January 2012
January 31, 2012
四国~九州への旅 (13) 大隅半島から薩摩半島へ (指宿・いわさきホテル)
大隅半島と薩摩半島間の最短コースは桜島フェリーで錦江湾を横切るルートであるが、佐多岬から桜島までは約100kmあり、海を渡ってから又かなりの距離を戻ってこなければならない。 他に垂水港から鹿児島港へのフェリーもあるが、垂水まで約70kmあるので、今回のように佐多岬から指宿への最短コースは大隅半島側の根占港から薩摩半島側の山川港を結ぶ『フェリーなんきゅう』を利用するのが一番である。
佐多岬ロードパークの道路から国道269号線の田之崎へ出れば、あとは海沿いの道を北へ走れば良いのであるが、こんな時に限って前に警察のパトカーが・・・
1日4便のフェリーで、根占出航が14時30分。 これを逃せば16時30分の便で終了のため何とか乗りたいのだがトロトロ。 こちらの意を察してくれたのかどうか、白黒パンダちゃん、車を左に寄せて先に行かせてくれたので、これ幸いとスピードを上げるもんか。ははははは。さすがに直ぐにスピードを上げるほど私は図太い神経を持ち合わせてはいない。 徐々に徐々にパンダちゃんとの距離を空け、その姿がルームミラーから消えるのを待って車の速度を上げていき、根占港に到着したのは14時20分。 フェリーは空いていたがギリギリのセーフ。 船の作業員に急かされ無事乗船。 ※ 写真は根占港を出港したフェリー『なんきゅう』から港方向の景色。
指宿市の山川港まで約50分の航程。 未だに船が弱いという家内だが、この程度の距離なら大丈夫だろうと、今回の旅行では2度目の船となった。
山川港に近付き、前方に開聞岳の姿が見える。
港へ着いて直ぐにホテルへ宿泊を依頼。 今夜のホテルは『いわさきホテル』に決まった。
宿泊先が決まると気持ちも落ち着くもので、折角だから周辺の観光でもしていくかと車を走らせた。 鰹節と台風で有名な枕崎へでもと思ったのだが、往復の所要時間などを考えると今回はパス。 でも、枕崎という名前は何となく興味をひかれる。 私が子どもの頃の台風情報では、「〇〇台風は枕崎南方〇〇キロメートルの海上を北北東に・・・」などと、日に何度も枕崎の名前を耳にしていたから。
で、閉園時刻間近の長崎鼻パーキングガーデンへ。 ここは亜熱帯植物が園内に多数植栽され写真のように秀麗・開聞岳のほか、晴れていれば屋久島の宮之浦岳まで見ることのできる所なのだ。 入園料は1200円。 むむむむむ、あとで分かったことだが『フェリーなんきゅう』利用者は200円引きという特典があったのだ。 でも閉園間近ということもあって切符切りのオバチャンが600円に。 つまり一人分の料金で入れてくれた。
※ ハイビスカスの花と開聞岳の写真は今年の年賀状に用いたもの。 私は気に入っているのだが、でも少し観光写真的かな? とも思う。
左の写真は長崎鼻。
長崎鼻も岬のひとつで、写真では分かりにくいが小さな白い灯台が建てられている。
季節的に陽が落ちるのが早くなっており、長崎鼻パーキングガーデンを出る頃には薄暗くなっていた。
『いわさきホテル』へは道に迷うこともなく到着したのだが、ホテルの敷地に車を入れた途端、以前に来たことがあると記憶中枢からの猛烈な信号送信を受けた。
目前のホテルの建物は違った信号を送ってくるのだが、私の記憶は間違いなく正しいと言ってくるのだ。
ここへ初めて来たのは半世紀前、大阪の高校の修学旅行の時であった。
当時大きい温室のような構造物の中に熱帯・亜熱帯の植物を多数植栽し、その中に幾つもの湯船を配置してジャングル風呂と称し、これが結構有名であった。
次に、高校の卒業式を控えた頃だったか、同級生3人で訪れ、この時はお金も無かったのでホテル敷地の砂浜にテントを張らせてもらって一夜を過ごした。 この時、ホテルスタッフのお嬢さん、私達より年齢は2つか3つ上であったが、親切にしてもらった。 バスケットにパンなどを入れて朝食を持ってきてくれたし、ジャングル風呂の入浴券も頂いた。
三度目にやってきたのが私達の新婚旅行。 この頃、の『いわさきホテル』は『指宿観光ホテル』という名前だったのだ。 私の記憶に間違いないと、チェックインの際にレセプションのお嬢さんに尋ねてみた。
案の定であった。 しかし、レセプションのお嬢さんは当時生まれてもいなかったのだから『指宿観光ホテル』のことはホテルの沿革史として知っているだけ。 施設は変わってしまったが何となく懐かしい思いに浸った日であった。 ※ 『いわさきホテル』の写真はホテルのパンフレットより。
四国~九州への旅 (12) 佐多岬へ
小高い丘の岬に野生馬がいるだけ、しかも交通が不便となれば訪れる観光客が少ないのも致し方ない。 つまりホテル営業は甚だ難しいと、これは商売に素人の私でも分かること。 何だか淋しい気がしないでもないが止むを得ないことである。
志布志から国道448号線を走行していると右手のサツマイモ畑の向こうに小さな丘が目に入った。
「うん? あれは古墳ではないか、それも前方後円墳。」
そう感じた途端に車を右折させる準備に入っていた。
農道を通って傍まで行くと大崎町教育委員会が設置した看板があり、『國指定史跡「横瀬古墳」(昭18.9.8.指定)』と記され、『古墳時代中期(5世紀後半)の前方後円墳・志布志湾の海岸線より約1キロ、標高約7メートルのところにある。後円部頂上付近に「竪穴式石室」があるが、明治35年(西暦1902年)盗掘され、その際、腐食した直刀、鎧と曲玉類が出土、内部は朱塗であったという。墳丘及びその周辺より円筒埴輪片、形象埴輪等が出土している。前方後円の完全な形態を残していることで有名。周辺に小円墳があったとのことであるが現在は消除され残っていない。前方辺部に加茂神社があるが、創建、古墳との関係は不詳。昭和52 ・ 53年県教委調査により周濠のあったことが確認されている。地籍調査(昭46)による古墳の面積、長さ、幅、等次のとおり ・ 場所 大崎町横瀬エザイ町〇〇番地 ・ 面積 6417平方メートル 長さ 124メートル ・ 後円部 高さ15メートル、最大巾63.4メートル ・ 前方部 高さ13メートル、最大巾63.4メートル ・ くびれ部 巾45メートル』とあった。
前方後円墳は本州、四国、九州に分布し、別段珍しいというわけではないが、この地にも一帯を支配する豪族がいたのだと確信できる証左のひとつであり、昔に思いを馳せるきっかけともなり、これはこれで楽しいものである。
古墳の写真(下の)を撮影するために車から離れていったのだが、突然ガサガサという大きい音がしたので驚いて晩生の植わった稲田を見ると綺麗な色の羽を広げ、今まさに稲穂を蹴って飛び立とうとするオスのキジと、地味な茶色の羽をバタバタさせているメスのキジを2羽見ることができた。
何もいるはずが無いような所で大きい音がしたものだから一瞬ドキンと心臓が止まるほどに驚いたのだが、キジたちの方でも驚き慌てふためいたのであろう。 私が近づくのにも気づかず農道わきの稲穂の脇にいたのだから。 それほどのどかな所であったとも言えるだろう。
更に国道448号線を走って行くと内之浦の集落に出た。
内之浦と言えばロケット発射基地で有名であり、見学できるかどうか分からなかったが、とにかく行ってみようと基地への坂道を上って行った。
ロケットの打ち上げと言えば種子島と大隅半島の内之浦であるが、最近は種子島からの打ち上げばかりであるが、どちらも宇宙航空研究開発機構(JAXA)の施設である。
正しくは内之浦宇宙空間観測所と言い、敷地内へ進入するにはゲート守衛所で見学申請を行って、写真のような入構許可証を車のフロントガラスに貼って敷地内を走行することになる。
構内と言っても幾つもの山の頂を平らにした所に施設が建てられているため、施設と施設を結ぶ坂道の移動は車でないと大変である。
写真のような大きいパラボラアンテナだけでも4つか5つかあるし、ロケットの発射台地が2つ、観測用ロケットの発射ドームの他、幾つかの施設建物などが点在しているため歩いて見学というのは少々難しいかと思う。
内之浦宇宙空間観測所の見学を終え、再び国道448号線を南へ。 途中から県道を走ることになるのだが、県道での佐多岬までの道のりはとても長いものであった。
上り坂に下り坂、右へ左へとクネクネ曲がる道が続く。 起伏の多い沢山の山の斜面を縫うように道路が延びているのだから仕方がない。 直線に近い道路なら佐多岬までの所要時間は遥かに短かったろうが、その為には一体どれほどのトンネルを掘らねばならないか。 佐多岬に何か大きな産業があるなら話は別だが大隅半島に利益を上げる産業は無く、今後も企業が起こることは考えられないと私は感じた。
確かにこの日は天気が良くて対岸の薩摩半島に聳える開聞岳の秀麗な山容を何度も眺めることができ、のどかな田舎で眺望に優れた所が何か所もあったことからリゾート地としての開発は考えられるかもしれないが、余程の集客、それも継続的にという条件を満足させない限り幾つものトンネルを掘って道路事情改善のための資金投下は無駄だと思った。
それでも佐多岬に近い大泊まで行くと県道と並ぶように舗装路が二つに分かれ、右手の道路には料金所らしきゲートがあり、その上に佐多岬ロードパークの文字が書かれていた。 が、料金所に人影は無く、ゲート自体が荒れて見え、更に奥へ続く道路上には枯れて落ちたヤシの大きい葉が幾つも片付けられずに放置されている。 低気圧接近中で随分と強い風が吹いていたので、そのために落ちたのだろうと思いつつ佐多岬ロードパークの道を進むことにした。 しかし上り坂の道には枯れ枝や崖から崩れ落ちた石や土が放置され、管理されているとは言い難い状態であった。
写真の『31』の標識は北緯31度線を示すものであり、カイロ、ニューデリー、ニューオーリンズ、上海、カラチなどの都市が同じ緯度線上にあることを示している。
佐多岬ロードパークは鹿児島の企業・岩崎グループの観光開発部門が手掛けた事業のひとつ。 佐多岬へ行くにはこの道路を通る以外に無く、岬の景観と道路、それに北緯31度線を越えるということが佐多岬観光の誘客ポイントであったようだが、現在岩崎グループは佐多岬観光事業からの撤退を進めているという。
佐多岬の観光事業についても岩崎グループについても帰宅してから経緯を知ったのだが、道路や他の観光に関わる施設が荒れていたのは岩崎グループの事業撤退が原因であったのだ。 しかし、岩崎グループを責める気は私には無い。 佐多岬一帯を観光事業のために自然環境や景観を荒らしまわったならともかく、今回初めて佐多岬を訪れた私だが、一巡したところ観光開発として最少・最低限の手しか加えていなかったように見受けられたからだ。
企業の至上命題は利潤追求である。 先にも書いたが、佐多岬へ観光客を呼び込まねば利益は上がらない。 それも継続して多数のという条件が満たされねばならないが、道路事情を考えれば難しいと結論付けざるを得ないように私は感じたのである。
話が前後するが、佐多岬というのは写真で島のように見える小山が続く先の方になる。 小山の上に建っているのが白い佐多岬灯台で、最初の灯台は1871年(明治4年)、まだ明治政府の法整備がきちんと出来ていなかった頃の建立だから、九州最南端の岬という以外に、この海域は岩礁多く危険なのだろう。 地質的には中生代の砂泥互層が見られると言うが岬先端へは行ってないので分からない。
上の写真は佐多岬を展望タワーより撮影して合成したもの。 西風がどんどん強くなり、古びて補修もされていないような展望タワーにゴオーゴオー唸りを上げてぶち当たってくる強風に恐れを感じて外へは一歩も踏み出せなかった。 展望タワーでは地元のお婆さんが一人飲み物などの商いをしていたが、果たして1日に何人の訪問客が来るものやら。
駐車場から先は徒歩でトンネルをくぐり、山道を下って御崎神社へ。 そこから更に木々に覆われた山道を登って展望タワーに至るのだが、足腰が弱ってきているのだろう、膝が痛くて痛くて悲鳴を上げそうだった。
展望タワーの西北方向に薩摩半島と秀麗な開聞岳が見える。
この展望タワーに登ってくる途中に白いコンクリートの建物があるのだが、以前は飲食物を提供したりお土産を売っていたのだろうが、現在は廃屋同然でトイレのみ使用できる。
先に書いた事業の撤退は仕方ないが、撤退するならば不要な人工構造物の撤去をも含めなければならないのではないだろうか。 どこが管理主体なのか知らないが、町であれ県であれ、或いは国・環境省であれ、行政と岩崎グループの間で建造物の解体撤去も含め、今後の国立公園環境整備について協力し合うべきだと私は考えるのだが・・・
昼ご飯を佐多岬でと思っていたのだが、結局この日も昼抜きとなった。 前ページで紹介したように大黒リゾートで充分過ぎる朝食を食べたので昼ご飯を食べたいという欲求も起きなかったのである。
岬の観光を終えて再び佐多岬ロードパークの道路を下り、今度は大隅半島の西側の海岸沿いに北上することにする。
January 30, 2012
四国~九州への旅 (11) 幸島~都井岬~志布志
日南海岸の綺麗な景色が続く。 写真は『道の駅・なんごう』のあたりだったと思うが、青い海と島、その島々が波に浸食された岩肌を露出し、中に円形の海蝕洞となって穴が開いてしまっているものもある。
更に車を進めると『100匹目のサル』だったか?と、『幸島』の文字が看板に見て取れたので慌てて車を止めて左手への細い道を入ってみた。 道路は先の船を係留できる防波堤まで。 右手に京都大学幸島観察所があるだけ。 下の写真の島が幸島で野生猿が生息している島である。
テレビでも紹介されたこともあるので知らない人はいないだろうが、エサの芋を海の水で洗って食べる猿がいるということで有名である。 もう何十年か前のことだが、砂の上に落とした芋を海水で洗って食べる猿を発見したことに始まり、その後、そうした行動が仲間の猿に伝播して広まっていったことから、洗うという文化的行為と、文化的行為を伝えるという点に研究の関心がもたれて観察が始まった。
たまたま通りかかった船頭さんの話によると、テレビで見られるような多くの野生猿が現れるのは島の向こう側の浜で、船に乗らないと渡ることができないし、必ず猿たちが現れるわけでもエサを洗って食べる姿が見られるわけでもないらしい。 それはそうだろう、野生の猿なのだから・・・ 興味はあったけど、強いてってことではなかったので都井岬へ急ぐことにした。
都井岬への道路入口で都井御崎牧組合のゲートがあり、御崎馬たちの管理のためと400円徴収されて岬への上り坂を走り始めた。
少し坂を上ったあたりで馬たちの姿を見かけるようになり、私が都井岬の野生馬に興味を持った頃の話を家内にし始めた。
昭和37年か8年だったと思うが下北半島・尻屋崎に野生馬がいることに関心を持ち、是非見に行きたいと思い、以後、私が学生時代に春夏冬の休みのたびごと東北地方を旅するようになったきっかけのひとつが尻屋崎の野生馬であったのだ。
それと前後して、確か『旅』という月刊誌で戸川幸夫氏が宮崎県・都井岬の野生馬について書いていたのを読み、こちらも見てみたいという思いを持ち続け、今回初めて都井岬を訪れることになったのである。
ちなみに戸川幸夫氏は、その後『下北と都井』や『走れ小次郎』という本を著している。
家内は、義兄が大学時代に神戸の馬術部に所属し、厩舎で馬と共に寝起きするほど馬が好きで家内の姉との新婚旅行で都井岬を訪れたという話をしていた。 義兄が結婚した頃は宮崎が新婚旅行先の人気地であったことを思い出したが、交通不便な都井岬まで新婦を連れて行ったとは・・・
馬が好きだというのは本当のことだったんだなあと、改めて義兄の馬好きな行動の数々を思い出してしまった。
そうこうするうちに都井岬観光ホテルに到着するも、何だか寂びれた感じがする。 ここへ来るまでに国民宿舎の前も通過してきたが何となく建物が廃墟を感じさせるようであったことから急に不安になっていった。
陽が随分傾いてきているので、とにかく今夜の部屋を確保しなければならないので空き部屋があるかどうか家内がフロントへ向かってくれた。
と、何と。 空き部屋どころか、ホテル業務はしてなくて土産物の売店のみ営業しているのだと。 で、他にホテルはと尋ねると1軒も宿泊施設は無いとのこと。 ああーー、どうすれば・・・・・
馬と話していても仕方がないので、とにかく岬から出て串間から志布志方面に走ることに。 距離が結構あるので・・・・・ 何とか暗くなるまでにホテルを探したいものだと。 志布志まで行けばフェリー発着港だから何とかなるだろうと思いつつ走るのだが、こんな時に限ってノロノロ走る奴がいるもの。
さっさと行けーーーー なーんて言ってもどうにもならず、地元の車について走るだけ。
建物の写真は朝に撮影したもので明るくハッキリ写っているが、夕日が建物の背後から照らしていたので運転している私からは逆光で眩しく何の建物か確認できなかった。 しかし、大型観光バスが止まっているし乗用車もとまっていたので、これはひょっとすると旅館かもと思って道路から敷地内へハンドルを切ってみた。
この時は自分の勘に「ありがとう」って感謝の気持ちが自然と湧き上がってきたものだ。
『志布志湾・大黒リゾート』。
レセプションへ行ってみると幸い空室ありで早速部屋へ案内してもらった。 部屋は広く、バルコニーが付いて将に夕日が沈んでいくところ。 島影が逆光で黒く浮かび、9階の部屋ながらバルコニーへのガラス戸を開ければ潮騒が聞こえてくる。
何だか拾い物をしたような嬉しい気分であった。
ここはタラサの湯と呼ぶ大浴場もあり、天然海水湯によるタラソテラピー(フランスで伝統的に行われている海水や海藻などを活用して人間の自然治癒力を高める療法)ができるようになっている。
もともと志布志あたりでは井戸水に海水が混じってくるため飲料水の確保には苦労していたらしいが、ミネラルを多く含んだ海水湯、つまり塩風呂を大衆浴場でも提供し、その効能を享受していたことから大黒リゾートでも浴場を提供しているのだとか。 湯の味わいは含食塩泉と同様であるが温泉の表示や成分分析表などの掲示が無かったので温泉ではないようだ。
さて、夕食であるが、これも予想しなかったご馳走であった。
活伊勢海老の刺身が1匹、半身の焼き物、具足汁、お魚の刺身、海老の天ぷら等々、これが一人分。
家内は刺身などの生ものを好んでは食べないのだが伊勢海老だけは別で、これは大好物ゆえに大喜びであった。 しかし、大きい伊勢海老をこれでもかって出してこられるものだから家内も最後には食傷気味。
いつも刺身は私が2人前を頂くので伊勢海老の刺身は私の分も家内に。 しかし、お魚の刺身は私が2人分頂いたので当然お酒の量も・・・
この日の夕食、よく食べる私でも部屋へ戻るのが億劫なほど満腹満腹であった。
ついでに書けば、朝ご飯も写真の通り品数多く、しっかり頂いてしまった。
大黒リゾート、私にとっては『食べ過ぎ注意!』ながら大満足。 家内も満足していたから花マルの宿であった。
さて、次は九州最南端の佐多岬へ向かうことになる。
January 29, 2012
四国~九州への旅 (10) 飫肥
飫肥(おび)。 何とも難しい読み方である。 中学校へ進学した時に貰った『中等地図』を見ていて、これは何と読むのかと地名に関心を抱いた確か最初の地名であったように記憶している。
飫肥の『飫』は「あきるほど腹いっぱい食べる」とか、「余るほどのご馳走」といった意味の漢字であり、『肥』は「こえる」とか「太る」といった意味の漢字である。 つまり、地名から想像して「とても肥沃な土地で作物がよく育つところ」との思いを私は抱いていたのだ。
しかし、今回初めて訪れて分かったのは、飫肥というのは比較的狭い山間を蛇行する酒谷川の内側に開けた町で耕作地が広かったとは思えない盆地状の土地であった。 その酒谷川の流れを受けて川を蛇行させる因となってきた小山に飫肥城が建てられていたのだが、崖が崩れた場所を見た限り『シラス台地(シラス性丘陵)』であることが分かった。
※ 上の写真は飫肥城・大手門通り
飫肥一帯について地質図を見直したわけではないが、都城に近いことから恐らく姶良火山の大爆発時に噴出した火山砕屑物が降り積もった地帯であろうと推測する。 とすれば、2万2千年から2万5千年くらい前の堆積物であり、『シラス台地』であることから土壌の養分は乏しく透水性が良いので米作りに適した土地とは考えられず、飫肥という地名の謂われがイマイチ分からなくなってしまったのである。
飫肥という地名は『倭名類聚抄』(931~938 平安中期)に「飫肥郷」と記されていることから、奈良時代或いはそれ以前から使われていたのかもしれないが、いずれにせよ古くから人々が住みついていたことは確かである。
※ 写真は飫肥城址、大手門を入ったあたり桝形。
平安期に飫肥は奈良・興福寺の荘園となっていた時期があったようだが、戦国期に入ると地理的位置から薩摩の島津氏と宮崎・日向の伊東氏の係争の地となった。
結局、豊臣秀吉に仕えた伊東氏が秀吉の九州討伐で功を挙げ、飫肥に城を築き(初代藩主・伊東祐平・すけたけ)、外様ではあるが徳川期にも飫肥藩は5万1千石を安堵され明治に至った。
しかし先にも書いた通り、『シラス台地』の土地柄ゆえに水田耕作には不向きで、杉を植林することで藩財政を支えてきたと聞いた。 九州で杉と言えば江戸幕府の天領であった『日田杉』、飫肥藩の『飫肥杉』、薩摩藩の『屋久杉』と、これらは九州三大美林と称されるが、飫肥杉は高温多湿な飫肥の風土に合って成長が早く、軽くて油分が多く、しかも弾力性に富むということから造船用木材として重用されてきたらしい。
※ 写真は、飫肥城址、天守閣跡植わる飫肥杉。
数年前、NHKが朝の連続テレビ小説「わかば」を放映していたらしい。 私は見ていないので全く知らなかったのだが、宮崎と神戸がドラマの舞台となり、宮崎・。飫肥では写真のように木洩れ日が地面の苔を照らす杉林の光景が放映されたとか。
小高い丘の上の天守閣跡地に家内と二人っきり。 天守閣跡地の直ぐ下には飫肥小学校の校舎と運動場があるのだが、丁度教室内での学習時間だったのだろう、子ども達の声ひとつ聞こえてこない静寂な空間。 私たちが好む雰囲気の場所。 ドラマの舞台とは関わりなく飫肥城址も城下町も落ち着いた感じで気に入った。
飫肥城下町の横馬場通り。 アスファルト舗装の道は仕方ないとして、隙間なく切り取り積み上げられた石垣が並ぶ武家屋敷の町並みは江戸時代の面影を色濃く残しているように思えた。
地元では石垣の石を飫肥石と呼んでいたが、きれいに切れているなど細工の緻密さや見かけから凝灰岩であろうと思うが、きちんとした区割りがみごとであった。
全国に『小京都』と呼ばれる町は多いが、この飫肥も『小京都』と自称していた。 これは「何でやねん」って問うてみたいところである。
飫肥は飫肥でええやないか。 小とは大に対する言葉であって、小さい、僅か、幼い、劣るなどといった意味のほか謙遜する場合にも用いられる。 はたしてどのような意味合いで『小京都』と言われているのか知らないが、飫肥は飫肥であって飫肥以外の何物でもないことをむしろ自負すべきと思いつつ私たちは城下町を隈なく歩いてまわった。
※ 上の写真は、小村寿太郎の生家。
日露戦争後、小村寿太郎が日本全権としてロシアと交渉し、ポーツマス条約に調印したということぐらいは日本近代史の常識として私も知っていたが、彼が飫肥の下級藩士の出身であることや、身長が156センチと超小柄であったことなど、小村記念館を訪れて初めて知ったことである。
※ 飫肥藩の藩校『振徳堂』
藩校『振徳堂』は1831年(天保2年)に13代藩主・伊東祐相によって建てられ、藩士子弟は必ず入校しなければならなかった。(徒士以下の子弟も任意により入校できた)
他藩の藩校と同様に四書五経のほか、武芸として柔・剣・槍・砲・弓・馬術に水練も課されたという。
この『振徳堂』で学んだものには小倉処平や小村寿太郎らがいる。 小倉処平は西南戦争時に西郷隆盛の薩軍と協調し、明治政府軍と戦った飫肥隊の将帥で宮崎・延岡の戦で自刃しているが、それより前、佐賀の乱で敗れた江藤新平が飫肥へ落ちて来た時に土佐へ逃がす手助けをした人でもある。
January 10, 2012
四国~九州への旅 (9) 宮崎・日南海岸 Ⅱ (青島から鵜戸神宮)
元日に大慌てで筆を執って『龍』と大書、墨の乾きを待たずに写真撮影。
ははははは。 何年ぶりかの特大筆。 小筆で用いるゴマカシは通用せんみたい。
水の働きには浸食・運搬・堆積の三つの作用があり、堆積の順序は粒度の粗いものほど早く沈むために通常は『れき(小石)』『砂』『泥』の順で水平に堆積する。 四国の竜串海岸も砂の層と泥の層が交互に堆積した砂泥互層と呼ばれる地層であった。 この青島一帯も砂泥互層の地層だが地質時代区分では第三紀にあたる宮崎層群の地層だという。
地質時代区分表(Wikipediaにリンク)
この砂泥互層の堆積だが、水中が撹拌されているような状態では砂と泥が分離して堆積することは無い。 水中の動きが緩やかで静かな安定した状態にあって初めて粒度(重量も)に応じて水平に堆積していくものである。
つまり、砂と泥の層がひと組みで1つの単位となる。 地層の広がり具合(平面的)や何層にも重なった砂泥地層の分厚さ(断面的)から想像するに、相当大規模な運搬作用、多分河川の大洪水のようなことが定期的?かどうかは分からないが繰り返し起きていたと想像できる。
さて、砂や泥が水平に堆積していくことや、砂層と泥層の組み合わせをひとつの単位として、それが積み重ねられたものが地層であることも復讐した。 当然、下の層ほど古く、上の層になるほど新しい時代のものということになる。
宮崎県の地質図は宮崎大学の山北研究室のページにある『宮崎県の地質のご案内』より引用。
http://www.edugeo.miyazaki-u.ac.jp/earth/yamakita/miyageol.html
前回、地学の上で四国は随分オモシロイ地域であると書いた。 地学的にとても興味深いことが見え、それを観察でき、更に想像を膨らませることが出来るという点でオモロイと書いたのだが、この青島を含む日南海岸もなかなかオモロイ。
想像を膨らませるという点では、鬼の洗濯板と呼ばれる砂泥互層も興味を掻き立てられる。 つまり、これほどの砂や泥が堆積したということは、それだけ膨大な量の土砂が浸食・運搬されたわけであり、宮崎層群が形成された1千万年~数百万年前頃にどのような山が、どのような地形が広がっていたのか想像するたけで楽しいものだ。
それに砂や泥などの地層は水中(海底)で水平に形成される(通常)ものだが、青島を含む日南海岸の砂泥互層は海水面上に現れ、しかもほぼ一定角度に傾いている。 これも何でやねん?と不思議に思えば楽しさが広がっていく。 青島の鬼の洗濯板と呼ばれる砂泥互層の地層は大昔、それも何百万年もの昔に海底に堆積したものが圧力を受けて岩石(砂岩・泥岩)となり、フィリピン海プレートの潜り込み運動の影響を受けるなどし、幾度かの隆起を繰り返し、地層に傾斜が生じた段階で軟らかい泥岩層が浸食を受けて現状に至ったのであろうと思う。 上の地質図における黄緑色の宮崎層群や水色の沖積層などでは現在も僅かずつではあるが隆起し続けているらしい。
彦火火出見命は日本書紀での表記で、古事記には火遠理命(ほおりのみこと)とて記され、神話『海幸山幸』の山幸彦のことである。
豊玉姫命は古事記では豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)で、海神・綿津見神(わたつみのかみ)の娘で火遠理命の奥さんである。 綿津見神は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)の三神の総称である。
塩筒大神は古事記での塩椎神(しおつちのかみ)にあたり、神話『海幸山幸』では海幸彦と交換した釣り針を失くして困っていた山幸彦を龍宮へ導く手助けをした神である。 また塩竈明神と尊称されてもいる。
また青島は上の写真のように熱帯・亜熱帯の自生植物群落が全島を覆うように茂り、中でもビロウ樹(ヤシ科)の成木が5000本もあるとかで、鬼の洗濯板とともに天然記念物に指定されている。
昭和30年頃だったと思うが、父親が青島を訪れた折の土産に枇榔樹の葉で作った団扇を持って帰ってくれた。 団扇の全てが枇榔樹の葉で作られ、扇面には枇榔樹と南国の青い海が描かれたものだったが、突然のタイムスリップで懐かしい昔を思い出してしまった。
写真は日南海岸の堀切峠付近から南方の景観である。
青島を取り巻くように見えていた波状岩がここでも見られる。 上の地質図では青島と記した所から南に広がる黄緑色で表示された宮崎層群の海岸部にあたる。 なかなか見事な眺めであった。
この日南海岸ロードパークと呼ばれる国道220号線を更に南下するとトンネルの手前で鵜戸神宮への道が左手に分かれる。 鵜戸神宮は岬状に突き出た小山の突端にあり、参詣者は駐車場に車を止めて少しばかり小山を登り、そこから更に石段で下って行かねばならない。(八丁坂の場合)
写真は神門と向こうに楼門が見える。 そこから神橋を渡ると前方の岩山中腹に海食洞が見える。 神社の祠は洞穴内にあるので階段を下って参拝することになる。
鵜戸神宮の祭神は、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と書かれているが、古事記では、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と書く。 青島神社の祭神で書いた火遠理命(ほおりのみこと)と海神・綿津見神の娘・豊玉毘売命との息子になる。
と、これは主祭神のことで、海食洞内中央に本殿があるのだが、この本殿を取り囲むように様々な神様が祀られており、どの神様がどれなのか、どうもよく覚えることができなかった。 ただ写真の本殿右手、乳房状の突起『お乳岩』から滴り落ちる水を日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊が母乳代わりにしたという伝説があり、若い子連れの夫婦が神妙に手を合わせていたのが印象に残った。
しかし、辺鄙な場所で平日というのに参拝者というか観光客というか結構な人出があったので何かしら引きつけられるものがあるのだろう。 私たちは特段参拝が目的で訪れたわけではないのだが・・・
上の鵜戸神宮の写真の右側に下の写真がつながるのだが、ここでは上下に表示。
これまでのところ天候に恵まれ暑くもなく寒くもなく何もかも快適。
日南海岸のドライブを続け、油津の手前から飫肥へ向かうことにした。