June 2013

June 30, 2013

気分を安定させるもの

飛んでいた記憶が脳で時系列に想起再編整理されていくのが分かるような気がすると前ページで書いた。
しかし全てという訳には行かないようだ。
ひと言で表すなら落ち着かなかったということであり、精神的に安定していない状態が続いていたため細かなことまで気が行かなかったと言うか、精神的安定を求めるがゆえに不要な不安定要素となる記憶をどんどん拒否 pict-P1060644-1( 忘却 ) していたのだと思う。

退院して 2 週間。 自宅での生活にやっと落ち着きを感じ始めてきたところである。
そう、感じ始めてきたところであって、未だ落ち着いたとは言えない状況である。
何故か?
説明するには理由が沢山ありすぎて・・・しかもそれらが複雑に絡み合っているため単純化して 「 こうだ 」「 ああだ 」 と理由を特定して説明することが難しいのだ。

これらについて追々語ることがあるかもしれないが今は置いておこう。
何日か前から少しばかり自宅での生活に落ち着きを感じ始めてきたところであり、その表れとして新たにCDを購入して音を楽しんでいることを書いた。

購入したCDはクラシックばかりではない。
pict-P1060643-1買ったCDの一部のジャケット写真を掲載したが、いずれも久し振りに聴く声であり音であり何だか懐かしいという気分を強く感じている。

私と好みの『音楽』との出会いは幼児期であった。 ただ誰の演奏で歌い手が誰であったかハッキリした記憶は無い。

我が家には木箱で作られたラジオや蓄音機 ( 手回し ) があったが、幼い私には触らせてはもらえなかった。 もっとも沢山あったレコード盤はワルツやタンゴばかり。 これらは両親が若かった頃にモボやモガと呼ばれるようなハイカラな生活に浸っていたことの証拠品のようなもので私自身がそれらの影響を受けたという覚えは無い。

当時のマスメディアと言えばラジオ、新聞に加えて映画館で上映されるニュース映画ぐらいであり、ラジオでは私にとり退屈で仕方が無かった浪曲 ( 浪花節 ) が歌われたり、外地から引き揚げ船で帰国してきた人たちの名簿が連日のように読み上げられていた。

そんなラジオから流れてくる音楽で私の興味を掻き立て私に歌わせるようにしたのが『オー・マイ・パパ』と『テネシー・pict-P1060650-1ワルツ』であった。 日本の歌では『青い山脈』や『東京ブギウギ』『東京シューシャインボーイ』『ミネソタの卵売り』などを聴いていたことを覚えている。
父親に度々連れてもらった映画館では3本立てニュース映画が上映されており、『朝鮮動乱』や『スエズ動乱』など戦争に関わってのニュース映画が多かったように記憶しているが、それらも含めて今も懐かしい思い出のページを構成している。

ジャズについて全くド素人の私だが、好きなのはバンドによるマーチングやスウィング・ジャズである。
しかし、家内と東京見物 ? ( ぶっはははは ) に行った際、赤坂のジャズ・クラブ 『 Kei 』 を訪れてライブ演奏を聴いた時のことを
 March 29, 2008 付のブログに書いているが、私は音楽を選り好みするようなことは無い。
要は気持ち良く聴けて
気分が安定するものなら基本的に拒むことはない。
リズムに乗せてくれ、歌詞を口ずさむまで共感し共鳴するような曲なら最高だが、そこまでは望まない。




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June 29, 2013

頑張ってまっせえ・・・・・

退院帰宅して 2 週間になろうとする。
あの日、帰宅して少しゆったり寛いでと思うほどの間もなくケア・マネージャー ( 介護支援専門員М女史が通所リハビリ施設 ( 介護老人保健施設 ) の男性理学療法士 K 氏と看護師か介護福祉士かの女性 2 名、それに訪問リハビリ担当で病院より派遣された 理学療法士を連れてやってきた。
つまり初顔合わせということだ。
直接私のリハビリ担当となる理学療法士 K 氏と 氏だが、訪問担当の理学療法士として、もう一人 M 氏がいる。
いずれも気さくな好青年私よりは随分若そうだから ) であり、自分で言うのも気が引けるがシャイな私もひとまず安堵した。
pict-20130622高知ハウスみかん
頂き物のハウス・みかん ( 高知 山北 ) 。 山北は温室栽培による温州ミカンの産地である。 露地における6月半ばのミカンは小さな緑色の実が付いた頃である。 『 ♪  みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道・・・』 と歌われるミカンの花は白色で開花期は5月頃。 だから夏場のミカンというのは珍しいものなのである。
季節感、時、旬といったことを大切に思う私だが、果物大好きな私の前でそうした言葉は無用なのだ。

何だかんだと言ったりしてる間に夕食の時間。
前々々回に写真入りで書いた家内の料理に舌鼓を打ち、この日は早いうちにベッドへ入った。

18
日の火曜日は通所リハビリ施設の車で施設まで送迎してもらった。
車名やメーカーに詳しくないので特定できていないが、私が知っている車名で言えば日産・キューブのような、通常は5人乗りだが後部の3人が座れるベンチシートをたたみ、空いた所に車椅子を積めるようにした普通車である。 後部ドアを上に開いた後、スロープを引き出して車椅子を積み降ろしするのだが、体重の重い私が車椅子に乗っていても車に装備されている巻き上げ機 ( ウインチ ) で容易に積み降ろしが出来るのだ。

初めての通所リハビリだったので、医師の診察と理学療法士による私の現況 ( 筋力平衡感覚歩行能力など ) 確認などを行って終了。
pict-20130622山形佐藤錦
頂き物のサクランボ ( 佐藤錦 山形産 )。 ML寸混合だがハハハハハ、私の表情が想像できるであろう。

ケア・マネのМ女史の説明によれば、介護 2 の認定を受けた私の通所リハビリは 1 週間に 3 単位受けることができるとのこと。   1 単位は 20 分だから、私が通所リハビリ施設で受けるリハビリの時間は、火曜日が 40 分、金曜日が 20 分である。
ちなみに我が家と通所リハビリ施設の送迎における乗車時間は10分から15分、実際に指導を受けるまで10 15分程度の待ち時間と帰りの車を待つ時間も同じくらい要るので、リハビリ施設へ通うのに凡そ
  時間近く必要ということになる。
また病院より派遣される理学療法士による訪問リハビリは月曜と木曜に各 1 時間ずつと聞いており、既に 氏の指導pict-P1060601-1は受けているが M 氏については手すり取り付けなど改修工事請負業者の来訪と同じ時間帯にケア・マネがセッティングしたために未だ現況を確認するに留まっている。

入院中は午前と午後で
 1 日に 2 時間のリハビリ指導を受ける時間が毎日休みなくあった。 
だから
1 週間だと14時間のリハビリ時間があったと言える。
しかし自宅療養となった今、リハビリ指導を受ける時間は月曜 1 時間、火曜 40 分、木曜 1 時間、
金曜
 20 分と、1 週間にたったの 3 時間という短さになったのである。

それだけに指導を受ける僅かなリハビリ時間もモッタイナイと思うのだが・・・・・

リハビリについて私が感じたことを言えば、私の体力や機能回復の進度、それに私自身の機能を回復したいという意欲や意志などを勘案すれば、病院での 1 日に 2 時間のリハビリ指導でも少なかったように思っている。
しかし主治医の指示が 2h/1Day であったのだろうから、それに異議を唱えるつもりは無い。 あくまでも真剣にリハビリに取り組んできた私による私に対する評価である。
 
患者一人一人の症状病状 ) に合った回復のための医療行為が行われることが最善であるが、指導者の確保や保険点数など様々な問題が病) 院の側にあるのだろう。 
もっとも医療を医療施設を縛り上げているのは国の政策にあるのだが・・・・・。

とにかく現状を憂いていても恨みや腹立ちの気持ちを抱えていても現在の私には何のプラスにもならない。
このことは私自身が最もよく知るところである。
我が家へ訪問リハビリのために病院から来てくれる理学療法士 氏が与えてくれている宿題と言うか、自主トレーニpict-20130622島根デラウェア種無しングとしての訓練を日々行っている。
3m弱の平行棒だが、それを縁側廊下に置いて歩行訓練のほか様々なスクワットを行っているし、ベッド上でも筋力トレーニングを行っている。

 写真はブドウ(デラウェア ・ 島根産 ) ぶっはははは 

少しばかり落ち着きと余裕が出てきたのは確かなようだ。
退院して間もなく 2 週間。 
飛んでいた記憶が想起され、時系列に整理されて再び脳の記憶領域に収められていくのが分かる、ような気がする。
思い出した記憶部分から、何とか自立出来るよう 頑張ってまっせえ と言える姿を少しずつ当ページで報告がてら書いていくことにしたい。


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June 28, 2013

ぼんやりと・・・

『光陰矢の如し』との俚諺がある。
この諺を使う場合、これまで私は年単位での長い期間で用いることが多かったように思う。
しかし、『光陰』の『光』は日 ( 太陽 ) を表すし『光陰』の『陰』が月を意味することを思えば、『光陰』とは日月のこpict-20130621ハイビスカス-1とであり、歳月、時間 ( 時刻を含む ) のことでもある。 
したがって目先の 1 秒先のことであっても当てはまるのである。 
『歳月人を待たず』(歳月不待人)との俚諺もある。
陶淵明の詩の一節だが、
以前 ( March8,2009 ) に当ブログ『返書に先立って』にて引用し、併せて『少年易老学難成 一寸光陰不可軽』という詩にも触れておいた。

1 分 1 秒を軽んずるつもりは全く無いのだが、この 10 日ばかりの間、何をしていたのかハッキリ覚えていないのだ。
ハッキリ、つまり何のために、いつ、何をどのように行うかといったことが曖昧なまま、ただ時を過ごしてきたということなのだ。
勿論認知症ではないので記憶障害という意味ではない。
pict-20130621ハイビスカス-2
余談になるが、認知症という訳語が適切かどうかと言う点で私は以前より引っ掛かりを覚えているのだ。
以前に用いられていた痴呆症の痴呆という表現が差別や蔑視につながるとの観点から変更しようとの主張があったことを耳にしたことがあるし、先天的な脳の器質障害を知的障害と呼び、認知に関わる障害を認知障害と呼pict-20130621ハイビスカス-3んできたことに対し、後天的に生じた脳の器質障害により知能、つまり学習機能や言語機能などの後退低下が見られる症状に対して認知症という訳語を充てたようだ。
( 私の理解だが )

長年にわたって用いられてきた言葉を簡単に差し替えたり、タブー語と指定したり、死語扱いするような風潮に対して私はオカシイことだと考えているが、ひとつの単語が差別的蔑視的意図をもって使用されたりすることについては明確に反対するものであり、そうした意味において痴呆症という訳語が変更されたことについては理解出来る。

ただ、認知症という言葉は『認知+症』という複合語であり、『症』は『しるし』とも読み《病pict-20130621ハイビスカス-4気の状態》を表す文字だから別段問題であるとは思っていない。
しかし、『認知』というのは《或る事柄をきちんと認める》という意味で、これは法律用語としても使われている。
また、心理学における認知は感覚や記憶など様々な情報を仕入れ、それらを取捨選択しつつ思考活動を行い、問題処理解決に至る活動プロセスを指している。
認知症という訳語が適切かどうかと言う点で私が以前より引っ掛かっているのが将にこのことなのである。
つまり、認知という言葉では《病気の状態》を端的に表しているとは言えない、と、コウ言うことなのである。

どうでもええと言えばどうでもええようなことだが、一度気になると解決しない限り何時までもポッと、時々忘れたような頃合pict-P1060597-1いにではあるが思い浮かんでくるのである。
認知心理学において、人間の記憶の過程は先ず記銘することから始まり、その記憶を保持し、時に応じて想起し、必要度に応じて忘却という道筋を辿るとしている。
五月だったかに連想言葉について書いたことがあったが、今回の認知症についての記憶の想起は退院してから自宅で過ごした 10 日ばかりの間、私がどのような生活をしてきたのかハッキリ覚えていないということから連鎖的に想起したものである。

きっと久し振りの自宅での生活に加え、両手杖での不安定な動き、更に訪問リハビリや通所リハビリといった生pict-P1060600-1活リズムの変化などで落ち着かない生活が続いていたためであろうと思うのだ。

でも、一昨日に通信販売でCDを買い入れ楽曲を聴いてみようという余裕めいた気持ちが出てきたので、少しばかり落ち着いてきたのかなあと思っている。

そうそう、『光陰矢の如し』と言えば卒業生の一人が結婚することになったのでビデオによる祝いのメッセージを欲しいと頼まれていた。
そのビデオ撮りのため先週末に母親が我が家へ来られた。
何だか記憶がハッキリせずにボーとしながら撮影に臨んだように思うが、失礼なことを語らなかったろうかと・・・・・

この 10 日ばかりの間の記憶は飛び飛びで連続性に欠けている。
自宅に帰ってからも家内に世話をかけっぱなし、予想していたことながら、これも落ち着きを失っていたひとつの要因かもしれない。









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June 24, 2013

自宅へ戻って 1 週間 (その 2 つらつら思う )

私の退院の日が休日や宿直明けに当たっていた看護師や看護助手、理学療法士の方たちには事前に挨拶したはずなのだが・・・・・
挨拶に漏れはなかったろうか、私の退院を見送るためエレベーターの前に集まって下さった沢山の人たちの顔を確かめながら失礼が無かったろうかと・・・・・・そう、『 飛ぶ鳥跡を濁さず 』との俚諺もある。
集まって下さった一人一人と関わった様々なことが思い出される。
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回復病棟で世話になったは 4 ヶ月の間だが、3 分の 1 年、これはやはり長い。 だが、通常に生活していたならば見ることも知ることもなかったであろう病院の内実や看護の実態という思わぬ勉強をさせて頂くことが出来た。 これは私の探求心をそこそこ満たしてくれたし、知り得たことから更に派生する問題について考えさせてもくれた。

近畿大学医学部奈良病院に入院してからだと実に半年間にわたって看護の実態を学び、しかも沢山の人と知り合うというご縁を得たのである。

これまでも私は『 縁 ( えにし) 』というものを大切にしてきた。
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振り返りみれば、私が腹部に激痛を覚えて訪ねた 2 病院の 3 人の医師までが病因を特定できず、とりわけ足が痺れて歩行が困難になっているという新たな症状を告げたにも拘らず、この症状に着目しなかった ( 出来なかった ) 医師がいたという事実。 その医師が勤務する県立という紛うなき公けの病院が私の救急入院要請を拒絶してくれた。 このお蔭で近大奈良病院の救命救急室を内側から見ることが出来たし、更に脳神経外科病棟から阪奈中央病院の同外科病棟、そして回復病棟に於いてより病院の内実や看護の実態を目にすることが出来た。
しかも、その都度新しい人たちと『 縁 』を結ぶことが出来た。

下半身麻痺という大変な引き換え条件を出すこととなったが、多くの人たちと『 縁 』を結ぶことが出来たということは私にとっては大変な財産となるものだった。
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いささか宗教的になるが、結ぼうとしても結べないのが『 縁 』であり、切ろうとしても切れないのが『 縁 』である。
私は目に見えない力の働きというか人智の及ばぬ作用や結果など、前に書いた不思議で『訳のワカランこと』のひとつの面が『 縁 』だと思っているのだ。

退院にあたって寄せ書きを頂いた。
退院を祝っての言葉。早い回復を祈念する言葉。また会いましょうとの言葉。感謝の言葉などなど。

いろいろ学び教えられたのは私の方で、感謝の言葉は私の方が語らねばならないこと。 勿論また会いたい、けれど私が患者の立場では・・・・・、これは良くないので何とか早く回復して病棟へ遊びに行けるようにならねば。
頂いた寄せ書きの一人一人に返事をしないまま退院してしまったことは心残りなことである。




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自宅へ戻って 1 週間 (その 1 )

回復病棟に入院していた間、ひとつひとつを挙げればきりが無いほど看護師や看護助手、それに理学療法士たちのpict-20130622-6-1介助を頂いてきた。
それらの全てが、予想していたことではあるが自宅へ戻ってから家内の双肩に掛かることとなってしまった。
杖を使ってもいい、安定して歩くことができるなら。 そんな思いを持っていたのだが、退院時点で杖を 2 本用いても歩行は安定しているとは言い難く、自分でも倒れはしないかという恐怖感を抱きながら家の中をこわごわ移動しているのが現状である。

『 住めば都 』 との譬えがあるが、病院のような所であっても6ヶ月も暮らしていたら最早都 ( 我が家 ) も同然。 退院して数日の間は我が家が旅籠のように思えて落ち着かなかった。
それでも病院の沢山の方たちに見送って頂き、我が家へ帰り着いた時には 「 帰ってこれたんや 」 という思いが胸の奥底に湧き、それがじわじわっと胸いっぱいに広がっていくのを感じていた。
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上の写真は、家内が退院を祝って用意してくれた夕食である。
イカとキュウリとトマトのサラダ、本マグロの天身とタイの背身のお造り、ワカメとエノキダケの吸い物、それに豆ご飯である。 写真は無いがデザートはイチゴにサクランボ。

感じ方や受け止め様は百人百様と言う。
私のイメージする祝い膳とは異なるが、家内が私の好みのものを揃えて心こめて用意してくれたお膳であり、「 おかえpict-20130622-3 - コピー-1り 」 と声を掛けられた時には我が家に戻ったという実感を一層強くしたものだった。

豆ご飯については病院の給食でも書いたが、私の好みのご飯である。
ふつう春から夏にかけて収穫されるエンドウ豆を用いた豆ご飯を指すが、エンドウ豆を剥き、豆だけにしてグリンピースとして売っている冷凍食品でも豆ご飯は炊けるので、今や豆ご飯でも『 時 』 『 旬 』 が無くなったと言えるかもしれない。
家内が炊いた豆ご飯は枝豆を用いていた。
枝豆を緑色の状態でなく茶色になってから収穫・乾燥させたものが大豆 ( ダイズ ) であり、豆腐や納豆、味噌や醤油の原料である。

私の大好物だが、自宅に戻ったからといってもご飯が 2 膳に増えたということはない。
病気が治り、血液検査の結果も優秀で、しかもせっかく痩せたのだから現状を維持するようにと。 そのため病院での摂食カロリーと同等程度を維持するためご飯の量も軽く 1 膳にというのが家内の指示。

今は不承知ながら反発も反抗も出来ず・・・・・
まあ、そのうちには。







masatukamoto at 12:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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