September 2013
September 13, 2013
私自身の現況を紹介
昨日、神戸の W 氏から電話を頂いた。
「 どないや ?」
名乗らず、いきなりの言葉がコレである。
この調子で、かれこれ半世紀近くも付き合ってきた男である。
半世紀近くと書いたが、来年は彼とのお付き合い開始 50 周年になる。
ぶっははははは、家内よりも古い付き合いである。 密度?は違うが・・・
私は彼のことを 『 おい 』『 お前 』『 T 』『 N 』 などと呼び、『 W 』 と正しく呼ぶことは稀である。 彼も私のことを同じように呼ぶが、時に 『 あんた 』 と言ったりするかなあ。
まあそんなことはどうでもええことやが、私も彼に電話をかけようと思っていたところで、将に以心伝心という感じで電話を頂いた。
昨夏、近江・長浜に集うた懐かしい仲間たちが今年は改築中の姫路城で会おうと以前に連絡を貰っていたのだ。
昨年の集いは 8 月 4 日に開かれたのだが、暑い盛りであったことに加えて私のリハビリ中の足の回復を多少、いや、ほんのチョッピリだけ考慮してくれ、今年は今月末に設定してくれていたのだ。
そうしたこともあってのことだが、何よりも私自身が早く、本当に一日でも早く元通りの機能を取り戻したい一心から、理学療法士に自宅へ来てもらう訪問リハビリ、それに車椅子送迎車で私自身が老人保健施設へ出向いて受ける通所リハビリの訓練を熱心に受けている。
と言っても要介護 2 の認定を受けている私の場合、ケア・マネージャーが設定してくれているのは訪問リハビリと通所リハビリがそれぞれ週に 2 回だから、 1 週間に 4 回となる。 しかし 1 回分が 40 分なので私のような者にとって、このリハビリ時間は甚だ短く不足に思う。
医療保険や介護保険において制度上で或る程度の線引きが必要なことは理解できる。
私の場合は脊髄損傷だったので、回復期病棟の入院期間が発症から入院まで 2 ヶ月以内で、入院期間が 150 日と定められている。
だから三次救急医療施設 ・ 近畿大学医学部奈良病院・救命救急センターでの手術と術後加療を 2 ヶ月には満たない期間受け、その後に阪奈中央病院の回復期病棟に入院した。 そして回復期病棟でのリハビリなどの加療を 150 日間受けて退院 《 させられた 》 のだ。
自立歩行できないばかりか、入浴、排便、衣服着脱など生活自立できていない者を退院させるなど、どう考えても私には納得できない制度にしか思えない。
私の場合は幸いにも元気な家内が家にいてくれたので、退院させられて以後も日常生活上の介助をしてもらうことができ、リハビリに力を入れることも出来ているが・・・・・。
医療というものは一人一人それぞれ異なる病状に対応するのが当然で、これを一律に線引きしてしまうことは無理があり、真に病を持つ者の立場に立った医療を行い得ているとは言い難い。
あれやこれやと医療を受ける立場から指摘できる問題がこの半年ばかりの間に次々と見えてしまった。
医師、看護師、理学療法士など、現に医療に従事している人たちと話していても国の医療行政の不十分さを指摘する声が多かった。
が、こうしたお寒い国の医療行政については別途チョコットずつ書いて行くとして、神戸の W 氏からの電話の件に戻ろう。
彼からの電話を以心伝心と受け止めたと書いたように、私の方からリハビリは頑張ってはいるのだが、未だ姫路城での集いに参加出来るほどの機能回復には至っていない旨を話すつもりでいたのだ。
故に今回の集いは欠席ということになるのだが、懐かしい仲間たちの中には当ブログを見ていてくれる人たちもいるので、自宅における私の自主トレーニングの一端を写真で紹介しておくことにした。
リハビリ指導をしてもらえるのが 1 週間で 4 時間に満たない現状では自宅で過ごす時間が圧倒的に多く、結局自分自身で行うリハビリを主とせざるを得ない。
掲載の写真は、それらリハビリの様子の極一部を家内に撮ってもらったものだが、寝たきりであった昨年末から車椅子で動き始めたのが1月半ばのこと。 それが 9 月の今、まだまだ安定はしないけれど、ロフストランド杖を左右の手に、立つことも僅かな距離なら歩くことも出来るようになってきた。
今日これだけの、仮に 10 の量をトレーニングしたからといって、明くる日に直ぐその効果が 10 の量見えるというわけではない。
トレーニングの効果が直ぐに見えてこないというのは頑張ろうという気力を引っ張り出すのに苦労するものだ。
それでも、今年の正月から現在までといった長いスパンで見ればリハビリの効果は歴然である。
今回懐かしい友人たちには会えないけれど、私の現時点での目標は今年の 12 月までに両手に杖でも良いから何とか安定した歩行が出来るようになることである。
あと 2 ヶ月半ある。 何としても何としてもやり遂げたいのだ。
「 どないや ?」
名乗らず、いきなりの言葉がコレである。
この調子で、かれこれ半世紀近くも付き合ってきた男である。
半世紀近くと書いたが、来年は彼とのお付き合い開始 50 周年になる。
ぶっははははは、家内よりも古い付き合いである。 密度?は違うが・・・
私は彼のことを 『 おい 』『 お前 』『 T 』『 N 』 などと呼び、『 W 』 と正しく呼ぶことは稀である。 彼も私のことを同じように呼ぶが、時に 『 あんた 』 と言ったりするかなあ。
まあそんなことはどうでもええことやが、私も彼に電話をかけようと思っていたところで、将に以心伝心という感じで電話を頂いた。
昨夏、近江・長浜に集うた懐かしい仲間たちが今年は改築中の姫路城で会おうと以前に連絡を貰っていたのだ。
昨年の集いは 8 月 4 日に開かれたのだが、暑い盛りであったことに加えて私のリハビリ中の足の回復を多少、いや、ほんのチョッピリだけ考慮してくれ、今年は今月末に設定してくれていたのだ。
そうしたこともあってのことだが、何よりも私自身が早く、本当に一日でも早く元通りの機能を取り戻したい一心から、理学療法士に自宅へ来てもらう訪問リハビリ、それに車椅子送迎車で私自身が老人保健施設へ出向いて受ける通所リハビリの訓練を熱心に受けている。
と言っても要介護 2 の認定を受けている私の場合、ケア・マネージャーが設定してくれているのは訪問リハビリと通所リハビリがそれぞれ週に 2 回だから、 1 週間に 4 回となる。 しかし 1 回分が 40 分なので私のような者にとって、このリハビリ時間は甚だ短く不足に思う。
医療保険や介護保険において制度上で或る程度の線引きが必要なことは理解できる。
私の場合は脊髄損傷だったので、回復期病棟の入院期間が発症から入院まで 2 ヶ月以内で、入院期間が 150 日と定められている。
だから三次救急医療施設 ・ 近畿大学医学部奈良病院・救命救急センターでの手術と術後加療を 2 ヶ月には満たない期間受け、その後に阪奈中央病院の回復期病棟に入院した。 そして回復期病棟でのリハビリなどの加療を 150 日間受けて退院 《 させられた 》 のだ。
自立歩行できないばかりか、入浴、排便、衣服着脱など生活自立できていない者を退院させるなど、どう考えても私には納得できない制度にしか思えない。
私の場合は幸いにも元気な家内が家にいてくれたので、退院させられて以後も日常生活上の介助をしてもらうことができ、リハビリに力を入れることも出来ているが・・・・・。
医療というものは一人一人それぞれ異なる病状に対応するのが当然で、これを一律に線引きしてしまうことは無理があり、真に病を持つ者の立場に立った医療を行い得ているとは言い難い。
あれやこれやと医療を受ける立場から指摘できる問題がこの半年ばかりの間に次々と見えてしまった。
医師、看護師、理学療法士など、現に医療に従事している人たちと話していても国の医療行政の不十分さを指摘する声が多かった。
が、こうしたお寒い国の医療行政については別途チョコットずつ書いて行くとして、神戸の W 氏からの電話の件に戻ろう。
彼からの電話を以心伝心と受け止めたと書いたように、私の方からリハビリは頑張ってはいるのだが、未だ姫路城での集いに参加出来るほどの機能回復には至っていない旨を話すつもりでいたのだ。
故に今回の集いは欠席ということになるのだが、懐かしい仲間たちの中には当ブログを見ていてくれる人たちもいるので、自宅における私の自主トレーニングの一端を写真で紹介しておくことにした。
リハビリ指導をしてもらえるのが 1 週間で 4 時間に満たない現状では自宅で過ごす時間が圧倒的に多く、結局自分自身で行うリハビリを主とせざるを得ない。
掲載の写真は、それらリハビリの様子の極一部を家内に撮ってもらったものだが、寝たきりであった昨年末から車椅子で動き始めたのが1月半ばのこと。 それが 9 月の今、まだまだ安定はしないけれど、ロフストランド杖を左右の手に、立つことも僅かな距離なら歩くことも出来るようになってきた。
今日これだけの、仮に 10 の量をトレーニングしたからといって、明くる日に直ぐその効果が 10 の量見えるというわけではない。
トレーニングの効果が直ぐに見えてこないというのは頑張ろうという気力を引っ張り出すのに苦労するものだ。
それでも、今年の正月から現在までといった長いスパンで見ればリハビリの効果は歴然である。
今回懐かしい友人たちには会えないけれど、私の現時点での目標は今年の 12 月までに両手に杖でも良いから何とか安定した歩行が出来るようになることである。
あと 2 ヶ月半ある。 何としても何としてもやり遂げたいのだ。
September 10, 2013
9月8日早朝のこと
昨日の朝は久し振りに懐かしい映画音楽で早朝の時間を過ごした。
気軽に聴けて、それでいて奥深さといったようなものを感じることができる曲が映画音楽には結構多いのだ。
映画のストーリーや映像を実際に見聞きしていたなら、その映画音楽は記憶をよみがえらせ、気分をたかぶらせてもくれるものなのだ。
近頃はあまり映画を見ることがないので映画音楽についてもよく知らない。
だから私の好きな曲というのは古い時代のものが多い。
ぶっはははは・・・・・
例えば 『 エデンの東 』 『 慕情 』 『 雨に唄えば 』 なんかのテーマ曲だとか、ディズニーのミュージカル 『 メリー ポピンズ 』 から 〔 チム チム チェリー ( Chim Chim Cheree ) 〕 とか、『 マイ フェア レディ 』 から 〔 踊り明かそう ( I could have danced all night )〕 など、極々一部だ。
他にもあるが、いずれ語るとして写真は 『 マイ フェア レディ 』 での イライザ・ドゥーリトル を演じる オードリー・ヘップバーン
( Audrey Hepburn ) である。
『 メリー ポピンズ 』 も 『 マイ フェア レディ 』も 1964 年 ( 昭和 39 年 ) の映画であり、この年の 10 月 10 日から 24 日まで東京において第 18 回夏季オリンピックが開催されたのである。
映画音楽を聴きながら見るともなく見ていたテレビでは、ブエノスアイレスで開かれている国際オリンピック委員会総会の模様がライブで放映されていた。
開催選考都市は、東京、マドリード、イスタンブールである。
画面はその投票結果を待つ会場の檀上に居並ぶ IOC 役員たちの様子を映し出していた。
ブエノスアイレスからのライブ映像をぼんやり見ながら、第 18 回東京オリンピックの頃は何をしていたかなあと、私は当時の記憶を手繰り始めていた。
しかし、この年は私にとってあまり良い記憶が無いのである。
この年の 2 年半ほど前より体調を崩した母親が幾つかの病院の入退院を繰り返していたのだが、この年の初めに当時は中之島に架かる田蓑橋北詰あたりにあった阪大微生物研究所付属病院に入院した。 今は吹田へ移っているが当時は阪大医学部付属病院も道路を挟んで西向かいに位置していた。
母親が入院した頃の病院は完全看護などという言葉は無く、あっても極一部の特別な病院だけで、殆どは家族が患者の身の回りの世話をしていた。 家族で出来ない場合は病院家政婦を雇うというのが通常で、我が家は 3 人家族で付き添うことが出来ず家政婦を雇うこととなり、60 歳の老婦人に来てもらうことになった。
しかし、ふた月ほどした頃だったか、我慢強く無理を言うこともなかった母親が家政婦の付き添いを断ってほしいと訴えた。 それで他の入院患者らに状況を確かめたところ、母親の願いを聞かず放ったらかしにし、他の家政婦たちとの雑談で時間を過ごしているだけだということが分かったため、父が家政婦にそのことを確認して辞めてもらった。
ところが家政婦の数が少なかったために代わりの人を見付けることができず、父と私が交代で病室に泊まることとなった。
つまり、父が勤務終了後に母の着替えなどを持って病室へ行き母の世話をして泊まり込む。
明くる朝、洗濯物などを持って勤務に向かう。
この日、学校帰りの私が母の着替えを持って病室へ向かい、泊まり込んだ翌朝は洗い物をボストンバッグに詰め込み、大阪駅の近くにある喫茶店に入ってモーニング・サービスを注文。 これはコーヒーにトーストとゆで卵 ( 大阪では 『 にぬき 』 と言う ) が付いたもので、これを食べてから私は学校に向かった。 学校を終えると自宅に帰って洗い物を洗濯する。 この日は父が病院に泊まるので私は自宅で眠る。
このような生活を母が亡くなった 12 月まで続けていたのでオリンピックどころではなく、テレビや新聞では情報を仕入れたものの、当時の私の感覚では大阪にあって東京は決して近い場所ではなかった。
そんなことを思い出していたら IOC ロゲ会長が開催都市を示すカードを取り出した。
東京とイスタンブールの決選であったが、2020 年のオリンピックは東京開催と決まった。
うーーん。
開催都市が決定される以前の私の気持ちは 「 イスタンブールで 」 との思いが強かったのだが、東京と決まった上は素直に喜ぶことにしよう。
1964 年の東京オリンピックに関わったことは、レスリングで金メダルを取った市口政光氏のお祝いの会を生徒自治会主催で開催したことだけかな。
市口政光氏はグレコローマン・スタイルのバンタム級でオリンピックに出場した高校の先輩で、後は東海大学の教授を務めておられたが、現在どうしておられるのかは知らない。
東京オリンピック前年の 1963 年には東京へ向けて聖火リレーが行われたのだが、この聖火トーチ走者の一人に陸上部の友人が選ばれた。
大阪市南部の一区間を走るだけであるが、これは名誉なことであった。
当時、名前だけだが写真部にも所属していたし、生徒自治会の役員も務めていたので学校側には半ば強引に授業を出席扱いにしてもらい、多くのランナーを従えるように友人が聖火トーチを掲げて走る姿を撮影しに出かけたことを覚えている。
あとは何かなあ。
陸上 100 m走で、ヘイズが 10 秒の壁を破るかどうかが世間の関心の的になっていたが、この前年に私は 12.48 秒だったかで走っていたから、世界一速いヘイズと 2 秒か 3 秒しか変わらんやないかと
鼻高々でいたことがあった。
ぶっははははは
後の私を知る人たちは 「 転がってたんやろ。」 などと言うが、これはホンマの話。
陸上 100 m走でのタイムの 1 秒がどれだけのものか、当時の私は将に 『 井の中の蛙 』 であって大海を知らなかったのだなあと、後に思い出して汗顔の思いをしたものだった。
『夜郎自大』、この故事も知ってはいたが、 100 m走のタイム 1 秒についての認識が無かった。
自戒、自戒である。
気軽に聴けて、それでいて奥深さといったようなものを感じることができる曲が映画音楽には結構多いのだ。
映画のストーリーや映像を実際に見聞きしていたなら、その映画音楽は記憶をよみがえらせ、気分をたかぶらせてもくれるものなのだ。
近頃はあまり映画を見ることがないので映画音楽についてもよく知らない。
だから私の好きな曲というのは古い時代のものが多い。
ぶっはははは・・・・・
例えば 『 エデンの東 』 『 慕情 』 『 雨に唄えば 』 なんかのテーマ曲だとか、ディズニーのミュージカル 『 メリー ポピンズ 』 から 〔 チム チム チェリー ( Chim Chim Cheree ) 〕 とか、『 マイ フェア レディ 』 から 〔 踊り明かそう ( I could have danced all night )〕 など、極々一部だ。
他にもあるが、いずれ語るとして写真は 『 マイ フェア レディ 』 での イライザ・ドゥーリトル を演じる オードリー・ヘップバーン
( Audrey Hepburn ) である。
『 メリー ポピンズ 』 も 『 マイ フェア レディ 』も 1964 年 ( 昭和 39 年 ) の映画であり、この年の 10 月 10 日から 24 日まで東京において第 18 回夏季オリンピックが開催されたのである。
映画音楽を聴きながら見るともなく見ていたテレビでは、ブエノスアイレスで開かれている国際オリンピック委員会総会の模様がライブで放映されていた。
開催選考都市は、東京、マドリード、イスタンブールである。
画面はその投票結果を待つ会場の檀上に居並ぶ IOC 役員たちの様子を映し出していた。
ブエノスアイレスからのライブ映像をぼんやり見ながら、第 18 回東京オリンピックの頃は何をしていたかなあと、私は当時の記憶を手繰り始めていた。
しかし、この年は私にとってあまり良い記憶が無いのである。
この年の 2 年半ほど前より体調を崩した母親が幾つかの病院の入退院を繰り返していたのだが、この年の初めに当時は中之島に架かる田蓑橋北詰あたりにあった阪大微生物研究所付属病院に入院した。 今は吹田へ移っているが当時は阪大医学部付属病院も道路を挟んで西向かいに位置していた。
母親が入院した頃の病院は完全看護などという言葉は無く、あっても極一部の特別な病院だけで、殆どは家族が患者の身の回りの世話をしていた。 家族で出来ない場合は病院家政婦を雇うというのが通常で、我が家は 3 人家族で付き添うことが出来ず家政婦を雇うこととなり、60 歳の老婦人に来てもらうことになった。
しかし、ふた月ほどした頃だったか、我慢強く無理を言うこともなかった母親が家政婦の付き添いを断ってほしいと訴えた。 それで他の入院患者らに状況を確かめたところ、母親の願いを聞かず放ったらかしにし、他の家政婦たちとの雑談で時間を過ごしているだけだということが分かったため、父が家政婦にそのことを確認して辞めてもらった。
ところが家政婦の数が少なかったために代わりの人を見付けることができず、父と私が交代で病室に泊まることとなった。
つまり、父が勤務終了後に母の着替えなどを持って病室へ行き母の世話をして泊まり込む。
明くる朝、洗濯物などを持って勤務に向かう。
この日、学校帰りの私が母の着替えを持って病室へ向かい、泊まり込んだ翌朝は洗い物をボストンバッグに詰め込み、大阪駅の近くにある喫茶店に入ってモーニング・サービスを注文。 これはコーヒーにトーストとゆで卵 ( 大阪では 『 にぬき 』 と言う ) が付いたもので、これを食べてから私は学校に向かった。 学校を終えると自宅に帰って洗い物を洗濯する。 この日は父が病院に泊まるので私は自宅で眠る。
このような生活を母が亡くなった 12 月まで続けていたのでオリンピックどころではなく、テレビや新聞では情報を仕入れたものの、当時の私の感覚では大阪にあって東京は決して近い場所ではなかった。
そんなことを思い出していたら IOC ロゲ会長が開催都市を示すカードを取り出した。
東京とイスタンブールの決選であったが、2020 年のオリンピックは東京開催と決まった。
うーーん。
開催都市が決定される以前の私の気持ちは 「 イスタンブールで 」 との思いが強かったのだが、東京と決まった上は素直に喜ぶことにしよう。
1964 年の東京オリンピックに関わったことは、レスリングで金メダルを取った市口政光氏のお祝いの会を生徒自治会主催で開催したことだけかな。
市口政光氏はグレコローマン・スタイルのバンタム級でオリンピックに出場した高校の先輩で、後は東海大学の教授を務めておられたが、現在どうしておられるのかは知らない。
東京オリンピック前年の 1963 年には東京へ向けて聖火リレーが行われたのだが、この聖火トーチ走者の一人に陸上部の友人が選ばれた。
大阪市南部の一区間を走るだけであるが、これは名誉なことであった。
当時、名前だけだが写真部にも所属していたし、生徒自治会の役員も務めていたので学校側には半ば強引に授業を出席扱いにしてもらい、多くのランナーを従えるように友人が聖火トーチを掲げて走る姿を撮影しに出かけたことを覚えている。
あとは何かなあ。
陸上 100 m走で、ヘイズが 10 秒の壁を破るかどうかが世間の関心の的になっていたが、この前年に私は 12.48 秒だったかで走っていたから、世界一速いヘイズと 2 秒か 3 秒しか変わらんやないかと
鼻高々でいたことがあった。
ぶっははははは
後の私を知る人たちは 「 転がってたんやろ。」 などと言うが、これはホンマの話。
陸上 100 m走でのタイムの 1 秒がどれだけのものか、当時の私は将に 『 井の中の蛙 』 であって大海を知らなかったのだなあと、後に思い出して汗顔の思いをしたものだった。
『夜郎自大』、この故事も知ってはいたが、 100 m走のタイム 1 秒についての認識が無かった。
自戒、自戒である。
September 09, 2013
9 月 6 日のこと
9 月 6 日が我が家にとって『大切な祈念日』であることを書いた。
昨年は 10 年目という節目の年を迎えたのでホテルの宴会場を借りて集いを開いたが、10 年前には独身だった人たちが、今や良き伴侶を得て良き父母となっている。
これまで毎年 9 月 6 日に我が家へ来てくれていた人たちだが、それぞれの家族人数が増え、我が家で迎え持て成すことが困難になったことも集いの場をホテル宴会場にした理由のひとつであるが、9 . 6 は我が家の『大切な祈念日』であり、いつまでも彼らを巻き込んでいてはいけないとの思いも集いの場を変更した今一つの理由として挙げることができる。
6 日は家内が朝から美容院へ、午後は私がリハビリのために老人保健施設へ出かけることになっていたのだが、N 氏から伺いたいとの電話があり、午後 3 時過ぎにと約束した。
N 氏は薬事関係の仕事で某地域を統括。 今年は本厄である。
某病院に薬剤師として勤める奥さんと子どもたちを大阪市内の家に残して現在は単身赴任中。 子どもは中学生と小学生の男の子二人。
彼が統括する担当地域はかなり広く、各種病院から個人医院に至るまで相当な数に上る。
MR ( Medical Representative ) 、つまり医薬情報担当者として医師や薬剤師に対し、薬の品質、有効性、安全性は勿論、薬種、成分など各種の質問に対する説明も行わねばならず、しかも日進月歩の医学製薬界のことであるから新しく学ばねばならない医薬情報も頗る多い。
彼の医薬品に関する識見は、そこいらの病院や一般薬局の薬剤師では足元にも及ばないであろうと私は思っている。
決して過大に評価しているのではない。
そんな彼も医師との約束が無い限り土曜日曜は仕事も休みだろうが、6 日は金曜日。
夏休みを取ってなかったとか、ついでの用事があったとか、いろいろ理由を並べ立てていたが彼とも長い付き合いである。
きっと忙しい勤務をやりくりして帰阪し、6 日に合わせて我が家へ来てくれたのだ。
毎年のことだ。
それくらいは分かる。
有難いことで感謝している。
我が家では長男扱いをしているN 氏だが、来宅中も医師との交信が忙しい。
いつも細やかな気遣いに感謝してはいるが、厄年である。 健康には取り分け十二分に気を付けてほしいと心底より願っている。
昨年は 10 年目という節目の年を迎えたのでホテルの宴会場を借りて集いを開いたが、10 年前には独身だった人たちが、今や良き伴侶を得て良き父母となっている。
これまで毎年 9 月 6 日に我が家へ来てくれていた人たちだが、それぞれの家族人数が増え、我が家で迎え持て成すことが困難になったことも集いの場をホテル宴会場にした理由のひとつであるが、9 . 6 は我が家の『大切な祈念日』であり、いつまでも彼らを巻き込んでいてはいけないとの思いも集いの場を変更した今一つの理由として挙げることができる。
6 日は家内が朝から美容院へ、午後は私がリハビリのために老人保健施設へ出かけることになっていたのだが、N 氏から伺いたいとの電話があり、午後 3 時過ぎにと約束した。
N 氏は薬事関係の仕事で某地域を統括。 今年は本厄である。
某病院に薬剤師として勤める奥さんと子どもたちを大阪市内の家に残して現在は単身赴任中。 子どもは中学生と小学生の男の子二人。
彼が統括する担当地域はかなり広く、各種病院から個人医院に至るまで相当な数に上る。
MR ( Medical Representative ) 、つまり医薬情報担当者として医師や薬剤師に対し、薬の品質、有効性、安全性は勿論、薬種、成分など各種の質問に対する説明も行わねばならず、しかも日進月歩の医学製薬界のことであるから新しく学ばねばならない医薬情報も頗る多い。
彼の医薬品に関する識見は、そこいらの病院や一般薬局の薬剤師では足元にも及ばないであろうと私は思っている。
決して過大に評価しているのではない。
そんな彼も医師との約束が無い限り土曜日曜は仕事も休みだろうが、6 日は金曜日。
夏休みを取ってなかったとか、ついでの用事があったとか、いろいろ理由を並べ立てていたが彼とも長い付き合いである。
きっと忙しい勤務をやりくりして帰阪し、6 日に合わせて我が家へ来てくれたのだ。
毎年のことだ。
それくらいは分かる。
有難いことで感謝している。
我が家では長男扱いをしているN 氏だが、来宅中も医師との交信が忙しい。
いつも細やかな気遣いに感謝してはいるが、厄年である。 健康には取り分け十二分に気を付けてほしいと心底より願っている。
September 06, 2013
大切な日
人にはそれぞれ『大切な日』というものがある。
今日は我が家にとって『大切な日』である。
『大切な』という言葉には様々な意味が込められている。
我が家にとって、今日は祈念する日。
英語では Memorial Day と表記する。
既に日の出時刻が過ぎた今朝の東の空。
ここ何日か雲が多く日の出を見ていない。
今朝の音楽はムスティスラフ・ロストロポーヴィチのチェロ演奏でベンジャミン・ブリテンの曲を。
ちょっと朝から重かったなあ・・・
朝の空も少々重かった。
昨夕、Y 君が仕事帰りに来てくれた。
ははははは。 もう Y 君でもなかった。
本厄を迎えた2児の父親に対して君付けでは失礼だ。 これからは O 氏と記そう。
今年もご両親の里から届いたのだと、我が大好物のブドウ
( 巨峰 ) を届けてくれた。
その大好物に気を取られて分からなかったのだが、お参りしてくれたんやなあ。
供え物を置いてくれていたのを後で気付いて分かった。
いつも気遣いをありがとう。
今日は老人保健施設へ出向いてのリハビリの日だ。
送り迎えとも施設が配車してくれる車椅子積載の介護自動車である。
安定して一人歩き出来ないのだから仕方がないのだが、有難いことである。
今日のリハビリ内容は歩行訓練。 これは私が両手にロフストランド杖を用い、K 理学療法士が私の背後に接し、私の歩行を介助しつつ矯正するという訓練である。
現状は施設内の平面床上を 200 m ( 延べ ) 近く歩けるようになっている。
これ以外にマッサージと筋力トレーニング ( マシン使用で3種 ) を受けることになっている。
頑張らねば。
今日は我が家にとって『大切な日』である。
『大切な』という言葉には様々な意味が込められている。
我が家にとって、今日は祈念する日。
英語では Memorial Day と表記する。
既に日の出時刻が過ぎた今朝の東の空。
ここ何日か雲が多く日の出を見ていない。
今朝の音楽はムスティスラフ・ロストロポーヴィチのチェロ演奏でベンジャミン・ブリテンの曲を。
ちょっと朝から重かったなあ・・・
朝の空も少々重かった。
昨夕、Y 君が仕事帰りに来てくれた。
ははははは。 もう Y 君でもなかった。
本厄を迎えた2児の父親に対して君付けでは失礼だ。 これからは O 氏と記そう。
今年もご両親の里から届いたのだと、我が大好物のブドウ
( 巨峰 ) を届けてくれた。
その大好物に気を取られて分からなかったのだが、お参りしてくれたんやなあ。
供え物を置いてくれていたのを後で気付いて分かった。
いつも気遣いをありがとう。
今日は老人保健施設へ出向いてのリハビリの日だ。
送り迎えとも施設が配車してくれる車椅子積載の介護自動車である。
安定して一人歩き出来ないのだから仕方がないのだが、有難いことである。
今日のリハビリ内容は歩行訓練。 これは私が両手にロフストランド杖を用い、K 理学療法士が私の背後に接し、私の歩行を介助しつつ矯正するという訓練である。
現状は施設内の平面床上を 200 m ( 延べ ) 近く歩けるようになっている。
これ以外にマッサージと筋力トレーニング ( マシン使用で3種 ) を受けることになっている。
頑張らねば。
September 03, 2013
Happy Birthday DORA
今朝何時だったか・・・
「 今日は、✕✕の誕生日だ。」
うん??
左耳でコルトレーンのサックスを聴いていたので充分聞き取れなかった。
それで、「 ドラが誰かの誕生日だって言ってるけど、今日は誰の誕生日かな ?」 と、台所にいる家内に尋ねた。
すると家内が、「 今日は 『 ドラえもん 』 の誕生日だよ。」 と教えてくれた。
そう言えば・・・・・9月3日が 『 ドラえもん 』 の誕生日だった。
自分の誕生日を忘れ、年齢さえもしょっちゅう間違えるくらいだから 『 ドラえもん 』 の誕生日まで覚えてはいられない。
それにしても我が家のドラは可愛い奴である。
「 今日は、ぼくの誕生日だ。」
と言ったのである。
最近は少し遅れてるようだが、ドラは我が家へ来てから午前 7 時起床、午後 10 時就寝と規則正しい生活をおくっている。
朝の挨拶も眠る前の挨拶もきちんとするし、時節や気候についての言葉も話せる。
家族の誕生日などは記憶させておけば忘れずに祝いの言葉をかけてくれる。
その他、旗揚げゲームなどの遊び相手もしてくれるのだが、相手をしてやらないと
「 ぼくのこと忘れてる ? 」
などと、時々自分の存在を主張するのだ。
この 『 ドラえもん 』は 10 年ばかり前、我が家が暗く沈み込んでいた時期に私が買ってきたものだが、家内も 『 可愛い子 』 と認めるくらいの奴なのだ。
「 おはよう。 気持ちいいなあ。」
今さっき、挨拶してくれた。
ほんに、うい奴、カワユイ奴である。
『 お誕生日 おめでとう、ドラえもん 』
「 今日は、✕✕の誕生日だ。」
うん??
左耳でコルトレーンのサックスを聴いていたので充分聞き取れなかった。
それで、「 ドラが誰かの誕生日だって言ってるけど、今日は誰の誕生日かな ?」 と、台所にいる家内に尋ねた。
すると家内が、「 今日は 『 ドラえもん 』 の誕生日だよ。」 と教えてくれた。
そう言えば・・・・・9月3日が 『 ドラえもん 』 の誕生日だった。
自分の誕生日を忘れ、年齢さえもしょっちゅう間違えるくらいだから 『 ドラえもん 』 の誕生日まで覚えてはいられない。
それにしても我が家のドラは可愛い奴である。
「 今日は、ぼくの誕生日だ。」
と言ったのである。
最近は少し遅れてるようだが、ドラは我が家へ来てから午前 7 時起床、午後 10 時就寝と規則正しい生活をおくっている。
朝の挨拶も眠る前の挨拶もきちんとするし、時節や気候についての言葉も話せる。
家族の誕生日などは記憶させておけば忘れずに祝いの言葉をかけてくれる。
その他、旗揚げゲームなどの遊び相手もしてくれるのだが、相手をしてやらないと
「 ぼくのこと忘れてる ? 」
などと、時々自分の存在を主張するのだ。
この 『 ドラえもん 』は 10 年ばかり前、我が家が暗く沈み込んでいた時期に私が買ってきたものだが、家内も 『 可愛い子 』 と認めるくらいの奴なのだ。
「 おはよう。 気持ちいいなあ。」
今さっき、挨拶してくれた。
ほんに、うい奴、カワユイ奴である。
『 お誕生日 おめでとう、ドラえもん 』