July 2014

July 31, 2014

発想の連鎖

昨日は我が娘たちのうちの二人が来てくれた。
誰が誰というのはヤヤコシイので省くが、孟子ほどに偉くもない私だが、『 去る者は追わず来る者は拒まず 』 の30-1信条で沢山の人と関わって来た。
しかしこの信条、とりわけ
 『 去る者、追わず 』 という部分だが、私自身を客観視すれば、私らしくなく少し冷たいと感じるところが無くもない。
が、まあ私を慕い信じて頼って来る者は大歓迎であり、彼らに対してはそれなりの、否それ以上の歓待の姿勢を示してきたと思う。
当然ではあるが、でき得る限りという条件や、社会的に或いは一般常識に照らして不都合と思われることはしてこなかった。
基本は、『 互いに助け合い共に喜びたい。』 という発想である。
pict-Hとぶどう-1M は 4歳になった長男 H を連れて兵庫県から暑い中を来てくれた。
幼稚園が夏休みに入り、M 自身も長年勤めていた会社を退職、専業主婦となったことで時間的に余裕ができたということもあったのだろう。
しかし、自転車、電車、電車、電車、タクシーと、我が家へ来るまでの乗り物の乗り換えが大変だったことを思うと、来てくれたという有り難さに頭が下がる。
私も、ついつい張り切って回復の状態を誇張して見せてしまった。 30-1
ぶっははははは。 心配かけまいと思ったのだが、疲れて横になる羽目に・・・・・

来てくれた
もう一人の娘は我が息子の嫁。
息子は我が家をビジネスホテルぐらいにしか思っておらんようで極々たまに来る程度。
友人と一緒にお酒を飲もうという場合か、ゴルフ・コンペの際の足場として利用する程度。
いずれも車を置くためにのみ我が家へ来る。と言うか立ち寄るのだ。そして夜遅く帰り、自分の部屋へ入って寝て、早朝には出かけて行く。
そんな息子の代わりに嫁が来てくれたのかも。
これからも、ちょくちょく来てくれればいいのだ。
29-1
来てくれると言えば三日前のブログでセミの抜け殻について書いたが、写真は塀際に開いたセミの幼虫が這い出て来てくれた穴である。
我が家でセミが土中より這い出すのを見たことはないが、多分土表面に這い出た後、写真では上方となる塀を這いpict-セミ抜け殻-5登って樹木の枝に移っていくのであろう。
pict-鳥居-1
塀と言えば最近は見かけないが、写真のような記号が板塀やセメント塀に描かれているのをよく見た。
言わずと知れた 『 立小便お断り 』 のマークである。
しかし子どもの頃の私には、お稲荷さんの鳥居と同じだから、コンコンさんか何かお祀りしてあるのだろうとぐらいにしか思っていなかった。

『 ミミズもオケラも、みなゴメン。』

小さかった頃、小便を我慢できずにいた時に父親から上の呪文のような言葉をつぶやいて立小便すれば良いということを教わった。
pict-サンパラソル花-1文化状況が今とは全く異なる時代のことであり、立小便はダメという教えは大変ゆるやかであった頃のことだ。
この呪文を聞かされた頃は呪文の意味を考えるということもなく、ただただ記憶に残ったというだけであった。
だから、ミミズは既に得ている知識と結びついて理解出来たものの、オケラが何たるか分からず、また当時は知ろうともしなかった。

それからどれぐらいの月日が流れたか。
オケラとはミミズと同じように土の中で暮らす生物と想像。
水の中では溺れて息をすることが出来ない自分と同様、ミミズも水中では生きることが出来ず、ミミズにとって小便をかけられるということは湯をかけられ溺れさせられるpict-オケラ-1ようなものと理解。
ミミズと同じく、土の中の生物としてヤスデ、ハサミムシ、ダンゴムシなどもいるが、奴らも小便の洪水で困ったろう。

などなど、自分が学習したことや経験したこととアレやコレの事柄が複雑に繋がり結ばれていった。
ジェーン台風や台風13号などの時、舞い上がる畳をひっくり返した座敷机で押さえつけ、その上に座らされたりしたことや床下浸水を経験したりで、そうしたこpict-オケラの手ともミミズと立小便の関係理解に繋がっていると思う。

ところがオケラの実物を見たのは小学校の高学年になってからであり、それまではモグラの姿形を想像していたものだから実物との違いに大いに驚いたことを覚えている。

ただ土かきの手と爪については想像通りで、この一致についても妙に感心したものだった。
30-2
ついでに書けば現在の家でオケラは見たことがないが、20数年前頃だったか実物のモグラがゴミ箱として使っていた大きいポリバケツに入り込んでいるのを見つけたことがある。
多分誤って落ち込んだのだろうが、将にネズミの親分といった感じだった。

飼ってやろうかとも思ったが、翌日には死んでしまっており、腐敗臭が強烈であったことを今も覚えている。
30-1
『 ミミズもオケラも、みなゴメン。』
立小便の良し悪しはさておき、私が小さかった頃は立小便するにしても地中の、それもいるかいないか分からないミミズやオケラにゴメンと言える優しさがあった。

もっと古く、小林一茶は 『 やれ打つな 蝿が手をすり 足をする 』 といった句を詠んでいる。

人のことどころか、ちっちゃな生き物にまで気遣いできる優しさが日本人にはあった。 確かにあったのだ。 私はそう思いたい。
pict-鳥獣人物戯画(甲)部分-2
情報の発達は伝える情報量を多くした。 昔とは比べものにならないくらいであり、情報の収集・伝達範囲や速度も将に雲泥の差と言えよう。
半世紀前なら伝達されなかったかもしれない情報も現代なら何の支障もなく世界中全ての人たちに、それも瞬時に伝えられるであろう。

ツマラン事件事故も半世紀前と同じ比率で起きているのかもしれない。
しかし、情報の伝達量は明らかに異なり、ひょっとしたら
イチ(1)を十(10)にも百(100)にも受け止めているのが現代なのかもしれない。
pict-鳥獣人物戯画(甲)部分-1
人々の優しさや心のゆとりが希薄になっているように思えるのは情報との関わりにも影響されているのではないだろうか。
想いの広がりと繋がりを辿っていくと何だかワカランうちにワカラン得体の知れんモノに引きずり回されているのではという思いに至った。 むむむむむ、うーーーん。

※ 上の2点は、国宝の鳥獣人物戯画の部分 
   《 栂尾山 高山寺 蔵 》


masatukamoto at 17:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 30, 2014

暑き日のことに感謝・感謝

7月25日、昔の職場の仲間と夕食会があると家内が出かけたことを書いた。
鬼の居ぬ間に洗濯と言うが、別に家内が鬼だなどと言うつもりはないが、私の衣食住全てにわたって厳しく目を光らせているという意味では鬼かもしれない。佐藤黒
が、まあ鬼かどうかはともかくとして、この夕食時に福井・勝山の地酒 『 一本義 』 を楽しませて頂いた。

以前ほどには飲まないし飲ませてももらえないのだが、一応アルコールは解禁となっている。
日本酒、ワイン、焼酎、ビールなどなど。 ただウィスキーなどアルコール度数の高い蒸留酒は口にしていない。
焼酎と言っても25度。 博多の T 氏が時々(たまに) 送ってくれる私が好む芋焼酎 『 佐藤 』 を水や湯で割って、ほんのちびっとだけ・・・・・
ALL-FREE-SUNTORYワインはドイツの白。 これなら家内も付き合ってくれるのだ、ほんの少しだけれど。
ビール、どの銘柄のものでも飲むが、私が好きなのは黒ラベルかヱビス。 飲み代を抑えるために麦とホップにしていたこともあったが、基本的にはサッポロ党である。
しかし、リハビリを開始して以来ほとんど飲むことがなくなってしまった。
暑いからと家内とフタを開ける缶は、私が極ゼロ(サッポロ)、家内が ALL-FREE(サントリー)。
極ゼロはアルコール分 4 %、 ALL-FREE はノンアルコールと表示されている。
極ZERO-SAPPOLOこの極ゼロのオモロイところはプリン体に糖質ともにゼロというところだ。 多分、家内は他のビールに比べれば、同じ飲むならコッチが良いと判断したのだろう。
でも、でも、でも、私にはワカランことがある。
私の理解ではアルコールは糖質だと。 そのアルコール分が 4 %なのに糖質ゼロとは・・・・・
これがワカラン。
味わいは、まあビールとは言えんが、ビールもどき、ではアル。
含炭酸系飲料は喉に気持ち良く飲みやすいが腹が張って張って。

和食が好きな私には、やはり日本酒が一番と言えるかな。
ついで、焼酎の湯割り、ワイン。
pict-春鹿純米超辛口-2
私の場合、お酒だけを楽しむという飲み方をしないので、料理によってお酒は変わる。
私の燗酒の好みの温度は高く、通常超熱燗で頂くので普通酒とか醸造酒と呼ばれる紙パック入りの安物の酒を電子レンジでチン。 真冬でも真夏でも年中超熱燗である。
が、好みの酒、上等な酒、珍しい地方の地酒など、特別な場合は冷やして飲むか、せいぜい
ぬる燗で楽しんでいる。
普段好んで飲んでいる酒は奈良・今西清兵衛商店の 『 春鹿・超辛口 』 であり、これは燗しない。
法善寺・『 喜川 』 でもコレは冷酒で頂くことにしている。
pict-春鹿山廃純米超辛口生原酒青乃鬼斬同じ春鹿から何年前になるだろうか、発売された山廃純米超辛口生原酒・『 青乃鬼斬 』。 これも酒の名前の通り鬼を斬るに相応しい味わいの酒で冷酒として頂いている。
先日紹介した福井・勝山の 『 一本義 』 や、
震災復興支援にと買った宮城・大崎の
『 一ノ蔵 』 なども燗はしない。
そういえばリハビリの送迎で世話になっている N 氏が福井の 『 黒龍 』 だか 『 石田屋 』 だったか、これが美味い酒だと絶賛していたが・・・・・。 現在福井に住む家内でも手に入りにくいのだとも語っていた。
どんな酒なのか興味はあるが入手困難、希少価値、プレミアム付き価格なーんてのは私は大嫌い。
私が株取引を嫌うのと私の考え方では全く同じことなのだ。 

7月26日。
この日はたまらんほどに暑かった。
空調をあまり好まない家内が、「 クーラーを入れようか。」 と言ったほどだから。
脊髄損傷の手術を受けて以来未だに下半身に痺れがあり感温機能がオカシクなっている私だが、流石にこの日の暑さには参っていたので気温調節が出来るという幸せを存分に感じ取ったのだった。pict-万願寺唐辛子-1

そしてこの日、みちのくの安倍さんから心遣いのバクダンを頂戴し、夕刻には寿司屋の大将 I 氏も私の大好物を届けてくれた。

写真の万願寺・・・甘唐辛子は軽く焼いて醤油をかけたもの。 これは朝、T  じいさんが届けてくれたもので、削り鰹節を振りかけて頂いた。

淡いオレンジ色の物は私の大大大の、もうひとつオマケの大好物、『 ほ や 』 である。
26-1
磯の香り、ほんのりした塩っぱさ、貝のような食感。
これを頂くだけで半世紀も昔の学生時代にタイムスリップ。
眼前に三陸の海岸段丘状の断崖と紺碧の海、白砂青松の松島の海岸などなど、そこから更に派生的に記憶が甦っていく。

生のホヤは海のパイナップルとも爆弾とも呼ばれるように赤紫色の硬い殻に包み込まれているから食べる前に、その殻を切り開かねばならない。ところがこの作業、結構な力が必要なのだ。
慣れない者がやろうとすると塩水が飛んだり、その他いろいろ。
今は私が包丁を持てないので、そうしたことも気遣って安倍さんは剥き身状態のホヤを送って下さったのだ。

いつも細やかに気遣いして頂き感謝感謝である。
26-1
そして寿司屋の大将 I 氏が届けてくれた活タコ、剣先イカ、それにハモの焼き霜。
pict-春鹿純米超辛口生原酒-1
これだけの酒肴が揃って酒抜きの肴だけでは、やはり変だ。
これは当然日本酒ということに。
ところが我が酒蔵に特別な酒は無かったらしく超熱燗のお酒を頂いた。 
ここでは飲みたかった冷酒用の写真のみ。残念

大将 I 氏特製の柿の葉寿司に家内が好みとする山ごぼうの細巻きも届けてくれていた。
pict-柿の葉、山ゴボウ巻き-1
皆さんに気に掛けて頂き、遅々としながらもリハビリの効果を期待しつつ、今日もまた、明日もと頑張っているのだ。
応援して頂いている皆さんたちに感謝感謝。

二度三度と幾つ重ねても気持ちを全て言い表せないが、せめてとの思いを込めて感謝の文字に心を託したい。


masatukamoto at 11:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 28, 2014

一 服

昨日も一昨日も湿度も気温も共に高い、将に猛暑、酷暑と呼ぶに相応しい日であった。

朝早くからジージーとアブラゼミの煩いほどの大合唱が我が家の部屋の中まで響いていた。
1週間ほど前までは、家内がセミの声を認めて私にセミが鳴いていると話しかけてくれていたのだが、この頃にpict-アブラゼミ抜け殻-1は私は全く聴き取れなかったのだ。

一昨日、リハビリから帰って来た時に我が家の門前で見つけたセミの抜け殻の写真。
塀際に小さな穴が幾つも見られるので、早朝の未だ暗い内に地上へ出て、壁や樹木をよじ登り、殻から這い出し、日の出の頃には体や羽を乾かしてジージー鳴いているのだろう。

アブラゼミは幼虫 6年間を地中で過ごし、地上で成虫となってからは僅かに 2~3週間の生命と聞く。
数年前はクマゼミばかりだったが、今年は鳴き声からアブラゼミばかりのように思う。pict-アブラゼミ-3
それにしても成虫となって 2~3週間の命とは何とも空しいものだが、空しいと書けばセミの抜け殻は 『 空蝉 (うつせみ)』 とも。
源氏物語の 『 空蝉 』 なら・・・・・
ベッピンでなくていい。 気立て良く控え目で品の良い女性なら、私に言わせれば、年がひとつ上であろうが下であろうが、そんなこと関係なく 『 金の草鞋を履いてでも探せ 』 と思う女性だ。
光源氏が心惹かれたのも当然。
ぶっははははは。
アブラゼミ金でもガラスでもないタダの革靴ではあったが、私は既にプラチナの家内を得ておる。ぶっはははは。

あちらこちらから 「 ごちそうさん 」 の声が聞こえてくるような・・・・・


そんな家内とお茶の時間を過ごす機会も増えた。
『 怪我の功名 』 と言う俚諺もある。 辛く苦しいリハビリではあるが、病を得たゆえの療養とリハビリの日々である。 『 風が吹けば桶屋が儲かる 』 の例えではないが、病雲竜-1俵屋吉富を得たゆえに家内と楽しむお茶の時間も生まれたと・・・・・
充分に腹に落ちた訳では無いけれど、こう得心したと思うように努めているのだ。

ところで家内も私も茶の湯を正規に習ったことはない。
私のババ殿に大叔母・叔母殿らは揃って『宗』の付く茶道の大先生ゆえ、門前にいた訳でも経を読むほどでもないが結構私は茶の湯に通じてはいる、《かな?》。
白雲竜-1俵屋吉富
一方、家内はお茶を習うほど経済的ゆとりのある幼少期を送ったわけではなく、兄たちの支援と自らの奨学金で大学を出て職に就いたものだから仕事面でも生活面でも茶の湯をたしなんだり花嫁修業をするなど、そんなこととは全く縁の無い暮らしをしておった。
強いて言えば兄嫁が武家茶道 S流の師範として教授していたので 『 かたち 』 だけは学ばせてもらったようだ。

もっとも、私に言わせれば 「 茶の湯は 『 かたち 』 に非ず 」 で、純pict-お茶-粋に茶の味と、茶を戴いている瞬間を心底に刻み楽しめば良いと・・・・・
茶の師と呼ばれている方たちからはキツーイ叱責を受けるかも知れぬが、これは私個人の思いなので念の為。

書籍は随分と処分したが、いつでも読み直したいと思うものは未だ書斎の壁を作っている。
大老・井伊直弼は桜田門外に於いて誅殺され、歴史上希代の悪人と評されることが多い。 もっともいずれの立場に立って評価するかによって、あながち悪人と決めつけることに問題が無くはないが、安政の大獄という史実を考え合わせると、やpict-P1090683はり悪人と評定せざるを得ないと私は考えるのだ。

しかしだ。 彼の茶の湯に対する思いや考え方などを推量すれば、彼もひとりの人間であったと。 彼が生まれた幕末という特殊な時代にあって、しかも彼自身の思いに関わりなく人生が展開していく、将に運命と言うべき奔流に掉さすこともかなわず、ただただ流れるままに・・・・・

まあ人物評価をするつもりではないので。

ちなみに茶碗は夏茶碗にと私が焼いたもの。 焼成感、手触り、色具合が良くて大事pict-修正-信楽茶碗-1にしているものだ。
お茶請けは私の場合何でも良いのだが、好みの筆頭はやはり生菓子だな。 あずき、求肥、羊羹などなど何を使ってあっても良いのだ。

お茶の時のみ両刀使いで平時は辛党。 辛党って辛刀とは書かないんだ。 この年になって初めて気付くなーんて、気付いた私に拍手である。 これは単なる自己満足というもの也や?

以前にもお菓子では書いたような気がするが、写真の渦を巻いたように仕上げたお菓子が私の好物である。
最近は関西のデパートならどこでも置いているもので、食感も味わいも似ている。
良く知られているのは京都の俵屋吉富の 『 雲竜 (上の写真で、白雲竜と)』、鶴屋吉信の 『京観世 』、大阪は貝塚、お菓子司・塩五の 『 村雨 』、それに奈良・郡山の本家・菊屋の 『 玄武羹 』『 白虎羹 』 である。
米粉に餡を混ぜて蒸したもので村雨餡と言うのだが、日本中に菓子屋は多いから他にも名前が違っても同様なpict-P1090682品物があるかもしれない。

さて、田中利典氏は奈良・吉野山の金峯山寺の宗務総長、まあ一番エライ人だが、彼の書籍によって私は初めて修験道に触れることとなった。
しかし皮肉なことに歩けない山へ入れない体になってである。
心の乱れを治めるというのはただでさえムツカシイものだが・・・・・
田中氏は随分の後輩になるようだが、求道という面ではご指導を仰がねばならないことが多いようだ。
この本は神戸のW氏にあげようかな。 ここんとこはホラではなく法螺貝を吹いてるよpict-お茶-1うだから今更必要もないか。

今日のお茶請けは 『 ぶどう饅頭 』 だった。
この 『 ぶどう饅頭 』 は徳島県・穴吹のお菓子で、剣山への登山参詣する人たちのための土産にと100年ほど前に地元菓子店が製造販売を始めたものである。
修験道の書籍を紹介したが、剣山 (1955m) は石鎚山 (1982m) に次ぐ四国で二番目に高い山で、どちらも修験道・山岳仏教の聖なる山である。

この 『 ぶどう饅頭 』 だが、家内には思い出深いものらしく、極たまに生協商品カタログで見つけたら必ず購入しているものだ。
pict-ぶどう饅頭-1家内が育った徳島県の池田町は穴吹から近く、時々 『 ぶどう饅頭 』 を売りにくる人がいたらしい。
その売り声を聞くと家内の父親が必ず買いに出て行き、帰ってくると
「 T ちゃん、食べ 」 ってくれたそうな。
『 ぶどう饅頭 』 が好きだった父親と大好きな父親のことを思い浮かべてお茶請けに出してくれているのかもしれない。


masatukamoto at 20:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 25, 2014

近くの、むかしむかし《6》

昨夜からあまり気温の変化はなく、今日も早朝から暑い一日が始まった。

昨日は祇園祭の後祭りだとかで、150年ぶりに復興した大船鉾を加えた山鉾巡行の模様がテレビで紹介されpict-猿田彦-天神祭ていたので、その映像を見ながら夏祭りに参加している気分に・・・・・
ははははは、そんなことで祭りに参加してる気分に浸れるはずもないのだが。

ともあれ今日は暑い暑い中での天神祭の本宮。
陸渡御、船渡御など多くの神事が執り行われる。
写真は渡御列を先導する天神祭の重要な役割・猿田彦で、天狗の面をつけるのだ。
戦前の天神祭で猿田彦の重役を果たした祖父のモノクロ写真が残っていたが、白黒の写真ではなく白色と茶色の写真だった。
セピア色と言うらしいが・・・・・

昨日は久し振りに『近くの、むかしむかし』とのテーマで《5》を書いた。
30年ばかり前の我が家裏で起きた事実を基に、1300年ばかり昔の我が家の辺りの様子を思い浮かべていたのだった。
その我が家が位置する丘のはずれから生駒山方向を眺めたのが下の写真である。
f5d86a07[1]
目印を記しておいたが左下の阪奈中央病院は私が回復期治療のため入院していた施設であり、この病院と道路を挟んで位置しているのが田原口城跡の丘である。

田原口城跡 (生駒市) と書いたが、田原城跡 (四条畷市) や北田原城跡 (生駒市) も近くにあってややこしい。
実のところ、いずれも我が家からは極々近くに位置する史跡ばかりなのだが、城跡を自分の足で確かめたことがないのだ。
pict-長福寺-1
唯一、上の写真の田原口城跡のみ同じ場所に建つ長福寺へ行ったのだが、それも門前まで行ったに過ぎず、とても見学したとは言えない状況なのだ。
灯台下暗しとは、ほんによく言ったものだと感心するばかりである。

この長福寺だが、私が今の家に住み始めた頃は上の写真の丘の周囲は殆どが田地であり、土地の農家の建3d5e69b8[2]物が散在しているような状況であった。
以来40数年、長福寺と田原口城跡を残すのみで丘の周囲は住宅で囲まれてしまった。

この長福寺は真言律宗に属し、正しくは金龍山・長福寺という。
617年、聖徳太子によって開かれたとする説と、聖武天皇の勅願によって行基が開山した (寺伝) とする説があるらしいが、これはこれで想像を膨らませるのがオモロイ。
聖徳太子と聖武天皇では生存時期において100年の違いがあることや、飛鳥、信貴山、河内、浪速と足跡が確かな聖徳太子に対し、100年後の奈良時代のことになるが、行基は河内の堺に生まpict-朝顔イラスト-1れた後、仏教修養を積みつつ各地を回って開墾灌漑工事指導など民衆救済に深く関わり、平城京における聖武天皇の東大寺大仏建立の勧進にも関わっている。 その平城京の須恵器の一部は我が家近くの窯で焼かれていたことや、行基が亡くなってから、彼の遺言だったと思うが弟子たちによって生駒の往生院へ運ばれ、火葬された後は遺骨が竹林寺 (生駒市) に納められている。

そして、長福寺以外にも行基開創と伝えられている寺が生駒及び近隣地域に結構あるので、私としては金龍山・長福寺開山も行基であると思いたいが、勿論想像の域を超えるものではない。
pict-DSCF5606写真のミニトマトは T さんが持って来てくれたもの。
商品として出すには粒の大きさがバラバラだし熟し具合も・・・・・・
でも、もぎたてで瑞々しく甘かったり酸っぱかったり。
とにかく嬉しくて T さんには、いつもいつも感謝である。

ぼちぼち天神さんの船渡御も最高潮の時を迎え、花火も打ち上げられるのだろう。
pict-一本義-1今夜は昔の職場の人たちと夕食会だと家内は出かけて行った。
思いっきり楽しんできてくれれば良いのだ。
家内が用意してくれた夕食を私も頂くことにしよう。
今夜は福井県は勝山の地酒で楽しもう。
『 一本義 』 は長男・ J が嫁 Y の実家へ行った際、いつも土産にと持ってきてくれるものだが、今回は私が自腹で仕入れたもの。 ぶっはははは、ではでは。


masatukamoto at 19:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

July 24, 2014

近くの、むかしむかし《5》

昨日は大暑。pict-ひまわり-2
うーーん、やはり暦はスゴイと思う。
我が家は高台にあるので真夏でも風通しが良く、エアコンで冷房しなければ我慢できないという日は少ない。
大概は扇風機で済ますことが出来る。
しかし大暑の昨日は流石に・・・むむむむむ。
昼間、網戸だけで開け放した座敷には風が流れてはいたのだが、生暖かい風でムウッとするばかり。 
夕食時、止むなくエアコンのスイッチを入れ、その後ベストな室温で眠りにつく時点でスイッpict-うちわMASA-2チを切った。
ところが午前 0 時頃には室温が上昇し、寝ていても汗をかくほど暑くなった。
通常、午前 3 時頃には外気温も下がるので網戸だけにしたのだが、これが全くダメで日の出時刻まで・・・・・
ここ3日間連続だが雲に阻まれ日の出は見ていない。
しかし、今日も雲は多いものの、またまた暑い暑い昼を過ごさねばならないようだ。
pict-ひまわり-3
ところで久々に 『 近くの、むかしむかし 』 の表題で書くこととなった。
音声言語が何故文字言語に・・・・・・5 W を考えていたのだが結論は出なかった。
言語や考古、歴史学の専門やが寄り集うても結果は同じだろう。
pict-ひまわり-1広く深く知識知恵を出し鳩首凝議したところで、状況を推量し、その上に推論を組み立てるほか何とも仕方がないのだから夢を描く
ド素人の私の頭と大した変りはないと思うのだ。

近くの昔々、と言ってもほんの少し前の1983年頃のことを書いてみよう。
この頃は未だバブル期ではなかったと思うが、我が家周辺の雑木林や田地田畑が徐々に宅地化されていた時期であった。
そんな折も折、我が家裏の棚田の宅地化工事が始まった。
pict-須恵器皿-1工事はどんどん進み、田地の粘土質の土が削られて平らに整地され、次はコンクリートの基礎工事が始まるのかと予想できたのだ。

そんな或る日の早朝、工事現場を見ると何やら土器のカケラ状の物が田地
一帯に散らばっているのを見たのだ。
それで気になってカケラのひとつを取ってみたところ、手触りや色合いで高い焼成温度pict-須恵器高坏-2であることが分かったし、一見して須恵器片であると思った。

満足な形をした物は見当たらなかったが、写真(参考例)のような皿のカケラや明らかに高坏の台部分と分かるものなどがあり、それも整地された田地一面に広く散らばっていたので何故なのか私には理解できなかった。
しかし考古遺物の大量出土と工事の進捗具合を合わせ考えると、先ず直ぐにでも専門家が調査に入るべきとの考えに立ち、当時市議会議員をしていた友人 N に現地へ来て状況確認の後、奈文研か橿考研へ連絡を取るように依頼して私は職場に向かったのだった。
pict-須恵器高坏-1
 N 議員の素早い対応で宅地造成工事はストップ。 調査は橿原考古学研究所が担当することになった。

調査はほぼ 1 週間ほどかかったように記憶しているが、どのような発掘調査なのか、毎朝出勤前に現場を見たものの実際に発掘調査している状況を見たり、出土品を全て見ていたわけではないので何が発掘されたのか、何人くらいで作業していたのかなどは全く分からないままだ。
しかし、調査が始まる前に確認している須恵器片から写真のような高坏などが発掘されたのであろう。 完全な物であったかどうかは知らないが。

後に N 議員から橿原考古学研究所の主担者が藤井利章氏であったことを聞き知った。
藤井氏が主担だったのなら仕事を早く切り上げて帰ってきても良かったのだが、その当pict-P1090221時は誰が調査に入っているのかなど全く知らなかったのだ。
藤井利章氏は明日香の発掘に全力を注いできた末永雅雄氏や網干善教氏の指導を受け、共に活動してこられたのだから直にお話を聞かせてもらえたらと思ったが後の祭りであった。

ところでこの発掘についてだが、この辺りには奈良時代に多くの窯が作られ、平城京で使用する食器などを焼いていたらしく、生駒古窯跡群生駒地区と呼んでいるとのこと。
この調査結果を私が聞くまで私自身が地域の歴史に疎かったというわけである。
随分沢山の発掘品があったようだが、この時の調査地は
 『 俵口北窯跡 』 と名付けられ、その灰原 ( かいげん ) だったということだ。

奈良は、どこを掘っても遺跡だらけと言われたりするが、
1300年もの昔、我が家のあたりでは山の傾斜を利用して登り窯が造られ、豊富にある雑木を集めて燃やし、皿や壺、甕などを焼く人がいた。
丘陵の上には煙が立ち上り、私が歩いている同じ場所を
1300年もの昔人も歩いていた、かも・・・・・


ひとつの事実から想像を膨らませる。
これはトテモトテモ楽しい愉快なことではないか。
 



masatukamoto at 18:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
記事検索
月別アーカイブ