August 13, 2006

ウィーン 3

ウィーンの町は結構広い。

それに見学してまわるべき所も多い。


このウィーンの町を巡るには1273年神聖ローマ帝国の君主に選出されたハプスブルク伯ルドルフ・ドイツ王以来、ドイツの東南地方に勢力を維持してきたハプスブルグ家の歴史を頭に置いておくのが良いと思う。

カール5世の時代にオーストリア系ハプスブルグ家とスペイン系ハプスブルグ家に分かれるが、オーストリアをはじめ、東欧のボヘミア(チェコ)、ハンガリー、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギーを支配下に置くヨーロッパ最大の力を保持した。

カール5世は、私達が後に訪れるチェコ・プラハの街との関係も深く、当時の宗教改革(マルティン・ルターなど)とも関わりを持つ有能な君主であった。

1740年にカール6世が亡くなった後、長女のマリア・テレジアが相続したためにプロイセンとの戦争が起こるが、夫のフランツ・シュテファンが1745年に神聖ローマ皇帝となって諸外国との交流の中で確固たる地位を堅持した。

娘、マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)がフランスのルイ16世と結婚したことはよく知られている。

やがてフランス革命などを経てハプスブルグ家は盛衰を繰り返し今日に至るが、双頭の鷲を紋章とするハプスブルグ家の権力と財力はウィーンの町の至る所で見ることが出来る。

ウィーンの町は以前は城壁で囲まれていたらしいが、現在は、その城壁跡をリングと呼ばれる環状道路が通り、地下鉄もリングに沿って通っている。

このリングを作ったり地下鉄を敷設させるなど、ウィーンの都市計画を推進してきたのが1848年にオーストリア皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフ1世である。

詳しい歴史は他に譲るとしてリング内にはホーフブルグ宮殿を始め、シュテファン寺院など有名観光スポットが多い。

下はウィーンの地下鉄電車(撮影はU4のシェーンブルン駅で)。

リング内は地下を走行。
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at 14:06│
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