May 2013
May 31, 2013
みちのく行く (20) 羽黒山
ところで出羽三山を開いたのは崇峻 (すしゅん) 天皇の第三皇子である蜂子皇子 (はちこ の おうじ) だとされている。
蜂子皇子 ( 562 ~ 641 or 652 ) は30歳の時、つまり 592年に父親である崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されているが、この6世紀頃の大和・飛鳥地方では崇仏廃仏を巡って壮絶な権力争いが行われていた。
※ 写真は『奥の細道』で羽黒山を訪れた松尾芭蕉翁像。
欽明天皇 ( きんめい ・ 29代 ) は百済・聖明王より仏教を伝えられた ( 538年説 & 552年説 ) が、崇仏派であった蘇我稲目 ( そが の いなめ ) と日本土着の原始神道を信奉する物部尾輿 ( もののべ の おこし ) や中臣鎌子 ( なかとみ の かまこ ) らとの間では皇族をも巻き込み、互いの勢力拡張のため謀略・謀殺が繰り返されていたようだ。
敏達天皇 ( びだつ ・ 30代 ) は廃仏派寄りであったため物部守屋 ( もののべ の もりや ・ 尾輿の子 ) や中臣勝海 ( なかとみ の かつみ ・ 鎌子の子 ) が権力を得るようになった。
こうした勢力に対し蘇我馬子 ( そが の うまこ ) は用明天皇 ( ようめい ・ 31代 ) を推した。
この用明天皇の父は欽明天皇だが母親は蘇我稲目の娘・堅塩媛 ( きたし ひめ ) であった。
一方、物部守屋は欽明天皇の子である穴穂部皇子 ( あなほべ の みこ ) を推そうと結びついた。
この穴穂部皇子の母親も蘇我稲目の娘である小姉君 ( おあね の きみ ) であった。 が、結局は穴穂部皇子と廃仏派の物部守屋を殺した崇仏派の蘇我馬子が実権を得た ( 587年 ・ 丁未の乱《ていび の らん》 ) のである。
※ 写真は芭蕉翁・野口 ( 三山 ) 句碑
『 涼しさや ほの三日月の 羽黒山 』
『加多羅禮努湯登廼仁奴良須當毛東迦那』
『雲の峯いくつくつれて月の山』
羽黒山、湯殿山、月山の三山を詠んでいるのだが、漢字ばかりの湯殿山については以前 ( みちのく行 17 湯殿山 ) に紹介しているが、『かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな』《語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな》である。
用明天皇の死後、蘇我馬子に推されて崇峻天皇 ( すしゅん ・ 32代 )=泊瀬部皇子 ( はつせべ の みこ。穴穂部皇子の弟 ) となったが、政治の実権を握っていた蘇我馬子に対して強い反感を持っていたことが知られ、馬子が送った刺客・東漢 駒 ( やまとのあや の こま ) によって暗殺された ( 592年) 。 この東漢 駒も後に馬子に殺されてしまう。
ちなみに崇峻天皇が殺された後、蘇我馬子に推薦されて天皇になったのが推古天皇 ( すいこ ・ 33代 女帝 ) である。
推古天皇と言えば、甥である厩戸皇子 ( うまやど の みこ ) 、つまり聖徳太子を皇太子として摂政の任にあたらせた天皇であり、敏達天皇の皇后で額田部皇女 ( ぬかたべ の ひめみこ ) のことでもある。
だから父親は欽明天皇で、母親は蘇我稲目の娘・堅塩媛である。
※ 朱塗りの鳥居は三山神社のもので、この鳥居の右奥に三神合祭殿がある。
飛鳥の宮に限らず、権力や情や縁というのは何ともドロドロしたものである。
随分横道へ入り込んでしまったが、蜂子皇子が大和の地を遠く離れて庄内の海岸に辿り着き、羽黒山を開山するに至った時代背景を眺めることは皇子の心情や行動の理解に多少とも役立つかもしれないと思ったのだが、どうだろうか。
593年に羽黒山を開き、更に月山を開いて後、605年には湯殿山に神社を建て、羽黒修験道の祖と言われている蜂子皇子は蘇我馬子の手を逃れ、現在の京都府宮津市由良から船で山形県鶴岡市由良の海岸に来たらしい。 この時、岩の上で8人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て上陸したのだと。 すると三本足の烏が出て来て皇子を羽黒山に導いたらしい。 皇子は三本足の烏に案内されるまま山を登り羽黒権現を感得して出羽三山を開いたのだと伝えられている。
※ 鐘楼と大鐘 ( 重要文化財 )
参集殿の前に建つ鐘楼は茅葺き切妻造り。
大鐘には建治元年 ( 1275年) の銘が入った立派なものだったが音は聞いていない。
下の写真が三神合祭殿 ( さんしんごうさいでん ) である。
合祭殿内は朱塗りで中央に月山神社、左翼 ( 向かって右側 ) に出羽神社、右翼に湯殿山神社 ( 向かって左側 ) が祀られている。
うーん?
出羽神社?
蜂子皇子が羽黒山において難行苦行の末に羽黒権現 ( 羽黒大神 ) を感得し、羽黒山頂に寂光寺を建立、その後に月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現として祀ったと聞いていたのだが・・・
そうそう、明治期の廃仏毀釈によって大権現の称号を外して出羽神社と称するようになったのだと。
まあ宗教も信仰も関係なかったのだろう。
戊辰戦争時に庄内藩は奥羽列藩同盟に加わり、明治新政府からは朝敵とされていた。
『宮さん宮さん お馬の前でひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレトンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ』という歌があるが、何でもかでも『錦の御旗』をかざして無理無体 ・ 無理往生を通していた面があったのだろうと私は思っている。
合祭殿は文政元年 ( 1818年) に建立されたもので杉材使用、茅葺きの羽黒派古修験道独特の合祭殿造りという様式で重要文化財に指定されている。
写真でも推量できるかと思うが、茅葺きの屋根は七尺 ( 2.1m) の厚さがあり、これだけでも見学の値打ちがあろうというもの。
表参道から羽黒山頂へ登ってきた時の鳥居と厳島神社に蜂子神社 ( 手前 )。
写真の厳島、蜂子の両神社もそうだったが、三神合祭殿も松尾芭蕉翁像も金属パイプや丸太が組まれ囲われていた。
見学する私たちにとっては何とも無粋な構造物であったが、きっと雪深いこの地域の建造物を雪害から守るためのものなのであろう。
確かめたわけではないが、私の勘がそのように語っている。
May 30, 2013
みちのく行く (19) 鶴岡から羽黒山へ
ヤヤコシイ空模様になってきた。
現在、山形県は日本海に面した庄内地方と、その東側部分 ( 内陸部 ) の北部・最上地方、中部・村山地方、南部・置賜 ( おきたま ) 地方の4つの地域に分けて見ることができる。
鶴岡市はその庄内地方の南に位置し、北に位置する酒田市と行政的規模を二分していると言って良い。
この庄内地方というのは最上川と赤川の堆積作用によって出来た庄内平野であり、近世以降現代に至るも東北地方有数の農耕地である。
戦国期には最上氏と上杉氏による勢力争いの地となったが、江戸期になって徳川譜代大名の酒井忠勝が出羽庄内藩主に封じられて以後、藩庁を鶴岡城に置き、明治期まで酒井氏が藩政を行ってきた。
一方で現在の酒田市は江戸期に北前船の寄港地として大いに栄え、豪商・本間氏が勢力を握っていたらしい。
上の写真は出羽庄内藩・鶴ヶ岡城址 ( 明治 4 年廃藩置県により廃城 )
近世については北前船による人々や物資の交流など、日本海
文化圏として地理的に広く史的研究が進んでいるようだ。
写真は復元された北前船 ( 陸奥新報2007.8.6より )
考古学的には硬玉類が多数出土していることで鶴岡市の玉川遺跡 ( 縄文中・晩期遺跡 ) が有名で 5000年前頃には人類が生活していたことが分かるのだが、縄文時代というのは今から 1万4000年前頃から 3000年前頃までの時代を指し、文字による記録などの無い有史以前のことなのでハッキリ言えば『ワカラン』時代である。
同じように『ワカラン』ことの多い時代ではあるが、韓国・公州の武寧王陵を訪れた折のことを思い出した。
百済の第 25 代王 ・ 武寧王 ( ムリョンワン、462~523年、在位502~523 ) と王陵については『韓国・公州・・・その②』 ( April 29,2012 ) に記しているが、武寧王と王妃の木棺に日本固有種 ( 1 属 1 種 ) のコウヤマキ『高野槇』が用いられていると。つまり、日本にしか無いはずの樹木『高野槇』が何故韓国・百済の王の棺に用いられていたのか、この疑問はとっても『オモロイ』ものだと。
さらに硬玉についてだが、武寧王陵から多くの勾玉 ( まがたま ) が出土しているが、この勾玉が翡翠 ( ひすい )、つまり硬玉であり王冠の飾りにも使われていた、多分高価で高貴、貴重なものと考えられていたのであろう。
武寧王陵より出土した翡翠=硬玉の原石は化学組成分析の結果、新潟県糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明している。 しかも縄文時代において硬玉が東アジアでは日本でしか発見されていないことを考えれば、糸魚川から鶴岡など日本海沿岸域では早い時代から広く交流が行われていたであろうと考えられ、『ワカラン』時代ながらもいろんな方向に推量が広がり、なかなか『オモロイ』ものだと思うのである。
さて、鶴岡市から羽黒山へ話題を転じるつもりであったが、少々つまづいてしまった。 上の写真は鶴岡公園 ( 鶴ヶ岡城跡 ) の堀の前に建つ致道博物館。
酒井氏庭園の一角にあり、旧鶴岡警察署庁舎 ( 重文 ) で、致道の名前は庄内藩校『致道館』に由来する。
鶴岡から羽黒山へはほぼ一本道 ( 県道47号線 ) で迷うことはない。
道路をまたぐ大鳥居をくぐってしばらく走ると旧道 ( 県道46号線 ) と県道47号線の分岐点に出る。
江戸期には三百数十もの宿坊があったという門前町手向の様子を見るべく旧道を走ってみたのだが、何軒かの宿坊らしき建物は見えたものの往時の賑わいを想像することはさすがに難しかった。
町の名前を門前町手向と書いたが、『たむけ』ではなく『とうげ』と読む。 ふーーむ。
旧道を更に走っていると出羽三山神社の鳥居と随身門の前に出る。
ここから出羽三山の神域に入るが、神域は羽黒山から月山、湯殿山へと広大な地域に広がる。
鳥居の中央には月山、右下に羽黒山、左下に湯殿山と書かれている。
鳥居の向こうに見えるのが随身門だが、元々は江戸・元禄の折に寄進された仁王門であったらしい。
それが明治の廃仏毀釈で江戸期には三百数十もあった寺院宿坊は言うに及ばず、仏像などもことごとく破壊され、明治政府の思惑通り国家神道の中に取り込まれた折に仏教の守護神である金剛力士を安置した仁王門から、神社・貴人を守護する随身を安置する随身門に変えてしまわれたという。
この随身門をくぐったところから下りの石段が長く続く。 この石段の坂は継子坂 ( ままこざか ) と呼ばれ、下って行くと写真のように杉木立が鬱蒼と茂る中に末社が建ち並ぶ所に至る。
写真は祓川 ( はらいかわ ) に架かる朱塗りの神橋。
祓川には須賀の滝より落ちる水が流れ、昔の三山詣での人々は、この祓川で水垢離潔斎を行ったらしい。
滝廉太郎が作曲した『箱根八里』という歌がある。作詞者を覚えていないが、『箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千尋の谷 前に聳えしりえにさそう 雲は山をめぐり霧は谷をとざす 昼なお暗き杉の並木 羊腸の小径は苔なめらか』と歌う。
箱根山のように天下の険とまでは言わないが、羽黒山の表参道もイメージとしては共通するものがある。
写真の五重塔は、三間五層で高さが 29m 柿葺素木造で国宝である。
傘なしで雨に打たれながらであったが、あまりにも見事な塔であり、家内も私もしばし見とれていた。
ほんま、「素晴らしい」のひとこと。
ほかに言葉は要らんかった。
この五重塔の近くに『爺杉』と名付けられた杉の巨木があるのだが、幹周りが 10m で樹齢は 1000年だと。
しかしここに掲載した写真からも想像できると思うが、幾重も樹齢を重ねた古木が多いので『爺杉』が特段目立つようには見えなかったのだが・・・
天然記念物『爺杉』の写真を・・・参考までに。
羽黒山の表参道はこうした苔むした石段が長く続き、やがて三神合祭殿に至る。
一方、先の旧道 ( 県道46号線 ) と県道47号線はやがて合流し、その後県道47号線は県道45号線と県道211号線、それに羽黒山有料自動車道に分かれる。
県道211号線は月山八合目まで通じているので月山詣での人や登山者はこの道を利用することとなる。
この日お天気が回復しないので、私たちは羽黒山有料自動車道で三神合祭殿へ詣でることにした。
【 つ づ く 】
May 26, 2013
心のリハビリ
土曜日の午後2時前、照明が落とされた病院の廊下ではあるが数人の PT らによって老人3名の歩行訓練が行われていた。
「こんにちは」
車椅子に座る私の横で聞こえた挨拶の声。
耳にしたのは、たったの5文字である。
しかし、この一瞬、私の脳は或る人物を特定していた。
が、同時にその思いを否定していた。
そんなことがあるわけない、と。
この間、1秒・・・ いや、せいぜい2秒までのことだった。
挨拶の言葉をかえすためにその人物の顔を見上げた。
途端に、
「どうしたん」
何と、とんまな・・・
素っ頓狂な声で
まともに挨拶の言葉をかえすことが出来ないほど私の頭の中は混乱していたのである。
驚きと嬉しさと感謝。
こんな素晴らしい言葉を三つも同時に味わわせてくれた『しままま』。
今一度、「ありがとう」。
病室へ来てもらったことだけでも驚きと嬉しさで胸いっぱいなのに、河北新報まで持ってきて頂き、何と言って良いのか。
東北大好き、みちのく大好き、そんな私は学生時代より河北新報の題字を見るだけでも心躍るものがあるのだ、が、このことは『しままま』に語ったことがあったかなあ・・・
『しままま』には『ほや』のことの他、半世紀も昔の宮城第一女子高生とのことや東北大の学寮について語ったか書いたかしたような記憶はあるのだが。
『ほや』については毎年立派なものを送って頂き有難いことと感謝していたが、2011.3.11の大津波で三陸の『ほや』も『かき』も養殖が全てダメになったことをとても残念なことと思っていた。
大阪の市場で『ほや』はほとんど入荷しないし、業者に頼んで仕入れてもらっても小さなもので、韓国西南部の多島海で採れるものなどと同じで小さく肉の薄いものでしかなく、三陸ものとは比べようもないくらい貧弱なものなのである。
だから、この2年間『ほや』の『ほ』をも口にしたことが無かった。
『ほや』の燻製があるとは知らなかったし、『ほや』の塩辛も・・・
言っちゃ悪いけど『ほや』は、やはり生のまま、皮をむきながら海水を含んだ薄い塩味と香り高い磯の味わいを合わせ噛みしめ頂くのが最高であることに私の場合変わりはない。
しかし『ほや』大好き人間の私にとっては『ほや』が用いられているということだけで金銀の塊にも比肩するものなのである。
遠いところを来て頂いただけでなく、重くかさばるものをも運んで頂いたことに感謝感謝である。
以前より活動的・行動派の『しままま』ではあったが、全く全くのオドロキであった。
行動派という点で『しままま』は 4月23日、24日に国際協力機構
(JICA) と河北新報社が協力してインドネシアで開催したワークショップ『むすび塾』に出席していた。
昨日持ってきてもらった河北新報 ( 5月15日付 ) の記事は『むすび塾』 in インドネシアのまとめといったものであった。
2004年のスマトラ島沖地震と大津波で甚大な被害を蒙ったインドネシアのアチェ州の州都バンダアチェ市ムラクサ地区やラユン村などを東日本大震災で被災した『しままま』たちが訪れ、互いの地震&津波の辛い経験を語り合うことによって後世の被害を少しでも小さなものとする方向での手だての大切さや必要性を共有することができたと読み取れるものであった。
この河北新報の『むすび塾』 in インドネシアについては 4月23日、
24日当時の記事を 4月26日付の当ブログでも紹介している。
そんな行動派『しままま』の足元には遥かに及ばないが、私の電話を受けた家内が取るもの取りあえず病室へ来てくれたのは電話を切って15分もかからなかった。
写真はリハビリ訓練ルームで山口 PT に撮ってもらったものであるが、『しままま』の何と若々しいこと。ぶっははははは
ほんま、20年は言い過ぎでも10年は確実に鯖を読めまっせえ。
この『しままま』の元気を戴いたのか、体調を崩していた家内の調子が上向きに。
昨夕は微熱で今朝はまずまずらしく、昼過ぎには病室へ来てくれるらしい。
安倍さんご夫妻には何かと気遣いを頂いてきた。
先日は家内の健康を気遣って健康食品を送って頂いたし、果物好きなのに病院で別途フルーツ欠乏によるフラストレーション症を病んでいる私にトマクイーンなるミニトマトを送って頂いた。
このミニトマトの美味いこと。 ぶっはははは、であった。
糖度は高く甘いのだが、ほど良い酸度と相まってしつこくなく、ほんとうに美味いウマイうまいのだ。
これが安倍さんご夫妻が現在住まわれている宮城県大崎市鹿島台での生産物と知って一層おいしく感じたというわけ。
東北大好き、みちのく大好きってのは、こんなもんなんやって。
『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』と言われるが、逆に『痘痕 (あばた) もえくぼ』と好きになってしまったら何もかも良く見えてしまうというのと同じ。
見境が無いほどではないが、それくらいに好きやねんてこと。
『お手紙付きのお菓子』も有難う。細やかな気遣い全て全て感謝感謝。
大仏さんの見学に来たって?
ぶっははははは。今回はそういうことにしておこう。
鬼の目に涙とは聞いたことがあるが、仏の目に涙ってのは聞いたことがない。
今度は仏さんを泣かさんようにな、『しままま』。
May 25, 2013
ちょっと気になる
血液検査などの結果、病院で風邪だと診断された家内だが、処方された薬を服用し続けていても治らないため、長年の付き合いであるホームドクター K 女医の診察を受けたところ、病院での血液検査結果と処方されている薬を比べ見て、感染系の病気(風邪も含め)ではないので処方されている薬を服用する必要はないと断言
されたとか。 症状から甲状腺機能に関わるかと思われるので、この検査だけしておこうということになったらしい。
以前に私が院内で風邪を引いた時、『初めヤブ医者、あと名医とも言いますからね。』と看護師が『後医は名医』の俚諺を語っていたことを紹介したが、今回の家内の件は違っている。
同一の血液検査分析表の結果に基づく診断と、その薬の処方に違いがあったのである。
確かに診察・診断した時点に違いがあるにはある。
ひとりは病院の若い内科医で、もうひとりは内科を主に長年開業医として診療所を運営してきた女医(ご主人は昨年まで大阪の某医大・内科学教授)である。
若いから劣るとは言わない。 小麦粉を頭痛薬と称して痛みを軽減・治癒させるような心理療法 ( 暗示 ) についても知っている。 しかし、こうした心理作用の効果を上げるには前提条件として医師と患者の信頼関係が成り立っていることが必要なのだが、果たしてこの若い医師と家内の間で・・・・・。 私には条件が揃っていたとは考えられないのだが、この若い内科医は何故必要とは言えない薬を処方したのか気になる。
以前は診察を受けるどのような医師に対しても絶大なる信頼をおいていた私だが、当病院で『第二・オピニオン』として県立病院を紹介してもらい、その結果として現在の状況に至っていることを思うたび、医師を信頼しないで医療が成り立つわけがないと思いつつも、『第二・オピニオン』どころか『第三・オピニオン』『第四の見解・意見』をも求めたい、求めるべきだという考え方に傾いている。
以前にも書いたが、『第二・オピニオン』として県立病院を紹介した医師についても紹介された当該県立病院の医師をも恨んでいるわけではない。
ただ、医師の診察・診断に関する力量に対し、信頼する度合いが私の頭の中では以前に比べて 3分の1 にも 4分の1 にも減ってしまっていることは事実である。
家内の検査結果についてホームドクター K 女医が診断するのは水曜日だとか。
何も異常がないと診断されることを私としては祈るばかりである。
※ 上の2枚の写真は家内が育てているもので、初めのはペチュニアとビオラ。 次のは紫蘭 ( しらん )。
May 24, 2013
みちのく行 (18) 湯殿山総本寺瀧水寺大日坊
この参籠所の駐車場と国道 112号線を結ぶ道路は有料であるとの情報を得ていたのだが、実際に支払うことは無かったような・・・
半年を経てから記憶をもとに書いているので所々オカシイ所があるかもしれない。 旅行中に得た資料等 ( パンフレットや領収書など様々なもの ) は紀行作成整理のため撮影した写真や我が覚書などと共に暫くの間は保存しているのだが、現在は私自身が病室暮らしをしているために資料を確認、活用できないために整合性のないことが起きているかもしれないということなのだ。
※ 我が家の鉢植えスズランが満開 5月15日 撮影は家内
( この写真は単なる飾り )
おぼろげな記憶を確かなこととして断定的に書くわけにはいかない。 勿論、表現の仕様によって多少の曖昧さを残しつつも確からしい印象を与えるように書くことは出来る。 レトリックと呼ばれる分野、つまり修辞技法に於ける『ぼかし』とか『ほのめかし』にあたる技法になるが、それはマヤカシ、詭弁、虚言に通じる面もあり、私の基本姿勢とはズレるもので通常意図的に用いることは先ず無い。 レトリックとしてなら『比喩表現』とか『具体表現』、或いは『強調表現』など時に用いてはきているが、世に言う悪徳な輩の舌先が三寸ならば私の舌先など一寸どころか一分にも満たないであろう。
国道 112号線 ( 六十里越街道 ) は山深い谷間に沿ってくねくね続く九十九折れの道である。
何ヶ所か工事箇所があり片側通行になっていたが、舗装された対向2車線道路で走りやすかった。
この道路は『あさひ月山湖』という人造湖に沿った道らしいのだが、私には湖を確認することが出来なかった。 多分道路と湖面の高低差が大きい上に道路と湖の間に広く樹木が茂っていたからだと思うのだ。
この国道 112号線の某トンネル ( 名前が分からない ) を出た所で右手への道が分岐している。 道上部の高い所には山形自動車道 ( この区間の工事は完成していた模様 ) が通っており、この自動車道の下をくぐって谷間を抜けて暫く走ると緩やかな段々状に田畑が並ぶ農地に出る。
その農道を少し走った所に写真にあるような茅葺きの仁王門 が建っていた。
この仁王門は寺院建築としては珍しい八脚門であることや室町期以前の建築物であることから山形県の有形文化財に指定されている。
この仁王門は湯殿山総本寺瀧水寺大日坊のもので写真のように『即身佛木喰真如海上人』と書かれた木製看板が掛けられていた。
『即身佛』と言うのは真言密教の教義であり、人間が現世で生きた状態のままで悟りを開いて仏になるというものだ。
『木喰』は「もくじき」と読み、木食戒に従っての修行を行うことであるが、木食戒とは穀断ちとも言われ米、麦、大豆、小豆、胡麻の五穀と塩を断ち、肉食もせず、しかも火を使っての調理もしないというもので、口に入れることの出来るものは木の実と草だけだそうだ。
これは五穀断ちと言ったそうだが、蕎麦、黍 ( きび ) 、粟、稗 ( ひえ )、唐黍 ( とうきび=トウモロコシ ) を加えた十穀断ちもあったらしい。
そうした穀断ちと言われる行は千日行などと呼ばれ、何年もの長い期間続けられ、やがては水も完全に断ち、体の水分をも無くして乾燥させていくそうだ。
そうして最後は入定に向かって漆 ( うるし )を飲むことで体内の腐敗を防ぐのだと。
漆かぶれは無いのだろうか・・・なーーんてのは下賤の考え。
『真如海上人』の上人は偉い僧侶に対して付けられる敬称だから、真如海と言うのが僧侶の名前になる。
この真如海という人物は湯殿山・越中村の百姓で、肥やしがかかったと武士と言い争いになった末、この侍を殺してしまったために大日坊に逃げ込んで出家、
1783年(天明3年)大飢饉の救済を祈願して木喰修行に入り、大日坊に近い山中の土の中で 95 歳で入定したと伝えられている。
この『即身佛木喰真如海上人』のミイラが安置されていることで名高いのが、写真の湯殿山総本寺瀧水寺大日坊である。
この『即身佛木喰真如海上人』のミイラについては写真撮影の許可を得る機会を失したので、『湯殿山総本寺瀧水寺大日坊』のページを紹介させて頂くことにする。
住職に写真撮影の許可を求めようとしたのだが、その都度参拝者が来場、住職の説明も蓄音機でレコードを聴くがごとく同じ説明が繰り返されて途切れる様子も無かったので、説明料というか、家内は高いと言ったが細かいのを持ち合わせが無くて〇〇円札を布施として住職に手渡した。
なかなかの熱弁であり、まっええやないかって。ぶっははははは
左の金剛力士・仁王像 ( 阿形 ) の写真、次の仁王像 ( 吽形 ) 、そして風神像に雷神像は、この大日坊の仁王門に安置されていたものである。
文化財としての史的価値がどうなのか分からないが、私には彫像としての美的価値からついついカメラに収めておこうという思いに駆られた立居姿であった。
法隆寺の仁王像も東大寺の運慶・快慶による仁王像も素晴らしい作品で私の好きなものだが、この大日坊の仁王門の作品もなかなかのモノであった。
ところでその昔、湯殿山は高野山と同様に女人禁制であり、湯殿山総本寺には多くの僧坊が建ち、大きい力を有していたそうだ。
その頃の『出羽三山』というのは『みちのく行 (17) 湯殿山』で、「羽黒山を観音菩薩で現世と見立て、月山は阿弥陀如来で前世と見る、そして葉山を薬師如来として来世と見る。 そして湯殿山は俗世ではなく出羽三山の奥ノ院とも言うべき聖地で大日如来に見立てていたのだ」と書いたように中世までは葉山が出羽三山のひとつであったと、これも私の聞き違いでなければ瀧水寺大日坊の住職が語っていた。
この住職の言によると、明治新政府の方針である廃仏毀釈の嵐は出羽三山でも大いに吹き荒れたということである。
神祇官が羽黒大権現を出羽神社に改組するや、酒田県は羽黒山麓仁王門から月山山上までの末社から道端の仏像など全てを取り除くよう命令を下し、最終的には羽黒大権現・月山大権現・湯殿山大権現は出羽三山神社として天皇中心の政治体制構築を目論む明治政府の思惑通り、国家神道の中で全く新しい組織として作り上げられることとなっていった。
当時多くの寺院僧坊が破壊され、辛うじて羽黒山の荒澤寺・正善院、湯殿山の注連寺・瀧水寺大日坊などが寺院として残ったとのことである。
ところで、この湯殿山は先に書いた通り女人禁制であり、女性は湯殿山の寺院僧坊に参ることで湯殿山に参拝したことになっていた。
瀧水寺大日坊には三代将軍・徳川家光の乳母である春日の局が二代将軍・徳川秀忠の病気平癒祈願に参詣しており、その祈願文を入れた状箱が大日坊で保存されている。 が、この病気平癒祈願は表向きであり、実のところ竹千代 ( 三代将軍・家光の幼名 ) を将軍にするための祈願であったとも言われている。
事実、この後も徳川家の祈願寺としての扱いを受け続けていったことからも推測できると言われるのだが、これについては果たしてどうか・・・確かな史料がないことには、むむむむむ。
湯殿山総本寺瀧水寺大日坊の見学を終えて再び国道 112号線 ( 六十里越街道 ) に戻り、鶴岡市へ向かった。