョウの翅の色がネギの薄い水色をしていることから呼ばれているのである。
またアサギマダラは近年のマーキング法による調査研究で、日本の東北地方南部あたりと中国の上海や台湾あたり、つまり距離にして1000kmから2000kmを飛んでいることが確認されている。 アサギマダラの生態については解明されていないことが多いらしいが、日本が秋を迎えると南の方へ飛んで行き、春を迎えるようになると日本へ飛んで来るらしい。
しかし、チョウの寿命から言えば南へ飛んで行ったチョウと日本へ飛んで来るチョウとは別の個体であるというので、私たちが見かけた沢山のアサギマダラは南の国へ飛んで行く集団が足摺岬で休憩していたのかもしれない。
天狗の鼻の展望所から足摺岬展望台と更にその向こうに位置する灯台が建てられている足摺岬を眺めたのが上の写真である。
地質的に見ればユーラシアプレートの外縁部にあたる四国・足摺岬は西南日本弧の外帯にあたり、紀伊半島南部の尾鷲や潮岬、四国・室戸岬、或いは九州・都井岬などと共に常にフィリピン海プレートの沈み込みの働きを受けている地帯である。 このようにフィリピン海プレートが沈み込むということは南から北へ強力な圧力をかけていることになり、陸の方では圧縮されて地域によっては大地が上昇したり下降したりといった現象が起きる。 足摺岬一帯は長い年月をかけて海岸が隆起したり海水面の変化や波による浸食を受けたりして海岸段丘が形成され、写真に見るような断崖が連なる地形になっている。
現在、足摺岬あたりでは年間数cm程度沈んでおり、プレートが引きずり込む力に耐えられなくなった時に地震が起こる。 四国での大きい地震は昭和21年(1946)に起きた南海地震があるが、その際に足摺岬あたりでは 1mほど隆起したらしい。 足摺岬一帯の地層や地質はなかなか面白いのだが、話を先に進めることにする。
これらの写真は四国霊場第38番札所・蹉跎山・補陀洛院・金剛福寺である。
寺の説明によると822年に弘法大師が開創した真言宗の寺で、源満仲が写真の多宝塔を寄進し、息子の頼光が諸堂を整備したと言う。
この源頼光は大江山の酒呑童子を退治した藤原摂関政治期における源氏の高位の武官である。(清和源氏・・・川西市の多田源氏)
頼光四天王には、頼光のほか渡辺綱、坂田金時らがいたが、坂田金時の幼名が金太郎。 あの昔話の金太郎がこの人である。
また平安時代中期の歌人・和泉式部も参詣し、多宝塔の前に逆修塔を建立し、髪の毛を納めたと言う。 (逆修塔とは生前に建てる石塔墓のこと)
私たちが参拝した時もお遍路さんの一団が参詣に来ていた。
10数人のグループであったが、バスの運転手と旅行会社の添乗員。 それにお遍路さんの場合にも先達と言うのだろうか、本堂の前で寺の説明をした後に、「オン バサラ・・・・・ソワカ」だったか、参詣グループの読経を先導する人がいた。
その一団が参拝している間に彼らの納経帳や白の帷子、掛軸などに朱印と墨書を貰うことを専門に行う係の若い男がいて・・・・・ 更には二人組の写真屋が自分たちの車で団体のバスを追うように付いて回っていた。
ええとか悪いとか言うつもりは毛頭ない。 信仰のあり方は百人百様である。 巡礼は1人で行うものと決まってもいないし、歩いて回らねばならないという決まりも無いのである。 ただ、お遍路さんと呼ばれる巡礼が、あまりにも便利にと言うか、何もかも商品化されているような感じがしてならないのだが・・・
今回は自動車での移動だが、高知 ICから高知自動車道で須崎を越え土佐久礼までノンストップで走れるので時間的には随分早い。 国道56号で四万十市(旧・中村市)、国道321号で土佐清水市を経て、後は足摺スカイラインで岬に至る。
以前足摺岬に来た時は観光気分ではなかったので、どんな所だったか殆ど記憶に残るものはないが、岬に向かう道路が南国特有の照葉樹に覆われトンネルのようになっていたことと、終点の足摺岬バス停付近に土産物店と木造旅館が何軒か建っていたことは覚えている。
写真は『ジョン万次郎』の像。 この像の背後に四国霊場第38番札所の金剛福寺があり、ジョン万次郎が眺める方向に足摺岬の突端がある。
ジョン万次郎こと中濱萬次郎は土佐清水の人だが、天保12年(1841)漁に出て遭難、米国船に救助されてアメリカに渡り学問を修めた。 後、幕末期の日本に帰ってきたが日本は鎖国中であり幕府や薩摩藩の取り調べを幾度も受けることとなった。
小学生の頃に読んだ井伏鱒二の作品『ジョン万次郎漂流記』の主人公であり、幕末期の日本にあって彼の英語力が幕府と米国の折衝において大いに役立ったことはよく知られているところである。
写真は足摺岬の展望台より岬の突端に建つ白い灯台を眺めたもので、足摺岬は海面との高低差が80mもの断崖になっており、高所に弱い私は真下を見るのが恐ろしいくらいであった。
日光・華厳の滝、白浜・三段壁、越前・東尋坊、これらとともに私が記憶していたのが足摺岬である。 字の通り、足の裏を摺るように歩まねばならない岬であるとイメージしていたのである。 家出した友人がそのような所に行っていると知らされれば当然のごとく自殺を連想してしまうものだ。 結果、ツマラン捜索の旅に出発した私であったが、何とお人好しであったのかと思いつつ、今もさして変わらない自分を思い浮かべ断崖絶壁を眺めながら苦笑するばかりであった。
足摺岬の展望台から右手、つまり西方向を見たのが灯台の写っている上の写真で、下のパノラマにした写真は展望台から左手にある天狗の鼻を見たものである。
天狗の鼻の展望所へはツバキの枝葉で覆われた道を進んで行くのだが、上の写真で緑が切れる突端あたりにそれは設けられている。
ツバキが生い茂る天狗の鼻展望所への道は木漏れ日が射し込み、柔らかな光が地肌を覆うように緑の葉を広げるツワブキを照らし、そこから伸びた花茎の先の黄色い花を輝かせている素敵な小径であった。
そのツワブキの花から花へと吸蜜行動をとっていたのが下の写真のアサギマダラであった。
捕まえようとすればヒラヒラと飛び立つのだが、かと言って私たちの目に見えない所へ飛んで行くのではなく、近くのツワブキの花へ移動するだけで私たちを恐れているという行動ではなかった。 事実、トンボの目をクルクル回すように指を動かせばジャレ付くようにアサギマダラは寄ってもきたのである。
アサギマダラのアサギは浅黄とも浅葱とも書くが、薄い藍色のことで、このチョウの翅の色がネギの薄い水色をしていることから呼ばれているのである。
またアサギマダラは近年のマーキング法による調査研究で、日本の東北地方南部あたりと中国の上海や台湾あたり、つまり距離にして1000kmから2000kmを飛んでいることが確認されている。 アサギマダラの生態については解明されていないことが多いらしいが、日本が秋を迎えると南の方へ飛んで行き、春を迎えるようになると日本へ飛んで来るらしい。
しかし、チョウの寿命から言えば南へ飛んで行ったチョウと日本へ飛んで来るチョウとは別の個体であるというので、私たちが見かけた沢山のアサギマダラは南の国へ飛んで行く集団が足摺岬で休憩していたのかもしれない。
天狗の鼻の展望所から足摺岬展望台と更にその向こうに位置する灯台が建てられている足摺岬を眺めたのが上の写真である。
地質的に見ればユーラシアプレートの外縁部にあたる四国・足摺岬は西南日本弧の外帯にあたり、紀伊半島南部の尾鷲や潮岬、四国・室戸岬、或いは九州・都井岬などと共に常にフィリピン海プレートの沈み込みの働きを受けている地帯である。 このようにフィリピン海プレートが沈み込むということは南から北へ強力な圧力をかけていることになり、陸の方では圧縮されて地域によっては大地が上昇したり下降したりといった現象が起きる。 足摺岬一帯は長い年月をかけて海岸が隆起したり海水面の変化や波による浸食を受けたりして海岸段丘が形成され、写真に見るような断崖が連なる地形になっている。
現在、足摺岬あたりでは年間数cm程度沈んでおり、プレートが引きずり込む力に耐えられなくなった時に地震が起こる。 四国での大きい地震は昭和21年(1946)に起きた南海地震があるが、その際に足摺岬あたりでは 1mほど隆起したらしい。 足摺岬一帯の地層や地質はなかなか面白いのだが、話を先に進めることにする。
これらの写真は四国霊場第38番札所・蹉跎山・補陀洛院・金剛福寺である。
寺の説明によると822年に弘法大師が開創した真言宗の寺で、源満仲が写真の多宝塔を寄進し、息子の頼光が諸堂を整備したと言う。
この源頼光は大江山の酒呑童子を退治した藤原摂関政治期における源氏の高位の武官である。(清和源氏・・・川西市の多田源氏)
頼光四天王には、頼光のほか渡辺綱、坂田金時らがいたが、坂田金時の幼名が金太郎。 あの昔話の金太郎がこの人である。
また平安時代中期の歌人・和泉式部も参詣し、多宝塔の前に逆修塔を建立し、髪の毛を納めたと言う。 (逆修塔とは生前に建てる石塔墓のこと)
私たちが参拝した時もお遍路さんの一団が参詣に来ていた。
10数人のグループであったが、バスの運転手と旅行会社の添乗員。 それにお遍路さんの場合にも先達と言うのだろうか、本堂の前で寺の説明をした後に、「オン バサラ・・・・・ソワカ」だったか、参詣グループの読経を先導する人がいた。
その一団が参拝している間に彼らの納経帳や白の帷子、掛軸などに朱印と墨書を貰うことを専門に行う係の若い男がいて・・・・・ 更には二人組の写真屋が自分たちの車で団体のバスを追うように付いて回っていた。
ええとか悪いとか言うつもりは毛頭ない。 信仰のあり方は百人百様である。 巡礼は1人で行うものと決まってもいないし、歩いて回らねばならないという決まりも無いのである。 ただ、お遍路さんと呼ばれる巡礼が、あまりにも便利にと言うか、何もかも商品化されているような感じがしてならないのだが・・・
December 02, 2011
晩秋から初冬へ
師走に入って今日は二日目。
昨日が朔日であった。 ぶっはははは、何だか変な洒落のような・・・
この一週間ばかり風邪引きで苦しかったが、どうやら快方に向かいつつあるようで今日は体が楽なように思う。
先月25日(金)に血圧の薬をもらうため某医院を行ったのだが待合室は満席で座る場所もない。 いつも通り『老人集会所』の様子を呈していたが、この日はゴホンゴホンと咳き込む音があちらからこちらからと耳に入ってきた。 風邪を移されるのはイヤだなあと思いつつも、診察を受けねば処方箋を出してもらえなくなったものだから待つほかない。
しかし、これはオカシイのではないかと思う。
厚生省の通達だか何だか知らないが、伝染が懸念される受診者と、そうではない受診者を狭く限られた待合室で診察の順番を待たせるというのは何かスッキリしないものを感じるのだ。 原則は原則で良かろう。 が、医療活動においても臨機応変の対応は必要なのではないだろうか。 私は、そうあるべきと思っているのだが・・・
上の写真は私たちが四国から九州を旅している間、我が家に吊るしておいた干し柿である。
一般に商品として店頭に並ぶものは渋柿そのものが大きく立派なものを用いているので見栄えも良いし食べごたえもある。 あんぽ柿と呼ばれる商品は立派なもので、義兄は台湾の友人が好むからと大きいカラスミを頂戴するお返しに贈っているほどで、結構高価なものである。
私が用いる渋柿は一握り程度の大きさだから干せば更に小さくなる。 しかし、皮を剥いて吊るす手間は同じであるが、作るという楽しみ、出来上がりを待つという楽しみが付加されるので商品としての干し柿を求めるのとは大きい違いがあるのだ。
今回の渋柿は某果物店で仕入れたものを用いた。 一昨日出来上がりを試食したが、まずまずといったところだったのでビニル袋に入れて冷凍庫に保存した。
リンゴに富有柿は家内の友人が届けてくれたもの。
信州の農家と契約しているとかで、毎年晩秋の頃になると友人夫婦は車で向かい、どっさり収穫してくるのだと。
ところで、家内は柿を買って食べるものだとは思っていない。 家内は徳島県の池田という田舎の出身だから庭だけでなく、あちこちに柿の木があって何時でも食べることができたからだと言う。 大阪という都会育ちの私には考えられないことであるが、言われてみるとそうかもしれないとも思う。
写真の柚子は Y君の実家から送ってきたもので今年も沢山頂いた。
昨年は頂いた柚子で柚子味噌、柚餅子、柚子茶を作った。 それに冬至には柚子湯(風呂)にも用いた。
今年は何を作ってみようかな。
22日が冬至なので、柚子風呂に入ることは決まった。
感謝、感謝である。
昨日が朔日であった。 ぶっはははは、何だか変な洒落のような・・・
この一週間ばかり風邪引きで苦しかったが、どうやら快方に向かいつつあるようで今日は体が楽なように思う。
先月25日(金)に血圧の薬をもらうため某医院を行ったのだが待合室は満席で座る場所もない。 いつも通り『老人集会所』の様子を呈していたが、この日はゴホンゴホンと咳き込む音があちらからこちらからと耳に入ってきた。 風邪を移されるのはイヤだなあと思いつつも、診察を受けねば処方箋を出してもらえなくなったものだから待つほかない。
しかし、これはオカシイのではないかと思う。
厚生省の通達だか何だか知らないが、伝染が懸念される受診者と、そうではない受診者を狭く限られた待合室で診察の順番を待たせるというのは何かスッキリしないものを感じるのだ。 原則は原則で良かろう。 が、医療活動においても臨機応変の対応は必要なのではないだろうか。 私は、そうあるべきと思っているのだが・・・
上の写真は私たちが四国から九州を旅している間、我が家に吊るしておいた干し柿である。
一般に商品として店頭に並ぶものは渋柿そのものが大きく立派なものを用いているので見栄えも良いし食べごたえもある。 あんぽ柿と呼ばれる商品は立派なもので、義兄は台湾の友人が好むからと大きいカラスミを頂戴するお返しに贈っているほどで、結構高価なものである。
私が用いる渋柿は一握り程度の大きさだから干せば更に小さくなる。 しかし、皮を剥いて吊るす手間は同じであるが、作るという楽しみ、出来上がりを待つという楽しみが付加されるので商品としての干し柿を求めるのとは大きい違いがあるのだ。
今回の渋柿は某果物店で仕入れたものを用いた。 一昨日出来上がりを試食したが、まずまずといったところだったのでビニル袋に入れて冷凍庫に保存した。
リンゴに富有柿は家内の友人が届けてくれたもの。
信州の農家と契約しているとかで、毎年晩秋の頃になると友人夫婦は車で向かい、どっさり収穫してくるのだと。
ところで、家内は柿を買って食べるものだとは思っていない。 家内は徳島県の池田という田舎の出身だから庭だけでなく、あちこちに柿の木があって何時でも食べることができたからだと言う。 大阪という都会育ちの私には考えられないことであるが、言われてみるとそうかもしれないとも思う。
写真の柚子は Y君の実家から送ってきたもので今年も沢山頂いた。
昨年は頂いた柚子で柚子味噌、柚餅子、柚子茶を作った。 それに冬至には柚子湯(風呂)にも用いた。
今年は何を作ってみようかな。
22日が冬至なので、柚子風呂に入ることは決まった。
感謝、感謝である。