December 2015
December 27, 2015
昔のこと
なかなか見舞いに来れなくてなどと言葉をかけてもらったが恐縮するのはこちらの方である。
長兄が来年は満年齢で米寿。長兄とは二つ違いの次兄だから現在は85歳のはず。
家内にとっては物心両面において父親の代わりを務めてくれた兄たちであり、当然私にとっても大切な存在である。
末弟が兄たちのことを気遣うのが筋であるが現況は全く情けない状態で申し訳なき限りである。
三兄も四兄(姉婿)も新制の出だから大概の話の内容は説明を求めなくとも凡そは理解できる。
しかし次兄は旧制高校最後の卒業生であり、その時代性を共通・共有できない私は我が知識を総動員させて状況・情景を推測形成し、次兄が語ってくれた様々な話の理解に努めた。
家内が生まれる前の実家や町の様子、両親や親戚のこと、自らの思いなどなど。家内からは聞き出し得ないことばかりで、その時代ゆえの数々の苦労を経験してこられたのだと、またまた少しだけ理解が深まったように思ったのだが・・・・・
それにしても家内の兄弟姉妹は皆さん揃って元気なことに感心である。
December 25, 2015
お出かけ
私にも出来れば嬉しいことだが、家内のお出かけ、それはそれで大変嬉しく喜ばしいことである。
私の介護の為に家内自らの時間を潰して欲しくないという私の願いを以前に明かしたことがあった。勿論家内の介助無くして今の私の生活が成り立つわけではないので手助けが欲しいことに変わりはない。
とても我がままではあるが、手助けは欲しい、かと言って私が家内の自由な時間を拘束する状況を望まないという真に自分勝手で矛盾したことを願っているのである。
矛盾という状況が分かっていながら猶乞い願うところが我がままの最たるところだ。
が、まあそれはそれとして家内が出かける機会が以前に比べ増えていることは事実で歓迎すべき状況になってきている。
家内がお出かけするのはお友達からのお誘いによることも多く、そうした意味で家内のお友達に対しても私は感謝せねばならないなあと思うのだ。
そうした家内のお友達の中の一人、Sさんのご主人が作った大きいブロッコリーが下の写真。
以前にも書いたがSさんのご主人は長年の銀行勤めを終えて農業を始められたのだが、ここ何年かの作物を見ていると、とても初心者とは思えない出来栄えに私は大変驚き感心しているのだ。
下はSさんのご主人が育てた親芋に子芋がくっついた状態で掘り上げられた里芋。
知識としては私も家内も知っていたが、実物を見るのは初めてのことだ。
都会に育った私が知らなかったというのは頷けることだが、田舎に育った家内が初めて見たと言ったのには驚いてしまった。
新聞がスケールの代用になるかと思うがデッカク、とても重いのだ。
この親芋の上に芋茎(ずいき)と呼ばれる葉柄があるのだが、それをカエルが傘にすればマンガ絵になるかと思って描いてみた。
この葉柄の茎のように見える部分を煮物や酢の物にして食べる部分が『ずいき』であり、繊維と直角に切ると細かな網目のような維管束を見ることが出来る。
寿司屋の大将Ⅰ氏は、この部分を薄く切って刺身の『つま』として用いることがある。
芋茎は赤い色をしたものが煮物として多く使われるが、刺身の『つま』として用いられているのは里芋と同じ仲間のハスイモの葉柄で、皮の部分は緑色、網目の部分は左の写真のように黄緑色から白っぽい色であることが多い。
『芋の子を洗う』という表現がある。
石川だったか長野だったか田んぼの脇を流れる小川の流れを利用して木箱を水車のごとく回転させているのを見たことがあるのだ。
この木箱、八角形の手回しの籤(くじ)抽籤機のようなものだった。
これは木箱の中に子芋を入れ、小川の流れを利用して木箱をグルグル回転させることによって子芋の皮を剥ぐという優れものなのだ。『芋の子を洗う』・・・状況がリアルに思い浮かぶ表現で、言いえて妙と。
ともかくSさんが家内を誘ってくれることと、ご主人が育てた作物を届けて頂けることは家内や私にとり、とっても嬉しいことなのだ。
嬉しいと言えば私の場合、出かけた家内が外でのことを話してくれる報告も楽しいのだが、『おみやげ』として持ち帰ってくれるモノも楽しみなのだ。
December 24, 2015
冬 至 (12月21日)
毎年この日は煮た南瓜を喰らい、柚子風呂に入る。
昔のことを思うと何とも贅沢なことだが嬉しく有難いことである。
柚子は皮を剥いて細く切り刻み蜂蜜と混ぜて私のためのマーマレードを作るが、勿体無いので果汁も酢の物などに用いている。
農作物は大きさや品質で『L』や『M』『S』、『優』や『秀』『良』などでランク分けされるが、今年仕入れた柚子は『SSS以下』、『不可』のランクに位置づけられそうな品物である。
昨年までは1ケが120円~150円もする京都・水尾の里の柚子であった。
これは流石と言うか、大きく綺麗な金色の柚子で香りは抜群の『別格』に位置づけられるほどの物であった。
しかし風呂に入れる柚子も必要だし、マーマレード用の皮は細く刻んでしまうので香りさえあれば見栄え外見に拘るものではないので今年は安い物を数多く購入した。
上の写真がその一部だが、将に痘痕も靨(アバタもエクボ)である。柚子というだけで全て良しだ。
冬至の日、足の痛みが強くて入浴を断念。(脱衣室入口から浴室へ、そして浴槽への移動が出来なかったのだ)
でも明くる23日(天皇誕生日)、家内の介助で柚子風呂に。
もっと沢山湯面イッパイに浮かせても良かったのだが、ちょっとモッタイナイ気分が出て、顔が黒いのやピンポン玉のような小さい柚子を10個入れて柚子湯とした。
たった10個、されど10個、柚子に違いはなく香りサイコーの柚子風呂であったが、写真は要らんかったかな。
ゴメンナサイ。
牡蠣の記憶から
病院の食事で食べた記憶がないし、我が家でも無かったように・・・
この前、生の牡蠣を食べたのはいつだったろうか。
記憶をまさぐり始めるとアレやコレや様々なことに思いが広がる。
私が子どもの頃に食べた物の記憶には牡蠣が出てこない。
両親が牡蠣を好まなかったのか、戦後の牡蠣養殖業の復興が遅れていたのか、物流条件が整っていなかったのか、どのような理由があったかは分からない。
当時、大阪で牡蠣と言えば産地は広島だったはずだ。
しかし、水俣病のことが新聞やラジオで報道されるようになると、大阪の公設市場内の魚屋には『熊本(水俣)産ではない』との紙が貼り出されたことをハッキリと覚えている。
これは氷詰め鮮魚が九州から大阪へ送られて来ていたことの傍証であり、その輸送ルート上にある広島の魚介類の物流条件が整っていなかったとは考えにくい。
ハイカラを解する両親であったから、おそらく加熱調理したカキフライぐらいは食べさせてくれていたことだろうと思うが明瞭な記憶が無いのだ。
牡蠣の養殖ということでは広島では古くから行われてきているし、もっともっと古くには縄文人も牡蠣を食べていたことが貝塚の発掘から分かっている。 ついでだが貝塚の調査の結果、海水域生息貝種ではハマグリに次いで牡蠣が多いのだとか。
もっとも縄文人が生牡蠣を食べていたのか加熱した牡蠣を食べていたのか、それとも両方だったのか私は知らない。
私は酢牡蠣が好きだから生の牡蠣に二杯酢(ポン酢)をかけて頂く。これに少し一味唐辛子をふりかけるのが好きだ。
イタリアなどでは殻付き牡蠣にレモン果汁を搾って食べたが、こうした食べ方も好き。つまり私にとって生牡蠣が最良であり、加熱してもし過ぎないのが好きだ。
土手鍋にしろ牡蠣ご飯にしろ、牡蠣の身が硬く締まらないのが大好き。
で、結局私の牡蠣に関する食の記憶は学生時代に宮城県松島の生牡蠣を味わったことが原点となる(ようだ)。
かれこれ40数年前の頃、冬になると広島県倉橋島出身の後輩が現在のビニル袋入り発泡スチロール製の箱でなく、写真(イメージ : 広島は廣島だったかも) のような 2kg入り缶で剥き身の牡蠣を送ってくれていたのだ。
酢牡蠣は勿論、様々な料理で楽しませてもらった。
ここ20年前頃より頻繁に広島を訪れる機会があり、割烹や居酒屋で生ガキを注文するも万が一の事態を考えてのことだろう、『かなわ』(かき船)など牡蠣料理専門の店以外では食べることが出来なかった。
波が打ち寄せる長門(山口県)の岩礁で見つけた牡蠣を食べたこともあった。
身は小指の先程度の小っちゃいものだったが味は立派なミルクであった。
記憶の連鎖は続くが今回はココまでに。
December 22, 2015
気分は上向き
薬の服用で足腰の痛みがほんの僅かだがマシになってきたような。
マシということであって、未だ腰や背筋を伸ばして歩くことが出来ないことに変わりはない。
病症状改善のための手立てについて年末年始の予定が医師との面談で決まった。
多少の燻りを抱えていても進むべき方向が見えて来れば不安定であった心も徐々に腹がすわってくるものである。
やはり清水の舞台から飛び降りねばならんと心を定めた
18日(金)、発泡スチロールの箱が届いた。
『鳴瀬』『かき』、黒色の元気な文字が踊っている。
宮城県桃生郡鳴瀬町。現在は東松島市になっているが、2011年3月11日の大津波によって壊滅的な被害を受けたのだった。
私と家内は被災1年半を経た鳴瀬地区野蒜を訪れ、この時のことを当ブログにも記している。(Dec 13, 2012記)
この折、住宅の基礎コンクリートが部分的に残っているのを見かけ、そこに家が建っていたのだと想像することは出来たが大部分は雑草が茂る荒れた平原という印象を受けたのだった。
野蒜の海岸は白砂青松の言葉通り美しい海水浴場であったが、松の葉は茶色に変色し、樹の数も少なくなっていたように感じた。
海浜に近い位置にあった鳴瀬第二中学校は2階建てコンクリートの建物枠のみが残る惨状を呈していたのだ。
鳴瀬の牡蠣が美味しいことは有名だが、津波によって牡蠣養殖筏も全滅に近い被害を受けたと聞いていた。
その『鳴瀬』の名前を冠した『かき』が届いたのだ。
石巻の『サンマ』、『ホヤ』、そして今回『かき』も届いた。
みちのく復興の程度は不明だが、リカバリーのステップを着実に歩んでいることは確かであり、このことを知ることが出来た私は大変嬉しい思いに浸ることができた。
みちのくの便りを有難う。
久し振りに安倍さんの声まで聞くことが出来た。
彼女のご主人曰く、「この人の根拠の無い明るさに助けられている。」と語っているが、実は私も彼女の明るさには元気づけられてきたのだ。
海幸山幸まで頂いて元気がつかぬ筈が無いのだ。
ハチャトゥリアンの速いリズムの曲と私の気分の調子が合うようになってきた。
良い傾向だ。