June 2012
June 24, 2012
対馬・厳原港~博多港へ
その遠い土地が隣国と海を隔てて接し、古来、人々が交流する中継点としての役割を果たしてきた。
その交流も友好的なことばかりではなかった。 神功皇后朝鮮討伐、白村江の戦、元寇(モンゴル兵と朝鮮兵)、倭寇、朝鮮の侵攻(15世紀前後)、秀吉の朝鮮侵略、韓国併合などがあった。
しかし隣国との関係が悪いものばかりだったわけではなく、江戸期の鎖国という状況下でも朝鮮通信使が来訪し、彼らを丁重に迎え入れるという特別な関係にあったのだ。
朝鮮通信使に関しては対馬から江戸に至る彼らの道中の様子を描いたものが、朝鮮通信使絵巻として長崎県立対馬歴史民俗資料館などで保存されている。 朝鮮通信使を説明するために対馬市が作成したリーフレットのほか、これまで福岡市博物館、大阪歴史博物館などで見たことがあるが行列全てについては見たことがない。
※ 参考までに神戸市立博物館に『朝鮮通信使来朝図』があるので紹介しておく。
朝鮮通信使は総勢500人にも及ぶ行列だったらしい。 その行列の一部分を絵巻として見てきたのだが、そこに描かれた人物が45人(先のリーフレット参照)である。 朝鮮通信使行列全体ならば単純に計算しても11枚以上となるのだから絵巻全体なら何十メートルになるのか、スゴイものなのだろう。
江戸時代、幕府は鎖国政策を実施して長崎・出島におけるオランダ・中国相手の交易を幕府直轄で、北方シベリア方面とはアイヌを通して松前藩が、南方は琉球王国を通して薩摩藩が交易を行っていた。 そして朝鮮とは対馬藩の宗氏が交易の窓口となっていたように、対馬は朝鮮との交流の中継地であると同時に朝鮮に対する我が国境警備の重要拠点でもあったのだ。
写真は海上保安庁巡視船基地に停泊する巡視艇。
巡視艇というのはPCとかCLといった記号が冠された船で沿岸近くを警備する比較的小型のものであり、外洋へ出ていくのはPLHとかPL、PM、PSといった記号が冠されているもので巡視船と呼んでいる。
CとはCraft。その名の通り小型船の意味であり、PはPatrolで巡視船の意味、LはLarge、MはMedium、SはSmallと巡視船の大きさを表している。 PLは大型の巡視船であってHはHelicopterの頭文字であり、ヘリコプターを搭載している巡視船を表しているのだ。 海難事故での巡視船の活躍はよく知られているが、船艇の舷側にはJAPAN COAST GUARDと書かれ、アメリカ合衆国では沿岸警備隊(United States Coast Guard)に相当する。 もっとも米国沿岸警備隊は捜索救難活動や海洋・沿岸の環境保全も任務の内であるが、決定的な違いはUSCGは国土安全保障省(国防省に次ぐ巨大な省)に属し、連邦機関として治安維持に関する法執行権限を有しており、陸海空の三軍と海兵隊に次ぐ第四の軍隊として位置付けられている点である。
写真は厳原港の国際ターミナルビルの埠頭に接岸している厳原・釜山間を結ぶ韓国・未来高速(株)のジェットフォイル船・コビーである。 後ろのビルは厳原合同庁舎で壱岐・博多への国内航路のターミナルは合同庁舎の向こう側にある。
尖閣諸島や周辺海域での中国漁船による領海侵犯や違法操業などについての問題が多発しているため、ともすれば海上保安庁への強権付与、或いは巡視船の武装強化を求める声が上げられるが、日本と米国は違うのだ。 確かに海上保安官は危険で苦労の多い任務をこなしていると私も思う、が、安直に解を求めるような愚を犯してはならない。
写真は私が乗船する九州郵船のヴィーナス。 壱岐を経由して博多港までを2時間で結んでいる。
今春、友人の息子さんが海上保安大学校を卒業された。 赴任先は聞いていないが今頃は新任地で任務遂行に励んでおられることだろう。 第一線で働く人たちのことを思えば行政のトップである内閣総理大臣以下政府役人たちは勿論のこと、立法府を司る国会議員たる政治家たちはもっと真剣に外交を含め研鑽してほしいものだが・・・ウーーム。
比田勝で軽自動車を2泊3日の契約で借りて対馬を巡ってきた。 その車をこの厳原で乗り捨てることにしており、対馬レンタカーの藤原さんだったか、奥さんが引き取りに来てくれていた。 厳原港ターミナル前で返却したが、仕事とは言えわざわざ朝からバスに乗ってきて頂いた。 有難うございました。 お礼を申しておきます。
ヴィーナスの厳原からの乗客はさほどに多くなかったものの、1時間の航行で着いた壱岐では団体の観光客が乗船してきてほぼ満席状態になった。 それから更に1時間の航海で博多港へ。 まだ3時半だというのに暗く雪が舞い博多ポートタワーも霞んで見えない。 随分寒そうな博多港であった。 ベイサイドプレイスの広場では糸島・二丈のカキ小屋(テント張りだが)が何軒か店開きしていた。 寿司屋の大将 I 氏と福吉のカキ小屋へ行ったのはついこの間のことだが随分以前のことだったように思いつつタクシーでホテルへ向かった。
June 23, 2012
最近の嬉しいこと (4) 父の日のプレゼントと孫の来訪
母の日というのは新聞でもテレビでも、商店街やデパートを歩いていてもよく分かるほどに喧伝されてきている。
しかし、父の日というのはどうだろうか。 ここ何年か前から耳目に触れるようになったかな、と思う程度で、社会全体としてもその関心の度合いは母の日と比べ将に雲泥の差と言えるのではないだろうか。
そんな父の日が6月の第三日曜日(17日)であった。
朝から届け物だと言うので受け取りに出ると、段ボールの小箱を手渡されフルネームでのサインを求められた。 送り状の小さな機械印字が読めず内容物が何なのかも分からない。
先日テレビに出ていた年配の女性が老眼ではなく遠視であると『遠視』を強調していたが、私も『遠視』が進行し、そこへ乱視がかかっているので眼鏡無しには新聞も見出し以外は見えないようになってしまった。 全く困ったものである。
部屋へ持ち帰り天眼鏡で見てみると Y 君からの荷物。 その小箱を開けてみると写真のような磁力で肩凝りを楽にするネックレスが入っていた。
うーーん、肩がよく凝るのだが、私の慢性的肩凝りに気付いていたとは・・・。 Y 君は容姿に似ず細やかな気遣いを、それもさり気なくやってのけるので私は常々感謝しているのだ。 容姿に似ずなどと私が書くので読まれた方は私を失礼な奴と思われるかもしれない。 しかしである。 身長は180cmを優に超え、がっしりした体躯にパンチパーマ。 これだけの記述でも相当押しがきく風貌の持ち主であることは想像できるだろう。
ネックレスの入っていた写真の布袋に『父の日ありがとう』のカードが結び付けられてあった。 実父でも義父でもない。 強いて言えば第三の父と言えるかも。 感謝感謝である。 まだお礼を言ってなかった。 当ページでお礼を申しておくことにする。
第三の父と言えば、父の日を前に娘・ R 子が孫を連れて来てくれた。
昨年4月12日の誕生だから1歳と2ヶ月になる。
人見知りせず物おじもせず終始笑顔で愛嬌を振りまいてくれていた。
前歯が上下に4本ずつ。 まだ伝い歩きしか出来ないが、しばらくの間なら2本足で立つことが出来る。 今度来てくれる時には彼女の行動監視を強めねばならないかもしれない。
そうそう、女の子なのだ。 服装を見ていると男の子かと思ってしまうのだが、男とは、或いは女とはといった固定観念が私の頭にあるのかもしれない。 男とはこうあらねばならないだとか、女はこうしなければならないなどといった考えは極力出さないようにしてきたが、やはり意識として潜在しているようだ。 自戒せねばならない。
結局は疲れてしまったのか眠ってしまった。
カワユイ奴である。
どの子もそれぞれに個性を持っており、それぞれに可愛いものだ。 できることなら我が家にも孫が欲しいものだが、不惑の年が近いというのに我が息子は・・・
ははははは、これも息子の個性ゆえ何ともし難い。
June 22, 2012
最近の嬉しいこと (3) くだもの
果物も旬というのが分からない世の中になってきた。 昔は温室(ハウス)栽培などというものはなく、季節・気候など自然条件にそって実が成ることを願い収穫を待ったものである。
私はイチゴが好きで、母親がイチゴに砂糖と練乳をかけたものを出してくれるのが楽しみであったが、これは5月から6月にかけての頃にしか食べることができなかった。 他の季節に食べたいとせがんでもイチゴが無かったのである。 ところがどうだろう。 その当時から60年を経た今年、私は1月以降つい最近までイチゴを食べてきた。 品種改良、栽培地域の拡大、ハウス利用など栽培方法の変化、輸送方法の向上など様々な工夫や改善の結果、一年を通して市場出荷が可能になったのである。
いつでも、どこでも、好物が食べられるという喜びを感じることができて良いのだが、『旬』というものがいつなのか分からなくなってきたことは少し淋しい感じがする。
私の場合だが、イチゴに続く好物がサクランボ。 サクランボは6月から7月に実の収穫が行われるので、この時期が『旬』であり、私が思い存分食べることのできる時期でもある。 つまり、市場への集荷量が多くなるので価格が安くなるのだ。 『旬』が今の時期のサクランボだが、このサクランボも真冬に売られているのだ。 綺麗で大きい粒揃いの箱詰めを頂いたことがあり、幾らだったのか価格も気になったが、どこで、どのように桜の木を栽培しているのか大変気になったことがある。
商品として出荷するためにはある程度の量を確保せねばならないが、桜の木一本でも温室は相当大きいものでなければならず、収穫量を増やすためには桜の木の本数を増やさねばならない。 結局、考えが及ばず気候が日本とは反対の南半球のどこかの国で収穫したものを輸入したのかと・・・いまだに正解を得てはいない。
ところでサクランボも品種が増えたが、やはり味わいや色つやなど総合的に評価すれば佐藤錦(写真・上)が特等であろう。 ただ難点は価格が高いことであり、私は他の品種、例えばナポレオンや南陽といったものも食べる。
先日、果物屋のオバハンが「新種やねん。」と、チョコレートのような色合いのサクランボを薦めてくれた。
「なんや、アメリカンやないか。」と応じたものの、写真の通りサクランボの表皮の色つやが滑らかで明らかに違うのである。 しかし、アメリカン・チェリーと何かを掛け合わせたモノであることは間違いない。 では、味わいはどうか。 うーーん、果汁多く甘いし果肉もたっぷり付いている。 目をつむって食べたなら噛み応えも含めて特等とするかもしれない。
先に断っておかねばならないが私は面食いでも初物喰いでもない。 ぶっはははは、人間に対しても果物に対しても、デ、ある。 大切なのは中身。 だが、見た目を全く気にしないかと言えば否と応えねばならない。 何に対しても『良さ』というものを初見で感じ取るということは困難であり、そのことと合わせて大切なものが中身であることを踏まえて長い人生を歩ませてもらった。 こうした面では『おませ』だったかも。
時に若い人たちのお見合いを設定することがあるが、「人となりを初見で感じ取るということは困難」、このことを私は必ず前段で話すことにしている。 しかし、以前と違って最近では結果を早く得よう、出そうという風潮が強く、私の思いとは相容れない行動を示す人が増えているみたい。
旬の果物について書いていたのに横道へ・・・私のクセなのかも。
サクランボの旬が過ぎようとする頃にブドウの巨峰が果物屋の店頭に並ぶ。 これもハウス物は早くから、真冬でも値段は高いが買おうと思えば買えるのだ。 写真の巨峰は大阪・泉南のハウス物である。 まだ粒が小さいから房自体が小振りで甘味も少ない。
巨峰に先だってデラウェアが出るが、私は巨峰が好き。 特にジベレリン処理した種無し巨峰が大粒で甘く、種を出す必要が無いので大好き。 どうも小魚の骨同様ブドウやスイカの種を出すのが下手くそなのは舌の動かし方が器用ではないということかも。 滑舌は悪くはないのだが・・・
もう少しすれば岡山の種無しピオーネが出てくる。 7月から8月にかけて我が家の果物はピオーネが中心となる。 ピオーネという品種が開発される前は巨峰が中心であったが、ここ数年はピオーネが首座に座ってるって感じかな。
勿論、他の果物を食べないわけではない。 スイカもメロンも食べるには食べる。
写真のイエローキング(マクワウリの品種改良か)のようなものも食べる。
子どもの頃にはマクワウリを食べてたかな? 何となく青い匂い、ウリの匂いなのだが、私はあまり好きではなかった。 やはり甘くてマクワウリよりも食感の軟らかいスイカの方が好きだった。
昭和25、6年頃のことだった。 母親に連れられて行ったお風呂屋さん(銭湯)の帰り道、ガラスケースの中の氷の上に三角状に切られた赤いスイカが並んでいるのだが、それを一切れ買ってもらって食べるのが夏の夕刻の楽しみであったことを思い出す。
当時は果物の旬がはっきりしていた。 旬(季節)がはっきりしていたくらい市場に出回る果物の種類が少なかったということでもあるのだが・・・何もかもが溢れる幸せを当たり前と思ってはならない。
自戒・自戒、嬉しく思えることに感謝である。
June 21, 2012
最近の嬉しいこと (2) 鱧・はも・ハモ
「目には青葉山ほととぎす・・・」とくれば初鰹である。 江戸期の俳人・山口素堂の句では新緑の爽やかな季節を青葉と時鳥、それに初鰹で表現している。 黒潮に乗って薩摩・日向・土佐、そして紀州・相州沖と小魚の群れを追って鰹が北上して行く。 初鰹は将軍に献上されたというから東京湾に近い相州・鎌倉沖には青葉が目に染みる皐月の頃に上って行ったのだろう。
これは所謂上り鰹であり、あっさりしていて刺身で食べると美味しい。 この鰹たちが次々と群れを成してオホーツク海あたりまで北上し、秋口になると親潮に乗って順次南下してくる。 これが戻り鰹と呼ばれるもので、丸々と太り脂がのっているものだからタタキにして食べると美味しい。
ところが現在は生魚の保存法や輸送力の進歩によって、産地・漁獲場所、天然・養殖といったことに拘らなければ年がら年中何でも頂くことができる。
勿論それも良いのだが、やはり旬というか、季節感というものを私は大切にしたいと思う。
この青葉の季節、磨かれたまな板の上でシャカシャカシャカとリズミカルに板前氏の包丁が歌い始めると私は嬉しくて仕方がなくなるのだ。
梅雨入り頃よりの瀬戸内の鱧(はも)は絶品と言われてきた。
写真は某店の鱧の『おとし(ゆびき)』と『焼き霜(あぶり)』。
『おとし』は梅肉で、『焼き霜』は塩を降って焼いたものを山葵で頂くのが私の好み。 目が鼻が舌が胃袋が、体の全ての器官がオイシイと大声を上げているのだが、こうした感情を言語で適時・的確に表現できるものでないことは前ページでも書いた。 また細かな修辞は要らないだろう。 ただ「ウマイ」だけで良い。
京都・祇園祭に鱧は欠かせない。 90cmくらいの鱧を開いて『寸25』と言われる骨切りをした身を湯通ししたり焼き目を入れたり。 勿論照り焼きや天ぷら、鱧皮の酢の物、それに鱧の中骨で取った出汁の吸い物など鱧料理の種類は結構多い。
ところが私は子どもの頃に食べ(かけ)て以来、30代半ばまで鱧を口にしなかった。 鱧料理は骨切りの上手下手で全てが決まると言って良い。 1寸は約3.03cmだから約30mmと思って良いだろう。 それを『寸25』と言われるように骨切りするのだから、ほぼ1mm幅で身を切っていくことになる。 それも皮一枚残して切るのだから、これは熟達した調理人でないとできない技である。 だから湯通しした時、熟達した調理人が骨切りした鱧の切り身は見事に花が咲いたようになるが、ヘタクソがやると・・・・・
子どもの頃に食べたのは鱧の照り焼きだったが、多分ヘタクソがやったのだろう、骨が当たって当たって食べられたものではなかった。 魚料理で骨にウロコ、これは昔も今も苦手である。 イカ・タコ大好きというのもこの辺りが真の理由かもしれない。ぶっははははは
そう言えば21日、今日は夏至である。 と言うことは11日目の7月1日は半夏生。 梅雨明けの頃で大阪ではタコを食べる日になってたなあ。 が、何故なのか理由は分からない。
June 19, 2012
最近の嬉しいこと (1) タコ釣り
人間の感情を極々大まかに大別するとこの四文字に集約できるかもしれない。 もっとも人間の感情は単純ではないし、感情を言語で適時・的確に表現できるものでないことは今更言うまでもない。 とまあそれはそれとして、人間にとって怒りや哀しみよりも喜びや楽しみの方が良いに決まっている。
国の三権や地方行政に対する憤りや情けなさは毎日のように感じているが、幸いなことに私の身の回りのことについては苛立つことも少なく喜びの毎日が続き、感謝感謝である。
さて、感謝の幾つか紹介してみよう。
初めにタコ釣りのこと。 随分以前からタコ釣りに行く時は誘ってほしいと寿司屋の大将 I 氏にお願いしていたのだが、なかなか機会が合わずに行けなかった。 それがようやく6月6日(水)に連れて行ってもらえたのである。
イカ・タコ大好きな私だから調理もするし、大いに食べもする。 が、タコ釣りの経験は一度もない。
早朝5時30分出船の釣り船に乗るため我が家出発は午前3時。 私を含めて同行4人。 N 氏が自分の車で I 氏を乗せて来てくれ、最後に T 氏を乗せて明石へ向かった。
前日までは雨風強く大荒れの天気だったので中止になるかと心配していたのだが、風は強いものの天気はドンドン良くなる法華の太鼓ではないが快晴も快晴、カンカン照りの夏日になり、12時30分、タコ釣り船から陸へ上がった時には私自身が見事な『ゆでダコ』になっていた。
さて、タコ釣りのことであるが、釣り船は私が思っていたよりも大きく、左右の舷側に海に向かって椅子が各15席?設えてあり、釣り人がその椅子に座って仕掛けの糸を下ろすのである。
稚拙な絵だが当日の仕掛を描いてみた。 エサは10数センチのイワシ。これをエナメル線でグルグル巻きに板に固定。 針は針金のように太い鋼で硬くモドリが無い。 つまりエサを抱いて食べようとするタコを引っ掛けるのである。 タコが潜む岩陰近くの海底まで仕掛けを下ろし、「エサだよ。食べにおいで」と、船上で釣り糸をしゃくるのである。 すると挿絵にある七夕の飾りのようなものがクラゲのような動きをしてタコを岩陰から誘い出すのだ。 タコの口はカラス口と言って8本足の真ん中にあり、獲物を食べる時にタコは8本の足で抱かかえるようにして食べるが、仕掛けはこうしたタコの習性を利用したものなのだ。
と、いかにも分かったように書いているが、そうそう簡単に釣れるものではない。 T 氏が次々に釣り上げ、 I 氏がそれに続いた。 しかしN 氏も私も糸を垂れているだけ。 そんな私がエサを取り替えようかと糸を巻き上げていくと竿先がしなり、リールを巻く手に重みが・・・。 「かかってるでえ」「手、休めたらアカン、巻き続けるんや」。 指導されとるんか叱られとるんか分からんけど兎にも角にも巻き続けた。 「よっしゃ、そのまま巻いて」という声と共に大きい網がニョキっと私の横から差し出された。 釣り船のスタッフが取り逃がさんように応援に来てくれたのだ。
T 氏が釣ったものに比べたら随分小さく感じたが、人生初の体験である。 初めてのタコ釣り。 そして、初めてタコを釣り上げた。 嬉しかった。 この時の感情を言語で適時・的確に表現するのはやはり難しい。 タコ釣りでボウズという人も珍しくないそうで、事実、この日30人が船に乗っていたが1匹も釣れなかったという人が10数人いた。 誠に幸せなことであった。
もっとも私の場合は釣り上げたと言うよりもタコが勝手に引っ掛かってくれたと言う方が正しい。
この日 T 氏が釣り客中一番の釣果、2番が I 氏で、N 氏は4匹だったか、私が1匹。
写真は持ち帰ったタコを私が塩もみして家内が茹でてくれたもの。 家内の茹で加減は絶妙なので、この作業は常に任せている。 ちなみにタコが3匹あるが、2匹は T 氏と I 氏からのプレゼント。 私に引っ掛かってくれたタコの重さを量ったら300g弱あった。 勿論、勿論美味しく頂いたことは言うまでもない。
明石だこ、それも長い人生初のタコ釣りで初の釣果である。 感謝