October 2012

October 31, 2012

みちのく行 (2) 会津若松(飯盛山-1)

早朝の会津若松市内は車の走行はほとんど無く、道行く人の姿も見ぬまま飯盛山麓にある土産物店の駐車場に入った。 下の写真は『白虎隊伝承史学館』。 

会津若松は戦国時代には黒川と呼ばれ蘆名氏の領地であったが仙台の伊達政宗が戦で勝ち取った後、小田pict-P1060074-A原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が東北地方の領地分け(奥州仕置)を行い、会津若松には蒲生氏郷が封じられた。 この氏郷が黒川を若松と改め若松城を築き、町割を行って城下町の体裁を整えたと伝えられている。
その後、上杉景勝(家老・直江兼続)、蒲生秀行、加藤嘉明らが所領するが、1643年に保科正之が会津藩主に封じられ、以後幕末まで会津松平家が藩主を承継していくことになる。 この保科正之は庶子ではあるが徳川2代将軍・秀忠の四男、つまり3代将軍・家光の異母弟になる。

秀吉や伊達政宗など、いずれの武将・大名も名前はよく知られている人たちである。 秀吉の死後、徳川家康が台頭してくるが、そうした動きに反発していたのが五大老の一人・上杉景勝とその家老・直江兼続、この直江と密に繋がっていたのが五奉行の一人・石田三成であった。 景勝は直江に新城建築と兵力増強を命じて戦に備えるが、これに対して家康は会津征伐を開始した。 この会津の動きにpict-P1060077修-1呼応して三成が大坂で挙兵。 つまり会津での開戦が関ヶ原の戦いの緒戦であったとも言えるのである。

写真は飯盛山入口から少し登りかけた所。 左手に白虎隊記念館、真ん中の石段が白虎隊墓地まで続き、右手に『飯盛山動く坂道』がある。
僅かな時間を仮眠しただけの体は動く坂道の文字に強烈な魅力を感じたのだが、早朝の静けさの代償と言うか、動く坂道は物音ひとつせず、金属製の入口の門は閉じられ南京錠まで掛けられていた。

しかし何と言っても会津若松を印象深くさせるのは幕末の出来事によると私は思う。
1860年前後、日本は将に鎖国と言う太平の眠りから目覚めさせられ、国の興亡を賭ける大転換期にあったと言って良い。 武士階級に限らず世論は尊王攘夷、討幕・佐幕に揺れ動く社会不安の状況下にあり、京都にはそうした思想を持つ者たちが全国から集まり不穏な空気が漂っていた。 思想弾圧である安政の大獄が行われたのも、この弾圧を指示した井伊直弼が暗殺された桜田門外の変も同じ時期に起きている。 こうした状況のため京都の治安維持も京都所司代と奉行所だけでは難しく、幕府は都の治安を総括する京都守護職を新設pict-P1060079-修し、会津藩 9 代藩主・松平容保(かたもり)を任じた。

写真は白虎隊隊士たちの墓が並ぶ墓地。(A)

容保は内裏(孝明天皇)守護や上洛してきた徳川 14 代将軍・家茂の警護(家茂は薩摩藩や会津藩などの公武合体策を具現化するとして皇女・和宮と結婚、正室として迎え入れたことは良く知られている)の任にあたり、また薩摩藩や一部の公家たちと結んで京都より長州藩を追放する役割を果たしているが、この会津藩預かりとして反幕・討幕の勤王の志士や京都の町人を恐怖のどん底に落とし入れていた佐幕・武闘派の軍事集団が浪士だけではなく町人や農民も混じっていた新選組であった。

将軍・家茂は禁門の変を起こして朝敵となった長州征伐を命じられるが、第二次長州征伐の折りに大坂城で亡くなってしまう。 この頃には土佐藩の坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれ、薩摩は幕府の長州討伐に加担せず『一会桑』が主導する幕政に薩長両藩ともに反対することが示されている。 『一会桑』というのは一橋慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬のことである。 結果、長州征伐を中止した一橋慶喜は徳川 15 代将軍職に就き、1867年11月に大政奉還を行った。 翌68年1月には王政復古の大号令が発せられ、それは将軍職辞職を認め、江戸幕府及び京都守護職・京都所司代を廃すといった内容で、一橋慶喜と会津の松平容pict-P1060080保などの旧幕府勢力の影響力を無くして新政府を発足させるものであった。

写真は白虎隊隊士たちの墓が並ぶ墓地。(B)

1868年1月、兵庫沖に停泊していた幕府軍艦が薩摩軍艦を砲撃したことによって『戊辰戦争』の幕が切って下ろされ、会津藩や桑名藩を中心とする旧幕府軍と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍による鳥羽・伏見の戦いに展開することとなった。 この鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を拝した官軍の勢いはすさまじく、兵数では勝っていた会津や桑名などの旧幕府軍だが朝敵の汚名を消すことができずに敗戦を重ね、司令官たる一pict-P1060087-ローマ市寄贈橋慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬らが幕府軍艦で江戸へ落ち延びたことにより大坂城は長州藩が接収してしまった。
この後、官軍が旧幕府勢力の掃討作戦に着手して中国・四国・九州・東海を完全に掌握して関東へ。
官軍は更に江戸へ侵攻し、江戸城の無血開城を経て上野・彰義隊を壊滅させた。

写真は白虎隊の精神と行動に感動したイタリアのムッソリーニがポンペイの遺跡から発掘された石柱で制作した記念碑を元老院とローマ市民の名で1928年に寄贈したものらしい。 

新政府軍が江戸を制圧していた頃、奥羽各藩は会津藩・庄内藩の朝敵赦免を要請していたが新政府は拒否。 そのため奥羽越列藩同盟が結ばれるも順次降伏したり征討されたりして、やがて北海道・箱館(五稜郭)での戦で戊辰戦争は終焉を迎えることになる。 この奥羽越での戦線のうち会津藩と新政府軍の戦を会津戦争と言い、新政府軍が会津城へ攻めてきた時に動員されたのが16~17歳の武家の男児たちで構成された予備兵力の白虎隊であった。

白虎隊について知るには幕末の混乱期の様子や日本の歴史が進みつつある方向といった時代背景を参考にして見なければ彼らの行動を理解し評することはできないと思い、私の記憶を整理する意味も兼ねて幕末社会の大まかな様子を書き綴ってみた。
pict-飯盛山自刃地より-合成
上の写真は白虎隊隊士の墓が並ぶ場所より少し南側に下りた所から若松城(鶴ヶ城)方向を眺めたものだが肉眼で微かに天守閣を望むことができた。 沢山ある墓石は白虎隊士のものではない。

圧倒的戦力を持って奥羽越に侵攻した新政府軍は次々と拠点を制圧し、現在の福島県では二本松城を落とし、続いて若松城(鶴ヶ城)へ進軍した。 新政府軍の侵攻に対し若松側も領地につながる各街道口に主力部隊を配置していたが敗戦を続け、城下を警護する予備隊であった白虎隊をも戦場へ投入したが撃破されてしまった。 白虎隊は、士中一番隊 49名、二番隊 42名、寄合一番隊 106名、二番隊 67名、足軽隊 79名で合計pict-P1060088-自刃の地343名で構成されていたようだが、それらのうち二番隊の 42名が戸ノ口原で戦ったものの壊滅的打撃を受け、重症の者を抱えながら飯盛山へ撤退した。
この時、市中戦闘によって起きた火災を鶴ヶ城の落城と思った白虎隊隊士らが自刃した場所が上の写真を撮影した場所であり、そこには彼らが自刃した地であることを示す石標(上の写真)が建てられている。

私が白虎隊について初めて知ったのは藤山一郎が歌う『白虎隊』であった。
これは我が家にあったレコードを蓄音機で聴いたのだから小学校の低学年かそれ以前のことであったろうと思う。 当時のものなど今は残ってはいないが、藤山一郎が歌っていたという記憶は確かだったので調べてみると、島田磬也作詩、古賀政男作曲で詩吟が鈴木吟亮、テイチクレコードから1937年(昭和12年)に出されたものだった。 『白虎隊』のレコードを聴いていた頃には特段何も思わなかったのだが、戦後『青い山脈』や『長崎の鐘』を歌った藤山一郎が何故『白虎隊』を歌っていたのか、その時代を思わざるを得なかった。 まあ参考までにYouTubeの『白虎隊』のレコードにリンクしておく(青字部分をクリック)。 
pict-P1060094-鶴ヶ城を望む
詩吟冒頭に「南鶴ヶ城を望めば 砲煙上がる」と吟じられる鶴ヶ城であるが、自刃の地から見れば、より正確には南西方向となる。 まあ「南西鶴ヶ城を望めば~」よりも「南鶴ヶ城を望めば~」の方がしっくり来るかも。  赤い囲いが天守閣。

ともあれ16~17歳の少年たち20名が鶴ヶ城を望みつつ腹を切ったというのが白虎隊の話の結びになるのだpict-P1060081松平容保弔歌の碑が、やはり悲劇というほか無い。

写真は松平容保が自刃して果てた白虎隊士を思って詠んだ『幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う』という弔歌であり、源 容保の名が刻まれている。

忠義仁孝礼智信悌は南総里見八犬伝に出てくる八犬士が持つそれぞれの数珠玉に記された文字であるが、儒教精神の支柱を表していると言え、江戸期の武士が心得るべきことでもあった。 
1643年、会津藩主に封じられた保科正之は儒教に心酔し、徳川4代将軍・家綱の補佐役として講義もしていた人物であり、会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ)は1804年に藩校・日新館を建てて藩内子弟の教育に力を注いできたというように会津藩は教育熱心な藩であり、その藩校で学んだ白虎隊の面々は忠義仁孝礼智信悌の徳目をしっかり身に付けていたに違いない。
会津では10歳で藩校・日新館に入るが、それ以前の6歳から9歳の間は地区ごとに武家の子息10人を単位に什(じゅう)という集団をつくって『什の掟』というものに従わせていた。 『年長者の言ふことに背いてはなりませぬ』など7項からなる掟であるが、項の最後に『ならぬことはならぬものです。』との一説が付加されているもの。
pict-P1060083少年武士慰霊碑年長者の言うことには無条件で従わなければならないことを幼少時より叩き込まれ、武家社会における忠孝の精神を美と学んできた白虎隊隊士にとって、落ち延びてきた飯盛山から煙や炎を上げる鶴ヶ城や城下の町を遠望した時に彼らの行動上の選択肢は無かったのかもしれない。

白虎隊の墓地には写真のような『少年武士慰霊碑・白虎隊外戦死者14歳から17歳』というのもあった。

先に20名の白虎隊隊士が腹を切ったと書いたが、その中で飯沼貞吉という少年のみ息を吹き返し、彼が伝えたところでは、隊士らは城に戻って戦うことを望む者と敵陣への斬り込みを望む者とに意見が分かれたそうだ。 しかし、いずれにせよ敗戦が決まったような戦で敵に捕まって生き恥をさらすぐらいなら腹を切ろうと、鶴ヶ城は焼け落ちていないことを知ってはいたが飯盛山での自刃を決行したと言うのpict-P1060086殉難烈婦の碑だ。

彼等の行動について、集団心理面、或いは鶴ヶ城落城について誤認があったかどうかなど別にして、社会背景や価値観の異なる現代と比較することなど出来ないが、こうした彼らの行為を美談と考えるかどうか、ムッソリーニは果たして何に感銘を受けたのか、私には単に幕末の一地方の悲劇としてしか見られないのだが・・・

碑には左の写真、『会津藩殉難烈婦碑』というものもあった。 言葉をそのまま解釈すれば、会津藩の危機に際し身を犠牲にした節操固き貞女という意味だから、老壮青年の武士たちだけではなく、白虎隊の少年たち、それに白虎隊以外の少年たちや本来戦には関わりの無い婦女子も新政府軍との戦に臨んだことが分かる。

会津戦争時、藩の家老であった西郷頼母の母・妻・妹に娘など一族21人が自刃している。 このことで思い出したが、新羅と唐(中国)の連合軍によって滅ぼされた百済のことを以前に書いた。 百済兵をたった5千人だけで新羅軍勢5万人を黄山平野で迎え撃った階伯将軍も同じようなことをしていたのだ。 自分の家族が敵の奴隷となって辱めを受けるより自分の手にかける方が良いと家族みんなを殺して戦場に赴いたことだった。 
当然この行為は彼なりに家族のことを思ってのことであろうし、彼自身が後顧の憂いを断つという思いもあったであろう。 それに少々うがった見方をすれば、彼の行為を彼の固い決意と兵士たちが受け止め、数少ない兵士たちが一粒万倍の働きをしてくれるとの期待も持っていたかもしれない。

戊辰戦争では会津戦争における白虎隊などの犠牲の他、福島・二本松藩でも12歳から17歳の少年兵たちの多くが戦死している。
pict-P1060103滝澤本陣写真は旧・滝沢本陣 横山家住宅(国史跡・重文)。 もともとは藩主の休息所であったが、戊辰戦争時に松平容保の出陣によって陣屋となった。

戊辰戦争における北越戦争については長岡藩の河井継之助を主人公として司馬遼太郎が『峠』(上中下巻)という題で新潮文庫から出版している。 司馬遼太郎の取材は徹底しており、北越戦争に至る歴史背景について参考となる読み物なので紹介しておこう。 

まあ、いずれにしても戦というものは何時の時代であれ、いずれの地域であれ多くの人たちを不幸にする行為であることは間違いないことだ。

戦後日本では様々な主張が為されてきたが、日本国憲法を守ってきたことによって平和が維持されてきたことは歴然としている。 それが今また安倍や石原といった恐ろしく危なっかしい連中が声高に日本国憲法の破棄・改正を唱えている。 日本維新の会の代表・橋下は憲法破棄までは公言していないが改正論者であり、彼らは互いに互いを補完する立場にある。

奴らなら何かをしてくれるなどと曖昧な期待感だけで彼等を支持するような馬鹿げたことだけは止めてほしいものだが・・・・・ 



masatukamoto at 13:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

October 29, 2012

みちのく行 (1)

『みちのく行』から帰宅して1週間。 この間何をしていたのか、ひとつひとつの行動が思い出せない。 時間ばかりが過ぎてしまったなどということはないのだが・・・

今回の『みちのく』への旅は F 氏の蔵王・月山に関する紅葉ということばに触発されての行動であったことは確かだが、昨年3月11日以降出来るだけ早い機会に仙台を訪れたいと思い続けてきていたので、これらの思いが私たちの素早い行動につながったのだと思う。

旅行する場合、凡その行き先(方面)が決まれば飛行機か列車か、それとも自動車かと移動手段を考えるのだが、このところ家内との旅行は圧倒的に自動車が多い。 これは荷物が大きく重くても移動上の負担が無いことと、道路さえあれば気の向くまま時間に左右されることなく自由に動き回ることができる、つまり私たちのワガマpict-ドライブコースマ心を満足させてくれるというのが最も大きい理由である。

今回の『みちのく行』は一番の目的が2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって起きた大津波によって自宅や会社社屋だけでなく、自らも津波の濁流に呑み込まれ 7 キロメートルも上流に流されて九死に一生を得た安倍夫妻に会って互いに元気でいることを喜びあい、被災後自宅や会社再建に努力してこられたことに対し慰労したいということである。 そのため行く先(方面)は宮城県大崎市であり、蔵王や月山の紅葉を観るのは目的としては二番目、そしてそれらの地を結ぶルート上で訪れる地は付随する言わばオマケの訪問地となる。

注1これまで安倍夫妻のことは『東松島市の友人 A 氏』と表記してきたが、夫妻は新聞やテレビ・書籍などにおいて顔も氏名も公開(表)されている爲、当ブログページにおいても秘匿枠を外すことにした。

その今回の『みちのく行』であるが、地図に示した緑色の線がドライブ・ルートであり、赤い点が宿泊地である。
緑の線で分かるように名神高速道路の米原 JCTより北陸自動車道に入り『みちのく』へ向かったのだが、我が家を出発したのが夕刻に近かったので富山県の小矢部SAで遅い夕食をとった。

このサービスエリアは北陸鉄道が経営するレストランで、私は『富山味紀行』と名付けられた1100円の定食を、pict-小矢部川SA北鉄レストラン-1家内は1500円の『うな重』を注文した。 少食の家内としては珍しいものを注文したと思ったのだが、やはり4分の1は私の口に。 値段の割には肉厚の良いウナギで味つけも良く美味しい『うな重』であった。 私が注文したのは写真の『富山味紀行』。

盆に盛られているのは、鱒の押し寿し、ホタルイカの酢味噌和え、鱒と豆腐の揚げ物(あんかけ)、白エビのかき揚げ、うどんの5点。 うどんを除いて富山の名産と言える。 鱒の押し寿しをはじめ私の大好物ばかりで嬉しかったのだが、難点は私にとって味が濃すぎることであった。

食後しばらく休憩の後、柏崎の刈羽 PA まで走って仮眠を取った。

夜通し走ることも出来たのだが、やはり疲れるということが一番、二番目に友人を訪ねるのに何時でも良いというわけではない、それに三番目になるが先にも書いた通りルート上で訪れる土地はオマケの訪問地だからオマケも大いに楽しみたいという私たちのワガママ、これらの理由から敢えて刈羽 PA で仮眠したのである。

仮眠と書いたように時間的には2時間も無かったと思うが、疲れている時には例え1時間でも深い眠りに落ちるので覚醒後の疲労感は全く違ったものになるものなのだ。

午前4時少し前。 薄明どころか未だ真っ暗な中、刈羽 PA を出発して新潟中央 JCT から磐越自動車道に入った。 磐越自動車道は阿賀野川の流れに沿うように会津若松・猪苗代湖を経て福島県いわき市まで延びているが、阿賀野市(新潟県)から会津若松市(福島県)の間は山間部の渓谷に沿った道路なので殆ど全線が片道1車線となっている。 この道路を低速車が1台走行すると車列は延々と続き目的地到着時刻を予測できなくなることを以前に走って知っているので夜も明けきらぬうちに刈羽 PA を出発したのである。

ところが、山間部の渓谷沿いの道路というのは放射霧が発生しやすい。 しばらく上天気が続いていたからだろう。 放射冷却による霧の発生で超安全運転を余儀なくされた。 後ろから来る長距離トラックにせっつかれ、何度も道を譲ったが、それでも会津若松には午前6時過ぎに到着した。

《 以下つづく 》
  




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October 15, 2012

紅葉だ紅葉だ。  F 氏の言葉に・・・

数日前、家内と秋植えの花の苗を買いに某ホームセンターへ行った。

その折、久し振りに弁護士 F 氏と会い、しばし立ち話。

数日前に蔵王と月山へ行ってきたけど上の方は紅葉まっさかりだったと。

うーーん、月山と言うのは山形県の羽黒山・湯殿山と合わせて修験道の聖地で『出羽三山』と呼ばれている山のひとつで標高は2000m近くあったと思う。 50年近く前の学生時代に登ったことがあるが頂上あたりは灌木群落で見晴らしが素晴らしかったことを記憶している。 頂上に月山神社があったが、夏の間だけ神職が常駐していたのではなかったろうか。 蔵王にしろ月山にしろ長い冬の間、厳しい風雪にさらされる地帯である。

もう『みちのく』の山々は紅葉に染まっているのだ。

そう言えば先日10月8日(寒露・体育の日)の日の出の写真を撮ったのが下の写真。 
10と10-2







フィルター無しで撮影したために太陽の周縁が光線でハッキリしないが、日の出位置がテレビアンテナよりも随分右方向(南方向)になっているのが分かる。

それに対して夏至(6月21日)に近付く6月10日(入梅)に撮影した日の出の写真が下である。
10と10-1







上下2枚の写真は、ほぼ同じ位置からの撮影である。 2枚の写真をテレビアンテナを中心軸として見れば日の出の位置が随分動いていることが分かる。

冬至(12月21日)の日の出の位置は上の写真よりももっと右方向にズレることになる。

季節は明らかに秋、そして更に深まろうとしているのだ。

正直に言えば F 氏の言葉に触発されての行動となるが、今秋に予定していたフランス行きは懐が淋しいので中止して国内旅行で我慢しておこうという家内の言葉に応えた形になるかな?

学生時代も仕事に就いてからもだったが、秋の旅行など試験をはじめ行事繁多で考えられなかった。 懐は淋しいけれど毎日が日曜日となった今こそ紅葉の素敵な時期に『みちのく』を旅することができるのである。

思い立ったが吉日という言葉もある。 今日これから出発する。 当分ブログはお休みである。


masatukamoto at 11:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

October 11, 2012

今日の天声人語は小気味良い 2012.10.11

最近のマスコミの姿勢には賛同し難く感じることが多いのだが、今日の朝日新聞の第一面・『天声人語』は痛快であった。 この『天声人語』の筆者は最近の日中交流関係を包括的にとらえ、中国の行為を大人と子どもに対比させて論じているが、この筆者の指摘を私も支持したい。

ただ紙面枠との関係もあったのだろうか、「難じておく」で擱筆となったのは少し残念。

ともあれ原文を一読あれ。
11天声人語-1
11天声人語-2

August 18, 2012 付で『暑い熱い夏』という題で拙文を開陳したが、その折に8月16日付の『天声人語』を引用しつつ、《中国に真の『大人』はいなくなってしまったのだろうか。》と嘆息の一行を載せておいた。

『大人』。 中国語としてはターレンと読む(四声の発音を表記できないので省く)が、日本で言うところの『大人』イコール『おとな』とは意味合いが異なるのだ。 つまり、ただの『おとな』ではなく、中国(語)では人格的に高潔であって、その言動が人々に信頼されている『おとな』を『大人(ターレン)』と呼ぶのである。 

従って『天声人語』の筆者が用いた『大人』と私の一文の『大人』とは少し意味合いが異なりはするが、とりわけ尖閣の問題がクローズアップされてから以後の中国は政府も国民の中にも『大人(ターレン)』は見当たらず、日本で言うところの『大人(おとな)』どころか全くジャリ(子どもの意味)ばかりに見えるのだ。

奈良文化財研究所飛鳥資料館は今月19日から日本・韓国・中国の重要文化財を集めて特別展『花開く都城文化』を開催する予定だが、中国側から輸出許可が下りないかもしれないと連絡が入り、93点の文物が未だに届いていないということも起きている。

『坊主憎けりゃ袈裟まで』という慣用語があるが、将に日本に対する現在の中国の姿勢を示しているようで言い得て妙である。

日本政府も経済界も、勿論日本国民全体もだが、単に中国(政府・国民)の言動をあざけり難じるだけでなく、中国の姿勢を『他山の石』として、『人のふり見て我がふり直せ』の俚言の通り自戒することも必要であろう。

中国との尖閣にしろ韓国との竹島にしろ、戦後処理をきちんと行ってこなかった自民党政治のツケが今になって回ってきたと受け止めるべきであり、いずれも領土・領海問題は存するとの認識で互いに友好の立場から解決策を模索すべきであると考える。

話は変わるが、先ごろ韓国の団体がニューヨークのタイムズ・スクウェアに慰安婦問題に関する広告を掲げたそうな。 西ドイツのブラント首相がポーランドを訪れ謝罪した時の写真を用いて。 

この韓国の団体の行為がマスコミで云々されているが、そのことよりもドイツがユダヤ人迫害についての責任も含め何年にもわたって戦後処理をきちんと行ってきたことを日本政府も国民も気付かねばならないのではないだろうか。 マスコミも話題性のみで取り上げるだけなら人々の考えを一定方向に煽動するだけの結果にしかならないことは分かっているはずだ。 

眠くて眠くて朝刊に目を通したら又寝入ってしまった。 先ほど目覚めたが、徹夜ができない年齢になってしまった。 言いたいことは未だあるが今回はこの辺で。


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October 10, 2012

感謝についての個人的思い

"ありがたさ"を感じ感謝すると言えばその対象は際限なく広い。 それは形而上・形而下を問わず森羅万象ありとあらゆる目に見え形あるものに留まらない。 それは青く広がる空かもしれないし路傍に転がる小石かもしれず、或いは実体が無く目に見えない神様であるかもしれない。 また感謝する心や行動は、『何かをしてあげたから』、『何かをしてもらったから』というギブ&テイクの関係だけに生じるものではなく、"ありがたさ"を感じ感謝するというのは理屈ではなく、つまり意識せずとも自然に湧き出てくるものだと私は思っている。 などと言いつpict-ブックマーク・グラナダつ理屈をこねているようにも思えるが、別に哲学的命題に取り組もうと高尚な話題を提供しようとしているのではない。

更に話を進めると哲学的宗教的話題になるので最も一般的なモノを介在しての感謝について書くことにしよう。

写真はスペイン・グラナダのアルハンブラでお土産として買い、現地の郵便局で投函しようとして出来ずにポーランドの自宅まで持ち帰り、改めてポーランドから日本の私たちのもとへ送ってくれた『しおり・ブックマーク』と絵葉書、それにふたつの封筒である。

送り主はアンナ。 ポーランドのクラクフで会って以来交信を続けているお嬢さんで、以前に何度か紹介しているカトリック系教会合唱団の指揮者である。  ヴァチカンをはじめヨーロッパ各地の教会祭礼やコンサート活動に出かけた時に何かしらお土産を送ってくれるのである。 ブックマークはアラビック模様の織物であるが物質的金銭的価値としては大したものではない。 が、先に書いた"ありpict-アンナの手紙-1がたさ"ということで言えば、このブックマークの価値は計り知れないものがあると私は思っているのである。

感謝するのは理屈ではないと書いた。 理屈ではないからアレコレ書く必要はないが、"ありがたい"と感じる前段で思考上(感性としての)幾多の条件、この場合は送り主がアンナであることや、スペインで投函する予定だった封筒をポーランドからの封筒に入れていたことなどを通して彼女の思いを推量するといったことなどの羅列はある。 しかし、それらは瞬時に完了するものであり理屈をこねると言うものではない。 小説を読み進めていく中で、作者が文字として表していない行と行の間に込められた作者の気持ちを読み取ることが出来るのと同じようなものである。 いちいち全てを説明、つまり理屈をこねなくとも理解できる、分かるということである。

次もモノを介しての感謝である。

北新地の『弧柳』で食事デートしたさんが家内の土産にとくれたのが『たねや』の"栗子みち"という和菓子。
pict-P1060057-1
栗を餡で包み、茶巾絞りにした上品な味わいの和菓子であり、写真のように抹茶とは良く合う。

これは秋限定のお菓子であるが、我が家の娘扱いにしている M ちゃんがいつも持ってきてくれるのが『たねや』の最中。 これが美味しく、とりわけ家内の大好物のひとつなのである。

『たねや』の最中も以前に紹介した京都・七条大宮の『笹屋伊織』の"お手作り最中"に似ているのだが、餡の中に求肥の入った"ふくみ天平"という最中が、これまたウマイ。 おやつやお菓子など50年以上好んで食べるということが無かった私だが、この数年ほど前から宗旨替えをしたように甘いものを良く食べるようになり、『たねや』のお菓子も好物のひとつである。 

家内はもともと甘いものが好きで井村屋だったか小倉屋だったかの大きい小豆缶詰を抱え込み、洋スプーンでムシャムシャ食べていた。 夜、そんな家内の後ろ姿を見ていると、化け猫がペロペロ行燈の油を舐めているようで気色悪く、ぞぉーと・・・ 冗談のような本当のような、それくらい甘いものが好きだったのである。 そんなわけで大好物であった。 さん「ありがとう」。

この機会に S ママにも「ありがとう」。
pict-P1060052-1私たちに気遣うことなど要らないのに・・・・・

復興の道筋はまだまだ遠かろうにと思うのだが、元気に精進されることを祈るばかりである。

でもフィンランドのブランド、イッタラ(iittala)のガラス容器でとても嬉しく、写真のように使わせて頂いているので報告かたがた感謝の気持ちを伝えておきたい。 私のフィンランド好きを知ってもらっていたのかもしれない。 細やかな配慮にも、再度、「ありがとう」。

好みを知ってということでの頂きものが今一つあった。
pict-P1060050-1スイスのネスレ社が販売しているエスプレッソ・コーヒーメーカーの『ネスプレッソ』という機械である。

コーヒーを抽出する際に少々ウルサイのと、1杯分ごとにカプセルを取り替える面倒さを苦にしなければ美味しいエスプレッソ・コーヒーが飲めるという優れものである。

カプセル1個が70~80円。 喫茶店で飲むことを考えれば安い。
音がウルサイのは17気圧だったかの圧力をかけてコーヒーを抽出するためのコンプレッサーの動力音だと思うのだが美味しいコーヒーを飲むためには多少の我慢も必要というわけ。 

私がエスプレッソ・コーヒーが好きだということを知っていてのプレゼント。 とにかく「ありがとう」。

モノを介しての"ありがたさ"と感謝について書いてみたが、文(文章)に表れない見えない事柄に対しても感謝の気持ちがあるのだが、感性に関わる部分について他者に分かってもらえるように書くというのは文筆を生業とする者であっても難しいことである。

つまり"ありがたさ"や感謝といった感性に属することについての理屈は不要であると・・・・・ 



masatukamoto at 07:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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