October 2015

October 31, 2015

思いを・・・ (10月の終わりに)

昨日は神無月の晦日。
今日は10月の最終31日の土曜日。s-2015-10-30_140658
神様たちも週休2日制を施行しておられるなら、私が住まう地の神様も今日には帰って来られるのかも・・・・・

先日、機能回復の過程で次々現れる伏兵にウンザリだと書いた。
回復の道は富士山頂への登山道の如く急勾配の登り坂ばかりが続くわけではない。精神的体力的には急峻な坂道を登るに等しいが、回復の度合いが共に大きい効果を見せるものでないことは既に学んできたことだ。
傾斜が極度に緩やかで水平に近い道であっても、徐々に徐々に本当にゆっくりと牛の歩み以下のスピードであっても回復への上り調子の道を歩んで来たように思っていた。
s-2015-10-30_134504ところが7月の半ばに膝の痛みが起き、これは登った所から一気に谷底へ落ちたようなものだった。
養生と僅かな運動を行うことで元の場所へ戻る道を辿り始めたが、今度は左足親指の爪を痛めて10日分ばかり谷へ転げ落ち、それでも這い上ろうと7日ばかり頑張ったところ、今度は右足の親指の爪を痛めてしまった。

健常な時でも足の指が痛ければ普通には歩けないものだ。痛みを庇うために不自然な歩き方となるが、両手に杖を必要とする者にとっては歩くことそのことが不可能と言うに近い状況となるのだ。
これで又々回復のために10日間ほどを要し、さて気持ちを入れ替えて頑張ろうと思った矢先、ベッドから立ち上がろうとしたところ、
『ううっ』。

ぎっくり腰??
痛みは同じ、痛みの場所も・・・
50年も昔の学生の頃、三度ばかり経験しているのでよく分かっている。
コレをやってしまうと1週間から10日程度はマトモに動けないのだ。s-2015-10-30_134246
しかし昔の経験による知恵が働いたのか、アブナイと感じた瞬間に体の動きを止めて安静にしたのだ。このことが幸いしたのか5日程度で痛みは治まった。

それにしても次々と現れ出る伏兵にはほんにウンザリである。
雪洞に籠って待つのはイヤだ。
雪に覆われた線路を勢いよくラッセルして走る気動車のように回復の道を歩みたいものだ。  


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October 27, 2015

近況《短信》

10月の第一日曜日(4日)のことをブログに書いて暫くになるなあと思っていたら木枯らし一号が吹いたと気象台s-2015101016170001の発表があった。
その日が25日、10月第四週目の日曜日だった。
24日(土曜)の夜中からだったろうか、25日の日が明けてからも夕刻まで強い風が吹いていた。
屋外に出ることが出来ない私でも窓外に見える木々やテレビアンテナの揺れ具合で風の
有無や強弱についての理解は出来る。
それに強い風だと風の唸りが室内にいる私の耳にも入ってくるのだ。
『木枯らし』
言葉の響きだけでもサッブイ感じがするのだが、風が唸りを上げるものだから、良い天気なのに足元から背s-2015101110290000中、首筋まで寒さを感じたのだった。
まだ10月なのに・・・との思いでいたら、昨年より2日も早いのだと。
25日(日)、26日(月)、そして今朝もだが、ダウン・フェザーのチョッキに毛糸のネック・ウォーマーを身に着け、足元は暖かい部屋履きといういでたちでいるのだ。

風邪を引いたから医者のもとへ・・・と直ぐには動けない身体ゆえ用心用心。
病を得て以来温度に対する感覚が鈍っているのであろう、寒いと感じた時には既に感じた以上に体が冷え込んでいるというのが実際であり、一歩先、一歩先にと家内が用意してくれるのだ。s-2015101110330000
箪笥の開け閉めが出来ないから衣服の出し入れも自分では出来ない。
衣服の着脱はベッド上で座りながら、時には横になって何とか可能である。
腹から上の部分には行動の
障害になることが無いので、このことはアリガタイことだ。
立っていること、しゃがむこと、歩くこと、この3つのことが回復・可能となれば・・・・・
s-2015101110360000階段の昇降や走ることなど願いとしたいことはいろいろあるが、今の願いは先に挙げた3つのことが安定して出来ることだけ。




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October 14, 2015

10/4 (日曜)のこと

10月4日開催の『ジジ&ババの集い』について書いてきたが、家族や友人たちの助けを得て楽しい時を過ごすことができ、私はとても嬉しく思ったのだ。
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昨年、京都・祇園における集い以来の顔合わせという楽しみは勿論のこと大きいものであったが、その他にほぼ3ヶ月ぶりに外の景色を眺めることが出来たという喜びもあったのだ。
毎日私の定席から窓外の景色は眺めてきたのだが、額縁に収められた絵画を眺めるのと同じで窓枠から見える対象の構図は全く変化しないものであった。
7月初めに見た田んぼや野原は一面濃い緑色であった。 それが今回車窓から眺めた田んぼは黄金色に、野原ではススキが薄茶色の穂を揺らし、柿の木の枝には食べ頃の実が鈴なりにと、外の景色は色合い共に随分変化していたのである。
ROSE-1浦島太郎ほどではないにせよ、月日の移り変わりに感じ入ったものだった。

『ジジ&ババの集い』と書いたように孫のことも話題となった。
ジジ・ババが孫に対して甘く接する心情や状況などについて理解できるとか、孫は孫でジジ・ババに対する時の姿勢が両親に対する時のものと違っているとの指摘もあった。
が、やはり子育ての責任は両親にあることや、子どもの成長を社会全体で支援(実際指導も含め)することを考えるなら、ジジ・ババとしては両親の育成方針を補完し、責任ある社会人として孫と付き合うべきだろうと、まあこれは場の雰囲気を踏まえ、やや広げ気味に私は受け止めたのだがK女史は実践しているのだと。s-2015101110330001
つまり恐ーいババアというわけか。

やたら短絡的な、それも殺人と言う重大な事件が多発していることも話題となった。
半世紀の昔に比べると情報化が格段に進んだため事件報道が多くなったのではと割合を指摘する声もあったが、何でもかでも直ぐに結果・結論を見出し価値を与えようとする人々の価値観の変化にも要因があるのではとの声も。
価値観の変化や結果(成果)主義の話から離婚数が増えていることにも話題が広がった。
昔なら離婚という事実を明かすこを避けたが最近はバツイチだと伏せることの無い社s-2015101110350000会になったと語った者の息子がバツイチだっただけでなく、集い出席者の息子・娘の3割が離婚経験ありと。
うーーん・・・

その他、夜遅くにコンビニ前にたむろする小中学生のことや、女性の社会参加に関する京大での調査と取り組みの報告など、井戸端会議の話題からアカデミックな話題まで出て、冒頭に嬉しく思ったと書いたがその嬉しさが如何ほどのものであったか少しくらい伝えられたろうか。

私の好きなバラの花の写真を撮って上に掲載しておいた。
続いての写真は、サー・コリン・デイヴィスがバイエルン放送交響楽団を指揮しての『エニグマ変奏曲』(サー・E・W・エルガー)と『交響曲第6番』(R・ヴォーン・ウィリアムs-2015-10-05_095515ズ)のCDジャケット。
それにラファエル・クーベリック指揮の『交響曲第8番』(J・A・ブルックナー)のCDジャケット(演奏・バイエルン放送交響楽団)。
今朝久し振りに朝のコンサートを開いて聴いたものだ。

10月4日のことだが、夜は写真のカレーライス。
雑穀入りのご飯に息子が持ってきてくれたカレーを載せたのだ。
息子が作って持って来てくれたことも嬉しかったのだが、普段はご飯も、ましてやカレーなどは食べさせてもらえないものだから嬉しくて嬉しくて。
s-2015-10-05_091824こうした差し入れについては『特別許可』で普段は許されないのだ。
私としては連日毎食の差し入れを望みたいのだが・・・・・

喜びの表情は紹介出来ないが楽しく嬉しい一日だった。
と思っていたのに・・・・・

この夜、うつ伏せになって伸びをした拍子にベッドの板を勢いよく蹴ってしまったのだ。
そのため足の親指の爪が指肉に食い込み、またまた歩行不能に陥ってしまったのだ。化膿してヒョウ疽になるのが心配だったが消毒を続けてきた結果、今日は痛みも無くなっている。
それにしても回復への途上次から次へと出現する伏兵にはウンザリである。


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October 12, 2015

ジジ&ババの集い 《2》

黄檗山・某塔頭寺院の住職H氏との付き合いは古く、半世紀を越えてしまった。
児童心理の共同研究で知り合ったのだが、神戸のNや名古屋のTとも同じ時であった。
宇治は源氏物語の舞台にもなっている古くからの町ではあるが、50年前の宇治は今ほど開けてはいなかった。
夜も8時ともなれば真っ暗と言っても良いほどだった。
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その宇治の縣(あがた)神社の祭で毎夏6月の深夜に行われる梵天渡御というのがある。 この祭儀式の間、ただでさえ暗い宇治の町中の明かりという灯りのすべてが消され全く漆黒の闇に陥るのだが、その夜、当時五條に住んでいたF氏の下宿からH氏やW氏(故人)らと共に黄檗のH氏の寺まで歩いて行ったことをよく覚えている。
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以前に開祖の法要で馳走になったのは山門前の普茶料理店『白雲庵』であったが、今回H氏が手配してくれたのは本山の『黄龍閣』であった。
普茶料理とは精進料理のことで高野山の宿坊で供される料理とはよく似ていて私には明確に区別できない。
それぞれの席にはご飯用の椀と料理を取り分ける椀と皿に箸が揃えて置かれていた。
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上の写真の右上は、ほんの僅かだが甘味を感じる『ふ』のような菓子。デザートの一品だろうか、家内も私も持ち帰ったものだ。
右上に示す菜単(ツァイタン)、メニューの通り先ず笋羹(シュンカン)という野菜の煮物が大皿に盛られて出て来る(下の写真)。
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この笋羹と共に写っているのは麻腐(マフ)と呼ばれているが胡麻豆腐のことだ。
天ぷらのような揚げ物など様々な料理が供されたが、驚き感心した料理があった。
下の写真はどう見ても柿である。
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右の2個が本物の柿だが、5個は柿モドキである。
茶色のはゴボウだったかな。
下の写真も、どう見てもイガグリである。
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葉っぱは本物の栗の木の葉で、イガの中の黄色いのは栗の甘露煮(多分)。
多分とカッコ書きにしたのは、ホンマに間違いないかどうかビミョーな感覚に陥ってしまったからなのだ。
下は黄色いクリを食べた後のイガ。
ジャガイモを裏ごししたような素材に茶素麺?のようなものをくっ付けて揚げているもの
だと思うが、よく出来ていた。
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もっとも本物のイガなら口の中へ入れることも出来ないが、まったく・・・・・

全てを紹介出来ないが、豆腐と海苔を使って作られた鰻モドキ(右)も良い味であった。
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久し振りに食した宇治の『茶だんご』はH氏が用意してくれたお土産。
〔 合 掌 〕

私と家内は迎えに来てくれた息子の車で帰宅したが、他の出席者たちは宇治上神社から宇治川を渡って平等院を見学後に京都駅で解散したらしい。

この日の記念写真ファイル、何とか頑張って製作して今年中には送れるようにガンバルつもりだ。


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ジジ&ババの集い 《1》

ジジ馬鹿・ババ馬鹿と言えば失礼にあたるが、10月4日の日曜日にジジ・ババたちが京都・宇治に集うた。
今回で4度目になるが、神戸のNと名古屋のTが呼びかけ、以後Nが企画実施してくれている年に一度開催のs-2015-10-12_110952同世代人の会合である。
※ 青色の字の部分をクリックすれば該当ページにリンク。 
第1回目は
滋賀県長浜と竹生島巡り
第2回目は大修理中だった
兵庫県・姫路城の見学
残念ながらこの回はとても歩ける状態では無かったので欠席したが、出席出来なかった私への配慮からか会合の様子を話してくれたり姫路城の記念品や赤穂の塩饅頭などを頂いたりしたことを記憶している。
斯様にNという奴は気配りこまやかな男で、今回の集いでは姫路城の大修理完了を記念s-2015-10-12_111148して発行された切手シート2種を出席者に配るという気遣いまでやりよった。
第3回目は
京都・祇園『中村楼』での食事と渉成園などを巡った昨年の集いだった。
家内には付き添いと介助を、息子には車での送迎を頼み、私自身は両手に杖と、まだまだ歩行困難な状況の中『中村楼』での食事会のみ参加したのだった。

そして今回が第4回目だったのだが、7月半ばに強烈な痛みを膝に感じて以来両手を杖で支えても歩くことが困難な状態が続いていたため出席することを躊躇していたのだっs-2015-10-05_103440た。
それが9月の末になり、7月に痛みを感じた直前の状態には遥かに及ばないものの何とか少しばかりならノロノロでも歩めるようになったので、せめて食事だけでも皆と一緒にと思って現地とそこに辿るまでの道筋について調べたのだった。

健常ならば何を心配することも要らないのだ。交通費、会費、入山拝観料など金銭さえ持っていれば大概のことは問題ないだろう。
しかし私の場合は違う。
s-2015-10-05_155652付き添い介助が必要なので家内が私の予定に合わせてくれねばならないし、通常の交通機関を利用することが困難なので移動のための車と運転手の確保をせねばならない。
秋の日曜日、平等院鳳凰堂の修理も完了した。普段でも観光客が多く年中交通渋滞が起きている宇治である。
渋滞や思わぬ事故で車が動かなくなった時の手洗いは?
駐車場は確保出来る?s-DSCF6586駐車場から食事会の場所までの道は坂道?石段?路面は舗装してるか?歩く距離は?。食事の場は椅子席?(正座も胡坐をかくことも出来ないのだ)。手洗いは洋式?障害者(車椅子)用?
今の私にとって少しの移動をすることも正直に言ってタイヘンなことなのだ。

それで今回の食事について実質的に世話をしてもらったH氏と電話で話したりして疑問を解決し、当日は息子の車で萬福寺へ向かった。
H氏が住持を務める某塔頭寺院の門前で車を止めたところ、車椅子を一基用意してくれていた。
H氏は他の参加者たちを山門で迎え、境内を案内してきたとかで神戸のNと共に私たちのいる所まで来てくれた。
s-s-DSCF6575
上は家内が撮影したので家内は写ってはいない。
車椅子は後ろのNが押してくれたが、境内は広いので車椅子を用意してくれたことも車椅子を押してくれたことも有り難く感謝感謝であった。 【つづく】


masatukamoto at 15:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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