February 2013

February 28, 2013

老齢・・・一考

先日の雪で足元の悪い中、東京の義兄が病室にまで見舞いに訪れてくれたことを謝し、「年老いた義兄にまで心配をかけ全く申し訳ない・・・」と書いた。
が、翌日頂いたメールに「私はそれほど年寄りだとは思っていない」旨が書かれていた。

確かに。
義兄の体躯は立派で姿勢良く、見かけ上は白髪頭のみが『老い』を感じさせるだけである。
義兄は 3 月に喜寿を迎える。 
日本の医療保険制度上、この制度が良いか悪いかの評価は別にして年齢を基準とする分類では75歳以上を後期高齢者としているからマスクをしようが逆立ちをしようが義兄は年寄りに違いないのである。

かく言う私自身も『前期』という言葉が冠されているものの前期高齢者・・・制度上は年齢において立派な年寄りなのである。
もっとも、私も「それほど年寄りだと思ってはいない」のだが。

『年寄り』『老人』『老齢者』『高齢者』等々、年老いた人と同義の言葉は沢山あるが、『年寄り』や『老人』などの定義は科学各分野に於いても無い(はず)。 国連の世界保健機関(WHO)の定義も65歳以上の者を高齢者と年齢で区分しているだけ(らしい)。

仏教に言う四苦、『生老病死』については以前にも触れているが、人間にとって避けて通ることの出来ない事柄であり、『老』についても人文・社会・自然の各科学分野からの研究が深められ、年老いた者は身体的機能や生理的機能、そのほか認知、感覚などの機能面での低下が一般的に多いことが明らかにされてきた。
だからと言って、身体的運動機能が低下しているから年寄りであるとは言えないし、認知力に障害があるからイコール老人という式も成り立たない。

つまり義兄を評して「年老いた」と表現した私は老齢と判じる私自身の感覚的尺度を持っており、『77歳という年齢は老齢』、『白髪を有する者は老齢』、『年長者である兄は私以上に老齢』などと様々なpict-20130227阪奈中央病院にてスケールを総合して書き記したものの、年寄りと思うか思わないか、所詮これは感覚的なものなのである。

上の写真は2月25日に病室を見舞ってくれた長兄。 となりは家内である。
長兄は1928年(昭和3年)生まれ。 昭和元年(大正15年)は実質6日間だから、実に激動の昭和と共に歩んできた人であり、家内にとっては父親代わりの85歳。
10数年前に私がプレゼントしたワープロをとことん使いつぶし、昨年末には富士通のパソコンを仕入れて古典文学(日本)のリファレンスを作成しているという。
長兄は大阪・寝屋川からバスに鉄道を5回も乗り継いで来てくれた。
耳は遠くなったし、視力の衰えも進んでいる。 それに歩行も前かがみで・・・うーーむ。

明らかに老化現象を呈しているが、『年老いた義兄(長兄)』とは書くまい。

遠路病室にまで見舞いに訪ねてくれたことを謝し、心配をかけて申し訳ないと私の気持ちだけ書いておこう。







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February 27, 2013

みちのく行 (13) 松島 (おまけ)

『みちのく行 (12)  松島 ② (ぶらり松島) 』に於いて、「やや駆け足ぎみの旅行のよう」だが「実はのんびりしたペースで歩き回った」と書いたように、私たちの旅行はアッチやコッチと多くを巡る割にはじっくりと時間をかけていpict-円通院-1るのである。

写真は『みちのく行
 (12) 』で紹介した圓通院境内の最も奥まった所に建つ伊達政宗の孫・光宗の廟所、三慧殿(国・重要文化財)である。

光宗は仙台藩2代藩主・伊達忠宗の次男。
pict-P1060285
この三慧殿には厨子が納められており、厨子の中央には束帯姿の伊達光宗の馬上像が奉祀されている。

この厨子は金箔が張られた豪華な宮殿風の建築物であるが、説明書きによれば支倉常長が遣欧使節として訪れたローマの象徴であるpict-松島圓通院三慧殿バラバラの花が正面開き戸(向かって右)に描かれ、向かって左側にはフィレンツェを象徴する水仙の花が描かれたというのだ。

慶長遣欧使節は慶長18年(1613)に伊達政宗がフランシスコ会の宣教師、ルイス・ソテロを正使に、支倉常長をpict-松島圓通院三慧殿水仙副使としてスペイン国王・フェリペ3世とバチカンのローマ教皇・パウルス5世に対して派遣した使節で支倉常長は元和6年
(1620)に帰国している。

また厨子の中にはハートやクローバー、それにダイヤやスペード模様が描かれているとpict-999-9いうのだが、これらの模様については残念ながら見つけることが出来なかった。

圓通院を出て右へ進むと三聖堂がある。
三聖堂は写真の通り萱葺で如意宝珠を冠した木造建築物である。
pict-P1060294三聖堂説明に寄れば天和2年(1682)に瑞巌寺第101世・鵬雲東縛摶によって建てられ、堂内正面に聖観世音菩薩像、左側に達磨大師像、右側に菅原道真公を祀っているので三聖堂と呼んでいるらしい。

三聖堂の後ろの木立は瑞巌寺参道の杉木立なのだが、3.11の津波で塩水に浸った木も多く、私たちが訪れた折には既にたくさんの杉の木が伐採されていた。
しかし、東北地方太平洋岸の各地域が大変な津波被害に遭ったことに比べれば、松島一帯の被害は極めて小さいものであった。
東松島市鳴瀬川河口のように7メートルを超えるような津波が松島湾を襲っていたとしたら瑞巌寺も五大堂も現況をとどめない惨状を呈していたであろう。
これは松島湾独特の入り組んだ多島地形であるという条件が幸いしたのであろう。

ホテル大観荘も松島一帯を訪れていた観光客数も私が思っていたよりも客数が多く、何とはなく胸なでおろす思いがした。

この三聖堂の直ぐ左側に小太郎と紅蓮尼の悲恋物語に関わる比翼塚と軒端の梅があるが、話が長引くので割愛し、別途紹介してみたいと思う。
 
車を預けた所は天麟院の直ぐ松島湾側である。
天麟院は万治元年(1658)の建立で五郎八姫の御霊屋が祀られている。
伊達政宗と正室・愛姫との長女が五郎八姫。 彼女は越後高田藩61万石の藩主・松平忠輝(徳川家康の6男)の正室となるも忠輝が改易となり離縁。 その後伊達政宗のもとに帰り独り身を通し、尼となって天麟院で過ごしたとされる。
五郎八姫の御霊屋は天麟院横の参道を上がっていった所にあるのだが、今回は疲れを理由にパス。







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February 23, 2013

ありがとう 

私の入院・加療については皆さんにご心配頂き大変嬉しく感謝している。
郵便、或いはパソコンや携帯メールでと、あたたかい励ましの言葉を頂戴して真に有難く思っている。

昨年末から正月初めの頃なら、とても皆さんにお話したりできるほど心にゆとりは無かった。
6日間に及ぶ激痛から解放され、命を助けて頂いた。 
このことについては心の底より感謝しつつも、下半身完全麻痺という状態を素直に納得して受け入れることが出pict-初めての車椅子来なかったのである。

そして救命救急室から脳外科病棟の病室で入院生活を続ける間、考えることは現状のままで退院した後の生活のことばかり。 それらは溜息をつくことばかりで、将に暗澹とした気分の毎日が続いた。

両腕は使えるものの健康であった時とは比べることなど出来ない状態だった。
自分で歩くどころか立つことすら出来ない私を華奢な体つきの家内に介助を頼むなど考えられないことだし、ベッドに横たわるか座ったままでの生活など私には想像することすら恐pictリハビリ訓練ろしいことであった。 それに、そのための住空間の改善工事など精神的負担だけではなく肉体的にも経済的にも家内に対して負担をかけることとなる。

そうした真っ暗闇の思考世界を抜け切れずに悩み続けていた私に、小さな小さな明かりを少しずつ少しずつ近付けてくれたのは若い看護師たちが気遣い励ましてくれる言葉であったり、中西欣弥 Dr をはじめ、片岡 Dr や渡邉 Dr ら脊髄・脳神経外科の医師たちによる病状が回復していることを語る言葉であったり、とりわけ主治医である中西 Dr が「日にちはかかりますが、きっと歩けるようにpict-初めての車椅子(2)なります。」と将来のことながら断言してくれた言葉であった。 

そうしたことに加え、午後1 時から午後7時までの面会時間に連日詰めてくれる家内の無言の励ましはより大きい力となっていた。

一番上の写真はベッドサイドに立たせてもらい、初めて車椅子に乗せてもらった時のもの。

2番目の写真も同じ頃のものだが、全体重をリハビリ指導の横山先生(理学療法士)に預けているのが見て取れる。
pict-近大病院リハビリ-2上体は障害が無いので車椅子を操作するのに支障は無い。

私のリハビリ指導を担当する横山先生の体躯は写真の通り頑丈で、私の重たい体を預けるという点で先ず頼りがいがあり安心である。 技量面での指導も当を得たもので、先生の体を用いての実技指導・介助は勿論のこと、私の体の動きについての言葉による指摘や指導も的確であり、とても分かりやすいという点でも信頼がおける。

2月初めには私自身が驚くほど機能回復のスピードアップとなっていた。
pict近大病院リハビリ-1
年末から正月にかけて、思考は奈落の底をグルグルまわっていたのだが、上に書いてきたような経緯を経てヨチヨチ歩きながらも前へ進むことが出来るようになってきた。
これは大したことだと私自身が感心していることなのだ。

勿論自分一人の力で立ち、平衡感覚も確かに歩けるまでの道のりはまだまだ遠く、何か月もかかることだろうとは思う。 が、これっきりか、もうアカンと思い落ち込んでいた思考に光が射してきたという私の心の変化はここに掲げた5枚の写真でも分かって頂けるかとpict近大病院休息思う。

精一杯、それ以上に努力したいと思い頑張っているが、時にはお茶を楽しみながら気長にやっていこうとも思っている。

多くの人たちに心配を頂き、励ましの言葉をかけて頂いた。
入院先を知って見舞いに来て頂いた方たちもいる。
ここに私の機能回復の現状とそれに関わる心情を披歴することで皆さん方より頂いたご厚情にお応えすることにpict-20130217病室より-したいと思う。

生駒山を望む・・・と言いたいところだが、頂上は見えずに宝山寺あたりまでだが。 慣れ親しんだ町の景色を眺めつつ機能回復訓練に励んでいる。

残念ながら現在の病室から外の景色は見えない。
それから、謝してお断りしておくが、私の大好物がイチゴにブドウだと知ってお持ち下さる方がおられるが、現在糖尿病治療も受けているので頂くことが出来ないのである。 それに検査や治療、リハビリ訓練が詰まっているので病院までお越し頂いてもお会い出来ないこともある。
ご心配頂き誠に申し訳ないとは思うが、あらためて謝してお断り申し上げたい。


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February 22, 2013

みちのく行 (12) 松島 ② (ぶらり松島)

松島は何度も訪れた所なので大観荘をチェックアウトしたら仙台へ向かうつもりでいた。 
しかし、せっかく来たのだからと国道45号線から天麟院へ少し入った所にある駐車場(有料)に車をおいてブラブラ歩いて巡ることにした。

ついでに書けば、天麟院は伊達政宗と正室・愛姫の間に生まれた五郎八姫の菩提寺。 五郎八姫は松平忠輝(徳川家康の6男・越後高田藩主)の正室であったが、元和2年(1616年)に忠輝が改易されたことを機に離縁されpict-P1060265観覧亭仙台の政宗のもとに戻り、以後独り身で過ごした人である。

駐車場を出て国道45号線を渡れば凝灰岩質の高台に観瀾亭が建っている。
観瀾亭が建つ台地には写真のような五輪塔が彫られていたり、下の写真に見られるような洞穴が彫られたりもしていた。 五輪塔については供養の意味があるのだろうが、観瀾亭との関わりについては分からない。 また、洞穴の中は見えなかったので、これも何のために彫られたものなのかは分からなかった。
pict-P1060271観覧亭いつもなら疑問をそのまま捨て置くことはしないのだが、この時、この日は何故か・・・

観瀾亭は元々伏見桃山城にあった茶室を伊達政宗が譲り受けて江戸藩邸に移築、それを2代仙台藩主・伊達忠宗が現在の場所に移したもので、観月などのほか賓客の接待に使っていたのだとか。

観瀾亭が建つ台地も凝灰岩質の土地であるが、松島湾一帯の地質は礫岩、砂岩、シルト、凝灰岩などにより形成されており、長年にわたる水や風による侵食を受けて風化が進んでいる。
下は観瀾亭からの松島湾の眺望。
pict-松島観覧亭より合成1-完了
私は未だ大小合わせて二百数十あるという島々を一望したことはない。 観光船に乗って島々を縫うように観光してまわるのもひとつだが、私は点在する島々が遠く近くに重なり合いながら見せてくれる景色が好きである。

観瀾亭から僅かに歩けば五大堂に至る。
pict-P1060273五大堂五大堂は写真の通り小さな島の上に建てられており、本土側とは木製の赤い橋で結ばれている。
pict-P1060279五大堂(2)この五大堂は伊達政宗が紀州の名工・鶴衛門家次に命じて1604年に建立したものである。 桃山風の建築様式で国の重要文化財に指定されている。

もともとは大同2年(807年)に坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたことに始まり、その後、天長5年(828年)に慈覚大師(円仁)が松島寺を開山、五大明王を祀ったことによって五大堂と呼ばれるようpict-P1060275五大堂(2)になったのだとか。
また同年、淳和天皇の勅願寺として慈覚大師(円仁)が天台宗の延福寺を開山、この寺がやがて鎌倉時代に臨済宗・円福寺となるも後に廃れ、江戸時代pict-P1060272瑞巌寺に伊達政宗が復興させ、『松島青龍山瑞巌円福禅寺』とした。
これが現在の瑞巌寺である。
この時までは別寺であった五大堂が瑞巌寺の寺領に組み入れられた。

五大堂と瑞巌寺は国道45号線を挟んで向かい合う位置にある。
前方の杉の木立が茂る方向に桃山建築の粋を尽くした国宝である瑞巌寺の本堂や庫裏がある。
pict-円通院本堂
しかし、私たちが訪れた折には平成の大修理とやらで本堂、中門、御成門などの見学が出来なかったので圓通院を巡って帰ることにした。

圓通院は瑞巌寺の隣にあり、伊達政宗の孫で正保2年(1645年)に江戸で亡くなった光宗の廟所として正保4年に開山された。
pict-圓通寺修正雨上がりの境内が十分な湿気を含み、秋とは思えないほど明るい緑色の庭を楽しませてくれた。

本尊は『聖観世音菩薩坐像』。

やや駆け足ぎみの旅行のように感じられるかもしれないが、実はのんびりしたペースで歩き回ったのである。
さて、やはり仙台へ向かうことにしよう。



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February 21, 2013

みちのく行 (11) 松島 ① (ホテル松島大観荘)

安倍さんを訪ねたのは10月17日のことであったが、『みちのく行(10)』を書いたのは昨年12月14日のことであった。
12月15日は Y 夫妻が愛娘・ T ちゃんの成長ぶりを見せに来てくれたので、お昼から日が暮れるまで久し振りpict-ぶーー(1)に賑やかな一日を過ごさせて頂いたのだった。

 Y 夫妻も私たち夫婦の息子・娘同然だから T ちゃんは私たちの孫とも言える。 つまり T ちゃんにとって私は3番目の祖父さん(ジイジイ)ということになるのだ。
 T ちゃんをあやすと言うか、幼い子のご機嫌取りをしている私の顔を写真を介してでも私自身が客観的に見るのは初めてで、これは記念すべき写真である。

こうして久方ぶりの楽しい日を過ごした明くる日、つまり12月16日の朝、私の腹部を激痛が襲ったのである。
以来、『みちのく行』の続きを書くことも、他にすべき全てのことに手を付けることも出来ないようになってしまったのである。


昨年10月17日、被災1年半を経ても津波被害の惨状が残る仙石線・野蒜駅で仙台より帰ってきた奥さん(志摩
pict-野蒜駅-1子さん)を交え、立ち話ながら短くも、互いに生かされていることを実感する充実したひと時を過ごすことができた。

日が沈み、本降りの雨になったので安倍夫妻とは別れ、私たちは仙台方面へ戻ることにした。 と言うのも、安倍夫妻の話を聞くまで私たちは石巻あたりのホテル・旅館・民宿など空室があればどこでも良いと思っていたのだが、復興工事の人たちのための宿舎になっていて泊まれるところが無いだろうということだったからである。

それはむしろ喜ばしいことであった。 多少とも震災・津波の復興事業が進められていることの証明だと思えたからだ。 私達はたった二人だけの宿泊だから多くのお金を使うわけではない。 それでも、たとえ僅かな金額であっても売り上げに協力できれば嬉しいとの思いがあったからだ。

荒廃したままの野蒜駅(跡)前からは松島湾に面して仙石線と沿うように延びる奥松島パークライン(県道27)を走り、助手席では家内が今夜の宿候補に挙げたホテルに順次電話をかけていく。 
雨が降っているし時刻も遅くなっているので、出来ればホテルで夕食を取れるようにと松島の観光ホテルを対象としていた。

このところ、国内での旅においては家内がホテルを選択・決定しているが、極々僅かな例外を除き当てが外れたということが無い。 
私たちが当てとするのはホテルの設備・施設・食事提供内容などは勿論、人的サービスから料金に至るまで総合されたものを対象として見ている。 別に項目立てて評価することを専門の業としているわけではないから必pict-P1060264-1ずしも厳格な評定になっているとは言えない。 当然厳しすぎる評価もあれば、オマケもオマケ、大まけの甘いアマーイ評価があるのも事実だが、このブログ内において先ず先ずの評価を下したホテル・旅館は誰が利用されても『不可』の評定を下す方はいないと考える。

ところでこの夜の宿泊は『ホテル松島大観荘』(写真は宿泊翌朝に撮影)に決まった。
奥松島パークライン(県道27)から大粒の雨が降り続く石巻街道(国道45)に合流したが道路の混雑が一層ひどくなった。 松島海岸を過ぎた辺りに松島トンネルがあるが、このトンネルを過ぎて少し進んだところから右手(西側)に入る。 そこからの坂を上った丘の上にホテルがある。

夕食、朝食ともに写真(ホテル・パンフレット)のラ・セレースでの提供であった。
pict-大観荘レストラン特別な部屋や自室での食事も良いが、私たちは食事場所に対するこだわりはあまり無い。 いずれの場所で頂いても大切なのは料理そのものだが、その料理を提供する人との関わりが最も大事なことと心得ている。
ラ・セレースは写真の通り開放感あふれる空間であり、陽光に輝く庭の緑は提供される料理とも相まって素晴らしい朝の食事時間を与えてくれた。
夕食も朝食も所謂バイキング形式で好きな料理を好きなだけ自席で頂くことになるのだが、写真では左手に和洋中の料理提供ブースが設けられているのだが、そこでは提供されている料理の調理・盛り付けもされていた。
和食のブースでは好みの天ぷらを揚げてもらったり、好きなネタの寿司を握ってもらったり、刺身にしても好みの部位を切り取ってもらったりと、料理を頂く側の我がままを通させて頂けるのである。
pict-P1060262その他、特定の料理については出来上がった時点でレストラン・スタッフがテーブルを巡って希望するゲストに配膳することも行っていた。 お酒類は別途会計ではあるが宮城県の地酒は勿論のことビールやワインなどの品揃えもしっかりしていた。
ラ・セレース。 スタッフの接待もなかなか良かった。

お風呂の写真も掲載しておこう。 手前の湯船と立札の向こうにも矩形の浴槽があり、緑の森の向こう側には松島湾の島影が望める。

夜の間に随分雨が降ったようで雨だれの音が響いていた。 これは通常聞こえてこないはずの音なので施設保守の観点から少しばかりマイナス評価としておこう。
pict-大観荘パノラマ完
早く目覚めるのが習慣となっているので、まだ真っ暗な時から部屋で朝日が昇ってくるのを待っていた。
厚く広がった雲の間に光輪を滲ませるように姿を現した太陽。
松島湾の島影がシルエットとして眺められた。 もう少し上の階なら湾の景色はもっと素晴らしく見えたのだろうが、私たちの部屋は広さを含め満足できるものであったので雨だれ以外に不足は無かった。

今回も家内のホテル選択は当たりであったと言える。



masatukamoto at 21:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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