June 2012

June 18, 2012

対馬を巡る (7)

厳原という町名は明治になってからのようで、それ以前は府中と呼ばれていたようだ。 府中とは国府、つまり奈pict-P1050251良・平安時代の律令制下にあって地方政治を担う国衙のある場所を指すから、対馬を治める役所のあった場所が現在の厳原であるということになる。 江戸時代には前ページで書いた金石城がそれであった。
厳原港に近い高台(神社の名前を忘れたが)へ上がってみると厳原の町がほぼ見渡せたが、さほどにこじんまりとした町が厳原なのである。

厳原の町は南を厳原港として南北の浅い谷間に形成されていると言って良く、下の写真で言えば左手直ぐの所に厳原港があり、写真左手で山麓が三角状に茶色く見えているあたりが西山寺付近。 また、写真中央よりやや右手、山の中腹あたりで茶色の部分が清水山城跡。 その下付近に金石城跡が位置する。
厳原 高台の神社から
写真右手に小山が出張って視界を遮っているが、この小山に隠れているあたりまでが厳原の町と考えて良い。 この小山の手前右手に浄土宗・圓盛山 九品院 修善寺がある。

修善寺の寺伝を云々しようと言うのではなく、この寺に沢山建立されているお墓の中に新井白石や室鳩巣らのpict-P1050255浄土宗・修善寺、厳原師である儒者・木下順庵の門で学んだ陶山訥庵(すやまとつあん、鈍翁)の墓があるのだ。

対馬は耕作地が少なく、良田無しと魏志倭人伝に書かれていたことについて紹介してきた。 主食の米が少ないために島外から補充していたのは江戸時代になっても変わることなく、江戸期にサツマイモ栽培が取り入れられたことは画期的なことであった。 このサツマイモ(甘薯)の移入を行ったのが陶山訥庵である。

対馬の89%は山林で耕地が3%であることも書いてきた。 耕地面積が著しく狭いことが明らかであり、通常は耕地面積を増やすことによって収穫量を増やそうと考えるのではないかと私は思うのだが、陶山訥庵は農作物を荒らすイノシシ・シカを狩るべしと、対馬島内8万頭のイノシシ・シカを捕え絶滅させた。 しかも当時は徳川幕府5代将軍・綱吉が生類憐みの令を出していた頃で、畑の作物を荒すイノシシと言えど生き物であり、命と引きpict-P1050258陶山訥庵の墓換えねばならないような大変なことをやってのけたのである。 現代なら鳥獣保護の観点から何らかの共存策が考えられるだろうが、単純に現代と比較はできない。 対馬は慢性的な食糧不足の状況にあったわけで、第一に人間の食糧確保が大事であり、「国の為によいとなれば自分の子孫など謀るべきではあるまい」と(中略)「不退転の意志とその進退を誤らぬ潔さ、その半面細かい心配りは実に見事である。」と厳原町教委の案内板は陶山訥庵の人となりを評している。

陶山訥庵が木下順庵の門に入った年、後に対馬藩で対朝鮮外交で活躍する雨森芳州が生まれている。 芳州pict-P1050285金石城址と万松院は近江・長浜の出で、新井白石や室鳩巣らと共に順庵に師事し、対馬藩への仕官は順庵の推薦によるものであったらしい。 芳州の墓が長寿院の裏山にあるらしいが時間の関係で行かなかった。

陶山訥庵に雨森芳州が仕官していたのが対馬府中藩で藩庁が金石城、現在は城の遺構調査が進み、庭園や二重の櫓門などが復元されていることについpict-P1050279万松院て前ページに書いたが、この金石城跡の直ぐ隣に対馬府中藩々主・宗氏の菩提寺、鐘碧山・万松院(天台宗)と墓地がある。写真の石垣が金石城のもので赤い色の万松院の山門が見える。

写真は万松院山門と右側に代々藩主・宗氏の墓所につながる石段が見える。  万松院は元禄期とその後の火災によって焼けているが、この山門は1615年(元和元年)に建立されたものらしpict-厳原 万松院の仁王 完い。 

山門の左右に安置している仁王像は享保12年の火災による寺院再建時の守り神として奉納されたものだと言う。

万松院は2代・義成公が義父・義智公追善のために建立したものらしいが、対馬における宗氏の支配は1246年より始まり明治維新まで続くが、それ以前は阿比留氏が対馬を支配していた。 阿比留氏は813年に対馬へ国衙の役人として赴任して支配の実権を握ったようだ。 それ以前の対馬がどのように支配されていたのかは知らないが、2世紀後半から3世紀前半頃は『魏志倭人伝』にあるようにpict-P1050263卑狗(ひく)と言う大官と卑奴母離(ひなもり)という副官によって治められていたのであろう。

★ 写真は万松院の本堂。

『魏志倭人伝』に記載のことであるから2世紀後半から3世紀前半頃、つまり西暦100年代後半から200年代の前半は大官や副官といった役割を持った者たちが対馬を治めていたと考えて良いだろう。

次にややこしいのが神功皇后の三韓征伐であるが、皇后が実在したかどうか、何年のことなのか、これがハッキリしない。 ただ、当時の倭国がpict-P1050268朝鮮半島に侵攻したことは広開土王の碑文や新羅本紀(三国史記)に記されているので三韓征伐はあったものと思って良いだろう。

★ 本堂(内部)と『万松精舎』と書かれた額。 これは素晴らしい書だと気に入ったのだが、後水尾天皇(1596~1680)の第三皇女・鏡の宮(昭pict-P1050265万松精舎額子内親王・近衛尚嗣の正室)の書なのだと。

当ブログ『対馬を巡る(2)』で『新羅国使・毛麻利叱智・朴堤上公・殉國之碑』について少し書いたが、毛麻利叱智こと朴堤上(363~419)は神功皇后の摂政五年の三月に毛麻利叱智の名前で出てくる。 新羅の王族である人質を連れ帰りたいと願い出てきたものだが、毛麻利叱智らが対馬で偽計をはかったため葛城襲津彦に殺され、葛城襲津彦は新羅の城を陥落させて捕虜を連れ帰ったという事件である。
pict-P1050270万松院墓地参道


★ 写真は代々藩主の墓所への参道。

これは神功皇后の摂政五年、つまり325年ということになるが、毛麻利叱智の生まれ年が363年なので辻褄が合わない。 しかし、新羅本紀(訥口麻立干)二年に『秋、王弟未斯欣自倭國逃還』とある。 新羅王・訥口麻pict-P1050272万松院墓地立干の二年は418年なので毛麻利叱智の没年419と整合する。





★ 写真は藩主と家族の墓の一部。

これ以後も倭国は対馬・壱岐を交流径路の中継点にして朝鮮半島とつながっていた。 つまり大和朝廷の指図を受ける管理者のような者がいたであろうことが想像できる。

663年の白村江の戦で唐・新羅の連合軍に大敗した飛鳥朝廷は九州・西国防備に躍起となったが、とりわけ対pict-P1050274馬には金田城を築城し、防人を配置して烽火台を構築したことでも分かるように国司或いは郡司を派遣していたことであろう。

805年には最澄(伝教大師)が対馬の阿連に帰着しているが、当時の律令制からだと既に府中(厳原)に国衙、もしくは郡衙を置いて政務を担当させていたはずである。


★ 万松院の大杉。 樹齢は1200年なんだとか。 この大杉と対になるようにもう一本大杉があった。 樹陰に苔むした墓石が並び寂寥感漂う誰もいない墓所をひとり訪れるというのはあまり気持ちの良いものではない。 厳冬期の墓地は足元からの冷え込みがきつかった。

話が飛び飛びになってしまったが、対馬を支配する権力者として名前が出てきた者の中では大官・卑狗(ひく)の後は阿比留氏の登場まで私の頭には無いのである。
長々と書いてきたが、阿比留、アヒルではなくアビルと読むのだが珍しい名前である。 が、対馬では結構多い名前らしい。 実は、博多に息子扱いにしているS君がいるのだが、彼の苗字が阿比留なのである。 以前から気になっていて会った時に彼のルーツを尋ねてみたいと思いつつ、その都度尋ねるのを忘れて今に至っているのだ。 

国交のなかった高麗との貿易によって富を得ていた阿比留氏を大宰府が咎めたが、それに従わなかったことpict-P1050248から大宰府の役人・宗 重尚(そう しげひさ)が阿比留氏を滅ぼして対馬の国主となったと言われているのだ。




★ 写真は鶴翼山・西山禅寺 (以酊庵跡・いていあんあと)

朝鮮通信使たちの一行は正使・副使を含め500人もの人数になることもあったようで、釜山を出航して先ず最初に上陸する地が対馬府中(厳原)pict-P1050249厳原、西山禅寺-2であった。

その府中で彼らの宿泊所になった場所のひとつが以酊庵で、他に国分寺などがある。
 
厳原の町は歩いても回れるくらいの町ではあるが、今回は日程の関係で割愛したところもあった。

八幡宮神社から直ぐのところ、半井桃水の生家跡が半井桃水館として公開されているが寄らなかった。 明治の女流作家で若くして逝った樋口一葉が小説家を志し始めた頃に師と仰いだのが当時の東京朝日新聞の小説記者であった半井桃水であった。 今回対馬を訪れるまで半井桃水が対馬出身であることを知らなかった。

旅をしていて、「あっ、そうやったんや。」などと気付き知ることは多い。 事前に知っていて更に深く知りたいと思って訪れる場合。 予期せず偶然旅先で新しいことを見聞する場合と、いずれにしても旅というものは人間の好奇心を掻き立ててくれる。 それに乗ってホイホイと、ゴキブリじゃないが旅に出られることは嬉しいことだ。

旅をするのに支障の無いまずまず健康な体を頂き、不足も言わずに黙って送り出してくれるオバハンに感謝感謝である。 


masatukamoto at 10:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 14, 2012

対馬を巡る (6)

豆酘(つつ)から厳原(いづはら)までの県道24号線は殆どが登ったり下ったりの曲がりくねった山道である。 知らない土地では日が暮れると平地の道でも迷うことがあって危ないものである。 暖流が流れる対馬であるが、1月末は厳冬期である。 海抜はせいぜい100m~200mのところを通っている道路だが、凍結しないとは言い切pict-豆酘崎れない。 そんなこんなで明るいうちに厳原へ着きたいと思って走ってきたが、厳原の町へ下りてきたら4時を過ぎて日暮れがかっていた。

★ 写真は豆酘崎(対馬観光物産協会パンフレットより)・・・夕刻に向かう逆光時は海面の反射もあって写真撮影は難しい(参考までに)

この日の宿はホテル対馬。 該当する住所付近をグルグル回ったがホテルを見付けることができなかった。 それもそのはず。 1階はタクシー営業所でホテルには見えない。 事務所では5~6人の運転手たちがストーブを囲んで休憩していたので尋ねてみると、女性運転手が出て来てホテルのフロントは2階にあると、エレベーターと車を駐車しておく場所に案内してくれた。

部屋は・・・寝るだけの部屋と思えばバス&トイレ付なので先ず先ず。 ビジネスホテルのC級ぐらいには入ろうか。

さて、島を見て回るのに忙しく昼食もとらなかった。 否、昼食を提供しているような店を見かけなかった。 実際には見ていたのかもしれないが、食べようとするタイミングが合わなかったから注意を引かれることがなかったのかもしれない。 空腹時の虫押さえのためコンビニへ立ち寄ることが時にあるが、コンビニも見なかったように思う。

まあとにかくお腹は空いているし、美味しいもので一杯飲みたい。 それでホテルのフロントの女性に対馬の名物・名産を提供している店を教えてほしいと頼むと、『志まもと』が良いのではと教えてくれた。 ホテルからは歩いても近い。と言うより厳原の町そのものが広くはないのである。 

『志まもと』は直ぐに分かった。 まだ6時にもなっていない時間だったからなのか店は閑散とし、どうやら私が最初の客であったらしい。 4人が座れるようになった掘りごたつ風のテーブルを配した部屋に案内され、先ずはビpict-P1050226夕食ールをと。 好みの銘柄が無いので仕方なくアサヒスーパードライを1杯。 喉を潤すならこれで充分。 で、対馬の名物・名産料理を食べたい旨を告げると、サザエ飯、大穴子、ロクベー汁、石焼き、いり焼き等を聞いたように思う。

石焼きと言うのは熱した石の上に魚介類や野菜を乗せて特製ダレで食べるものらしく、いり焼きというのは魚の出し汁に魚介類や野菜を入れて煮る鍋料理なんだと。 

分からんかったのがロクベー汁。 これはサツマイモのデンプンを練って、蕎麦かうどんのような紐状にして湯がいたものを出し汁で頂くらしい。 良田無き対馬、これは魏志倭人伝に書き記された頃の対馬であるが、その後も米の自給が不足がちだった対馬にあってサツマイモは貴重な救荒の作物であったに違いない。 

大穴子のことを私は伝助、或いは伝助穴子と呼ぶが、私の好みを書けば、穴子は瀬戸内海産で体長3~40cmのものが最高である。 伝助はデッカイ穴子を指すが、形体的に似たものにオオウナギがいる。 オオウナギについては昭和40年の夏、広島県・倉橋島の南西端・鹿老渡と海を挟んで位置する鹿島(瀬戸)の波止場で夜釣りをしたことを随分前に書いている。 胴の直径が6cmほどあり、体長は90~100cm。 釣り針は5寸釘をカナヅチで叩いて曲げた自作。 それにハリスはワイヤーを1mばかり。 暗闇の中で黒く太いヘビのようなのが釣り糸に数字の8を描くように絡まりくねる姿は真に気色悪いものであった。 地元の漁師の息子が開いて蒲焼きにしてくれたのだが、皮は分厚くて硬く、骨がたつし大味でイマイチであったことを思い出す。

いろいろと考えた挙句、写真の『志まもと御膳』を注文。 と言うのは特段珍しいというほどのものは無かったので、サザエ飯のついた定食にし、対馬名物だという大穴子がどんなものか一品料理の天ぷらを合わせて頼んだ。 私の後からやってきた家族連れは石焼きを注文していたが、韓国人家族のようで賑やかな朝鮮語の会話pict-P1050250厳原、今屋敷あたりが隣の部屋の私にもよく聞こえた。  料理? 特別に感想を書くほどのことも無かった。

支払金額は5千円近い。 クレジット各社のラベルが貼ってあったのでクレジットカードを使用すると言うと扱ってないのだと。 はあ? VISA、JCB、その他いろいろ。 扱ってないのならラベルを貼るなよ。 紹介されたから行ったものの特別感じ入るようなモノも無く、帰り際に・・・何だか気分の悪い店になってしまった。

さて、川が写っている上の風景写真は厳原の町の朝の様子である。

旅先に限らず私の朝は早いのだが、この日も午前5時すぎ、まだ真っ暗で空には星が瞬いている厳原の町を散歩してきた。 ホテルから交流センター、八幡宮あたりをグルッと回ってきたのだが、寒い寒い。 暦の上では大寒を過ぎたばかりの夜明け前である。 もっとも気温が下がる時に・・・寒さには滅法強い私だが、歩いても歩いても一向に温まらずに顔の皮は突っ張ったまま。 とうとう我慢できずに自動販売機で温かい缶コーヒーを買ってホテルへ戻った。

部屋で1時間少々時間をつぶして2階の食堂へ行くと、既に数人のグループ、男女のアベック、男性1人客などがpict-P1050230厳原八幡宮食事を始めていた。 ご飯、味噌汁、生卵と、私の朝食・三種の神器が揃っていたので満足満足。 

朝食を済ませてチェックアウトするまでの時間、再度散歩に出かけた。
 
写真は厳原八幡宮前の交差点からのもので八幡宮とあるから祀られている神は当然のこと応神天皇、神功皇后、それに姫大神(比売神としpict-P1050231厳原八幡宮 2ての宗像三神)である。 ただ、この八幡さんには仲哀天皇と武内宿禰も祀られている。 仲哀天皇は神功皇后の夫であり、武内宿禰は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、仁徳天皇らに仕えた大臣なので当然かも。
八幡宮前交差点の鳥居をくぐると広い駐車場があって、その奥にも鳥居が建っている。 八幡宮の本殿はこの鳥pict-P1050235厳原八幡宮居をくぐって右手の奥にある。
 
鳥居の後ろの山は清水山と言い、伝説では三韓征伐を終えて凱旋した神功皇后が天神地祇を祀った山だと言われている。 八幡宮そのものは655年(白鳳6年)に天武天皇の命によって建てられたと案内板には記されていた。

対馬には上下二つの八幡宮があるということだが、『対馬を巡る(3)』でpict-厳原八幡宮 狛犬書いた海神神社は上対馬の上津八幡宮で、この厳原八幡宮は下対馬の下津八幡宮とである。

鳥居下に据えられている狛犬。 ウウーッと唸り声を上げ、ハアッハッという息遣いまで聞こえてくるような随分リアリティーを感じる狛犬であった。
この清水山には八幡宮と並んで天神神社の祠堂もある。 祭神は安徳天皇と菅原道真公とあり、案内板によれpict-P1050238天神神社ば、安徳天皇は文治の乱(1185年・屋島の戦い)を避けて京の都を出て筑紫に暫く潜んだ後に対馬に遷り住んだ。 その後亡くなったので八幡宮境内に神祠を建てて祀り天神神社と称したとある。 そして菅原道真公の御霊を合祀したのは1362年(貞治元年)のことだとも。

写真は天神神社の祠堂だが、もうひとつある祠堂には今宮・若宮神社とあり、祭神は何と小西夫人マリアとある。 マリアは戦国キリシタン大名の一人、小西行長の長女・妙のことであり、彼女は15歳で厳原・金石城の宗義智の正室となった。 しかし、関ヶ原の戦いで負けた西軍に組していた行長は三条河原で斬首・さらし首となった。 この後のことについて案内板は『マリアは信仰心厚く義智をも入信させた。関ヶ原の戦後、小西家滅亡と共に慶長六年(1601)十月追われて長崎に行き五年後清い信仰生活のうちに死んだ。元pict-P1050240高麗門和五年(1619)霊魂を鎮めるためマリアとその子を祭り今宮・若宮神社と称した。』と記している。

ふむふむ。 追われて長崎に行ったのが宗義智の正室・マリアであることは主語が省かれた文であっても理解できる。 が、「追われて」とは一体誰が追いたてたのか。 「長崎に行き」とあるが、行かされたのではないのか。などとヤブを突つきたくなる表現である。 が、ここは宗氏の対馬・厳原である。

その宗氏の居城が金石城であるが、城跡や庭について未だ全ての発掘調pict-P1050245金石城門査は終わっていないようであった。 写真は復元された高麗門で金石城跡に建てられているが、元々は1678年に金石城の大修理の際に建てられた桟原城にあったものらしい。 この桟原城跡は金石城跡の4~5km北に位置している。

金石城跡では石垣の一部が残るほか、発掘された庭園が整備され、櫓門の復元が為されていた。
pict-P1050243朝鮮通信使の碑写真の櫓門をくぐって行くと県立対馬歴史民俗資料館があるのだが、月曜日でもないのに休館。 
この資料館の横に碑が2つ建っている。

ひとつは朝鮮國通信使之碑。  

対馬藩が朝鮮との窓口になっていたことは分かるし、実際に文化交流も行われていたから、そのことを思えば石碑建立を悪いとは言えない。 しかし、pict-朝鮮通信使説明文黒御影石の奉納(左側の石標)の横には対馬韓国先烈顕彰会の名称と韓国人4人の名前が彫られているが日本人の名前がない。 この韓国人4人が建立したものなのだろうか。 右側の説明の碑文を読むと、いったい誰のために碑を建立し、誰のために説明の碑文を書いたのか、そしてそれを書いたのは韓国人なのか、など様々な疑念が思い浮かぶ。 それに碑が建てられている場所は金石城址、つまり公有地にあたるのでは。

何か引っかかる朝鮮國通信使之碑であった。 

pict-P1050242珠丸遭難者慰霊の碑いまひとつの石碑は『珠丸遭難者慰霊塔』である。

博多・対馬・釜山を結ぶ九州郵船の珠丸(800トン)が太平洋戦争末期の激しい米軍機の爆撃や潜水艦の魚雷攻撃をかわして生き延び、昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えた。 この終戦の日以後、日本は全てにおいて連合国最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入り、船舶の航行も制限を受けていた。 

珠丸は昭和20年10月10日に比田勝港から厳原港に入っていたが、九州本土を襲っていた阿久根台風を避けるため厳原港に停泊していた。

10月14日、台風が去りGHQの航行許可も出たので、珠丸は午前6時に中国や朝鮮からの引揚者など730名を乗せ、戦後初の博多向け航海に出発した。 壱岐の北20数kmにさしかかった午前9時頃、珠丸は戦時中に日本海軍が敷設していた機雷に接触、轟音とともに珠丸は瞬時に沈没した。 この海難事故による多くの犠牲者の鎮魂と航海安全・恒久平和を祈念して建てられた慰霊塔であると案内板に書かれていた。

戦争が終結してからも戦争による犠牲者が出ていたことについて多くの事例を知ってはいるが、珠丸についてはこの碑を見て初めて知ったことであった。 そして別段奇妙な引っ掛かりを覚えることもなく、私には素直に慰霊塔として受け止めることができた。  


masatukamoto at 07:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 09, 2012

対馬を巡る (5)

万関瀬戸と万関橋の見学を終えて国道382を更に南へ。 対馬空港を経て県道24号線を走り下対馬の西側の道を走ることにした。

昨日から対馬の道を走っているが出会う車の数は大変少ない。 対馬空港近くに来て出会う車の数がpict-P1050205城山少し増えたかなと思う程度であり、多いという表現は全く当たらない。

そんな県道24号線をしばらく走り、金田城跡方面へ分岐する道を更に進むと前方に岩肌を剥きだした山が見えてくる。

この岩肌剥きだしの山・城山と呼ぶそうだが地図上では浅茅湾に突き出すような形になっている。


この城山一帯で石塁や敷石などの遺構が発見され、金田城跡として国の特別史跡に指定されている。
金田城は『かなたのき』と読み、朝鮮式山城のひとつとして〔May 16, 2012 「韓国・扶餘・・・⑥」〕で紹介している。   

【663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に大敗した飛鳥朝廷は危機感から対馬・壱岐から九州、そして西国各地pict-P1050208に防人を配置、烽火台を設置し山城を築くなど防衛態勢をかためていった。 九州における重要な役所を玄界灘に近い位置から大宰府にバックさせ、それを守るために水城(みずき)、大野城、基肄(きい)城を築き、西方からの攻撃に備えて熊本に鞠智(きくち)城、瀬戸内海を攻めてきた時のための高松・屋島城、大和・飛鳥の最後の防衛線として河内に高安城、そして最前衛の城として対馬に金田城を築城したことが明らかになっている。】 ※ その他にも沢山の城が築かれたが省略する。 

参考までに下のページを紹介しておく。(クリックでリンク先が開く)
日本各地の古代の城

pict-P1050207城山その金田城への登山路の入口を示すのが写真の標識。

日本では発掘調査が終わっているようだが、朝鮮式山城の遺構は完全な形で残っているわけでない。  韓国の山城は石塁や建物の復元をかなり進めているが、日本ではどうするのか、この話題についてあまり耳にしたことがないのだが・・・

そんなこんなで金田城へ行ってみたいと思ったのだが、車を置いて2時間とか3時間とかの時間がかかることを聞いたので今回は? 次回があるかどうpict-P1050209城山か分からないが止めることにした。

いろんな資料を見てみると、この城山のてっぺん辺りに石塁を築き、柱のある建物を建て、水路も造っていたとか。

山城を築く共通条件として、攻め落とされにくい山の頂あたりで眺望が良いことがひとつの要因として挙げることができそうだ。

この後、白嶽(洲藻白嶽・519m)の麓を大きく回り込むようにして下対馬のpict-P1050210伝教大師帰着地の碑西海岸・阿連の集落へ。

阿連川に沿って川上方向に少し走ると雷命神社があるが、その手前の保育所か幼稚園の側に『伝教大師入唐帰國着船之地』と彫られた碑がある。

伝教大師とは言わずと知れた天台宗開祖・最澄である。

最澄は桓武天皇により短期視察を目的に派遣された還学生(げんがくしょう)で804年7月に遣唐使船に乗り込んでいる。 この時の遣唐使船は4隻で構成されていたが、うち2隻が難破して行方不明となり、1隻は漂着、まともに着いたのは1隻のみであったらしい。 最澄が乗船していた船は無事に到着。 漂流しながらも目的地より遥か南方の福建省に着いた船には空海(弘法大師)が私費での留学生(るがくしょう)として乗船していた。

最澄は翌805年6月5日に対馬の阿連に帰着。 その後、神戸の和田岬から京の都へ向かったとされ、この碑は最澄が日本帰国の第一歩を踏みしめた地であることを表している。

天候が良く、うまく対馬海流に乗ることが出来れば長崎県の平戸か対馬へ到着するのだろうが、比較的気候のpict-P1050211良い6月や7月と言っても当時は風まかせ潮まかせの航海であったから海上での滞在期間も長く、荒れた天候に遭遇する確率が現在の何倍も高かったのであろう。 現在の船舶に比べれば木の葉の船のようなものである。 ひとたび嵐に遭えば遭難するのが当たり前のような時代のことである。 航海の成功率が5割と聞いたことがあるが、5割とは当たるも八卦・当たらぬも八卦と言う将に占いと同じであり、まっこと恐ろしいものであったようだ。

写真は小茂田浜神社。  遣唐使船よりもずっと後の時代になるが、元寇の役の際、蒙古の水軍が博多など九州北部海岸に攻め寄せてきた時、神風と呼ばれる嵐のため多くの蒙古船が難破し、結果として日本の勝利となったことを思い出す。

元寇の役の際はこの小茂田浜でも合戦が行われたという。 元寇の役は1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の二度にわたって蒙古軍が対馬、壱岐、九州北部海岸を襲った戦である。 壱岐の項、志賀島の項、博多・西南学院大学の防塁の項、蒙古船の石錨などの項で元寇について書いてきたからここで詳しくは書かない。  
pict-P1050213元寇奮戦図
小茂田浜神社の案内板によれば、文永11年10月5日、蒙古軍は兵士30000人、軍船900艘で対馬の西海岸一帯を侵略。 対馬の守護代・宗 助国(そう すけくに)は80余騎を率いて、このあたり佐須浦で10月6日午前4時頃から戦闘に入り午前9時頃まで奮戦したが戦没。 他の地域でも宗家一族郎党が戦うも全軍負けたようだ。

壱岐では全滅状態であったと聞いているので、多分この対馬でも壊滅状態だったのだろう。

小茂田の直ぐ南方に椎根という集落がある。 写真のような倉庫が現在も使われているのだが、以前に紹介しpict-P1050215椎根の石屋根Aた倉庫と同様に床は3~40cmばかり高くなっている。 が、この倉庫でオモシロイのは屋根が石で出来ていることだ。

これは椎根の石屋根倉庫と言い、対馬でしか見られないという高床式の倉庫である。 柱も壁も全て木材で建てられているのだが、屋根材のみ木皮葺でも瓦葺でも茅葺でもなく、板状の岩石を屋根瓦として用いているのである。

写真の石屋根倉庫は古来の様式をよく残しているとかで県の有形pict-P1050217高床式石屋根倉庫文化財(建造物)に指定されている。

屋根材に使われている石は島内産の頁岩だということだが、石の厚みがほぼ一定なので頁岩もしくは粘板岩(スレート)であるというのは推測できた。

頁岩というのは堆積岩の一種で泥土が堆積して出来た岩石で、堆積面で割れるという特徴がある。 世界的にも粘板岩(スレート)瓦を建築資材に用いている例は多い。 しかし、椎根の石屋根倉庫の一番の特徴は石一枚の厚みと面としての広さであろうと私は思った。 これは重量も相pict-P1050218高床式石屋根倉庫A当なものだと思う。

写真の通り棟瓦として乗っている石板、伏間瓦に似ているが頁岩なのでヘキ開面は平らで何より1枚の石板が大きい。 屋根材の石板だけで一体どれほどの重量になるのか、支柱に係る力は凄いものになっているはずである。

こうした石屋根倉庫が対馬でのみ見られるわけは県の有形文化財(建造物)指定理由に記されている。 先ず農民に瓦葺が認められなかったこと、そして食糧や貴重品を火災から護る、強風による倒壊を防止するなどが考えられる。主屋から著しく離して建てるのも防火上の配慮からである、と。
pict-P1050129砂泥互層A上の理由には書かれていないが、対馬の至る所で写真のような砂泥互層の地層を見ることができたので頁岩を手に入れやすいという状況もあったのかなあと、これは私の想像域の中のこと。

地層累重の法則で地層は水平に堆積するとある。 写真の地層が水平でないことは見ての通り。 大昔のこと、対馬は海の底にあって流されてきた砂や泥が堆積する位置にあったのだろう。 その後に何らかの理由で地殻変動が起き、対馬あたりの土地が隆起した。 それによって地層に傾きが生じた。 これが順当な見方である。 昨日の宿・花海荘あたりの海岸も三宇田海水浴場の辺りも同様の地層を見ることができるし、花海荘の建つ比田勝から少し南に網代という集落があるが、そこの海岸では砂泥互層の地層が海水による浸食で宮崎県の青島ほどの規模ではないけれど洗濯岩のようになっているのが見られた。 この堆積層は対馬層群と呼ばれる3000万年前頃の地層で洗濯岩のほか、漣痕も見ることができた。 砂泥が堆積していく時、海底の波の動きによって模様が出来るのだが、その模様を漣痕(化石漣痕)と呼んでいる。

対馬空港近くで国道382号線と分かれ、下対馬の海岸線に沿うよう周遊する道路が県道24号線である。 この日の宿を厳原に決めているので出来るだけ早く対馬の西海岸側の道路を南の端まで巡り、その後は東海岸に沿って厳原まで北上したいのだが直線の道路というのは殆ど無く、山ひだを縫うように開かれた道路なので予想以上に時間がかかった。

途中、安徳天皇陵墓参考地と地図にあったが寄らなかった。 安徳天皇は壇ノ浦の合戦で入水し、その霊魂を鎮めるために下関の赤間神宮に祀られたものと私は思っていた。 ところが入水せずに落ち延び、徳島県・祖pict-P1050223美女塚谷、鹿児島県・硫黄島、そして、この対馬へ逃げて宗氏の祖となったなどという説があったのである。

この手の話では、源義経は奥州・平泉で討たれずに逃げ延び、大陸に渡ってモンゴル帝国を打ち立てたチンギス・ハーン(成吉思汗)になったというのもあるが、私はマユツバものだと思っている。

まあ話は話として面白く聞く用意はあるが・・・・・話と言えば写真の碑には美女塚と彫られている。

美女塚は下対馬の南西部の豆酘にある。 対馬の南西にある岬を豆酘崎と言い、豆酘瀬とか豆酘内院などの地名があるのだが、豆酘の『酘』は『酸』ではない。 地図の印字が細かいために私は見間違ってしまったのだが、豆酘という集落は、『つつ』と読むのだそうだ。 漢字の『酘』は音読みで『トウ』とか『ズ』と読み、酒を再び醸すという意味の字なんだと。 長年漢字の読み書きをしてきているが知らないで済ませてきた字の何と多いことか。

美女塚の話が後先になってしまった。 昔々のこと、大そう美しく人柄の良い娘が年老いた母親と仲良く暮らしておったんだと。 その娘のことを気に入った殿様が娘を城に召し抱えると命じた。 娘は殿様の命令だから従わないわけにはいかないが、かと言って年老いた母親を置いて城に行くこともできない。 それで悩んだ挙句、娘は自害して果てたんだそうな。 この美女塚というのは、その娘の亡骸を弔った場所なんだと。

さて、いよいよ対馬で最も繁華な町・厳原(いづはら)へ向かうことにする。  



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June 06, 2012

対馬を巡る (4)

対馬が大陸と日本を結ぶルート上に位置することを前ページでも書いた。 文字文化が広く定着していなかった2世紀後半から3世紀前半頃の日本について知るには『三国志』の魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)が重要な史料となる。 もっとも書かれているクニや場所が現在のどこなのか、距離が正確なのかといったpict-魏志倭人伝・冒頭部分朱線ことについて特定できず、そのため邪馬台国論争の決着は未だについていない。

しかし魏志倭人伝において恐らく間違いないと特定できるのが対馬についての記述である。

写真は中村学園大学(福岡市城南区)電子図書館蔵のPDFファイルより引用。 

朱線部分が対馬に関して記述している部分である。

『始めて一海千余里を渡ると対馬國に至る。其の大官は卑狗と言い、副は卑奴母離と言う。居る所は絶島で400余里四方の土地で山は険しく森林は深く、獣が通るような道である。千余戸の家がある。良い田んぼは無く、海産物を採って生活している。船に乗り南北の市で買い入れている』

あらかたの意味は上の通りだが、★印の朱線最後の文字は初めて見る文字で読めなかった。

・・・意味は『米を物色して買い入れる』である。 岩波の文庫本の活字では判読できず、パソコンで拡大してみれば部首が何なのか新たな疑問。 『入』『米』『羽』『隹』、いったい部首は何? 
糴・・・字音は『テキ』で部首は『米』、総画22画の文字であることが分かった。 いい勉強をさせてもらった。 

『山は険しく森深く、良田無く海産物で自活し、米は南北の市で求める。』、千数百年も前のこと、そんな環境にあった対馬の人々の暮らしが一面大きい変化を見せることもなく現代に至っていることは興味深い。 前ページで書いたが対馬の89%は山林で耕地は3%である。 江戸期には良田少なく田畑への肥しに海藻を採って藻小屋烏帽子岳からの眺め201201231230に。 米は島外から補充しなければならなかったことなど共通することが幾つかある。
  
そうした対馬を上対馬と下対馬の二つに分けて見ることができると書いたように思う。 実際に対馬を地図で見てみると南北二つの島から成り立っているように見え、その真ん中のくびれた部分の東側を三浦湾、西側を朝茅湾と呼ぶリアス式海岸を形成している

写真は朝茅湾。 烏帽子岳展望所からの眺望で下対馬の方向を見ている。 写真中央より右の高い山が白嶽(しらたけ・519m)。

白嶽と言えば対馬の日本酒の銘柄であり、我が家へ宅急便で送ったものの一つである。 荷物を持ち歩く愚をしないで宅急便を利用すると以前に書いているが、宅急便を利用するのは旅先で旅行を続けるのに不必要なブツが増えた場合である。 つまり、先ずお土産の類い、不用となった衣類など、それに美術館や博物館で仕入れた重たいカタログなどである。 エエッ?と驚くようなものに『ぬいぐるみ』がある。 我が家には沢山の『ぬいぐるみ』たちがいる。 ドラえもん(コレが一番好き)、くまのプーさん、ミッキーマウスなどディズニーのもの、それにチャールズ・モンロー・シュルツのスヌーピーが主だが誰が好きかって? 
pict-P1050200烏帽子岳からの眺め
ぶっははははは、家内も好いてるようだが、一番は、ワ・タ・シ。

実は広島に相性の良いゲーム屋があり、広島に立ち寄ると必ず訪れるのだ。 そして、必ずデッカイ『ぬいぐるみ』を落とす。 ゲーム屋では大きいビニル袋に入れてくれるので、これをコンビニへ持って行ってガムテープで袋の口をふさぎ送り状を貼って自宅送りにする。 送料がかかりはするけど、私が何日か後に帰宅すると『ぬいぐるみ』が待っていてくれるのだ。 これも宅急便の便利な使い方のひとつ。

今回、対馬から送ったお土産は、お菓子、海藻、日本酒『白岳』、純米酒『つしま』、麦と米のブレンド焼酎『やまねこ』。 これらを持っての旅行など考えられないことである。
pict-烏帽子展望所A
上のパノラマ写真2枚は烏帽子岳展望所からの眺めだが、上は浅茅湾から下対馬の方向。 下は烏帽子岳展望所から仁位浅茅湾と遠方には対馬の西側の海が見える。  あまりに素晴らしい景色だったので、誰もいない烏帽子岳展望所で小一時間ばかり気持ちの良い時間を過ごした。

ところで焼酎『やまねこ』の名前はツシマヤマネコから採ったものだと思っていたが、対馬では密造酒のことをヤマネコと呼んでいたそうで、天然記念物で希少野生動植物に指定されたから『やまねこ』の名前をつけたのではないらしい。 国税が密造摘発のため山へ入る時は『やまねこ』狩りに行くとでも言っていたのかもしれない。 
pict-対馬リアス式海岸
対馬のリアス式海岸と書いてきたが、地元の人や興味を持っている人以外は縮尺の大きい上のような地図を目にすることは少ないことと思う。 この地図のあたりが対馬の中央部、くびれた部分でリアス式海岸の様子がよく分かると思う。 赤い線が国道382号線であり、この地図を見る限り上対馬と下対馬と2つの島に分かれているようには見えない。 元々ひとつの島なのである。

pict-P1050203万関水道対馬が2つの島になったのは、1671年、江戸時代の初めに対馬藩々主・宗義真が地図中央下あたりの大船越に運河を掘らせたことによる。 しかし当時の土木技術では狭く潮流の速い運河(大船越の瀬戸)しか造れなかったため実際に船を通行させるには様々な問題があったらしい。

現在も船は通行しているらしいが小型漁船だけらしい。

上の写真は万関橋(まんぜきばし・赤字)のたもとから三浦湾の方向を見pict-P1050202た写真で、ずっと向こうに対馬の東側の外洋(日本海)があり、かなり入り江に入ってきていることが分かると思う。 入り江は写真の直ぐ前にある雑木のところから右下方向へ入り込み、次の写真の赤いアーチ橋(万関橋)の方へ続くのだが、多分、掘削されたのは上の雑木のあたりから次の赤いアーチ橋(万関橋)の部分を経て下の写真の奥の方までの区間だと思う。 

この運河の掘削は1900年に大日本帝国海軍によって為された。 当時、pict-P1050204万関水道西側の浅茅湾に海軍の重要な港があったが、東側の日本海へ出るには対馬の南北いずれかの突端を迂回しなければならず、その時間を縮めるという軍事目的で浅茅湾と三浦湾を結ぶ万関瀬戸(万関運河)が開設された。 

この万関瀬戸の開削によって対馬が上対馬と下対馬に分かれたのである。 将に『対』の島になったわけだ。

この運河が軍事目的で開削されたと書いたが、実際、1905年の日露戦争・日本海海戦の折に水雷艇部隊がこの運河を通って行ったそうだ。


masatukamoto at 02:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 04, 2012

対馬を巡る (3)

さて、ヤマネコと言えば私は第一番目に宮沢賢治の『注文の多い料理店』の山猫軒を思い浮かべてしまう。

しかし、対馬と言えば天然記念物に指定されている『ツシマヤマネコ』であろう。

日本では、ネコ目ネコ科ベンガルヤマネコ属として長崎県対馬に生息する『ツシマヤマネコ』と沖縄県西表島にpict-P1050165ツシマヤマネコ生息する『イリオモテヤマネコ』の2種が知られ、希少野生動植物に指定されている。

いずれもベンガルヤマネコ属とされているように、元々はシベリア・アムール川から朝鮮半島、そして中国から東南アジア全域に生息していたヤマネコであり、大昔には大陸と陸続きであった対馬や西表島が海進や土地の沈降などによって島となり、ベンガルヤマネコの亜種、変種として現在に至っているようだ。

上県町棹崎砲台跡一帯が現在は棹崎公園となっているが、その直ぐ近くに対馬野生生物保護センター(写真)があり、『ツシマヤマネコ』の保護・。pict-P1050164飼育を行っているので見学に訪れた。 

が、残念。 見学・公開などの事業を行っている公的施設は月曜日を休館にしているところが多いのだが、この日が月曜日であることを失念していた。 電気工事業者が車を入れて作業していたのでオカシイと思ったのだが、月曜・休館日ということが瞬時にピンとこないほど・・・ボケていたのかもしれない。ぶっはははは  可愛い『ツシマヤマネコ』の写真は、対馬野生生物保護センターの案内板の写真である。 思い立って直ぐに来れる所ではないだけに月曜休館は痛かった。 

仕方なく元来た道を引き返し佐護の交差点手前まで来たら軽自動車が2台前方で停車していた。 その前に太い山桜が幹ごと倒れ狭い道路を封鎖していたのだ。 この日、晴天ではあったが風が強く、切通しpict-P1050167で8mばかり崖上から幹部分が腐っていたため折れた山桜が落ちてきたのだろう。 怪我人が出なくて幸いであった。 先頭車のお爺さん(明らかに私より年長)、2台目の婦人、3台目になった私の3人でヨイショ・コラショ。 道路脇へ樹の幹や枝を寄せて出発。 少し走った所に駐在所があったので通報だけしておいた。 

対馬を南北に縦断する国道382号を南下してきたのだが、どのあたりまで走ったのか分からない。 古墳の案内板を見て脇道に入ったように思うのpict-P1050168だが・・・   石垣塀と立派な武家屋敷風の門構えの家の前を通りがかった。

入母屋造り総瓦葺き
の門で両脇に出番所が付いているという立派な構え。 外見上古い建物ではないように思えたが、江戸屋敷であってもこれだけの門は相当格式の高い大大名の屋敷でないと無かったのではないかと思えるほどのものであった。
pict-P1050166高床式倉庫
その屋敷にあった高床式の倉庫。 屋根は切妻瓦葺きであった。 対馬を巡っていて感じたのは高床式の倉庫が多いことだった。

下の写真は浜石を積み上げて瓦を葺いた木坂の藻小屋である。 藻小屋は復元されたものとのことだが、この小屋には櫓で漕ぎ進める伝馬船のような小さい舟を入れたり、その舟で刈り取ったホンダワラやカジメなど、或いは浜に打ち寄せられた海藻を収納しておくのに使われたもので、舟屋とも言うらしい。
pict-藻小屋合成完
藻小屋は対馬の西側海岸に多く点在しているらしいが、これは対馬の自然と大きい関係があるのだと。 対馬の89%は山林で耕地は3%、宅地が1%であるらしい。 この比率を考えれば食糧としての穀物の確保がいかに難しいか想像できる。 韓国の済州島が火山島であるため放牧地としては優れていても食糧自給が難しいと以前に書いたように思うが、まだだったろうか。 済州島の人々が全羅道から食糧としての穀物を買い入れていpict-P1050173藻小屋1-1たように、対馬の人たちも朝鮮から米を買い足すという生活を送っていたらしい。

対馬は東側よりも西側の方が地形的になだらかな所が多く、そのため耕作地も西側に多い。 この耕作地の肥料として海藻を用いていたので藻小屋の数も西側に多く見られるということだそうだ。


ミネラル分を沢山含んでいる海藻を肥料にするのは分かるが、海藻をそのまま肥料として使い続けたら塩分の濃い土壌となって良くないように思うのだが、大丈夫だったのだろうか。 江戸時代から明治時代にかけて大阪・河内は綿作りが主要産業のひとつになっていた。 この綿作りのための肥料として瀬戸内海のイワシを茹でて油脂分をしぼり天日干しにしたイワシ(干鰯=ほしか)を大量に用いていた。 この場合、湯がくという作業を工程に入pict-P1050176海神神社れているので綿栽培地の塩分濃度が濃くなるという心配はないが、対馬では海藻をどのようにして肥料にしていたのか、このことについては調べていない。

この藻小屋の直ぐ近くにあるのが海神神社と書いて『かいじん・じんじゃ』と読むのだと。 『かいじん』でも良いが『わだつみ』と読まないのに何となくしっくりしない感じを持ったが、それはそれとして海神神社の主祭神は豊玉姫神(トヨタマヒメノカミ)である。
pict-P1050177海神神社 2
豊玉姫については以前にも書いているが、海神・綿津見神(ワダツミノカミ)の娘である。 火遠理命(ホオリノミコト・神話『山幸彦・海幸彦』の山幸彦のこと)と結婚して鵜茅草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を産んでいる。

海神神社は豊玉姫のそうした関係からか、彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト、火遠理命=山幸彦)や子どもである鵜茅草葺不合命、それに宗像三神を祀り、対馬一宮と位置付けられてきた由緒ある神社である。

ちょっと参拝、と、鳥居をくぐったのだが、鳥居の奥に鳥居があり、そこから石段が続く続く。 小高い丘の斜面をpict-P1050178海神神社 3回るように配された石段を上がっていく。

この丘というか小山と言うか、一帯は原生林で手を加えられていないために小鳥や小動物の絶好の棲みかになっているらしい。 誰もいない山の参道の石段をヒーヒーハァーハァー。 一人っきりで上るのだから誰に気兼ねすることなく何度も休みつつ本殿を目指した。 真冬だと言うのに既に下着はグッショリ濡れ、汗が首筋を流れ落ちる。 それにしても足腰が弱くなったものだ。
pict-P1050179海神神社本殿
やっと本殿が見えてきた。

高い基壇の上に拝殿、その後ろに本殿があり、摂社が並んでいる。

行きは息が荒くて数えられなかったが、帰りに数えてみると280段(多分)あった。 四国・香川の金毘羅さんが800段近くあったから、そのことを思えば大したことはないが、笑っていたのは膝だけで、鏡は見ていなかったけど顔は引きつっていたのではないかと思う。

木坂から国道382号線を南下し仁位から脇道へ。
pict-P1050187和多都美神社写真は和多都美神社(わたづみ・じんじゃ)の社殿。

和多都美神社も先の海神神社も「延喜式」神名帳における「式内社」であり、結構古い歴史を持っている。 「延喜式」神名帳は927年(延長5年)に編纂されているから、両社とも10世紀初め以前に神社としての形態を備えていたのであろう。

ここの祭神は豊玉姫命と夫である彦火火出見尊(火遠理命・山幸彦)であるから、先の海神神社と同じである。
pict-P1050188和多都美神社
豊玉姫の父親は綿津見神(豊玉彦命)で航海安全や豊漁など海のあらゆることを司る神である。 

先の海神神社は神功皇后の旗八流を納めたことから当初は八幡宮と称していたらしい。 八幡神、つまり弓矢・武道を司る神である。

古代日本人の宗教観に関わっての土着信仰や山岳信仰、また仏教が伝わって以降、これらの対立や混淆或いは融合が行われてきたことについて書いたことがあった。

この対馬にしろ壱岐にしろ、日本と大陸を結ぶルート上の点として歴史上大きく位置づけられてきた所である。
pict-P1050185和多都美神社平和的な文化伝達の時もあれば武を持って海峡を渡った時もあったというルートである。
 
仏教が日本に伝えられる以前、即ち538年以前には土着の信仰というものが我が国にはあった。 あらゆるものには霊魂が宿り、森羅万象はそれらの働きによるものとする自然崇拝的な信仰である。

人々の願いや祈りというものは古代より現代に至るまで生命の安全加護、それに森羅万象荒ぶる霊魂の鎮まりを期待するものであろう。

こうした人々の願いや祈り、それに対馬、壱岐といった日本と大陸を結ぶルート上の位置を合わせて考えると、航海の安全や豊漁など海の全てを司る海神・綿津見神や、その娘である豊玉姫を祭神として祀ることは至極当然のことと思える。 

また、彦火火出見尊(火遠理命)は山幸彦のことであると書いた。 釣り針を失くしてしまった山幸彦は潮流の神である塩椎神(しおつちのかみ)の助けを借りて綿津見神の宮殿へ行き豊玉姫と結ばれる。 やがて山幸彦は地上の家に綿津見神から貰った潮満珠と潮干珠、それに失くした釣り針を持って帰るといった筋書きの話が神話・『山幸・海幸』であり、山幸彦が海の潮の干満を司る能力を持っていると考えれば彦火火出見尊が祭神として祀られるのもうなづけるのである。
pict-P1050190磯良恵比須の磐座※ 写真は三つ柱の鳥居に囲われた和多都美神社の磯良恵比寿と呼ばれる阿曇(安曇)磯良の墓(伝説)。 磯良は豊玉姫の子である鵜茅草葺不合命と同じであるという説もあり、海の神でもあるらしい。

海神神社については先に書いたように神功皇后の旗八流を納めたことから八幡宮と言われていた。 

八幡神というのは応神天皇(誉田別命・ほんだわけのみこと)を主神として、懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行った神功皇后と比売神(宗像三神)を含めた八幡三神の総称であり、日本と大陸を結ぶルート上の位置に弓矢の武道を司る神を祭神とする八幡宮が建立されたのも又うなづけるのである。 

人々の願いや祈り、祭祀する神と祭礼を行う場所には密接な関わりがあるものなのだ。

しかし、『困った時の神頼み』という言葉がある。 現世利益のような安っぽい信仰とは思いたくない。 万物に霊魂が宿っているのだと、霊魂と神を同質・同次元的にとらえ、未知なるものに対する畏敬と崇敬の思いゆえの言葉であると信じたい。




masatukamoto at 06:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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