October 2012

October 09, 2012

ノーベル生物・医学賞受賞者決定・・・少し別な視点から

"Cell researchers win Nobel Prize"
The 2012 Nobel Prize in Medicine has been awarded jointly to British biologist John Gurdon and Japanese stem cell researcher Shinya Yamanaka.
アイリッシュ・タイムスの見出しと記事の冒頭部分であるが、10月9日の各国各紙面とも第一面か科学面のトップを飾っている出来事である。

このことは素直に賞賛の気持ちを込めて「おめでとう」と言うべきであろう。
pict-P1060041-1記者の質問にガードン卿は、「自分たちの研究は1960年から70年あたりの研究であり、山中教授がそれに脚光を浴びせてくれたことで自分もノーベル生物・医学賞共同受賞の栄誉に浴すことになった。」と謙虚に感謝の意を述べていたが、山中教授もノーベル賞受賞は国や大学、研究仲間や友人たち、それに家族の支援があったからだと感謝の言葉を何度も口にしていた。

八百万の神々を畏敬の念をもって尊崇する日本人は何事に対しても"ありがたい"という感謝の気持ちを素直に感じ、言動についても率直に有難さを表現してきていた。

しかし科学が進歩と発展を遂げる過程で物質の究理が進み、多くの自然現象の因果が解明される歴史の過程を経る中で、人々の思いや考えは傲慢になり素直に感謝するという感情や、"ありがたい"と思い考えを巡らせる思考回路も、それを行動へ移すためのスターター機能も全てが錆びつpict-P1060046-1き腐っている日本人が多くなってきているのではと思うことをしばしば目にしてきた。

誤解が無いように書いておくが、八百万の神々と書いたからといって私が熱烈な(神社・教派)神道の信仰者であるというわけではないし、私が物事の善悪の判定を下せるほどの高邁な精神も十全の能力を身に付けているというわけでもない。 そんな、言わば平凡な日本人である私でさえ感謝の心を持てない人たちが増えているように見受けられ程、昔の日本人とは変わってきているように思えるのだ。

そうした傾向の世の中にあって、科学を信奉し、自らその先鋒として活躍しているガードン卿や山中教授がノーベル生物・医学賞受賞決定に際し、記者の質問に答えた言葉の中に広く人々を称える意味合いでの感謝の言葉が語られていたことに何だかとても清々しい思いを私は抱いたのだが・・・・・




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October 08, 2012

今秋の行動予定

予定は未定とよく言われるが全くその通りであって決定しているのでも既定のことでもない。 私の場合、多分に希望的というかwishful程度の願望を込めた、そう、「ヤリタイ」ってことも含めたものを予定としている。

前ページで木管リコーダーの演奏会のことを書いたが、音楽や広い意味での芸術や文化、そのほかスポーツpict-img206に読書、食欲、豊穣(実り)といった言葉が秋という季節と結び付けられることが多い。

今秋既にチケットも手に入れ鑑賞を楽しみにしている美術展がふたつある。

ひとつは『エル・グレコ展』で、大阪・中之島の国立国際美術館で開催される。

写真のパンフレットはエル・グレコの作品『無原罪の御宿り』を基にしたもので、この原画はスペインの首都・マドリードの南70kmばかりのトレドにあるサンタ・クルス美術館にあるのだそうだ。 もともとはサン・ビセンテ聖堂オバーリェ礼拝堂の祭壇画らしいが上記美術館に寄託されているのだと。

2年前の秋にイベリア半島を周回するようにスペイン・ポルトガルを巡ったが、この時にはマドリードから北へセゴビア、レオン、ルーゴを経てサンティアゴ・デ・コンポステーラ、そしてポルトガルを縦断し、再びスペインのセビリアに入り、コルドバ、グラナpict-img200ダ、バレンシアを巡ってバルセロナへ出て、バルセロナから帰国の途についたのでトレドは訪れていなかったのだ。

マドリードのプラド美術館でグレコの作品、『寓話』や『十字架を抱くキリスト』、『聖アンデレと聖フランチェスコ』などを鑑賞できたので次回はトレドも巡ってみようと思っていたら向こうからやっ来てくれたのだ。

ギリシャのクレタ島で生まれた彼(メニコス・テオトコプーロス)は20歳半ばでイタリアのヴェネツィアへ渡り、その後ローマを経てスペインのトレドで画家としての生活を送った彼の作品は大きい祭壇画や聖人など小品の肖像画も多い。 今回どのような作品をどれくらい集められたのか、又どこの美術館のものなのか、気になる気になる。
ハハハハハ、音だけで聴けば日立の宣伝のような・・・

今ひとつはマウリッツハウス美術館展で神戸市立博物館での開催である。
pict-img205
マウリッツハウス美術館はオランダのハーグ(デン・ハーハ Den Haag)にあり、今年から2014年まで増築改修工事に入るらしく日本での美術館展を開催できるようになったみたいだ。 この美術館は規模は小さいがオランダ絵画をはじめとする名品を収蔵しているとのこと。 中でも世界で30数点しかないというフェルメールの作品のうち3点(真珠の耳飾りの少女《青いターバンの少女》、ディアナとニンフたち、デルフトの眺望)を所蔵しているそうな。 

フェルメールが生きた時代は1632年~1675年で、日本では江戸時代初期に該当する。 彼の本名はJan van der Meer van Delft ヤン ファン デル メール ファン デルフト、つまりデルフトのヤン ファン デル メールというようにオランダのデルフト生まれであり、レンブラント(1606年~1669年)やフランス・ハルス(1581/1585~1666年)と同時代に活躍したオランダを代表する画家である。

フェルメールの作品はこれまでにも各地の美術館で見てきた。

写真の『真珠の耳飾りの少女《青いターバンの少女》』も10年ほど前に天王寺の大阪市立美術館で見たし、20pict-img201年以上前には東京の国立西洋美術館で見ているから今回で3度目になるかな。  1度でも2度でも3度でもエエなあと思える作品は何度見ても飽きないしええもんである。

今回神戸での出典作品にはオランダの黄金時代と呼ばれる彼らの作品の他、フランドル画のルーベンス、ヤン・ブリューゲル(父)なども含まれているそうだから楽しみとするところが多い。 だから前売りの割引チケットを買っていつ行こうかと予定を考えているのである。

行きたいということでは東京のサントリー美術館が11月初めまで企画展『お伽草子』を開催しているので是非是pict-img202非行きたいと思っているのだ。

おとぎ話として知っているものであっても絵草子としての体裁を見たのは極一部だけ。 この企画展では相当な紙面が展示されているらしい。 ところがところがである。 会場は東京・六本木。 日帰りするにしても新幹線の往復。 うーーん、年金生活者の身には厳しいところである。 夜行バスという手もあるが若い頃とは異なり、流石に今の齢ではチョット苦しい。

そんなこんなで願望の段階、実行に移せていない。 wishful どころか thinking 程度である。 東の方向で何か他の用件が見つかれば、"兼ねて" とか、"ついでに" とか何とか理由をこじつけて出かけないこともないのだが、ぶっはははは、自分を騙すのも何やら気が咎めて笑止である。

家内が提案してくれたフランス行きもあるが、今は何となく気が重い。 大手旅行会社のパッケージ・ツアーで南仏ニースからプロヴァンス、ロワールを経てパリへとフランスを縦断するコースを辿るものだ。 個人旅行で行くとなればパッケージ・ツアーのように無駄なく段取りの良いスムースな移動はできないし、費用にしても個人でなら2倍以上を見ておかねばならない。 

パッケージ・ツアーの便利さは私もよく知っている。 道案内に観光案内とガイドはきちんとしてくれるし、ホテルからホテルへのバス移動だから大きく重いラッゲージを自分で持ち運ぶ苦労も要らない。 もっとも行きたいところ、滞在したい時間、食べたいものなどなど、こうしたことについてのワガママはできないが。 はてさて、思い立ったが吉日などと気楽に動けたら良いのだが・・・

毎日がサンデーの身ながら財布もサンデー毎日。 ははははは、全く週刊誌のような・・・


masatukamoto at 13:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

October 06, 2012

安立リコーダー・コンソートと演奏会のこと

9月28日、大阪の某小学校でのリコーダー演奏会に家内の演奏仲間が出かけて行った。

小学校の音楽教育において使用する楽器は、低学年においてはリズム楽器より入り、徐々にメロディー楽器へとpict-修整安立リコーダーコンソートプログラム-2指導を広げていくことが基本の流れになっている。

現在は小学校3年生で旋律楽器としてのリコーダーを用いた指導が始まるのであるが、私の記憶にはリコーダーを持ったことも指導を受けたことも残っていない。 私が覚えている限り、小学校で教わった旋律楽器は木琴とハーモニカだけだった。 教室には足踏みオルガンがあったけれど先生専用であったように思う。

まあそれはそれとして、我が家内も私と年齢が近いからリコーダーを演奏したり指導を受けた経験はない。 もっとも旧師範系大学を出ているから楽譜を読みピアノを上手に弾くことはできる。 その家内がリコーダーを本格的?に練習し始めて20数年になるだろうか。 自慢じゃないが当初は技量において私の方が遥かに上であった。
pict-img195-B修整神楽のための篠笛、龍笛、洋楽のためのフルートと、10代の頃の経験がリコーダー演奏でも大いに役立ったからであった。
しかし、『継続は力なり』と言われる通りである。 ピーピーと雑音にしか聞こえなかった音色が毎日の練習で徐々に音階を正確に出せるようになり、音の強弱や滑らかさに切れなど息の吹き方や運指など技量面での成長も著しpict-img196-Bく、10数年以前からは自宅で練習をされても嫌な気分にはならなかった。

このメンバーは普段それぞれリコーダー演奏とは異なる仕事に従事しており、所謂音楽のプロではない。 が、現在は 秋山 滋 氏(大阪音大・相愛大講師)の指導を受け、なかなかの実力を持っている。(私の評価だからエエ加減なものではあるが・・・) 
pict-img197-Bそんな彼女ら(男性が一人混じっている)がリコーダーの指導を受け始めた小学校3年生の児童たちにリコーダーで演奏することの楽しさや合奏することの素晴らしさを感じてもらおうと小学校へ出張演奏に出かけるのである。
仕事は休暇を取って手弁当で・・・ なかなか出来ることではない。 やはりこのメンバーの面々自身が余程リコーダーを演奏したり聴いたりすることが好きなのであろう。 『好きこそ物の上手なれ』と言うが、彼女らの実践もこの言葉を裏付けている。

このところ随分過ごしやすい素敵な季節になってきた。
pict-秋山 滋 コンサート付加『天高く馬肥ゆる秋』、空は高く澄み渡り馬たちも肥えてたくましくなる絶好の季節だと秋を評する言葉があるが、そのほか読書、芸術、食欲、豊穣に関することなど秋の季節の素晴らしさと結び付ける言葉も結構あり、春夏秋冬それぞれの季節を愛で、自然との一体感を大切にしてきた日本人の感性ならではの表現かと思う。

上のパンフレットは秋も深まる11月24日(土)に行われるリコーダーコンサートのものだが、リコーダー奏者3名のうち、赤い線で囲ってあるのが 秋山 滋 氏で青い線で囲っているのが麻子夫人でチェンバロの担当。
このコンサートで異色?と思うのはベースの木村知之氏。
異色というのは私の偏見と言えるかもしれないが、ジャズライブに木村氏が加わっているのを知っているので、「あれっ」と思ったのだ(失礼)。
他は台湾のリコーダー奏者チンウェイ・リン氏と深田智英(ふかたちえ)女史。
pict-山岡重治・太田光子コンサートコンサート会場になっているのが"
タケヤマ・ホール"(南海電車・我孫子道駅スグ)。 ちっちゃなちっちゃなホールだが知る人ぞ知る施設である。 このホールの主が竹山宏之氏。 竹山木管楽器製作所の社長さんであり、日本の木製リコーダー製作については代表的存在で『TAKEYAMA RECORDER』は世界に通用するブランドである。

コンサートの今一つはリコーダー界の重鎮・山岡重治氏と太田光子女史のリコーダー演奏にチェンバロ担当が何と桒形(くわがた)亜樹子女史。 桒形女史も太田女子も後輩の学生指導と併せて演奏活動を活発に行っておられる方だから、これはもう何としても聴かせてもらわねばと。 

深まる秋の午後、ヨーロッパ宮廷貴族の気分で耳を澄ませて音を楽しむのも良いかと。 はてさて私の行動予定に組み込めるかどうかが・・・ 
  


masatukamoto at 08:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

October 05, 2012

久し振りに中之島・堂島界隈 (『北新地・弧柳』)

1年前くらいになるだろうか、某医院の待合室で"家庭画報"をペラペラめくっていたら『北新地・弧柳』の紹介記事に小さいながらも見覚えのある顔が写っているのに気が付いた。 『北新地・弧柳』店主・松尾慎太郎とあった。 

5年くらい前になるだろうか、松尾氏が法善寺の『喜川』を去ったのは。 『喜川』で修行を積み、その後も料理界で頑張ってる人を何人か知っている。 松尾氏もそのうちの一人、「精出して頑張りや。」と某医院の待合室で記事を見て以来、それっきり松尾氏のことを忘れていた。 

ところが今春 さんとの会話の中で『弧柳』の松尾氏のことが話題になり、一度行ってみようということで彼女の都合の良い日に予約を入れるよう頼んでおいたのだった。 それが先日 さんから連絡があり、彼女曰く、「弧柳さpict-P1060016んはミシュランの三ツ星に選ばれたようで予約が取りにくい店なんですって。でも、10月1日、月曜日で取れました」と。

予約当日待ち合わせ場所へは約束の30分前に到着。 少し早過ぎたと思い地下鉄淀屋橋駅から地上に出てみた。 左の写真は土佐堀川に架かる淀屋橋から川下の肥後橋方向を眺めたもの。 川の右側(北方向になる)が中之島で元々は大川(旧淀川)が運んできた土砂が堆積した砂洲。 南側の土佐堀川と北側の堂島川に挟まれた形になっている。

淀屋橋の謂われは江戸期の大坂の豪商・淀屋が店の前に橋を架けたことに因ると伝えられ、現在は大阪のメインストリート御堂筋の土佐堀川に架かるコンクリート橋梁で国の重要文化財にも指定されている趣きのある建築物である。 また、堂島川に架かる大江橋も共に重要文化財に指定されていpict-P1060012-Bる。

この淀屋橋を中之島に渡ったところ、左手に建つのが
日本銀行大阪支店(写真)。
花崗岩で造られた外観は重厚で、正面玄関の石柱は礎盤と柱頭には渦巻き装飾を擁したイオニア式の特徴を示し、銅版を使用しているのだろう、屋根の緑青が建物全体を落ち着いたものにしている。

この日銀大阪支店を眺めているとヨーロッパのどこかの町の旧市街地にいるような気分になるが、この建物の設計は辰野金吾氏で1903年(明治36年)の竣工である。 

辰野金吾氏と言えば直ぐ近くにある中之島中央公会堂の設計も手掛けているし、今般復元工事が完了した東京pict-P1060014駅の赤レンガの建物も設計した人物である。

この日銀大阪支店と御堂筋を挟んで向かい合って建つのが大阪市庁舎だが、左の写真は建て替えられた現在の市庁舎。 老朽化したからとか手狭だとかの理由もあったが、
旧大阪市庁舎は1921年(大正10年)の竣工であり、日銀大阪支店よりも新しい建物であった。

下のモノクロ航空写真は中之島上空より東向きに撮影したものだ。 写真下部で車が並んでいる道路が御堂筋。 その下の切れている部分に日本銀行大阪支店がある。 建物中央にドーム状の塔のある建物が旧大阪市庁舎、その後pict-img203ろの建物が
中之島図書館(1904年・明治37年竣工)で、その奥に中之島中央公会堂(1918年・大正7年竣工)が見える。

これらの建築物は勿論、右手の土佐堀川、左手の堂島川に架かる橋はいずれも石造建築物であり、明治・大正期の建造物が集中する中之島一帯は大阪の文化財集合地区であったのである。

現大阪市庁舎は景観に配慮した設計のようだが、私は旧市庁舎の方が趣きがあって好きだし、第一旧市庁舎を壊してしまったなら如何に設計上で配慮しようが生物体に例えれば死んだも同然で本来のモノには戻らないのである。

以前にも文化財軽視の日本について書いたことがあった。 旧市庁舎を保存するか壊すか、当時(1971年頃)私pict-img204は市庁舎建て替えに反対の立場を取っていたが、何とも情けない結果になり悲憤慷慨したものだった。

モノクロ写真は『大阪市政70年の歩み』より。 『大阪市100年のあゆみ』は市内児童に配布された冊子の表紙より。 また市庁舎建て替え当時の事情について触れているページがあったので紹介しておこう。 リンク先は『
大阪市庁舎と市民運動』。

話があらぬ方へ発展しそうなので、最後に日銀大阪支店の淀屋橋詰めに『駅逓司大阪郵便役所跡』の石碑について紹介し、話を基に戻すことにする。 
『駅逓司大阪郵便役所』というのは明治4年(1871年)に我が国郵便制度が開始したが、その時にできた大阪のpict-P1060011言わば中央郵便局(現在はJR大阪駅の西側)のことであり、その建物があったところを石碑が示している。

江戸時代、中之島一帯は土佐堀川や堂島川に面して全国各藩の蔵屋敷が並んでいた所で、1730年(享保15年)に開設された堂島米会所は世界に先駆けた先物取引所であった。

さて、話を『北新地・弧柳』に戻そう。

現在北新地と呼ばれているあたり一帯は江戸中期以前には大川(旧淀川)が運んだ土砂が堆積した砂洲で湿地帯であった。 このあたりの土地の成り立ちは、石山本願寺、秀吉の大坂築城と町割り、江戸期の河川改修整備と、大坂が辿った歴史と密接な繋がりがあって史書をひも解くと大変にオモシロイものである。 
pict-P1060017-B
が、それはさておき『北新地・弧柳』は全日空ホテル(ANAクラウン)の北西角の交差点、堂島中通りに面し、江戸元禄の頃には堂島新地と呼ばれていた地にある。
pict-img199
店舗は 1 階のみでカウンター席が12席。 客席からは厨房が見渡せるオープン形式になっており、調理する者から客の飲食の進み具合が見れるようになっているので頃合いに料理を出してもらえる。

夜は5時30分から懐石風コース料理のみを提供しているとのこと。

当日の料理もコースとして順に出して頂いたが品数が多いので全てを記憶できなかった。 ただ素材には特別なこだわりがあるようで、青物については『喜川』と同様"浪速野菜"を多く使っておられたような・・・

下の写真は八寸のような・・・しかし、刺身、焼き物などもあって・・・
まあ懐石風ということで、あまり厳密に区分しても仕方がない。 要は盛り付け、味わい、香りなどで楽しみ、美味しく頂けたならそれで良いのである。
わずかに色付いた枝を生け、青いイガ栗で季節感を出している。
pict-P1060018-B
私の好みは明石鯛に大間鮪の刺身、それにノドグロの焼き物であった。

こうした刺身に醤油や塩を添えて出すのは通常だが、この日は醤油と海水が添えられていた。 海水というのは普通3%程度の塩分を含んでおり、醤油の10数%に比べれば塩っ気は遥かに薄いものである。 しかし、私は海水で洗いすすぐようにして白身魚の刺身を食べるのは美味しい食べ方のひとつであることを知っている。
もう40数年前になるが、屋久島の老漁師の好意で前日に仕掛けた網を上げに船に乗せてもらったことがあり、網にかかったマナガツオとタイの刺身を船上で頂いたのだった。 それまで刺身というのは醤油とワサビで食べるものだと思っていた私は、同行した友人二人もだが、老漁師が器用に下ろしてくれた沢山の刺身を見詰めるだけで醤油が無かったために手を出せないでいた。 そのうち私たちの行動をいぶかった老漁師が刺身を一切れつまんで船べりから海へ手を伸ばし、海ですすぐようにして口に入れ、こうして食べるのだと教えてくれたのである。
南方の海とは言え2月末の早朝である。 刺身に下ろしてくれた小さな包丁にも俎板にも、そして刺身の切り身にも白い脂がこびり付いていた。 その切り身を海水で洗いすすぐようにして食べたのだが、新鮮なのは勿論だが海水の塩分で刺身を頂く美味しさをこの時に知ったのである。 もっともその後海水で刺身を頂く機会が無かったのpict-P1060021修整-Bで、『弧柳』で実に40数年ぶりに味わうことになった。 海水では明石鯛のみを頂いた。
それとこの日は大間のマグロが入ったとのことで、トロと天身、一切れずつではあったが盛られていた。

私がマグロ好きなことは何度も書いているので省くが、マグロ独特の酸味を感じられる天身が美味しく、一切れではチョット満足できなかった。 しかし大間からは築地へ直行というのが津軽のマグロ流通の通常コースなのだが、珍しく大阪の市場へ入ってきたことを素直に喜んでおくことにしよう。

そうそう、お刺身には"黄身醤油"が鮪の横に添えられていたが、どのような食し方を松尾氏は勧めるのだろうか。このことは聞きそびれてしまったが、淡白な魚との相性は良いように思うが、私は素材の単純さを好むので、味はpict-P1060019修整濃いけれど"黄身醤油"は"黄身醤油"として、そのままでお酒の肴の一品として頂いた。

この日、全くの偶然であったが『喜川』の料理長 氏ご夫妻と『弧柳』でバッタリ。 時にはこうしたこともある。 互いに何となく照れくさいような恥ずかしいような。 別に I 嬢と秘密のデートを楽しんでいるわけではなく家内も私の行動を知っているのだが・・・人間の心理とはオモロイものである。

 I 嬢とは久し振りのデートだったので帰路ヒルトンのラウンジへ寄り、べらべら喋りまくって大満足の夜となった。
多分 嬢も満足であったろう。 と、思う。



 


masatukamoto at 14:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

October 02, 2012

悲しいな

東広島で母親が娘を虐待し殺してしまったと。

僅か11年の人生のうち6年間を児童福祉施設で暮らさざるを得なかった女児。

母親と、その祖母から『しつけ』の名の下の虐待。

よく似たことがあちらでもこちらでも。

自分の無力さを嘆くばかり。

今何を語るも虚しい。 噫


masatukamoto at 10:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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