October 2016
October 23, 2016
同時代・・・
同時代という言葉に続けて人や性という漢字をくっつけた合成語がある。
同時代性や同時代人など、これまで私も使ってきた言葉だが、《同時代の時間的幅》はどれぐらいなのか、大きい疑問符が頭の中で点灯したのだ。
【小休止】・・・美味しそうな焼きそば。
イヤ、美味しいのだ。
ただ『ソバ』ではなくて『糸コンニャク』なのだ。
ザンネン。
文章を読んだり書いたり会話を交わしたりする過程では、《同時代》という言葉が使われた前後の脈絡から《同時代の時間的幅》について理解出来るものだ。
しかしただ《同時代》と言うだけだと《時間的幅》を特定することも凡その幅を推量することも難しい。
【小休止】・・・10月21日、昼食時のデザート。
時代と言えば日本史の時代区分を思い浮かべるのだが、《時間的幅》を特定することの難しい弥生、縄文、石器などは除外するとして、最長は『鳴くよウグイス平安京』の794年から『いい国作ろう鎌倉幕府』の1192年まで、ほぼ400年間の平安時代であり、江戸時代の265年間、室町時代の237年間、鎌倉時代148年間、戦国時代がほぼ120年間ぐらい。
近代に入れば明治44、大正14、昭和63とマチマチである。
戦前戦後という区分けもあるが、戦後は1945年8月15日以降今日まで71年間と明らか。しかし戦前をいつからとするか、これは難しい。
戦争の始まりを盧溝橋事件とするなら事件は1937年だから戦前は8年間となる。昭和という括りで言えば1926年が昭和の元年だから19年間となる。
つまり、同時代と表現しつつも時代的に特定出来るものではなく、《時間的幅》にしても共通し得るものでは無いというのが私の認識であり、結論としてはそれぞれの感覚のなかでの時代感によるものだということだ。
この人間個々の感覚というものは形成過程の道は置くとして、仏教における唯識の感覚に近いものになるだろう。
【小休止】・・・写真はNHK・Eテレビでの映像である。
多川師は唯識論について深く極めた人である。
テレビでは菜根譚を参考に唯識を説かれていたが、明治期の廃仏毀釈によって壊滅させられたと言って良い興福寺の復興工事現場(中金堂)の映像を背景に語っていた。
多川師は私より年齢は下だが同時代の人物として私は尊敬すべき人物だと思っている。
先日龍谷大学より送って戴いたパンフレットによれば村上太胤師が法相宗・薬師寺の管主となり、その晋山慶賛行事が行われるらしいが、滝田 栄 氏が総合司会を担当し、千住 博氏(日本画家)の講演、その後リレー法話として西山明彦(律宗・唐招提寺・長老)、狭川普門(華厳宗・東大寺・別当)、村上太胤(薬師寺管主)が担当、第二部の記念コンサートを東儀秀樹(雅楽師)、上原まり(琵琶演奏家)、鈴木正克(サックス奏者)が演じるとのこと。
私が元気なら何をおいても村上師の慶賛に馳せ参じるところだが、済まぬということにしておこう。
薬師寺と言えば私が子どもの頃は土塀が破れてボロボロに荒れた古寺だった。
橋本凝胤、高田好胤、松久保 秀胤、安田暎胤、山田法胤と管主が継がれ、この度村上太胤師が重責を継がれたのだが、『胤』の字を持つのは橋本凝胤師の教えを受けた者と聞いているので、村上師が『とり』になるのかも。
奈良仏教は南都六宗と言い、三論宗、成実宗(元興寺・大安寺)、法相宗(興福寺・薬師寺)、俱舎宗(東大寺・興福寺)、華厳宗(東大寺)、律宗(唐招提寺)として継承発展の道を辿ってきた。
薬師寺の村上太胤師とは同年齢だが元興寺の辻村泰善師、興福寺の多川俊映師、東大寺の狭川普門師、唐招提寺の西山明彦師、更に言えば法隆寺(聖徳宗)の大野玄妙師や吉野山・金峯山寺長臈の田中利典師など皆年齢としては後輩になるが私は同時代人だと思っている。
《同時代性》や《同時代人》などと《同時代》の《時間的幅》について探っていたが、私の場合は比較的近接した前後
10年ばかりを《同時代性》としての《時間的幅》として認識しているように思えるのだが、果たしてどんなものだろうか。
同時代人が宗教界において『師』と称せられている。
同時代人として何を為し、いかに終局を生くべきか、私も考えねばならぬ齢になってきたということだ。むむむむむ
同時代性や同時代人など、これまで私も使ってきた言葉だが、《同時代の時間的幅》はどれぐらいなのか、大きい疑問符が頭の中で点灯したのだ。
【小休止】・・・美味しそうな焼きそば。
イヤ、美味しいのだ。
ただ『ソバ』ではなくて『糸コンニャク』なのだ。
ザンネン。
文章を読んだり書いたり会話を交わしたりする過程では、《同時代》という言葉が使われた前後の脈絡から《同時代の時間的幅》について理解出来るものだ。
しかしただ《同時代》と言うだけだと《時間的幅》を特定することも凡その幅を推量することも難しい。
【小休止】・・・10月21日、昼食時のデザート。
時代と言えば日本史の時代区分を思い浮かべるのだが、《時間的幅》を特定することの難しい弥生、縄文、石器などは除外するとして、最長は『鳴くよウグイス平安京』の794年から『いい国作ろう鎌倉幕府』の1192年まで、ほぼ400年間の平安時代であり、江戸時代の265年間、室町時代の237年間、鎌倉時代148年間、戦国時代がほぼ120年間ぐらい。
近代に入れば明治44、大正14、昭和63とマチマチである。
戦前戦後という区分けもあるが、戦後は1945年8月15日以降今日まで71年間と明らか。しかし戦前をいつからとするか、これは難しい。
戦争の始まりを盧溝橋事件とするなら事件は1937年だから戦前は8年間となる。昭和という括りで言えば1926年が昭和の元年だから19年間となる。
つまり、同時代と表現しつつも時代的に特定出来るものではなく、《時間的幅》にしても共通し得るものでは無いというのが私の認識であり、結論としてはそれぞれの感覚のなかでの時代感によるものだということだ。
この人間個々の感覚というものは形成過程の道は置くとして、仏教における唯識の感覚に近いものになるだろう。
【小休止】・・・写真はNHK・Eテレビでの映像である。
多川師は唯識論について深く極めた人である。
テレビでは菜根譚を参考に唯識を説かれていたが、明治期の廃仏毀釈によって壊滅させられたと言って良い興福寺の復興工事現場(中金堂)の映像を背景に語っていた。
多川師は私より年齢は下だが同時代の人物として私は尊敬すべき人物だと思っている。
先日龍谷大学より送って戴いたパンフレットによれば村上太胤師が法相宗・薬師寺の管主となり、その晋山慶賛行事が行われるらしいが、滝田 栄 氏が総合司会を担当し、千住 博氏(日本画家)の講演、その後リレー法話として西山明彦(律宗・唐招提寺・長老)、狭川普門(華厳宗・東大寺・別当)、村上太胤(薬師寺管主)が担当、第二部の記念コンサートを東儀秀樹(雅楽師)、上原まり(琵琶演奏家)、鈴木正克(サックス奏者)が演じるとのこと。
私が元気なら何をおいても村上師の慶賛に馳せ参じるところだが、済まぬということにしておこう。
薬師寺と言えば私が子どもの頃は土塀が破れてボロボロに荒れた古寺だった。
橋本凝胤、高田好胤、松久保 秀胤、安田暎胤、山田法胤と管主が継がれ、この度村上太胤師が重責を継がれたのだが、『胤』の字を持つのは橋本凝胤師の教えを受けた者と聞いているので、村上師が『とり』になるのかも。
奈良仏教は南都六宗と言い、三論宗、成実宗(元興寺・大安寺)、法相宗(興福寺・薬師寺)、俱舎宗(東大寺・興福寺)、華厳宗(東大寺)、律宗(唐招提寺)として継承発展の道を辿ってきた。
薬師寺の村上太胤師とは同年齢だが元興寺の辻村泰善師、興福寺の多川俊映師、東大寺の狭川普門師、唐招提寺の西山明彦師、更に言えば法隆寺(聖徳宗)の大野玄妙師や吉野山・金峯山寺長臈の田中利典師など皆年齢としては後輩になるが私は同時代人だと思っている。
《同時代性》や《同時代人》などと《同時代》の《時間的幅》について探っていたが、私の場合は比較的近接した前後
10年ばかりを《同時代性》としての《時間的幅》として認識しているように思えるのだが、果たしてどんなものだろうか。
同時代人が宗教界において『師』と称せられている。
同時代人として何を為し、いかに終局を生くべきか、私も考えねばならぬ齢になってきたということだ。むむむむむ
October 21, 2016
古諺から
『遠くの親戚より近くの他人』という古諺がある。
私の体が不自由になって以来これまで『近くの他人』にどれほど助けてもらったことか、それらを考え合わせると成る程と頷けるのだ。
勿論助けを求める内容や要件の急ぎ具合など条件が異なるので、遠いとか近いとか単純に比較できることではなく、古諺全てを認めているわけではない。
それはともかく一昨日のこと、電子レンジの取り換え、キッチン扉の金具修理、防犯用外灯交換、花壇用ラティスの取り付け、自動車のバッテリー充電作業等々のためH氏に来てもらった。
【小休止】・・・先日に咲いたヒペリカムの花
H氏については以前にも当ブログで紹介したが、我が家から車で20分程度の所に住む武術家である。
私が健康なら何ら問題なく出来る作業なのだが、これまでも何かと助けてもらっているH氏に依頼したのだ。
原材料を買いに行ったり私の自動車を走らせたり大型ゴミを処理場へ運ぶなど作業が多岐にわたったため、お昼を挟んで午後も仕事をしてもらったのだった。
【小休止】・・・ヒペリカムの実 (よく病室に活けてくれた)
息子と同年齢のH氏。 単に武『術』を指南するだけでなく武『道』をも極めようと努めている求道者でもある。
アメリカや日本に於ける武術指導に関わることなど話題豊富なH氏だから作業後の茶を飲みながらの会話も楽しいものであった。
彼が指南する『自然門武術』から『術』と『道』へ話が発展。
小学生の私が柔道の手ほどきをうけた折に教えてもらった『柔よく剛を制す(柔能制剛)』という言葉も話題に上った。
H氏は『柔よく剛を制す』という言葉だけでなく『剛よく柔を断つ(剛能断柔)』という言葉もあるのだと、私に新しい知識を与えてくれたのだ。《感謝》
【小休止】ぼちぼちピオーネも翠峰も終わりかな。
そんな会話を楽しんでの夕刻、郵便物を取り出してきた家内が玄関ドアを開けるなり、「Kさんが亡くならはったんやて。」と。
将に吃驚のことで信じられぬ思いであったが・・・。
兄弟がいなかった私の兄貴分、従兄弟二人の兄の方、『K兄ちゃん』である。
小柄ながら同志社大柔道部のキャプテンを務め、『柔よく剛を制す』の言葉を私に教えてくれた人物である。
柔道創始者・嘉納治五郎も大柄ではなく虚弱体質であったと聞いていたので『柔能制剛』の言葉は私の脳に深く刻み込まれたのだった。
『K兄ちゃん』、79歳のはず。
愚息の結婚披露宴の折、プラント治療を受けたので何でも食べられるのだと元気に話していたのは3年前のことだった。
私の体が不自由になって以来これまで『近くの他人』にどれほど助けてもらったことか、それらを考え合わせると成る程と頷けるのだ。
勿論助けを求める内容や要件の急ぎ具合など条件が異なるので、遠いとか近いとか単純に比較できることではなく、古諺全てを認めているわけではない。
それはともかく一昨日のこと、電子レンジの取り換え、キッチン扉の金具修理、防犯用外灯交換、花壇用ラティスの取り付け、自動車のバッテリー充電作業等々のためH氏に来てもらった。
【小休止】・・・先日に咲いたヒペリカムの花
H氏については以前にも当ブログで紹介したが、我が家から車で20分程度の所に住む武術家である。
私が健康なら何ら問題なく出来る作業なのだが、これまでも何かと助けてもらっているH氏に依頼したのだ。
原材料を買いに行ったり私の自動車を走らせたり大型ゴミを処理場へ運ぶなど作業が多岐にわたったため、お昼を挟んで午後も仕事をしてもらったのだった。
【小休止】・・・ヒペリカムの実 (よく病室に活けてくれた)
息子と同年齢のH氏。 単に武『術』を指南するだけでなく武『道』をも極めようと努めている求道者でもある。
アメリカや日本に於ける武術指導に関わることなど話題豊富なH氏だから作業後の茶を飲みながらの会話も楽しいものであった。
彼が指南する『自然門武術』から『術』と『道』へ話が発展。
小学生の私が柔道の手ほどきをうけた折に教えてもらった『柔よく剛を制す(柔能制剛)』という言葉も話題に上った。
H氏は『柔よく剛を制す』という言葉だけでなく『剛よく柔を断つ(剛能断柔)』という言葉もあるのだと、私に新しい知識を与えてくれたのだ。《感謝》
【小休止】ぼちぼちピオーネも翠峰も終わりかな。
そんな会話を楽しんでの夕刻、郵便物を取り出してきた家内が玄関ドアを開けるなり、「Kさんが亡くならはったんやて。」と。
将に吃驚のことで信じられぬ思いであったが・・・。
兄弟がいなかった私の兄貴分、従兄弟二人の兄の方、『K兄ちゃん』である。
小柄ながら同志社大柔道部のキャプテンを務め、『柔よく剛を制す』の言葉を私に教えてくれた人物である。
柔道創始者・嘉納治五郎も大柄ではなく虚弱体質であったと聞いていたので『柔能制剛』の言葉は私の脳に深く刻み込まれたのだった。
『K兄ちゃん』、79歳のはず。
愚息の結婚披露宴の折、プラント治療を受けたので何でも食べられるのだと元気に話していたのは3年前のことだった。
October 14, 2016
秋を感じる (序)
ここのところ4日ばかり朝方の冷え込みが強くなったのを感じている。
『秋冷』というたった二文字のことだが状況をとてもよく表している言葉だと感心しているのだ。
10日ばかり前、40数年前の卒業生が激励の文とともに下のカードを送ってきてくれた。
このカードを受け取った頃は未だまだ秋を感じるには程遠いくらいの気温だったので封筒に入れたままであった。
しかし、いよいよ紅葉のシーズンかと一昨日よりカードを飾って眺めているのだ。
ところで紅葉と言えば私がいつも座る位置からの景色がオカシイのだ。
日の出の写真を度々掲載してきた丘陵だが、毎年7月頃は新緑に深みが増し、緑一色に丘陵全体が覆われるのだ。
ところが今年は夏の時期に紅葉が始まったのだ。
上の写真を撮影したのは今日10月14日。 8月頃は紅葉部分がもっと少なかったように記憶している。
「真夏に紅葉ってオカシイね。今の時期は緑一色なのに・・・」
「今年は雨が少ないから立ち枯れしているのかなあ。」
こんな会話を家内としていたのがお盆の頃だった。
この丘陵、紅葉(黄葉)する樹木もあるが真冬でも緑色の面を広く保っているので多くはカシやシイなどの常緑広葉樹が占めていると思っていたのだ。
だから上の写真の通り、何だか『景色が変』に思えていたのだ。
と、県の情報によると「ナラ枯れ」の発生と伝染の拡大を確認したとのこと。
「ナラ枯れ」というのは、ナラ類、シイ・カシ類の樹木を枯らす病原菌(ナラ菌)と、その病原菌を媒介する昆虫(カシノナガキクイムシ)とによる樹木の伝染病なんだと。
うーーん、私の視界から緑の丘陵が消える・・・・かも。
そんなことにはならないことを今は願うばかりだ。
『秋冷』というたった二文字のことだが状況をとてもよく表している言葉だと感心しているのだ。
10日ばかり前、40数年前の卒業生が激励の文とともに下のカードを送ってきてくれた。
このカードを受け取った頃は未だまだ秋を感じるには程遠いくらいの気温だったので封筒に入れたままであった。
しかし、いよいよ紅葉のシーズンかと一昨日よりカードを飾って眺めているのだ。
ところで紅葉と言えば私がいつも座る位置からの景色がオカシイのだ。
日の出の写真を度々掲載してきた丘陵だが、毎年7月頃は新緑に深みが増し、緑一色に丘陵全体が覆われるのだ。
ところが今年は夏の時期に紅葉が始まったのだ。
上の写真を撮影したのは今日10月14日。 8月頃は紅葉部分がもっと少なかったように記憶している。
「真夏に紅葉ってオカシイね。今の時期は緑一色なのに・・・」
「今年は雨が少ないから立ち枯れしているのかなあ。」
こんな会話を家内としていたのがお盆の頃だった。
この丘陵、紅葉(黄葉)する樹木もあるが真冬でも緑色の面を広く保っているので多くはカシやシイなどの常緑広葉樹が占めていると思っていたのだ。
だから上の写真の通り、何だか『景色が変』に思えていたのだ。
と、県の情報によると「ナラ枯れ」の発生と伝染の拡大を確認したとのこと。
「ナラ枯れ」というのは、ナラ類、シイ・カシ類の樹木を枯らす病原菌(ナラ菌)と、その病原菌を媒介する昆虫(カシノナガキクイムシ)とによる樹木の伝染病なんだと。
うーーん、私の視界から緑の丘陵が消える・・・・かも。
そんなことにはならないことを今は願うばかりだ。
October 09, 2016
ひどい吹き降り
夜中の間中、雨が降っていたように思う。
振り続いていたかどうかは確かめていないが、雨音が大きくなったり小さくなったり眠りが浅くなるたび耳に聞こえていたので・・・・・
その雨音がガラス戸を叩きつけるようになったのは午前5時前のこと。
5時前後、時間的には20分程度のことだったが恐ろしいほどの吹き降りで、仕方無く起床と相成った次第。
そこでウルサイ雨音に負けないようにと選んだのはブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)。
イギリスのブラスバンドだが1800年代半ばの設立で随分の歴史を持っている。(今はブラック・ダイク・バンドと称している。)
もっともバンドの歴史ということでは同じ英国で近衛軍楽隊
(The Band of the Coldstream Guards)が1700年代半ばに創設されているからブラック・ダイク・バンドより100年も古い歴史を持っている。
歴史ということでは軍隊(戦争)と楽器のつながりは古く深いと言える。
いつからか調べたことがないので分からないが、音を出す太鼓やそれに類する打楽器、或いはラッパや笛のような管楽器などは人々の争いの歴史と密接につながってきたものと私は考える。
戦場における命令や連絡などの伝達に、また戦士(兵士)たちの気持ちを鼓舞するための道具として音が利用されたのだろうと思う。
戦に勝った方は勝どきの声を更に大きなものにするため楽器の音を利用し、兵士らの凱旋には民心一層の高揚感を盛り上げるべく太鼓でリズムをその他の楽器でメロディーを奏でたかもしれない。
ともあれ近衛にしろ陸海空軍、警察、消防などのバンドは、昔はリズムに乗った力強く勢いある曲を演奏することが多かったのではないだろうか。事実、金管や打楽器は力強さを表現するに持って来いの楽器である。
しかし今や軍楽隊と言えど他の一般楽団と同様に室内楽を演奏することが多くなっていることと思う。 つまり突撃ラッパだけではダメで、弦楽器の優しい音色までもカバー出来ねばならないということだ。
なかなか難しいものだろうと思いつつブラック・ダイク・バンドの演奏を聴いたが、幅広いジャンルの曲を良く奏でており、鬱陶しい雨空を眺めつつも気分が良かった。
昼前、家内は楽器のレッスンがあるからと私の昼食とおやつを用意して大阪市内へ出かけて行った。
雨に降られなければ良いのだが。
振り続いていたかどうかは確かめていないが、雨音が大きくなったり小さくなったり眠りが浅くなるたび耳に聞こえていたので・・・・・
その雨音がガラス戸を叩きつけるようになったのは午前5時前のこと。
5時前後、時間的には20分程度のことだったが恐ろしいほどの吹き降りで、仕方無く起床と相成った次第。
そこでウルサイ雨音に負けないようにと選んだのはブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)。
イギリスのブラスバンドだが1800年代半ばの設立で随分の歴史を持っている。(今はブラック・ダイク・バンドと称している。)
もっともバンドの歴史ということでは同じ英国で近衛軍楽隊
(The Band of the Coldstream Guards)が1700年代半ばに創設されているからブラック・ダイク・バンドより100年も古い歴史を持っている。
歴史ということでは軍隊(戦争)と楽器のつながりは古く深いと言える。
いつからか調べたことがないので分からないが、音を出す太鼓やそれに類する打楽器、或いはラッパや笛のような管楽器などは人々の争いの歴史と密接につながってきたものと私は考える。
戦場における命令や連絡などの伝達に、また戦士(兵士)たちの気持ちを鼓舞するための道具として音が利用されたのだろうと思う。
戦に勝った方は勝どきの声を更に大きなものにするため楽器の音を利用し、兵士らの凱旋には民心一層の高揚感を盛り上げるべく太鼓でリズムをその他の楽器でメロディーを奏でたかもしれない。
ともあれ近衛にしろ陸海空軍、警察、消防などのバンドは、昔はリズムに乗った力強く勢いある曲を演奏することが多かったのではないだろうか。事実、金管や打楽器は力強さを表現するに持って来いの楽器である。
しかし今や軍楽隊と言えど他の一般楽団と同様に室内楽を演奏することが多くなっていることと思う。 つまり突撃ラッパだけではダメで、弦楽器の優しい音色までもカバー出来ねばならないということだ。
なかなか難しいものだろうと思いつつブラック・ダイク・バンドの演奏を聴いたが、幅広いジャンルの曲を良く奏でており、鬱陶しい雨空を眺めつつも気分が良かった。
昼前、家内は楽器のレッスンがあるからと私の昼食とおやつを用意して大阪市内へ出かけて行った。
雨に降られなければ良いのだが。
October 08, 2016
朝、此の頃
鬱陶しい空模様の日が続いているが7日(金曜)、随分久し振りの日の出を見ることが出来た。
早朝から気分が良い時というのは心だけでなく体全体の調子までが良くなるもので、手指足指の先まで熱い血が漲るのを感じたのだ。
ちょっと表現がオーバーかと思うが、それほど体調頗る良好だったと言いたいのだ。
それで施療のため訪れてくれたY・PTに調子良好ゆえ外出したいと頼んだのだった。
結果、PTに付き添ってもらっての屋外歩行訓練となったが、実に1年と何ヶ月ぶりのことであったのだ。
しかし歩いたのは極々僅かな距離なのに、筋力体力の衰え・平衡感や足裏の接地触感の鈍さに加え、少しながらも膝に痛みを感じたので早々に退却。
室内の床板や畳の上を歩くのとコンクリート面や小石混じりの路面を歩くのでは感覚的に大きく異なるものなのだ。
室内では靴下状の履物だけで歩くが、屋外では靴底に厚みのある靴を履いて歩く。 ほんまに僅かな違いだが足裏に受ける感覚や足首などの屈曲動作においても大きい相違が感じられ、健康な時にはモノともしないことが今は大きい問題なのだ。
正直に言えば、このことで気分的には凄く落ち込んだのだった。
でも、朝の気分が余りにも良かったので、二つの気分を相殺して先ず先ず持ち堪えたってところだった。
翌朝、日の出前の東の空の様子が上の写真。
山並みの上部に帯の如く黒い雲が広がり日の出は望むべくも無い。
先日も話題にしたが朝焼けである。 この後のお天気は・・・・・
《 10月7日の日の出の写真はガラス窓に接して撮影したもので、これから来年の春まで私の指定席から日の出を眺めることは出来ない。》
早朝から気分が良い時というのは心だけでなく体全体の調子までが良くなるもので、手指足指の先まで熱い血が漲るのを感じたのだ。
ちょっと表現がオーバーかと思うが、それほど体調頗る良好だったと言いたいのだ。
それで施療のため訪れてくれたY・PTに調子良好ゆえ外出したいと頼んだのだった。
結果、PTに付き添ってもらっての屋外歩行訓練となったが、実に1年と何ヶ月ぶりのことであったのだ。
しかし歩いたのは極々僅かな距離なのに、筋力体力の衰え・平衡感や足裏の接地触感の鈍さに加え、少しながらも膝に痛みを感じたので早々に退却。
室内の床板や畳の上を歩くのとコンクリート面や小石混じりの路面を歩くのでは感覚的に大きく異なるものなのだ。
室内では靴下状の履物だけで歩くが、屋外では靴底に厚みのある靴を履いて歩く。 ほんまに僅かな違いだが足裏に受ける感覚や足首などの屈曲動作においても大きい相違が感じられ、健康な時にはモノともしないことが今は大きい問題なのだ。
正直に言えば、このことで気分的には凄く落ち込んだのだった。
でも、朝の気分が余りにも良かったので、二つの気分を相殺して先ず先ず持ち堪えたってところだった。
翌朝、日の出前の東の空の様子が上の写真。
山並みの上部に帯の如く黒い雲が広がり日の出は望むべくも無い。
先日も話題にしたが朝焼けである。 この後のお天気は・・・・・
《 10月7日の日の出の写真はガラス窓に接して撮影したもので、これから来年の春まで私の指定席から日の出を眺めることは出来ない。》