February 2012

February 27, 2012

四国~九州への旅 (21) 国東半島めぐり

元宮磨崖仏の直ぐ近くに『真木大堂』がある。

『真木大堂』は六郷満山の本山寺院のひとつである馬城山・伝乗寺に属するお堂のひとつ。 伝乗寺は仁聞菩薩の開基で奈良時代(720年頃)に建てられ、最盛期には36もの寺坊を有していたというが、700年前の火災で現在建物は残っていない。
pict-img1293年半前に訪れた折には『真木大堂』の覆屋工事のために境内への立ち入りが禁じられていたが、今回は工事も終わり再び安置された仏像をゆっくり拝観せて頂いた。 

本尊は木造漆塗りの阿弥陀如来(坐像)で平安時代後期の作品で重要文化財。 

覆屋の内部は写真撮影禁止となっていたので絵葉書を購入した。 藤原時代の優しい表情がよく表れている。

阿弥陀如来と同様、前回も関心を持って見たいと思っていたのが大威徳明王と不動明王であった。 とりわけ大威徳明王については
京都・醍醐寺の霊宝館にある大威徳明王の印象を強く持っていたので、拝観し比較出来て良かったと思っている。
(参考・・・醍醐寺の大威徳明王像にリンクしている)pict-img131

大威徳明王というのは五大明王のひとつ。 明王とは仏の教えの分からぬ衆生を救い導く阿弥陀如来が変身したものである。 五大明王、つまり不動明王を中心に東を隆三世(ごうざんぜ)、南に軍荼利(ぐんだり)、西に大威徳(だいいとく)、北に金剛夜叉と配置が決まっている。 これら明王はいずれも恐ろしい顔をしているが、人間が仏法を素直に理解し仏道を着実に歩もうとしないため阿弥陀如来が憤怒の形相をした明王に姿を変えて現れているのだそうな。

大威徳明王は水牛に乗って六面六臂六脚を持った姿で現れる。 つまり六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)をしっかり見つめるための6つの顔。 6つの腕で剣などの武器を用いて悪行を懲らしめ、6つの足(布施・自戒・忍辱・精進・禅定・智慧)について常に反省を行いつつ歩むという姿勢を表しているのだとか。
pict-img132醍醐寺の大威徳明王像の水牛は歩いていたが、真木大堂の水牛は写真の通り這いつくばっている。 表情も異なるし武具も違う。 制作した者も時期も違うから当然と言えば当然だが、大威徳明王がどのような仏なのかは教えの中で書かれ語られしているはず。  しかし、読んだり聞いたりして教えられた様々ななことを統合して具体物(像)を創造するには、それを造り出す者(制作者)がどのように受け止め得たのか製作者自身の感性との関わりの中で形作られるものである。 

感性にまで立ち入ると話がややこしくなるので止めておく。  恐らくは何らかの『ひながた』があったであろうとは思うが、100%模倣ということでもないと思う。 真木大堂の大威徳明王像の六面の憤怒の表情には、製作者自身の怒りや憤りについてのイメージとともに阿弥陀如来の広大無辺の優しさに対する畏敬と心服の思いが込められているように私には思えた。
pict-img130
剣を持って立つのは不動明王である。

不動明王は大日如来が衆生救済のために姿を変えているとされている。

先に五大明王は衆生を救い導く阿弥陀如来が変身したと書いたが、ここでは大日如来がと書いた。 いったい阿弥陀如来と大日如来とどう違うのかと疑問を持たれることであろう。 仏教学(界)では薬師如来や釈迦如来も含め詳しく解説してくれるだろうが、それらに縁遠い私にとって、全ての仏(如来・明王・菩薩など)は現世(娑婆)において『仏法に基づく生き方を求めよと語りかける存在』と解釈している。  ともあれpict-P1040762国東塔人間とは業・欲の煩悩すさまじい生き物であり、あまねく衆生救済の弥陀の心などスンナリとは理解できないものである。 不動明王が右手に剣を左手に縄を持って恐ろしい形相で立つのは何とも聞き分けのない衆生を無理強いしてでも助けたいという思いを表しているのかもしれない。
 
※ 上の写真は、いずれも『真木大堂』で購入した絵葉書である。

上は国東塔と呼ばれる宝塔。 五輪塔の造りと似ているけれど、上部が円柱状の相輪になっている点や球状の水輪の下が五輪塔の場合は地輪と言って立方体になっているのだが、国東塔では蓮華花弁になっていたりする。
pict-P1040764五輪塔の場合は墓であったり供養塔であったりするが、国東塔の場合は生前に自らの死後の供養のために建立する逆修(ぎゃくしゅ)というものが多いらしい。
真木大堂の境内には近隣で発見された庚申塔や石櫃など多数集められている。

写真は真木大堂の仁王。

真木大堂の見学を終えて後、富貴寺を訪れた。 富貴寺は718年(養老2年)の創建だから、平城京遷都がpict-P1040775710年であることを考え合わせると国東半島では随分早い時期から仏教文化の花が咲いていたということになる。
この後に両子寺も訪れたが以前に訪れた際のブログに写真を掲載しているので、ここでは省くことにする。

ただ1枚のみ。 前回は新緑の季節だったので、今回は両子寺の晩秋のものを。 

参詣者も結構多かったのだが、いつのまにか私たち夫婦と数人が境内にいるだけ。肌寒さを感じ始めたので駐車場へ戻り、またまた今夜のホテル探し。  長らく博多へ行ってないので走っても良かったのだが、疲れてもいたので家内の提案通り別府に宿をとることにした。

別府なら豊後高田・宇佐を経由して宇佐別府道路を走れば近い。 宿はどこでも良いのだが、何度も利用している花菱ホテルに決めた。 ここなら迷うこともなく行けるので、豊後高田の『昭和の町』へ寄って行くことにした。

しかし日曜日の夕刻ということもあってか、商店は閉まって人通りもなく、車で素通りしただけ。 せっかくだからと家内にも見せてやろうと思ったのだが残念。


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February 26, 2012

四国~九州への旅 (20)熊野磨崖仏

杵築城と僅かに残る武家屋敷を見学した後、家内が「私も見たい。」と希望していた熊野磨崖仏へ車を走らせた。

熊野磨崖仏などについて当ブログの月別アーカイブ『May 2008』をクリックすれば、『九州・大分、福岡~韓国へ』のページ(【17】【18】など)に私が前回訪れた時のことを書いている。 ―――参考までに―――

磨崖仏が多く残る国東半島は、宇佐市と別府市を結ぶ線(宇佐別府道路)から東側に丁度焼けたお餅が膨らむような形に広がっている。 国東半島の航空写真で見れば50円玉を置いたような形で、中央の穴にあたる部分が両子山(ふたごやま、721m)。 新生代の第四紀・更新世(180万年前~50万年前)の頃さかんに活動していた火山らしい。 阿蘇一帯の火山活動が活発であったのが30万年前から9万年前の頃で、阿蘇の大カルデラの誕生が9万年前の大噴火と言われているから、両子山は阿蘇の大噴火やpict-P1040749熊野修整大陥没の一部始終を見ていたのであろう。 
航空写真で見るかぎり、両子山の山頂
を中心に浸食谷が放射状に綺麗に伸びているので100万年前頃は秀麗な山容を見せていたのだろうと想像する。


写真は今熊野山・胎蔵寺(浄土宗)。 

3年半前に来た時も不動明王(石造)が境内に鎮座し、参詣者によって小さな金箔が貼られていた。 今回は坊守の女性から「ご苦労様です」と声をかけられ金箔を頂いたので家内とともにお不動さんの体に貼りつけた。 しかし、3年もの月日が過ぎた割には金箔の貼られた面積が少ないような・・・。

それはそれとして胎蔵寺の山号は今熊野山である。 京都には今熊野という地名の町があるし今熊野山は東山三十六峰のひとつでもある。 京都七条通を東に見た時に見える峰が阿弥陀ヶ峰(京女キャンパスの上)で、その南側に見えるのが今熊野山。 東寺で真言密教の秘法を修法していた弘法大師が熊野権現のお告げを受けて今熊野山麓にお堂を建立した(807年)のが始まりとする今熊野観音寺がある。 
pict-京都・東山一部地図
弘法大師が受けたお告げというのは、「この山に1寸8分の観世音菩薩がおられるので御堂を建ててお祀りせよ。観世音菩薩像は天照大神が造られ衆生救済のために来現された。私は熊野権現でこの地の守護神になる。」という白髪老人の言葉だったとか。

このお告げで気付かれた方も多いことと思う。 天つ神である天照大神と仏教における菩薩・観世音が同一・一体のモノとして語られているのである。 日本古来の神信仰と外国から伝えられた仏教信仰が融合しているのだが、こうした神仏習合思想が具現化された初のケースが大分県の宇佐神宮に神宮寺(弥勒寺)が建立(738年・天平10年)されたことである。  
弘法大師(空海)が真言密教を日本で伝え広めた真言宗宗祖であることを知らぬ人はいないだろう。 今熊野観音寺の寺伝が正しいとすれば、弘法大師自身が神pict-胎蔵寺かけ仏仏習合思想を認めていたことになる。 日本に仏教を持ち込んだのは渡来人に間違いはなく、彼らとの交流を考えれば5世紀には伝わっていたのではないかと想像するが、伝来でなく仏教公伝としては6世紀(538年説・552年説)とされている。 

※ 写真は今熊野山・胎蔵寺の懸仏(かけぼとけ・弥陀三尊、青銅鋳製、径54cm、県重文)で、「六郷本山今熊野御正体也」と刻まれ、建武4年の銘がある。(1337年) また、右側の仁王像(石造)は文久3年(1863年)の作である。  ≪熊野磨崖仏管理委員会パンフレットより≫

仏教伝来以前の日本では、万物には神霊が宿り、あらゆる現象はそれら神霊の為せる業とするアニミズムが広く信じられ、霊魂や精霊との交渉を巫女が行う巫術も人々の支持を集めていた。 こうした超自然観から日本の山pict-P1040750熊野修整(2)岳信仰が生まれ、各地の山が自己修養の行場となり、それらが仏教思想(密教)と習合し、やがて修験道として確立されてきた。

参考までに熊野信仰の聖地・熊野三山は現在の本宮大社、速玉大社、那智大社のことである。 平安時代(1000年頃)には浄土教が広まり神仏習合思想が一層広まった結果、本宮大社の主祭神・家都御子神(けつみこのかみ)が阿弥陀如来、熊野速玉大社の主祭神・熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来、那智大社の主祭神・熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)は千手観音とされている。

このようにして自己修錬の行場であった熊野三山は同時に浄土を求める地ともなっていった。 浄土とは仏に導かれ自から悟りを得る菩薩の地であり、阿弥陀如来は西方浄土、薬師如来は東方浄瑠璃世界、観音菩薩は補陀落山とされている。

胎蔵寺の山号は12世紀頃に住職が熊野に詣でて得心し、磨崖仏を彫って今熊野山と称するようになったとか。 奈良時代末期から平安時代にかけ、国東半島には多くの天台系密教寺院が建てられ、僧たちの経典学習や修行が活発に行われた。 これらを総称して六郷満山と呼ぶ。 当時の寺で現在も残っているのは少ないが、磨崖仏など石彫物は六郷各地に沢山残っており、修験者は写真のような切り立った山稜を現在も行場としている。 
pict-P1040776両子山
修験者が霊場めぐりに出発することを峰入りと言うが、その出発の地とされているのが今熊野山・
胎蔵寺であり、熊野磨崖仏は胎蔵寺から更に登った所に彫られている。

前回訪れた折は蒸し暑いほどの気候で、知らない山道に長い石段を一人で登っていたため随分の疲れを感じたが、今回は家内と二人だったし、秋も深まり涼しい気候だったので膝の状態が良くない割には楽に登ることができた。
pict-P1040752熊野磨崖仏石段修整胎蔵寺からは少しばかり山道を登るのだが、その先には写真のような石段が続き、注目すべきは石段の上に鳥居が建っていることだ。

この石段を登れば磨崖仏が・・・と思いきや、どっこい、そうは簡単に仏さんは顔を見せてはくれない。 写真の石段の先には更に黒っぽい安山岩質の大石が乱積みされた段々が続くのである。 数えてはいないが百段(99段かも)あるらしい。 この石段のため前回は喘ぎがひどく、家内には大変な石段であると話していたのだが・・・
「これしきの石段、どこがしんどいの?」
今回馬鹿にされてしまったが、確かに前回に比べると遥かに楽ではあった。

この石段については権現と鬼の話が伝えられている。 村人を食べたくなった鬼pict-P1040754熊野磨崖仏(3)に対して権現が「日が落ちてから鶏が鳴いて朝を告げるまでに百の石段を積むならば良し。出来なければお前を食べる。」と言ったとか。 そのため鬼は陽が暮れてから西叡山まで出向き、大石を堀だし担いでは運んで石段を築いていったらしい。 村人を食べたい鬼は必死で作業したので残り一段となったところ、権現は、これではいかんと鶏を真似て鳴いたんだと。 もう一段というところで鶏の声を耳にした鬼は悔しくて腹が立つものの、自分が喰われるのはかなわんと大石を放り投げて一目散に逃げて行ったんだと。 そのために九十九段だとか(数えていないが)。

この黒っぽい安山岩質の石積み段を登りきる手前左手の岩面に写真の磨崖仏・不動明王が見える。
pict-P1040757岩面の左側に不動明王、右側に大日如来が彫られている。

この磨崖仏から少し石段を登りきったところに奥ノ院、熊野神社の祠堂が建っている。

胎蔵寺に熊野神社、不動明王に大日如来の磨崖仏と鳥居と、これは神仏習合事例のひとつであるが、寺社の格式や規模、それに歴史的に有名なものとして奈良の春日大社と興福寺の関係を挙げることができる。 この二つの寺社は藤原氏の氏神氏寺である。 明治維新の神仏分離令によって起きた廃仏毀釈の嵐の中で興福寺は伽藍の破壊や沢山の寺宝の散逸など壊滅的打撃を被り、現在は寺塀も無く奈良公園の一部のようになっているが、東金堂や五重塔、北円堂や南円堂が残っているので往時の壮大な伽藍を想像することはできる。 また、 奈良を訪れる人たち全てが詣で見学する寺に東大寺があり、大仏やお水取りについてはよく知られている。 このお水取り行事が行われる二月堂のそばに手向山八幡宮が祀られているのだが、この八幡神は東大寺の守護神として大分の宇佐八幡宮より勧請したもので、これも神仏習合の例である。
pict-P1040767熊野信仰では京都に、神仏習合では奈良へと話が飛んでしまったが、国東半島に戻ることにする。   
写真は元宮磨崖仏。 覆屋が建てられており雨水からの保護は出来ている。 室町時代の作ということだが、一部が剥落したのだろうか欠けている。
写真右手より、毘沙門天、矜掲羅童子(こんがらどうじ)・・・小さい、不動明王、持国天、地蔵菩薩。

国東半島に磨崖仏が多く彫られ残っているのは
六郷満山と呼ばれるほど多くの寺院や行場があって宗教活動が盛んであったということのほか、両子山火山が活発に活動していた頃に噴出された火砕流を含む火山砕屑物が堆積した地質であるため容易に彫刻出来たことも理由のひとつに挙げられると思う。  国東半島で見た磨崖仏にしろ仁王像にしろ石造の物は凝灰岩ばかりであった。 磨崖仏は小さな礫を含む岩体だったので凝灰角礫岩に分類しても良いかもしれない。 (つづく)



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February 13, 2012

四国~九州への旅 (19) 黒川温泉~国東半島へ

霊台橋に通潤橋という石橋を見学して、今夜の宿泊地である黒川温泉に向かった。  県道141号線から151号線で中坂峠を越えて高森へ向かう。  道路状況は必ずしも良いとは言えず、小雨煙る中、林間の道であったり草原の道であったりを走るばかり。  

途中、前方道路上に黒く動くものを発見。 小雨が煙り木々が覆い茂る道路なので午後3時過ぎでも暗く点灯しての走行で瞬間的には何か分からず、直感的にクマかと思ったものだった。 道路を横切った黒いクマのようなのが、切通しの道路わきの崖、と言ってもせいぜい2メートル程度の高さだが、そこを登ろうともがいていたのである。 車が近づいていって分かったのだが大きく黒いイノシシであった。 イノシシの毛は茶色だと思っていたのだが黒色と言っても良い色をしていた。 車の速度をうんとゆるめ、イノシシの動きをしばし見ていたのだが、前足を必死で動かし、ようようのこと崖を登りきった途端に姿が消えていた。 きっと平らな土地での行動は機敏なのだろう。

やがて阿蘇外輪山を越えて広大な阿蘇カルデラに入り、高森からは根子岳を左にして回り込むように続く国道265号線を進んだ。 晴れていれば阿蘇の山々を眺めながらのドライブになるはずであったが、灰色雲をバックに黒々としたノコギリ刃のような根子岳の山容が見えただけであった。 

何年か前にも訪れた宮地の阿蘇神社の近くを通り、やまなみハイウェーで瀬の本高原を経て黒川温泉に到着。 
pict-P1040737合成修整済(1)
宿は『にしむら』。 写真左手の建物が宿泊棟で右手の建物が露天風呂棟。(撮影は朝6時半)

宿に到着した折は辺りが暗くなっており、少しでも早く部屋でゆっくりしたいと思うほどこの日は疲れていた。

宿の造りは民芸調であったが、ことさらに民芸風を強調して造り飾ったということがありありと分かり、ちょっと頂けないなあというのが第一番目の感想。  案内されて入った部屋の狭さに驚いてしまったのが第二番目の感想。  ドアを開けpict-P1040739て入って直ぐ脇に狭い和式便所(一応水洗ではあるが)。 畳敷の部屋の奥に洗面台が設置してあり、
ガラス窓がある。 和室は江戸間(田舎間)の6畳だったろうか、2面が壁なので一層狭く感じられた。 洋式便所もあるが共同で、これも狭い。 食事は食事処で供されるが特記するほどのものはない。 

温泉の泉質はナトリウム塩化物硫酸塩泉。 湯は殆ど無色透明無臭で少し塩味がする。 風呂は宿泊棟と写真の露天風呂がある。

露天風呂は川に面しており、せせらぎを耳にしながら湯に浸かり、鮮やかに色付いた紅葉を愛でると、なかなか風雅なものである。

pict-P1040741
さて、朝ご飯を頂いてチェックアウトの際、クレジットカードでと言うと扱っていないのだと。 これが第三番目の驚き。

クレジットカードを取り扱うかどうかは個々の店舗の勝手ではあるが、カードが大衆化した現代、しかもこのところ黒川温泉は人気の高い温泉で訪れる客も多い、にも拘らずキャッシュオンリーだと。 福沢諭吉さんが4人財布に入っていて良かった。 

が、温泉を含めて各地のホテル・旅館を利用してきた私には、この旅館の施設・設備その他を総合して評するに、提供された事物の対価としては高いと言わざるを得ない。 特段のサービスの提供を受けたわけでもない。 黒川、黒川という評判を家内も耳にしていたから黒川温泉を宿泊地に選んだのであろう。 勿論、黒川温泉には他の旅館もあるのだから黒川温泉全体を語っているのではない。 この旅館を再び私が利用することは無い。 これは確かなことである。

黒川温泉を後にして、やまなみハイウェー、つまり県道11号線を湯布院に向けて走った。 天候は回復傾向にあり、昨日は低く垂れ込めていた雨雲も今朝は高く、ところどころ青空が見え始めている。 
pict-P1040744長者原
写真は下ってきた方向を振り返って撮影したもので、一面枯草の草原になっている長者原と、その向こうに雲で覆われているが九重連山のひとつ三俣山(1744.67m)の山容が見える。 三俣山は本峰、南峰、北峰、西峰と四つの峰から成っているが、どこから見ても三つの峰があるように見えるので三俣の名前がつけられたらしい。

九重高原を越えて湯布院の町に車を入れたのだが折悪しく日曜日ということもあって観光客がごったがえし、小さな温泉町の狭い道路は人と車で大渋滞。 公共浴場のほか旅館のお風呂も立ち寄り湯として入浴できるので
町を一巡したのだが何処も駐車場は満車。 せめて金鱗湖ぐらいと思って行ったが駐車場は無く、湯布院の町へ
pict-P1040745杵築城門
寄ってみたものの結局渋滞の車列に並んだだけ。 仕方なく湯布院インターから大分自動車道に入って国東半島の石仏巡りに向かった。

先ずは杵築城(きつき・じょう)へ。 元々の杵築城は室町時代に建てられたらしいが、八坂川と高山川に挟まれ守江湾に突き出た小山に築かれた城郭は素人目にも堅牢に見える。

写真は坂道を登り、天守閣に向かう途中に建つ城門。

杵築市は国東半島の基部にあって別府湾の北側に位置し、南側には大pict-P1040748分市、西側には別府市がある。 現在は大分県であるが、昔は豊後の国である。 豊後と言えば大友氏を思い浮かべるが、この杵築は鎌倉時代には豊後国八坂郷木付荘と呼ばれ、大友氏の所領であったらしい。

大友氏というのは初代当主とされるのが大友能直(よしなお)で、元々は相模国足柄上郡の大友郷を領する幕府の御家人であったが、豊後・筑後守護職として赴任したことが基となって大友氏が豊後に根を下ろすことになったらしい。 この大友氏の2代目当主が親秀(ちかひで)で豊後大野を拠点にしていたが、その六男である大友親重(ちかしげ)が木付pict-P1040747杵築干潟庄に築城したのが城下町形成の始まりで、地名をとって大友から木付に氏を改めたと伝えられている。

現在杵築城と呼ばれているのは 1394 年に木付氏4代当主・頼直が移築、竣工させた場所で、当時のものは石垣が遺構として残るだけである。 ちなみに杵築城という呼び名は江戸時代になって、木付を杵築と書き表したためと言われている。

天守台からは八坂川の河口部と広々とした守江湾の干潟が見渡せる。


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February 11, 2012

四国~九州への旅 (18) 肥後の石橋 ( 霊台橋 ・ 通潤橋 )

天候の悪い中で車の移動が続いた。 こんな日は何をしても何処へ行ってもオモシロクナイ。 しかし折角の旅の一日、大事にはしたい。 で、私が旅先で行うのは観天望気。

観天望気というのは諺のようなもので、大昔より人々が経験を積み重ねる過程で天気の変化について確からしい因果関係を見出してきたもので、例えば太陽の周囲に光の輪(日暈・ひがさ)が見えると天気は崩れると言い伝えられているし、同様に月の場合も月暈と言って天気の下り坂の予兆としているようなことである。 

観天望気と言うのは占術のようなもので絶対ということは無い。 占いが「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言われるように、10円玉を投げた時に表が出るのと裏が出る確率が5割であるのと同じと考えて良い。 ただ、観天望気に全く科学的根拠がないかと言えば、そうではない。 日暈や月暈は絹雲が出た時に現れるもので、温暖前線が出張ってくると水蒸気との関係から雲は徐々に分厚く重い状態になり低く垂れ下がって雨を降らせることが気象学で明らかにされている。 だからその当たる確率は5割以上であることは間違いない。 100%確実と言えないのは地域や季節など他の条件が加わることによって一律にとはいかないからである。  

ともあれこの日、雲が南方向(やや東方向)へ移動していたので天気は回復傾向にあると読み、阿蘇の山岳道路を走ることにした。 と言うのは、今夜の宿をどこにするか家内の希望を尋ねたところ、湯布院温泉か黒川温泉に泊まりたいと言ったからなのだ。 家内が電話をかけた時、湯布院のホテルはいずれも既に満室。 黒川では2軒目だったか受入れOKということで宿が決定した。
pict-P1040732それならばと、国道218号線を走って写真の霊台橋をも見学していこうと立ち寄った。

霊台橋は1847年の江戸末期に完成した石橋である。 1847年と言えばペリー率いる黒船来航の6年前のこと。 全長89.86mで、橋上の道幅が5.45m。高さが16.32mと 5 階建てのビルに相当するぐらいの高さである。  アーチ式橋脚に使用されている石は見かけ上、溶結凝灰岩のように思われた。  岩石はその化学組成により分類されるので溶結凝灰岩と断定は出来ないが、石材の細工の感じから、或いは阿蘇に近い場所にあるといったことから阿蘇の火山砕屑物であろうと思う。 

日本の建築構造物は木造が主で石造の大がかりなものは城郭建築での石垣ぐらいである。 石を原材料とする建築文化は古代エジプトや古代ギリシャなどの方が優れているし歴史的にも古い。 アーチ式石造建造物では2000年以上もの大昔に造られたローマの水道橋をはじめ、教会建築などこれまで見学したことについて既に何度も紹介してきた通りである。

日本での小さな石橋は中国の技法を用いて神社仏閣などの庭に造られていたが、アーチ式の大きい石橋では以前紹介した長崎の眼鏡橋が日本で最初のアーチ式石橋である。 これは日本の鎖国時代にオランダから伝えられた技術によって1643年に架けられた石橋だが、せいぜい370年前のことで歴史的には古代ローマに遥か及ばない。      


『肥後の石工(いしく)』は童話作家・今西祐行 《 彼の作品『一つの花』は小学校の国語教科書にも取り上げられている。》 の作品としてもよく知られているが、もともとは加藤清正が熊本城築城(落成1606年)のために近江(滋賀県)から招きよせた『近江の石工』の子孫なのだそうな。

石工というのは字の通り石を細工する職人のことであるが、官衙や寺院などの柱石、或いは石垣・石段や石仏などを思うと相当古い、飛鳥時代の渡来人に石の加工技術を持った者たちがいたのだろうと想像する。 とりわけ長らく都があった奈良・京都には彼らの子孫が多くいたのではないだろうか。 時代は飛ぶが、織田信長が比叡山・延暦寺攻めで多くの堂塔伽藍を焼いた後、明智光秀に坂本城造営を命じた(落成1573年)。 この築城に延暦寺堂塔の石垣や地蔵仏など、ありとあらゆる石材が使われたが、この時に徴用されたのが近江の『穴太衆(あのうしゅう)』であり、京の都の東の関門とも言うべき坂本城から大津城(落成1586年)、膳所城(落成1601年)と城は造り替えられたが平城防御のための石垣造りは『近江の石工』たちによって成し遂げられた。 加藤清正が招聘した『近江の石工』というのは『穴太衆』のことであり、『穴太積み』と呼ばれる石積みは今も大津や坂本で見ることができる。
pict-P1040733通潤橋
写真は1854年に完成した通潤橋。 

この石橋も霊台橋と同様に単一アーチ橋だが、霊台橋と異なる点は通潤橋が水路橋であることだ。 つまりローマの水道橋と同じだが全長75.5mで高さが20.2mあり、飲用水路1本と灌漑用水路2本が通されているらしい。

この
通潤橋の中央部に放水口が写真手前に2ヶ所、向こう側に1ヶ所の計3ヶ所設けてあり、水路管内の清掃のため堰を開けて放水するそうだが私たちが訪れた時には放水してはいなかった。 (青字部分クリックでYou Tube 動画にリンク )

通常、板橋を架けた場合、板上の荷重は両端の支点部分にかかり、板そのものが下方にたわむ。 アーチ式石橋の場合には、荷重によってたわむ力を隣り合う石の押し合う力に置き換え、それらの水平垂直にかかる力全体を橋の両端で支えることによって成り立っている。  したがって橋の両端の地質が岩盤等しっかりした場所でなければアーチ式石橋は造れない。  多分、霊台橋も通潤橋も地質はしっかりした岩盤があるのだろうとは思うが、二つの石橋を見比べると橋の両端下部に違いがあることが分かる。  霊台橋は橋の両端が川床の岩盤にpict-熊本城(1)直接支えられ、川の流れに対する防御の石積みで膨らんだように見えるが、通潤橋の場合は石橋のアーチの両端を支えるために別途な石垣が積み上げられているのが分かる。  

左の写真は以前に紹介した熊本城の石垣である。  石垣上部に重い構造物を載せ、しかも石垣にかかる土圧を抑える理想的な曲線を持つ石垣である。  この熊本城の石垣の積み方と単一アーチ式・通潤橋を支える石垣は同じ曲率を持っているように見える。  石橋を造るには架ける橋の長さに応じて円周率より石を削る角度を求め実際にきちんと面と面が合わさるように細工しなければならない。  しかも通潤橋は水路管の役割を果たすものだから一滴の水が漏れるようなものであってはならず、相当な技術が必要であったはずである。

熊本には沢山の石橋が残っているそうだが、石工たちの優れた技術によって造られた霊台橋と通潤橋を見学できたことは良かった。 現代のように計算機はおろか重機や工作機械も無い時代に、計算から原材料の加工は勿論、架橋まで全て人力で行ったというのだから感服という言葉以外に無い。

いやぁ、見事であった。



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February 07, 2012

四国~九州への旅 (17) 五木村 

夜通し部屋の窓を叩き続けた雨は朝になっても一向に止む気配がなく、そのため朝食を食べる時間帯もホテルのチェックアウトも遅くして出発したが、吹き付ける風も雨も変わりはなかった。  霧島ロイヤルホテルから宮崎自動車道路・高原インターへ出る国道223号は高千穂峰を巻くように徐々に下って行くのだが、昨日来の雨風によって落ちた茶色い杉の枝葉が路面に積もり、タイヤが至る所でスリップするという有様であった。 

40年前の新婚旅行では宮崎交通のバスに揺られ『えびの高原』に遊んだのだが、天候の回復が遅れているので熊本方面へ向かうことにした。  高原インターから宮崎自動車道に入ったが上り下りとも走行する自動車はほとんど無い。  霧島連山の北側を走行するので、晴れていれば山々の景色を眺めることもできるはずなのだが、残念なことである。  やがて、えびのジャンクションで九州自動車道に接続。 人吉あたりで少し晴れ間が見えてpict-P1040729
きたので急遽人吉インターで九州自動車道を出て国道445号線を北上。

川辺川に沿って走る445号線だが、しばらく走ると道路際に見えていた僅かな田んぼも姿を消して深い谷あいの道を進むことになる。

川辺川に沿うと言っても複雑な山ひだを縫うように道路が続いているため、川辺川に流れ込む沢があれば、その沢の谷奥まで入って再び対岸の山ひだを走ることになる。 勿論、沢をまたぐように橋が架けられている所もあるが、徐々に高度を上げながら辿り着いた所が五木村である。

♪ おどま盆ぎり盆ぎり  盆から先ゃおらんと
  盆が早よ来りゃ 早よもどる

正調 五木の子守唄の歌詞で私たちもよく知っている部分である。 現在でこそ国道が通り車が行き交うが、車が入れなかった頃の山村での暮らしはきびしく、7つか8つになった娘たちは口減らしのために相良や人吉へ子守り奉公に出されていた。 奉公というのは現代的に言えば住み込みで働くという意味であるが、この娘たちの子守り奉公と言うのは住み込みに違いは無いが、ご飯を食べさせてもらえるというだけで給料が支払われるというものではなかった。


七つ、八つと言えば小学校の2年生くらいである。 そんな年端もいかない娘たちが遠く知らない家で働かねばならなかったのである。 両親も辛かったであろうが娘たちの気持ちを思うと・・・・・その娘たちが我が身のつらさを恨み、知らない土地で父や母のことを思いながら口ずさんでいたのが子守唄として伝わったものだと言う。

伝承であるから歌われている歌詞が全く同じというわけではない。 地元の人たちが聞き取りなどの調査で得た五木の子守唄(五木村・頭地資料室「やませみ」ほか)の資料を
熊本国府高等学校パソコン同好会が公開しているのでリンクし紹介しておきたい。 伝承者5人の歌詞は異なる部分もあるが同じ部分もある。 原詩がいずれか分からないが奉公先での娘たちの気持ちをよく表しているので是非リンク先の歌詞を読んで頂きたい。

熊本国府高等学校パソコン同好会・制作『五木の子守唄の歌詞いろいろ』

pict-P1040730五木村イチョウさて、五木村は熊本県と宮崎県が接する九州の脊梁山脈中央部にあると言って良いのだが、この五木村(熊本県球磨郡五木村)の北東に五家荘(熊本県八代市泉町樅木)や椎原(熊本県八代市泉町椎原)、葉木(熊本県八代市泉町葉木)、久連子(熊本県八代市泉町久連子)という集落があり、これらの地から東側の峰を越えて行けば椎葉村(宮崎県東臼杵郡椎葉村)がある。

これらの地は今でこそ道路が通じ自動車も走るが、随分と山奥の地であることは昔も今も変わりは無い。

1185年の壇ノ浦の戦で敗れた平氏で討ち死にした者たち以外は降伏したり捕えられたり、或いは『落人』として逃げ延びたと言われているが、上に掲げた集落は『平家落人の里』として名高い。  先に挙げた五家荘は壇ノ浦の戦で敗れた平清経が落ち延びたと言われ、椎原、葉木、久連子といった集落は、彼の子孫が移り住んだと言われている。

平清経は、平清盛の長男・重盛の三男である。 壇ノ浦の戦で敗れた後、九州・大宰府へ逃れるが源氏方についた緒方惟義(重盛の家人)らに追われ、当時、宇佐神宮の大宮司・宇佐家は平氏に味方していたので宇佐へ逃げたが、豊前・柳浦で入水自殺(享年21歳)したと伝えられており、彼の供養塔も宇佐市柳ヶ浦にあるらしい。

宇佐で亡くなったはずの平清経が遥か南の山奥の地に落ち延びて隠れ棲んだと言うことになるのだが、その真偽は分からない。 
その五家荘から東側の峰を越えて行けば椎葉村があると書いた。
♪ 庭のさんしゅの木 鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれよーと歌われる『ひえつき節
』(宮崎県教育情報通信ネットワーク『教育ネットひむか』にリンク)の里、椎葉村である。
しかし、峰を越える・・・直線距離にすれば約20km程度であるが、幾つもの山あり谷ありで今も直接結ばれる道路など無い。

この椎葉村にも平氏の落人が隠れ棲みついていたらしく、屋島の戦において鏑矢を放ち見事に扇を射ち落とした那須与一の弟・那須大八(宗久)が平氏追討のためにやって来た。

しかし、平氏の落人たちは農耕に励み戦意は認められなかったことから那須大八は討伐を止め、滞在中に鶴富姫(平清盛の末孫)と恋仲になり子どもが出来たという。 やがて那須大八は自領へ帰ったが、討伐を取りやめた大八に対し落人たちが感謝して自分たちの名を那須と改姓したと言う。 『ひえつき節』というのは、こうした逸話を歌っているのだそうだ。

これらのことについて断片的な知識しか持ち合わせていなかった私は、五木村も平家落人の里のひとつと思っていたのだが、五木村の観光案内所のお嬢さんから、「五木村は、むしろ落人たちを監視する側だったのです。」と教えられ、今更ながら恥ずかしい思いをしてしまった。

五木村も御多分に洩れず過疎化が進み、人口減少に歯止めがかからないという深刻な問題に直面しているのだとか。 川辺ダムの建設が決まって村が川底に沈んでしまうという問題は、ダム建設の中止が決まり安堵したという村人の声を聞いたが、過去に洪水被害があったとも聞いた。 私は尋ね教えてもらうことが出来るだけ。 村の今後については難しい問題だ。

随分長い文章になってしまったついでに道を間違えたことも書いておこう。  国道445号線を北上するつもりで車を走らせたのだが、道路工事中で行き先表示が明確では無かった(地元民には分かるかもしれないが余所者には分からない)ことや、我がカーナビが10年選手であること、そして天候悪く、しかも山間のため方向を見定めることが出来なかったことなど様々な要因が重なったのではあるが、九折瀬から八原へ向かう道に入ってしまった。

地元の人なら分かるかもしれないが、九折瀬という名前の通り、道路は幾重にも曲がりくねりながらの上り坂で、徐々に道幅は狭くなり車1台がやっと通行できるという状態。 そこへ昨夜からの強風と豪雨のため木々の枝葉が落ち、崖からの落石や土砂が路面を覆うというひどい状況。 これはオカシイと思い始めたのは随分坂道を上ってからのこと。 片方は急崖、もう片方は深く切れ込んだ谷(底までは視認できないが)で私の車ではUターン不可能。 対向車が来ぬようにと願いつつ走る以外になく、かなり走ったところで路肩が谷側に少し広くなった所があり、そこでUターンのため数度ハンドルを切り返して下り方向に向きを変えた。

下りかけた所で黒い物体が車前方を横切ろうと・・・デッカイ野生の日本猿が1頭。 かと思えば崖から角ばった石が転げ落ちてくる。 急坂のためロウシフトで下るもブレーキペダルを踏むと木々の葉でスリップ。 私も怖かったが谷側に座っていた家内はもっと怖かったらしい。 暗いと言っても夜の暗さでは無かったから良かったと、元の分岐点までもどって安堵した。

天候もさることながら、とても写真を撮る余裕が無かったので写真で紹介することが出来ない。〔残念〕



masatukamoto at 18:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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