April 2016

April 30, 2016

昨年の此の頃・・・1

昨年の此頃は・・・・・
『つぶやき』として綴ってきた拙ブログを振り返り読みつつ、「ふんふん」「ふふーん」などと頷く我が姿を眺め見て可笑しい。
昨年の4月26日は日曜日だったが今年は火曜日。
s-2016-04-28_064426シンガポール土産の小っちゃな花器に小っちゃなビオラの花。
花の模様は違っているけど今年もビオラの花が挿されている。
家内が世話をしているビオラやペチュニアなどの草花たちは今年も『その時』を忘れず元気に花を咲かせているのだ。

昨年の4月26日、家内はコンサートに出かけたのだが、ものの15分ほどして帰って来たのだった。 我が家を出た時点で既に演奏が始まっていることを友人からの連絡で知ったとのことだったが記録を読み直すとその時々のことが明瞭に思い浮かんでくる。
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もちろん愉快で楽しいことや嬉しいことばかりではない。 辛く悲しく苦しみすら感じて思い出したくもないこともある。
昨年4月25日にはマグニチュード7.8 という巨大地震がネパールを襲ったのだった。jpg
毎年ネパールを訪れヒマラヤの山に登っていた T 氏と地震被災後のネパールについて話したのが先日
4月2日のことだった。

そして14日にマグニチュード6.5、16日にはマグニチュード7.3 という熊本県を震源とする大地震が起き、その活動は現在も活発に続いている。
日本の地震被害が大きいため話題として取り上げられることが少ないが、16日にはマグニチュード7.8 の巨大地震が南米エクアドルで起きていたのだ。
南米と日本、ネパールと日本、それぞれ地理的に遠く離れているし別個なプレートに乗っかっているから全く関係無いように見えはする。
しかし地球というモノで捉えるなら関係無いと言えはしないのでは、と、私は思っている。
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エクアドルも日本も太平洋を囲む環太平洋火山帯(造山帯)の
一角を占めている。
ネパールあたりではインド・プレートがユーラシア・プレートにブチ当たって沈み込んでいる。 そのため潜り込まれている側のヒマラヤ山脈は極々僅かではあるが今もなお高さを増していると言われている。s-2016-04-26_145526
これは大変規模の大きい衝上断層だが、近い所に例を求めれば大阪と奈良の府県境に位置する生駒山も同じであり年々僅かだが生駒山は高くなっている(ハズ)。
不安を煽るつもりは無いが、近鉄奈良線と近鉄けいはんな線が生駒山に掘られたそれぞれのトンネルをそれぞれの電車が走っている。

地質学をはじめ地震・火山学など科学の進歩は目覚ましいが、現代地球科学のレベルで地球に於ける出来事全てを説明するなど不可能なことは科学者自身が最も良く知っているはずなのに驕り高ぶる傲慢な輩を見かけることが近頃多くなったように思う。
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原子力や地質の専門家といったところで神様ではないのだ。
何かの事故が起きるまでは想定内。 起きてしまったら想定外と言い逃れる。
想定・・・??
何をもとに、どの程度のことを、どこで想像し定めたのか。
傲岸不遜な輩のアタマが想定のもとだと思うとオソロシイ。
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季節を感じ、『その時』を忘れず健気に花を咲かせる草花たちの正直さに感じ入るところ大である。

写真の紫蘭、実際にはもう少し赤みが強いのだが・・・・
40年ばかり以前になるが、書・華・茶道に精通する友人から茶花にと頂き鉢植えで楽しんできたものだ。
s-2016-04-26_145701家内の母親が健在だった頃に株分けしたのが増えて、多分この時期は長兄宅の庭の一角を緑の葉と赤紫の花でうめつくしていることだろう。
 


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April 20, 2016

お茶の思い出《2》

昼前からコンサートの演目はシベリウスの作品になったが、とっくにおやつの時間も過ぎてしまった。
家内がいたらお茶を淹れてくれるのだが今日はソリュブル・コーヒーばかり。
s-2016-04-19_062933お菓子も兄に頂いたものがあるのだが本日は我慢して・・・、お茶の話ついでに抹茶は挽茶とも呼ばれるが、これは茶葉を石臼で挽いて粉状にしているからである。
栄西禅師が伝えた茶の飲み方は抹茶と湯を混ぜるもので、この抹茶の飲み方が物と心の両面で様々なものと融合しながら茶の湯として発展し、現代の各流派にs-2016-04-19_161113受け継がれてきたのである。

母も茶を点てたし『宗』の付く名前を名乗って自宅で茶道を教えていた伯母や某女学院で教鞭をとりながら茶道部の指導をしていた叔母らが身近にいたから私が茶の湯に接する機会は多かった。しかし私が抹茶を初めて味わったのは小学5年生の時で、それ以前は飲ませてもらえなかったのだ。
もっとも青柳こそがお茶だと思いこんでいた私には抹茶がお茶だと言う認識は無かった。
ただ『門前の小僧習わぬ経を読む』との諺があるように、習いもせぬお茶の点前を少しばかり知っていたことでs-2016-04-19_161551高校1年の頃は茶道部の女生徒に練習相手として重宝がられたものだった。

当時の私は抹茶を苦いものと感じ、茶の点前も形だけの理解で侘び寂びといった精神的な美意識といった面での理解はほぼゼロに近かったと今の齢になって思うことだ。

お茶についての記憶と言えば大学3回生の時に友人の誘いで高尾・神護寺への合同ハイキングに参加して知り合ったのが光華女子大・煎茶部の学生だった。
s-2016-04-19_063126抹茶についての経験はあったし、玉露の美味しさは祖父直伝のものがあったのだが、煎茶にも流派があって茶の道が確立されていることを教えてもらったのがこの時だった。
彼女ら煎茶部は二條流の指導を受けているとかで、点前を後の機会に拝見した。s-2016-04-03_170051
祖父が淹れてくれた玉露が煎茶における私の最高位を占めていたのだが、煎茶部の某女が淹れてくれた茶も同等の味わいであった。

煎茶と言うのは玉露や青柳も二番摘み三番摘みなどの番茶も全て含めた物である。
大阪万博が開催された1970年、島根出身の女性が新卒採用で赴任してきた。
或る日この女性の下宿を訪問した時、この女性がお茶を淹れてくれたのだが、湯呑み茶碗に白湯を注ぎ、湯冷ましをしてから急須に注ぐという順序を踏んだのだ。
私が「ほほう」と感心したのは当然で、大学を出たばかりの若い女性の誰もが湯冷ましという茶の淹れ方が出来る社会や時代でもなかったのだ。《私の偏見だとの誹りを受けるかもしれないが。》
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この時のお茶が出雲の『白折』。
この『白折』は茎茶(雁金・かりがね)に抹茶をまぶしたものだが美味しいお茶だった。

その後何年かして、家内が母親と住む家を私が訪問した際に頂いたお茶が『白折』であり、茶を口に含んだ瞬間『あっ!』と思い出したのだった。
これは美味しいお茶だが我が手に入らず随分と味わう機会が遠ざかっていた。
それをつい最近仕入れることが出来て楽しんでいる。
お茶については義姉が石州流。長兄宅を訪れると点てて頂けるが私が病を得て以来味わっていない。
お茶の思い出というテーマでつぶやいてきたが、お茶に茶請け、お菓子はセットものだ。
家内の父親も我が父親も甘党という枠でくくれるようだ。
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家内が子どもの頃、『ぶどう饅頭』売りが町を回っていたのだとか。
その売り声が聞こえてくると家内の父親は家を飛び出して買い求めてきたそうな。
ニコニコ顔で戻ってきた父親が、「◯◯ちゃん、ひとつあげよ。」ってくれたそうだがホンに嬉しそうだったと、これは家内の述懐。



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Sさんの食材から

先日Sさんにタケノコや新玉ネギ、ワラビといった旬の食材を頂いたことを書いた。s-2016-04-13_210722
掘りたてのタケノコなら皮を剥くだけでも食べることができるが、掘り取って時間が経つほどにシュウ酸などの苦味や渋み成分が強まるので米汁で湯がいて明くる日に家内が調理してくれた。
タケノコは定番のワカメとの煮物や吸い物、或いは焼き物として頂いた。若竹吸い物
水に浸けて保存もしているのでタケノコご飯も炊いてくれるだろう。
天ぷらも美味しいのだが、これは残念ながら
ダメだろうなあ・・・

焼き物はコンロに網を置いたりオーブンに入れて焼くが、最近になって簡易ガスボンベに取り付けるバーナーを買ったので、料理素材が小さいとか焦げ目を付けたり炙るだけの場合は手軽に出来て大変新玉ネギ便利なのだ。
ちなみにタケノコもガスバーナーを用いたが香ばしく頂いた。
新玉ネギはスライスして削りガツオに醤油をかけただけで頂いたが美味しいものだった。

写真で示したのは一部の料理だが、少し前に頂いたブロッコリーはサッと湯がいただけで頂いたり、イカと酢味噌和えにして頂いたりした。
いずれも旬を感じられるもので大いに楽しませてもらった。
お礼に付け加えて「またよろしく。」とも書いておこう。
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旬の物と言えば四兄がキャラブキを作ったからと送ってくれた。
キャラブキ、つまり山蕗(やまぶき)の佃煮のことだ。 兄はチリメンジャコと共に煮ているのだが、このチリメンジャコが良い味を出している。
キャラブキと言えば昆布の佃煮のような色合いの物を想像するが、兄の作品は下の写真のようなものである。
キャラブキもっとも醤油と砂糖などで煮た黒っぽい色のキャラブキも好きだし、葉っぱの佃煮も好きである。
葉っぱの佃煮と言えば高1 の時、三越で買った瓶詰めの葉唐辛子の佃煮がご飯に美味しかったことを思い出した。
今も売っているのだろうか。
唐辛子の葉っぱなど捨ててしまう部分だが佃煮にすれば立派な一品となる。シシャモ-1
以前に上等な煎茶の出がらしを食べたことがあったが、それなりに食べられるものであった。お茶の葉っぱも出がらしは捨ててしまうけれど佃煮にすれば美味しく食べられると思うが・・・・・・
まあそこまでしなくても良いか。
『Mottainai』は常に意識してはいるが。
カラフトシシャモを燻製にしてみたが色合いも香りも味わいも満足出来るものに仕上がった。

さて、我が家の調理担当責任者は三週前頃より体調思わしくなく、一昨日のs-2016-04-20_115433CT検査に続き本日は内視鏡検査。
手伝い助けることなど何も出来ない私は留守番しているだけ。
落ち着かないので今日も朝からコンサート。パブロ・カザルスでバッハだ。

※ 『ししゃも(柳葉魚)』と書かなかったのはモノが違うからだ。 北海道・鵡川(むかわ)町などで獲れるモノを私は『ししゃも』と認識している。が、高価・高級、高くて高くて私の口になど入らないお魚だ。


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April 19, 2016

不安が・・・

ひとつの出来事が起きた場合、過去より積み重ねられた経験や知識を総合して、その出来事が何であるかを人間の脳は特定する。
その特定する過程は時間的に長くかかる場合もあれば即時的な場合もあるし、類型分類や同定といった様々な思考活動を経て特定するに到るものだ。
そうして出来事が特定された後、勿論即時的な場合もあるが、その出来事に対する広い意味での価値判定を行うことになる。
有用無用、有益無益、有害無害、はたまた損得といったことにまで価値の判定は広がるものだ。
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14日に熊本県益城町を震源とする大きい地震が起きたことについてお見舞いの言葉を当ブログに書いた。
そしてこの地震が中央構造線に連なる日奈久断層の横ズレによって起きたらしいことを知ったので、翌15日の朝、気になることとして地震の連鎖に触れておいたのだ。

そして16日に日付が変わって直ぐの午前1時25分頃、マグニチュード7.3という巨大な地震が発生し、その後も中央構造線に連なる地点を震源とする地震が頻発している。
妄想による不安ではない。 地震は断層面に沿って連鎖・連続して起きることがこれまでの経験的知識として知られていることなのだ。
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地球科学の進展は目覚ましい、が、地球に起きる全てのことを説明出来るほどのものではない。
驕り(おごり)は禁物である。 《自戒》

※ 1日の違い。見かけ上は大きい違いは無く、時刻のみ。



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April 17, 2016

お茶の思い出《1》

日本のお茶は、抹茶、玉露、煎茶、番茶、焙じ茶、玄米茶など茶葉や製法の違いなどから様々な名前で呼ばれている。
お茶と言えば侘び寂びといった日本人の美意識から茶の湯の村田珠光や千利休を連想し、更に年代を遡れば南宋に2度渡り、1191年に博多へ帰って建久報恩寺(1192年)や聖福寺(1195年)を、その後京都で建仁寺(1215年)を建立した栄西のことを思い浮かべる。s-2016-04-16_155209
連想は次から次へと果てしなく広がるものだが、私とお茶についての記憶に繋がっていき、懐かしく思い出していたことがつい最近にあった。

私が子どもの頃、我が家で飲んでいたお茶は青柳というもので、白色のしっかりした紙で筒状に作られた袋に入れて売られていた。その茶をブリキ製の茶入れ(缶)に入れ、必要に応じて急須に入れて湯を注いでいたものだった。
急須は横に握り取っ手が付いたものや、吊り下げるような弦(取っ手)の付いた物を使っていたことを思い出す。
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茶の葉で思い出すのは、母親が茶を出し切った葉っぱを水切りして、それを畳の上に撒いて掃き掃除をしていたことだ。
はたきがけをしてホコリを落とし、そのホコリが舞い散らないよう湿った茶葉に付着させて掃き取るという電気掃除機など無かった頃の主婦の知恵である。

確か小学校3年生までお茶と言えば青柳のことだと思っていたのだった。
ところが小3の夏休みだったが両親に連れてもらった某所で冷たい麦茶を頂き、更に熱い焙(ほう)じ茶に少量の塩を入れて飲むということも経験し、お茶の種類の広がりと味わいの違いを知ったのだった。
玄米茶を知ったのもこの頃だったような。
あのお米を炒った香ばしい香りと共に飲むお茶は未だに私の好みである。
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そして4年生だったか、祖父に買い物を頼まれた時のことだった。
市場のお茶屋さんへ行って玉露を買ってくるようにと五百円札を渡されたのだ。
当時の私は、板垣退助の百円札をお年玉として頂いて触ったことがあった程度。その頃の私の買い物と言えば五円玉か
10円玉で十分事足りていたのである。 岩倉具視の五百円札など持ったこともなく、まして500円の2016040615450000買い物をするなどオソロシイことであったのだ。
玉露がお茶だということは祖父の言葉から分かったが、当時青柳を基本に考えていた私だから500円分のお茶ということは青柳の茶袋が幾つになるのか、果たして抱えて持ち帰ることが出来るだろうか、市場への買い物篭を下げてきた方が良かっただろうかなど道々不安に思いながら市場へ向かったのだった。
そのお茶屋さんで玉露を500円分求めたところ、手渡されたのは手紙の封筒を半分に折った小っちゃな紙袋。指先でつまんでも重くない。
s-2016-04-06_220908きっとまだくれるのだろうと待っていたが、お茶屋の主人は未だ何か買い物があるのかと問いかける。

この買い物経験には大きい衝撃を受けたが、祖父が淹れてくれた玉露の味わいは未だに私の脳で上等なお茶の基準として位置付いている。
あとひとつ、青柳がお茶だと思っている私には、舐めたら終わり程度の量のお茶しか淹れなかった祖父を何とケチ臭い爺さんなのかと思ったが、何かと学ぶことの多かった祖父であった。



masatukamoto at 18:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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