December 2012
December 14, 2012
みちのく行 (10) 安倍さんを訪問・・・③
九死に一生を得た安倍夫妻は、『3月11日に何があったのか忘れずに伝えていく、それが生かされた者の使命』だと、地震と津波の体験から得られた教訓を語り継ぐべく既に活動を開始していた。
事業の再開、事務所・自宅の再建など津波被災後に取り組まねばならないことが山積していたであろうに、マスメディアの取材対応や、依頼を受けた講演・講習会などで自らの体験を語り伝えていた。
被災後ひと月ばかり経った頃に河北新報が取材記事(藤田杏奴・記)を掲載していたが、それは後に刊行された前ページ記載の『鎮魂と再生(東日本大震災・東北からの声100)』(赤坂憲雄 編 2012.3.30 藤原書店 刊)に『後悔を胸に体験を語り継ぎたい』とのテーマで安倍夫妻の語りを聞き手・古関良行(河北新報社震災取材班キャップ)が書いている。
河北新報の記事は現在河北新報社WEB新書『津波で漂流の夫婦生還 がれきの上のサバイバル』として発売されているために全文を紹介出来ないが、jesuslovemeさんが公開するブログで『あの大震災に奇跡の生還した御夫婦!②』との表題で河北新報・藤田杏奴氏の記事を紹介しているので参考までに。(青色部分をクリックすることでリンク)
追加・・・『板1枚の上で川を逆流 奇跡の生還・安倍夫妻〔東松島〕』の表題で河北新報が『東松島市を襲った大津波の証言』のひとつとして資料を交えてまとめているので紹介しておく。
NHK総合テレビ『あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~〔宮城県東松島市 安倍 淳、志摩子さん〕』に出演。
中日新聞の『地震特集〔備える〕』での記事〔2012.9.17〕。
わが身一つで大津波に投げ出される極限状況で、何ができるのか。小学校を巡回して着衣泳を指導し、東日本大震災では自らも津波に流された潜水士の安倍淳さん(53)=宮城県大崎市=に聞いた。
-避難が間に合わず津波にのまれたら、何が一番大事か。
「津波は場所によって高さや流れの強さも違う。がれきなどの危険物が交じる場合もある。こうすれば確実に助かるという答えはない。ただ、生き残るには鼻と口を水面から出して呼吸を確保することが大前提。かばんや発泡スチロール、木材など、周囲につかまるものがないか探してほしい」
-つかまるものがない場合は。
「流れに逆らって泳いだりもがいたりするより、ただ浮いていることの方が重要な場合が多い。パニックになる前に、人間の体は水に浮くという事実を思い出して冷静になってほしい。あおむけになって肩の力を抜き、あごを上げれば口は水面上に出る。これが着衣泳だ」
「着衣泳は手足を広げるのが基本だが、流れてくるがれきに衝突する危険もあるので、柔軟に対応したい。靴やダウンジャケットを身につけていれば、それも浮力になる。助けを求めて腕を振り上げると、代わりに体が沈むので逆効果だ」
-車ごと津波にのまれたら。
「車内に水が入らず助かったケースもあるので、ひと言で内外どちらが危険かは言えない。水が入ってきたときに備え、窓を割る器具を常備してほしい」
-大震災では、高台に避難した人々の前で津波に流される人の姿もあった。
「避難に成功した人は、助けたいと思っても水に飛び込んではいけない。自分が命を落としかねない。浮く物を探して投げ込んだり、消防に知らせるなどの支援ができる。浮いている人に、大声で励ましの言葉をかけ続けるのも精神的な支えになる」
上のようにマスメディアを通しての啓発活動だけでなく、安倍さん夫妻は学校に出向いて着衣泳の実技講習を行うほか、群馬県前橋市のお寺での講演や東京商船大と東京水産大が合併してできた東京海洋大学で将来の航海士を目指す若者たちへ、経験則からの過信によって絶体絶命の危地に陥ったことと、そこで得た教訓を講演するなど活動は多方面にわたっている。
今年6月にはアジア地域の海事関係者が集まった国際水難学会で『被災地で着衣泳が果たした役割と津波による漂流体験』と題して安倍さんが特別講演を行い、奥さんは『津波渦巻く体育館 命を守る着衣泳〔東日本大震災における野蒜小学校体育館における出来事〕』と題して発表している。
安倍さんの奥さんが帰ってくるまでの間、事務所でエスプレッソを飲みながら震災以降
1年半ばかりのご家族や会社のことなどを聞かせてもらったり、次回九州へ出向いて教育関係者を対象に行う講演の要旨を聞かせてもらったりした。 しかし、日暮れが早くなってきた季節だし、空模様も怪しいので野蒜の被災地を案内してもらうことにした。
安倍さんの会社、(株)朝日海洋開発の社屋だが現在は宮城県大崎市鹿島台にある。 前のページに概略図を載せているので見てもらえばイメージしやすいと思うが、石巻湾に面して東松島市と石巻市が位置し、大崎市はその内陸側になる。 概略図では三陸自動車道よりも更に北側、鳴瀬川と表記した文字位置より更に少し上のあたりに鹿島台は位置し、鳴瀬川の河口より 9km も内陸にあるのだが、その鹿島台でも水位上昇は 151cm を記録している。
上は鳴瀬川の河口付近のイメージ(2枚の写真を合成しているので、写真左下は実際には川の部分)
左の写真は新町公民館で鳴瀬川の河口、堤防上の建物だが2階も破壊されていることから津波の高さが想像できよう。 前ページの写真にあったように、この場所で
787cm の水位上昇があったのだ。
私たちが訪れたのは被災後1年半なので被災直後の様子とは全く異なるが、それでも野蒜地区へ入ると被害のひどさが如何ほどであったか、その惨状を十分に理解出来た。
鳴瀬第二中学校の校舎は運動場を挟んで松の木が並ぶ野蒜の浜と向き合っていた。 そのため校舎の窓ガラスは割れ窓枠は外れ、辛うじて残った窓枠も無残にひん曲がっていた。 校舎は写真のものと並行して裏側にもあるが、襲来する津波のエネルギーを写真の校舎で受け止めたためか裏側にある校舎は被害が少なく、生徒たちに犠牲者は出なかったとか。
1年半の間に校舎内の清掃も行われたのだろう。 がらんとした校舎内部はコンクリートむき出しで建設途中かと思えたが、野蒜の下沼あたり一帯を無住地区にするようなことも聞いたので鳴瀬第二中学校が再び生徒を集めることにはならないかもしれない。 何とも寂しいことだし、悲惨なことばかりを聞き知っていたようだが、汚れたコンクリート壁に書かれた落書きにほんの少しほっとするものを感じた。 普通にある建物ならどんな落書きも許さないが、壊れて消えゆくかもしれないものに対する憐れみの気持ちには共感できる。
仙石線の野蒜駅も津波被災直後の写真と比べれば随分片付けられていたが、架線を吊る鉄骨は曲がり落ちたままだし、線路上の土砂も片付いてはいず、駅周辺で流されずに残った家々も無人で鉄道も復旧しそうには見えなかった。
そんな野蒜の駅前で仙台から帰って来た奥さんと・・・
何から話していいのか、元気にしていることは何度もの通信で分かってはいたのだが、やはり目の前で直に元気な姿を、そして生の声を直接耳にすることで確かさを一層確かなものと・・・安堵、安堵。
冷たい雨とヤブ蚊にやられながら、僅かな僅かな立ち話だったけれど、それだけで十分。
よかった、よかった。
December 13, 2012
みちのく行 (9) 安倍さんを訪問・・・②
やや疲れを感じていた体を目覚めさせる効き目は大であった。
イタリア人の一日は朝バールへ行ってエスプレッソを飲むことから始まる。
まあ少々の誇張はあるものの、濃い濃いコーヒーの入ったちっちゃなちっちゃなカップに、これでもかと言うほどに砂糖を入れて二口か三口で飲み干して出かけて行く、そんな姿をよく見かけた。
日本ではネスレ日本(株)がエスプレッソ専用抽出器とカプセル・コーヒーを売り出し、ジョージ・クルーニーが出ているテレビ・コマーシャルがどの系列局でも頻繁に流されているのでネスプレッソという名前も随分浸透していることだろうと思う。
香り高く濃いコーヒーが好きな私にネスプレッソという専用抽出器を友人がプレゼント(Oct 10,2012 に記事)してくれて以来我が家でもエスプレッソを楽しんでいるのだが、安倍さんの事務所でも同じものを使っていたのだ。
安倍さんの奥さんが「なーんにも無くなったけど、せめて好きなコーヒーぐらい贅沢しよう。」って、津波被災後に買ったものだとか。
普通にはどうってことのない会話の流れなのだが、被災後に借りた自宅兼事務所から始まった夫妻の復興の過程における贅沢の対象がコーヒーであったということを知り、再起の道がいかに険しいものであるかを私は感じ取ったのである。 安倍さんが困難な道を歩んでいると語ったわけではないので念のため。
安倍さんは『株式会社朝日海洋開発 社員全員無事です』とのブログ記事を地震・津波被災後の3月17日付でヒビの入った肋骨治療で入院中の病室から送信しているように、弱音を吐くような人ではないのだ。 青色の字の部分をクリックすることで彼のブログページにリンクさせているが、一部を引用すると、
『私と妻は社屋、自宅とともに津波に5kmほど上流に流されましたが、河川土手を必死に這い上がり、九死に一生を得ました。
まだ、多くの隣人が発見されていない状況ですが、皆様に取り急ぎ無事の報告までさせていただきました。
被災より7日目、私は病院の病室。妻は助かった命で、また被災地避難所に戻り、保健師の仕事をボランティアで行っております。
復旧までの長い道のり、みんなで力を合わせて頑張っていきましょう。 代表取締役 安倍 淳 』
と書いているのだ。
自宅や会社社屋など一切合財が失くなってしまったばかりか、自らの命さえ無くしていて当然な状況を越えて僅か7日目に「みんなで力を合わせて頑張っていきましょう」と語り、奥さんは看護・保健指導の専門家として避難所でボランティア活動に精を出していたと、私などとても真似の出来ないことをやってのける夫婦なのである。
安倍さんが津波の濁流に流されたという一帯の概略図を描いてみた。
日本三景のひとつである松島湾内は複雑な島嶼地形によって津波の被害がほとんど無かったが、太平洋側に開けた石巻湾は巨大な津波をもろに受けたため被害は甚大であった。
安倍さんは上のブログで 5 km ほど上流に流されたと書いているが、『鎮魂と再生(東日本大震災・東北からの声100)』(赤坂憲雄 編 2012.3.30 藤原書店 刊)では 7 km ほど流されたことになっている。
鳴瀬川の河口スグの所にあった安倍さんの事務所から吉田川上流の上陸地点まで地図上で計測すると 7 km というのが近い値である。
マグニチュード(Mw)9.0、最大震度 7 (宮城県栗原市)というのは我が国での地震観測史上最大規模の東北地方太平洋沖地震が発生したのは2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒のことであった。
震源地は宮城県牡鹿半島東南東沖 130 km の海底であり、我が家とは 700 km 以上離れているが随分の揺れを感じた。 もっとも当時公表された震度は 1 だったように記憶しているが、阪神淡路大震災時の兵庫県南部地震と同じ程度の揺れ(震度 2 )を感じたので直ぐにテレビのスイッチを入れた。
地震速報によって各地の震度や震源とマグニチュード(当初は 8.4 )が明らかにされ、強烈な揺れ具合が映像で流されるのを見て、私は安倍さんと東京の親戚に電話を入れたが全くつながらなかった。 (この時のことは March 12, 2011付の『お見舞い申し上げる(3.11 地震&津波)』に書いている。 )
この地震発生時、安倍さん夫妻は社屋にいた。
以前は自宅裏に2階建ての事務所と倉庫を設置していたのだが、2010年6月末に自宅とは道路を挟んだ斜め向かいに写真の新社屋を建てて移転したばかりだったのだ。 この新築事務所も地震後の津波で流失損壊して今は影も形も無い。
しかし、この事務所が安倍夫妻の命を助けることになるのだが、そのことはもう少し後に紹介する。
安倍さんは鳴瀬川と吉田川が合流して石巻湾に流れ出る河口からスグ近くで育った。 だから遊び場は野蒜の海であり潜ることも得意であったから潜水の仕事を選んだと彼自身が語っているように、安倍さんの海に関する経験や知識は一般の私たちとは比べることが出来ないほど広く深い。 それが何故津波にさらわれたのか・・・
一方、安倍さんの奥さんだが、2003年の地震だったか2005年の地震だったかマグニチュード 7 を超える大きい地震が発生した頃、末娘Aさんが通う小学校でPTAの役委員を務めていた。 そうしたこともあって地震や津波から身を守るための啓発活動を積極的に行っていたことを知っている。 通学路の安全点検を行ったりハザードマップを作成したり、そして水難から身を守る方法のひとつとして着衣泳の講習会や実技指導を各地に出向いて夫婦で行ってきている。
着衣泳について潜水士である安倍さんはお手の物だし、奥さんは命と健康を守る専門職の保健師だから水難と救護に関してお二人はプロである。 にもかかわらず何故二人は津波に流されてしまったのか・・・
救護以前に、水難に遭う前に、何故未然に避けるという方法がとれなかったのか、私は尋ねることが出来なかった。 しかし、前掲の書籍の中で安倍さんが語っていた。
『経験則が避難を妨げました』
と。
上の写真は安倍さんの自宅のあった場所から新社屋の建っていた場所を眺めたもの。 大きい石に挟まれた部分が社屋敷地の門であった。 随分疎らになったように思うのだが松の木が並んでいる所が野蒜海岸である。
安倍さんのお母さんは1960年のチリ地震の津波を体験しているそうだ。 このチリ地震の折り、三陸地方を襲った津波の最大高は 6 m だったと記録にあり、多くの人たちが犠牲になっている。 この時赤ん坊だった人が現在 50 歳そこそこ。 津波体験の記憶として残っているのは 60 歳以上の人たちであろう。
安倍夫妻はこれまでに何度も地震を経験しているし、「津波が来るときは川の底が見えた。」と小さい頃から聞き知ってもいたとのこと。
もう20年近くも前になるが、アンダマン海のピピ島(タイ)でのスキューバ・ダイビングが安倍さん家族との出会いになる。 もっとも現地ではすれ違いで、後にダイビング・インストラクターの N を介して PTA 活動のスレッドで奥さんとの交信が始まったのだった。 その機縁となったピピ島が2004年12月26日のスマトラ沖地震の津波襲来で、トンサイとローダラム、2つの入り江に面した町並みと人々が呑み込まれていく様をテレビで見て、津波の経験の無い私であったが津波の恐ろしさを一層大きなものとして受け止めることとなった。
余談だが、当時の予定では12月24日にタイ航空の飛行機で関空を発ち、25日の昼頃にはピピ島へ到着していたから多分まともに津波を受けていたことと思う。 現に安倍さん家族が利用したピピ・プリンセス・リゾートはバンガローも何もかも流失して跡形も無くなってしまったのだ。
さて、話を戻そう。
事務所にいた安倍さん夫妻は大きい地震であったことに驚きつつも近所の老人たちの安否を確かめ、ご主人は近くの人と河口の様子を見に行ったが海の方は曇っていて視界は頗る悪かったという。 そう言えば津波の報道映像では空はどんより曇り、雪が舞っていた。
河口から僅か 80m の自宅まで戻ってきた時、地鳴りのようなゴォーッという音がしたそうな。
丁度自宅玄関にいた奥さんに「変な音がする!」と声を掛けると「津波じゃないの!」との返事を聞くと同時に振り向くと高さ 5m ほどの真っ黒な津波が鳴瀬川の方から襲ってくるところだったんだと。 地震発生後 30 分ばかり後のことである。
安倍さんは社屋 2 階へ、奥さんは自宅2階へそれぞれに避難したが、津波が 1 階天井に到達するまで時間はかからなかったという。
社屋に2階に避難した安倍さんが咄嗟に手にしたカメラで撮影した 28 枚の写真がある。
左の写真はそれらの内の 1 枚であるが、直ぐに事務所が浮き上がって津波に流され始めたそうな。
この写真から推測できる濁流、つまり定まった流れではなく上下左右奔放に荒れ狂う流れ、それに何を巻き込んでいるか分からない津波に対しては、如何ほどの者であっても泳いで助かる確率というのはゼロに近い。 若かりし頃は1km遠泳や流れの緩やかな川や海なら泳ぐこともできた私だが、この写真を見るだけで怖気がふるう。 これは如何に頑健な安倍さんにしても同じであろうと思う。
前段部分で、この事務所が安倍夫妻の命を助けることになると書いておいたが、津波は安倍さんを事務所2階に乗せたまま流し始めたのである。 勝手な推測を交えてはいけないが、古建築物を移動させる場合、建物を補強した上でジャッキアップし、その下にコロを入れて緩々と水平に移動させるものである。 が、津波に流される状態はそのようなものではない。 回転しつつ上下に揺れながら時に傾きながら流れる様はメリーゴーラウンドのようなものであるが決定的な違いは転がる【流される】レールが無く、何時構造物が破壊されるか分からないことである。
ところが流された事務所が自宅にぶつかって屋根と屋根ががっちり合わさったのだと。 事務所が壊れることもなく流されたことは奇跡のひとつであり、その事務所が自宅方向に流れ、しかも屋根同士ががっちり合わさるというのも奇跡的である。 上の絵は安倍さんが入院中に描いたものである。
丁度自宅2階ベランダに奥さんの姿を見つけたので「こっち来い、こっち来い!」と叫び、3~4mばかり離れていた事務所の方へ奥さんを迎え入れたのだと。
これも偶然だと安倍さんが語っているのだが、事務所2階にはたまたま船舶の緊急脱出用の保温防水スーツが2着あったので、仮に死んでも体が浮けば見付けてもらえるからと奥さんに着せたそうだ。
写真のオレンジ色かな? この服が保温防水スーツである。
この写真は河北新報が取材に訪れた時のものだったろうか。
奥さんに着せた後、自分もとズボンの部分を身に付けた時に轟音と衝撃に襲われ、安倍さんはこの衝撃で暫く意識を失ってしまったらしい。 この轟音と衝撃は箱舟のごとく津波の強烈な濁流で吉田川を上流に流された事務所がJR仙石線(上図参照)の橋梁にぶつけられた時のことで、奥さんが顔を上げた時には事務所の屋根も壁も吹っ飛ばされ四畳半ほどの床板に乗った状態で流されていたのだと。 この衝撃でご主人も飛ばされたものの近くに浮いていたので板の上に引き上げたものの目前には国道45号線の鳴瀬大橋が近付いてきていた。
津波が川を遡る猛烈なスピードに加え荒れ狂う濁流だから橋脚にぶつかれば終わりだし、津波水面と橋桁との高さは1m も無かったそうで神仏の加護を願うだけだったと奥さんが語っていた。
辛うじて国道の鳴瀬大橋をくぐったものの、ご主人はJR仙石線の橋梁にぶつかった時の衝撃で肋骨3本にヒビが入り、頭部なども強打していた上、ずぶ濡れ状態であったために体温の低下が心配される状況になっていた。
その主人を抱きかかえながら奥さんは当時広島県呉市の海上保安大学校にいた T 君にメールを送ったというのである。
「津波に流された でもパパと無事 事務所の床にのってる 船みたい さむいけど大丈夫」と。
前ページで彼女のことを『肝っ玉母さん』と私が評するのも、彼女の一連の言動から分かっていただけるかと思う。
二人が床板一枚に乗って濁流に流されている状況をたまたまビデオに撮っていた人がいたが、この映像は安倍さんのところで見たのだったかU-Tubeだったか。
吉田川の遥か上流にまで流された二人だが、その流れが弱まり始めたのを感じたご主人が引き潮にやられるからと、岸へ上がろうと決心したのも賢い選択であった。 がれきが流れる濁流だが 5m ばかりの距離を泳ぎ、二人は岸へ上がった。 時に午後4時半頃だったとか。 ここで消防団の人たちに助けられて病院へ。
さまざまな偶然が重なり、それも良い方へ良い方へと。 多くの人たちが亡くなられたので安倍さん夫妻の生還だけを手放しで喜ぶのは気が引けるが、神仏を信ずるかどうかは別に、私には何だか目には見えない力が働いているように感じられるのだ。 これが奇跡かと・・・
December 01, 2012
みちのく行 (8) 安倍さんを訪問・・・①
さて、いよいよ安倍さんの自宅?を電撃訪問することとなる。
津波被災後の家の住所を知っていたのでオンボロの車載ナビに入力し、それの案内で走った。 山形自動車道の宮城川崎インターチェンジから村田ジャンクションを経由し、東北自動車道を仙台に向かって走った。 一部工事区間があったが混雑や渋滞もなく気持ち良く運転。 オンボロ・ナビの案内通り大和 IC で下りて一般道に。 しかし、いかにサプライズ訪問とは言え昼時に訪れるほど私は厚顔無恥では無いので IC を出た所のコンビニ(セブン・イレブン)で軽い昼食休憩を取って時間調整。
その後県道か農道かワカランような道を、これは随分の距離を走ったように感じたのだが初めて通る道路だったからだろうか。 やがて国道346号に入って大崎市鹿島台平渡まで来たものの車を停めて探すこともできず、やむなく鹿島台小学校門内に車を停めて家内が煙草屋へ行って尋ねるも安倍さんの自宅は分からず。
この結果にはガックリ。 しかし津波被災後に引っ越してきたのだから言うなれば安倍さんは新住民。 煙草屋さんがこの地で如何に長い間商売をしているからといって住民の動静を細かく知っているわけは無いので、これは仕方がない。
それで安倍さんの奥さんの携帯電話を呼び出したのだが応答無く、どうしようかと思っていたところ先方から電話がかかり、彼女の元気な声が聞こえてきた。 仙台の美容院へ来たところなのだと。
残念ながら電撃訪問とはならなかったが、サプライズの電話にだけはなった。
夕刻には帰るし、会社には主人がいるので待っていて欲しいと。 勿論今回の『みちのく行』の私たちの一番の目的が安倍さんに会うことだったから即時OKの返事をし、教えられた通りに会社へ向かった。奥さんが電話連絡していたのだろう、会社に着くとご主人が迎えてくれた。
2011.3.11. 安倍さん夫妻にとって第二番目の誕生日である。将にゼロからの出発であったと思うが、被災後 1年半も経たたないうちに頑張って再建された社屋に初めて寄せてもらった。
社屋に DIVING・
WORKS と表示されているように安倍さんはプロの潜水士(夫)であり実業家でもある。
日本社名『(株)朝日海洋開発』の仕事は下に示す通り水中作業に関するあらゆることを網羅しているのだが、これらの機材も一切合財3月11日の津波で流失、破壊されてしまったのだ。
勿論機材や社屋・自宅だけではない。 後に紹介するがご近所、知り合い、親戚の方たちなど多くの人たちが亡くなったのである。 安倍さんの自宅と斜め向かいにあった社屋は東松島市の野蒜、鳴瀬川と吉田川がひとつになって石巻湾に流れ出る河口近くの下沼という地域にあったのだが今は何も無い状態になっている。安倍さん夫妻は大津波に流されながら将に九死に一生を得たのである。
九死に一生は慣用句だからそのまま用いたが、私の感覚をこの言葉に当てはめるなら、九百九十九死に一生と言えるほど全く稀有な有り得ない、将にミラクルと言える奇跡が生じたから助かったと思うのだ。
社屋の中、事務室部分を合成写真でイメージ化したのが下の写真。イメージであり実際とは異なるが明るく広い事務所を中心に機械工作作業室や機材保管倉庫などが社屋にあり、広い敷地はボートや大型機械を置いておいたり駐車場としても活用されていた。
社員の皆さんは仕事に出かけており社長である安倍さんだけが事務室にいたが、普段は保健婦でもあり会社専務でもある奥さんが座っているのだろう。 今は保健婦ではなく保健師と呼ぶのが正しかったような・・・ いずれにしろ以前より私は安倍さんの奥さんのことを随分前のテレビ番組から『肝っ玉母さん』と思っているのだ。
つまり舅姑と旦那に仕え、子どもたちを育て、会社の専務として総務・経理部門の重責を担い、毎日ではないにせよ保健師としての業務も果たし、子どもたちの学校PTAの役委員も務めてきた。 炊事・洗濯・掃除といった家事だけでも大変な仕事なのに、「全く、ようやるわ。」と感心していたのだ。 しかもマイナス思考でなく常にプラス、それも2プラス(++)とか3プラス(+++)とかの明るさである。 この何事にも動じず苦にしない明るさが大津波に流された窮地において奇跡を生み出す要因のひとつであったかもしれないと私は思っているのだ。
大津波での奇跡は次回に書くことにしよう。