October 2013
October 26, 2013
林氏の土産話から・・・その 1
J ちゃんは 3 月初めにドングリを持って病室を見舞ってくれたから半年ぶりになる。
中国服を着たパンダの縫いぐるみを抱いて来てくれたが、僅かな間に随分大きくなったような気がした。
中国のお土産だと思ったので J ちゃんにパンダの縫いぐるみを見せてもらったのだが、予想したのとは違いマトモなパンダらしい縫いぐるみで正直なところ少々驚いてしまった。
何でもパクリ大流行の中国だから 『 ミッキーマウス 』にしても 『ドラえもん 』 にしても似ても似つかぬケッタイナものを作っていたことは広く知られている。
こうしたことについて私も多少は知っていたものだからパンダの縫いぐるみもさぞかしと思ったのだが、パンダについてはマトモなものであった。
※ 上の写真は中国製の『 似非ドラえもん 』( 参考まで )
林氏も曰く、「 パンダはきちんとしていたので買ってきました。」 だと。
そりゃそうだろう。 ジャイアントパンダ ( 大熊猫 ) は中国の、それも四川省や陜西省など極一部地域で生息している野生動物で、言わば中国が本物を主張できるものであり、『 国家一級重点野生動物 』 に指定しているほどなのだから コ レ に関してはエエ加減なことは出来ないはずである。
※ 上は福建省の客家土楼を遠望 ( 世界遺産 )
以前にも紹介したが、林氏は中国武術の実践家で福建省の呂氏に師事。 米国での指導実践を経て現在は大阪や奈良で武術教室を開いている。
10 月に呂氏を師父とする武術兄弟数名が福建の師家に集まるので暫く中国へ行ってくると以前に語っていたが、それを終えて帰国したからと見舞いを兼ねて来てくれたのである。
福建省は台湾と同じくらいの緯度にあって亜熱帯気候、年中暑く、武術稽古の際には道着のパンツは着けているが上着は脱いでることが多いのだとか。
道着の長いパンツを着けているのは、日本のよりも小さいが、蚊が多いからだとも語ってくれた。
そうしたこともあって、蚊帳が福建あたりで発明されたそうで、蚊帳を見かけたら写真を撮っておいてほしいと某博物館の研究者に頼まれていたそうだ。 しかし蚊帳の写真はファイル内に見つからずに見せてもらえなかった。
私は福建省を訪れたことがないので自分の頭の整理のため白地図を作成して必要なことを記入したのだが、台湾海峡を挟んで中華人民共和国の福建省と中華民国の台湾が対峙していることが一目瞭然となった。
北緯 38 度線に沿うように休戦ラインが決められている韓国と北朝鮮の関係と同様、台湾海峡を挟んで向かい合っている中国と中華民国も一触即発の国際的緊張地域のひとつである。
※ 上は福建省の客家土楼の外観 ( 世界遺産 )
もっとも朝鮮半島の場合は北朝鮮軍側に中国軍が加わり、韓国軍側にはアメリカ合衆国軍が参戦、互いに実戦を行った後に休戦協定を結んだのだが、これは結んだと言うよりも中国とアメリカ ( 形の上では国連軍 ) という朝鮮民族の自立とは関わりの無い 2 大国の思惑によって休戦させられ、国土と民族を分断させられるという悲しむべき事態を生じさせられたのであった。
一方、中国の場合は主義・思想、つまり毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる国民党による権力闘争の結果であり、同じ民族による台湾独立闘争であって朝鮮半島の事情とは大きく異なるものだと私は解釈している。
※ 写真は福建省の客家土楼の内側 ( 世界遺産 )
話が飛んでしまったが、蚊帳の発明が福建あたりで為されたということについては、すんなり素直に 「そうなんや。」 と聞き入れるには抵抗があったのだ。
かと言って、蚊帳の発明場所が福建省あたりだという説に反対するだけの論拠を持っていたわけではない。
蚊帳は細かな目を持った網であり、小さな虫でさえ寄せ付けない働きがある上、空気の移動も遮らない、つまり高温多湿で虫が多く生息・飛来してくるような場所でも快適空間を確保することが出来るツワモノとも言うべき道具なのだ。
だから蚊帳の発明が福建あたりであるという説に納得しつつも、人類が生存してきた歴史を考え合わせた場合、網目状の蚊帳のようなものがあれば 『虫を除ける 』 ために使うか、それとも 『 他の食糧となるものを獲る 』 ために使うか果たしてどちらを先に思い付くだろうかと考えた。
それに蚊帳は細かな網目状の物であるが、人類が初めっから細かな網を織ったのではないだろうことを考え合わせると、やはり初期の編み方は大目の網であり、それが衣服の布になったり、魚などを獲る網となり、やがて細かな目に編むことが出来るようになって蚊帳に発展していったのではないかと・・・・・
そのように考えれば蚊帳の発明が福建省あたりであると決めつけるのは問題があると言わざるを得ないなあと思うのだ。
ちなみに網戸というものが広まったためか、殺虫効果が高く手軽に使えるスプレー缶が発売された爲か、はたまた虫刺され予防或いは痒み止めに効果の高い薬が広く販売されるようになったからなのか、長らく蚊帳を見たことがない。
上の写真の蚊帳は私が子どもの頃に使っていたものに似ているので商品写真を借りたが、素材は麻で蚊取り線香のような色合いだったのだ。 蚊帳に入る時と出る時の動作や訳について母親から何度も教えられた記憶がある。
他所では白い色の蚊帳もあったが、何故深緑色なのか、林氏との話の中で疑問が生じてしまった。
白色の蚊帳でも良いではないか。 深緑色に染めるには 染めるだけの訳があるはず。 青色でも良いはずだが・・・・・うん?
そう言えば蚊取り線香も同じ色。 蚊遣りと言うか、蚊の嫌いな色なのか?
いや、茶色の蚊取り線香もあったなあ・・・・・
ぶっははははは。
どうでもいいと言えばどうでもいいことではあるが、林氏と話していると話題が連想的に拡大し、なかなかオモロイのである。
私の子どもの頃には、お膳 ( 食卓、ちゃぶ台、テーブル ) に並べた料理にハエなどの虫がたからないよう写真のような小さな蚊帳も使っていた。
蚊帳は福建省の気候から広がった話題だが、暑いという点では話の広がりが他にもあるのだ。 ちなみに J ちゃんのお相手は家内が務めていた。
October 25, 2013
残念だ。 悲しいなあ。
先日、阪急阪神ホテルズのレストランで提供していた料理のメニュー表記と用いられていた素材が異なっていたことを公表し謝罪するという会見があった。
正直なところ、
『 またか。 それにしても阪急 ・ 阪神ホテルズとはなあ・・・』
少々残念に思ったが、内部告発があったわけでも他の個人や機関から告訴されたわけでもなく、自ら非を認めて公表した姿勢を 『 先ず良し 』 と受け止めたのだが・・・・・
記者会見していたのは人事部長だったか総務部長だったか。
一流企業の部長職であるから決して責任性の無い軽い立場ではない。
しかし、しかしである。
公表の内容は提供していたメニューの 1 品目だとか 2 品目といった程度ではない。 しかも、ホテル阪神だとか新阪急ホテルといったシティホテルだけでなく、六甲山や宝塚といった名門ホテルに加えてハイグレードを誇る阪急インターナショナルホテルまでも入っていた。
更に、更には料理の原材料において 40 数種もの品物について端から異なるものを仕入れていたという事態をテレビで知った時、
『ああ、これはアカン。』
とハッキリ思うた。
この状況は、この件に関して阪急 ・ 阪神ホテルズという大企業の経営を司る役員連中が問題の本質を見極め対処する能力に欠けていると私は瞬時に察した。
同時に記者会見に臨んでいる部長職の二人も上司に何が問題であるかを進言することも出来ない無能な人達なんやなあと悲しくさえなってしまった。
以前に船場の吉兆が、その企業姿勢ゆえに潰れたことは記憶に新しい。
産地を偽装したり、商品そのものを偽ったりと枚挙にいとまが無いほどだが、マスメディアで捉えられている事案は氷山の一角だと私は思っている。 が、実際これが真実の社会であろう。
ウナギや貝、米に牛肉など産地偽装や不当表示に混ぜモノ等々、驚くばかりである。
企業経営が法律を守って行われ、法律によって縛られていることは誰もが知っていることである。
企業コンプライアンス ( corporation compliance ) という言葉も一般に定着してきた感じがするが、産地偽装など法律や条例などに抵触しなければ良いと言うように、積極的に法を遵守しようという姿勢が見られないのだ。
如何にバレないようにするか、法令規制ギリギリの壁際の道を切り拓いてでも進むというのが企業の儲け主義の姿勢のように思えるのだ。
超特大企業では原発事故を起こし、子どもでも分かるような無能無策ぶりを露呈し続け、助けを乞うための自作自演の大芝居を演じ続けている東京電力など将にこの類いの筆頭格であると私は考えている。
以前にも書いたが、J R 北海道の経営幹部、みずほ銀行の経営幹部、それに今回の阪急 ・ 阪神ホテルズの経営幹部も皆 『 同じ穴の狢 』 と、私には見て取れる。
阪急 ・ 阪神ホテルズの出崎社長だったか、今回の事件に対する認識が充分為されていたなら部長による会見ではなく自ら求めて記者会見により公表・謝罪・改善方法の明示などを行っていたはずである。
が、翌日に行われた社長の会見でも現場の 『 無知や連携不足 』、偽装では無く 『 誤表示 』 だと強弁するばかりで経営のトップであるという自覚に欠ける人物であるように私には見えた。
三重県のコメ偽装を行っていた三瀧商事だったか、大企業に比べれば遥かに資本力は小さいが社会に責任を負う企業としては同じことである。 三瀧商事は会社清算に進んでいるようだが、大企業だから許されるというものではない。
企業の不正や犯罪行為の数々を見て来て思うのだが、企業コンプライアンス以前に企業としての倫理観 ( business ethics ) の欠如、それにその企業を構成している個々人に重大な道徳欠陥が存在しているように思うのだ。
出崎社長は慶応ボーイだとか。
諭吉は何をどう思っているだろう。
私と同じく悲しいことと思っているだろうな。
※ ベネディクト会、サンタ・マリア・モンセラート修道院の黒いマリア像 ( バルセロナ ・ スペイン )
※ 朝鮮人形
October 21, 2013
『 停滞 』 は 『 可 』 。 然れど 『 後退 』 は 『 不可 』 。
10 月中旬から下旬に入ろうかという時期なのに冷え込みが強くなってきた。
以前なら、この程度の冷え込みは涼しくなったと喜んでいたくらいなのだが、体質が変わってしまったのではないかと思うほどで、涼しいと言うよりも寒いと表現するほどの冷やっこさに感じるのだ。
頭も唇も懐も、サッブ―イ とこは以前からあるのだが・・・・・
ぶっふふふふ
※ 写真の花は家内の友人 H さんが自宅で育てたもの。
お見舞いにと届けて頂いたのを家内が花籠に。( 10/3 )
体質が変わったのではと思えるのは涼しさを寒いと体全体で感じるようになったことと、
手の指先まで、それに膝から下、足の指先まで冷え込みを強く感じるようになったことだ。
だから早朝のコンサートが少し・・・・・
一昨日も昨日も、そして今朝も開演時刻は午前 6 時 15 分。
しかも、笑われそうだが本日はエアコンを稼働させてしまった。 勿論、暖房運転である。( 10 月 20 日 ・ 日曜日に記す )
もう 10 日ばかり前になるが杖を使っての歩行訓練の際、左足膝の少し下外側に痛みを感じて膝が崩れることがあった。
杖を使っての歩行訓練は老人介護センターでの通所リハビリのメニューに必ず入っており、これを行う時は必ず K 理学療法士が 『 二人羽織 』 よろしく私の背後に接するように歩幅や歩調を合わせて付いてきてくれるので倒れ込み膝つくようなことはなかった。 それに今は膝が崩れても崩れきって倒れるところまではいかず、崩れかけた時点で膝も体全体も瞬時に体勢を制御出来るようにまでなっているので若干の不安を感じてはいるものの心配でたまらないという思いは無い。
制御出来る、つまり " the situation is under control. " という表現は若干の不安があろうとも全ての状態を監視下に置いて完全に制御可能な状態にある場合に使える表現だと私は理解している。
放射能による汚染水が漏れ出ただとか溢れ出たなどという事態が次々と起きている現状 ( the situation ) を
制御下 ( under control ) に置いているなどとは言わないし、言えないだろうと思うのだが・・・・・。
厚顔無恥とか鉄面皮などという言葉があるが、政治屋となるには必要不可欠な条件なのかも。
ついつい寄り道をしてしまうが、左足膝下の痛みが取れないまま
10 日ばかりが経過してしまった。
この間の通所や訪問リハビリでは PT に足の状態を伝え、軽いストレッチやマッサージに留めてもらい、自宅での自主トレ ( 筋力増強や歩行運動 ) も杖を使った軽い歩行訓練だけにしてきた結果、一昨日、昨日、本日 ( 10 月 21 日 ・ 月曜日 ) と痛みが徐々に軽減してきた。
しかし、別に歩き方を忘れたわけでは無いのだが、背筋を伸ばし膝や足首をスムースに出したり曲げたり出来ていた動作が何だかギコチナイ動きのものになってしまっているのだ。
左足膝下の痛みが軽減して今は感じなくなっている、このことは喜ぶべきことと思っている。
リハビリによって元々あった機能が回復していくことは例えスピードが遅くても、これは良いことである。
だから症状や調子が回復していく方向に向いているのなら例えその状態が 『 停滞 』 していたとしても、それは 『 可 』 である。
だが、痛みが生じたり歩くことことが出来なかったりと、そうした症状が回復の方向とは逆の 『 後退 』 を示すことであるなら、それは 『 不可 』 であり、私としては認めることが出来ないことである。
この気になる症状について先ほど M 理学療法士が来てくれたので相談した結果、どうやら今回の私の症状は頑張り過ぎということと気温の低下といったことに原因があったようだ。 勿論これは診断ではない。 あくまでも M 氏 が理学療法で得た豊富な臨床経験と知識を私の症状に合わせて推論した結果である。
だから、オーバーワークによる筋肉疲労は当分自主トレを軽減することと冷えに対する対処をし、 PT によるマッサージや運動療法を受けることで回復への道筋を探ることにしよう、と。
つまり、これはリハビリにおける一時的 『 停滞 』 であり、 『 可 』 とすべきことだと認識することとした。
膝辺りの痛みや回復しつつあった歩行が不安定になるなどの症状が、新たな病の出現なのか、回復訓練によって派生的に出現した障害なのか、これは回復の後退ではないのかと一人気を揉んでいたのだが、 M PT との会話で取りあえずは様子を見ながらリハビリを続けて行こうとの結論を得て、本当に僅かではあるが安堵した。
リハビリというのは今日行った結果が翌日に見えるというものではない。
何月何日までに歩行機能を回復させたい・・・などと思っても、それは単なる思いであり願望というものである。
建造物の場合、設計 ・ 施工 ・ 竣工に至るまで特段の障害が生じない限り計画通りの期日に落成を迎えることが出来る。
ところが、リハビリについては終着日どころか、その路線、停車及び通過駅、列車の速度など全てがワカラン、シークレットでありミステリーと言えるのである。
願望はある。それも強い強い願望だ。
12 月ショジュンがショウジュンだ。( 初旬が照準 )
ぶっはははは。
おじんギャグと謗り笑われようと、無理にでも自分を笑わしていなければ出口の見えないトンネルを走り続けるのはシンドイことなのだ。
October 20, 2013
『 私の贅沢 』 第 2 弾
そして、美味しいものを食べに出かけることもお酒を飲みに出かけることも出来ず、家でクスぶっている今の私にとって、C D 全集の価格は高いけれど、これを購入することも含めて 『 私の贅沢 』 であり、この機会に買ってやろう 『 まだまだ、あるある 』 と書いた。
表題に第 2 弾と書いたが実際には・・・・・ぶっはははは。
第 5 弾目か、はたまた第 10 弾目になるのか、それは秘密ということにしておこう。
写真は ヨハン・セバスチャン・バッハ ( J. S. BACH ) の全集である。
( Die kompletten Werke von Johann Sebastian BACH ) C D が 172 枚だから、それなりの価格はする。
が、まあ良いではないか。
バッハの作品について、ブランデンブルク協奏曲 ( Brandenburg
concertos 《BWV1046~1051》) のほか、
マタイ受難曲 ( St Matthew Passion 《BWV244》)、
ミサ曲ロ短調 ( The Mass in B minor 《BWV232》) などのレコードを持ってはいた。
しかし、バッハと言えばオルガンをはじめチェンバロやクラヴィコードなどの鍵盤楽器のための曲のほか、教会で歌われるカンタータも数多く作曲しているが、それらの全てなど勿論聴いたことがない。
と言うか、カンタータ全曲を網羅するようなレコードが発売されていたのかどうか私は知らないし、仮に発売されていたとしても小遣いの少なかった頃、好んで聴きたいと思わない曲まで抱き合わせで含んだレコードなど買わなかったことと思う。
冷夏で大凶作となった 1993 年、コメ販売業者 ( 卸売も小売も ) が米の販売価格を上げるだけでなく、品薄を理由にタイ政府が緊急輸出してくれた備蓄米を抱き合わせで買うことを条件として私たちに売りつけたことがあった。 コメは主食でありツマランことだと思いつつも業者が言うままの条件で米を買わざるを得なかった。
これは止むを得ないことだったが、特別に聴きたいと思いもしない曲を含んだレコードを買うのとは明らかに違う。
誤解が無いように書き加えておくが、タイ米は日本で作っている 『 うるち米 』 とは形が異なり、少し細長い 『 インディカ米 』 という種類だが決して不味い米ではない。 国産の有名銘柄米も備蓄米として保存期間が長くなれば味わいは落ちるもので 『 インディカ米 』 とて同じこと。
私は 『 タイ米=インディカ米 』 が嫌いではない。 タイ現地でも日本にあるタイ ・ レストランでもカオパット ( 焼き飯 ) や、カオニャオ ( モチ米を蒸した飯 ) などを好んで食べる。
話が反れたが 『 音楽の父 』 として音楽史の年表に載っていたり、音楽室の壁に貼られているバッハの肖像は上の CD
BOX の写真と同じものばかりのように思う。
バッハが生まれたのは 1685 年だから、まだ写真撮影が技術的に開発されていなかったのだから仕方がない。
彼が神聖ローマ帝国のザクセン=ヴァイマル公国の宮廷音楽家として音楽家の道を歩みだしたのが 1703 年。 そして西洋音楽の礎を築いて世を去ったのが 1750 年、バッハ 65 歳であった。
バッハが生まれ、彼が音楽家としての活動を行っていた時代を日本史上に置き換えてみれば江戸時代の前期にあたり、我が国では農業生産力が増大して経済力が安定し、町人文化に格段の発展が見られた元禄時期に相当する。
この元禄時期というのは徳川幕府による鎖国政策が浸透していた時期ゆえに西洋音楽が長崎に入っても伝播することは無かったであろう。
日本音楽史など紐解いたことがないので確かなことは分からないが、受験用の日本史理解のレベルで言えば近松門左衛門の作品と共に竹本義太夫らによる浄瑠璃が広まり、三味線や琴など、いわゆる邦楽と呼ばれる声楽や器楽が発展した時期と理解している。
『 所変われば品変わる 』 と言うが、同じ 18 世紀の地球上において、ヨーロッパと日本と東西に大きく分かれた別々の土地で音楽はそれぞれ独自の道を歩んできた。
それがやがて明治 5 年の学制において西洋音楽の導入が始まることになるのである。
もっとも実際に西洋音楽が学校教育に取り入れられのは音楽取調掛が設けられた明治 12 年 ( 1879年 ) 以降のことになるが、西欧文化重視、日本文化軽視の時代風潮の世の中にあって、バッハの教会音楽がどのように日本社会へ入って来たのか、これは大いに興味のあるところだ。
ところでこのバッハ全集、全てヘルムート・リリング ( Helmuth Rilling ) の指揮によるものである。
バッハの合唱曲を全曲録音した初の人で、バッハの専門家として超一流の音楽家である。
早朝コンサートはバッハの教会カンタータになっているが、いつまで続くのか期間を定めるのが難しい。 と、それほど CD 枚数が多いということもあり、時々他の作曲家の作品に変えつつ聴いていこうと思っている。
October 16, 2013
6 日 ( 日曜 ) の朝 《その参》
随分以前のことでハッキリと思い出せなかったのだが・・・・・いつのことだったか、いつのことだったかと何度も昔々の様々なことを思い返しているうちに、断片的ではあるが何だかおぼろげながら思い出映像の焦点が合い始めてきた。
夏、大変暑い夏であったように思うのだ。
だから、同級生と内山永久寺跡の溜め池へ泳ぎに出かけたのだった。
内山永久寺は鳥羽上皇によって永久 2 年 ( 1114年 )、平安時代に建立された大寺院だが、明治初めの廃仏毀釈で徹底的に破壊され壊滅してしまった。 私が池へ泳ぎに出かけた頃は寺跡を彷彿とさせる建造物などは一切無く、浄土庭園の池が溜め池として利用されていただけであった。
掲載の絵は 『 和州内山永久寺ノ図 ( 奈良県立図書館 蔵 ) 』 だが、図中央辺りに浄土庭園の池が見て取れる。( リンク先で拡大図が見られる )
※ 内山永久寺の絵図は 『 がらくた置場 』 より引用した。
この『 がらくた置場 』は今回発見したサイトだが、「当サイトにあるオリジナル画像の加工・使用・配布などはフリーです。(著作権などの腐った主張は致しません。)』 と記されており、この管理者は何とも剛毅な人だと感心したので紹介しておく。
この暑い暑い夏の或る日、学寮に関わる寮監や大学生らと共に三重県の赤目四十八滝へ出かけた。
暑い夏に何故 ? と思われるかもしれないが、赤目四十八滝を川下から順に滝巡りして行く渓谷沿いの羊腸の径は深い樹陰に覆われて暑さなど吹っ飛んでしまうハイキング・コースなのである。
しかも滝壺は気持ち良い遊泳場所でもあったから、半日ばかりは完全に夏であるということを忘れていた。
この滝での水遊びの後に伊賀上野へ出て俳聖殿に立ち寄ったのであった。
俳聖殿は松尾芭蕉生誕 300 年を記念して伊賀上野城のある上野公園に建てられたものだ。
何ともケッタイナ建物だというのが当時の私の感想であったが、この時に大学生から建物の由来を聞き、設計者が伊東忠太 ( 東京帝国大学教授 ) という人なのだと、彼の名前を初めて耳にしたのだった。
その後に伊東忠太の名前に接したのが何時だったか、これは今もって思い出せない。 多分、民話や説話に興味をもって関連する事柄を調べていた頃、幽霊や妖怪についても調べていたことがあったので、この時に 『 妖怪研究 』 を著した伊東忠太の名前に当たったのではなかったかと、ハッキリしないが思い浮かべているのだ。
伊東忠太は左に挙げたようないろんな妖怪のイラストを描いている。
多分これらを基にしたものを彼の設計した建築物において具現化しているのだろうが、どの妖怪がどの建築物で用いられているのか調べたことがないので分からない。
ここで紹介している妖怪のイラストは僅かだが、伊東が描いた妖怪の数は結構多い。
西本願寺の伝道院では下の写真に示すような石造の妖怪を見ることが出来るので、少しだけ例に挙げてみることにする。
東京の築地本願寺でも妖怪が建物に組み込まれているらしいが、以前私が寺を訪れた時は妖怪探しに行ったわけではなかったので妖怪がいるかどうか、どんな妖怪がいるのか確かめなかった。
今度訪れる機会があれば探してみるのもオモシロイかもとは思っているのだ。
今夏、私が所属する学会の大会会場が一橋大の国立キャンパスだったので、暫くぶりに会場で会おうと友人から誘いがあったことを以前に書いた。
しかし、とてもじゃないが 8 月末の大会期日までに歩行機能が回復するなど考えられる状態ではなかったので、東京行きは端からダメだと諦めていたのだ。
でも、頭の片隅では友人に会うのも良いし、妖怪探しも良いかもなあと思ったりもしていた。
前ページで書いたが、一橋大学の兼松講堂は伊東忠太が設計した建物で、この兼松講堂にも妖怪が住み着いていると以前に聞いたことがあったので、行くことが出来るならば妖怪探しも良いかなあと思ったりしたのだった。
伊東は 『 妖怪研究 』 の中で化け物を 《 神仏、幽霊、化物、精霊、怪動物 》 などに分類しているが、私たちが住む世界に如何なる妖怪が何処にどれ程どんな風に存在しているものなのか、この問いに対して明瞭に答えられる人などいないだろう。 伊東が化け物として分類した様々な妖怪が実在することを誰かが証明したということを私は未だかつて聞いたことがないのだ。
妖怪と呼ぶべきか化け物と言うべきか、この呼称において私は第一の躓きを覚えるのだが、それらを 『 おどろおどろしいモノ 』 とするならば、私が恐ろしさを感じた最初は 『 夜の暗闇 』 であったと思う。
これは、暗くなったら家の外へ出てはいけないという教えとして母親から 『 人さらい 』 の話を聞かされ、『 夜の暗闇 』 と 『 人さらい 』 がひとつの事柄となって恐ろしいものと意識することになったのだと思う。
この 『 夜の暗闇 』 に対する恐怖は人の死につながり、死体、葬儀、荒ぶる御魂、墓場、墓石、墓地の土饅頭、人魂、火の玉、霊魂、幽霊と関連するものに対する恐れへと広がって行った。 これは単純に恐怖するのオソレであって、畏敬の思いが入った畏れではない。
神話、民話、仏教説話、寓話、童話などに多くの 『 おどろおどろしいモノ 』 が出てくるが、妖怪や化け物、という言葉のほか、幽霊、物の怪、魔物、精霊、憑き物、霊魂、人魂 、悪霊、怨霊、生霊、妖精、怪物、魔獣、亡霊、幻獣、獣人、吸血鬼、魔人、魔神、獣頭人神、半身獣人・・・まだまだあるかも。
総じて恐ろしく 『 おどろおどろしいモノ 』 と私は今なお受け止めているが、物の怪 ( もののけ+姫 ) から発想が広がるように宮崎 駿 ( みやざき はやお ) 氏の作品 ( 写真はトトロ ) や鳥取県境港市における水木しげる氏の沢山の妖怪たちの像を思い浮かべると、妖怪という言葉からイメージするものとは随分異なるように感じるのだ。
物の怪、妖精、精霊などといろいろ思いを広げていくとノルウェーなど北欧の妖精としてトロール ( 写真 ) がいたことを思い出した。
朝鮮にはトッケビという妖精もいる。
フィンランドにはトーベ ・ ヤンソンのムーミンがいる。
これらはいずれもカワユイ奴たちである。
一概に妖怪と言っても私が恐れを抱いてきた 『 おどろおどろしいモノ 』 の筆頭格である幽霊や人魂、怨霊、亡霊といったものばかりでなく、憎めない奴たちもいるのだ。
本当に恐ろしく 『 おどろおどろしい 』 憎むべき妖怪や化けモンは、人間の姿 ・ 形をして人をたぶらかす類いかもしれない。
東京電力の幹部連中が指差されるのは当然であろうし、目に見えない放射能を、しかも水脈も分からない放射能汚染水までを " Let me assure the situation is under control. " などと世界に向けて発信した Prime Minister 『 A b e 』など化けモン ・ 妖怪の類いだと私は思う。
J R 北海道の経営幹部も同類。
みずほ銀行の幹部連中など将に カ ス で、化けモン ・ 妖怪にも劣る奴だと私は思う。