February 2012

February 06, 2012

四国~九州への旅 (16) 霧島神宮・霧島温泉郷(霧島ロイヤルホテル)

清水磨崖仏の見学を終え、国道225号線で指宿有料道路の川辺インターに入り、そのまま九州自動車道を走行した。 天候は更に悪くなり雨のため前方が見えずに低速運転を続けた。 指宿・川辺料金所のおじいさんが鹿児島空港出口で出るのが近いと教えてくれていたのであるが、誤って通過してしまったため次の横川インターで九州自動車道を出て一般道路へ。

悪い時は悪いことが重なるもので、えびの方面に走るという間違いをし、随分走ってからオカシイことに気付き後戻り。 もっとも道を間違えたために
JR肥薩線『大隅横川駅』の駅舎を車窓からではあるが見ることができた。

『大隅横川駅』は1903年開業当時の駅舎のままで国の登録有形文化財になっている趣きのあるものだが、雨がひどく辺りが夕暮れ時のように暗かったので写真として残していない。(『
大隅横川駅』をクリックすればリンク)
pict-P1040716霧島温泉郷
その後県道50号線から国道223号線に入り霧島温泉まで1時間ばかり費やしてしまった。

それでも40年前に比べれば遥かに早い方だと思う。  当時、私たちは林田バスに揺られて霧島国際ホテルに泊まったのだった。 林田バスは現在経営が指宿の岩崎グループに移っている。 岩崎グループについては『指宿いわさきホテル』のところで少し触れているが、この霧島温泉にも『霧島いわさきホテル』がある。 ついでだが『霧島いわさきホテル』の前身は林田温泉である。

霧島温泉という単独の名前の温泉は無く、霧島連山、つまり硫黄山(1317m)、韓国岳(1700m)、獅子戸岳(1428m)、新燃岳(1421m)、中岳(1345m)から高千穂峰(1574m)に至る山々の南側に点在する温泉群の総pict-P1040717称として霧島温泉郷としているようだ。

新燃岳は2011年(平成23年)1月に噴火して以降活動が続いているのでよく知られている火山である。 今回の旅行で噴煙の状況などは見ることができるかと思っていたが、雲が低く垂れこみ山頂まではとても見通せる状況にはなかった。

私たちのこの日の宿は霧島神宮温泉の霧島ロイヤルホテルなので、先に霧島神宮を参拝・見学していくことにした。
pict-P1040725
『霧島』と言えば若い人たちにとっては焼酎の名前、中年ならば相撲の関取の四股名、私達より上の世代になれば天孫降臨やミヤマキリシマの花などを思い浮かべるのかなあと思ったりするのだが、どうであろうか。
霧島神宮は写真の勅使殿の奥に豊廊下と呼ばれる通路が上の拝殿につながり、その奥に幣殿、最奥に本殿が設えられているのだが、丁度重要文化財の保存修理工事が為され、しかも小降りになっていたものの雨降りのためゴチャゴチャした雰囲気の中での参拝・見学となpict-P1040722り、イマイチであった。

この霧島神宮の主祭神が『天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)』である。 これは古事記の表記であるが、日本書紀では『天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひたかひこほのににぎのみこと)』と表されて漢字表記が少し異なるが、一般には名前を縮めて『邇邇芸命』或いは『瓊瓊杵尊』と書き『ににぎのみこと』と呼んでいる神様のことである。
pict-P1040723
『ににぎのみこと』は天照大神の命により、葦原の中つ国を治めるために高天原から高千穂の峰に降り立った神で、天孫降臨の話の主人公である。

少し前に宮崎県の高千穂神社と天岩戸神社を訪れた時のことを書いた時にも天孫降臨の地について書いているが、もともと天津神が地上に降りたというお話なのだから真剣に取り組むほどのものではないと思うが、鹿児島県・霧島では高千穂峰が降臨の地であるとし、宮崎県・高千穂町では降臨の地を香久山であるとして天岩戸もあるとしている。 
pict-P1040726
そうしたことも含めて信仰している人には悪いが、私にとっては「どうでもええやないか」というのが正直な気持ち。

ざわざわ境内を騒がしくしていた団体客が帰ったので、雨に濡れた緑濃い神宮の境内はしっとりと落ち着いた雰囲気に戻った。 勢いよく降っていた雨も霧のようなものにかわり気持が良い。

写真は神木の杉。 樹齢は800年と言うが立派な木である。

辺りが暗いので随分遅いのかと思っていたが、まだ3時過ぎ。 天気が悪いので少し早いけれど宿でゆっくりしようとホテルに向かうことにした。
pict-霧島ロイヤルホテル
先にも書いた通り、この日の宿は丘の一画に建っている霧島ロイヤルホテル。 ホテルの絵葉書に見ることができるように広い駐車場のほか、周辺には何面ものテニスコートやゴルフクラブのコースが広がっている。 私たちが泊まったのは屋上が緑色の右側の建物。 6階か7階だったが部屋は広く特別な設えもない部屋だが、眠るだけの私たちにとっては充分である。 建って随分になるのだろうと感じられる部分がドア部分に認められたが1泊2食付の料金は手頃なものであった。 晴れていれば眺望は何倍も素晴らしいものであったろうと思ったが、雨はどんどん強くなって部屋の窓ガラスを打ち付ける音が聞こえるほどに・・・・・天候だけは残念と言う以外にない。 

さて、高千穂温泉のひとつなので温泉分析書を紹介しておこう。
pict-P1040727高千穂温泉分析
40年前に泊まった霧島国際ホテルは硫化水素泉だったように思うが、この霧島ロイヤルホテルは泉質が単純温泉。 ほとんど無色透明、わずかに硫化水素臭とあり、水素イオン濃度がPh7.7だと書かれている。 火山である霧島連山に湧出する温泉だから多少の違いはあっても硫化水素臭がするのは当然である。 そして無色で透き通っていてPh7.7と書かれているから僅かにアルカリ性の温泉ということになる。 じっさいに浸かってみて家の風呂と大きい違いはなく気持ちの良い風呂であった。   

ところで、以前に沖縄の残波岬ロイヤルホテルを利用したことがあり、ロイヤルホテルという名前が同じなのでレセプションで問うと同じグループのホテルなのだと。 仏頂面をしたシティホテルのレセプショニストと違い、話題に対し笑顔で臨機応変に接してくれた女性スタッフの態度で僅か1泊ではあったが、とても気持ち良く過ごすことができた。 感謝の気持ちを書き添えておく。


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February 05, 2012

四国~九州への旅 (15) 知覧武家屋敷通り~清水磨崖仏群

さて、この知覧もパンフレットに『小京都』と書いてあり、『小京都ふるさとまつり』なるものも南九州市が企画・実施しているそうな。

全国に小京都が幾つあるのか知らないが、これまで私が訪れた土地で小京都と称している町だけでも片手に余り、弘前(青森)、角館(秋田)、郡上八幡(岐阜)、小浜(福井)、出石(兵庫)、津和野(島根)、竹原(広島)、山口(山口)、大洲(愛媛)と直ぐに思い浮かぶ。  前に書いているが今回の旅で飫肥も小京都と称していたし更に知覧ともなると・・・・・もう何をか言わんやって気分である。

さすがに『小東京』とは聞かないので『アンチ中央(東京)』の私には溜飲の下がる思いがするのだが、小京都ならずとも〇〇銀座などというのが全国津々浦々にあるのは将に笑止千万。 もっともロスアンゼルスには『リトル・トウキョウ』と呼ばれる日本人街があるが、これは論外。 まあいろんな思いがあってのことだとは思うが、それぞれpict-P1040687の町においては良い意味での個性の強調に努めてもらいたいものだ。

この知覧の武家屋敷通りも、なかなかのものであった。

石積みの塀に生垣。 知覧の町割りについては何年頃に為されたのか調べていないので分からないが、町割りと通りの構成から推測すれば戦国期以後、つまり島津氏が絶対的な支配体制を構築してからのことになるのではないだろうか。 これは想像に過ぎないことを断っておく。
pict-P1040689
戦国期以前の城郭は山城が中心であり、国指定史跡となっている知覧城跡も武家屋敷群南方の小山群にある。
城跡と言っても発掘調査により遺構として土塁や空堀が残っている程度で城跡は広く全容を見ることはできない。  

現在は南九州市となっている知覧だが、知覧町教育委員会が作成した資料に空中撮影の写真があるので紹介しておこう。
pict-知覧城跡
ぼこぼこした小山が幾つも見られるが、このひとつひとつの山の頂を平にして、その周囲に土塁を造っていたのだそうだ。 そして土塁に囲まれた、写真で言えば頂きが平らになっている場所に城としての建物を構築していたらしい。 七つばかり見える小山は、それぞれかなり急で、木々が植わっているものの崩れた斜面(崖)を見ることもできる。 ここの地質も飫肥城跡と同じシラスであり、小山と小山の間の谷のような部分が空堀で、将に自然が造った要塞と言えそうだ。(人工的に掘られた堀もあるが)

だから知覧城は戦国期以前に築かれたと考えても良いかもしれない。 しかし町割りについてはどうだろうか。 暇ができたら調べてみることにしよう。 他にやることが多いので果たしてどうなるものやら。  
pict-P1040694戦国期の九州支配を大きく分けると北の大友と南の島津であった。 薩摩の島津から見れば北に人吉の相良、北東に日向の伊東、東に大隅の肝付と領地を接しており、これらとの外交、・武力抗争には腐心していたことであろう。 やがて豊臣秀吉の九州平定による国分けによって落ち着くことになるのだが・・・

知覧の武家屋敷の石垣も綺麗に切り取り削られている。 飫肥の武家屋敷の石垣もそうであったように、見かけ上どうやら凝灰岩のようである。 中に丸い転石を積んだ石垣もあったが、大方が凝灰岩の石垣であるように思った。
pict-P1040691どこから切り出してきたものかは分からないが、姶良か桜島か、それとも開聞岳か、いずれにせよこれらの火山から噴出した砕屑物が堆積したものであろう。

ところで武家屋敷通りであるが、写真のように道は真っ直ぐばかりではなくカギ型に曲げられていたりもする。 これは戦略上の理由から故意に曲げているもので、城郭に見られる虎口桝形と同じように進入する敵に対しての防御用の意味合いが濃いものであると考えられる。
pict-P1040692
そのほか武家屋敷は門構えの内側に、屋敷内へ敵が真っ直ぐ進入出来ないよう石垣と生垣で防御用の盾のようなものを構築していた。

武家屋敷通りをぶらぶら歩き、帰路は県道23号線を歩いて南九州市役所車前の駐車場に戻ったのだが、1時間ばかり、よく歩いた。 

天気が少し崩れ始めたのだが、鹿児島県指定文化財(史跡)清水(きよみず)磨崖仏群があると観光パンフレットで見つけたので立ち寄ることにした。  県道27号から19号を経由し、岩屋公園に向かった。 道路工事中であったり農道らしき道を走ったりで何度か迷ったが何とか舗装整備された駐車場に到着。 

磨崖仏群はきれいな清水川に面する小山の崖面、およそ400mにわたって彫られている。 その清水磨崖仏群の全景は設置されていた下の陶製案内板のとおり広がっている。
pict-P1040713清水磨崖仏(案内板)
この磨崖仏群のある小山も鹿児島県下一帯に広がるシラス台地であり、多分浸食を受けて谷が形成され、その後も風化・崩落を繰り返して急崖面を見せたのであろう。  見たところ崖面を構成しているのは溶結凝灰岩かと想像したが成分が分からないので何とも言えない。 しかし凝灰岩は風化もしやすいけれど、その分切ったり削ったりの作業がしやすいので多くの磨崖仏が彫られたのではないだろうか。
pict-P1040697偲ぶ橋駐車場に車を置いて木々に覆われた道を少し歩くと石橋が見える。 それを渡って対岸の道を進むと磨崖仏群が見え始めるのだ。

この清水磨崖仏群は平安時代の終わり頃から鎌倉・室町時代、そして新しいものでは明治時代に彫られたもの、それらが凡そ200基、主に線刻の供養塔、五輪塔、宝篋印塔が多く、想像していた仏像は少なかった。

また、風化が進んでいるものもあって鮮明ではないものが多かったが下に一部を紹介することにする。
pict-P1040705A供養塔。

浮彫もあるが線刻もある五輪塔。

pict-P1040708A







宝篋印塔の線刻。

供養塔、五輪塔、宝篋印塔は、いずれも故人を供養する目的で建立されるものだが、上に掲載した写真は鎌倉期から室町期に彫られたものである。
pict-P1040701A

この仏像の浮彫2基は明治期に彫られたもの。
pict-P1040702A

pict-P1040700
夏場にはキャンプ場として利用される岩屋公園だけに静寂な山間の公園であった。
写真はとてもきれいな清水川だが、清水の湧水として名水百選にも選ばれたのだとか。 

天気予報でも西から崩れ、九州南部は大荒れとの情報を得ていたので早めに宿を決めて移動することにした。  宿を決めるのはいつも通り家内の役。  宿泊地だけは二人で霧島にしようと決めた。  40年前の新婚旅行でも霧島の宿であった。 そのホテルは現在も営業しており、少々高いが懐かしさを感じて電話を入れた。 だが残念ながら満室との理由で断られてしまった。 (続く)



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February 03, 2012

四国~九州への旅 (14) 岩崎美術館~知覧

岩崎美術館は、指宿いわさきホテルの広い駐車場を挟んだ向かい側に建っている。

前ページで書いたように『指宿観光ホテル』は現在『いわさきホテル』という名称に変わり、佐多岬ロードパークの開発事業は『岩崎グループ』が行った。 そしてホテル敷地内に『岩崎美術館』が建っている。  これだけ条件が揃えば如何に商業界に縁が無く、立志伝に興味が無い私であっても、岩崎という名の人物が創業したのだろうとpict-岩崎美術館カタログ表紙Aの想像はつく。

自宅に帰って調べてみたら、予想通り
岩崎與八郎
という人物が1922年(大正11年)に鹿児島で岩崎商店を興し、線路の枕木を鉄道省に納入することを事業の始まりとしたらしい。 その後、岩崎産業株式会社と社名を改め事業を拡大、現在、岩崎グループの傘下には鹿児島交通、大隅交通などのバス会社をはじめ、鹿児島商船、垂水フェリーなどの海運会社のほか指宿や霧島などのホテル、それに芋焼酎製造の『白露(しらつゆ)酒造』などが入っている。

さて、その『岩崎美術館』であるが、マチス、ヴラマンク、ゴーギャン、ピカソなどのほか、黒田清輝、藤島武二、梅原龍三郎などの洋画家の作品、横山大観、川合玉堂など日本画家の作品のほか、西郷隆盛や伊藤博文など明治政府元勲らの墨蹟も展示している。 また焼き物や海外の民俗資料の展示も行っており、正直な感想を書けば、「えっ?指宿にこれほどの作品が・・・」と驚いたのである。

上に掲げたカタログ表紙の絵はアンリ・マチスの「ラ・ポエジー」だが、この作品は貸し出し中だったのか私たちは見ることができなかった。
pict-岩・黒田清輝・秋草驚いたというのは私の偏狭視眼的な見方から発したことであり、大変失礼なことであったと反省する。  従来、文化は中央から地方へ流れ、価値あるもの(あらゆる意味での)は中央に集中するという傾向にあり、そうであってはならないと思ってきたのであるが、いつのまにか現状を是認する立場から岩崎美術館を見てしまっていたということである。

※ 黒田清輝 『秋草』  油彩 キャンバス 1897

黒田清輝は鹿児島出身の画家であり、作品『湖畔』が切手のデザインに用いられたこともあるので広く知られていると思う。
pict-岩・黒田清輝・湖畔A
『湖畔』は東京・上野公園にある黒田記念館の所蔵。


切手以外の写真は、いずれも岩崎美術館のカタログとカードである。

下の絵は、私が好きな作家のひとり、モーリス・ド・ヴラマンクの『雪の道』 油彩 キャンバス。 
pict-岩・ヴラマンク・雪の道
ヴラマンクの作品が指宿の美術館にあるとは正直に言って思いもしなかったことであった。
文化の中央集中傾向について私の考えを少し漏らしたが、アンチ・ジャイアンツだとかアンチ・トウキョウという私の姿勢は多分にそうした考えと密につながっているものと思う。

pict-岩・東郷青児・樹下小憩これは、東郷青児の『樹下小憩』 油彩 キャンバス 1949。  207×152cmという大作である。

東郷青児も出身は鹿児島であった。

pict-岩・梅原龍三郎・桜島下の絵は、梅原龍三郎の『桜島』 油彩 キャンバス
1935。

美術館の開館時刻を待つようにして入館。

公立の大きい美術館に比べればこじんまりとしたスペースではあるが、入館して1時間ばかり誰に気遣うこともなく家内と二人だけでゆっくり鑑賞できたことは良かった。


美術館を後にして今回訪れたかった所のひとつ、知覧に向かうことにした。

指宿から知覧まで1時間少々かかったが、実際はもう少し早く行けるルートがあるのかもしれない。 しかし、何と言ってもベテラン・10年選手のカーナビの案内である。 道無き道、海の上でも走らせる奴の案内だからどんなものか分からない。
pict-P1040677今回知覧を訪れたいと思ったのは城下町・知覧の武家屋敷の町並みを見てみたかったのと、知覧特攻平和会館を訪れたかったからである。

知覧特攻平和会館は特攻隊員たちの遺品や遺書を収蔵・展示してあるメインルームのほかに戦史資料室や視聴覚室、講話室を設け、戦闘機も展示している社会教育施設である。  

沖縄戦で特攻戦死した隊員は1036人に上り、都城や熊本などからも出撃したが、その主軸となったのは知覧特攻基地だったという。  知覧特攻基地と名称変更がされたのは太平洋戦争末期、昭和20年のことで、特攻隊員は20歳前後の者たちであったそうだ。

私たちが特攻平和会館を訪れた時は修学旅行の高校生や中学生、それに他の一般団体見学者で館内は混雑しており、ゆっくり見学できる状況ではなかったが、展示してある特攻隊員の遺書を順に読み始めた。
pict-P1040678(修整)
特攻隊員に決まって書き残した文章であろう。 それぞれ長さも違うし表現も異なるが、両親をはじめ親しい人への感謝の気持ち、それらの人々の健康を願い国の安寧を祈る思いで満ち満ちた文面であった。

死を決っせざるを得なかった彼らが何の不足も恨み言も言わず、ただ残る人々の幸せのみを祈る彼らの遺書を7、8人分読んだところで息苦しく頭が痛くなり、その時点で私は見学を止めてしまった。 どうしたのかと問われても説明しきれない。  とにかく、しんどかったのだ。

これとよく似た思いは広島の呉・江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を見学した時にもあった。  書けと言われ語れと言われれば美辞麗句を並べて通り一遍のことは出来るが、「百聞は一見にしかず」と言う。 自分の目で見て感じられることを勧めたい。 とにかく私には耐えられなかったので、当時の状況を兵士或いは住民の立場から多くの人たちが書き綴った『特攻のまち・知覧』(戦後50年記念誌刊行会 編 1995)を買って帰った。

上の写真は三角兵舎。 防空のため地面を掘り下げて建てられた簡素な木造の掘っ立て小屋のようなものだが、特攻隊員に指名された者たちが出撃前の数日間をこうした兵舎で過ごしたという。

知覧特攻平和会館については、これくらいにしておこう。 


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