March 2015
March 30, 2015
合縁奇縁
NHKのテレビ番組『私の秘密』の冒頭、高橋圭三アナウンサーが語っていた名口上である。
先日(March 10,2015)の当ブログ『縁・・・』で、『私の住まい探しに結婚披露宴を企画進行してくれた Y氏との邂逅は将に合縁奇縁と言うに相応しいものであった。』と書いたが、
Y氏と私の出会いは
将に小説よりも奇なるものであった。
古い話だが私が高校3年の秋の某日、学年遠足で観光バスを連ねて比叡山・延暦寺の見学に行った時だった。
当時の生徒数は多く、チャーターしたバスは10数台。
だから広い駐車場にバスが到着した順に根本中堂(写真)の見学に向かったのだった。
比較的早く着いた私たちが根本中堂への道を歩んでいた時、「会長、会長。」と息せき切って追いかけて来る者がいた。応援団と柔道かアメリカンフットボールの者だったと思うが、私よりデッカイ連中がハアハア言いながら私に駐車場に戻って欲しいと言ったのだ。
駐車場で他校の連中とヒト悶着あり、双方が集団で対峙して一触即発の事態になっている。
全体の喧嘩になれば大騒動になるから1対1でケリをつける。だから互いに大将一人を出すということになったんだと。
先生たちはどうしたと尋ねたが既に根本中堂へ行っていると。
最初の見学地で全く降って湧いた迷惑な話であったが、生徒会の会長としては話を受けて出ざるを得ず、駐車場への道を駆け戻っていった。
『駐車場で高校生大乱闘』『怪我人多数』等々、新聞の見出しが頭に浮かんだ。
喧嘩は嫌いだし、当然喧嘩上手でもない。
相手が何者か分からないが、1対1で勝負するとなれば図体大きく喧嘩強い奴が出て来るのだろう。
喧嘩は強くないが、少々ならどつかれても蹴られても我慢は出来る。
そんなことをいろいろ考えながら駐車場に戻った時には腹が座っていた。
山中に造成された広い駐車場の端と端に双方のバス群が駐車していたので、駐車場の中央は球場ほどの路面が広がっていた。
相手方はボタン無しの紺色制服を着た数百人の集団で、彼らが乗ってきたバスを背に二重三重に壁を作って居並んでいた。我が方は金ボタンの黒色詰襟服で、既に根本中堂へ向かっていた者たちを除く300名ほどの生徒が対峙していた。
先方中央にいたのが左右に供を連れてゆっくりこちらへ歩み始めたので、私も柔道部だか応援団だかの猛者を二人従えて駐車場の真ん中へ歩き始めた。
近付くにつれ私よりも随分背の高い奴だと分かってきたので、相手の弱点はどこか、私の優位性はと様々な喧嘩のシチュエーションを脳裏に描きながら駐車場中央へ進んだ。
1対1での喧嘩ということだったので10メートルばかりの距離をおいて双方の供と離れ、私と背の高い奴が近付いて行った。
《 やむを得ん、やるか。》 と、腹を決めた時、
「おっ、〇〇やないか。俺や俺や。」
「・・・・・???」
「ほら、子ども会リーダー講習で・・・」
ううん? ああ、そう言われれば・・・
この「俺や俺や。」こそ、件の Y氏だったのだ。
私の記憶がはっきりしてなかったのだが、相手が覚えてくれていたのだ。
記憶というのは余程印象深いものでない限り明瞭には残らぬもので、まあいい加減なものである。が、ぼんやり霞んだ記憶であっても、その前後の事象など関係することを提示されることで靄が晴れることも多い。
この時の私もそうだったのだ。
この騒動一件、我ら二人の預かりとしてその場で決着。
鼻血、青あざ、センセーショナルな新聞の見出し等々、何事も無く平穏に遠足を終えることが出来たこの日の Y氏との出会いは将に奇縁と呼ぶに相応しいものだった。
私も Y氏も当時共に大阪の高校に在籍していたが、その学校所在地は大阪市内と大阪府下と随分離れ、学校間交流も無く、互いにその学校に通っているということも知らなかった。
遠足先が滋賀県・比叡山延暦寺であり、同月同日同時間帯に訪れたが当然事前の打ち合わせなど無かった。
双方に揉め事が生じなければ関わり合うことも無かったし、大将同士 1対1 での決着と話が決まり、その代表がたまたま我が校は私で相手校が Y氏であったと。
この件にのみ条件を絞ってみたが、いわゆるヤラセなんてものは何も無いのだ。
ココに至るまでのことを掘り下げてみても 1+2 が 3 となるようにキチンと因果関係を説明できるようなことは何ひとつ無い。
このように必然性も蓋然性も考えられないことを偶然などと呼んで済ませていることが多い。
済ませるかどうかは個々人の勝手だが、私には何だか人智を超越した見えない力が働いているように思え、こうした働きの結果として表れ来たる状況を『縁』と受け止めるようにしてきたのだ。
つまり Y氏との邂逅は将に奇縁であると。
この件以降、Y氏と私は互いに名前で呼び合う間柄となり、子ども会リーダー養成のため共に高校生の指導にあたってきた。 その一環として東京・新宿御苑での実地指導に出かけたりもした。
私の住まい探しを共にしてくれたのが Y氏だったことを書いたが、一人暮らしを始める私の部屋に電気冷蔵庫など必要な生活備品の幾つかをくれたのも彼だった。
当時神戸・板宿に住んでいた Y氏夫妻が大阪の奥さんの実家へ転居することになったので頂いたのだった。
奇縁が合縁となり長く付き合ってもらっている。
感謝、感謝である。
※ 添付写真について
上から5枚の写真は借り物。
6枚目は私のご飯に混ぜているものだが、発芽玄米、黒米、赤米、大麦、はと麦、白ゴマまではまあ良しとするが、他に黍(きび)、粟(あわ)、稗(ひえ)といった小鳥のエサのほか、わけの分からんアマランサスという物も入っとるらしい。
ギンナンは 田舎から送ってきたからとO氏より頂いたもの。茶碗蒸しのほか、焼いたり素揚げにすると酒の肴として絶品である。
クラシックは北海道限定のサッポロビールだ。私が好きなのを知ってる息子が土産に持ち帰ってくれた。重いのに有難う。
ALIVEはジャズ・ピアニスト、HIROMI(上原)のCD。
佐藤黒は博多の T氏が送ってくれる芋焼酎。
上の写真はモクレン。
家内が散歩の道すがら、季節を感じられるものがあれば携帯電話で写真を撮って私のパソコンに送ってくれるのだ。
March 26, 2015
あったかいんだからあ・・・
今朝も結構冷え込んでいたが、ここ数日の寒さとは随分の違いを感じた。
寒の戻りと言える昨日や一昨日のような朝はなかなか起きにくいもので、そのような日は障子が白くなるまでミノムシのように布団にくるまってジッとしていることにしているのだ。
したがって早朝のコンサートは自動的に休演となる。
今日は法華の太鼓ではないが時間を経るにつれドンドンお天気が良くなり、S・PTとの歩行訓練も気持ち良いものとなった。
以前にも何度か歩行訓練の状況について書いたが、雨や雪が降っている天候下での屋外歩行訓練は出来ない。 その理由は簡明で、両手に杖をつかねばならない状態で傘を持つことは困難と言うより不可能なことだから。 しかも足元いまだ不安定な現況で濡れた滑るかもしれない路面を歩くことは頗る危険な行為で、三歩進んで二歩下がる程度どころか何十歩も下がって別な障害を生むこともある程に危ないことなのだ。
そのほか風が強いのもアブナイのだ。
向かい風の場合はまだしも、追い風の場合は自分の思う一歩の距離がグンと伸び、と言っても僅かに数cmのことだが歩幅が予想外に広がり対応出来ずに転ぶことがあるのだ。
横風を喰らうと吹き飛ばされるとまでは言わないにしても吹き倒される危険性をこれまでにも感じてきているのだ。
健常な時には不安の『ふ』すら感じなかったことが今は命を守る上での大問題になっているのだ。
ただ歩くというフツウの行動が不安定ゆえ、歩行訓練を行っている時の体の緊張状態は何とも表現し難いが、体全体がカチンコチンで関節が自由に動かないのだ。
それに寒いという環境条件が加わればカチンコチンの体が
一層強張って訓練どころではなくなるのだ。
だから今日のように暖かい日は『メッチャ嬉しい』のだ。
早朝のコンサートは今日も休演にしたが、家内が美容院へ出かけた今、丘の斜面に建ち並ぶ家々を眺めながら音を楽しんでいる。
暖かそうな陽光を反射している白い壁々。
何だか気分も浮き浮きルンルン華やぐ思いが・・・・・
今は珍しくマーチを聴いているのだ。
英国の『 Coldstream Guards 』。
女王陛下の・・・・と思いながら聴くと、より脳裏の映像が広がり楽しさも倍増する。
もっとも力強いマーチを聴こうと思えばアメちゃんの陸海空などの軍楽隊の方が良いが。
今日はカラヤンがベルリンフィルのブラス・オーケストラを指揮してのドイツ&オーストリアのマーチも。
ついでにバーンスタイン指揮のNYフィルのマーチも。
何てったって今日は、
『 あったかいんだからあ・・・』
うふふふふ
March 22, 2015
春分の日に
歩行訓練も気持ち良くのびやかに出来た。
日の出の位置も私が座る定位置から望める所まで戻ってきてくれた。
このように暖かい日が続くようになれば今以上に訓練量も増えて回復度合いも一層進むような感じがするのだ。
彼岸とは字の通り彼の岸。 仏教では浄土世界があるとされる所である。
阿弥陀如来がおられる西方極楽浄土、薬師如来のおられる東方瑠璃光浄土、補陀落(ふだらく)渡海に見る南方の観音浄土、弥勒菩薩が住まう北方の兜率(とそつ)浄土ぐらいは私でも知っている。
精神的肉体的苦痛も苦悶することもない清浄無垢な世界が彼岸にある浄土で、その反対側の岸、つまり此岸(しがん)、私たちが住む現世である。
子どもの頃、お浄土に一番近付くのがお彼岸だからお墓参りをするのだと祖母に聞かされたことがあった。
だからと言うわけではないし仏教徒でもないが、お彼岸にはお墓参りにとこれまで自然と足が向いていた。
しかし、単独での安定歩行が困難な今は遠慮するほかない。
彼岸が明けて墓参者が少なくなった頃にお参り出来るよう努めることとしよう。
写真のお花は娘のMと孫のHからのプレゼント。
三時のおやつに時々食べていた干し柿も残り少なくなってしまった。
皮むきは柿渋で手が汚れて手間のかかる仕事だし、何個もの柿を吊るすのは重く家内にとっては余分で大変な作業であった。
今回の分はヒヨドリとメジロにも随分分け与えてしまったが、彼らに盗られたという思いは無い。
彼らが啄んだ分は彼らに食べさせ、それ以後も彼らが食べて無くなれば新しい干し柿を置いてやった。
「 食べに来たかな?」
家内と私の日々の関心事になってしまった。
March 17, 2015
春が・・・
我が家の近くでは10日ほど前から枝垂れ梅が見事に咲き誇っている。
家内が携帯電話で撮ってきてくれたのだが、私の歩行訓練コースからも眺められる立派な庭木だ。
14日の夜に二月堂のお水取りが終わり、15日(日)朝に修二会満行。
これで大和路もいよいよ春を迎えることとなった。
暑さ寒さも彼岸までと言うが、明日(18日)はもう彼岸の入りとなる。
今日は濃霧の朝となったが、連日稼働させてきたエアコンも今日は静かな状態を保っている。
寿司屋の大将 I 氏が届けてくれた鉢には春到来を告げるホタルイカのほか、活タコにコハダ(酢〆め)が盛られていた。
コハダ=コノシロだが、こやつは小魚で身が薄べったい上に小骨は多いしウロコが多く、自分で料理して食べようなどとは思わない魚である。
しかし、開いて骨取りしたものに塩をして酢に浸すという手間をかけ丁寧に料理したコハダは美味しく戴けるし、江戸前の寿司のネタとしても欠かせない代物である。
コノシロとは異なるが、小魚で身が薄く、小骨やウロコが硬くて多いのにアブッテカモ(スズメダイ)がある。
アブッテカモというのは博多や長崎あたりで呼ばれる名前だが、この名の通りアブッテ食べるものだが私は苦手だ。
ホタルイカはボイルしたものが店頭に並べられるのが一般的であり旬を表す食べ物のひとつとしてよく知られている。
それがいつ頃からだろうか、生のホタルイカがスーパーなどでも見られるようになってきたが、やはり少しばかりムイムイちゃんが気になるので私は買わない。
ホタルイカの刺身は料理屋さんで出されるものだけを食べている。
春を感じさせてくれるものにノレソレ(下の写真)もある。
家内が珍しいものを見つけたからと買ってきてくれたのだ。
アナゴの子どもだと聞いているが本当のところは知らん、が、透き通った稚魚?幼魚にポン酢をかけるだけで立派な酒肴の一品となるし、唐辛子を一振りすれば一層美味くなるのだ。
もう20年近く以前になるが、
ノレソレを初めて食べた長男がアレコレ得意げに話してくれたことを思い出す。
ノレソレを食べたことがなかった私は、長男の話からシラウオのことだと思って聞いていたのだった。
このふたつの魚、形状は確かに似てはいるのだ、が違うのだ。
そしてシラウオに似た名前のシロウオ、これは姿も色合いも違うのだ。
それぞれの違いについて参考までに写真を。
いずれも春を感じさせてくれる小っちゃな魚だが、シロウオはイサザとも言い、以前に博多の銀寿司で頂いた時のことを当ブログに記していた。
テーマは《久し振りの『博多・紀行』 続き【3】春を味わう 博多・中州・銀寿司》(March 28,2009)だ。青色の字をクリックすればリンクする。
旬を味わう、味わえることは素晴らしく素敵なことである。
だが、旬とは言えないが高野豆腐も好きだ。
子どもの頃は好きではなかったのだが、凍り豆腐とか凍(し)み豆腐とも言う高野豆腐を美味しいダシで煮たものが今は大好物なのだ。
家内の味付けが我が母親のものと同じになってきたような・・・・・
子どもの頃は好きじゃなかったオカラも、干し椎茸の煮物だって今は大好き。
今は家内の味がサイコーなのだ。
《つけたし》
『やたがらす』は八咫烏と書き、写真の日本酒は奈良・吉野町(上市)の北岡本店の商品だがラベルがオモロイので買ってみた。
八咫烏は神武東征の際、紀州・熊野から大和への道案内をしたと言われる三本足のカラスで日本サッカー協会のマークでもあるし、熊野・那智・速玉の熊野三山における神の使いとされているものだ。
関連する当ブログのページ。
『建国記念日によせて(February 11,2014)』。《クリックでリンク》
日本の料理には日本酒がイチバン。
嬉しき来客
昨年11月30日に挙式した娘扱いの一人・Aが夫君を連れて我が家へ来てくれた。
Aはこれまで何度も来ているが、二人で来てくれたのは今回が初めて。
休みなしで働く夫君と日程を合わせることが難しかったようだが、結婚の報告と挨拶に来てくれたのだ。
Aがお付き合いしている人がいるということは随分以前から知ってはいた。 が、この度あらためて二人の馴れ初めから此れまでのことを聞いたのだが、何と13年もの長い道を歩んで来たのだと言う。
付き合いの期間が長くなった最大の要因は彼の勤務していた会社が傾き、離職、転職を余儀なくされ、そのため収入が不安定になったことだったようだ。
13年もの長い道のりの上では他にも様々な困難な条件があったようだが、ひとつひとつの問題を二人で乗り越えてきたようだ。
この日、新婚夫婦とともに久し振りに遊びに来たのが娘のMと孫のH。
Mが退職するまではAと同じ会社に勤めていたので言うなれば職場の先輩と後輩といった間柄である。
A夫妻の仲の良さはよく分かったが、とりわけ彼女に対する優しく思いやりの深さが感じられる夫君の言葉や態度でコレはホンモノやなあと思った。
孫のHの相手をし、近くの公園へも遊びに連れて出てくれたりしたが、Hの扱いやHの彼に対する親しみの仕草などを見ていても彼の優しさが感じられ、なかなか好感の持てる人物だと私は受け止めたのだ。
孫のHは寿司の厚焼き玉子ばかり食べておった。 それにイチゴが好物なのか抱え込んで、むむむむむ。
ババ殿は終始ニコニコしておったが、どうもHと私は好物面では敵対関係になりそう・・・・・・ぶっははははは。
何でも出来る、言わばそつの無い娘・Aだが、二人を見ていると既に亭主を尻に敷いているのではないかと・・・・・
ぶっはははは
『夫唱婦随』という言葉があるが、我が家での様子は『婦唱夫随』であったような。
まあ時に応じ事柄に則して臨機応変にやれば良いのであって、
『仲良きことは美しき哉』だ。
とにもかくにも、幾多の困難を乗り越えて夫婦としての道を歩むことを決意した二人に心よりのお祝いと熱き声援を送ることにする。