November 2014

November 30, 2014

現況報告

11/24付の『到達点をメモ』で記したように、歩行距離は往復で 5~600メートル程度と僅かだが、上りや下りの坂道がある一般路なので平衡感覚だけでなく脚力も少しずつだが回復途上にあると私は信じているのだ。
s-三半規管ほか
瞬発性や持久性に筋力など脚力を総合的に見れば未だ未だ健常な時とは比べようもないし、平衡感覚も回復途上と書いたように元通りには程遠い状態ではある。

ところで、この平衡感覚について小学校
6年だったかに内耳の三半規管と蝸牛の働きによると学習したが、当時は知識として記憶しただけで耳の奥にカタツムリのようなのが入っていることに気色が悪くブルッと身震いしたような覚えがある。 これらの器官の働きについて理解が深まったのは中学生になってから歩行訓練-1だった。 三半規管も解剖図から一括りの言葉として解釈していたが、英語で the semicircular canals と表現していることから三半規管の『規』という字に円や丸いという意味があることについても理解したのだった。

記憶の連鎖から大昔のことを書いたが、平衡感覚が三半規管と蝸牛の働きのみによるものではないということをもう直ぐ 2年になろうとするリハビリを受ける過程で身を持って気付き知ることとなった。

私が今取り組んでいるリハビリの目標は杖無しで直立二足歩行を安定して行えることである。
この直立二足歩行で最も重要なことは体の傾きを感知する平衡感覚であることは言うま歩行訓練-3でもないが、平衡であるかどうかの信号を受容・認識・総合的に判断して指示信号を発するのは脳の働きだ。 その脳と身体隅々の各場所との伝達作用を担っているのが神経だ。
もっとも、脳の指示により実際に動作できるかどうかは神経伝達機能が正常であるだけでなく、各部位の動作運動機能が正常でなければならないことは言うまでもない。
が、先に書いたように平衡感覚、つまり傾きや回転などは三半規管や蝸牛が機能するのだろうが、今回私が目標とする安定した歩行を可能にするた歩行訓練-2め特に大切と気付いたことが視覚と足裏の感覚である。

実際的には体全ての皮膚、筋肉、腱、骨(関節)など全身の感覚からの信号を脳が総合するのだろうが、見えていること、地面を圧し捉えていること、この二つのことが私が直立二足歩行を行い得ていることを最も実感できることなのだと私は思っているのだ。

写真は11月28日、H.PTによる歩行訓練の際に家内に撮ってもらった動画の静止画面 3枚である。s-DSCF5701
自分自身の感覚としては杖をつかなくてもきちんと歩けていると実感しているのだが、随分のブランクがあるので自信が無かったのだ。
それで映像を通して客観的に見て評定しようと、H.PT も勧めてくれたので家内に撮影してもらったのだ。

決して良い場面だけを取り上げたのではない。
静止画なので判別しにくいと思うが、腕の振り、腰から大腿・膝関節・下腿、足首の動きはなかなか上等。 足の裏部分の爪先部にしろ踵部にしろ写真でもきちんと確認できるように足が出ている。 両手の杖はバランスを取るのに役立っているようだが地面についてはいなs-DSCF5716い。

勿論未だ未だ感が強い歩行能力ではあるが羅針盤は確かに回復方向を指し示してくれているので更に力を付けるべく頑張りたい。

ご褒美はいつも通りだが、今は酒造会社の軒に杉玉がぶら下がる時期。
ぶっはははは


いかがですか?
どないや?
いろいろご心配頂き深謝。
一応現況報告のつもりで・・・








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November 27, 2014

時々の楽しみ

今日のリハビリは S.OT との歩行訓練だったが、11/20と同じく我が家から片道250メートル程の距離を往復すs-DSCF5715るのである。
今日も多少の不安定感は感じつつも何とか杖をつかずに歩くことが出来た。 もっとも帰ってきてベッドに腰掛けた時には左右の腰骨あたりと膝の上下、つまり大腿部と下腿部の筋肉がカチンカチンでコリコリ。
s-DSCF5712僅かな距離の歩行で情けない限りだが、ベッドで全く動けなかった時や車椅子でしか移動出来なかった時と比べると、不自由で不安定であっても自分の足で歩けることの幸せを同時に感じているのだ。
継続は力、千里の道も一歩よりと言う。
中学1年、英語の時間に習った諺が思い浮かぶ。
Rome was not built in a day.
明日は H.PT との訓練だ。 今日の力を確実なものとして明日に繋げることが大切。

さて、今日のご褒美は濁り酒の五郎八(新潟県新発田)にしようか、それともs-DSCF5756樽酒・銀住吉(山形県東置賜郡)にしようか、或いは菊正宗の熱燗?

ぶっははははは
やはりエサをぶら下げることが明日への活力に繋がる・・・かな。

そうそう、エサと言えば、ちょくちょく頂くお寿司。
I さん、いつも有難う。
早く店へ行けるように頑張りまっさ。
s-DSCF5758
私だけでのうて家内の好みのものまで、おおきに。s-DSCF5753

早朝コンサートに中世の音楽のCDを加えたことを書いたが、今朝はバロックのパーセルやヘンデルの作品を聴いた。
David Munrow-1リコーダーはデヴィッド・マンロウ(David Munrow)、ハープシコードをクリストファー・ホグウッド(Christopher J H Hogwood)の演奏で聴いた。
マンロウは30半ばで逝ったが、ホグウッドらと共にロンドン古楽コンソートChristopher Jarvis Haley Hogwoodを結成した人である。



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望みは・・・

あと20日で発症から丸 2年となる。
手術を受け激痛から解放されたものの両下肢全麻痺の状態でほぼ 2年。
やっとと言うか、漸くよちよち歩きが出来るようになってきたが、我が家の階段の昇降などは未だ出来ない。s-DSCF5751
赤ちゃんが這い這いをし、つかまり立ちからよちよち歩きへと成長していく速度に比べると、回復のスピードは牛歩の如しである。

それでも何とか一日でも一刻でも早い回復をと、あがき、もがき、奮闘努力を続けているのだ。
何々したいというのは欲の心ではあるが、金銭や色情、それに食べ物などに対して貪s-Paul Van Nevel (4 February 1946)欲であるというのとは違うから神仏も許してくれるハズ・・・・・

その神仏だが、キリスト者ではない私でも宗教曲を好むし、イエス・キリストの生涯と教え、それにキリスト教史についても浅薄ながら知識として幾らかは持っている。
ヨーロッパ芸術、とりわけ音楽や絵画についてキリスト教との関係を無視して理解することは難しい。 つまり両者は密接に繋がり、それぞれの発展に相乗的に関わってきたと見るべきであると私は思っている。
そんな中世の音楽CDを我が早朝コンサートの演目に加えた。
s-Huelgas Ensemble-1
演奏はパウル・ヴァン・ネーヴェル(Paul Van Nevel)が主宰するウェルガス・アンサンブル(Huelgas Ensemble)だ。
日の出時刻が午前 7時前になっているこの時節、私の起床時刻も遅くなっているが、6時前後のまだ町も暗く静かな中、透き通るような清々しい声と古楽器の演奏は気分も体も寛がせてくれる。
s-Nakanoshima_Festival_Tower_Osaka_Japan01[1]
11月24日、家内は自身が指導を受けている先生も演奏に加わるというので、大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートを聴きに中之島のフェスティバルホールへ出かけて行った。
私が若かった頃、大阪での演奏会と言えばフェスティバルホールがピカイチで群を抜き、私のクラシックに対する欲求を満たしてくれてきた思い出の多い施設である。
それが建て替えられて2012年の冬に完成開館したのだが、私が入院生活を始めたのと同じ時だったので新しい建物の内部は勿論のこと外観も見たことがないのだ。
(
写真の著作権はフリーになっていたので引用掲載した。原典はこの文をクリックでリンク) 
フェスティバルホール
家内がイルミネーションで飾られた外観を撮影して我がPCに送ってくれたものが上の写真。
この日の演奏曲目はJ.S.Bach『マタイ受難曲』。 指揮は、
ヘルムート・ヴィンシャーマン(Helmut Winschermann)。 
名前から分かるようにドイツ人だが、何と94歳s-ヘルムート・ヴィンシャーマンなんだと。
『マタイ受難曲』は大作であり演奏時間が 3時間もかかる楽曲だが、これを超高齢の指揮者がタクトを振ったということに驚きを禁じ得なかった。
もっとも家内の話では全曲を立って指揮したのではなく、曲の進展に応じて舞台端に設えられた椅子に座ったり、また椅子から立ち上がろうとする時には女性歌手に手助けを求めていたらしい。s-DSCF5760

聖路加国際病院の名誉院長・日野原重明Drは1911年10月生まれなので満103歳。 今も現役の医師として活動しておられるように体力や寿命というのは個々人によって違うものだが、90歳を超えて元気に活動しておられることは、やはり驚愕という言葉で表現するほかない。

私も元気でいるなら生の音を聴きに行きたいのだが・・・
そんな私の気持ちを更に高めようというのか家内が公演パンフを持って帰ってきた。
s-DSCF5764フェスティバルホールでは12月9日に西本智実が大フィルを指揮してチャイコフスキー『交響曲第5番ホ短調』ほかを、10日にはスロヴァキア国立放送交響楽団とイングリット・フジコ・ヘミング(ピアノ)による『ラ・カンパネラ』と『皇帝』(ピアノ協奏曲第5番変ホ長調)が演奏される。
西本智実は未だ40代で若いがロシア音楽についてはなかなかのもの。 公演が気になる。
s-DSCF5765イングリット・フジコ・ヘミングはもう80歳くらいだろうか。 高齢であっても鍵盤を叩く力の強さやリズミカルな動きに先ず感嘆するのだ。 
そして年が明けて 2月にはプラハ・フィルの公演があるようだ。
指揮はヤクブ・フルシャ。 彼らがスメタナの交響詩『モルダウ』、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調『新世界より』を演奏するのだ。
生粋のチェコ人がチェコの楽団を指揮する。
s-DSCF5766『モルダウ』はドイツ語読み。 チェコ語ではヴルタヴァと呼ぶプラハの町を流れている大河のことである。 
そして新世界は勿論アメリカのことだが、ドヴォルザークがアメリカ滞在の折に故郷ボヘミア(チェコ)のことを想って書き上げた楽曲である。

12月の9日や10日は流石に無理だが、来年 2月ならどうだろうか。
ヴルタヴァ川の流れやプラハの町のことを思い出しながら生(なま)のチェコを聴けるだろうか。


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November 24, 2014

到達点をメモ

リハビリの成果について忘れないように記録しておくことに。

11月18日、K.PTと共にリハビリ施設から一般道へ出ての歩行訓練を行った。
施設を出たところからは上り勾配の歩道を歩くのだが、結構傾斜の強い坂道である。
今夏、お盆の頃には未だ難しかったことだが、彼岸を過ぎた頃より杖をつかないでも平坦な場所ならば少しばかりは歩けるというように歩行に安定性が戻ってきていたのだ。
それが勾配が緩やかな上り坂も、杖は万が一の事態に備えて持ってはいるが、杖をつかないでも歩けるようになってきていたのだ。
2014112406360000
それが、この日に下り坂も含めて全コースを杖をつくことなく歩き通すことが出来たのである。

そして11月20日は S.OTと共に我が家からの歩行訓練コースを。
11月21日は H.PTと共に同じコース(下図)を歩いたのだが、18日と同様に杖をつくことなく歩き通すことが出来たのである。

2014112406360001
歩行の安定感は私自身が最も良く感じており、18日より20日、20日より21日とどんどん良くなっていると思ったのだった。
理学(作業)療法士らは専門の立場から私の歩行姿勢や動作全体を観察してくれるのだが、私が感じたのと同じs-DSCF5703評価をしてくれたので、これは嬉しい嬉しいことであり特記しておかねばと思ったのだ。

道路については高さなどが不明で勾配の度合いについては分からないが結構傾斜はきついと思う。
以前は杖をついてさえも怖くて下れなかった坂なのだが、とても普通に歩くように下りは出来ないものの、イチニイチニと声をかけながら時間をかけてゆっくりとなら杖をつかずとも下れるようになった。
これは特筆すべきことだと私はほんに嬉しく思っているのだ。

もっとも、理学療法士が常に共に歩いてくれているという安心感があるからこそ出来ていることで、まだ家内と共に歩けるという状況ではない。 しかし近い、ほんに近い将来には何とかしたいし、何とかなりそうな予感もするのだ。

彼らには感謝感謝。
勿論のこと私自身にはご褒美にイッパイ用意した。
ただ少々張りきり過ぎ頑張り過ぎで筋肉疲労を起こしたのか、この連休は休養期間となった。
勤労感謝の日・・・ぶっははははは




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November 21, 2014

N とのことから(九州縦断の旅)

数日前 N の奥さんから電話をもらった。
直ぐにでもお参りしたいところだが、私にはそれが出来る状態ではないため手紙で悔やみを伝えておいたのだ。12
 N は 2度手術を受け、二回目の手術後の回復はすこぶる良かったらしいが、彼の最期は全く突然に訪れたのだと話してくれた。 立ち会った医師の話では血栓が・・・とのこと。
あまりに突然で何が何だか分からぬまま無我夢中で過ごしてきたと彼女は苦衷を語ってくれたが、語るも辛かったであろう。

 N について話している間にもいろんなことを思い出した。

 N と M、それに私の3人で九州縦断の旅をしたのは半世紀もの昔々のことだが、行く先々で沢山の親切を受けた思い出深い旅であった。イメージ-55
受けた親切の幾つかを挙げてみよう。
熊本でテント設営の場所を探していた時に声がけしてくれた婦人がいた。
息子さんを東京の大学へ行かせており、私たちが息子のように思えたのだと宿を世話してくれたのだ。
随分長い時間バス(写真は記憶に残る心象)に揺られて着いたのは多分菊池温泉だったと思うのだ。
バス停に程近い旅館の部屋へ案内された時、このご婦人が旅館の女将であることを初めて知ったのだった。
s-2014-11-20_090301
渓流に沿って設えられた長く大きい浴場、貧乏旅行では望むべくも無かった朝夕のご馳走、2月という未だ寒い時期にフワフワのお布団で寝かせてもらった厚意は今も忘れてはいない。

指宿では、当時指宿観光ホテル(現・いわさきホテル)の女性スタッフの厚意に甘えた。
年齢は多分20代前半くらいだったと思うが、ホテルを眺められる砂地にテントを張っていたところ、その女性が声をかけてきてくれたのだった。
s-2014-11-20_170219
そして当時は未だ珍しい大きくて広いジャングル風呂がホテルの施設として設けられていたのだが、そこの入浴券をもらったのだった。
温泉地にテントを張っても、砂湯は勿論湧き出る温泉に浸かるお金の余裕も無かったのだから、どれだけ有難s-サンドウィッチのイメージかったことか。
それだけではない。
明くる朝、ホテルのユニフォームを着たその女性が手作りの朝食を届けてくれたのだ。
手提げのバスケットにサンドウィッチ。
何ともオシャレな差し入れに驚きつつも嬉しく有難く頂戴したのだった。

この九州縦断の旅を特別に記憶しているのは、帰宅後にお礼をと思って書き留めていた備忘録を紛失してしまったため、親切にして頂いた方たちのお名前や住所などが分からずお礼を言わないまま今日に至っているかs-西鹿児島駅ホーム端イメージ-1らなのだ。

家内とのハネムーンの折、そして先年家内と九州を旅した折も関係する所では世話になった方たちについて尋ねたのだが、これまで一人も分からずで心残りに思っているのだ。

西鹿児島駅プラットホーム端っこの空き地にテントを張ろうと相談していた時に、我が家へ来なさいと声がけしてくれた老人がいた。
鹿児島駅から急行で一駅だからと、そう言って招いてくれた老人は伊集院のs-2014-11-16_070002農協の理事長だか組合長だかを務めている人だった。

日が沈むのが早い時期だったから伊集院の駅に降り立った時はもう真っ暗で、その暗闇の中、駅からの道を真っ直ぐに暫く歩いた所の左手に老人の家があった(ように記憶している)。
確か双子のお嬢さん、老人は孫だと言っていたように思うのだが、突然に押しかけた私たち 3人の客を快く迎えs-牛乳風呂の記憶てくれた。 お嬢さんの年齢は多分私たちと変わらなかったと記憶している。
先ず汗を流してと老人がお風呂を勧めてくれたのだが、牛乳風呂だと言われて大いに驚いたものだった。
当時、牛乳風呂という言葉は聞いたことがあったものの、牛乳とは飲むものとの強い認識を持っていたので『ええっ?』という驚きに続いて『どんなんやねん?』と強烈な関心を持ったのだった。
やや曖昧な記憶になっているが、浴室は小さなタイルが張られて浴槽は五右衛門のようだったような・・・・・。
s-1-さつま小鶴肝心の牛乳風呂だが、牛乳100パーセントのお風呂ではなくお湯に牛乳を混ぜたものであった。 でも、お湯は白濁しており、何だか勿体無いなあという思いで浸からせてもらったのだった。

入浴後は夕食膳が4つ並べられた座敷でお嬢さんの給仕を受けたが、事前の連絡もせずの全く突然の客であったのに、3人が順次入浴する僅かな時間にきちんとしたお膳が用意されたことも私には驚きのことであった。 お手製の料理で出前の膳ではなかったのだから。

白濁した牛乳風呂の印象と合わせて記憶しているのが焼酎の湯割りのこと。s-1-さつま白波
いたずら半分興味半分でビールや日本酒がどんなものか味わったことはあったし、日本酒の燗酒は母親の通夜の折、叔父に勧められて飲んだことがあった。 
12月末、何もかもがカチカチに冷え固まっていた夜、悲しみに沈み込んでいた私を一杯飲み屋へ連れて行った叔父が、「黙って飲め。」とチロリで温められた燗酒と猪口を勧めてくれたのだった。

それから 2ヶ月後、伊集院で老人に勧められるままガラスコップに入った焼酎の湯割りを頂いたのだ。
焼酎が初めてで白湯で割って飲むというのも初めて。
コップの焼酎は白く濁り、口をつけようとすると強烈な臭いが鼻を突き、ちびちびと1杯だけは頂いたが、この時以来10数年焼酎は全く口にすることが無かった。
この時に頂いた焼酎の銘柄は定かではないが、会話の内容から小鶴か白波であったように思s-DSCF5717う。

私と焼酎の出会いは初見で嫌いなものと判定、以後10数年の時を経て熊本出身の某書店社長によく連れてもらった北新地のクラブで球磨焼酎を勧められ、一応米焼酎のみ解禁とした。 しかし芋焼酎については院生らが臭くないからと勧めてくれ、それで口にした、実に初見から40年ぶりの解禁だったのだ。
ここ10年ばかりは博多の T 氏が送ってくれる芋焼酎・佐藤黒を楽しませてもらっている。
私の焼酎遍歴を語ると長くなるので省くが、先日『なつかしの味』とか『古式にごり』などと書かれたラベルが貼ってある焼酎を見つけたので買い入れてしまった。
昔ながらの製法ならば白濁して芋臭いのだろうかと思ったが、芋焼酎と初めて出会った伊集院の時のものとは全く違っていた。s-DSCF5720

沢山の人情に触れた九州縦断の旅だったが、屋久島で台風のような雨風に遭った時は役場の人が公民館に泊まるようにと世話をしてくれたし、平内の海岸温泉に近いところでテントを張った時には近くに住む老人夫婦から食事を提供してもらった。
その老主人は小舟を操り漁をし、陸では自分たちが食べるだけの耕作をしているようだった。
その爺さんが仕掛けた網を上げるので連れてやろうと言ってくれたので、私たちは午前 3時過ぎに起き、テントから爺さんの家まで真っ暗な島の道を歩いて行った。
南の島の屋久島と言えど、2月の夜明け前の海は寒くて手もかじかむ。
ようよう仕掛けた網を上げたけれど30センチほどの魚が数匹。 その中のマナガツオを爺さんが捌き、刺身として食べられるように切ってくれた。
寒いためにマナガツオの脂分が俎板にも包丁にも白くべっとりと固まってくっ付いていた。
ワサビも醤油も無かったのだが、ギトギトに脂がこびり付いたマナガツオの切り身を海水ですすいで食べるのだと爺さんが言ってくれた。
獲れたての新鮮な魚を刺身にして、それを指でつまんで海水でチャプチャプ。

全くもって初めての体験。 爺さんの家へ着いたら婆さんが美味しい味噌汁とご飯を用意してくれていた。

 N とのことから思い出が尽きない。 何もかも感謝、感謝である。





masatukamoto at 16:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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