April 2013

April 30, 2013

全て最高の差し入れ (タイミング・モノ・作戦)

思いっきり叫びたい。

「帰りたい~」と。

ははははは。 ただ叫びたいだけ。
叫んでも、どうしようもないし、叫ぶ場所も無い。
欲求不満のイライラがどうしようもないほど増大し、頭が滅茶苦茶になっている自分を未だ客観視出来る程度の悟性pict-20130419病室まで②は残っているのである。

そんな自分自身を偉い奴だと思う反面、ほんに可哀想な奴だとも思う。

写真はP・Tの杉本先生の補助でリハビリ室(1階)から我が病室(3階)まで長い距離の廊下を歩いて戻って来た時のもの。 (1~3階はエレベーターにより移動)

リハビリ訓練は連日休みなく続いているが、リハビリ訓練開始当時と異なり、現段階では1週間や2週間という短期のスパンでリハビリ訓練の効果を見ることは不可能と言うのが正しい表現である。
しかし、回復期病院として阪奈中央病院に転院して5月13日で3ヶ月を迎える。
当病院での治療目標は歩いて自宅に帰ることが出来るというものであったが、現在の機能回復の進度で残り2週間という期間での目標達成は無理であると判断せざるを得ないのが実情である。

ところが医療制度上、私のような脊髄損傷による急性期の治療入院期間は2ヶ月以内だったか、そして回復期病院への転入院をその期間内に行った後、リハビリによる入院期間を3ヶ月、これを限度としていると聞いている。
ここ阪奈中央病院に転入院の際も2ヶ月から3ヶ月の入院と言われたが、完治するかどうかは別にして3ヶ月を限度に退院させるものらしい。
pict-阪奈中央病院屋上からの眺望完了
阪奈中央病院の屋上よりの眺望。 山並みの左に生駒山。 我が家も見えていそうな・・・

私は医療保険制度に詳しくないのではっきり知らないが、病院への診療報酬は2週間までが高く、それ以後は減っていくらしい。 長期入院に対する医療費の抑制を国(厚生労働省主管)が推進しているため長期入院が増えれば増えるほど病院としては損をする結果となるらしく、3ヶ月を過ぎての入院は認めずに退院させているらしい。

今の状態で退院となったら・・・
家族へ今以上の世話をかけることに・・・。 入院可能なリハビリ施設があるかどうか・・・むむむむむ。

こんなことをいろいろ考えていると、本当に頭が破裂しそう。

そんな中、今夜のご馳走の写真である。
pict-20130430鮨一見舞い-3-1今日、リハビリ訓練の間に寿司屋の大将 I 氏が病室へ来て私の大好物を届けてくれた。

バッテラの海苔巻き、山ごぼう巻き、それにイチゴである。

ウワッハハハハ

ヒジキの玉子とじ(左上)、昆布佃煮(真ん中)、ほうれん草おひたし(下)、サバ・ふき・たけのこ・人参の煮付け(右赤色椀)は病院の給食。 白ご飯は家内が持ち帰り。

山ごぼう巻きは家内の好物で、多分大将 I 氏が家内にと持ってきてくれたのであろう。

我が家内がウルサイから、黙らせるための I 氏の作戦か。 ぶっはははは

さすがの家内も今夜は黙っておった。
ぶっははははは。
久々に、ほんま、久々の差し入れに感謝感謝。
可哀想な私を今夜は忘れることができた。
 I 氏にはもう一度「ありがとう」。


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April 26, 2013

今どき病院考 (病室の空調設備故障・その後)・・・阪奈中央病院

病室の空調設備故障については『今どき病院考(職員観)阪奈中央病院』(March19,2013)で初めて書いたように、私が故障に気付いたのが3月16日のことであった。

東大寺・二月堂の修二会 ( お水取りとして知られる ) の満行が3月15日だから、この時期の大和地方の夜間はまだまだ冷え込みが厳しい折、そんな時期の病室の空調設備故障ということもあって、入院して世話になっている立場ではあるが病院の対処の拙さについて厳しく?指弾しておいた。

時系列に書けば、
3月16日(土)・・・・・・午後2時頃 病室の空調設備故障を看護師詰所に連絡した。
             病院の営繕担当者が2度病室へ来たが故障状態変わらず。
3月17日(日)・・・・・・故障状態変わらず。(当方へは何の連絡も無いまま)
3月18日(月)・・・・・・外部の電気器具修理業者に依頼? (当方へは何の連絡も無いまま)
3月19日(火)・・・・・・外部の電気器具修理業者らしき者が病室へ来た。
             故障状態変わらず。(当方へは何の連絡も無いまま)

※ 徐々に気温が上がっていく傾向にあったので、暖房出来ないことは然程の問題にはならなくなった。
    布団をかけて寝てはいたが・・・
    故障状態変わらず。(当方へは何の連絡も無いまま)

4月 8日(月)・・・・・・テスト外泊で自宅へ帰る際、挨拶してくれた中年女性看護師が「帰っておられる間に空調故障を直させておきます。」と。
4月 9日(火)・・・・・・テスト外泊から病室に戻って来た私に対し先の看護師が「空調の故障は直っておりますので・・・」と。

※ この夜の冷え込みは強いものではなかったので空調のスイッチは入れなかった。

4月10日(水)・・・・・・午後3時頃、病室に来てくれていた家内が少し冷えてきたからと空調のスイッチを入れるも点検ランプが点くだけで機能せず。

※ 空調故障は直ってなどいなかった。  このことについて看護師詰所に連絡した。
※ この日、冷え込み強く、夕刻に営繕担当者が電気ストーブを持って来てくれた。
        夜、宿直勤務の女性看護師 K さんが電気毛布を持って来てくれた。

★ 電気毛布は返したが、電気ストーブは現在 (4月26日) も使わせてもらっている。

◎  空調設備故障は私の病室だけでなく他の部屋でも起きており、いろんな検査をした結果、施設全体の空調設備をやり直すことになったのだとか。
pict-咲き始めたペチュニア
咲き始めた我が家のペチュニア(栽培と撮影は家内)

ここらで空調設備故障について、一度まとめてみよう。
 1. 一般の住宅での空調の故障ではなく、病院という特別に配慮を要する施設での故障であるという認識が甘い。
    ( 修理や代替措置を行う迅速性の欠如。 患者に対する説明や謝罪の欠如。)
 2. 施設の安全確認や保守点検について、定期的に細密に行われていたかどうか疑問。
    ( 施設建設後の経年劣化に対する認識・・・甘さはないか )

今回の空調設備故障について大きくは上の二点に集約できよう。

基本は病院経営上の問題なので、私が垣間見た限り、私の主観としての病院考としておく。

以前に書いた『今どき病院考(職員観)阪奈中央病院』(March 19,2013)では、空調故障についての看護師たちの気遣いについて書いておいた。 指示されなくとも自ら阪奈中央病院の看板を背負っている彼女たちの言動を。

しかしその後の過程で、中年女性看護師の4月8日と9日の発言はムムムムム。 私が最も嫌いとするところであった。 彼女が修理をさせたのかどうかは別にして、「空調の故障は直っております」だと。 どこが直ってるんや!
自ら確認した事では無いのに断言出来るという・・・厚顔無恥と言うべきか。

それに対し、今夜は特段に冷えるからと電気毛布を持って来てくれた女性看護師 K さん。 
多分どちらも50歳・・・。 同じくらいの年齢だと思うが、エライ違いである。 
敢えてイニシャルも用いないが、私のせめてもの配慮である。
  


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インドネシアからの携帯メールか? (2) (つづき)

二つの被災地、思い共有 むすび塾@インドネシア・ムラクサ
【バンダアチェ(インドネシア)高橋鉄男=報道部】東日本大震災の教訓を今後の防災・減災に生かすため、河北新報社は23日、巡回ワークショップ「むすび塾」をインドネシアのバンダアチェ市ムラクサ地区で開いた。国際協力機構(JICA)と共催。2004年のスマトラ沖地震の被災地と思いを共有しようと、海外で初めて開催した。東日本大震災の被災者3人と現地住民10人が、教訓を語り継ぐことの重みを確かめ合った。
pict-むすび塾-3スマトラ沖地震で、同市を襲った津波は最大約10メートルとされる。地区は市北部の海沿いにあり、約3万人が
死亡・行方不明となった。
夫と子どもを津波で失ったアイヌンさん(46)は「日本の津波を知って、何もできなかった当時の悲しみがよみがえった」と涙ぐんだ。イスラム教寺院のおさザムザミさん(62)は「神様は、津波は次も起こりうる、津波を思い続けろと言っている」と話した。
東松島市の貝田行政区長中山勝文さん(67)、大崎市の水難学会指導員安倍志摩子さん(51)、多賀城市の東北学院大3年渡辺英莉さん(20)が被災体験を語った。
当時住んでいた東松島市野蒜の自宅で津波に流された状況を説明した安倍さんは「バンダアチェの人々は日ごろ明るい表情を崩さない。信仰心に基づく芯の強さを感じた」と話した。
進行役を務めた減災・復興支援機構(東京)の木村拓郎理事長は「災害体験を代々語り継ぐことができれば、犠牲を抑えられる」と強調した。
バンダアチェ市主催のシンポジウムもあり、JICA東北支部職員らが同市と東松島市の交流などを紹介した。

<ムラクサ地区>16の村からなる。2004年のスマトラ沖地震では全ての村が壊滅的な被害に遭い、住民約3万4000人の9割が犠牲になった。被災後は国内外の支援を受けて住宅を現地再建し、住民は1万6861人(11年)。漁業や農業が盛ん。
                                                                                                       20130424日水曜日

むすび塾 インドネシア・ムラクサ「語り継ぐ」参加者決意

【バンダアチェ(インドネシア)高橋鉄男=報道部】2004年のスマトラ沖地震で住民の9割超が犠牲になったバンダアチェ市ムラクサ地区は、新住民や津波を知らない世代が増え、被害の伝承が心配されている。「むすび塾」の参加メンバーは住民に東日本大震災の教訓を訴えるとともに、語り継ぐ決意を新たにした。
一行は地区にあるラムジャバ村を訪ねた。ブスタマン・アディ村長は「村に暮らす200人のうち、被災前からの住民は30人だ」と説明した。
pict-むすび塾ー4ムラクサ地区は、国外内の支援で資材が無償提供され、住宅が現地再建された。人口は被災後の約2200から約1万6800(11年)まで回復したが「津波が怖い」などの理由で住居は賃貸や売りに出され、新住民が増え
た。
昨年4月11日にスマトラ沖でM8.6の余震が起きた。新住民の水販売業アサヤ・ムナシェルさん(34)は「住民から津波のことを聞いていて私も逃げたが、避難する人でパニックになった」と語る。
災害の教訓を伝えようと、地区では津波被災した住宅を幾つか保存している。ブスタマン村長は「私たちは伝え続ける」と力を込めた。
むすび塾では、東日本大震災の語り部として宮城県内の3人が被災体験を語った。
東松島市の中山勝文さん(67)は津波避難のタイミングを逸し、友人宅2階に逃げた。浸水は1階にとどまって難を逃れたが「地震後は迅速に逃げてほしい」と訴えた。
多賀城市の東北学院大3年渡辺英莉さん(20)は、自宅近くの避難場所で祖父母とともに津波にのまれ、祖母が犠牲になった体験を明かした。
渡辺さんは、イスラム教寺院のおさから「あなたはアチェの家族です」と声を掛けられた。「つらい思いをしているのは一人じゃないと分かり、慰められた。私と同じ思いをしないように伝え続ける」と話す。
                                                                                                                       20130424日水曜日


下の写真を添付した励ましのメールは日付からだとインドネシアから送信されたものということになる。


そう言えば、つい最近に頂いた葉書にインドネシア(424)に行くというようなことが書かれていた。
きっとご主人の潜水の仕事、或いは水難学会がインドネシアで開催されるので出席されるのかもと思っていたが、今回は予想が外れていた。

スマトラ島あたりは地震が多く発生し、2004年の12月に起きたスマトラ島沖地震ではタイのピピ島が津波による大きい被害を受けたのでよく覚えている。
あの時、友人の YO さんとスキューバ・ダイビングを楽しむために年末から1月末までピピ島へ行くつもりをしていたのであった。
残念ながら私の予定が合わずに Y さんひとりがピピ島へ向かったが、年末の大津波から暫く彼女の消息が分からず大騒ぎになったことがあった。

この後もスマトラでは多くの大きい地震が発生し、
バンダ・アチェでは2010年にも、それに昨年は1月と4月だったかにも大きい地震があった。

我が家の里子がインドネシアにもいるので、彼の地での地震など災害発生の知らせには私も家内も大変敏感になっているのだ。

それにしても『しままま』の活動力には常々驚きを禁じ得ずにいるが、同時にその活動に対して心より敬意を払っていることも伝えておきたい。
『なーんにも無くなったけど生きているだけ儲けもん。』
大津波に流された直後このように語っていた『しままま』。
儲かった命をもって、命の大切さを、地震から津波から自然災害から身を守る術を広く多くの人にこれからも伝えていってほしいと願う。

『しままま』の活動を思えば私の『叫び』なんて、ほんまにツマランものかもなあ・・・

そんなふうにも思う。



※ 河北新報の記事は、むすび塾について出来るだけ正確に伝えたいために部分引用やリンクせず全文紹介の形を採った。  ただし、写真配置など若干ズレがあるがブログ投稿様式に従ったためである。




masatukamoto at 07:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

インドネシアからの携帯メールか? (1)

『しままま』が見舞い&励ましのメールをくれた。

『しままま』というのは東松島市野蒜で東日本大震災に遭い、大津波に流され九死に一生を得た安倍志摩子さんのことである。

はがき、パソコン・メール、電話、携帯メール。 これまでも度々見舞い&励ましの言葉をかけてもらった。

昨日、4月24日には マサさんがんばれー の文字ととも に「 バンダアチェ検索を 」との言葉も入っていた。

検索してみると河北新報の記事が・・・


震災の教訓共有するワークショップ、インドネシアで開催(422日)
河北新報社は、4月23、24の両日、東日本大震災の教訓を今後の防災・減災に生かすための巡回ワークショップ「むすび塾」を、2004年のスマトラ沖地震の巨大津波で甚大な被害が出たインドネシア・アチェ州の2カ所で開催する。
「むすび塾」は、住民とともに、震災の経験を将来の地震、津波対策に役立てる方法を考えるワークショップで、これまで宮城県内を中心に愛知県田原市、高知県四万十町などを巡回し、開催してきた。今回は初の海外開催となり、国際協力機構(JICA)が共催する。
ワークショップの進行役は減災・復興支援機構(東京)の木村拓郎理事長が務め、宮城県内の被災者3人が震災の語り部として参加し、現地住民と国境を超えて、備えの大切さや復興の課題など、震災の教訓を共有する。
JICAが東松島市に配置している地域復興推進員2人も含む訪問団一行は、21日にインドネシア入り。
「むすび塾」後も26日まで州都バンダアチェ市などに滞在し、集団移転による住宅再建や津波博物館、伝承の象徴となっている「災害遺構」の視察のほか、市主催の防災・減災シンポジウムにも参加予定。

むすび塾インドネシアへ 震災の教訓、国超え共有
東日本大震災の教訓を今後の防災・減災に生かすため、河北新報社は巡回ワークショップ「むすび塾」を23、24の両日、2004年のスマトラ沖地震の巨大津波で甚大な被害が出たインドネシア・アチェ州の2カ所で開く。国際協力機構(JICA)が共催する。海外での実施は初めて。宮城県内の被災者3人が震災の語り部として参加する。
ワークショップの進行役は減災・復興支援機構(東京)の木村拓郎理事長が務める。語り部と現地住民が国境を超えて、備えの大切さや復興の課題など、震災の教訓を共有する。
むすび塾はこれまで宮城県内を中心に愛知県田原市、高知県四万十町などでも開催。住民とともに、震災の経験を将来の地震、津波対策に役立てる方法を考えてきた。
訪問団には、JICAが東松島市に配置している地域復興推進員2人も同行する。
一行は21日にインドネシアに入った。26日まで州都バンダアチェ市、ジャカルタ市などに滞在。バンダアチェ市では、集団移転による住宅再建や津波博物館、伝承の象徴となっている「災害遺構」を視察するほか、市主催の防災・減災シンポジウムにも参加する。
                                            20130422日月曜日

スマトラ沖地震の移転集落を視察 むすび塾インドネシア入り
【バンダアチェ=報道部・高橋鉄男】防災ワークショップ「むすび塾」開催のため、河北新報社が国際協力機構(JICA)と合同でインドネシアに派遣した訪問団は22日、2004年のスマトラ沖地震で、巨大津波の被害に遭ったアチェ州の州都バンダアチェ市内を視察した。23、24日のワークショップに参加する東日本大震災の語り部たちは、スマトラ沖地震の被災状況や復興の現状を学んだ。
スマトラ沖地震津波の死者・行方不明者は、インドネシアで16万人を超え、バンダアチェ市だけでも6万人に上るという。市人口は、被災直後の約19万から復興特需で約23万(11年)まで回復。一方で、新規流入者や津波を知らない世代が増えたため、教訓の伝承が心配されている。
pict-むすび塾-1-1訪問団には語り部として、宮城県東松島市の貝田行政区長中山勝文さん(67)、大崎市の水難学会指導員安倍志摩子さん(51)、多賀城市の東北学院大3年渡辺英莉さん(20)が参加している。
一行は、津波被災に伴い高台移転した集落や市中心部の津波博物館を見学。津波災害の象徴として、船が屋根の上に乗った状態で残されている家も訪れた。
この家は市が船ごと購入して保存し、住民の祈りの場になっている。
市災害対応局の担当者は「災害を忘れたい思いもあるが、津波の記憶を刻み続けようと判断した」と説明。語り部たちは「震災を忘れない取り組みの大切さを、あらためて感じた」と話した。
23日は被災後に住宅を現地再建したムラクサ地区、24日は高台移転したロク・スデュpict-むすび塾ー2地区でむすび塾を開き、現地住民と意見を交わす。教育、宗教関係者との座談会や、市主催の防災・減災シンポジウムにも
参加する。

[アチェ州]インドネシア・スマトラ島最北の州で人口約520万(2010年)。04年のスマトラ沖地震では被害の9割が同州に集中した。中央政府は05年4月、同州に復興庁を設置。海外支援を含む総額7000億円を投じて住宅14万戸を再建。インフラ整備や農地再生も進んだ。アチェでは地震当時、独立派武装組織「自由アチェ運動」と国軍が内戦中だったが、地震を機に和平機運が盛り上がり05年8月に和平合意した。
                                                                                                                                                              2013
0423日火曜日
つづく


masatukamoto at 07:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

April 25, 2013

帰りたーい 《狂いそう》

早く自宅に帰りたいという思いは募るばかりである。
しかし我が身の回りの整理能力について、現状では周囲の者に迷惑をかけることは疑うべくもない確かなことであり、帰宅するという思いを抱くことそのことを脳は否定している。

ところが一方で、そうした脳に対しての誘惑も多い。

《 下は我が家で咲き始めた鉢植えのアザレア ( 4月19日、撮影・家内 ) 》
pict-咲き始めたアザレアつつじ
料理屋で美味しい料理を頂きながら、ちびりちびりと熱燗の酒を飲むとか、家内と二人、未だ行ったことのない知らない町をぶらぶら歩いて巡るという旅をしているとか、そういった自分自身の欲求が具体的な願いとなって誘惑してくるのである。

最近は諦めの気持ちがそうした欲求を抑え、フラストレーションの度合いは小さくなってきてはいるものの、想像上ではなく現実に友人から掛けられる誘いの声には気持ちの上で制御できないほどの不安定な心理状態になることがある。

《 下は我が家で咲き始めた鉢植えのアザレア ( 4月19日、撮影・家内 ) 》
pict-咲き始めたアザレアつつじ白色
1968年だったか69年だったか私が某公立校に赴任した当時の教職員の同窓会を開催するという案内を頂いた。
卒業生たちの同窓会は結構機会があるが、教職員だけの同窓会というのは珍しく何とか出席したいと思ったpict-20130420朝食が、歩くのもままならない状況ではどうにもならずに欲求不満となって蓄積していくこととなった。

日常的にはリハビリの効果が明瞭に表れないことも欲求不満を助長したし、好きな果物を自由に食べられないことや、朝食が連日パン食であることも不満として加わっていった。( と、思う。)
pict-20130422パイナップル毎朝毎朝、写真のような朝食。この時はヨーグルトが出ていたが、時に、そう、時にフルーツとなることがある。
ある時はキウイであったり、イチゴやオレンジであったりする。 或る日はパイナップルであった。

私に言わせれば、「こんなもんは朝ご飯とちゃう。」。
朝ご飯と言うのんは、『白いご飯』『味噌汁』『玉子焼き』、これが私の朝ご飯の三種の神器なのである。
そして、『玉子焼き』と言うのは出汁入りの塩味のものであり、砂糖を入れたようなお菓子ではない。念のため。

そしてつい先日、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー ( Aung San Suu Kyi ) 女史が大学へ来るので久し振りにpict-Aung San Suu Kyi会わないかという誘いがあった。
アウン・サン・スー・チー女史は龍谷大学より名誉博士号
(Honorary
doctorate)を授与された後に記念講演を行うのだとか。

※ 写真は龍谷大学・最新情報『アウン・サン・スー・チー氏が龍谷大学生に向け、 「一人ひとりの意志と決断が世界を変える」と語りました。』(2013年4月15日)より。
 

声を掛けてくれたのはU氏(龍大名誉教授)。 彼が定年退職した折に祝いの集いでも開催しようと思っていたのだが機会を逸してそのままになっていた。
だから今回は講演も聴けるので絶好の機会であると思いはしたのだが、病室にあって動くことが出来ない身の上では如何ともし難い。

あれやこれやと例え不満が小さいものであっても蓄積していくと『塵も積もれば山となる』の俚諺の通りであり、時pict-ムンク『叫び』オスロ美術館-1に小さな塵同士であっても寄り合うことで相乗効果的にモノが増大することもある。
今や将に私の欲求不満が、その臨界点に達しようとしている状況である。

「帰りたーい」

思いっきり叫びたい心境である。

エドヴァルド・ムンク『叫び』
 オスロ国立美術館(ノルウェー)


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