April 2012
April 30, 2012
韓国・公州・・・その③
前ページで博物館のことを書いたので更に少し書いておこう。
博物館や美術館が考古学資料・歴史的遺物・美術品など学術的価値の高い資料の蒐集・保存・修復・調査・研究を行い、それら収蔵品等について研究報告を行ったり展示・公開を行うなど教育文化向上に寄与していることは周知のことである。
私たちが見学するという展示の仕事はミュージアム(博物館や美術館)が行う仕事全体の極々わずかな部分であり、ミュージアムの仕事のほとんどは地道で私たちには見えない裏方の仕事ばかりであると言っても過言ではない。
博物館には考古学資料も多く展示されている。 それら考古学資料の大部分は地中や水中より発掘されたものだが、ブルドーザーやショベルカーといったもので機械的に簡単に掘れるものではない。 遺物に損傷を与えないよう一つ一つを丁寧に慎重に掘り出さねばならない。 遺物が地中や水中にある時は安定していても掘り出されて空気と接っすることによって化学変化を起こすこともある。 また遺物が発見されたならば、それはヒトが生活していたことの証左でもあるので、その痕跡を求めて発掘調査範囲を2次元的に3次元的に広げていかねばならない。 これらの作業は地の埃(ほこり)を払うような地道で慎重な作業となり、それに要する作業日数も相当にかかるものである。
発掘されたものは発掘地点を記録して洗浄・乾燥されるが、石器などとは異なる木片や布片などの保存は何ヶ月何年もかかる場合もある。 土器なども完全な状態で発掘されることは稀であり、洗浄・乾燥の後の修復・復元作業に長期間を要するものだ。
そうした展示に至るまでの裏の仕事を思う時、ミュージアムの学芸員は勿論、様々な作業に当たっている人たちに深く敬意の念を抱かざるを得ないのである。
その土地土地の自然や歴史、人々の暮らしや文化を知るには先ずミュージアムを訪れることが最善と私は思っている。 しかし、見学することによって大まかなことは捉えることができても細かなことまで記憶することは難しい、と言うより、これは誰にしても不可能なことである。 そのため私はミュージアムが刊行するカタログを求めることにしている。 展示物の全てが掲載されているとは限らないが。
写真に記録することができれば良いのだが、日本のミュージアムは殆ど撮影禁止を掲げている。 私は撮影禁止としている日本のミュージアムの姿勢に以前から疑問を感じているのである。 ヨーロッパのミュージアムは概ね撮影OKだったし、今回訪れた韓国のミュージアムもフラッシュを焚かなければ撮影OKであった。 ヨーロッパのどこだったか、フラッシュと三脚使用はダメとするミュージアムもあったが、これは禁止理由がよく分かる。
三脚を立てると他の見学者の迷惑になると、これなど子どもでも分かることだと思う。 それにフラッシュも皆がパシッパシッってやったら、これも迷惑だろうし、展示物によっては光によって変質することがあるかもしれないから一律にフラッシュを焚くことを禁ずると、これも理解できる。 ミュージアムは静謐な環境を維持する・・・そのために写真撮影のシャッター音が問題??? シャッター音って嫌悪を感じさせるほどの音量だろうか。
現代のカメラはレンズが明るい上にフィルムの感度も極端に良い。 デジタルカメラだと光量が殆どない暗い場所でも撮影が可能である。 しかるに日本のミュージアムの殆どは今尚写真撮影を禁じている。 展示品に害を与えない状況での写真撮影は認める方向で対応をミュージアムには求めたいものだ。 何や知らん、ようワカランけど、日本人というのは「みんなで渡れば怖くない」式の発想で一律にと言うのが好きみたい。 ファッションからオツムの中まで金太郎飴ではイカンと思うのだが・・・
さて、百済を含む三国時代から統一新羅、高麗の時代を経て朝鮮半島は李氏朝鮮(1392年~1910年)の時代に入る。
この時代には都・漢城を直轄地とし、国土を8つの地域(朝鮮八道)に分けて地方行政を行っていた。
この公州は朝鮮八道の中のひとつ忠清道にあって、下の写真は忠清道の政庁である忠清監営の復元図である。
① は観察使(行政官 兼 治安判事)の執務室である宣化堂(ソンファダン)。 ② は監営の事務を行う東軒。 ③ は布政司門楼で政庁の門。 ④ は錦営測雨臺(クムヨンチュグデ)。
下の写真は布政司門楼。 監営の衛士たちがこの場所で立哨していたのであろう。
忠清監営は復元の工事中なのか公開されていなかったので塀越しに写真を撮った。
他の地域の監営では観察使が暮らす建物が別にあるようだったが、忠清監営では見られなかった。
下の写真の左手前が布政司門楼で、その向こうに東軒。 そして少しばかり木を挟んで正面あたりに宣化堂が見えている。
宣化堂と東軒の間の木のあたりに錦営測雨臺が設置されているのだが遠くて確認しにくい。
測雨臺は字の通り雨の量を測るための容器を設置するための台のことである。
朝鮮国王第四代・世宗(セジョン)はハングルを創製したことで有名であるが、集賢殿(チョッピンジョン=科学技術院のようなもの)を設けて科学技術の振興に努め、軍事面での火砲の開発、天体観測機器を作ることによって朝鮮暦を作成、合せて日時計や水時計を作らせ朝鮮八道の各監営に測雨臺を設置して雨量を測り農耕に役立てるなどした。 その他にも活字改良によって印刷技術の発展、朝鮮医学をまとめた『医方類聚』の編纂や朝鮮の民族音楽の採譜なども行っている。
写真の錦営測雨臺は大邱監営の宣化堂にあったもので花崗岩の台を穿ち、そこへ測雨器を嵌め込んで使用したようだ。
この測雨臺には「乾隆庚寅五月造」と彫られているので朝鮮国王第21代 ・英祖(ヨンジョ)の46年(1770年)に製作されたもの。
次の写真の錦営測雨器(クムヨンチュグギ)は朝鮮国王第24代 ・憲宗(ホンジョン)の3年(1837年)に製作されたもので忠清道(チュンチョンド)観察使が起居した監営である錦営にあった測雨器。
※ 忠清監営の測雨臺が見えなかったため、たまたまインターネット『ソウルの文化財』で大邱監営の測雨臺と忠清錦営測雨器を見付けたので紹介するのに使用させてもらった。
インターネット『ソウルの文化財』にリンク。(要クリック)
なお「国立公州博物館にはこの測雨器を支えていたと伝えられる高さ 1.73mの正四角形の台石が残っている。」と『ソウルの文化財』には記してあるのだが、私が見落としたのであろう、記憶にないのだ。
ところで、この忠清監営復元地の直ぐ隣に公州韓屋村がある。
韓国内各地に韓屋村というのがあり、韓国の伝統的家屋が保存されている一画を指すことが多く、町並みの見学の他に公開している一般民家や立派な両班の屋敷や庭を見学できる所もある。 また韓国の伝統料理を作ったり食べたり、お茶を味わったり韓国の民族衣装を着てみたりといった体験ができるところもある。 中には宿泊できる施設もあり、オンドル(床暖房)も体験できる。
この公州韓屋村は町並み保存地域でも文化財でもなく、新たに宿泊体験施設として建てられたもので、木の香もかぐわしい新築の宿泊施設である。
冬はオンドルの床暖房、夏はエアコンによる空調で居心地の良い民家様式のホテルと考えれば良いかも。
この韓国式建造物の建築工事が進んでいたので少し覗いてみたら何と日本人スタッフのご婦人に説明頂くことになった。
ご婦人は U さん。 大阪近郊のご出身で韓国生活も随分になるとか。 なかなか元気なお嬢さんと言いたいところだがネット社会という防御性の極めて悪い仮想世界のことゆえ紹介はこれぐらいで。
氷雨がまじる寒い寒い日だったので、頂いた熱い熱いお茶が体を心を一層温めてくれました。 ありがとうございました。 大変たいへん遅くなりましたが、この場でお礼を申し上げておきます。
なお、 U さんは『mitokoの韓国生活』というテーマでのブログページを開設しておられるので紹介し、リンクできるようにしておく。 公州への旅、公州韓屋村での宿泊などで助言を頂けることと思う。
April 29, 2012
韓国・公州・・・その②
我が家に居ても雨の降る日は好かんが、外出、とりわけ旅行中に天候が崩れるのは大いにスカン。 と言ってもコレばかりはどうにもならず諦めるほかない。 今回は釜山到着前から雨に降られ、旧百済國を巡る間ずっと雨降りか曇天のままであった。
公州(百済時代の都・熊津)は百済第21代・蓋鹵王(ケーロワン)の跡目を継いだ第22代・文周王が高句麗に陥落された漢城より遷都した地で、前ページで紹介した公山城の上に王宮があったものと推定されている。
公州市の観光地図(日本語版)を部分拡大してみた。
今回私が訪れた場所は公山城、国立公州博物館、宋山里古墳群、武寧王陵、忠清監営だが天候が悪かったために思ったほども動けなかった。 地図上、宿泊したのは錦江の北側にある錦江観光ホテルと記されたホテルである。 公州市街は然程広くないので丸一日あれば満足できるかと私は思ったのだが、公州市の西部に鶏龍山国立公園があり古刹のほか李参平陶工記念碑が建てられていることが分かったので次回訪問の際は日数と訪れる範囲を広げてみようと思っている。
写真は佐賀県西松浦郡有田町の陶山神社に建てられている李参平の碑であるが、陶祖と記されているように彼は有田焼の元祖とも言うべき人物なのである。 彼は、豊臣秀吉が朝鮮を侵略した際(文禄の役・1592年)、肥前の領主・鍋島直茂が日本に連れ帰った朝鮮陶工のうちの一人であり、彼が有田(泉山)で良質の白磁石の石場を発見して白磁器を焼いたことにより有田焼の歴史が始まったとされている。
李参平が朝鮮より連れてこられたことは知っていたが、現在の公州市の出身とは知らず当地に来てみて新たな発見をして嬉しい気分にもなった。
上は国立公州博物館である。 博物館は武寧王陵・宋山里古墳群などが集まる丘陵地帯の一角にあり、武寧王陵などで発見・発掘された国宝など多数の展示公開と研究を行っている立派な施設である。
韓国の博物館について私は驚き感心することがある。 これまでソウルの国立中央博物館、国立慶州博物館の他、釜山、済州を始め今回訪れた公州や扶余の博物館にしても入館見学料が無料になっていることである。
私が外国人だからなのか、それとも見かけ上オジンだからなのかと思ったりしたのだが、国立の施設は無料にしているようだ。 これは素晴らしいことである。 無料だから安いから良いと言うのではない。 埋蔵されている(いた)ものを含め文化財は国民すべての宝物であるという基本的な考え方と、そうした考え方に沿って行財政的施策を講ずることが重要であり、例え一部分であっても実践していることが素晴らしいのだ。
国立公州博物館では野外に大通寺址の石塔や他の寺院遺跡などの石仏などを展示しているほか、館内では旧石器時代以降の遺跡からの出土物の展示を行っている。
中でも1971年に発掘調査が行われた武寧王陵より出土した多くの遺物は興味をひかれるものばかりであった。
【写真は復元された武寧王】
武寧王陵は宋山里古墳群の発掘調査の過程で未盗掘の状態で発見され、しかも棺などと共にあった墓誌石によって王の薨去年が分かるという考古・歴史学上の大発見であった。
とりわけこの墓誌にある『寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到』によって、百済斯麻王は当時の中国の梁(502年~557年)の武帝から「使持節都督百済諸軍事寧東大将軍」に任じられた武寧王のことで、癸卯年、つまり523年に62歳で亡くなったことが判明したのであった。
これらのことが三国史記の百済本紀の記述と一致することから、1143年から1145年にかけて編纂された三国史記の5~6世紀の記述について信憑性を与えることとなったのである。
三国史記は高麗第17代王・仁宗が編纂を命じ、三国時代から統一新羅末期までの歴史書だが編纂時と記述事項の間に何百年もの時の開きがあるため信用性としては極めて低いものであった。
写真は国立公州博物館のカタログ記載の木棺図と棺材の一部。
ともあれこの武寧王陵が未盗掘であったことで王妃との合葬陵であることも分かったし、王と王妃の木棺に用いられていた材がコウヤマキであることも分かった。
この棺材が高野槇なのだそうだが、コウヤマキは植物学上の学名をSciadopitys verticillata。 マツ目 コウヤマキ科 コウヤマキで 1 属 1 種の日本固有種である。
さて、日本固有種である コウヤマキの材を用いて武寧王と、その妃の棺が造られていた。 これを一体どのように解析するか、たいへんにオモシロイ課題である。
写真は武寧王陵の石製の守護獣(Stone Guardian Animal)。日本の神社で言えば狛犬にあたるものだが、何モノなのか分からなかった。《国立公州博物館にて》
オモシロイと言えば、日本書紀の雄略天皇紀 5 年の条の 4 月。 百済の加須利君(かすりのきし=百済第21代・蓋鹵 王(ケーロワン))が弟・軍君(こにきし・昆伎王(コニキワン)) を人質として倭に送る際、「汝(いまし)、日本(やまと)に往(まう)でて天皇(すめらみこと)に事(つか)へまつれ」と言って一人の妊婦を与えるが、「我が孕める婦、既に産月(うみがつき)に当れり。若し路にして産(こう)まば、冀(ねが)はくば一(ひとつ)の船に載せて、至らむに随ひて何処(いづく)にありとも、速(すみやか)に国に送らしめよ」と言ったと。
写真は武寧王陵より出土した勾玉や金細工の装飾品。 朝鮮半島の遺跡より出土した翡翠の勾玉の原石は最新の化学組成検査の結果、新潟県の糸魚川周辺遺跡のものと同じであり、朝鮮半島に翡翠の原産地がなく、古代において東アジア全体でヒスイ工房が糸魚川周辺以外で発見されていないことから、これらヒスイの勾玉は日本から送られたものであるかもしれない。 《国立公州博物館にて》
そして6月。「孕める婦・・・筑紫の各羅嶋(かからのしま)にして児を産めり。」と。 それで、この子を嶋君(せまきし)と名付け、軍君がひとつの船に載せて国に送ったということだが、日本書紀には「是を武寧王(むねいおう)とす。百済人、此の嶋を呼びて主嶋(にりむせま)と曰(い)ふ」と記している
この筑紫の各羅嶋=主嶋は現在の佐賀県唐津市鎮西町加唐島(かからしま)のことであり、つまり武寧王は九州・佐賀県の生まれであると、何ともオモロイ話ではないか。
写真は王冠の飾りもの《国立公州博物館のカタログより》
話は飛ぶが、豊臣秀吉が朝鮮への侵略の拠点にしたのが現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋にある名護屋城(現在は城址のみ)であり、この天守台跡からは玄界灘の加唐島がよく見えるし、晴れていれば壱岐・対馬までも見れるらしい。 今はジェットフォイルの高速艇で博多~壱岐~対馬~韓国・釜山と、各1時間の航程である。
国立公州博物館に続く丘を少し上ると写真のような小規模の古墳群がある。
写真では木々が茂る向こう側に宋山里古墳群・武寧王陵がある。
どうも見渡したところ、この丘陵一帯が古墳群のように見えたので博物館奥の、この写真の場所も宋山里古墳群に含まれているのではないだろうか。
博物館から武寧王陵へ行くには写真の丘を越える道(舗装路)を行けば良いのだが、写真の通り残雪があり坂道が凍結していたため難渋した。 こんな所でこけるか?というような場所でも滑って滑って、膝は打つ、尻餅はつく。 手首は痛めるわ、ズボンはビショビショ。 何ともひどい墓参りになってしまった。
写真は宋山里古墳群・7号墳、武寧王陵の内部。
写真でも分かるように玄室は磚(瓦)をきっちりと積み上げて造られたものであり、日本の古墳では見たことがないものであった。 新しい発見と勉強をさせてもらったのだが、怪我はするし、ズボンはビショビショ、おまけに倒れた拍子にカメラを落としたものだから全てに調子が悪く少々、いや相当に落ち込んでしまっていたのだ。 ≪つづく≫
April 28, 2012
韓国・公州・・・その①
博多⇒≪韓国≫⇒対馬~博多~広島と巡り、帰宅してから既に2か月になる。 ところがブログとして殆どまとめることが出来ていない。 昨年5月の済州島行についてもペンディングのままである。 次々といろいろやらねばならぬことがあるからなのだが、自分に対する甘えが気持ちの根幹にあることは否めない。
そしてまた、祝い事などで博多・広島を巡って昨日帰宅したところだ。 友人・知人のことなど書くことを約したこともあり早く手を付けなければならないが気ばかり焦っているのが現況である。
それはともかくとして、公州はローマ字表記でGONGJU。 これはコンジュと読み百済の古い都であった熊津(ウンジン)の現在の呼び名である。
百済の建国がいつなのか正確には分からないが、百済が国として存在したのは朝鮮における三国時代である。この三国とは高句麗・新羅・百済の3ヶ国であり、三国時代の終焉は新羅と唐が同盟して百済を滅ぼし(660年)、次いで668年に高句麗を滅ぼした7世紀というのが定説となっている。 しかし三国時代の始まりがいつなのかということについては明確な史料が乏しく、1世紀からという主張と4世紀からという説があり、これについては歴史学の研究を待つほかない。
これら三国の中で建国が早かったのは高句麗であり、紀元前37年に朱蒙(チュモン・東明聖王)が国を興している。
韓国テレビドラマに『朱蒙』という題名の作品があるが、歴史上確かなのかどうかということを問題にしないなら高句麗建国について知るにはオモシロイ作品である。
朱蒙にはイェソヤ(礼少椰)とソソノ(召西奴)の2人の夫人がいた。 イェソヤとの間には息子ユリ(類利)が、ソソノとの間には二人の息子、プルリュ(沸流)とオンジョ(温祚)がいた。 やがてユリは朱蒙の跡を継いで高句麗の第2代の王・瑠璃明王となるのだが、朱蒙がユリを世子(セジャ=皇太子)に指名したことにより、ソソノはプルリュとオンジョと共に南方で新たに国を興すと別れる。 テレビドラマ『朱蒙』では、このあたりまでを描いている。
高句麗より南下したプルリュが海岸近くの弥鄒忽(ミチュホル・現在の仁川)に定着したのに対し、オンジョは肥沃な漢江流域の慰禮(ウィレ・現在のソウルあたり)に定着建国した(BC16)。 その後、オンジョの国が栄えていくのに対し、プルリュの国土は塩気が強く湿っているため民の暮らしは貧しくなり、やがてプルリュが亡くなった後にオンジョが統合、国号を百済として新たに国を興した。 これが紀元前16年と伝えられている。
この百済を大きく発展させたとされているのが第13代百済王・近肖古王(クンチョゴワン)で、在位は4世紀半ばの346年から375年。 361年に高句麗の黄海道方面を、371年には平壌城を攻めて第16代高句麗王・故国原王(コググォンワン)を戦死させた。 これにより百済は漢城(現在のソウル)以北までを領有することになった。 また、百済にはこの頃に漢字が伝わり文字による記述が行われるようになったらしい。
【4世紀頃、三国時代の概略図】
時代は前後するが、神功皇后の三韓征伐(200年)、つまり皇后の軍勢が新羅を攻めて属国としたら、百済も高句麗も同じように朝貢するようになったということなのだが、この頃より古事記・日本書紀の記事に百済・新羅の文字記載が多くなっており、日本と朝鮮半島との往来が盛んになっていったことが窺える。
奈良県天理市に石上(いそのかみ)神宮があり、この神社の宝物に国宝『七支刀』がある。 石上神宮は子どもの頃からよく知ってるが七支刀は未だ一度も見たことがない。 百済王・近肖古王が当時の日本国の王に贈ったものとされている。(七支刀の写真にリンクしている)
上に4世紀頃の高句麗・新羅・百済・伽耶(任那)の勢力図を挙げておいたが、これらの勢力範囲は常に安定していたわけではない。 朝鮮半島内は陸続きで三国は常に緊張状態にあり、高句麗は北面において全面で他国他民族と接していた。 また、半島とは海で隔てられているものの中国や日本との関係でも安定しているとは言い難い状況にあった。
475年には高句麗(長寿王)が百済の都・漢城(ハンソン)を攻め陥落、百済第21代・蓋鹵王(ケーロワン)を処刑している。 この折、王子であった文周(ムンジュ)は助けを求めて新羅に行っており、羅済同盟を結んで援軍と共に戻ってきたが、既に都は陥ちて王も亡くなっていたので、自ら王位に就き、都を熊津(現在の公州)に定めた。
熊津は第22代・文周王(ムンジュワン)から第25代・武寧王(ムリョンワン)までの64年間(475年~538年)にわたる百済の都となった。
上下の写真は公山城(コンサンソン)の錦西楼。 もともとは北側を錦江(クンガン)の流れで囲い100mばかりの高さの山地を活用した土城であったようだが、立派な石積みの城壁で囲った石城に改築したのは李氏朝鮮の第14代王・宣祖(ソンジョ)の時代なので16世紀後半から17世紀のことである。 この頃を日本史に比定すれば豊臣秀吉の朝鮮侵略、1592年の文禄の役や1597年の慶長の役の頃から江戸時代初期にあたる。
韓国では文禄の役を壬辰倭乱、慶長の役を丁酉倭乱と呼び、豊臣秀吉を侵略者として断罪している。 確かに侵略戦争であったと私も認めるところだが、400年も昔のことを反日感情を煽るため未だに利用している面があることに驚きに加え憤りすら感じることを正直に告げなければならないと思う。
写真は高台に建つ臨流閣。 昔は錦江の流れを眺めることができたのであろう。
朝鮮民族の精神的支柱とでも言うべき『恨(ハン)』の思想について分からなくはない。 民族芸能文化面において共感できることは多い。 が、『今』を生きる私(たち)に対し、近現代史以前の事柄を突き付け責められても驚き憤りを超えて『あほらしい』と言う以外にない。
写真は鎮南楼。 公山城の南門になる。
山の稜線に沿って城壁が造られているため、平坦な所もあるが殆どが上ったり下ったりである。
私が訪れた日は数日前に降った雪が所々残り、城壁上の細路は夜来の雨が凍結していたため滑らないように上り下りとも随分気を遣った。
写真の合成状態が悪いが、手前が公山城の城壁上。 錦江と対岸が新市街地になる。 公州総合バスターミナルや宿泊した錦江ホテルは対岸の新市街地にある。 この写真の場所は通路が広くなっているが、城壁の全長 2 kmを超える通路は殆どが写真に見られる細い幅にすれば 1mの通路で路面が凍っていると怖いコワイ。
ところで韓国テレビドラマ『朱蒙』を先に紹介したが、韓国の時代劇はなかなかオモロイ。 もっとも言語やその他の時代考証など手抜きと言うか、とてもまともな評価を与えられないものもあるが、まずまず気楽に見られるという点では70点の『良』の成績をあげても良いだろう。
李氏朝鮮の第14代王・宣祖や仁祖(インジョ)の時代を描いた作品には、宣祖の後宮ヤンファダンがその長男・信城君を、宮廷女官となったケトンが宣祖の第二王子・光海を王位に就けようと画策する『王の女』、豊臣秀吉の侵略に対し朝鮮水軍を指揮して戦った『不滅の李舜臣』、中国と朝鮮の医学を統合させて医者として活躍した『ホ・ジュン(許浚)』、朝鮮王朝の政治体制改革に尽力した『ホ・ギュン(許筠)』 などがある。 参考までに。
April 21, 2012
節目 (祝い事)
節目という言葉がある。
広辞苑では『竹や木材の節がある所』と説明しているが、節目というのは植物の芽が出る所であり重要な部分である。 節という字は植物に限らず人間の体や人の生き方、或いは気候や暦など重要な意味合いを持つ言葉に用いられている。
結婚40周年。 ルビー婚式と言うそうだが、これも人生での節目の年と言える。 50周年の金婚式、60周年のダイヤモンド婚式とあるそうだが、果たして夫婦健康で迎えられるかどうか。 とまれ何とか二人とも元気で結婚40周年という節目を迎えさせてもらった。 「節から芽が出る」と昔からよく聞かされている。 今からどんな芽が出るのか・・・・・楽しみである。
この節目の日、私たちはⅠ氏の寿司店でシャンペンの栓を抜いて祝った。 何にしても祝い事というのは良いものだ。
祝い事ということでは先ずまず健康のうちに齢をひとつ積み重ねさせて頂いた我が誕生日もあった。
誕生日の昼は知り合いのお嬢さんと食事、夜は家内と祝いの膳。 何とも贅沢な日であった。
写真は大阪・堺筋安土町を東へ入った所にある『Le Noeud Papillon』(ル・ヌー・パピヨン)。 そのまま訳せば蝶ネクタイという意味になるが、『パリの日常を気楽に』というコンセプトで料理・ワインを提供している店である。
この店の主人(オーナーは別)Ⅰ氏(写真)だが、昨年まで大阪・法善寺の割烹『喜川』で煮方を任されていたほどの人物である。
つまり、日本料理のプロ。 それがどうしてフランス料理にワインなのか、私は不思議に思い、どのような仕事ぶりなのか早く店を訪ねたいと思っていたのだ。
それがたまたまと言うか、お嬢さんとⅠ氏が親しかったこともあって一緒に訪ねてみようということになったのだが、その日が私の誕生日と重なってしまったのだ。
店の感じはパリに限らずヨーロッパ各地に見られるレストランなのだが、フランスではビストロ、イタリアだとトラットリアといった感じである。 高級レストランの場合は現在でもフォーマル・ドレス、つまり上着にネクタイを要求されるが、そのようなことのない気軽に入れる店である。
写真はお嬢さんと、テーブル上は前菜でパテとハムと野菜を盛り合わせたもの。 ハムは自家製とのことで、調理場で燻製にしているのだそうな。 塩加減も良く美味しいものだったが、事務所街に燻煙・・・これはちょっと気になったが夜間にしているのかな?
次に掲げる写真が主菜であり、牛肉をビールで煮込んだもの。 とても柔らかく味もしっかりした料理であった。 もう随分になるが、脂分の多い料理を避けてきた私だが割とあっさりしていて食べやすいものであった。 もっとも白ワインが口を爽やかにしてくれたこともあったのだろうか。 お嬢さんがお酒を飲めないので私がひとりで・・・昼間っから。 フランス南西部のワインだと教えてもらったが、どこだったか。 トゥールーズだったか・・・。
私は余り甘くなく酸味があって苦みのない、あっさりと軽いタイプの白ワインが好み。 家内と好みが共通しているので年に何度かはドイツの白ワインをまとめ買いしている。 ドイツの白ワインで高級なものは一般的に甘味が強いが私たちの好みは違う。 つまり分かりやすく言えば安物であり、等級で言えばカビネット( Kabinett )になるのだが、これを安物と言うとドイツ人に叱られるかもしれない。 が、食べ物、飲み物を始めファッションなど衣食住に関するものは全て希望通りになるかどうかは別にして個々人の好みによるものである。
将に個々の感性によるもので、値段が高いから良いというものではない。 勿論、高い価格のモノは高い価格を設定するだけの様々な条件を揃えているはずであり、高いから悪いと言っているのではなく、いかに高価で上等なモノであっても全ての人が必ず良いと思うモノではないということである。 現代社会では単に好みや感性といったことだけでなく、金銭的価値を重視するあまり物事の本質を見詰めることが軽視される傾向にあるように思うのだが、自戒の念を込めて照顧脚下。
香りの良いダージリンティーを頂き、デザートプレートには Happy Birthday とチョコレートで書き、ケーキにはローソクを立てて祝ってもらった。
幾つになっても祝ってもらうことは有難くも嬉しいことである。
年の数だけローソクを立てるには多過ぎて困るが、ローソク1本といのも何だか淋しいような・・・
そうそう、 Birthday の『 t 』の横線が無かったなあ。 ハハハハハ、ツマランことに気がついてしもうた。
ランチタイムは11:30から14:00。 ディナータイムは18:00から22:00。 ランチタイムのお客は女性陣で埋まっていたけど、ランチもディナーも手ごろな価格で美味しい料理を楽しめるように思った。 が、日本料理からフランス料理へ移ったⅠ氏の心髄については分からずじまいだった。
この日の夜は家内と二人で祝いの席を設けた。
先付から順に並べてみよう。
吸い物は焼き茄子・アワビ・わらびが入った生姜仕立て。
お刺身には京都・山城産の筍が。
料理長の遊び心の八寸は季節感を十分に盛り込んだもの。
焼き物は金目鯛に筍。
揚げ物としてフキノトウとタラの芽が合わせて盛られていた。
煮物は鯛の子、南瓜、里芋に菜の花。
ご飯は土釜で炊いた鯛めし。
美味しい鯛めしだが、とても食べきれず持ち帰り容器に詰めてもらった。
さらに水菓子。 イチゴと甘夏に・・・3点盛りだったように思うが忘れた。
月に一度は必ず家内と訪れる『旬菜割烹はざま』。 今回も美味しく頂くことができた。 節目の記念すべき日に。 ただただ感謝である。
April 16, 2012
≪山菜≫ Uさんに感謝
Uさん、いつも有難う。
今年も3月3日にフキノトウ(下の写真)を、下旬にはタケノコを頂戴した。
そして昨日(4月15日)は、ワラビ、タラの芽、コゴミ、それにタケノコを頂いた。
タケノコの調理の第一段階は糠と共に煮てアクを取ることから始まるが、糠漬けを漬けない我が家に糠は無いので寿司屋の大将 I 氏が湯がいて間もない状態のタケノコを届けてくれた。
Uさんはタケノコを掘ると直ぐに寿司屋の I 氏の元に届けてくれるため、大将の店では生のまま、タケノコを刺身として頂いている。 掘りたてのタケノコはアクを全く感じなくて美味しいものである。
Uさんが摘み、 I 氏が運び届けてくれた山菜を写真に撮ってみた。
下の写真が頂いたワラビである。 ワラビもアク抜きをしなければならないが、昔の人たちは草木灰の上澄み液を用いていた。 草木灰は農業肥料として用いられてきたがアルカリ性の強いカリ肥料であり土壌改良材としても使われてきており炭酸カリウムが主成分である。
現代ではそうした草木灰汁でなく重曹と呼ぶ炭酸水素ナトリウムを用いてアク抜きするのが殆どである。 いずれもアルカリによってワラビ表面の細胞壁を溶かし、主として苦みなどの不味成分を溶出しやすくさせているのだ。 だからアク抜きの際には重曹の量や処理時間を加減しないと折角のワラビもズルズルドロドロの状態になるだろう。 そんな状態のワラビを見たことはないが、アク抜きの処理液のpHが高いほどワラビ組織の軟化が促進され、灰液>灰木液>木灰上澄液>重曹液>水道水の順に高くなるという実験報告(畑 明美、京府大名誉教授)が日本調理科学会誌に掲載されている。
次の写真はタラの芽である。 タラの木肌は灰色っぽく、その木肌全面に棘があって触るとイタイイタイ木である。 冬場に羽状の葉を全て落とし、翌春枝先の芽をふくらませるのだが、私たちはその新芽を摘み取って湯がいたり天ぷらにして食べる。
山菜料理なるものがブームになって随分になるが、そのためか早春の頃より山へ入る人をよく見かけるようになった。 このことは別に責めることではないが、タラの芽の全てを摘んでしまう人や、ワラビやゼンマイなど手当たり次第全て摘んでしまう人が中にいるのは残念なことである。 翌年のため、或いは他の人たちのことも考えてほしいと私は思うのだが、山菜摘みに限らず何だか世知辛い世の中になったものだ。
私が子どもの頃には山菜などというものは言葉も含めて身の回りには無かった。(と思う)
大阪の町中のことで市場に野菜があるだけ。 その他の植物は単に草と呼んだりツクシやタンポポなど特定のものだけは植物の名前で呼んでいた。 ツクシやタンポポなどが山菜の範疇に入るのかどうか知らないが新淀川の堤防や大阪市の周辺域(現在の堺市、八尾市、東大阪市など)では多く見られた。
戦時中は食糧も無くサツマイモどころかイモのツルまで食べたことを聞かされ知っていたが、ツクシやタンポポも食べられることを知り、小学校の5年生の頃だったと思うがタンポポは湯がいて、ツクシはハカマを取って炒め、塩とコショウだったか醤油だったかで味付けて何度か食べたことがあった。 特段に美味しいとも思わなかったが、食材の量に対して出来上がった量が余りにも少ないことにショックを受けたものだった。
私が山菜という名前に接し、同時に東北地方を訪ねてみたいと思うきっかけになったのが、太宰治の作品『津軽』を読んだことからだった。 太宰治は青森県津軽半島・五所川原の金木の出身である。 作品では東京に住んでいた私(津島修治=太宰治)が帰郷して津軽の各地を紹介する内容になっているのだが、「津軽半島の梵珠山脈は、(略)山菜の豊富をもって知られているのである。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類いが、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。」と書いているのである。
これに触発され(でもないが)昭和37年だったか、上野駅から東北本線の急行で仙台へ向かう途中、いよいよ『みちのく』へ入って行くという栃木県の黒磯駅で『なめこ汁』を味わったのが私の山菜というイメージの中での最初のものであった。
写真は、こごみ。 シダの仲間であるが、クルクル巻いた部分が伸びて成長するとソテツのような葉を茂らせるので草蘇鉄という名前を持つ植物である。 写真のような状態のものはアクがなく、サッと湯がくだけで酢味噌でもポン酢などでも美味しく食べることができる。 少しヌメリ感のある食感や鮮やかな緑は将に春を食す満足感に浸らせてくれるものだ。
さて、山菜とは山に自生する野菜と広辞苑にはある。 しかし、昨今大概のものが栽培されているので自生という言葉で括ってしまうと山菜と呼べるものが無くなってしまうのではと思える。 太宰が例に挙げたもののうち、ゼンマイ(乾燥)、タケノコ、フキは私が小学生の頃に食べているし、キノコでは松茸はよく食べたしシイタケも乾燥したものだがこれもよく食べた。 だから昭和37年頃に私が思い描いていた山菜というのは、山に自生する野菜であって商品として多く流通しない、更に田舎・山・谷・渓流などを思い浮かべさせるようなものに限定していたように思うのだ。
ここに写真で示したフキノトウ、ワラビ、タラの芽、こごみ、こういったものは未だ大量に栽培され流通していないものだと思う。 つまり、私にとっての山菜のイメージに合致するものであり、これらを摘み取ってきて頂いたUさんには、その労力や、喜ばせてやろうという気持ちも含め感謝の気持ちでいっぱいなのである。 重ねてUさん「ありがとう」。 そして、新鮮な摘み取って直ぐの状態で運び届けてくれた I 氏にも感謝する。 誠に有難いことである。 ≪深謝≫