March 2014
March 31, 2014
常 命・・・
♪ 一の谷の いくさ敗れ
討たれし平家の 公達あわれ
あかつき寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛 ♪
以前にも書いたことがあるかもしれないが、私が幼かった頃に母親から教わった歌のひとつである。
青葉と呼ばれる笛を吹くのは平 敦盛 ( 平 清盛の弟・経盛の子で当時16歳 )。
平 敦盛は 『 平家物語 』 や 『 源平盛衰記 』 などに名前が出てくるが、能や幸若舞で 『 敦盛 』 と言う演目でも知られている。
敦盛と直接関わるわけではないが、寒冷地の植物 『 アツモリソウ 』 や 『 レブン・アツモリソウ 』 にも敦盛の名前が用いられているが、これについては家内と北海道を旅した時のブログ 『礼文島 続き 1 (September13,2007)』 に書いているので参考までに照覧されたい。( 青字部分をクリックすればリンク )
とりわけ幸若舞の演目 『 敦盛 』 の中で、出家した源氏の武将・熊谷次郎直実の無常観を謡う言葉、 『(略) 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり (略)』 の一節は某テレビ・コマーシャルにおいて織田信長の好みとして紹介され、広く知られることになったのではないかと思う。
おごる平氏に対して各地の源氏が蜂起する中、平 清盛は京の都で亡くなった。
平氏一族は清盛が遷都しようとした神戸・福原に陣を構えたが、神戸は北側を六甲山系、南側を瀬戸内海に挟まれた東西に細長く広がる土地である。
この神戸・福原を囲うよう北・東・西の三方面から攻めたのが源氏勢だが、中でも北側の 『 鵯越 ( ヒヨドリごえ ) の逆落とし 』 や 『 一の谷の合戦 』 はよく知られているものである。
六甲山系の断崖絶壁・鵯越を鹿が通るなら馬も通れると、急峻な崖を或る者は馬上のまま、或る者は馬を担いで駆け下り平氏の陣に奇襲をかけさせたのが源 義経であった。
この攻撃が平氏の守備態勢を総崩れにし、 『 一の谷の戦 』 に敗れた平氏一門は須磨浦より海路・屋島から壇ノ浦へと安徳天皇や建礼門院らと共に敗走の途を進むことになる。
この一の谷から屋島へ落ちる船に乗らんと須磨浦の浜に出でた馬上の公達。 この高貴な武者が平 敦盛であり、その後ろ姿を見つけた熊谷次郎直実が、
「やあやあ、そこなる公達。 敵なる我らに背を向けるとは卑怯なり。 戻せ、戻せ。」
こんなことを叫んだのであろうと書物からは読み取れる。
《屏風絵の出典は『一の谷合戦図屏風』永青文庫蔵》
直実の呼びかけに応じて駒を返した敦盛と直実が太刀を打ち合い、やがて汀にて取っ組み合うも強者・坂東武者の熊谷次郎直実にとって将に赤子の手をひねるようなものであったかもしれない。
組み伏せた公達の首を掻き切ろうと兜を取れば我が息子と変わらぬ年頃の美少年。
何とむごいことかと思いつつも戦の常ならば・・・・・と。
この場面が冒頭の歌詞の部分であり、能でも演じられる。
『 因果は巡り逢いたり 終には共に生まるべき 同じ蓮の蓮生法師 跡弔いて賜び給え 』 と謡われる。
蓮生法師の蓮生とは出家した熊谷次郎直実の仏門における号である。
『 トヲラアロ ヲルロ タアアロラ アー 』 などと手で膝を打ちながら龍笛の調子を習っていた頃もあったが、もう半世紀以上も昔のことだ。
織田信長が好んで謡い舞った 『 敦盛 』 では天上世界の1日は人間の住む地上世界の50年にあたる。
人は生を受けて滅さざる者などいないが、それもせいぜい
50年。 これはまるで夢幻の如くアッと言う間の時間である。
『 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 』 と謡い舞った信長は決然と今川義元との桶狭間の合戦に向かったとされるが、諦観と言うべきか達観と言うべきか。
母校・逍遥歌に 『 行け艱難を乗り越えて 常命わずか
七十年 』 と言う一節があったことを思い出す。
日本人の平均寿命が男性79.59歳、女性86.35歳だと厚労省が発表 (2013年) した。
きちんとした国勢調査の結果ではないが、律令制下の班田収授法や江戸期の宗門人別改帳などを資料として、日本人の平均寿命は平安時代から明治時代に至るまで30代から40代であり、60代70代と飛躍的に伸びたのは1945年以降、つまり戦後になってからであるとする説が確かだと私は考えている。
数日前、静岡地裁が袴田事件再審を決定し、袴田死刑囚の拘置執行も停止したとのニュースをテレビで知った。
以前より証拠や調書作成段階に疑義ありと指摘されてきた事件であり、今回の再審決定は遅きに失した感が強い。
袴田氏は昭和41年(1966年)に逮捕されて以来 48年間も拘置され続けてきたのである。 しかも死刑判決後は毎日毎時、いつ処刑されるかとの思いで過してきているのである。
48年・・・・・ほぼ50年。 ひとりの人生、常命と考えて良い時間である。
権力とは恐ろしいものだ。
これを他人事と思う人がいるとしたら更に恐ろしいことだと思う。
March 27, 2014
ホンモノの春
リハビリ施設送迎の福祉カー、私は車の後部で車椅子に座った状態で運んでもらうのだが、この車の窓から最近まで紅梅白梅の花が眺められたし、今は畑の一角に咲く菜の花を眺めることが出来る。
何より朝起きて先ず一番にする作業がエアコンとセラミック・ヒーターのスイッチを入れることだったのに、今週に入ってからはスイッチのことなど全く思いもしない日々を過ごしている。
つい今しがた、27日の14時20分頃、大阪管区気象台の職員が大阪城西ノ丸庭園の基準木を観察し、五輪以上の開花を確認したので、大阪の 『 開花宣言 』 を行った。( TV ミヤネヤにて LIVE )
3月17日付けのブログ
『 春・・・かな?(March 17, 2014)』 で 3月16日と17日の
日の出の写真を掲載した。
下が 16日 ( 日曜 ) の日の出の写真で午前 6 時25分に撮影したもの ( 再掲 ) である。
上は 25日 ( 火曜 ) の日の出の写真で午前 6 時13分に撮影したものである。
方位はいずれも日昇方向が東。 従って写真に向かって右側が南で左側が北である。
全く同じ場所からの撮影ではないが近景のテレビ・アンテナと背後の家屋や高圧鉄塔の位置関係から、撮影位置にさ程の大きいズレは無いことが分かるかと思う。
太陽高度についても全く同じではないが、とても似た高さであることも認めることが出来よう。
ハッキリと異なるのは撮影日時と太陽の位置のズレである。
3 月16日➤➤➤➤➤ 3 月25日
午前 6 時25分➤➤➤➤➤午前 6 時13分
つまり、10日ほどで日の出時刻が10分ほど早くなり、山の稜線に顔を出す太陽の位置が北方向にズレているということだ。
いよいよホンモノの花の季節に入る ( った) のだ。
March 24, 2014
最後の『 あん食 』
「 我が食膳に初めて置かれたパンなのだ 」 と書いたが、私の前に 『 あん食 』 が出されたのが初めてだということは間違いないのだが、「 我が家で初めてということではないよ。」 と家内が言った。
「 なにぃ ?」
昨年 4月 6日(土)、千里の T ちゃんが病室を見舞ってくれた折、
「 お父さんの退屈しのぎにと映画のDVDを何枚か頂いたでしょ。その時に 『 あん食 』 も頂いたのだけどお父さんは食べられなかったから私が頂いたわ。」 だと。
自分の知らないことがあったということと美味しいものが口に入らなかったという何とも悔しいような残念なような、そして少々ひがみのような気分もない交ぜになって、
「 うーーーむ。」
ぶっははははは。
出かけること、飲むこと、それに食べることまで制約下に置かれると様々な欲求不満が蓄積し、佛の~と呼ばれていた私でもイライラするものだ。
ともあれ冷凍保存してあった最終の 『 あん食 』 が終わってしまった。
「 うーーーむ。」
《 家内がレッスン帰りに夕食を買って帰ってきたので最終の 『 あん食 』 が 24日の朝食となった。》
March 23, 2014
久し振りに朝食のこと
退院して直ぐの 2~3日だけが 『 三種の神器 』 朝食で、他はずぅーっと 『 パン・スープ・マーマレード・デザート 』 という病院での朝食と同じような大変あっさり淡白なものになった。
しかしこの内容では余りにも腹持ちが悪く満腹感が得られないため、家内に頼んで野菜サラダを付けてもらっている。
それらの朝食については以前に何度か写真付きで紹介している。
夏から秋には生野菜が主となっていたが、玉ねぎだけは辛味が強いのでサッと湯通しするとか冷水に晒すとかしてもらっていた。 しかし冬場は冷たいサラダもイマイチかと、玉ねぎだけ ( 写真 ) とか他の野菜とともに炒め ( 写真 ) てもらったりしている。
もっとも、炒めると言っても油はほとんど使わないから乾煎りと表現した方が良いかもしれない。
スープについては以前にも書いている通り、日替わりでコンソメ・タイプであったりポタージュ・タイプであったり、スープの中の具材もいろいろ。
パンに付ける物はマーマレードのみでバター ( マーガリンを含む ) などは一切無し。 マーマレードは柚子・スダチ・レモンなどのピールと蜂蜜を用いた家内特製のもので私好みの世界最高級の逸品である。
ぶっははははは。 胡麻すりすりではない。
私好みと書いたように基準は私の好みで私の味覚と限定されれ、将に独断と偏見の結果であると言える。
デザートはイチゴ。 文句なし。
果物は何でも・・・・・ほぼ大概のものは好きだから文句などつけることなど無いのだ。 中でもイチゴ、ブドウ、サクランボ、ミカン、これらは大好物。
イチゴはいろんな品種を食べてきた。
あまおう、とよのか、さちのか、さがほのか、あきひめ、あすかルビーなどの名前を思い浮かべるが、これらの中でなら、あきひめ以外は全て大好き。
あすかルビーは私と家内共通の大大好物。
ぶっははははは。 どうでもええこっちゃが奈良県農業試験場で生まれた品種だとか。
3 月 4日の朝食の写真 ( 上 ) があったので掲載するが、変化するのはスープとパンである。
パンは写真のように食パンが 1 枚かバターロール 2 個である。
次の下の写真は 3 月22日の朝食。
パンをひとかじりしているが、いつもの食パンではなく 『 あん食 』 と呼ぶものらしい。
我が食膳に初めて置かれたパンなのだが、餡子が含まれているので餡入りの食パンという意味なのだろう。
餡が多過ぎることなく甘過ぎることもなく、家内がこの食パンを少し焼いて出してくれるのだがコレが頗る美味いのだ。
美味しいから 「 もう一枚 」 と言っても出てこない。
カロリー計算上は十分過ぎるのだと。
この 『 あん食 』 1 斤を生協で買うらしいが、それを 8 枚に切るのだとか。
朝に家内と私が 1 枚ずつ。 家内は夕食にも 1 枚食べるので 3 日間で終わってしまうのだ。 だから、また買ってきてと頼むのだが、いつもいつも売っているのではないのだと。
そんな訳で今朝の 『 あん食 』 1 枚で終わってしまった。今風に言えば、超残念とか超サミシーってことになるのかな。
下が今日の朝食。
餡の入っている箇所は一定ではないのだ。
家内は師匠のレッスンを受けるため私の昼ご飯を用意して慌ただしく出かけて行った。
お昼はとっくに過ぎて、もう 2 時をまわってしまったので食べることにしよう。
ひとりでいると食べても食べなくても、どうでもいい気分になってしまう。
March 22, 2014
荒れた彼岸前半
19日から20日は雨が降ったり止んだりで強風が吹き荒れるという何ともヤヤコシイ天気であった。
気象衛星写真でも低気圧 ( 赤色の L ) が赤色の点線上を移動していったことと、20日には広い範囲の雲を渦状に巻き込んだ勢力の強い低気圧に発達していることが見てとれる。
強い北西風が高台の我が家にまともに当たってくるため、雨戸を閉めていても雨戸とガラス戸の間の空気が震えて恐ろしいほどの風音となって耳に響いてきた。
現在の家に建て替えて 20年を越えた。
以前の家に比べて何倍も頑丈な家だがゴゥーゴゥーと唸る風音も以前より大きく強風が吹き荒れる頻度も以前の何倍も高くなったように感じるのだ。
夏はエアコンの必要が無いくらい風通しが良くて嬉しいのだが、気象状況全体が変化しつつあるのか、建造物を含め地勢状の変化があったのか、何が原因なのかは分からないけど怖がりの私にとっての不安材料のひとつになっている。
21日、春分の日は祝日だったが通所リハビリは休み無しなので N さんが車椅子を積んだ福祉カーで迎えに来てくれた。 うまい具合に車椅子で乗降の際には止んでくれていたが、時折強風が吹き、霙 ( みぞれ ) 降る悪天候であった。
不安で怖がりと言えば、昔の人は 『 地震・雷・火事・親父 』 と言ったが、私の場合、父親はとても優しかったので、 『 地震・雷・火事・台風(雨風) 』 となるかな。
右上の衛星写真の通り、春分の日は完全な西高東低の冬型気圧配置であった。 高層の気温を表示していないが、太平洋側へ吹き出している白い筋模様の雲が風の強さや冷たさを想像させる。
今日 ( 22日 ) は高気圧 ( 黄色の H ) に覆われて天気は良いが少々寒い。
屋外へ出る機会が極端に少ない身体なので、窓外の景色を眺めながら、そして気象衛星の写真と重ね合わせて今日の気候を想像するという何とも歯痒さを感じる日々を過ごしている私である。
22、23、24 と彼岸後半は先ず先ず安定した天気になりそうだ。
元気な状態なら 23日の日曜日、朝からお墓参りに出かけるところなのだが・・・・・