May 2012
May 29, 2012
対馬を巡る (1)
さて、これまでJR九州のビートルで何度となく福岡・釜山間を往復してきた。 天気の良い時には、その都度対馬の島影を遠くに眺めてきたけど訪れたことがなかった。
博多から壱岐まではビートルと同じ高速船(ジェットフォイル)で行ったことがある。 博多の友人 T君が壱岐出身なので島内を案内してもらってフェリーで帰ってきたことがある。 高速船だと所要時間が1時間10分だがフェリーだと倍の2時間20分。 この時は夏で、しかも日曜日だったため帰りのフェリーが海水浴客などで満員だった。 そのため博多までの2時間20分は大変な苦痛で、壱岐よりも更に遠い対馬へは行こうと思わなかったのである。
ところがビートルによる『対馬・釜山航路』が開設されたので、それなら韓国からの帰り道に寄れると思ったのと、旧正月に入る釜山にいても殆どの店が休みになるならツマランので、ソルラルに入る1月22日に対馬へ移動しようと考えたのだ。
先ず訪れたのが殿崎の『日露友好の丘』。 写真は『日本海々戦記念碑』で明治44年に地元の人たちによって建立されたもので、碑の上部には東郷平八郎元帥揮毫で『恩海義嶠』(恵みの海、義は高しと読むらしい)と彫られている。
以前、福岡県の宗像大社を参詣した折、宗像大社と言うのは市杵島(いちきしま)姫神が祭祀され宗像大神が降臨されたと伝えられる高宮斎場のある本宮の辺津宮、それに大島の湍津(たぎつ)姫神を祭祀する中津宮、そして遥か沖合いにある沖ノ島で田心(たごり)姫神を祭祀している沖津宮の三つの宮の総称であることを書いた。
私が宗像からフェリーで大島に渡り中津宮を参拝した時のことだが、その折のブログで司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』に登場する佐藤市五郎のことも紹介した。 その日、彼は沖ノ島で神官と共に神様への奉仕をしていたのだが、「濛気がピカッと輝いて消えた。そのあと、身のすくむような砲声がきこえた。(略)砲声が矢つぎばやにひびいた。」と、日本海海戦の火ぶたが切って落とされるのを耳にしたのである。
この海戦における砲火の音は対馬の人たちの耳にも届いていた。
1905年(明治38年)、この対馬沖で大日本帝国海軍連合艦隊とロシア・バルチック艦隊の戦い、いわゆる日本海海戦が行われた。 韓国、対馬、壱岐、九州、合わせて沖ノ島もだが、これらがどのような位置関係にあるのか再確認するため上に日本海海戦の概略図を描いてみた。 海戦史を時系列に図示するほどのこともないので1枚にまとめたが・・・
この海戦における連合艦隊の圧倒的勝利がアメリカ・ポーツマス講和会議の開催と日本全権で外務大臣・小村寿太郎による交渉妥結への大きい後押しとなったことは周知の通りである。 余談だが、小村寿太郎がRat Ministerとあだ名されるほど小柄な男であったことは知っていたが、昨年、宮崎県飫肥の小村寿太郎記念館を訪れ、等身大パネルと並んでみて「こんなに小さかったのか。」と驚いたものだった。
話を戻すが、左の写真は2005年にロシア政府が建立した『日露慰霊の碑』で日本海海戦で亡くなったロシア人兵士5000人余、日本人兵士100人余の名前が刻まれている。
写真左側には先に紹介した『日本海々戦記念碑』も並んで写っているが、この海戦の際、撃沈されたバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名が4隻のボートに分乗して、この地に上陸したのだとか。 この戦況を見守りながら農作業をしていた農婦は命からがら逃げ延びてきた水兵たちを水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど手厚く持て成したそうな。 『日本海々戦記念碑』の東郷連合艦隊司令長官揮毫による『恩海義嶠』は、対馬の農婦たちによる敵味方区別なき対応に感動してのものらしい。
左の写真は、上の二つの碑と同じ『日露友好の丘』に建てられている友好と平和のレリーフ。
日本海海戦で敗れたバルチック艦隊の司令長官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は負傷し捕虜となって長崎・佐世保の海軍病院に入院していた。レリーフはロジェストヴェンスキー提督と彼を見舞う東郷平八郎大将を描いている。
対馬で一般道(都会での)と呼べるのは北の端と南の端を結ぶ国道382号線だけと思って良いかも。 県道の39号48号56号などもあるが、訪れたい立ち寄ってみたいと思う所へ繋がっている道は農道と言った程度。 実際、日常生活において広い道路の必要性を感じない対馬であるように思う。 私のように、たまたま対馬に立ち寄った観光客の一人としては便利で効率よく巡れる道路があればと思ったりするが、これは単なる欲。 便利さを求めたら必ず他を犠牲にしなければならないのは自明の理。 自然破壊、環境破壊という言葉が思い浮かぶ。
写真は対馬の北端の丘の上にある豊砲台跡。
この砲台は昭和4年から5年かけて完成したもので、45口径、砲身18.5mのカノン砲2門が据えられたらしい。 説明板によると世界最大の巨砲だったらしいが、実戦には1発の弾丸を発射することもなく終戦を迎え、昭和20年10月にアメリカ軍の爆破班によって解体されたということだ。
説明板の結びで、上対馬町は「このような施設が二度と再び造られる時代のこないよう、人類永遠の平和を切望し、昭和59年12月現状に復した。」と記しているが、日本国憲法を遵守しなければならない町としては当然の記述であろう。
ところで、写真の通り説明板では黒塗りの・・・何だか戦後の教科書のような。
この黒塗り部分の記述は『大正10年国際連盟軍縮条約により、戦艦「長門」が廃艦となり、その主砲を移管改造したもので』なのだが、何ゆえ黒塗りになっているのか、上対馬町が何らかの記述上の過ちを犯していたのか、それとも何者かが塗ったものなのか、黒塗りに対する説明がないのはイカン(遺憾)ねえ。 ははははは、ダジャレのひとつぐらいはいいか。
内部には濾過水槽などが残っており、砲台跡内を一巡することができる。 百聞は一見にしかずと言うが、砲台跡の規模は実際に回ってこないと実感しないだろう。 デッカイ施設であったのだと改めて思った。
そうそう、砲台跡入口の白い軽自動車が今回2泊3日で借りた車。
あちこち見て回り写真も沢山撮ったけれど、適当に割愛して先に進めることにする。
この豊砲台跡では会わなかったが、行く先々で韓国人の異なる旅行団体に遭遇した。 私よりも早いビートルで出発した人たちだろうか。 旧正月の有り様が変わってきたのかもしれないと書いたが、ソルラルの3日間の休みを旅行で楽しむ人たちが増えているのかもしれない。
しかし、何と言っても釜山からジェットフォイルの高速艇で1時間の航程である。 国境の島ではあるが、交通の便利さから言えば国境を意識しない島になってきているのかも。 実際には私は知らないが、韓国人が対馬の土地をどんどん買い進めているという週刊誌の見出しを見たことがある。
下の写真は鰐浦の韓国展望所からの眺め。
晴れていたら前方の海栗島の向こうに韓国・釜山あたりを望むことが出来るらしい。 夜間なら煌々とした街明かりが見えるのだと。
前方の海栗島を拡大すると航空自衛隊海栗島分屯基地がよく見える。
上の写真は、『対馬市観光物産推進本部』と『対馬観光物産協会』が発行している『対馬ガイドブック』より引用した。
私が撮影した昼間の写真と『対馬ガイドブック』の夜景が共に航空自衛隊海栗島分屯基地のレーダーサイトを捉えているのが確認できると思う。 夜景の水平線上に見える陸影と明かりが韓国・釜山市のものである。
朝鮮海峡を挟み、航空自衛隊海栗島分屯基地は将に国境での防衛最前線基地であることが分かる。
韓国展望所というのは鰐浦の小さな漁港を見下ろす丘の上にあるのだが、この丘への登り口には韓国風の門が道路をまたぐように建てられ、丘の上に建つ展望所も又然り。 いかに韓国を展望できる場所だからと言っても、これはやり過ぎではないかと・・・ 対馬は日本なのだから。
などと思いつつ10数人の旅行グループが去ってから写真を撮ったのだが、このグループも韓国からの来訪者であった。
この展望所の丘には朝鮮国訳官使殉難之碑が建てられている。
日本と朝鮮の交流は先史からあったが、朝鮮通信使の来訪という国家間の外交儀礼も豊臣秀吉の朝鮮侵略の時期を除き、室町時代から江戸時代末期まで続いた。 江戸期の朝鮮通信使は朝鮮の富山浦(現在の釜山)を出航してから日本の対馬、壱岐、筑前へ、そして長州から山陽道、東海道経由で江戸へ向かうコースをたどり、沿道にあたる対馬藩では宗氏が、壱岐では平戸藩の松浦氏、筑前では黒田氏が徳川将軍の賓客を迎えるというので大名以下丁重な接待を行ってきた。
1703年(元禄16年)2月5日の朝、108人を乗せた船が富山浦から対馬に向けて出航したが、天候が急変して鰐浦(韓国展望所下の集落)を目前に遭難し全員が亡くなってしまった。
朝鮮国訳官使殉難之碑は、朝鮮通信使が友好のための国家間の正式な交流であることを踏まえて平成3年(1991)に建立されたものである。
殉難之碑の前には朝鮮通信使の船を彫った石が置かれ、遭難した人たちの名前が刻まれた碑もある。
ここまで書いてきたように対馬へは韓国・釜山から僅か1時間で来れるのである。 同じ大都市・福岡からだと2時間かかる。 たまたま韓国は旧正月で三連休ということもあったと思うが、この日、連休ではないにしても日本も日曜日であった。 しかし、この時点まで日本人の観光客には一人も出会っていない。 こうしたことから考えれば対馬の観光が韓国向けに傾いても仕方がないかなあと、対馬へやってきて僅か数時間で思ったことである。
博多から壱岐まではビートルと同じ高速船(ジェットフォイル)で行ったことがある。 博多の友人 T君が壱岐出身なので島内を案内してもらってフェリーで帰ってきたことがある。 高速船だと所要時間が1時間10分だがフェリーだと倍の2時間20分。 この時は夏で、しかも日曜日だったため帰りのフェリーが海水浴客などで満員だった。 そのため博多までの2時間20分は大変な苦痛で、壱岐よりも更に遠い対馬へは行こうと思わなかったのである。
ところがビートルによる『対馬・釜山航路』が開設されたので、それなら韓国からの帰り道に寄れると思ったのと、旧正月に入る釜山にいても殆どの店が休みになるならツマランので、ソルラルに入る1月22日に対馬へ移動しようと考えたのだ。
先ず訪れたのが殿崎の『日露友好の丘』。 写真は『日本海々戦記念碑』で明治44年に地元の人たちによって建立されたもので、碑の上部には東郷平八郎元帥揮毫で『恩海義嶠』(恵みの海、義は高しと読むらしい)と彫られている。
以前、福岡県の宗像大社を参詣した折、宗像大社と言うのは市杵島(いちきしま)姫神が祭祀され宗像大神が降臨されたと伝えられる高宮斎場のある本宮の辺津宮、それに大島の湍津(たぎつ)姫神を祭祀する中津宮、そして遥か沖合いにある沖ノ島で田心(たごり)姫神を祭祀している沖津宮の三つの宮の総称であることを書いた。
私が宗像からフェリーで大島に渡り中津宮を参拝した時のことだが、その折のブログで司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』に登場する佐藤市五郎のことも紹介した。 その日、彼は沖ノ島で神官と共に神様への奉仕をしていたのだが、「濛気がピカッと輝いて消えた。そのあと、身のすくむような砲声がきこえた。(略)砲声が矢つぎばやにひびいた。」と、日本海海戦の火ぶたが切って落とされるのを耳にしたのである。
この海戦における砲火の音は対馬の人たちの耳にも届いていた。
1905年(明治38年)、この対馬沖で大日本帝国海軍連合艦隊とロシア・バルチック艦隊の戦い、いわゆる日本海海戦が行われた。 韓国、対馬、壱岐、九州、合わせて沖ノ島もだが、これらがどのような位置関係にあるのか再確認するため上に日本海海戦の概略図を描いてみた。 海戦史を時系列に図示するほどのこともないので1枚にまとめたが・・・
この海戦における連合艦隊の圧倒的勝利がアメリカ・ポーツマス講和会議の開催と日本全権で外務大臣・小村寿太郎による交渉妥結への大きい後押しとなったことは周知の通りである。 余談だが、小村寿太郎がRat Ministerとあだ名されるほど小柄な男であったことは知っていたが、昨年、宮崎県飫肥の小村寿太郎記念館を訪れ、等身大パネルと並んでみて「こんなに小さかったのか。」と驚いたものだった。
話を戻すが、左の写真は2005年にロシア政府が建立した『日露慰霊の碑』で日本海海戦で亡くなったロシア人兵士5000人余、日本人兵士100人余の名前が刻まれている。
写真左側には先に紹介した『日本海々戦記念碑』も並んで写っているが、この海戦の際、撃沈されたバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名が4隻のボートに分乗して、この地に上陸したのだとか。 この戦況を見守りながら農作業をしていた農婦は命からがら逃げ延びてきた水兵たちを水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど手厚く持て成したそうな。 『日本海々戦記念碑』の東郷連合艦隊司令長官揮毫による『恩海義嶠』は、対馬の農婦たちによる敵味方区別なき対応に感動してのものらしい。
左の写真は、上の二つの碑と同じ『日露友好の丘』に建てられている友好と平和のレリーフ。
日本海海戦で敗れたバルチック艦隊の司令長官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は負傷し捕虜となって長崎・佐世保の海軍病院に入院していた。レリーフはロジェストヴェンスキー提督と彼を見舞う東郷平八郎大将を描いている。
対馬で一般道(都会での)と呼べるのは北の端と南の端を結ぶ国道382号線だけと思って良いかも。 県道の39号48号56号などもあるが、訪れたい立ち寄ってみたいと思う所へ繋がっている道は農道と言った程度。 実際、日常生活において広い道路の必要性を感じない対馬であるように思う。 私のように、たまたま対馬に立ち寄った観光客の一人としては便利で効率よく巡れる道路があればと思ったりするが、これは単なる欲。 便利さを求めたら必ず他を犠牲にしなければならないのは自明の理。 自然破壊、環境破壊という言葉が思い浮かぶ。
写真は対馬の北端の丘の上にある豊砲台跡。
この砲台は昭和4年から5年かけて完成したもので、45口径、砲身18.5mのカノン砲2門が据えられたらしい。 説明板によると世界最大の巨砲だったらしいが、実戦には1発の弾丸を発射することもなく終戦を迎え、昭和20年10月にアメリカ軍の爆破班によって解体されたということだ。
説明板の結びで、上対馬町は「このような施設が二度と再び造られる時代のこないよう、人類永遠の平和を切望し、昭和59年12月現状に復した。」と記しているが、日本国憲法を遵守しなければならない町としては当然の記述であろう。
ところで、写真の通り説明板では黒塗りの・・・何だか戦後の教科書のような。
この黒塗り部分の記述は『大正10年国際連盟軍縮条約により、戦艦「長門」が廃艦となり、その主砲を移管改造したもので』なのだが、何ゆえ黒塗りになっているのか、上対馬町が何らかの記述上の過ちを犯していたのか、それとも何者かが塗ったものなのか、黒塗りに対する説明がないのはイカン(遺憾)ねえ。 ははははは、ダジャレのひとつぐらいはいいか。
内部には濾過水槽などが残っており、砲台跡内を一巡することができる。 百聞は一見にしかずと言うが、砲台跡の規模は実際に回ってこないと実感しないだろう。 デッカイ施設であったのだと改めて思った。
そうそう、砲台跡入口の白い軽自動車が今回2泊3日で借りた車。
あちこち見て回り写真も沢山撮ったけれど、適当に割愛して先に進めることにする。
この豊砲台跡では会わなかったが、行く先々で韓国人の異なる旅行団体に遭遇した。 私よりも早いビートルで出発した人たちだろうか。 旧正月の有り様が変わってきたのかもしれないと書いたが、ソルラルの3日間の休みを旅行で楽しむ人たちが増えているのかもしれない。
しかし、何と言っても釜山からジェットフォイルの高速艇で1時間の航程である。 国境の島ではあるが、交通の便利さから言えば国境を意識しない島になってきているのかも。 実際には私は知らないが、韓国人が対馬の土地をどんどん買い進めているという週刊誌の見出しを見たことがある。
下の写真は鰐浦の韓国展望所からの眺め。
晴れていたら前方の海栗島の向こうに韓国・釜山あたりを望むことが出来るらしい。 夜間なら煌々とした街明かりが見えるのだと。
前方の海栗島を拡大すると航空自衛隊海栗島分屯基地がよく見える。
上の写真は、『対馬市観光物産推進本部』と『対馬観光物産協会』が発行している『対馬ガイドブック』より引用した。
私が撮影した昼間の写真と『対馬ガイドブック』の夜景が共に航空自衛隊海栗島分屯基地のレーダーサイトを捉えているのが確認できると思う。 夜景の水平線上に見える陸影と明かりが韓国・釜山市のものである。
朝鮮海峡を挟み、航空自衛隊海栗島分屯基地は将に国境での防衛最前線基地であることが分かる。
韓国展望所というのは鰐浦の小さな漁港を見下ろす丘の上にあるのだが、この丘への登り口には韓国風の門が道路をまたぐように建てられ、丘の上に建つ展望所も又然り。 いかに韓国を展望できる場所だからと言っても、これはやり過ぎではないかと・・・ 対馬は日本なのだから。
などと思いつつ10数人の旅行グループが去ってから写真を撮ったのだが、このグループも韓国からの来訪者であった。
この展望所の丘には朝鮮国訳官使殉難之碑が建てられている。
日本と朝鮮の交流は先史からあったが、朝鮮通信使の来訪という国家間の外交儀礼も豊臣秀吉の朝鮮侵略の時期を除き、室町時代から江戸時代末期まで続いた。 江戸期の朝鮮通信使は朝鮮の富山浦(現在の釜山)を出航してから日本の対馬、壱岐、筑前へ、そして長州から山陽道、東海道経由で江戸へ向かうコースをたどり、沿道にあたる対馬藩では宗氏が、壱岐では平戸藩の松浦氏、筑前では黒田氏が徳川将軍の賓客を迎えるというので大名以下丁重な接待を行ってきた。
1703年(元禄16年)2月5日の朝、108人を乗せた船が富山浦から対馬に向けて出航したが、天候が急変して鰐浦(韓国展望所下の集落)を目前に遭難し全員が亡くなってしまった。
朝鮮国訳官使殉難之碑は、朝鮮通信使が友好のための国家間の正式な交流であることを踏まえて平成3年(1991)に建立されたものである。
殉難之碑の前には朝鮮通信使の船を彫った石が置かれ、遭難した人たちの名前が刻まれた碑もある。
ここまで書いてきたように対馬へは韓国・釜山から僅か1時間で来れるのである。 同じ大都市・福岡からだと2時間かかる。 たまたま韓国は旧正月で三連休ということもあったと思うが、この日、連休ではないにしても日本も日曜日であった。 しかし、この時点まで日本人の観光客には一人も出会っていない。 こうしたことから考えれば対馬の観光が韓国向けに傾いても仕方がないかなあと、対馬へやってきて僅か数時間で思ったことである。
May 27, 2012
釜山から対馬へ BEETLE『対馬・釜山航路』
韓国では旧暦も使うので、新暦の1月1日と旧暦の元日(今年は1月23日)の前後3日間、つまり今年は1月22日から24日が旧正月であった。
韓国では旧正月をソルラルと言い、全国一斉に正月を祝う。 ソウル、大田、大邱、釜山などの都会で働いている人たちは一斉に故郷へ帰り、街中の商店もほとんどが店を閉めてしまうのである。
何年前だったか韓国のソルラルを見てみたいと釜山を訪れたが、真昼間だと言うのに走る車が少なく道路はがら空きで普段の渋滞はウソのようであったし、商店はシャッターを下ろして人通りもなく、大都市・釜山が死んでしまったかと街中を歩いていて気持ちが悪いくらいであった。 この時は幸いと言うべきか風邪をひいて西面のロッテ・ホテルで寝込んでいたため商店の休業で影響を受けることはなかった。 もっとも薬局も閉まっていたため、ホテルの向かいには何軒も薬局があるのだが薬を買えず、これには困ってしまった。
ともあれ今日は22日、例年なら故郷へ帰る人たちの大移動の日だが21日が土曜日だったので移動が分散したかもしれない。
写真はホテル・フェニックスの朝食(韓定食)。 ミール・チケットに差額を支払わねばならないが、どんなものを提供するのか注文してみた。
辛くないトゥブチゲ、うーん、ただの豆腐の味噌汁と言うべきかな。汁ものとしてワカメ汁もある。根菜の煮物、キノコの和え物、韓国のり、小海老の天ぷら風揚げ物、モヤシのナムル、白菜キムチ、開いた海老の天ぷら、イシモチの煮付け、目玉焼き、牛カルビの煮込み(カルビチム)、それにご飯である。 感想を書けば・・・特には無いが、ご飯、味噌汁、だし巻ではないが目玉焼きが付いていたので、まあ良しと言ったところかな。
ホテルをチェックアウトして南浦洞の町を歩いてみたがロッテ・スーパーやコンビニ、それにチャガルチ市場の魚屋も店を開けている所が何軒かあったし、歩いている人たちの数も少なくは無かった。 何年か前の南浦洞や西面の町とは明らかに雰囲気が変わっていた。 ソルラルの過ごし方も時代とともに少しずつ変化してきているのかもしれないと感じた。
今回の韓国行きの目的のひとつだが、昨年10月に韓国・釜山と長崎県・対馬(比田勝港)を結ぶ『対馬・釜山航路』のビートルに乗船するということがあった。 飛行機に乗るのが余り好きではない私にとって、福岡(博多)・釜山間を3時間で結ぶビートルは韓国への足として最良の交通機関であり、これまで飛行機以上に利用してきた。
今回の韓国行を思い立った時点では、福岡(博多)・釜山、そして釜山からの帰路に対馬で途中下車ならぬ途中下船して福岡(博多)に帰るという往復チケットを購入するつもりでいたのだが、『対馬・釜山航路』は『福岡(博多)・釜山航路』とは別の単独航路であることが分かった。 それで今回は福岡(博多)・釜山の片道、そして釜山・対馬(比田勝港)の片道をビートルに乗船し、対馬を観光して対馬(厳原港)からは九州郵船のジェットフォイルで福岡(博多)に帰ることにしたのである。
対馬行きのビートルの発船は12時だから11時には釜山国際旅客ターミナルへ行かねばならない。 が、実際には10時過ぎに到着してしまった。 1階に釜山銀行があるので窓口で韓国通貨を日本通貨に両替をし、午後便なら3階の伽耶会館で焼肉とビールで時間を過ごしたのだが、今朝はご飯を食べて時間が経っていない、本でもあればと思うがハングル文字ばかりでは、と、2階の椅子に腰かけてぼんやりと時を過ごしていた。
私がターミナル・ビルに入った時から2階フロアの各所に韓国人の団体旅行客がグループで集まっていたのだが、10時半になって20人ぐらいの韓国人グループが数組、添乗員に連れられて2階フロアへやってきた。 たちまち私の周りに彼らと彼らのラッゲージが置かれ、私は彼らの中に埋没してしまった。
釜山国際旅客ターミナルを出港する船はカメリア、これは夜になってからで、ビートル或いはコピー(韓国)がほぼ1時間おきに出航する。 この大人数がビートルで同じ船だと窮屈だなあと思いつつ発券時刻を待った。
発券窓口のお嬢さんは韓国人のようであった。 なまりの強い日本語ではあるが、会話するのに支障はない。 「〇〇さんは65歳以上ですから1割引きになります。」だと。 僅かな金額であっても割引と言われると何だかものすごく得をしたような気分になるもので嬉しかった。
乗船券を手にしたので出国ブースへ。 手荷物等の検査を受け、旅券に出国の印を押してもらえば後は乗船を待つだけ。 空港ほど広くも大きくもないがデューティフリーの店もある。 韓国内ロッテ・デパートなどで買った品物を受け取るカウンターもあるし、喫煙ルームもある。
ところが出国の待合ロビーにいた韓国人グループもその他誰ひとりとして出国ゲートを出てくる人がいないのだ。 これにはちょっと拍子抜け。
ビートルのチェックインを担当するお嬢さんにお願いして写真を撮らせてもらった。 背の高いベッピンさんでチマ&チョゴリがよく似合っている。
彼女たちに他の乗船客のことを尋ねると、9時だか10時だかの便で出発し、12時出航のビートルの客は私一人なのだと。
何と、一瞬驚き喜んだもののJR九州高速船の経営は大丈夫なんかいなあと他人事ながら少々心配になってしまった。
そこへビートルのスタッフが一人やってきて私のラッゲージを運びましょうと船まで持ってくれた。 ビートルは何度も利用しているが荷物を運んでもらうのは初めてであった。 スタッフと言っても50過ぎの小柄な男性なので、こちらの方が気を遣う有様で申し訳なく有難い思いであった。 深謝
ところで天候だが、韓国を去るようになって写真の通り上天気。 韓国滞在中はずっと雪か雨かばかりだった。 しかし、このお天気である。 釜山・対馬(厳原港)間わずか1時間(1時間10分)航程であるが穏やかな航海となった。
対馬の北端を眺めながらビートルは南下し、やがて比田勝港の沖合から進路を西へ取り比田勝の入江に入っていく。 下の写真に今夜の宿である花海荘(かみそう)の建物が右手の丘の上に見える。
それにしてもビートルの1階2階席合わせて200人の定員だが、そこへ私一人。 船長その他スタッフが6人はいるだろうが、誰が何人乗船しようとスタッフの人数は変わらないであろう。 総理大臣が乗船するとなれば、官房長官、秘書官、護衛官に当該管区警察からの応援警備が入って数十人規模になるだろうから、将に大臣待遇以上であったと言える。 ぶっははははは
下はビートルが比田勝港に向かう途中の写真。 船の右手に花海荘が見える。
ビートルが比田勝港に着岸すると荷物を持って入国審査を受けることになる。 小さな港だから入国審査から税関まで全てが小振りではあるが、税関では4人だか5人だかの担当官が出て来ていた。 しかし検査対象は私一人である。 若い担当官2人が検査台上のラッゲージと土産の韓国海苔の大きい段ボール函を見ながら質問してくる。 実務研修に派遣されているのか、彼らを見ていると熱心に質問してくる学生のように可愛く思え、ラッゲージの中を見せてくれますかと言われた時も、「ハイハイ、どうぞどうぞ。」と、とても気分良く開いて見せた。
こう言うのも何だが、端から気分が悪いと言うか生理的に我慢出来ん奴というのが男であれ女であれいるものなのだ。 税関職員は『お上の御用』をしているのだと言わんばかりの横柄な態度に物言いをする奴が。
密輸をするなど確かに悪い連中もいるのだろう。 しかし、圧倒的多数は善良な国民であることを念頭に職務に専念してもらわないことには端から性悪説の立場で帰国してくる人を見てもらっては困る。 決して卑屈になる必要はない。 が、公務を遂行する立場の者と公務遂行に協力する立場の者が互いに気持ち良く接っするための努力は税関職員も積むことが大切だと帰国時に思うことがよくあった。
さて、公務と言えば税関の出口の所まで来ていた長崎県警の若い私服警官が一人いた。 比田勝にいて普段も私服で従事し、船が入港するとやってくるのだとか。 若い人は都会に憧れて中央へ出たがるものだが、地元の長崎で就職し、対馬で職務に励んでいるという。 両親も嬉しく誇りに思っているだろう。
対馬は南北に長く結構面積も広い。 しかし観光するとなるとバス便が悪く動きまわるのに便利なように港から少し歩いた所にある対馬レンタカーで車を借りることにしておいた。 車は軽自動車だが私一人が乗るだけだし、島のことゆえ道幅も広くはないだろうからと決めておいたのだ。
それで、車を借りて先ず宿にチェックインし、荷物を部屋に置くため宿に向かった。 上の写真は部屋からの景色である。 写真を合成したので水平線と下部が歪(いびつ)になっているが、島の形や海の水の色は写真の通りに綺麗な眺めであった。
荷物を置いて港へ戻ってきたら私が乗ってきたビートルが釜山港へ戻っていくところであった。 客はゼロのように見え、ちょっと侘しい気持ちで出航するのを見送っていたら、先ほどの私服警官に又会ってしまった。
船が出入りするたびに来るのだと彼は言っていた。 ここは国境の島なのである。 しかも比田勝港は小さいとは言え隣国・韓国に最も近い国際港であり、その距離わずか49.5km、ジェットフォイル船で1時間で行けるのである。 彼は長崎県警の警察官であると言っていたから多分警備で外事か公安に所属しているのだろう。
写真は殿崎(右)と舌崎(左)に囲われた三宇田海水浴場(左端)である。 海の色が美しい。
この美しい対馬の国境がフェンスで囲われているわけではない。 対馬は東西18km南北82km、大きくは上と下の二つの島から成り立っていると言って良い。 その何処からでも侵入する気になれば入り込む場所は幾つでもあると実際に対馬を車で走ってみて思った。
この対馬の海域では密漁、密輸、密航が多いという。 最前線で体を張ってるのは海上保安庁、入国管理局(入管)、長崎県警の人たちであり、彼も比田勝港やその他の場所で公務に精を出しているのだと思う。 地味な仕事かもしれないが今後も頑張ってもらいたいと切に願う。
韓国では旧正月をソルラルと言い、全国一斉に正月を祝う。 ソウル、大田、大邱、釜山などの都会で働いている人たちは一斉に故郷へ帰り、街中の商店もほとんどが店を閉めてしまうのである。
何年前だったか韓国のソルラルを見てみたいと釜山を訪れたが、真昼間だと言うのに走る車が少なく道路はがら空きで普段の渋滞はウソのようであったし、商店はシャッターを下ろして人通りもなく、大都市・釜山が死んでしまったかと街中を歩いていて気持ちが悪いくらいであった。 この時は幸いと言うべきか風邪をひいて西面のロッテ・ホテルで寝込んでいたため商店の休業で影響を受けることはなかった。 もっとも薬局も閉まっていたため、ホテルの向かいには何軒も薬局があるのだが薬を買えず、これには困ってしまった。
ともあれ今日は22日、例年なら故郷へ帰る人たちの大移動の日だが21日が土曜日だったので移動が分散したかもしれない。
写真はホテル・フェニックスの朝食(韓定食)。 ミール・チケットに差額を支払わねばならないが、どんなものを提供するのか注文してみた。
辛くないトゥブチゲ、うーん、ただの豆腐の味噌汁と言うべきかな。汁ものとしてワカメ汁もある。根菜の煮物、キノコの和え物、韓国のり、小海老の天ぷら風揚げ物、モヤシのナムル、白菜キムチ、開いた海老の天ぷら、イシモチの煮付け、目玉焼き、牛カルビの煮込み(カルビチム)、それにご飯である。 感想を書けば・・・特には無いが、ご飯、味噌汁、だし巻ではないが目玉焼きが付いていたので、まあ良しと言ったところかな。
ホテルをチェックアウトして南浦洞の町を歩いてみたがロッテ・スーパーやコンビニ、それにチャガルチ市場の魚屋も店を開けている所が何軒かあったし、歩いている人たちの数も少なくは無かった。 何年か前の南浦洞や西面の町とは明らかに雰囲気が変わっていた。 ソルラルの過ごし方も時代とともに少しずつ変化してきているのかもしれないと感じた。
今回の韓国行きの目的のひとつだが、昨年10月に韓国・釜山と長崎県・対馬(比田勝港)を結ぶ『対馬・釜山航路』のビートルに乗船するということがあった。 飛行機に乗るのが余り好きではない私にとって、福岡(博多)・釜山間を3時間で結ぶビートルは韓国への足として最良の交通機関であり、これまで飛行機以上に利用してきた。
今回の韓国行を思い立った時点では、福岡(博多)・釜山、そして釜山からの帰路に対馬で途中下車ならぬ途中下船して福岡(博多)に帰るという往復チケットを購入するつもりでいたのだが、『対馬・釜山航路』は『福岡(博多)・釜山航路』とは別の単独航路であることが分かった。 それで今回は福岡(博多)・釜山の片道、そして釜山・対馬(比田勝港)の片道をビートルに乗船し、対馬を観光して対馬(厳原港)からは九州郵船のジェットフォイルで福岡(博多)に帰ることにしたのである。
対馬行きのビートルの発船は12時だから11時には釜山国際旅客ターミナルへ行かねばならない。 が、実際には10時過ぎに到着してしまった。 1階に釜山銀行があるので窓口で韓国通貨を日本通貨に両替をし、午後便なら3階の伽耶会館で焼肉とビールで時間を過ごしたのだが、今朝はご飯を食べて時間が経っていない、本でもあればと思うがハングル文字ばかりでは、と、2階の椅子に腰かけてぼんやりと時を過ごしていた。
私がターミナル・ビルに入った時から2階フロアの各所に韓国人の団体旅行客がグループで集まっていたのだが、10時半になって20人ぐらいの韓国人グループが数組、添乗員に連れられて2階フロアへやってきた。 たちまち私の周りに彼らと彼らのラッゲージが置かれ、私は彼らの中に埋没してしまった。
釜山国際旅客ターミナルを出港する船はカメリア、これは夜になってからで、ビートル或いはコピー(韓国)がほぼ1時間おきに出航する。 この大人数がビートルで同じ船だと窮屈だなあと思いつつ発券時刻を待った。
発券窓口のお嬢さんは韓国人のようであった。 なまりの強い日本語ではあるが、会話するのに支障はない。 「〇〇さんは65歳以上ですから1割引きになります。」だと。 僅かな金額であっても割引と言われると何だかものすごく得をしたような気分になるもので嬉しかった。
乗船券を手にしたので出国ブースへ。 手荷物等の検査を受け、旅券に出国の印を押してもらえば後は乗船を待つだけ。 空港ほど広くも大きくもないがデューティフリーの店もある。 韓国内ロッテ・デパートなどで買った品物を受け取るカウンターもあるし、喫煙ルームもある。
ところが出国の待合ロビーにいた韓国人グループもその他誰ひとりとして出国ゲートを出てくる人がいないのだ。 これにはちょっと拍子抜け。
ビートルのチェックインを担当するお嬢さんにお願いして写真を撮らせてもらった。 背の高いベッピンさんでチマ&チョゴリがよく似合っている。
彼女たちに他の乗船客のことを尋ねると、9時だか10時だかの便で出発し、12時出航のビートルの客は私一人なのだと。
何と、一瞬驚き喜んだもののJR九州高速船の経営は大丈夫なんかいなあと他人事ながら少々心配になってしまった。
そこへビートルのスタッフが一人やってきて私のラッゲージを運びましょうと船まで持ってくれた。 ビートルは何度も利用しているが荷物を運んでもらうのは初めてであった。 スタッフと言っても50過ぎの小柄な男性なので、こちらの方が気を遣う有様で申し訳なく有難い思いであった。 深謝
ところで天候だが、韓国を去るようになって写真の通り上天気。 韓国滞在中はずっと雪か雨かばかりだった。 しかし、このお天気である。 釜山・対馬(厳原港)間わずか1時間(1時間10分)航程であるが穏やかな航海となった。
対馬の北端を眺めながらビートルは南下し、やがて比田勝港の沖合から進路を西へ取り比田勝の入江に入っていく。 下の写真に今夜の宿である花海荘(かみそう)の建物が右手の丘の上に見える。
それにしてもビートルの1階2階席合わせて200人の定員だが、そこへ私一人。 船長その他スタッフが6人はいるだろうが、誰が何人乗船しようとスタッフの人数は変わらないであろう。 総理大臣が乗船するとなれば、官房長官、秘書官、護衛官に当該管区警察からの応援警備が入って数十人規模になるだろうから、将に大臣待遇以上であったと言える。 ぶっははははは
下はビートルが比田勝港に向かう途中の写真。 船の右手に花海荘が見える。
ビートルが比田勝港に着岸すると荷物を持って入国審査を受けることになる。 小さな港だから入国審査から税関まで全てが小振りではあるが、税関では4人だか5人だかの担当官が出て来ていた。 しかし検査対象は私一人である。 若い担当官2人が検査台上のラッゲージと土産の韓国海苔の大きい段ボール函を見ながら質問してくる。 実務研修に派遣されているのか、彼らを見ていると熱心に質問してくる学生のように可愛く思え、ラッゲージの中を見せてくれますかと言われた時も、「ハイハイ、どうぞどうぞ。」と、とても気分良く開いて見せた。
こう言うのも何だが、端から気分が悪いと言うか生理的に我慢出来ん奴というのが男であれ女であれいるものなのだ。 税関職員は『お上の御用』をしているのだと言わんばかりの横柄な態度に物言いをする奴が。
密輸をするなど確かに悪い連中もいるのだろう。 しかし、圧倒的多数は善良な国民であることを念頭に職務に専念してもらわないことには端から性悪説の立場で帰国してくる人を見てもらっては困る。 決して卑屈になる必要はない。 が、公務を遂行する立場の者と公務遂行に協力する立場の者が互いに気持ち良く接っするための努力は税関職員も積むことが大切だと帰国時に思うことがよくあった。
さて、公務と言えば税関の出口の所まで来ていた長崎県警の若い私服警官が一人いた。 比田勝にいて普段も私服で従事し、船が入港するとやってくるのだとか。 若い人は都会に憧れて中央へ出たがるものだが、地元の長崎で就職し、対馬で職務に励んでいるという。 両親も嬉しく誇りに思っているだろう。
対馬は南北に長く結構面積も広い。 しかし観光するとなるとバス便が悪く動きまわるのに便利なように港から少し歩いた所にある対馬レンタカーで車を借りることにしておいた。 車は軽自動車だが私一人が乗るだけだし、島のことゆえ道幅も広くはないだろうからと決めておいたのだ。
それで、車を借りて先ず宿にチェックインし、荷物を部屋に置くため宿に向かった。 上の写真は部屋からの景色である。 写真を合成したので水平線と下部が歪(いびつ)になっているが、島の形や海の水の色は写真の通りに綺麗な眺めであった。
荷物を置いて港へ戻ってきたら私が乗ってきたビートルが釜山港へ戻っていくところであった。 客はゼロのように見え、ちょっと侘しい気持ちで出航するのを見送っていたら、先ほどの私服警官に又会ってしまった。
船が出入りするたびに来るのだと彼は言っていた。 ここは国境の島なのである。 しかも比田勝港は小さいとは言え隣国・韓国に最も近い国際港であり、その距離わずか49.5km、ジェットフォイル船で1時間で行けるのである。 彼は長崎県警の警察官であると言っていたから多分警備で外事か公安に所属しているのだろう。
写真は殿崎(右)と舌崎(左)に囲われた三宇田海水浴場(左端)である。 海の色が美しい。
この美しい対馬の国境がフェンスで囲われているわけではない。 対馬は東西18km南北82km、大きくは上と下の二つの島から成り立っていると言って良い。 その何処からでも侵入する気になれば入り込む場所は幾つでもあると実際に対馬を車で走ってみて思った。
この対馬の海域では密漁、密輸、密航が多いという。 最前線で体を張ってるのは海上保安庁、入国管理局(入管)、長崎県警の人たちであり、彼も比田勝港やその他の場所で公務に精を出しているのだと思う。 地味な仕事かもしれないが今後も頑張ってもらいたいと切に願う。
May 26, 2012
韓国・慶州へのワンデー・トリップ (おわり)
慶州は、よく『屋根のない博物館』と称される。 それほどに遺跡・文化財がゴロゴロ転がるほどにあるという地域なのだ。 日本で例えるならば奈良のような所である。
以下、國立慶州博物館の展示品を紹介しながらワンデー・トリップのまとめとする。
写真は新石器時代の磨製石斧(蔚珍・厚浦里遺跡)≪國立慶州博物館カタログより≫
これは余談だが、奈良県の土地造成や土木・建築に関わる業者は工事を請け負った地区の地下に遺物・遺跡が出土しないよう工事着工前に真剣に祈るらしい。 この業者が祈る気持というのも分からなくはない。 工事中に土器等の遺物が出土したなら文化財保護法により届け出ることが義務付けられており、届出によって文化財担当官による試掘等の確認調査が行われ、遺跡らしいと判断されたなら更なる調査発掘作業に入ることとなる。
確認調査は早くても4~5日はかかり、通常1週間から2週間を目途としているが、この間の業者の工事はストップしなければならないし、確認調査の費用は工事請負の業者と施主の負担となるのだから真剣に祈るという気持ちも分かる。
写真は新石器時代の櫛目文土器(金泉・松竹里)≪國立慶州博物館カタログより≫
埋蔵文化財包蔵地として遺跡等が埋もれている可能性があるということを示した地図が建築課や文化財課にはあるはずだが、発掘される確率が高いという言わば占いのようなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦と同様なのである。 しかし、遺跡というのは平面的広がりを持つものだから、1坪程度の調査では済まない。 また地層には累重の法則があるように、新しい遺跡の下部に古い遺跡が重なっている場合もある。 更に、遺跡というのは予想し得ない所で発掘・発見される場合もある。
『金冠』(金冠塚・5世紀)≪國立慶州博物館カタログより≫
我が家は丘陵地の端に位置するが、谷あいになっている下の地域から棚田になっていた丘陵斜面の造成工事が年を追って徐々に行われてきた。 我が家の建つ丘陵一帯は松を含む雑木林だったが棚田耕作はそれ以前から行われていた。 ひな壇状の棚田を宅地に造成する工事がいよいよ我が家の下まできた或る日、工事現場を見た私の目に相当数の土器片が散らばっているのを確認したのだった。 我が家からは6mばかり下の現場に降りて土器片を見たところ、いずれも須恵器の皿や高坏であった。 工事業者は当然届け出るだろうが、まさか丘陵斜面でと、面喰らったに違いなかったと思う。 黙って工事を進めても一目につかない分からない場所である。 しかも既に土器片を含めた土を掘り上げ盛っていたので急遽県の橿原文化財研究所に調査を依頼した。
研究所からは偶然私の後輩がやってきて調査を開始することが決定。 以後10日ばかり調査を行った結果、平城京で使用する須恵器の窯跡の灰原であろうということであった。 (この大量の土器片出土に関して工事業者からの届け出があったとは聞いていない)
ここ掘れワンワンではないが、現在の奈良市は平城京を地理的に包含している爲どこを掘っても遺跡を掘り当てる可能性が高く、そうした意味合いでも慶州とはよく似ていると言えるかもしれない。
何と言っても慶州は新羅千年の都であった土地なのだから。
写真は國立慶州博物館の正門を入った所から考古館を撮ったものだが敷地が広く、屋外に展示されている文化財も多い。
展示のための建造物は上の考古館のほか、美術館、雁鴨池館、特別展示館がある。 また、子ども達のための博物館も用意されている。
私は博物館めぐりを随分してきたが、日本で言えば東京、京都、奈良、これらを訪れる場合、2~3時間を限度としている。 理由は簡単。 頭・目・足が疲れて体がもたないのだ。 しかし、韓国で言えば國立中央博物館とか、各国の首都にある博物館は頑張って4~5時間、時に6時間を充てることもある。 或いは2日間に分けて連日通うとか。
これも理由は簡単である。 国内の博物館なら健康であれば何時でも何度でも行くことができるが、外国の博物館・美術館の場合そうはいかないからである。
新羅の石塔や石仏造りが盛んになったのは三国統一された頃、つまり7世紀頃からだが、新羅の石塔は写真のように高い基壇に三層の塔身に屋蓋台、それに欠けているが相輪で成り立っているのが特徴である。
大きい小さいに拘らず何枚もの石を積み上げて組み合わせて行くという手法であり、大きい石塔では前ページで紹介した芬皇寺の三層の石塔のように安山岩を板状の磚(かわら)として積み上げたものがあり、写真のように花崗岩を細工して積み上げたものもある。
雁鴨池館前の庭にある写真の石塔は相輪部までの完全な形で三層石塔を見ることができる。
下は崇福寺の双亀趺と後ろに見えるのは鐘閣に吊り下げられている聖德大王神鐘である。
2匹の亀は碑文の基壇で崇福寺址にあったもの。 碑文には新羅第38代・元聖王(ウォンソンワン・在位785~798)の冥福を祈った新羅末の文人・崔致遠(チェ・チウォン)の文が彫られていたらしい。
聖德大王神鐘は『エミレの鐘』とも呼ばれているとか。 エミレというのは鐘の音が子どもの「お母さん」と呼ぶ声に似ているところからだと言うのだが、これは私には分からない。 梵鐘についても前ページで芬皇寺の鐘を紹介しているので参考までに。
屋外展示の石仏についても少し紹介しておこう。
この仏頭は慶州・南山の鉄瓦谷にあったもので8世紀末から9世紀初めの統一新羅時代の作である。 高さが1m53cmで重量は1.7t。
仏頭の高さが小柄な人の身長に匹敵するのだ。 いったい如何ほどの仏像だったのか、これは大いに興味のわくところだが南山の鉄瓦谷に胴体となるものは発見されていないのだと。
観音菩薩立像の写真だが、頭部は早くに(日帝強占期とカタログには表記)國立慶州博物館に移されていたが、胴体は慶州・狼山西麓の陵只塔のあたりに埋まっていたらしい。
それが1975年に同一のものと分かり、更に蓮華座も発見されて一体像となったのだとか。
宝冠の仏像は風化して見れないが、左手に浄瓶をぶら下げていることから観世音菩薩像に違いないと判断したらしい。 が、ううん?観音さんは衆生を救うために相手によって33の姿に変身するってことは知ってるが、浄瓶たるものを持ってたのだろうか。 気が付かなかった。
最後は、獐項里の石像仏立像。
この仏像は慶州陽北面獐項里に散乱していたものを復元したものらしい。 胴体以下が無いのに何故立像であると言えるのか。 それは立像の台座があったからなのだと。
高さ2m50cm。8世紀頃に造られたもの。
國立慶州博物館の展示物について、ほんの、ほんの、ほんの一部だけ紹介したが、見応えのある博物館であり、しかも日本の歴史とも似通った面が多々あるので展示品についての理解もしやすく親しみすら感じる。 私は3度目の訪問になったが、毎回満足して帰ることができるので嬉しく思っている。
予想通り博物館の見学時間が最も長くなった。 いかに貸切りにしたとは言え、タクシーの運転手に3時間も待たせるのは悪いと思い、営業運転するかコーヒーでも飲んできてくれと言っておいたのだが、丁度3時間を経て正門前へ出てきたら駐車場に車を置いて待っていてくれた。 尋ねると、どこへも行かずに待っていてくれたのだと。 なんとも律儀な運転手であった。
旧正月前、陽が暮れるのは早い。
釜山・南浦洞まで帰ってきたら6時を過ぎていたので、そのまま市場の店へ。 今夜もナックチを酒肴にビールと焼酎である。
以下、國立慶州博物館の展示品を紹介しながらワンデー・トリップのまとめとする。
写真は新石器時代の磨製石斧(蔚珍・厚浦里遺跡)≪國立慶州博物館カタログより≫
これは余談だが、奈良県の土地造成や土木・建築に関わる業者は工事を請け負った地区の地下に遺物・遺跡が出土しないよう工事着工前に真剣に祈るらしい。 この業者が祈る気持というのも分からなくはない。 工事中に土器等の遺物が出土したなら文化財保護法により届け出ることが義務付けられており、届出によって文化財担当官による試掘等の確認調査が行われ、遺跡らしいと判断されたなら更なる調査発掘作業に入ることとなる。
確認調査は早くても4~5日はかかり、通常1週間から2週間を目途としているが、この間の業者の工事はストップしなければならないし、確認調査の費用は工事請負の業者と施主の負担となるのだから真剣に祈るという気持ちも分かる。
写真は新石器時代の櫛目文土器(金泉・松竹里)≪國立慶州博物館カタログより≫
埋蔵文化財包蔵地として遺跡等が埋もれている可能性があるということを示した地図が建築課や文化財課にはあるはずだが、発掘される確率が高いという言わば占いのようなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦と同様なのである。 しかし、遺跡というのは平面的広がりを持つものだから、1坪程度の調査では済まない。 また地層には累重の法則があるように、新しい遺跡の下部に古い遺跡が重なっている場合もある。 更に、遺跡というのは予想し得ない所で発掘・発見される場合もある。
『金冠』(金冠塚・5世紀)≪國立慶州博物館カタログより≫
我が家は丘陵地の端に位置するが、谷あいになっている下の地域から棚田になっていた丘陵斜面の造成工事が年を追って徐々に行われてきた。 我が家の建つ丘陵一帯は松を含む雑木林だったが棚田耕作はそれ以前から行われていた。 ひな壇状の棚田を宅地に造成する工事がいよいよ我が家の下まできた或る日、工事現場を見た私の目に相当数の土器片が散らばっているのを確認したのだった。 我が家からは6mばかり下の現場に降りて土器片を見たところ、いずれも須恵器の皿や高坏であった。 工事業者は当然届け出るだろうが、まさか丘陵斜面でと、面喰らったに違いなかったと思う。 黙って工事を進めても一目につかない分からない場所である。 しかも既に土器片を含めた土を掘り上げ盛っていたので急遽県の橿原文化財研究所に調査を依頼した。
研究所からは偶然私の後輩がやってきて調査を開始することが決定。 以後10日ばかり調査を行った結果、平城京で使用する須恵器の窯跡の灰原であろうということであった。 (この大量の土器片出土に関して工事業者からの届け出があったとは聞いていない)
ここ掘れワンワンではないが、現在の奈良市は平城京を地理的に包含している爲どこを掘っても遺跡を掘り当てる可能性が高く、そうした意味合いでも慶州とはよく似ていると言えるかもしれない。
何と言っても慶州は新羅千年の都であった土地なのだから。
写真は國立慶州博物館の正門を入った所から考古館を撮ったものだが敷地が広く、屋外に展示されている文化財も多い。
展示のための建造物は上の考古館のほか、美術館、雁鴨池館、特別展示館がある。 また、子ども達のための博物館も用意されている。
私は博物館めぐりを随分してきたが、日本で言えば東京、京都、奈良、これらを訪れる場合、2~3時間を限度としている。 理由は簡単。 頭・目・足が疲れて体がもたないのだ。 しかし、韓国で言えば國立中央博物館とか、各国の首都にある博物館は頑張って4~5時間、時に6時間を充てることもある。 或いは2日間に分けて連日通うとか。
これも理由は簡単である。 国内の博物館なら健康であれば何時でも何度でも行くことができるが、外国の博物館・美術館の場合そうはいかないからである。
新羅の石塔や石仏造りが盛んになったのは三国統一された頃、つまり7世紀頃からだが、新羅の石塔は写真のように高い基壇に三層の塔身に屋蓋台、それに欠けているが相輪で成り立っているのが特徴である。
大きい小さいに拘らず何枚もの石を積み上げて組み合わせて行くという手法であり、大きい石塔では前ページで紹介した芬皇寺の三層の石塔のように安山岩を板状の磚(かわら)として積み上げたものがあり、写真のように花崗岩を細工して積み上げたものもある。
雁鴨池館前の庭にある写真の石塔は相輪部までの完全な形で三層石塔を見ることができる。
下は崇福寺の双亀趺と後ろに見えるのは鐘閣に吊り下げられている聖德大王神鐘である。
2匹の亀は碑文の基壇で崇福寺址にあったもの。 碑文には新羅第38代・元聖王(ウォンソンワン・在位785~798)の冥福を祈った新羅末の文人・崔致遠(チェ・チウォン)の文が彫られていたらしい。
聖德大王神鐘は『エミレの鐘』とも呼ばれているとか。 エミレというのは鐘の音が子どもの「お母さん」と呼ぶ声に似ているところからだと言うのだが、これは私には分からない。 梵鐘についても前ページで芬皇寺の鐘を紹介しているので参考までに。
屋外展示の石仏についても少し紹介しておこう。
この仏頭は慶州・南山の鉄瓦谷にあったもので8世紀末から9世紀初めの統一新羅時代の作である。 高さが1m53cmで重量は1.7t。
仏頭の高さが小柄な人の身長に匹敵するのだ。 いったい如何ほどの仏像だったのか、これは大いに興味のわくところだが南山の鉄瓦谷に胴体となるものは発見されていないのだと。
観音菩薩立像の写真だが、頭部は早くに(日帝強占期とカタログには表記)國立慶州博物館に移されていたが、胴体は慶州・狼山西麓の陵只塔のあたりに埋まっていたらしい。
それが1975年に同一のものと分かり、更に蓮華座も発見されて一体像となったのだとか。
宝冠の仏像は風化して見れないが、左手に浄瓶をぶら下げていることから観世音菩薩像に違いないと判断したらしい。 が、ううん?観音さんは衆生を救うために相手によって33の姿に変身するってことは知ってるが、浄瓶たるものを持ってたのだろうか。 気が付かなかった。
最後は、獐項里の石像仏立像。
この仏像は慶州陽北面獐項里に散乱していたものを復元したものらしい。 胴体以下が無いのに何故立像であると言えるのか。 それは立像の台座があったからなのだと。
高さ2m50cm。8世紀頃に造られたもの。
國立慶州博物館の展示物について、ほんの、ほんの、ほんの一部だけ紹介したが、見応えのある博物館であり、しかも日本の歴史とも似通った面が多々あるので展示品についての理解もしやすく親しみすら感じる。 私は3度目の訪問になったが、毎回満足して帰ることができるので嬉しく思っている。
予想通り博物館の見学時間が最も長くなった。 いかに貸切りにしたとは言え、タクシーの運転手に3時間も待たせるのは悪いと思い、営業運転するかコーヒーでも飲んできてくれと言っておいたのだが、丁度3時間を経て正門前へ出てきたら駐車場に車を置いて待っていてくれた。 尋ねると、どこへも行かずに待っていてくれたのだと。 なんとも律儀な運転手であった。
旧正月前、陽が暮れるのは早い。
釜山・南浦洞まで帰ってきたら6時を過ぎていたので、そのまま市場の店へ。 今夜もナックチを酒肴にビールと焼酎である。
May 25, 2012
韓国・慶州へのワンデー・トリップ (つづきの続き)
慶州で確実にタクシーに乗れるのは高速バスターミナルや市外バスターミナル、或いは韓国鉄道の慶州駅である。 勿論流しのタクシーをつかまえることはできるが、観光スポットと呼ばれる所で空車を見付けるのは難しい。 観光スポットへ来るタクシーは帰りも同じ客を乗せる、予約の客待ち状態にあるのが通常なのだ。
天馬塚のある大陵苑だとか國立博物館のように慶州を訪れる観光客が100%立ち寄る所では空車が出ることもあるが、これはなかなか難しい。 インフォメーションのある所ではタクシーを呼んでもらうことが出来るが、前回訪れた時に私は随分時間のロスをしてしまったので、今回は慶州駅をスタート地点として武烈王陵⇒金庾信将軍墓⇒芬皇寺⇒國立博物館⇒高速バスターミナルのコースでタクシーを1台借り上げてしまった。
芬皇寺(ブンファンサ)は新羅第27代王・善徳(ソンドク)女王が634年に建立した寺である。
写真は芬皇寺の三層の石塔。 芬皇寺が建てられた当初は写真の石塔も三層ではなく七層か九層の石塔であったらしいが、1238年モンゴル帝国の侵攻で破壊された善徳女王建立の皇龍寺の70mもの高さがあったと推定されている九層木塔と同様に破壊されたのかもしれない。
慶州では石を素材とした石塔、石仏などをよく目にするが、芬皇寺の三層の石塔もそれらのひとつであり、写真で分かるだろうか、安山岩を板状に加工したものを積み上げて造られているが新羅初期の石塔の特徴だということである。
石塔の第一層の四面にはそれぞれに龕室(がんしつ)があり、花崗岩を彫った仁王像と石扉で守られている。
1915年に朝鮮総督府が解体修理を施して三層の塔を再建したが、その折に二層と三層の塔身の間から花崗岩で作られた石函が発見された。 縦横63cmの石函の内部を削り、その中には舎利盒の他、金銀の針やハサミ、玉、貝など様々なものが発見されている。 ≪参考 ・ 國立慶州博物館及びカタログより≫
この三層の石塔、つまり石造の卒塔婆が建っている基壇の四方には石造の獅子が塔を守るように建てられている。 龕室入口の仁王像もそうだが、獅子像も千数百年の時を経て創建当初の完全な姿形で残っているわけではないが、それなりに当時を彷彿とさせる雰囲気を醸し出している。
善徳女王は三国統一のための礎を築いた人でもあるが、仏教の保護にも熱心だったようで、芬皇寺のほか、先に書いた皇龍寺の九層の木塔や霊廟寺なども建てている。
芬皇寺創建当初よりある井戸で護国龍変魚井と呼ばれている。 井戸の中に龍が棲んでいるという伝説もあるが、花崗岩の外側を八角形に削り、内側を円形に彫ることによって仏教の八正道と結びつける説明の方が真実味があるように思うのだが・・・
芬皇寺には180トンもの重さの薬師如来仏像が安置され、慈蔵(ジャジャン)が中国から持ち帰った仏舎利や大蔵経の一部も納めてあったらしいが今は無い。 モンゴル帝国の侵攻で廃寺になっただけでなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略、李氏朝鮮時代は儒教が国教であったため仏教弾圧が強く寺の復興には随分の時間がかかったらしい。
写真は現在普光殿に安置されている薬師如来像で1774年に造られたもの。
慈蔵という僧は636年に唐へ行き、仏法を学んで帰国して芬皇寺に住まいし新羅の戒律宗を開いた人であり、皇龍寺の九層の木塔を建てるよう善徳女王に進言した人でもある。 当時は慈蔵のほか芬皇寺に留まり華厳経などの仏典解釈を書いた元暁(ウォンヒョ)や、日本でも華厳宗の祖師として名高い義湘(ウィサン)らが活躍している。
釜山や慶州に近いところにある寺としては、善徳女王の647年に慈蔵によって建てられた通度寺(トンドサ)や、文武王の頃に義湘によって建てられた梵魚寺(ポモサ)が有名である。 また元暁の弟子である審祥(シムサン)が華厳経を日本に伝えたことでも有名である。 ※ 審祥については新羅人か日本人かはっきりしないが、大安寺(奈良)に長く住んでいた。
鐘閣より三層石塔を見た写真。
韓国の梵鐘の特徴を表すものとして、鐘の上端部分で鐘を吊り下げる輪の部分が一匹の龍になっている点がひとつ。 これが中国の梵鐘の場合は2匹の龍で形作られているものが多い。
この写真では見えにくいが、龍の角の後ろあたり、ちょうど梵鐘の真ん中に音筒という突起が出ているのだが、これが微妙に鐘の振動に影響を与えるようで、これが2点目。
鐘の上部に乳廓と呼ぶ蓮華文などで四角く囲われた個所があり、そこに蓮華のつぼみ状の乳頭が9個ずつ配されている。 そうした乳廓が4つで合計36個の乳頭があると、これが3点目。
4点目は鐘を突く位置に蓮華文と鐘の胴周りに飛天像が入っている点。
國立慶州博物館のカタログでは韓国の梵鐘の特徴として以上のようなことを挙げており、「鐘の美しい曲線と人の心に響く鐘の音は中国や日本の鐘を圧倒している」と書いている。 が、ちょっと引っ掛かるのだ。 鐘の鋳造について形が異なることや文様の異なり、或いは鐘の音色の異なりを挙げるのは分かるのだが、鐘の音が『中国や日本の鐘を圧倒している』と書いているのには、ああ又か、と少々白けウンザリする思いである。
心に響くなどと個々の感性を取り上げ、我が一番などという意味合いにとらえられる表現を国の機関が公刊するカタログに記載するなど私の感覚では有り得ないことなのだが・・・・・
まあ、それはそれとして國立慶州博物館のことを少し紹介しよう。
天馬塚のある大陵苑だとか國立博物館のように慶州を訪れる観光客が100%立ち寄る所では空車が出ることもあるが、これはなかなか難しい。 インフォメーションのある所ではタクシーを呼んでもらうことが出来るが、前回訪れた時に私は随分時間のロスをしてしまったので、今回は慶州駅をスタート地点として武烈王陵⇒金庾信将軍墓⇒芬皇寺⇒國立博物館⇒高速バスターミナルのコースでタクシーを1台借り上げてしまった。
芬皇寺(ブンファンサ)は新羅第27代王・善徳(ソンドク)女王が634年に建立した寺である。
写真は芬皇寺の三層の石塔。 芬皇寺が建てられた当初は写真の石塔も三層ではなく七層か九層の石塔であったらしいが、1238年モンゴル帝国の侵攻で破壊された善徳女王建立の皇龍寺の70mもの高さがあったと推定されている九層木塔と同様に破壊されたのかもしれない。
慶州では石を素材とした石塔、石仏などをよく目にするが、芬皇寺の三層の石塔もそれらのひとつであり、写真で分かるだろうか、安山岩を板状に加工したものを積み上げて造られているが新羅初期の石塔の特徴だということである。
石塔の第一層の四面にはそれぞれに龕室(がんしつ)があり、花崗岩を彫った仁王像と石扉で守られている。
1915年に朝鮮総督府が解体修理を施して三層の塔を再建したが、その折に二層と三層の塔身の間から花崗岩で作られた石函が発見された。 縦横63cmの石函の内部を削り、その中には舎利盒の他、金銀の針やハサミ、玉、貝など様々なものが発見されている。 ≪参考 ・ 國立慶州博物館及びカタログより≫
この三層の石塔、つまり石造の卒塔婆が建っている基壇の四方には石造の獅子が塔を守るように建てられている。 龕室入口の仁王像もそうだが、獅子像も千数百年の時を経て創建当初の完全な姿形で残っているわけではないが、それなりに当時を彷彿とさせる雰囲気を醸し出している。
善徳女王は三国統一のための礎を築いた人でもあるが、仏教の保護にも熱心だったようで、芬皇寺のほか、先に書いた皇龍寺の九層の木塔や霊廟寺なども建てている。
芬皇寺創建当初よりある井戸で護国龍変魚井と呼ばれている。 井戸の中に龍が棲んでいるという伝説もあるが、花崗岩の外側を八角形に削り、内側を円形に彫ることによって仏教の八正道と結びつける説明の方が真実味があるように思うのだが・・・
芬皇寺には180トンもの重さの薬師如来仏像が安置され、慈蔵(ジャジャン)が中国から持ち帰った仏舎利や大蔵経の一部も納めてあったらしいが今は無い。 モンゴル帝国の侵攻で廃寺になっただけでなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略、李氏朝鮮時代は儒教が国教であったため仏教弾圧が強く寺の復興には随分の時間がかかったらしい。
写真は現在普光殿に安置されている薬師如来像で1774年に造られたもの。
慈蔵という僧は636年に唐へ行き、仏法を学んで帰国して芬皇寺に住まいし新羅の戒律宗を開いた人であり、皇龍寺の九層の木塔を建てるよう善徳女王に進言した人でもある。 当時は慈蔵のほか芬皇寺に留まり華厳経などの仏典解釈を書いた元暁(ウォンヒョ)や、日本でも華厳宗の祖師として名高い義湘(ウィサン)らが活躍している。
釜山や慶州に近いところにある寺としては、善徳女王の647年に慈蔵によって建てられた通度寺(トンドサ)や、文武王の頃に義湘によって建てられた梵魚寺(ポモサ)が有名である。 また元暁の弟子である審祥(シムサン)が華厳経を日本に伝えたことでも有名である。 ※ 審祥については新羅人か日本人かはっきりしないが、大安寺(奈良)に長く住んでいた。
鐘閣より三層石塔を見た写真。
韓国の梵鐘の特徴を表すものとして、鐘の上端部分で鐘を吊り下げる輪の部分が一匹の龍になっている点がひとつ。 これが中国の梵鐘の場合は2匹の龍で形作られているものが多い。
この写真では見えにくいが、龍の角の後ろあたり、ちょうど梵鐘の真ん中に音筒という突起が出ているのだが、これが微妙に鐘の振動に影響を与えるようで、これが2点目。
鐘の上部に乳廓と呼ぶ蓮華文などで四角く囲われた個所があり、そこに蓮華のつぼみ状の乳頭が9個ずつ配されている。 そうした乳廓が4つで合計36個の乳頭があると、これが3点目。
4点目は鐘を突く位置に蓮華文と鐘の胴周りに飛天像が入っている点。
國立慶州博物館のカタログでは韓国の梵鐘の特徴として以上のようなことを挙げており、「鐘の美しい曲線と人の心に響く鐘の音は中国や日本の鐘を圧倒している」と書いている。 が、ちょっと引っ掛かるのだ。 鐘の鋳造について形が異なることや文様の異なり、或いは鐘の音色の異なりを挙げるのは分かるのだが、鐘の音が『中国や日本の鐘を圧倒している』と書いているのには、ああ又か、と少々白けウンザリする思いである。
心に響くなどと個々の感性を取り上げ、我が一番などという意味合いにとらえられる表現を国の機関が公刊するカタログに記載するなど私の感覚では有り得ないことなのだが・・・・・
まあ、それはそれとして國立慶州博物館のことを少し紹介しよう。
May 23, 2012
韓国・慶州へのワンデー・トリップ (つづき)
武烈王陵を訪れて次に向かう先は金庾信将軍墓である。
金庾信(キムユシン)将軍は武烈王(ムヨルワン)の忠臣であり、660年に5万の新羅軍を率いて唐の13万の軍勢との挟撃によって百済を滅ぼした知将とも勇将とも称されている人である。 百済の階伯将軍が決死5千の兵を率いて対したのが金庾信将軍であった。
金庾信は595年に生まれ、15歳で花郎(ファラン)となり学問と武術の修錬に励んだとされ、後年、武烈王となる金春秋も花郎の出身であったという。 花郎とは新羅の真興王の時代(540~576)に確立された青年貴族の教育制度であるというのが一般的解釈になっており、韓国時代劇テレビドラマでも化粧を施した美少年戦士集団として描かれている。
だが、「李氏朝鮮王朝時代(1392年~)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っている」ことを挙げているものもあるし、朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月休戦)の時に、韓国・李承晩大統領が青少年の愛国心の育成と高揚のために花郎と結び付けさせたとの説もある。
つまり、果たして花郎がどういったものであったかは史料の少なさから推量できても断言はできないというのが実際のところのようだ。 諸説あるが、興味があればURLを挙げておくので参考にどうぞ。
http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/whis01.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html
写真は金庾信将軍墓の墓域に入るためのチケット買い、石段を上がった所にある石碑。 新羅太大角干の表題の下に金庾信の業績などが書かれている。 新羅でも同じだが聖徳太子の冠位十二階と同様に等級と京位(冠位)が定められ、1等級の伊伐飡(イボルチャン)=角干を筆頭に17階級の冠位があったそうな。
ところが、この金庾信将軍に関しては角干ではなく大角干、その更に上の太大角干という冠位が与えられているように、彼に対しては破格の扱いなのである。
写真は金庾信将軍墓への墓参道に建つ門。
朝鮮の三国時代、高句麗・百済・新羅のいずれもが統一を願っていたが、それは他国を併呑してしまうという軍事力による統合であり、そのため三国間は常に緊張状態にあったことを既に書いてきた。
経緯はあるが、554年には羅済同盟を解消して新羅と戦った百済の聖王が戦死。 新羅と百済の対立が続き、やがて百済と高句麗は麗済同盟を結んで新羅に圧力を加えていった。 この時は新羅の善徳女王が中国・唐に救援を求めるも拒否され不安定な国内外の政情の中で善徳女王が亡くなる。 この折に金廋信は金春秋と共に真徳女王を擁立して親唐路線(羅唐同盟)を推進、654年に真徳女王が亡くなると金春秋を第29代新羅王・武烈王として即位させ、660年に唐と共同して百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼして三国の統一を成し遂げた。
上の門を入って墓参道を少し歩いて行くと写真のような金庾信将軍墓が見えてくる。
墓前の左手の墓碑には『新羅太大角干金庾信墓』と彫られているが、先にも書いた通り新羅の冠位で最上位は角干であり、『大』の称号が与えられたのは百済を滅ぼした功績(660年)によるもので、第30代文武王(武烈王の子)の時には高句麗を滅ぼした功績(668年)によって『太』の称号が加えられた。
朝鮮半島の統一を果たす大きい役割を果たしたということでは『大』『太』の称号を授かるのも当然と言えよう。
ところで、このお墓の右手、写真の墓碑と対を為す場所にも墓碑がある。 その墓碑には『開國公純忠壮烈興武王墓』とあるのだが、墓の字の辺りが汚れていたのでよく見ると、陵という字が彫られていたように見えた。
これは、ううん? ええっ?墓と陵はちょっと意味が違うのである。
金庾信が彼の功績によって特別枠によって『大』『太』の敬称を授かったことは紹介したが、更に後の時代、新羅第42代王・興徳王(在位・826年~836年)によって『興武王』とされているのである。 追贈ではあるが『王』となれば陵との表示でも良いかと思ってみたりしたが、これはよく分からないままになっている。
金庾信が新羅の国や王室に果たした功績は大きいが、彼の妹は武烈王の夫人となり、彼自身も武烈王の三女を夫人に迎えている。 そして武烈王と金庾信の妹との間に出来た子が文武王となっていることから考えれば功績以上の待遇が例え彼の死後であっても与えられることについて特段の不思議もないのかもしれない。
金庾信将軍墓も形状は円墳であるが、土山が崩れないように周囲をグルッと石で囲んだ立派な墓である。
しかも墓を囲む石板には干支の動物が12体刻み彫られているのだ。
これは王の墓よりも立派と言えるかもしれない。
はて、これは何だったろうか。
上からサル(申)、ヒツジ(未)、タツ(辰)だったように思うのだが・・・
これの続きはまた。
金庾信(キムユシン)将軍は武烈王(ムヨルワン)の忠臣であり、660年に5万の新羅軍を率いて唐の13万の軍勢との挟撃によって百済を滅ぼした知将とも勇将とも称されている人である。 百済の階伯将軍が決死5千の兵を率いて対したのが金庾信将軍であった。
金庾信は595年に生まれ、15歳で花郎(ファラン)となり学問と武術の修錬に励んだとされ、後年、武烈王となる金春秋も花郎の出身であったという。 花郎とは新羅の真興王の時代(540~576)に確立された青年貴族の教育制度であるというのが一般的解釈になっており、韓国時代劇テレビドラマでも化粧を施した美少年戦士集団として描かれている。
だが、「李氏朝鮮王朝時代(1392年~)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っている」ことを挙げているものもあるし、朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月休戦)の時に、韓国・李承晩大統領が青少年の愛国心の育成と高揚のために花郎と結び付けさせたとの説もある。
つまり、果たして花郎がどういったものであったかは史料の少なさから推量できても断言はできないというのが実際のところのようだ。 諸説あるが、興味があればURLを挙げておくので参考にどうぞ。
http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/whis01.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html
写真は金庾信将軍墓の墓域に入るためのチケット買い、石段を上がった所にある石碑。 新羅太大角干の表題の下に金庾信の業績などが書かれている。 新羅でも同じだが聖徳太子の冠位十二階と同様に等級と京位(冠位)が定められ、1等級の伊伐飡(イボルチャン)=角干を筆頭に17階級の冠位があったそうな。
ところが、この金庾信将軍に関しては角干ではなく大角干、その更に上の太大角干という冠位が与えられているように、彼に対しては破格の扱いなのである。
写真は金庾信将軍墓への墓参道に建つ門。
朝鮮の三国時代、高句麗・百済・新羅のいずれもが統一を願っていたが、それは他国を併呑してしまうという軍事力による統合であり、そのため三国間は常に緊張状態にあったことを既に書いてきた。
経緯はあるが、554年には羅済同盟を解消して新羅と戦った百済の聖王が戦死。 新羅と百済の対立が続き、やがて百済と高句麗は麗済同盟を結んで新羅に圧力を加えていった。 この時は新羅の善徳女王が中国・唐に救援を求めるも拒否され不安定な国内外の政情の中で善徳女王が亡くなる。 この折に金廋信は金春秋と共に真徳女王を擁立して親唐路線(羅唐同盟)を推進、654年に真徳女王が亡くなると金春秋を第29代新羅王・武烈王として即位させ、660年に唐と共同して百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼして三国の統一を成し遂げた。
上の門を入って墓参道を少し歩いて行くと写真のような金庾信将軍墓が見えてくる。
墓前の左手の墓碑には『新羅太大角干金庾信墓』と彫られているが、先にも書いた通り新羅の冠位で最上位は角干であり、『大』の称号が与えられたのは百済を滅ぼした功績(660年)によるもので、第30代文武王(武烈王の子)の時には高句麗を滅ぼした功績(668年)によって『太』の称号が加えられた。
朝鮮半島の統一を果たす大きい役割を果たしたということでは『大』『太』の称号を授かるのも当然と言えよう。
ところで、このお墓の右手、写真の墓碑と対を為す場所にも墓碑がある。 その墓碑には『開國公純忠壮烈興武王墓』とあるのだが、墓の字の辺りが汚れていたのでよく見ると、陵という字が彫られていたように見えた。
これは、ううん? ええっ?墓と陵はちょっと意味が違うのである。
金庾信が彼の功績によって特別枠によって『大』『太』の敬称を授かったことは紹介したが、更に後の時代、新羅第42代王・興徳王(在位・826年~836年)によって『興武王』とされているのである。 追贈ではあるが『王』となれば陵との表示でも良いかと思ってみたりしたが、これはよく分からないままになっている。
金庾信が新羅の国や王室に果たした功績は大きいが、彼の妹は武烈王の夫人となり、彼自身も武烈王の三女を夫人に迎えている。 そして武烈王と金庾信の妹との間に出来た子が文武王となっていることから考えれば功績以上の待遇が例え彼の死後であっても与えられることについて特段の不思議もないのかもしれない。
金庾信将軍墓も形状は円墳であるが、土山が崩れないように周囲をグルッと石で囲んだ立派な墓である。
しかも墓を囲む石板には干支の動物が12体刻み彫られているのだ。
これは王の墓よりも立派と言えるかもしれない。
はて、これは何だったろうか。
上からサル(申)、ヒツジ(未)、タツ(辰)だったように思うのだが・・・
これの続きはまた。